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■ 漆黒の森
レコーダーのスイッチを入れる指は、もう慣れ切ったとでも言わんばかりに、見ずともその場所を違えなかった。
「今、思い出したことがあるの」
夕闇が霞む先を見ていた僕は、その声に引き戻されるようにして振り向いた。 瞬くばかりの合間に変化するそれらは、見慣れているはずなのにいつもと違って見えた。
「なにをさ?」
「どうして今まで忘れていたのかしら」
たまに唸る風の音に、溜め息混じりの遥の声が重なった。
「話が見えないよ。何を思い出したって?」
赤い唇にあてられた白い指先は、思案深げにゆるゆると撫でるような動きをした。 頼りなく細い記憶の糸を手繰り寄せるようなそれは、小さな不安を抱かせる。
再び、何を、と言い掛けたところで彼女の唇が開いた。
「ね。神隠しにあったこと、ある?」
色のない声を落として、遥は髪を耳にかける。視線は開かれた落書きだらけのノート向けられたままで、こちらを見る様子はない。せっかく顕になった形の良い尖りがちの耳は、艶々とした髪が絡むことなく滑り落ちたせいで、すぐに隠れてしまった。
「…なんて?」
もう一回言ってくれ。そんな意味合いを兼ねて返した言葉は、潤みがちの大きな瞳が僕に向けられることで相殺されたらしい。
神隠し。随分と古くさい言葉を使うんだなと感心しつつも、見合わない言い回しに浮かんだ笑みは押し殺し、彼女の言葉を反芻した。神隠し。つまりは行方不明ということだ。何処に行ったのか何処に居るのか、探しようもなく消え失せる。まったくもってわからない。まさに字を読んでごとく、だ。が、その響きが幾通りの過程も思い起こさせなかったのは、言い出した本人の口調があまりにも軽かったからだろうか。言葉の内容ほどの深刻さは微塵もない。二、三日程度の外泊なら思春期の家出まがいの突発的行動をそう呼ぶわけもないが。
「残念ながら。そういうドラマティックな経験はないね」
緩やかに首を横に振れば、相手は意外そうな表情をした。どういう意味だろうとは考えなかった。彼女の頭の中では、それは日常茶飯事な出来ごとなのかもしれない。
「そう。あたしは、あるわ」
「神隠しにあったことが?」
頷く彼女を横目に、僕は僅かに眉を上げた。随分と物騒なことを言う。不可思議な消失なんて、早々あるもんじゃない。 まあ早々あるものではないからこそ、そういう言葉で片付けられてしまうのかもしれないが。
「それってさ、誘拐って言うんじゃないの」
笑った僕の態度がお気に召さなかったらしい。 形の良い彼女の眉がぴくんと跳ねる。 からかうような口振りになってしまったのは、あくまで彼女の態度がフラットだったからで、僕の性根の問題だけではないだろう。 聞き返せば、僅かにかぶりを振った彼女に否定された。ちがう。そうじゃない。少し幼い口調で彼女は僕をじっと見た。
「あなたはすぐにそうやってからかうのね。でも、嘘なんかじゃないんだから」
「まさか。嘘だなんて思ってやしないさ。そんなつもりじゃなかったんだ。ごめん、僕が悪かったからさ」
彼女が好きだという微笑みを浮かべ謝りを口にすれば、固くなっていた相手の口元が僅かに弛んだ。どうやら機嫌は持ちなおしたらしい。元々、目の前に座る相手は短気ではないのだ。
「でも。そういうふうに言われても仕方ないのかしら。似てるけど、ちがうの。ああ、でもわからない。ちゃんと覚えてるわけじゃないもの」
「なにを?」
「その時のこと。いなくなった時のこと」
「小さい時の事なの?」
「うー…ん、そうじゃないの。たしかにあたしは今よりも子供だったけど、そんなんじゃないの」
閉めた窓が、少しだけ揺れた気がした。風だろうか。高い位置にあるこの部屋は、よく揺れるのだ。
「よく分からないけど。長くなりそうならお茶でも入れようか?」
「ううん、いらない。長くならないように話すから、聞いて。今話さないと、もう忘れちゃう気がするから」
立ち上がりかけた僕を手で制して、再び座る事を促される。
無意味に笑って見せたのは、この話に僕が興味を持てなかったからかもしれなかった。本当は、立ち上がりたかった。そして、ここから出て行きたかった。どうして人間の記憶というものは、こうも曖昧で突発的なのだろう。 彼女が話し終えれば、全てが終わってしまうかもしれないのに。
些か気分が滅入り始めた僕とは反対に、話始めた相手はそうでなかったらしく、僕との距離を詰めるように前のめりになって熱っぽい目をこちらに向けた。首元がちりちりする。嘆息をしていても仕方なく諦めて、彼女の話を聞く姿勢を取るために向き合い、それで、と先を促した。
「覚えてないのに、話すことなんかあるの?」
「意地悪ね、それはついさっきまでの話よ。だって今の今まで忘れてたんだもの。急には思い出せなくて当然でしょう?」
こめかみを押さえる指は、先程よりは血が通って見えた。冷たいだけで温もりを返さないリノリウムの机は、僕らを受けとめる気がないような気がする。
「そりゃあ我が身がそんな事に巻き込まれれればね。怖い思いをすれば尚更だ。何より君はれっきとした女性だし――」
「あなたったら、どうして一言一言にそんなに刺があるのかしら。それは違うわ。なんにもね、怖くはなかったの。怖いことは誰にも何からもされたりしなかったもの」
僕の言葉を遮るようにして、遥は何度も瞬いた。
