アータン三宅の何でも聴いてやろう
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2008年06月24日(火) 愛情砂漠

ひっそりと、こんなCDがリリースされていた。
映画『赤い鳥逃げた?』(1973年東宝作品)のサントラ盤である。





価格は1300円という信じられないほどの廉価。
でも、買う人はほとんどいないんだろうな。そんな気がする。
映画自体は、さほど優れたものだとは思わない。というより細かい部分が思い出せなくなっている。
おそらく桃井かおり見たさに映画館に足を運んだのだろうが、藤田敏八監督が苦手な
僕としては、いまいち感動できなかったのでは?と推測する。
あるいは、「ただ、死ぬための理由が欲しかっただけ」という映画のテーマにも
あまり共感できなかった気がするし。

ま、それはそれとして。
音楽が素晴らしかったことははっきり覚えている。30年以上経った今でもあの音楽だけは
はっきりと思い出せる。書いたのは、天才と言われた樋口康雄(通称ピコ)。
まだ20歳になったばかりのTシャツとベルボトムが似合うカワイイ男の子である。
作曲能力と編曲能力に抜きんでていた彼は、村井邦彦や筒美京平と並ぶソフトロックの旗手
として注目されていた。CDに収録された11曲のインストと2曲のヴォーカル曲を聴けば
彼が、バカラックやジミー・ウェッブのフォロワーであることは容易に理解できるが、
彼には、ある種の歪な不整合感を好む性癖があったと僕は思っている。
メロディがこういう風に進行していくんだろうな、と思わせておいて、急にカーブ切って
予期せぬ方向に進んで行ったりするのが特徴で。つまり、読めない展開が多いのだ。
しかも、その不思議な感覚が、一聴すると非常に素人臭く感じられるのが実に樋口的で
面白い。職人と云うより感覚で書きあげる芸術家タイプなのだろう。その辺にハマると
ちょっと抜け出せなくなる。今でいうと誰にそういう感覚を覚えるかな?
岸田繁かな?ジャンルは全然違うけど。


「愛情砂漠」という名曲が収録されている。
期待通りのサビが用意されていない、不思議なポップナンバー。
歌っているのは主演の原田芳雄。実にヘタクソなヴォーカルだが、どうしようもなく
1970年代の匂いが漂う歌い方だ。一言でいえば、かったるいテキトーな歌い方。
なのに、メロディとアレンジは極上なのだから、その落差が面白くてくせになる。
当時の深夜ラジオでよくかかっていた歌だが、タイトルを聴いた瞬間に
「負けた・・」、と何故か悔しがったことをよく覚えている。




   愛情砂漠を 歩いてきたの

   ノアの箱舟 涙をつれて


   灼けつく砂もないけれど

   人の心は水玉模様

   はじけ散るのは夢ばかり


   愛は愛でも だましあい

   けだるいふりをしてるだけ

   いつになったら はたしあい



       「愛情砂漠」 詞 福田みずほ


2008年06月15日(日) グールドだけ聴いてりゃ幸せかも

こうなったら、≪グレン・グールドしか聴けねぇ≫病で、かまわないか。
20代に一度かかった病気が再発。しかもすでに末期の様相を。
80枚組買ってしまおうかな。抗がん剤その他で財布が空っぽだけど。
考えてみれば、音楽マニアなんて、自分の健康を質に入れてでも
欲しいブツは手に入れずにはいられない哀れな生物なのだ。
「迷ったら買え」あるいは「とりあえず買っとけ」という座右の銘の
重さはマニアなら誰でも理解できるはず。
クラシックのピアノだけCDラックから全部消えて、グールドの80枚組だけが
骨壺のように鎮座している様は相当に神々しい。マジで考えるか。


