僕らが旅に出る理由
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2009年01月15日(木) 優しい精

小さい頃、大叔母さんが好きだった。
父の叔母(父の父の妹)にあたる人で、父が若い頃から慕っていたそうなので、私にも父のその思いが乗り移っていたのかも知れない。
父は大叔母さんをおばさん、ではなく親しみを込めてねぇちゃん、と呼んでいた。
「おばちゃんて呼び!お小遣いやるから!って、言うんや」
と父は笑っていたが、ねぇちゃんと呼ぶことをやめなかった。
幼い頃兄弟から離されて、子供のない親戚に預けられた父にとって、近所に住んでいた大叔母はほんとの姉のように思えたのだろう。

大叔母は優しい人だった。
それでいて茶目っ気もある人だった。
この人は、いつも私を温かく迎えてくれるという直観が子供心にあった。
だから1年のうち数えるほどしか会う機会がなくても、私は大叔母に何の垣根も感じることなく、会いに行けた。

大叔母は家庭を持ちながら、地元の病院で看護婦をしていた。
大叔母の年代でそのように働いている人を知らなかったので、すごくかっこよく見えた。家で野良仕事などをしている時はどこにでもいそうな田舎のおばあちゃんなのに、病院ではキリッと白衣を着て、別人のようだった。しかし、どこの場所にいても大叔母は変わることなく、いつも優しい人だった。

ある時、大叔母さんがうちに遊びにきていて、夜、テレビを一緒に見ていた。
その頃流行の刑事ドラマが流れていて、いつもは(流血シーン等の嫌いな)母に止められるのだが、その夜は何となく特別だったので、見ても怒られないかも、と思った。大叔母さんにドラマの説明をすると嫌な顔もせず、あらそう、45ちゃんが好きなドラマなのね、と言い、あの茶目っ気たっぷりの目で微笑んでくれた。

が、母はそのドラマを見る事を許してくれず、おまけにさっさと寝なさいときつく叱られた。決まり悪くなった私は大叔母がきっと助け舟を出してくれるものと思って期待したが、大叔母はどうしてよいか分からぬ風に曖昧に笑っているだけだった。たとえ弁護してくれなくても、「まぁ、お母さんがそう言うならしょうがないねぇ」とか、「もう夜も遅いから、おばちゃんと一緒に寝ようか」とか、何でもよかったし、ほんの一言でよかったのだが、大叔母は一言も発しなかった。そしてその場に似つかわしくないニコニコ顔をやめることもなかった。それはちょっと異様な光景だった。

たぶん大人の世界ではいろんなことがあったのだろう。
大叔母さんが父の実家から長年絶縁されているとか、それは誰にでも優しくしすぎて実家の誰それの機嫌を損ねたからだとか、なんだかそういう込み入った話は親戚中集まったお酒の席などで、小さな私の頭越しに繰り返されていた。
何かそういう事情が、大叔母さんを必要以上に控えめな人にしてしまったのだろうか。しかし当時の私に理解できていたわけではなく、その時は大叔母さんがかばってくれなかった、ということだけが強く心に残ってしまった。それから、大叔母は私の中で急に遠い人になり、その後自分の学年が上がるにつれて、親に連れられて親戚を訪ねるようなことも減って行った。

父が亡くなった時、私は大学を出て東京で働いていて、実家に戻った時にはもうお通夜の準備ができていた。
あまりに急なことで、私は父の体に触ることもできなかった。それは、大好きだった父そのものでありながら、もう私たちのいる此岸の人ではなく、その意味で他の遺体と変わりなく、よく知ってるようでまったく知らないような、誰かだった。生きてるのか死んでるのかさえ、よく分からなかった。私は混乱していて、父の体のそばに行くことさえ、怖かった。
私の家族全員、多かれ少なかれ同じように戸惑っていた。
その時、大叔母さんがやってきた。

大叔母さんは私とは正反対だった。
何のためらいもなく、がばと父の体に取りすがっておいおいと泣いた。
いつも物静かな大叔母からは想像もできない激しさで、父の顔に自分の顔をくっつけたり、父の頬を何度も撫でたりした。
弔問の人からお悔やみの言葉があると、
「あんた!聞こえてるぅ」
と聞こえるはずもない父の耳に口を寄せ、叫ぶように言った。

私はそれを見て、肉親とはこういうことだ、と急にその言葉の本当の意味を知った。その時はあまり行き来のない親戚のひとりに過ぎなかった大叔母が、父にどれほど深いつながりを感じていたか、また父もそうであったか、に気づかされた。その絆を通して、父が送ったさびしい青年時代が透けて見えるような気がした。他の親戚も続々と来てくれたが、誰も大叔母さんほどのことはしなかった。伯父さんも、伯母さんも、私の母でさえ。

