蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 苺ミルク

何がいい、と聞かれたから「カフェオレ買ってきて」と言って数分後手元に寄越されたのはキャラメルコーヒーだった。
何これ、こんな吐きそうなくらい甘いの飲める訳ないじゃないの。
こんなの、味覚と嗅覚がオカシイ人が飲み物だ。
あたしは不機嫌な顔をしたまま義正を見返しても、犬はもうこちらを見ていなかった。

「いらない」

パッケージを一通り眺めた後、カフェオレがイイの、と突き返す。

「カフェオレだって同じような物だろ」
「いやだってば」
「じゃあ自分で買ってこいよ」

そう言い放ち、さっさと床に座り込み自分の為に買って来たらしいイチゴミルクのパックにストローを差し込んで、義正は背を向け手にしていた新聞を広げた。
珈琲や紅茶などの刺激物は一切受け付けないらしくて、いつも甘ったるい物ばかり好んで飲んでる。
女の子みたいな顔をして、声して、けれどあたしとは違う身体を持ってて。
アンバランスで出来たような犬は、今日もイチゴミルクをおいしそうに飲む。

年取って大人になったらさ、太るんだよ、きっと。そんな犬なんか恥ずかしくて連れて歩けないって言ったら、犬は可笑しそうに笑って来るべき未来を吐き捨てた。

――ハタチまで生きるつもりなのか、アンタ。

じゃあタイムリットは最長で五年なんだ。思い付いたまま呟いた台詞に片眉を上げて答えてから、視線が下ろされた。

広げた経済新聞が床を占拠する。椅子やソファに座らないのは、慣れてないせいだって知ってる。
そっと後ろから覗き込んで読んでみるけど、小さい文字が、ぞっとするくらい細かく並んでいて五秒で諦めた。

「面白い事でも書いてるの、それ」

あまりにも熱心に読む様子に、横から口を出した。

「んー…」

聞いているのか聞いていないのか判別しかねる返事に、会話することを諦めた。
別に、そう、こいつは基本的にお喋りじゃないし、そういう相手には向かないんだよね。

おじさんはとても話が上手だった。
嘘か本当かわからないような話をいくつも知っていて、夜ごとに聞かせてくれた。
――あぁ、やだな、思い出に浸るなんて年寄りみたいじゃないか。

不透明のガラスが不規則なリズムで叩かれる。それに釣られるようにして、顔を向けた。
雨だ。
すぐにそれは強くなって、隙もないくらい窓を叩き続ける。

手の中にあるキャラメルコーヒーをじっと見る。
買いになんて、なおさら行きたくなくなって、ベッドに倒れ込む。
スプリングが派手な音を立てて揺れた。

雨足が強くなる。
雨の音ってどうして眠くなるんだろ、水の音だからだろうか。
水のせせらぎは安らぐんだって聞いた、嘘か本当かは知らないけど。
でも雨の匂いは安らがない。
この匂いに混じって入り込むものは、あまり良いものじゃないことを知ってるから。
もう動かなくなったおじさんを見つけたのも、こんな暗い日で。
そういえば、義正に出会ったのもあの日だった。

「また寝んの」

目を閉じてうとうととするあたしの足元から、手が伸びた気配がした。

「眠いの」

枕に顔を擦り付けるのは、昔からの癖。
子供染みているとしても、何かに擦り寄れば安心を得れた。
伸ばされた手は、あたしの手の中にあったキャラメルコーヒーをさらっては消えて。
まるで波のよう。
急に手の中が淋しく感じて、枕をもっと近く引き寄せた。
ゆっくりと瞼を閉じて、腕の中の柔らかいそれを強く強く抱いた。

ふわふわする。

義正があたしのそばにいるようになって、初めて本当に『眠る』事を知った。
犬は犬なりに役に立つ。
おじさんは変な人だったけれど、最後に良い物をくれたって感謝だってしてるくらい。
そんな事をおぼろげに考えながら、意識が吸い込まれていくのが止めようもなくって、そのまま眠りに落ちる。
意識はどろどろとして、ちっとも心地良くはなかったけれど、それでもあたしは素直に欲求に従った。



