蜂蜜ロジック。
七瀬愁



 交差③(終)

運転席のドアにもたれ掛かり、火を付ける。
囲った掌の中で灯る橙の火が、思いのほか強くなった風に揺らめいた。
怒ってる? そう問うた時に、泉は随分と幼い表情を浮かべていたのをオレンジ色の火の中に思い出した。
金銭的な面で言っても人手の面で言っても、将来を約束出来る言い難いその決断に、苦渋を見せられても――勿論失敗する気なんて欠片も無いが――仕方ないとは思ってた。
だが目を逸らした泉には、そういったシビアな現実面を危惧した様子は微塵もなく。
遊びに混ぜてもらえなかった時のように、細めた目。打算の働かない無垢さ。まさにそんな感じ。

最初に相談しなかったのには、それなりの理由はある事にはある。

そんな中で連絡も無しに今夜帰ってこなかったのは、少し予想外で、少し当てが外れた。

灰にしたそれを先程空にした缶にねじ込み、自動販売機脇にあったダストボックスに放り込んで、車に乗り込む。
煙草一本五分、プラス熱いコーヒー缶を飲み干すまで。
それを勘定して告げた時間は然程ずれ込む事無く目的地へと着いて、苦笑いを浮かべて待っていた泉の美容院で働く彼に手を上げて出来るだけ愛想良く笑い返した。



「泉ちゃん」

返事は無くてただ無言が返されて、妙な心地だった。泉が黙り込む時は喜怒哀楽で言えば『恕』で満たされている事が圧倒的に多いのに、今はそれに当てはまりそうもない。
助手席に乗り込んだ泉の頬はほんの少しだけ上気していて、今の状況にあまりそぐわないそれに僅かな欲を掻きたてられる。
無言なのは怒りのせいではなく明らかな後悔を含んでいて、俺はどうしても緩んでしまう口元を隠すのに精一杯になってしまう。
何をしたって何を言ったって愛らしいとしか映らないのは、自分でも溺れきっているとしか言いようがない。

いつもの強気は影を潜めきって、こちらの様子を伺うような泉なんて、初めて見るかもしれない。
けれど、そんな事を口に出せばそれこそ怒りを買うのは目に見えた愚行だ。

浮ついた感情を出来るだけ表面に出さないように抑え込んで、ちらりと横目で見れば、同じようなタイミングで目が合った。

「ねえ、まだ怒ってるの?」

わかっていてそう覗き込めば、細い指が額を押さえてそれから頭がゆるゆると左右に振られた。
そう言えば、昨夜もそうやって否定していたか。「…怒ってなんか、ない」少々短気なところはあるにしても、自分が悪いと思えばすぐに軌道修正出来る素直さ。
「ごめん、」

ある種の羨ましい。
母親同士が双子だった事を思えば、同じような育てられ方をしている筈なのに、どうしてこうも性格面で差異があるのか。

「ごめんね」

繰り返される謝辞を遮るように、キーを回す。

「……俺ね、泉ちゃんの事大好きなんだよね」

ほとんど身体に感じられないエンジンの振動の中、アクセルを緩く踏んだ。

「…は?」

泉が顔を上げたのが、横目に見える。何を唐突に、とでも言いたそうな空気が手に取るようにわかって。

「ごめんね、最初に言わなくて。夫婦なんだから一番最初に相談しなきゃならないのはわかってたんだけど。でもね俺、泉ちゃんの邪魔とか、したくなかったんだよね」

邪魔なんて。助手席から囁くような呟き。
俺に連絡をくれた彼は、通りに目をやっても既に姿が見えなかった。送って行く、と言えば「や、疲れたんで」と返されそれ以上は何も言わなかった。
俺の性質をある程度知っているらしい彼は、口先だけの社交性に乗ってくる真似はしない。人を見る目、という意味であれば彼はとても優秀な部類の人間に違いなかった。

「はっきり形にもならない内に口にするなんて、格好悪くて出来ないじゃない、プロポーズと同じでさ。実行出来ない内は、言えない」
「…そ…それとこれとは関係ないでしょ」
「同じだよ、俺にとってはね。だから、それは俺のプライドって事で許して欲しいんだけど」