大叔母さんはその数年後、亡くなった。
看護婦だった大叔母は自分の体の状態もある程度分かった上で、入院はせず、亡くなる前々日まで畑仕事をしていた。
一度母と大叔母さんを訪ねた時、笑いながら話していたのに、急に
「あれがいってしもうてから、瀬(せ)が無(の)うて…」
と苦しそうに泣き始めた。その痩せた体のどこかにまだ水分が残っているならどうか涙として出てきてほしい、というような、苦しい泣き方だった。
大叔母さんは長く患わなかった。死期まで他人に気を遣って、極力迷惑をかけないようにあっさり逝ったのだろうか、と思えるような最期だった。
お葬式の日は、雨だった。
誰もとりみださない、静かなお葬式だった。

大叔母さんの家は今でもその子供にあたる人が住んでいるが、ほとんど交流はない。でも、家の前は時々、通りかかることがある。
県道のそばで、すぐ裏手が小さな山で、山が陰になってあまり日当りのよくない家だ。
県道は大叔母さんの家の前まで来て反り返るように進路を変えており、大叔母さんの小さな家は県道に押されて山すそギリギリまで引っ込まされているように見える。家自体も古く、壁の漆喰は県道を通る車の排気ガスで汚れ、黒い瓦は埃にまみれて白っぽくなっている。

他人の家なら、何度そのそばを通ってもほとんど気づかないだろう。それほど存在感のない、つつましい家だ。むしろ廃屋に近いかも知れない。
父と昔訪れた時も、2度に1度は返事がなかった。
玄関を入ると土間があり、その右手に小さなお座敷がある。お座敷には畳一枚分くらいの、古い水墨画が描いてあるような衝立が立ててあって、その陰に仏壇がおいてある。
衝立があるので、家の奥があまり見えない。私はいつも、その衝立の向こうに声が届くようにと思いながら、おばちゃあああん、と呼んでいた。
それがひんやりとした土間に響き、しばらく待っても返事がないと、私はそっと
「おってないんちゃうん」
と父に言う。
でも父は知っている。
「おらへんなぁ。裏の畑やろう」
と言ってずかずか上がり込み、家の反対側の畑を見に行った。

裏の畑は小さくて、腰をかがめて農作業をしている大叔母さんがすぐ見える。
こちらに気づき、いつものように笑って、麦わら帽子を取りながら
「45ちゃん、元気けぇ」
と言いながら私たちに近づいて来る。


2009年01月09日(金) My Only London - 若い力

もう名前も覚えてないのだが、いつもニット帽をかぶっていたので帽子のBくん、としてみる。
Bくんは確か大学生くらいで、ジーンズのズボンをいつも極端に下げて歩く、普通の若い男性だった。というか、「普通の」人なんていないと思うけど、私とは世界が違いすぎて、普通にしか見えなかった。合コンで好みの女の子の電話番号を上手く聞きだすのが自慢で、彼女持ちでも他に可愛い子がいたらちょっと浮気しちゃうかも、芸能人でも年相応の娘が好きで、30過ぎたら女は終わりでしょ、というような、やっぱり普通の男の子だった。音楽が好きでUsherなどのR&Bをよく聞いてて、R&Bを「アールンビー」と発音した。

そんなBくんと私が付き合うわけはないのだが、私はとにかく焦っていた時期だったし、Bくんからもアリのようなナシのような、微妙な空気を感じたので、とりあえず一緒にお茶をしたり、買い物に行ったりはした。ノリが近くて話すと楽しいのだが、Bくんからはやっぱり、私みたいな女に対する戸惑いみたいなものが伝わってきた。

そういう戸惑いが私の中で段々クリアに見えてきたので、これはないな、とそのうち悟ったんだけど、それでもBくんとはよく喋った。喋ると楽しいからだけど、Bくんは、私がもう持ってない、いいものを持っていたから。

Bくんは先に書いたとおり、どこにもいそうな若い男性で、ちょっとズルいところもあるけど愛嬌があるから許されてしまうような、そういう人だから、見るからに真面目というタイプではない。
だけど、彼の中には一種の真面目さがあった。真面目さというか、まっすぐさというべきだろうか。若い人特有の、「よいこころ」のようなものが。
それはたとえば、ある有名なスポーツ選手がうちの学校に語学研修に来たので、下心アリアリで食事に誘い、二人じゃ気詰まりなのでBくんを引っ張りこみ、日本料理屋で2時間過ごした後に、話があまりにつまらなくて愕然として、別れた後にBくんとその選手の悪口でも言おうかと思ったのに、
「いい人っすね、あんな有名なのにエラそうじゃないし、フレンドリーだし」
などと思いがけないリアクションをされた時・・・なんかに、思った。(これを言われた時は、さすがに自分がちょっと恥ずかしかった)