ふと、目を開ける。
どれくらい経ったんだろ、雨の音はもうしなくて部屋の中は静かだった。

静かだけど一人じゃないのは分かってる。孤独さ独特の、ぴんと張り詰めた空気じゃないから。

「あ」

白いシーツの上、頭のすぐ横に、カフェオレのパックが無造作に置いてあるのを見つけて、今度はそれを抱いてまた目を閉じる。

「まだ寝んの」

不満そうな声と指先が、あたしを撫でる。

「…うるさい」

眠い、眠い、そればかりが頭の中で繰り返される。
義正の声は遠い所で聞こえて、それは手の届きようもない場所に感じる。

交差する安らぎと焦躁。

大人になれないあたし達。
いつか離れてしまう、つかの間の犬。
いつかどこかで死んでいく、今だけの犬。
おじさんみたいにうまく見つけられたら、土の底に埋めてあげる。
それとも海がいい?

あたし達は海から生まれたんだって言うから、そっちのほうがいいかもしれない。生まれた場所に還る、なんてロマンチックだ。

こいつがいなくなったら、時々思い出したように浅い眠りだけをとって、イチゴミルクなんて見ることもなくなって、あたしは迷う事なくカフェオレを手に取るんだろう。
それは淋しい事じゃなくて、すごく当たり前の遠くない未来。

「オヤスミ」

そしていつか。さよなら。って言う日がくる。

【END】

2008年08月28日(木)



 Image

『ねぇ』

彼はいつも俺を呼ぶ時、そう言った。
もしかしたら他の誰を呼ぶ時もそう言っていたのかもしれないが、残念ながら彼が誰かに呼び掛ける場面に遭遇した事がなかったせいでそれは今も判明しないままだ。

『こっち、おいで』

柔らかい声、細められる目、弧を描く唇。
俺には名前が無い。
だから彼も、俺を名前で呼ぶ事をしない。また、付ける事も無かった。
ゴミ溜めの中で生まれた俺に、そんなものが付けられる価値なんて有りもしない事は十分理解していたし、必要だとも思わなかった。

『コーヒー飲む?』
『苺ミルクがイイ』

以前、彼が戯れに飲ませてくれた飲み物を告げる。

『ああ、あれね』

子供みたい破顔して、小さな冷蔵庫を開く。彼の掌が触れるだけで、変哲もない古びた冷蔵庫が、価値の有る物のように思えるから不思議だった。
カウンターに置かれた透明の大きなコップに注がれる薄桃色の液体。
長い指が俺の髪を梳いて、頬を撫でた。
全部飲み干せない内に、満腹になる。
優しいようで残酷な行為。甘美を知れば、乾きが酷くなるだけという事がわかっていて、彼は俺を甘やかす。

『ねぇ』

顔を上げた途端、頬に落ちる唇。
こんな事をされるのは好きじゃない、でも彼だから許した。

『行ってくるね』

作り込んだ柔和な笑み、誠実そうに見せかけた瞳。その首に締められた、紺色のネクタイ。
爽やかな好青年を演じて、あんたは今から誰を殺しに行くんだろう。

『もしもね』

じゃあまた、と別れを告げて振り掛けた手は、その台詞に阻まれた。俺と違って低く心地良い声が、浸透するように身体の中に入り込んで。
目線を合わせるように、背の高い彼は少し屈み込む。

『僕がいなくなったらね』

少し留守にする間の水遣りを頼むように、眼鏡の奥の瞳は穏やかだった。

『あの子に会いに行ってあげて』

諭すように、言い聞かせるように。
でも俺は知ってる、これは本当のあんたじゃないって。
あんたはこんな、穏やかな人間なんかじゃないって。

『あの子?』

それでも、素知らぬ振りをする。そうする事が、彼との約束事で。俺自身の身を守るべき、切り札だった。

『暗いところが大嫌いなんだって』

慈しむような柔らかい微笑を向けて、静かに語りかける。だからお願いだよ、と。

『何言ってんのか分からない』

何処を見てるのか分からない。
何を考えているのか分からない。

『僕が髪を撫でると喜ぶんだ』

遠くを見るようにして、掌をひらひらとさせる彼はとても楽しそうで。作り物の笑顔とは、少し違う色合いに、違和感を感じた。
撫でる、という仕草を再現しているつもりなのかもしれないその手は、代わりに俺の頭を撫でた。