俺の行きたいところへ行っても、ついて来てくれる?ずっと、そこで。

小さな溜め息。
もう、何なの、それ。
窓を下げて流し入れた夜風は、泉の返事をところどころ遮って消してゆく。
伸ばした左手に触れる、泉の右手。握りこんだ指先の皮膚は固くて、お世辞にも心地良いとは言えない。それでもこうして手を伸ばしたいと思うのは、いつも泉だけ。
返事なんて、最初から必要無い。
そこにいてくれさえしたら、それで。

【END】

2008年09月08日(月)



 交差②

side 泉


「独立?」

驚いて問い返せば、春日はいつものように薄く笑って頷いた。

「独立、するって?」

もう一度その言葉を繰り返したのは、尋ねたと言うよりもあたし自身に言い聞かせたと言ったほうが正しい。それくらい唐突で、今言い出すなんて思ってもみない話で。

あのさぁ、なんて、バスタオルを頭から被ったままバスルームから出て来た春日が話しかけてきたのは、ほうれん草のキーマカレーを作り終えたところだった。

何の予期もしていなかったその内容に、首を傾げてしまったのはそのせいで。

スパイスの香りが漂う中、今日のメニューは何?なんて口にするほうが余程春日には似合っているのに。
それを砕け散らせるだけの力を持って、春日は伺うようにして何の反応も返さないあたしの目を覗き込んだ。

「…いつから?」
「え?あぁうん、来年には、って思ってるんだけど。ほら、年にも区切り良くない?」

フローリングを素足で歩く音が、あたしに近寄る。その顔をじっと見つめたまま、違う、と呟いて。

「いつからそんな事考えてたのって聞いた」
「いつからって」

ほんの少し、考え込むように逸らされる視線。

「急に思いついた訳じゃないでしょ」

換気扇が煩い。
コンロの上では、蓋をしたオレンジ色の鍋が一つ。
火を消してしまえば換気する理由は、一つもない。
でも消してしまうと嫌な静寂がやってくるのはわかりきっていて、止めようとは思わなかった。

きちんと身体を相手に向けて、外したエプロンを椅子の上に置き、シンクを背にした。

「一昨年くらいかな」

部長には前々から相談はしていたけどさ、と付け足された言葉に、自然と掌を握り締めて。
一昨年。あたしは、何していたっけ。

「…聞いてない」
「泉ちゃん?」

僅かに抑えてしまった声を訝しむように春日が手を伸ばして――あたしはその手を払い退けた。
怒ってるの、真っ直ぐとこちらを見据える問いに、首を左右に振る。

あたしだって馬鹿じゃない。考えなかったわけじゃないし、いつかはそんな話が出てくるとは思ってた。でもそれは、あくまで、いつか。

少なくともビジョンが出来上がった時点で打ち明けられると思ってたし、何の疑いもなく一番最初に聞かされると思ってた。

こんな行動を起こす一歩手前なんかじゃなくて。

だから、猶予はまだあるんだって、そう思ってたのに。

反対するだとか、しないだとか、そんな事を言いたい筈がないじゃないか。あたしが店をやりたいって言い出した時だって、あんたは反対なんてしなかった。
いいね楽しそうじゃない、なんて気楽に笑われて。だから、そんなのじゃなくて。

――どうしてもっと早く、言ってしてくれなかったの。

そう思ってしまうのは、我が儘?そんな事を願うのはおこがましいのだろうか。あたしは…頼りにならない?