グールド自身も語ってるけど、≪ピアニズム≫なんてものは、
ホントにもうどうでもいいと思うのね。
その辺で勝負したい奴にはさせておけばいいのであって、
とりあえず、僕はどんどん≪ピアニズム≫から遠ざかっていく。
たまたまピアノが上手だから、それを選んで演奏するだけで
目的が音楽的であろうとする何物かでありさえすれば
それでいいんじゃない。楽器を演奏することを見せちゃ、聴かせちゃ駄目だと
そう思うわけ。音楽を聴かせなさいよと。たとえばショパンやリストのピアノ曲が
そのような≪非ピアニズム≫では表現しきれない、ピアノでなければ駄目だという
音楽であるのなら、そんなものは捨てればいいわけで、いつまで経っても
若い天才がリストやショパンでサーカスをしてたりするけど、無意味じゃね?


グールドの仕事に対する回答としての、アファナシエフの仕事が評価されているけど。
ピアノ協奏曲での彼の失敗が、彼の屹立した個性の証しであるのは
当然なのだから、CDを買うのはバカバカしいと思わなきゃ。
云うまでもなく、アファナシエフは≪ソロ・ピアニスト≫(実にジャズ的な言い方)なのだから
ソロで活動しなければいけない。協奏曲を吹き込むのは、天才の余裕というよりも
策士、策に溺れる的な落とし穴に自らが落ちてしまったということかな。
あのピアノにオケがついていけるはずもないし、元々付いていくつもりもないと思う。
絡み合わない面白さを楽しむにしては、オケはあまりにも真面目な銀行員のような集まり。
しかも、ベートーヴェンだし(笑)。これからのアファナシエフは狂ったようにバッハを弾いてみそ。
「平均律」を超えて、もっとオルガンみたいなピアノで、ドローン効果満載の
カンタータのトランスクリプションとかさ。キワモノを極めるみたいな。
グールドの≪非ピアニズム≫主義に対抗できる初めての非≪グールド的ノン・ピアニズム≫主義が
完成される、予感がするのだが、そんなアドバイスに耳を貸すような常識人じゃないから。
アファさんは。嫌い。





2008年06月14日(土) とりあえず学んじゃえ

今では、僕の生涯最高の一枚となったビーチボーイズのアルバム『ペットサウンズ』も
出会った当初は、お気楽な普通のポップスとしてしか聴こえていなかった。
モノラルだし、ハードじゃないし、超絶技巧じゃないし、何よりもジャケットがダサいし。
当時夢中だったキング・クリムゾンの『クリムゾン・キングの宮殿』や
イエスの『危機』、あるいはピンクフロイドの『狂気』といったいわゆるプログレッシブロック
の大仰な音創りに比べると雲泥の差とも言えるほどの「底の浅さ」を感じたのだ。
ホント、若さは馬鹿さというけれど、何ともお粗末な22才の頃の俺。

音楽を聴く耳(言うまでもなく、耳とはイコール、脳のこと)というのは、鍛えれば鍛えるほど、
つまり様々な音楽を聴けば聴くほど、その筋肉に柔軟性と適応性が生まれてくるもので。
ただ、そこまでは到底至らない時期は、とにかく目の前にある音楽だけに夢中だから
他のジャンルの音楽を聴くときは、そのスイッチを切り替えることができない。
というよりそもそもそういう発想がない。だから、クリムゾンに感動した耳で
ビーチボーイズを聴き、何ともお恥ずかしい価値判断をしてしまうわけだ。
ビーチボーイズの本質は、クリムゾンとは別の≪次元≫に存在するということ。
そこに気づくか気づかないか・・・。である。