『可愛いよ』

遠くを見る瞳には、何も映っていなくて。俺も映ってはいなくて。
唇が綻ぶ様は、幼くも見えた。
それは一瞬後には、消え失せてしまったものの、その時になって漸くあれは彼の素顔なんじゃないかと思った。
目の前の瞳は、もう俺を映していて、あのあどけない笑みはいつもの顔に戻っていた。
硝子玉みたいに、きらきらとした目に張り付く嘘みたいな笑顔。
そう。嘘みたいな微笑。

『じゃあね』

最後の。声。そうだ、あれが。生きている彼を見た、最後だった。



ほんの少しだけ。
布団が向こうに引かれる感触に、目が覚めた。
狭いベットの中、薄い一枚の布団に二人で包まり、毎夜を過ごした。
慣れるも慣れないも、俺はあるがままの現実を受け止めるだけ。
小さな身体を丸めて、隣で寝る女。少女趣味の極みのように――実際少女というべき年齢ではあるが――長い髪が、肌に触れる距離。寝息はしない。
だが、眠っている事は分かってる。
そっと覗き込めば、幼さを残す口元が目に入った。いつもは偉そうな言葉しか紡がない唇は、いまは閉じられていてその片鱗さえ感じさせない。
日頃、俺を犬だと吐き捨てる傲慢さは鳴りを潜めて、年相応のあどけなさに包まれていた。
俺とそう年は変わらない筈だった。
気まぐれに合わせる事もある素肌がやけに白くて、腕に浮かぶ傷痕が際立って扇情的だった。

「んー…」

無造作な寝返り。更に狭まる距離。
跳ね付けるような動作に、追いやられる。ただでさえ狭いベッドの上なんだ、あんまり寄るなよ。
それが伝わったのかどうかは知らないが、閉じたきりだった瞳がぱちりと開いた。

「…何よ」

その台詞は口癖らしい。
日に何度も聞かされる内に本来持つ意味はなくなり、まるで呼び掛けのようになった。

「こっちの台詞だっての。こんな狭いのに寄ってくるなよ」

緩い波を描く長い髪の合間から、猫みたいな大きい瞳がこちらを睨む。
酷い寝癖。乾かさずに眠るからだ。それを気にする風もない。

「あんたが床で寝たらいーじゃん、ここはあたしの部屋だもん」

せっかく一緒に寝かせてやってんのに、なんてつく悪態を無視して立ち上がる。
聞いていてもキリもなく、利益もない。
寝る場所なんて何処でもイイ、屋根があったら満足だし、なくても構わない。
寒さと飢えに耐えて、泥水を啜る。そんな生活しかした事が、ない。
それしか知らなければ、そんな生活が辛いのだとはわからなかった筈なのに。

小さなキッチンに立ち、水道の蛇口を捻る。そうすれば水が出る事が保証されている事が、奇跡のようだ。
細く静かに流れ落ちる水が、外から入り込む弱い電灯にきらきらと煌いた。
唇を寄せて、僅かに喉を上下させた。生温く黴臭いだけのそれは、それでも喉を潤していく。
黴臭い、なんて、傲慢な台詞が思い浮かぶようになったものだ。
こほ、と咳を一つ。手掌にそれを逃がしてから、シャツを肩に引っ掛けて靴を履いて。

頭を振った。

「…、なんだよ」

背中越しに感じる空気は、動こうとしない。
寝息はしない、それでも眠ってしまったのが分かった。
言うだけ言ってしまえば、気が済んだらしい。
軽い舌打ち。
あんたが眠ってしまったら、出掛けられないじゃないか。
番犬の役目を享受したくはないが、まともな生活を一度知ってしまえば、それから抜け出す事は困難に思えた。
履いたばかりの靴を脱いで、中央に置かれたベッドに足音を殺して歩み寄った。
脇の床に腰を下ろし、シーツの上に頭を乗せる。

