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■ 苺ミルク
何がいい、と聞かれたから「カフェオレ買ってきて」と言って数分後手元に寄越されたのはキャラメルコーヒーだった。 何これ、こんな吐きそうなくらい甘いの飲める訳ないじゃないの。 こんなの、味覚と嗅覚がオカシイ人が飲み物だ。 あたしは不機嫌な顔をしたまま義正を見返しても、犬はもうこちらを見ていなかった。
「いらない」
パッケージを一通り眺めた後、カフェオレがイイの、と突き返す。
「カフェオレだって同じような物だろ」 「いやだってば」 「じゃあ自分で買ってこいよ」
そう言い放ち、さっさと床に座り込み自分の為に買って来たらしいイチゴミルクのパックにストローを差し込んで、義正は背を向け手にしていた新聞を広げた。 珈琲や紅茶などの刺激物は一切受け付けないらしくて、いつも甘ったるい物ばかり好んで飲んでる。 女の子みたいな顔をして、声して、けれどあたしとは違う身体を持ってて。 アンバランスで出来たような犬は、今日もイチゴミルクをおいしそうに飲む。
年取って大人になったらさ、太るんだよ、きっと。そんな犬なんか恥ずかしくて連れて歩けないって言ったら、犬は可笑しそうに笑って来るべき未来を吐き捨てた。
――ハタチまで生きるつもりなのか、アンタ。
じゃあタイムリットは最長で五年なんだ。思い付いたまま呟いた台詞に片眉を上げて答えてから、視線が下ろされた。
広げた経済新聞が床を占拠する。椅子やソファに座らないのは、慣れてないせいだって知ってる。 そっと後ろから覗き込んで読んでみるけど、小さい文字が、ぞっとするくらい細かく並んでいて五秒で諦めた。
「面白い事でも書いてるの、それ」
あまりにも熱心に読む様子に、横から口を出した。
「んー…」
聞いているのか聞いていないのか判別しかねる返事に、会話することを諦めた。 別に、そう、こいつは基本的にお喋りじゃないし、そういう相手には向かないんだよね。
おじさんはとても話が上手だった。 嘘か本当かわからないような話をいくつも知っていて、夜ごとに聞かせてくれた。 ――あぁ、やだな、思い出に浸るなんて年寄りみたいじゃないか。
不透明のガラスが不規則なリズムで叩かれる。それに釣られるようにして、顔を向けた。 雨だ。 すぐにそれは強くなって、隙もないくらい窓を叩き続ける。
手の中にあるキャラメルコーヒーをじっと見る。 買いになんて、なおさら行きたくなくなって、ベッドに倒れ込む。 スプリングが派手な音を立てて揺れた。
雨足が強くなる。 雨の音ってどうして眠くなるんだろ、水の音だからだろうか。 水のせせらぎは安らぐんだって聞いた、嘘か本当かは知らないけど。 でも雨の匂いは安らがない。 この匂いに混じって入り込むものは、あまり良いものじゃないことを知ってるから。 もう動かなくなったおじさんを見つけたのも、こんな暗い日で。 そういえば、義正に出会ったのもあの日だった。
「また寝んの」
目を閉じてうとうととするあたしの足元から、手が伸びた気配がした。
「眠いの」
枕に顔を擦り付けるのは、昔からの癖。 子供染みているとしても、何かに擦り寄れば安心を得れた。 伸ばされた手は、あたしの手の中にあったキャラメルコーヒーをさらっては消えて。 まるで波のよう。 急に手の中が淋しく感じて、枕をもっと近く引き寄せた。 ゆっくりと瞼を閉じて、腕の中の柔らかいそれを強く強く抱いた。
ふわふわする。
義正があたしのそばにいるようになって、初めて本当に『眠る』事を知った。 犬は犬なりに役に立つ。 おじさんは変な人だったけれど、最後に良い物をくれたって感謝だってしてるくらい。 そんな事をおぼろげに考えながら、意識が吸い込まれていくのが止めようもなくって、そのまま眠りに落ちる。 意識はどろどろとして、ちっとも心地良くはなかったけれど、それでもあたしは素直に欲求に従った。
ふと、目を開ける。 どれくらい経ったんだろ、雨の音はもうしなくて部屋の中は静かだった。
静かだけど一人じゃないのは分かってる。孤独さ独特の、ぴんと張り詰めた空気じゃないから。
「あ」
白いシーツの上、頭のすぐ横に、カフェオレのパックが無造作に置いてあるのを見つけて、今度はそれを抱いてまた目を閉じる。
「まだ寝んの」
不満そうな声と指先が、あたしを撫でる。
「…うるさい」
眠い、眠い、そればかりが頭の中で繰り返される。 義正の声は遠い所で聞こえて、それは手の届きようもない場所に感じる。
交差する安らぎと焦躁。
大人になれないあたし達。 いつか離れてしまう、つかの間の犬。 いつかどこかで死んでいく、今だけの犬。 おじさんみたいにうまく見つけられたら、土の底に埋めてあげる。 それとも海がいい?
あたし達は海から生まれたんだって言うから、そっちのほうがいいかもしれない。生まれた場所に還る、なんてロマンチックだ。
こいつがいなくなったら、時々思い出したように浅い眠りだけをとって、イチゴミルクなんて見ることもなくなって、あたしは迷う事なくカフェオレを手に取るんだろう。 それは淋しい事じゃなくて、すごく当たり前の遠くない未来。
「オヤスミ」
そしていつか。さよなら。って言う日がくる。
【END】
2008年08月28日(木)
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