ビーチボーイズの本当の凄さを理解するためには、
リーダーであるブライアン・ウィルソンに影響を与えた音楽との関係性から
学んでいかないと、一生かかっても音楽の秘密を解く糸口すら見つからないと思う。
僕らの想像を遥かに超えた深い表現世界がそこにはあるのだ。
あえて「学ぶ」という堅苦しい表現を使ったが、でも、そういう言葉しか浮かばない。
たとえ趣味の世界でも、学ばなければ何も聴こえてこないし見えてもこない。
でも、そういう発想を持てない音楽ファンがほとんどなんじゃないかな?って最近思っている。
別にそれを批判するわけではないが、音楽ってただ音を楽しむだけの道具にしておくには
もったいないほど豊かな情報を持っているもので、そこを突き詰めていくと、音楽の後ろに広がる
精神世界のようなものまで見えてきてしまうから、不思議。
芸術には一生付き合ってゆく価値がある。その世界に足を踏み入れたからには、
道なき道を進み、切り拓いていく覚悟みたいなものがあってもいいと思うな。


2008年06月13日(金) ロバート・ワイアットの言葉








僕が敬愛するアーチスト、ロバート・ワイアットの言葉から。




悲しみが創作のモチベーションになりうるのは、周知のことだけど
創作している過程には官能的と言えるほどの喜びがある。
美を発見しながらモノを創りあげている間に、悲しみというネガティヴな想いは
ポジティヴなパワーに変化せざるを得ないんだ。ネガティヴなパワーは、
ひとを魅了する美を作り出せない。美の中にその人の悲しみや苦しみを見出すことは
可能だけど、その作品を創作している人物は、その過程において表現する喜びに
満たされているはずだ。そのポジティヴなパワーが人を共感させる。
だから、「悲しみのあまり、悲しくも、悲しい曲を作ってしまった」なんて話は信用しない。
あるとしたら、それは単なるクズでしかないね。





『1974年9月8日 ドゥルーリィ・レイン劇場のロバート・ワイアット 』


2008年06月12日(木) オリジナル音源で聴ける「おもいでの夏」




『ミシェル・ルグラン映画音楽集成』



このCDセットの快挙は、すべて映画で使われた「オリジナル音源」であるという点。
しかも大半が初CD化!長年の夢が一気に叶ってしまったことに、涙また涙である。

ハリウッド式の映画音楽作り(作曲者はオーケストレーションを担当せず、
専門のオーケストレイターがいる)に反発し、自身の音楽に最後まで責任を持ったルグラン。
その作風は、実にバリエーション豊かで、リズムに対する感覚は
彼が最高クラスのジャズミュージシャンであることを証明している。

彼の音楽の最大の特徴は、半音と転調の多用にある。
驚くべきスピードで変化してゆくメロディとハーモニー。
さらには裏メロとオブリガードにおける自己主張の強さが、
色彩感豊かなルグランサウンドを構成していく重要なファクターになっており、
「耳をそばだて、全ての音を聴き逃さない」という、音楽に対する真摯な姿勢を
我々に意識づけてくれる。

聴きこめば聴きこむほど魅せられてゆく、その音楽の奥深さ。
決して聴き飽きることのない世界。
それがミシェル・ルグランという天才が生み出した音楽だ。
CD4枚組、90曲300分の幸福に、ミシェル・ルグラン・ファンは酔いしれるのであった。


2008年06月11日(水) シューベルトの「ザ・グレイト」






ヘルベルト・ブロムシュテット指揮ドレスデン・シュターツカペレの
『シューベルト/交響曲 ザ・グレイト』



第1楽章の演奏開始58秒後から1分40秒後までの42秒間に音楽の魔法が生まれる。

ドレスデン・シュターツカペレが作り出すビロードのような極上の音。

まず、ここから聴くべき。これこそが世界一のオーケストラ。


第1・第2ヴァイオリンからチェロを経てヴィオラへと渡される音のバトン。

適度に感情を抑えた表現が身上のブロムシュテットが、

シューベルトのロマンチシズムに抗えない自身の心情を

カミングアウトしているかのようにも聴こえてしまう。


ドレスデン・シュターツカペレとはこういう音を創り出すオーケストラなのだと

みんなに知ってもらいたい。深く入り込んで、聴きこめば聴きこむほど

他のオーケストラが物足りなくなっていく。


僕が一番好きなオーケストラの、一番好きな演奏がこれ。

自信をもってお薦めする。


2008年06月10日(火) リスペクトに温度差が?


