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■ 鎖
花巖(かざり):カザリ。コウの兄の許婚である少女。 杠(ゆずりは):コウ。一族の人柱的存在である少年。
◇
「かざり、かざり。かざりってば」
柔らかく甘く頭の中に痺れわたるような声が、長く、そして真夜中のように暗い回廊に響いた。 磨きたてられた黒塗りの床と白壁。弱々しく揺らめく蝋燭の灯りが、この空間を不可思議なものに変えていた。
物音ひとつ、生き物の気配さえしない異質な場所。 母屋から長く続く渡り廊下を辿り、離れのまだ奥へと進んだ先に、この回廊は息づいている。
この場所は、一族の中でも限られた者しか入ることが出来ない。とはいえ、許可を得たとして誰も進んで足を踏み入れたいなど思うことはないだろう。 先には地下へと続くこれもまた長い階段があり、その先にある場所はこの家に身を宿すもの全てが忌み嫌い、そして畏怖するものを閉じ込めていた。
「かざり、ほら、はやく来て。きて? はやく来ないとさびしくてね、さびしくて、…死んじゃいそうだ」
ここまで届く心地良く甘い声。 全てを委ね、放棄してしまいたくなるような。 おそらくコウは座敷から抜け出して階段の下まで来ているに違いない。
罪深い地獄の底から這い上がってくるような錯覚に、眩暈がした。 吹き抜ける風は、深淵の向こうから吹いてくるのだ。
「死んじゃいそうだ」
二度目の声は、本当にそうなってしまうのではないか、とでもいうような弱々しさが宿り、自然と胸の音が早くなる。
――そうなってしまえばよいのに。
頭を掠めたのは、わたしの本心だろうか。
コウがもしも命を落とせば。いなくなれば。葬られてしまえば。 わたしをおかしくするあのこえが、あのゆびが、あのからだが。この世から消え失せれば。 わたしは解放される。されるのに。
胸が早鐘のように打った。途端。
回廊に狂ったような笑い声が、こだました。
「コウ」
呼んだにしては弱々し過ぎたそれに返される声はなく、けたたましい笑い声 だけがわんわんと鼓膜に響いた。
「コウ」
急に不安になって、もう一度呼ぶ。階下が全く見えない階段の入り口から、さあっと黒い風が吹き、わたしの髪を煽った。
「かざりはね。おれが死ねば、うれしいんでしょう。おれがいなくなれば、終わると思ってるんでしょう、ぜんぶ。ね、思ってる」
笑い声に混じる声は酷く冷たくて、けれど嬉しそうで。額を拭えば、じとり、と濡れた汗が手についた。
「それなら、それならね、終わらせてあげようか。ぜんぶ、かざりの望むように。おれの大好きなかざりのために」
さして大きくもないコウの声が、一陣の風のように通り抜ける。ぎい、と階段の軋む音がして、わたしはもたげていた頭を起こした。いけない。上がって来てしまう。
もう何年も身の回りの世話をする女中たちですら、この階段を降りるのを恐れる。 彼女らは何もコウだけを恐れるのではない。 ずっと、もう長いことずっと今まで、コウのようなものを封じてきた、あの世とこの世の境い目のような、あの場所を恐れるのだ。
此処を降りてしまえば、二度と現世へと戻れぬような、そんな気がするのです。
いつだったか女中頭が、神妙な顔でわたしに告げた心情は、わからなくもないものだった。
着物の裾を翻して、足早に階段を降りる。左手に持った燭台に灯る炎がゆらめき、悪戯に頬を嬲る。熱い、と思う前に、明かりの中にコウが映りこんで、にい、と嗤った。
「かざり」
コウの白い手のひらが炎にかざされたかと思うと、包むようにゆっくりと閉じられ、唯一の明かりは消え失せた。
冷たい手が、わたしの首を這う。逃れようとすれば、長く伸びた爪が皮膚に食い込んだ。 このまま深く深く突き刺されば、わたしの命など奪うことは容易いだろう。 コウは、コウにとっては、ひとの命など畳に積もる埃同然で、なんの価値もない。
「かざり」
コウが呟く。不機嫌でもなく、上機嫌でもなく。ただ淡々と。幼かった昔のように、わたしの名を呼んだ。
「あいしてる」
愛など知るはずもない男の吐息に、目を閉じる。くくく、と我慢し切れなかったように、コウが嗤う。甘さを含むその声は、わたしの苦しめることしかないがんじがらめの鎖なのだ。
【END】
2009年06月07日(日)
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