ある時、Bくんが何気ないお喋りの時に、戦争博物館に興味があると言った。帝国戦争博物館は、ロンドン南部にある。ゲートから建物までまっすぐな道が延びて、前庭は結構広いのだが芝生だけが敷いてあって、ストイックで近寄りにくい雰囲気がある。私もバスで傍を通ったことはあるけど、中に入ったことはなかった。
その話はほんとに何かのついでで、すぐに他の話題に紛れてしまったのだが、私は妙に覚えていて、ある時、彼を誘ってみた。
あのかる〜いBくんがなぜ戦争博物館に興味があるのか。それに、私自身、いつかは見ておかないとな、と思っていた。自分一人でわざわざ行くと思うと気が進まないが、何かにかこつけてなら行ってもいい。だから、Bくんが行ってくれればちょうど都合がよかったのだ。私たちはウォータールーで待ち合わせ、バスに乗った。

帝国戦争博物館は、当時の戦闘機や銃器も間近で見られて、じっさい「博物館」的だった。清潔で明るく、陰惨とはほど遠いが、やはり神妙な気分にならざるを得ない。私たちはわりと時間をかけて、展示物を見て回った。
3階建くらいの建物の最上階に、ホロコーストの資料があった。
アウシュビッツのミニチュア模型などもあり、私がこれまで見た中では最も詳細な資料がそろっていた。
生存者が当時の状況を語るビデオが、繰り返し流されていた。
写真もふんだんにあった。

戦闘機などが置かれた1階は来館者も多くざわついていたが、3階まで上がって来る人は少数だった。Bくんと私はそれぞれ分かれて見学した。2人で一緒に見て感想を言い合うのではなく、自分の為だけに見たほうがいい、と思った。たぶん、Bくんもそう思ったのだろう。
そうこうするうちに、閉館時間のアナウンスが流れて来た。
ふとBくんを見やると、名残惜しそうにまだ見ていた。

私はホロコーストの資料は、イギリスは当事者じゃないんだから痛い資料いっぱい飾れるのは当然だろう、と思った。それでも、そこに提示されている事実自体には目を向けようと思ったのだが、邪念が多すぎてあまり上手くいかなかった。これまでに、あまりにも多くの人がホロコーストを語り過ぎ、そこへ心を寄せ過ぎていて、今さら私が何を思えばいいのかが分からない。
だけど、それは口にせず、だまって博物館を出た。
間にお茶を挟んで、たっぷり、2時間半くらいいたと思う。

博物館を出てから、Bくんに、何が一番印象に残った?と聞いてみた。
Bくんは、ホロコーストの資料だ、と言った。
「すごく重かった。ガツンと来た」
と言い、でもああいう資料が公開されてるのはいいことだ、日本もあまり隠さずに、南京大虐殺でも、もっとはっきり出せばいい、と言った。

その時の表情が、ふだんのBくんに似つかわしくないほど真摯で、印象に残った。「日本ももっと出すべきだ」という言葉を、自分自身がもっと出すべきなのだ、というのと同じ痛みで語ること、それが真摯ということだと思う。Bくんのその時の言葉は、そうだった。

それを聞いて、私はそういうことに対して、おおむねBくんと同じように感じるけれど、Bくんほど力強い言葉はもう持たないと思った。そして、Bくんをうらやましいと思った。若くまっすぐで、感じたままを口にでき、たとえそれが自分の見た目とちぐはぐでも照れたりしない。そういうのって、とてもいいな、と。

Bくんとはそれからも時々、ほかの友達を交えて遊んだ。
彼が帰国するとき、2人の共通の友達が
「Bくんと45さん、これからも連絡取り合うんでしょ?」
と聞いた。それで彼にそのまま、
「私たち連絡取り合うのかな?」
と聞いたら、彼は微妙な笑い方をして首をかしげた。

もちろん、連絡はなくなった。
今や彼の名前を忘れ、顔も定かではない。
でも、彼がホロコーストについて言った言葉だけは今も鮮やかに覚えている。半ば閉じた戦争博物館に、イギリスらしい薄い色の夕陽が当たって、もうちょっと早くくればよかったなと私は少し後悔しながら、その言葉を聞いたのだ。


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