ブライアン・ウィルソンの『SMILE』完成披露コンサート(2004年)のステージに、

特別ゲストとして登場したヴァン・ダイク・パークスを、観客は全員総立ちで迎え、

拍手はしばらく鳴りやまなかった。

ヴァン・ダイク・パークスは作・編曲家としてアメリカのポピュラー音楽シーンでは

絶対的な評価を受けている人物であり、また作詞家としても異彩を放ち、

彼名義のソロアルバムやブライアン・ウィルソンとのコラボレーション・アルバムは、

後世に語り継がれるべき名盤の評価を得ている。

ブライアン・ウィルソンの恐るべき傑作ソロアルバム『SMILE』は、

ヴァン・ダイク・パークスがいなければこの世に存在すらしなかった。

そのことだけを取り上げても、彼の偉大さがよく分かる。







僕があらゆるジャンルの中から選んだ10枚のアルバムにも

彼のデビューアルバム『SONG CYCLE』が含まれている。


そのヴァン・ダイク・パークスが、2007年7月、猛暑の日比谷公会堂で行われた

細野晴臣生誕60周年記念トリビュート・コンサートのステージに立った。

しかも、どあたま! 一発目にいきなり、上記の写真のようなつなぎ姿で登場してきたのだから

驚きである。コンサートの最後の最後に特別ゲストとして現われたとしても驚きなのに。






ところが、観客の反応がいまいち鈍いのだ。

もちろん大きな拍手で迎えられてはいるのだが、スタンディング・オベーションが起こらない。

たった数分間のステージではあっても、ヴァン・ダイク・パークスの作り出す

魔法のような音楽は僕を魅了した。密度の濃い夢のような時間が過ぎ、

最後に丁寧なお辞儀をし舞台袖へと下がる時も、

やはりスタンディング・オベーションは起こらなかった。

う〜む、これは何なんだろう?細野さんの音楽を語る上での知識として、

ヴァン・ダイク・パークスの業績を頭では十分に理解していたとしても

そこに果たして特別な≪リスペクト≫があるのかどうかがいまひとつ判然としない。

僕などは、もう平伏してしまうほどの特別なオーラを彼に感じているのだが・・・。

日本とアメリカの音楽ファンの意識の差だとしたら、少し寂しい。



ヴァン・ダイク・パークスのステージも、コンサート後半の細野さんのステージも、

文句のつけようがないものであっただけに、残念でならない。

ただし、僕は実際のコンサートには行っておらず

映像が編集されたDVDを鑑賞しただけで、そう思っているのであるから。

事実と違っていたら、いつでも訂正するつもりだ。



最後にもうひとつ。

あるサイトで、どなたかも指摘していたが、

DVDの音声が映像とずれる箇所(映像が遅れる)がいくつかあった。

あれは何なんでしょ?


2008年06月08日(日) リズムとメロディー

そのルックスには驚くほど個性も魅力も感じられない3人組なのに
中田ヤスタカの作る音楽には惹かれてしまう、そんなPerfumeの
「Polyrhythm」と「Baby cruising Love」をYOUTUBEで「聴き」ながら
日曜日がスタート。






早速、アルバムを1枚鑑賞。
ここ半年ほど、再々々検証をおこなっている神様フランク・ザッパの
70枚に及ぶアルバム群から、『ZOOT ALLURES』(1976)をチョイス。




名曲「ブラック・ナプキン」よりも今はアルバム・タイトル・ナンバーが好きかな。
冒頭からザッパ風モードとでもいうべき(?)演奏が3分間ほど続き、
やっとザッパのギターソロが始まったかと思うと、わずか1分弱で
そのまま曲はフェイドアウト。この意味が当時は理解できなかった。
ライブ盤ではちゃんと演奏しきっているのに。
で、実は、今もザッパの意図するところが理解できていない。
だからこそ、ザッパは面白いと言える。
不思議だが、僕はこちらの尻切れヴァージョンの方が好きなのだ。
それにしても、テリー・ボジオのドラミングの何という雄弁さ!