そう思うと、何だかひどくやるせなくなって。

「違う。反対なんて、してない」

したい筈もないじゃない。洗い立てのまだ湿り気を帯びた前髪が無造作に額にかかって、やけに幼く見える相手の真っすぐな視線は、見ることが出来なくて。

「ご飯、食べよう」

そう言うのが精一杯だった。




ふらふらと歩く道路の上は、いつものように固くはなくてまるでスポンジみたいだった。
背後で杉本くんが時々何か話していて、でも何を言っているのかまでははっきりわからない。あたしに話し掛けている筈なのに、こちらまで届かない声。

帰りたくない。

今朝だって顔は合わせる事なく出て来た。だって、どんな顔をすればいい?子供染みた小さな不満は、夜が明けてもちっとも晴れる事がなくて。
今日だって春日に会えば――不必要な事を言ってしまいそうで。

春日がいつもあたしを甘やかすから、増長してしまっているんだ、きっと。

車道のくせに、車はまるで通る気配はない。くるりと振り返れば、どうやら電話していたらしい杉本くんと目が合って。困ったような呆れたような視線が、向けられる。

「二十分くらい」

何の事かわからなくて緩く首を振れば、杉本くんは眉根を寄せて「春さん迎えに来てくれるって」低くそう告げた。

正面から風が吹き抜けて。やけにひんやりしたその一陣のせいか、杉本くんが発した言葉のせいか。
急速に頭の中が醒めてクリアになって、妙な後悔が押し寄せた。

2008年09月05日(金)



 交差(春日×泉+篤史)①

視点が、交差してゆく、微妙な話。

**********

side.篤史


あれだ、あれがいけなかった。
もうやる事ありませんか、なんて律儀に聞いた俺が馬鹿だった。無い事は自明の理で、朝から泉さんの機嫌が悪かった事も重ねて考えれば、一声掛けて帰るくらいの勢いでも良かった筈なんだ。



ラストオーダーの時間になります。薄暗がりの中、バックミュージックと同じくらい低音の給仕が、テーブル脇に立って。適当なドリンクを二つ頼んだところで、煙草に火を付けた。

ゆっくりと煙を吐き出したのは、単に疲れただけだった。明日も仕事なんだよな、と思う以前にお互い飲み過ぎてる。休日前でもないのにと愚痴れば、煩いなと頭を叩かれて。

何だよ、全く。これじゃまるで世話係だ。
時計を見れば午前二時を少し回ったくらいで、時刻的な意味合いなら構わないと言えば構わない。どうせ綾は寝てるし――寝てろと連絡をわざわざ入れた――家にはシャワーを浴びに帰る程度で良い訳だ。気になるのは目の前の家に帰らなければならない筈の人。

「帰らなくていいんですか」
「何で」
「…何でって」

仕事を終えて夕食を兼ねて飲みに行こう、と誘われるがままに来たダイニングカフェ。元々気が合うほうだし、話題には事欠かなかった。交わす言葉に毒も針もなくて、十二時を過ぎる当りまでは俺も気楽に飲んでいられた。

筈だったのに。

「帰りたくない」
「泉さん?」

この会話をしたのは、これで何度目になるだろう。
酒に強くはないのは知ってるが、人の絡むようなタイプでもない。
どちらかと言えば、人の世話を焼くような、姉がいたらこんな感じかと思うような。

「だから今日は杉本くんとこ泊まるー」
「…はぁ?」

大体、こんな事を言うような人じゃないのは、俺がよく知っている訳で、だからこそ心配してしまう自分自身がお節介だと思う。

意味を量り兼ねて相手を覗き込めば、縮まった距離はさらに一瞬で狭められ唇が僅かに弧を描いた。
甘い匂いがする。

黙ってしまった俺を、可笑しそうに見つめる双眸は、やけにきらきらとしていて。

「冗談?」
「当たり前だろ」

静かで落ち着いた雰囲気とは言え、個室でもないような場所。
見た目よりも相当酔ってるなと判断して、切り上げることにした。

「あー、もう。ほら、立って」
「なんで帰るの」
「いやもう十分飲んだし」
「杉本くんはー、あたしと一緒なのは嫌なわけ」

上着を手に取って立ち上がった俺に、恨めしそうに向けられる視線。
酔ってる女に特にどうこう感じる主義ではないが、ほのかに頬や首筋を朱に染めた泉さんは見慣れなくて、一瞬緊張する。

