机の上には、いろんな書類やらテキストやらが載っている。 読むべき本もあるし、頭に入れなきゃいけないマニュアルもある。 資格試験の問題集も解かなきゃいけないし、新聞も読まなきゃいけないし、自分の生活にまつわるいろんな物事も処理しないといけない。読みたい本もたくさんある。雑誌もあるし。見たいビデオだってある。インターネットが僕を呼び、パソコンがいろんなファイルを整理、整理と叫んでいる。 どうやったって、一つずつしかできないのだけれど、どれから手をつければいいのか分からない。 とりあえず、お湯わりを一口飲んでから、デールカーネギーの本を思い出した。 「道は開ける」第1章、今日、一日の区切りで生きよ。 を読み返す。
アイデンティティは、人間関係から生まれる。 と、そう思うんだけど。違うかな。 それとも、それが当たり前なのかな。 自分が何者なのか、自分で知ることができなくて、他人との関係性の中で見つかることが、往々にしてある。 自分を見失わないためには、人間関係が、大切なのだと思う。
価値観の多様化、ライフスタイルの多様化、個性の尊重、個人主義の時代、等々。 結果、みんなバラバラになってしまったんじゃ・・・。 ベースがあって、その上で、個性を尊重したり、自由があるのだろうけど。
2009年02月25日(水) |
人生に生きる価値は有る |
人はいつかは必ず死ぬわけだから、どんなに苦しくても、生きている時間に価値があると考えるのは、正しい、ということになるのだと思う。 生きているということは既に、片足を棺おけに突っ込んでいるということ?
村上春樹のノルウェイの森の一節。 「死は生の対極にあるのではなく、その一部として存在している」 生きているということは、いつか、必ず、死ぬことを予定されているということだから、死も人生の”最後の”一部分ということになる。
結局はみんな死ぬのだから、怖いのは確かに怖いけれど、そんなに怖がることもないのかもしれない。生きていること自体が死に向かって進んでいるということでもあるわけで、結果、いつか死ぬことをよくわかった上で、生きている時間を大切にすることが大事。そういうこと。
2009年02月24日(火) |
人生に生きる価値は無い |
そういうタイトルの本があるらしい。 日経新聞に出ていた。
生きる価値というのを、 たとえば科学的に証明することはできないのかもしれないですが、 自分で生き甲斐を作ることはできるんじゃないかと思うんです。 今は、そういう時代なのかな、と思うわけです。
垂水町やけど、江坂、って言ったほうがわかりやすそう。 代々木ゼミナールに一時期、通っていて、空き時間に周りを散歩しているときに、この神社に辿り着きました。受験合格を祈願し、見事合格。 その後、一度だけお礼参りに来ましたが、もう一度、やってきました。
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