続いて、ジョン・コルトレーンの『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード〜ザ・マスターズ』を聴く。




いつ聴いてもマッコイ・タイナーの創造性も想像性もないピアノには呆れかえるが、
それでもエルヴィン・ジョーンズのドラミングは突き抜けた素晴らしさで、僕を満足させてくれる。
コルトレーン自身は、まあ、可もなく不可もなくというところかな(笑)。
ユーモアセンスの欠片もない演奏でも有り難がって聴けば、精神性なんて言葉も
出てくるのかも。僕は、そんなの、いらないけど。


最後は、先月から聴き続けている宇多田ヒカルのニュー・アルバム『HEART STATION』。




もう、たまらないね。全然飽きない。
メロディー良し、歌詞良し、アレンジ良し、でもって歌唱最高とくれば
もう今年の個人的ベストアルバムの最有力候補だろう。
アメリカにではなく、あくまでも日本国内のリスナーに向けて、
シンガー・ソング・ライター的な資質、その手のうちをとりあえず全て見せつけてしまった傑作。
そういう評価を僕は下すのだが、みなさんはどう?
「大ヒットアルバムだからあえて聴かない」という意固地な音楽マニアは
損すると思う。以前の僕はそうだったけど、今は全然違う。




2008年06月06日(金) 細野流カントリー音楽から聴いてみよう

カントリー音楽はブルース以上に日本に根付かない。
その奥深さは多くの音楽ファンに認知されず、
いつまで経ってもアメリカの田舎の音楽という評価のまま。
それが何ともが悲しい。
嫌いでもいいから、せめてもう少し知識は持ってほしいと願ってしまう。

ひとくちにカントリー音楽といっても色々あって、
オールド・カントリー、ニュー・カントリー、カントリー・ロック、
オルタナティヴ・カントリーという風に大きく分けることができる。
さらに、それぞれのカテゴリーの中で、他のジャンルの音楽と結びついて
さまざまに変容していったものまで含めると、その多様性に驚かされるはず。
何かのきっかけでカントリー音楽の魅力に気付くかもしれない。
「お!カントリー、いいじゃん!」って思ったら、そこが入口。
気軽に音楽を楽しんでいってもらえれば。

さて、現在の日本で最も美しいカントリー音楽を奏でているアーチストが、
あの細野晴臣であることをご存じだろうか?
世界中のあらゆるポップミュージックに精通する細野晴臣が
60歳を目前にして、自分のルーツともいえるカントリー音楽に
再び目を向けたということは、長年の細野ファン&カントリーファンの僕としては
何とも嬉しいことであった。
スタジオアルバムとライブDVDで聴くことができる細野流のカントリー音楽は
1940年代のオールド・カントリー・スタイルに範を置いてはいるが、
その音の響きには時代を超えた不思議な感覚が宿っている。
非常に手の込んだイミテーションとでもいうべきか。。
イミテーションであるがゆえに、かえってホンモノの良さを凝縮できている
という実に面白い現象、いや、現象ではなく、確信犯的なものなのだろう。
さすが、世界中の音楽のエッセンスを吸収して、
自分だけのスタイルを作り上げてきた細野晴臣。見事である。

ぜひ聴いてみてほしい。カントリー音楽の入口として、
最適だと僕は思う。




『Flying Saucer 1947』(2007年)CD



『細野晴臣と地球の仲間たち: 空飛ぶ円盤飛来60周年: 夏の音楽祭 』(2008年)DVD


2008年06月05日(木) 岸田繁withあらきゆうこmeetsオーケストラ、という趣も。。

オーケストラと同じステージに立ちながら
岸田繁は自らもひとりの観客でいたかったのだろう。
幼いころから彼の中に強くあった
クラシック音楽への憧憬がこういうカタチで身を結んだことで、、
くるりというもはや岸田+佐藤というユニットでしかないグループは
今までのキャリアに一区切りをつけることが出来たに違いない。
この先に用意されているものは、おそらく岸田のソロ活動だと
推測するが、どうだろうか?