相槌を求められている気配はなかったので、僕は静かに続きを待った。遥の大きな目はこちらに向けられているのに、僕を見ているようではなかった。いや、僕を通して、何かを見ているようではあったけれど。
誘拐されたわけじゃない――と、彼女が言ったのだ――家出をしたわけでもない。ただ、いつのまにか『どこか』へ行ってしまっていたのだと。しばらくの無言の後、遥は口を開いた。 異世界ね、と。
「そこにはね、女の人がいたの。男の人もいた。それから――それからね、小さな女の子もいた。たぶん、その子はその家の子供だったのね。だから彼らは家族なんたわ。ああほら、不思議ね、話しているうちにどんどん思い出してくる」
こじんまりとした、でも可愛らしい家。その中で遥は暮らし、もう今は霞がかかるような日々を過ごした。 居心地は、そう悪いものではなかった。ここにいつまでもいたくない、ここに自分の居場所はない、出て行きたいという衝動は常にあったけれど、触れ合うもの全てが遥に優しく接してくれるものだから、半ばずるずるとその生活を営んでいたらしい。
「ちいさい……女の子は、よく、あたしの傍に来たわ。きっと珍しかったのね、あたしのことが。急にどこからかやって来て、同じ家に住んでるんだもの。まわりに子供はたくさんいて、やっぱりあたしのところへくるんだけれど、その子がいつも言うの」
「――なんて」
「他の子と遊んじゃだめって」
「可愛い嫉妬心だね。それで君は、その子と遊んであげてたわけだ」
そこで遥は微かに微笑んだ。慈愛を思わせるその笑みに、視線を伏せる。真意の読めない微笑は、恐ろしかった。
「――嫌いだった」
「嫌い?」
ぎこちなく笑った僕に、遥は今度は何の表情も返さなかった。
「嫌いだった。大嫌いだったわ。だってそうでしょう? 身勝手な独占欲に喜びを感じれるもの? 我が身となれば、本当に可愛いなんて思えるかしら。迷惑なだけだわ」
風がざわめくのをやめない外気は、温度が下がり始めているのだろう。触れた窓は、先程よりも冷たかった。
「いなくなってしまえばいいって、いつも思ってた。いなくなればいいって。追い掛けて登ってくる階段から、一緒に見下ろしたがる窓から、突き落としてやりたいっていつもいつも思ってた」
「…夢の中のような話だね」
歌うように続ける彼女に向けたわけではないが、遥は瞳が僕を見た。硝子玉のようだ、と思った。 舞い降りて沈みそうになった沈黙を消すために呼んだ名前に、遥は相変わらず反応を返さなかった。
「夢だったら、あたしの手のひらに残る感触はなんなの?」
俯いた遥が、広げた自分の両の手を見つめる。長い睫毛が一度、ふるりと震えた気がした。
「いつだったのかしら。みんなで出掛けた公園はとても見晴らし良いと聞いていて、あたしは物凄く楽しみにしていた。でもその日は酷く霧がかっていたわ」
山間部に位置するその場所は、晴れていれば美しい景色が望めると男は彼女らに告げた。晴れていればどれ程美しかったのだろうと、彼女の落胆は大きかった。 だが幼い少女は遥と出掛けれたことが嬉しいらしく、胸元辺りまでくる木の柵によじ登ってはご機嫌で歌っていた。
なんて、煩い。遥の気分はさらに降下した。
前のめりに下を覗こうとする少女を男は強く嗜め、遥はと言えばその柵が壊れてしまえば良いのにと思った。 しかし柵は子供の目から見ても頑丈で、少女がいくら揺さ振ったところで些かも動く気配すらなく、ますます遥を落胆させたのだという。
「だけど、物事っていうものはうまく出来てるものね。運命って、きっと本当にあるんだわ。決まった出来事は、決められたようにしか動かない」
飲み物を買ってこよう、と男がその場を離れたのはすぐのことだった。 危ないことだけはしないようにと釘を刺された遥と少女は、人気の無い高台に取り残された。
それが何を意味するのか、男には全くわかっていなかったのだろうか。
「あたしは誘惑に勝てなかった」
遥は両の掌を見つめ、吐息を落とした。
「あの子はあたしの言うことなら何でも聞いた」
もう一度柵に登らせるなんて、訳がなかった。見ててあげるからと微笑めば、自分を慕う少女はすぐさま同じことをした。向けられた小さな背中は、まるで無垢な天使のようだった。
「誘惑に勝てなかった。勝てなくて――その背中をおもいきり押したんだわ」
僕を通り過ぎて眺める情景は、過去のものか現在のものか、それは知りようもない。 たが、遥は遠い視線のまま、少しだけ微笑む。
ノートに書き散らかした彼女の落書きは、いつも同じものを描く。 稚拙なそれは、全く同じとは言えないにしても、だいたいのディティールは変わらない。小さな羽を広げた天使。 それが自分の妹だと、彼女はもう覚えていないに違いなかった。
「あの子は本当は天使だったのかもしれないわね」
少し伸びた爪先が、ノートの落書きをなぞる。 彼女は、後悔しているのだろうか。
いや、と頭を振った。 弧を描く唇が、全てを虚無に返す。 美しいばかりの少女は、今も夢の中を歩く。
僕は静かにレコーダーを停止した。 時間を刻むデジタルの表示が、同時にぴたりと止まる。今日幾度目かの息を落とす。 受けとめてくれるものは、やはり何もない気がした。
【END】
2010年04月17日(土)
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