眠気が誘われる、穏やかさ。
けれど瞼は閉じれない。
浮かぶ映像は、いつだって同じ。

『ねぇ』

長身のシルエット。欺瞞の優しさ。

『こっちおいで』

ただ、髪にあてがった指を下に降ろすというだけの動作。
柔和な笑み、瞳の中に浮かぶ自己愛。
いつだって彼は同じ表情で、俺に触れる。
形を失ってしまった、今でさえも。
かちかちと、時を刻む秒針の音を意味も無く数えた。
暗闇とまどろみとの合間で、二人分の鼓動が聞こえるような気がした。
正確な間隔で秒針が一分の音を刻んだ時、不意に後ろへ髪を引っ張られた。

「ねぇ」

囁きのような呼び掛け。
一瞬でも動じたのは、不覚だったように思う。

「こっち来て」

髪に絡む細い指の感触に、何故か懐かしくなった。
思わず漏れる舌打ち。
あんたと彼は違う。
姿形も、年齢も、性別も、形成する何もかもが違う。
それなのに同じような言葉を、同じようなタイミングで紡ぐ偶然に揺れてしまいそうになる。

「義正」

彼の名前で俺を呼ぶ高い声に、振り返る。
そこにあるのは柔和な笑みとは程遠い、傲慢な少女の顔。
鼻孔を擽る花のような香り。
それが今の俺の現実なんだと、今更のようにそう思った。

「彼」は確かにまだここに在る。
俺とこの女を繋ぐ、限りなく薄く細い糸として。

【END】

2008年08月27日(水)



 一秒後は未来

走り出した列車の窓に映る顔は冴えなくて、今にも泣きそうだった。
唇を噛んだって、何の効果もなくて、私は本格的に泣き出してしまった。

別れを告げた私に背を向けた悠斗の傍では、私の親友と楽しそうに笑ってる。
伏せた視界にはそんな想像しか浮かばない。
随分と前から取ってあったチケットを破り捨てる気にもキャンセルする気にもならなくて、結局小さなバッグ一つ持って乗り込んだ車内は、時期はずれのせいか発車駅の為か、とても静かだった。
人目がない事が、私の涙腺を更に緩ませる。
失恋旅行なんて、惨め過ぎる。

私と、悠斗と、鈴香。
高校から同じ大学に入った私達は、とても仲が良くて。
何でも話し合えた。何でも相談できた。
だからすぐに、分かった。
悠人が、誰を気にしているのか。鈴香が、誰を想っているのか。
好きな人が誰を大事に思っているのかなんて、わかりすぎるくらい、わかってしまって。

『あたし、悠斗の事、好きなんだよね』

あの時、遅れて行った鈴香の部屋の玄関で、私は心臓が止まる思いがした。
細く開いた引き戸から漏れる光景の中の悠斗は、とても困っているようには見えなかった。
わかってた。わかってる。邪魔なのは、私。
だから、別れを告げた。

区切られた四人がけの座席に腰を下ろし、ハンカチを取り出して目元を拭う。
白い生地に染み込むマスカラの黒が、さらに惨めな気持ちにさせて。
こんな想い、早く消えてしまえばいい。
デリートキーを切望して止まないまま、窓の外に景色が流れる速度は徐々に速まっていった。

向こうに着いたら、まっすぐ目指す場所は決めていた。
もう一度、悠斗と来る筈だったあの場所で、去年行ったあの場所で、この想いに別れを告げなくちゃいけない。
消さなくちゃいけない。
じゃないと。
――壊れてしまう。
だって、こんなに好きだと体中の細胞が、血液が、鼓動が叫んでる。
まだ、こんなに。
半年経っても、少しも薄まらない想いは、私の中を醜く焦がして。
顔を伏せてハンカチで覆う視界の黒。
小刻みな揺れと共に、リズムを奏でる走行音。
眠ってしまいそうな穏やかさ。
でも眠れる筈がない。
この半年間、ろくに眠れずに泣いてばかりの私。

『別れよう。もう、無理だよ』

笑ってそう告げた私の顔を、苦しそうに見つめた悠斗の顔が忘れられない。
何も言わないでと叫んだのは私だった。
何も言わずに背を向けたのは、悠斗だった。
手を繋ぎあった幸せは、たったそれだけで終わった。

あれから、半年。

二年通った大学を辞めるのに、躊躇は全く無かった。
だって、二人にどんな顔をして会えばいい?
二人が幸せそうに寄り添う姿なんて、見たい筈も無い。
耐えられる筈も、無い。