ステージ上の岸田は相好を崩しっぱなしだった。
過去の名曲群に新たに加えられた弦楽パートは、
どれも多少過剰にロマンチックな意匠が施されてはいるが、
それがくるりというグループのアンビバレントな音楽性に
妙にマッチしていて、心地よい。


あらきゆうこ(ドラムス)と佐橋佳幸(ギター)の参加によって
今までのくるりよりずっとアーシーさが増し、
それが欧州のオーケストラと共演することで、さらに強調されていくところが何とも楽しい。
一瞬、どちらの耳を使って聴けばいいのか迷ってしまったりする。面白いな。
それにしても、あらきゆうこのドラミングはあいかわらずの素晴らしさだ。
曲によって、彼女独特のボトムのしっかり鳴った重心の低い演奏と
フレキシブルに展開していく軽快な演奏を使い分けている。
さらに音楽性の幅をひろげたようである。
彼女の作り出すリズムが、オーケストラにインスピレーションを与えていることは間違いない。
指揮者も演奏者もあらきゆうこを「聴く」ことに神経を使っているのが伺える。


アルバム『ワルツを踊れ』からのナンバーはオーケストラ演奏に
厚みが増し、ダイナミックになっている。
しかし、それ以上にオーケストラとの共演の成果は、
生まれ変わった過去の名曲において顕著である。
たとえば、「春風」 「グッド・モーニング」(なぜこの驚くべき名演がライブCDには未収録だったの?) 
「惑星づくり」 「ARMY」「WORLD’S END SUPERNOVA」 「男の子と女の子」。。
さらには、最後のアンコールに再び演奏された「ブレーメン」。
コンサートの2曲目に演奏されたヴァージョンよりも、バンドとオーケストラの一体感が増し、
強烈なうねりの様な磁場が生まれているのには驚かされた。
音楽は、生き物である。まさにそれを実感させられた瞬間だ。







『QURULI/YOKOHAMA WIENER』

※印は、ライブCD 『philharmonic or die』未収録曲。必聴!



(DISC-1)

 1. ハイリゲンシュタッド
 2. ブレーメン
 3. GUILTY
 4. 恋人の時計
 5. スラヴ ※
 6. コンチネンタル
 7. 春風
 8. さよなら春の日
 9. グッドモーニング ※
 10. 惑星づくり
 11. ARMY
 12. アマデウス ※
 13. 家出娘 ※
 14. アナーキー・イン・ザ・ムジーク
 15. 飴色の部屋 ※
 16. WORLD'S END SUPERNOVA
 17. ジュビリー
 18. 男の子と女の子 ※
 19. ハローグッバイ ※
 20. 言葉はさんかく こころは四角 ※
 21. ブレーメン Encore ※


 (DISC‐2)

 1. すけべな女の子
 2. 東京
 3. モノノケ姫
 4. 砂の星 ※
 5. リバー ※
 6. 宿はなし ※






2008年06月04日(水) 5月のグッときた10枚

新旧入り混じったカタチで、
5月にグっときた10枚を。

雑食傾向はここ数年甚だしく、もはや嫌いな音楽など無い様相を呈し。
もちろんそれはジャンルがボーダレスになったという意味で、
個々のアーチストや作品に関して言えば、嫌いなものは相当にある。
ただ嫌いなものはそのまま嫌いで打っ棄っておけばいいわけで、
残り少ない人生、好きなものだけ食らいたいだけ食らえばいいのだ。

もう、栄養価の高い音楽の過剰摂取でどんどんメタボになって、
体脂肪も血糖値も血圧も上がって、
最後は幸福な音楽的腹上死を望むものである。南無。







「宇多田ヒカル/HEART STATION」





「ローリング・ストーンズ/シャイン・ア・ライト」





「ジョイ・ディヴィジョン/クローサー(コレクターズ・エディション)」





「ロイ・ヘインズ/ア・ライフ・イン・タイム」(3CD+1DVD)





「矢沢永吉/THE ORIGINAL」





「スタッフ/ライブ・アット・モントルー」





「エドガー・ウィンター・グループ/ジャスミン・ナイトドリームス」





「チャーリー・パーカー/オン・サヴォイ〜マスター・テイクス」





「ジョン・テイラー/ロスリン」





「くるり/横濱ウィンナー」DVD
                  


2008年06月03日(火) 天使たちのシーン

悩んで悩んで悩みぬいていた40代も半ばを過ぎた頃、
初めてこの歌を耳にした。
記憶に間違いがなければ、たぶん冬の夜、クルマの中で。

一瞬にして心を撃ち抜かれた。

声と言葉とメロディーとドラムの音が同時に聴こえてきた。
どんな音楽でもそう。こいつだ!って思った時、すべてが
同等の価値をもって頭の中で鳴り響く。
13分31秒、僕は身じろぎもせず、25歳の若造が書いた歌に聴き入った。
何故、彼には今の僕の気持が分かってしまうのだろう?
すべてを見透かされていることの恥ずかしさと安堵感。

不思議な体験を音楽はさせてくれる。
自分では語る言葉を持たなくとも、彼が語ってくれている。
その言葉を、僕は何度も何度も繰り返し聴いた。


   涙流さぬまま 寒い冬を過ごそう
   凍えないようにして 本当の扉を開けよう カモン!


青木達之が小さく微笑み、オザケンが想いをこめたギターを奏でる瞬間に。。。








    「天使たちのシーン」 作詞・作曲 小沢健二



  海岸を歩く人たちが砂に 遠く長く足跡をつけてゆく
  過ぎていく夏を洗い流す雨が 降るまでの短すぎる瞬間

  真珠色の雲が散らばってる空に 誰か放した風船が飛んでゆくよ
  駅に立つ僕や人混みの中何人か 見上げては行方を気にしている

  いつか誰もが花を愛し歌を歌い 返事じゃない言葉を喋りだすのなら
  何千回ものなだらかに過ぎた季節が 僕にとてもいとおしく思えてくる

  愛すべき生まれて育ってくサークル
  君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則

  大きな音で降り出した夕立ちの中で 子供たちが約束を交わしてる

  金色の穂をつけた枯れゆく草が 風の中で吹き飛ばされるのを待ってる
  真夜中に流れるラジオからのスティーリー・ダン 遠い町の物語話してる

  枯れ落ちた木の間に空がひらけ 遠く近く星が幾つでも見えるよ
  宛てもない手紙書きつづける彼女を守るように僕はこっそり祈る

  愛すべき生まれて育ってくサークル
  君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則

  冷たい夜を過ごす 暖かな火をともそう
  暗い道を歩く 明るい光をつけよう

  毎日のささやかな思いを重ね 本当の言葉をつむいでる僕は
  生命の熱をまっすぐに放つように 雪を払いはね上がる枝を見る

  太陽が次第に近づいて来てる 横向いて喋りまくる僕たちとか
  甲高い声で笑いはじめる彼女の ネッカチーフの鮮やかな朱い色

  愛すべき生まれて育ってくサークル
  気まぐれにその大きな手で触れるよ
  長い夜をつらぬき回ってくサークル
  君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則

  涙流さぬまま 寒い冬を過ごそう
  凍えないようにして 本当の扉を開けよう カモン!