列車はカーブに差し掛かり、浅く腰掛けていただけの私は、軽く横によろめいた。
頭の中がずきずきするのは、喉が締め付けられるみたいに苦しいのは、涙が止まらないせいで。
ぎゅう、とハンカチを握り締める。
一秒。たったそれだけの時間でさえ、この苦しさは消えない。忘れられない。

自分から離れたくせに。

一秒でいいの。
悠斗の事が頭の中から消えればいい。
心の中で、いち、と数えるのと同時に、車両を繋ぐスライド式のドアが開けられる音がした。
人が歩いて来る気配に、誰かが入って来た事を聴覚だけで知る。
人気のない車内で、靴底のゴムがきゅっきゅと鳴るのが、自分の泣き声に混じって耳に届いた。

その足音はゆっくりとこちらに近付いて来て、この座席の通路でぴたりと止まる。
私の、すぐ横で。
誰もいないのに、席はがらがらなのに、こんなところで止まらないでよ。
鳴咽をしゃくり上げながら、さらに深くハンカチに顔を埋めた。
横に立った人の気配。あぁそうか、私が泣いてるから。見てるんだ、この人。
車掌さんかもしれない。

観光地でもない静かな地を目指す列車に乗る女が一人で泣いていれば、不審がられても仕方ないのかもしれないけど。
何かするんじゃないかって思われてるのかもしれないけど。
あっち行ってよ、そう言ってやりたかったけど、泣き腫らしたこんな顔を上げることも出来ない。

気配は、ちっとも去らなくて妙に私は焦燥した。
そう言えば、靴音はスニーカーのようだった。
思えば車掌がそんな靴を履いている訳がない。
列車はただただ進行方向へと車輪を回し、時折身体を揺らした。
若い女が車輌に一人いる、という現実を、ようやく飲み込むと同時に、急に怖くなって。


「美咲…?」

不意に名前が呼ばれて肩が震えたのは、人のいる所へ行かなければ、と思いハンカチから顔を上げた時だった。

すぐにそちらは向けなかった。
酷い顔を見られたくない事もあったけれど、その声にあまりにも聞き覚えがあったせいで。

「ゆう、と?」

ぐちゃぐちゃになって情けないだけの顔を、通路に向ける。
息が、止まりそうになった。
いるはずの、ここにいるはずのない男。
別れを告げた私に、何も言わなかった男。
今頃、鈴香の部屋で、彼女と甘い睦言を交わしている筈の――恋人だった人で。

他人の空似かと一瞬疑ったところで、他人が私の名前を知る筈もなくて。
あぁやっぱり美咲だ、悠斗が心の底から安堵したように、もう一度私の名前を呼んだ。
労るような、独特の柔らかい響き。

「ずっと、探してたんだ。マンションも引き払ったって言うし、大学にも来ないから聞いたら辞めたって言われるし…」

もしかしたらって思ってここに来たんだけど、正解だった。やけに落ち着いた呟きが、耳に届いた。

「なん、なんで…ここに、いるの?」

呆然と目を見開いた私の表情が可笑しかったのか、悠斗は少しだけ、いつもそうしていたように優しく微笑してから、私の方に手を伸ばして、何かに気付いたように止めた。
私達はもう何の関係もないって事を、思い出したのだろう。もう友達にも戻れず、言葉を交わす事さえ不自然な、そういう事に。

「美咲に、謝りたくて」

この声が私の名前を呼んでくれるのが、好きだった。
感情をあまり表に出さない怜悧な目が、時々私を優しく見つめるのが好きだった。
筋肉質ではないけれど、引き締まったしなやかな腕が、強く抱き締めてくれるのが好きだった。

全部、全部好きだった。
頭がおかしくなるくらい、大好きだった。

自然に出る過去形。漏れた溜め息は、汚れてしまったハンカチにそっと落とした。
自分が下した決断の結果なのに。

「あ、…やまる?」
「うん、そう。だって俺は、」
「やめて」
「美咲?」

なのに、悠斗はその気持ちを現在へ留めようとする。
謝るためにこんな所まで来るなんて、悠斗は馬鹿だ。
いつだってそうだ。
優しくて、人を気遣って、無理をする。
無理をして、私から離れた心のまま、それでも微笑んでくれて。
心は鈴香にあるのに、彼女に惹かれているのに、私に別れを告げられなくて。

今だってそうだ。
謝りたくて?
ただそれだけの為に、こんな所まで私を追いかけて来る。
けれど。それが、どれだけ残酷な優しさなのか、悠斗は知っているのだろうか。

「何を謝るって言うの? 私から別れようって言った事? あれは私が…私が、そうしたくて、言っただけだよ。悠斗は……悠斗に謝って貰う事なんて、何もない」

泣き腫らした目で言ったところで、何の説得力もない事は私自身がよくわかってる。
滑稽だとは知っていたけれど、私が私を保つ為には虚勢を張るくらいしか取れる態度はなくて。
笑ってしまおうとしたのに、開いた唇は震えて情けない声しか出さなくて慌てて噛み締める。
痛みより激しく打ち鳴る鼓動が、気になって仕方なかった。
どうかお願い。悠斗にこの音が聞こえませんように。

会いに来てくれた事は、純粋に嬉しかった。
こんな小さな旅行を覚えていてくれた事も、嬉しかった。
何度も声が聞きたいと思ったし、何度も会いたいと思ってた。
だからこれが悠斗のけじめに過ぎなくても、会えて嬉しい筈だった。

でもこうやって実際に会えば、私に心がない悠斗に会ってみれば、二度と会えないよりもずっと残酷だと知った。
胸の中を開く事が出来たら、私のそこは真っ黒焦げに、煤が飛び散る炭だらけなっているに違いない。

視線を床に落とせば、悠斗のスニーカーが目に入る。
それはいつもお洒落な悠斗に似つかわしくない程に、薄汚れていた。

「美咲は、俺の事が好きじゃなくなったの?」

何気なく、とでもいうように、悠斗が聞いた。自分から離れたつもりは全くないとでも言うように。
落とされた台詞は刃になって、私の見事に心臓に突き刺さる。
その爪先が、きゅっと音を鳴らして、一歩ずつ私に近づく。
その度に、私の鼓動は弱くなる気がした。指先が、震える。
一斉に血が引いたように、感覚が鈍り、喉が凍ったように固まる。
好きじゃなくなった。
それは。その気持ちは。

「悠斗、じゃない」
「美咲?」

俯いたまま声を振り絞る私に、今度こそ悠斗の指が伸びた。

「触らないでっ」

誰もいなくて、良かった。
こんな醜い私を、誰にも見られたて良かった。
本当は、悠斗に一番見られたくなかったんだけど。
でも、もう最後だから、これで終わりだから。

「悠斗でしょ? 私から離れたのは、悠斗でしょ! …私より鈴香の事が、好きなくせに」

悠斗の瞳が逡巡するように揺れ動いて、あぁやっぱり、言っておきながら締め付けられる気持ちは耐えるには辛過ぎる。
継ぎ足すように何か言おうとした時、悠斗の顔から表情が消え失せた。
「知ってたんだ?」
抑揚のない声。冷たい色をした目。私の知らない、表情。とどめを刺された気がして、突き付けられた現実に息が止まる。
「――っ」
何か、言いたくて唇を動かした。だけど、それは音のない映像みたいに、ぱくぱくと開閉しただけだった。
「そうだよ、俺は鈴香が好きだ。好きで好きで仕方がないくらい、好きだ。美咲となんかより、ずっと」

淡々と告げる内容は最後通告に聞こえた。何処か苛立ちさえ感じるのは、今まで我慢してたから?
言いたくても言えなかった気持ちを告げる事を、やっと許されたから?
――心臓が、冷えていく。
す、と細くなる悠斗の目。私を見つめるのに、嬉しさはもう何処にも見当たらなかった。
涙が溢れ、頬を伝う。もう化粧なんて跡形もなく崩れ落ちて、酷い有様に違いなかった。けれど、ハンカチで拭い去る事も出来ずにただ悠斗を見上げて。
耐え切れなくて、両腕で顔を覆い隠して子供みたいに泣きじゃくった。
私――私は、まだ。