  月は今 明けてく空に消える
  君や僕をつないでる緩やかな止まらない法則 ずっと

  神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように
  にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている


 


2008年06月02日(月) ぼくらがオザケンを偏愛する理由

安藤裕子がカヴァーした小沢健二の「ぼくらが旅に出る理由」を聴いてみた。




う〜む、やっぱり全然違うなぁ。
コード(和声)を細かい部分で変えてみたり、
ドラムの音を際立たせたり、オーケストラ・アレンジに新たな工夫を加えてはいるんだけど、
どうしてもオリジナルの感動のレベルには遠く及ばないのだ。
解釈としての頑張りは評価できても、肝心のボーカルに
訴求力が足りなすぎると思う。
断わっておくけど、安藤裕子のボーカルが
非力だと言ってるわけじゃない。一般的な見方からすれば
小沢健二のボーカルの方がはるかに非力だろうし。
僕が言ってるのは、そういう声量とか音程の確かさといった部分じゃなく、
単純に「あの歌詞に対するあの声」という意味での訴求力。
つまりそこが、小沢健二を生涯のフェイヴァリットと出来るかどうかの
分かれ道になるんだよね。




歌詞に登場する若者像をリアルに表現したいのであれば、
やはり安藤裕子の、懸命に安藤裕子であろうとする歌唱は
その本質から遠ざかっていくものだと感じられる。
「せつなくてせつなくて」という歌詞に込められた情けないほど
の慕情、あの部分でバレてしまうのだ。
この曲を偏愛する者としては、どうしてもこだわりたい部分ではあるな。
桜井和寿がRCサクセションの「スローバラード」のカヴァーに失敗したように、
一見ひと懐っこそうに見える楽曲も実はシンガーの個性と密接に
結びついていたりするもので。
大好きだからといって、簡単にカヴァーすればいいというものではない。
最後に付け足すようで申し訳ないけど、安藤裕子のニュー・アルバム、
オザケンのカヴァー以外は、おおむね良い出来だと思うよ。


2008年06月01日(日) コスモ石油のCM音楽「Seeds of Life」




坂本真綾の22世紀へと聴き継がれる1997年の名曲「feel myself」
(『坂本真綾/グレープフルーツ』収録)を作・編曲・プロデュースした菅野よう子を
ご存じだろうか?彼女の名前は目にしたことがあっても、その音楽を実際に
菅野よう子の作品と認識したうえで聴いている人は少ないように思う。
圧倒的な仕事量の割にその名を世間に
轟かせていないのが、ファンとしては辛いところだなぁ・・・。




まあ、それはさておき、彼女は典型的なマルチである。
どんな曲でも書けちゃう、アレンジできちゃう、演奏(ピアノ)できちゃう。
しかも、ひとつとしてダサいものはない。どれもさすがの手練の技だ。
彼女に欠点があるとしたら、他を圧倒する強烈なアーチスト臭が無いことくらい。
しかし、彼女の活躍するフィールドを考えると、この欠点はむしろ
長所として働く場合が多いように思う。
映画やドラマやアニメの劇伴、さらにはCM音楽といった云わば裏方的な
仕事に求められるのは、強烈な個性よりも高い順応性である。
芸術家というより建築家に近い存在であらねばならない。
しかも、第一級の建築家であり続けなければ、
これほど多くの仕事の依頼が来るわけがない。
大変な人なのだ、菅野よう子は。

そんな菅野よう子が作・編曲したCM音楽集が
やっとまとまった形で聴けるようになった。
これは快挙である。





その音楽のメロディーの断片すらも口ずさむことが出来ないのに、
何故かCMを見終わったあと、頭の奥で残響している、
あのメロディー、あのハーモニー、あのサウンド。
もう一度聴きたいと思いながら、CMを目にすることができなかった
コスモ石油の音楽「seeds of life」(2004年)が聴けるだけでも、僕は買いだと思う。
彼女の映画音楽の最高傑作『tokyo.sora』(2002年)との共通性もうかがえる
美の結晶のような音楽である。




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