「そう言えば、美咲は満足?」

吸い込んだ空気が、ひゅっと喉で鳴った。

「俺が一番好きなのは、大事なのは鈴香だって言えば、満足してくれるの? 帰って来てくれるの?」

そんな訳無い。悠斗が認める度に、心の中がズタズタに裂かれていくのに。
涙が溢れていくのに。聞きたくなんてある筈がない。
「美咲」
「だって、」
だって悠人は。
「そうだね。俺も鈴香は好きだよ」
「や…っ」
手首を掴み上げる腕は、まるで悠人じゃないみたいで、怖いと思った。
「でも、そういう意味で好きなんじゃない」
顔から腕が無理矢理剥がされたせいで、間近で悠斗と目が合う。
だって、私は聞いた。
「でも鈴香は冗談じゃなかった。何度も、俺を好きだって言った。美咲が俺を想うより、好きだって」
「…っ」
搾り出すようにぶつけて、悠斗は私を睨むようにして見下ろした。
「美咲は、俺の事、好きじゃなくなったの?」
さっき言った台詞を、もう一度繰り返す悠斗は、怒っているようにも泣いているようにも見えて。
「ゆう、と」
腕を掴む力が強くなる。
「どうして美咲は俺を信じてくれないの。どうして、俺が鈴香を好きだって思うの。どうして、勝手にいなくなるんだ」
締め付けられる痛みに、突き付けられる言葉の重さに、目を閉じた。
これは現実なのだろうか。泣き疲れて見た都合の良い夢のようで、どうしても信じられなかった。
たった一秒。
目を開けたら、もう悠斗はいないかもしれない。それが、きっと私の現実。
なのに、小さく声に出して数えて目を開けても、悠斗は消えていなくて。

「ゆう…」

あれだけ流した涙は、まだ頬を流れ落ちる。私の体のどこに、こんなに水があるんだろう。
頭の中がずきずきするのは、喉が締め付けられるみたいに苦しいのは、涙が止まらないせいで。
ぎゅう、とハンカチを握り締める。
一秒。たったそれだけの時間が、私の中の涙の意味を変えていく。

「美咲しか、いらないんだよ」

座席の背もたれに押さえ付け、悠斗が私の唇を塞いだ。

【END】

2008年08月25日(月)



 三浦くん

俺とあいつが昼休みを屋上で過ごすようになったのは、たぶん中学生になって卒業する先輩から鍵を譲り受けたぐらいだと思う。
思えばたぶん先輩は俺じゃなくて、あいつに鍵をやりたかったんだろうけど渡せなかったに違いない。
二学年上の目立つ頭の色したショートカットの美人、それがその先輩だった。明るくてやたらと饒舌で、男みたいにさばさばした性格だったけど、さすがに別れた年下の男相手に代々受け継ぐとかいう鍵を渡せるくらいにはまだ立ち直れてなかったんだろうと思う。
たった一つの歳が俺達には断崖みたいに溝がでっかくて、だからこそプライドは守らなきゃならない。
きっとそういうことだ、と勝手に解釈して。

無機質なスチール扉の向こうは、別世界みたいに広い空が広がっている。
どうしようもないくらいあっけらかんとしたそれに、いつもは見栄きって生きてる俺でも、一瞬顔が緩みかけた。
ガキん時に目的地もないくせに馬鹿みたいに外を走りまくった爽快感が、通り抜ける。そんな感じ。
目線を足元に落とせば、ところどころ灰色に朽ちたコンクリートと。

「先来てたのかよ」

先客は既にいた。
よく分からない分厚い本――ハードカバーとかいうらしい――を胸の上に乗せ、あいつは給水塔の影で寝ていた。
閉じた瞼は、ぴくりとも動かない。

「おい。無視すんな、起きろ」

投げ出した足を、軽く蹴る。

「起きろって」

二回目の蹴りで、初めて身じろぎした。

「……なに」
「何じゃねぇよ、」
「眠い」
「知るか」

あいつ――今井春日は、俺の台詞に少しだけ苦い顔をして起き上がった。
無愛想ではないが、いつもあまり表情がない。
なんとなく目を開けて、なんとなく息を吸い込んでる。聞いたわけじゃないけど、たぶんそんな風に思ってるはずだ。
なんて言うのか、よく言えば仕草の全部が自然体に見えるし、悪く言えば何も考えてなく見える。
クラスから浮いてはいないが、馴染んでもない。だけど女にはやたらと人気がある。顔が良いのは認める。こいつはそんな奴だった。

「スペアなんかいつ作ったんだよ、お前」
「んー?最近?」
「疑問形で聞くな。自分の事だろ」
「たぶんね」

受け答えになってない。
空を見上げてから、諦めて黙り込む。
答えを期待したわけじゃない俺は、そのまま手に持っていたコーヒー牛乳のパックを開けて、フェンスの方に歩いた。

俺と、こいつ。
特に仲が良くはない。
一緒に遊んだ事もないし、家さえ知らない。
唯一、席が前後してるっていうあるのかないのかはっきりしない、接点ぐらいしか思い付かない。
なのに何故か、こうやって屋上で一緒に過ごしていることを嫌なわけでもない。

誰かといて黙ることが普通という空間は、不思議と居心地がいい。
フェンスに顔を寄せて見たグラウンドでは次の時間の為か、数人の女子がハードルを出している。
学校指定とは言え、紺に赤のストライプが入ったジャージ姿は、お世辞にもイイとは言えない。

「あ、」

その中の一人を見て、E組なんだと気付く。

「宮村泉だ」

一人目立つ大人びた風貌は、遠目でも目立っていた。

「……呼び捨て禁止」
「は。何で」

独り言同然に口から出た台詞に、珍しく春日が食いついてきた。
興味ないことには、会話すら加わらないことは日常茶飯事だ。

「俺でも禁止されてるから」
「理由になんのか、それ」
「なるね」
「お前、何様?」
「んー…?何だろ、…俺様?」
「アホか」

呆れて振り返れば、今井はコンクリートに両手を広げて寝そべったまま、空を見ていた。いや、見てんのかどうかはわからないけど。
無防備なその様子に溜息を吐き、残ったコーヒー牛乳を飲む。
そういや、母親同士が姉妹だとか言ってたっけ。

「付き合ってるとか?」
「まだ」
「何だよ、まだって」

従姉妹なんかと付き合えば、別れた後も大変そうだしな。って、こいつがンな事気にする質かよ。
もう一口飲んで、再びグラウンドを見下ろす。
顔はまあ、いいと思う。
可愛いってタイプじゃないけど、綺麗だし悪くない。ちょっときつそうに見えるのは、猫みたいな目のせいか、気質のせいかは知らねぇけど。

だけど俺的にあの性格は頂けない。と言うより有り得ない。

無駄に正義感が強くて口の悪い女は、幾ら顔が良かろうと絶対御免だ。
去年一緒のクラスになった時、戸口にたむろって俺らに開口一番「通路を占拠するな」とか言って背中を蹴って来たのはあの女だ。
そんな小さいこと根に持ってる訳じゃナイけど、思い出せばむかつくことには変わりない。
男みたいな――いやそれ以上か――物言いは、同性にはそれなりに受け入れているらしいと聞くから驚きだが。

「つか、あいつ、お前と似てるよな。顔とか」
「そりゃ親戚だし」
「仲良いの?」
「朝起こしに来てもらうくらいには」
「…自力で起きろよ」
「起きれたらしてないと思う」
「……」

そりゃそうだ、と変に納得した。
だいたい親戚と言う時点で、こいつも宮村も変わってる、という共通点はあるわけだ。
フェンス越しに見えるグラウンドで、賑やかな笑い声が起きる。
笑い顔も綺麗だとは思う。うん、だけどやっぱり中身がアレじゃな。

「そういやさ、最近、彼女見かけねぇじゃん。喧嘩でもしたのかよ」

他校の制服を来た子と一緒にいるのを、夏前に何度か見た。髪の長い、可愛らしい顔立ちで、こういうのがタイプなのかと思ったことがある。

「別れた」
「お前続かないよなぁ、飽き性?」
「違う、と思うけど。面倒臭くなるんだよね、急に。会う約束とかされると最初はいいんだけど、段々面倒にならない?」

未だ寝転がったまま、今井はそう答えた。
予鈴が鳴る。

「相手によるんじゃねぇの」

響き渡るその音に、俺の声は相手に聞こえなかったらしい。
ゆっくりと起き上がった今井が、僅かに首を傾けてから曖昧に頷いた。

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2008年08月21日(木)
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