「嫌じゃないって。でも帰んなきゃマズイだろ」

そういったものを振り払うようにして、軽く頭を振って、テーブルから離れた。

会計を済ませ半ば無理矢理手を引けば、嫌そうにしながらも泉さんは俺についてきた。

「帰りたくない」

子供みたいなことを言う。

「春さん心配するって」

ぴたりと止まった相手の足に、振り返った。

「泉さ――」
「そんなの。どうでもいい」

先ほどまでとは違う凛とした声でそう言い放ち、急に早足で一人で歩き出して俺を追い越して行く。
やっぱりその名前は出しちゃ拙かったか。明らかに不機嫌になった泉さんは、駅とはタクシーを拾える場所とは反対方向へ向かい出した。
あぁもう、また何やったんだあの人。何て言うか、基本的に子供なんだよな。泉さんを不機嫌にさせる事については、確信犯だと思うけど。

「は? いや、いいって言われても。つかどこ行くんだよ」
「うるさいな、帰りたければ勝手に帰れば」
「あのなあ」

放っておける相手なら楽だったのに、と一つ溜息を吐き追いかけた。

「ついてこないでよ」

聞き慣れない声のトーン。いつもより幼い。これがこの人の素なのかもしれない。

「一人でどこ行くんですかー」
「飲み直すの」
「それ以上飲んだら、帰れなくなりますよ」

苦笑いして眼前を歩く背にそう投げれば、相手はちらりとだけ振り返る。

「うるさいな。杉本くんは帰るんでしょ、関係ないじゃない」

少しばかり息を荒げて、俺を見る泉さんの目は潤んでいて平常とは異なる雰囲気を醸し出していて。
あぁくそ。関係ない間柄だったら良かったのに。どう見たって一人で放って帰れる筈がねえじゃん。

やけに疲労を感じながら、一度空を仰いで。
それから、取り出した携帯で、あまり掛け慣れない番号を呼び出した。

2008年09月03日(水)



 通り雨(春の日SS)

曇り、のち、晴れ。

今朝の天気予報ではそんな表示がされていて、今日も暑くなるんだって真新しいワイシャツに袖を通しながらうんざりした。

この番組の天気予報は少し見辛いなんて苦情は、笑顔が素敵な美人キャスターに届く筈も無い事も、まだ上りきってもないくせに窓から差し込む光がやたらと眩しい事も、リモコンを持った右手がスイッチを押す原因になって。

消す直前に、雷雨、なんて不穏な言葉が画面越しに聞こえた気もしたが、時間に追われたせいで聞き間違いだと思い込んで家を出た。



帰路に着いた駅から見える空は、ただただ黒くって時折雲を走る閃光が無ければ、ただの曇り空のようにも見えた。

ふと周囲を見れば、手には折り畳み傘かそこら辺で間に合わせたような安っぽいビニール傘が握られていて、まるで周知の事実であったかのような状態。

成る程。雷雨、ね。
美人キャスターもやるじゃないか、と内心拍手してから――只の皮肉にしかならないが――湿っぽい空気の中どうしようかと佇んだ。

変わらず漆黒を彩って、感覚の狭まり出した轟音にあちらこちらに向かっていた人々が振り返る。

降ってきたねー、予報通りじゃん。
通りすがりに聞こえた会話の一部に、苦笑いを零すしかなくてもう一度、見上げた空からは確かに大粒の雨が降り注いで。

これで完璧だな、と俯き溜め息を落としたところで、

「遅かったじゃない」

聞き慣れたアクセントに引っ張り上げられるようにして、前を向いた。

「もう雨降りそうだったし。傘、持ってないかなって思って、持って来てあげた」

距離がある分、声も遠い。

長い髪が風に舞う。
困ったように右手で押さえても、酷くなるばかりの風の中じゃあどうしようもなくて、泉はそのまま俺の傍に駆け寄って笑う。

「楽しそうだね」
「全然。風ばっか強くて最悪。春日の方が、よっぽど楽しそうだよ」

つん、と澄ました猫みたいな目をして、見上げる泉の肌は少し冷えていて。
夏の終わりを告げるように下がり出した夜陰の中、白い顔が浮かび上がるようで幻想的だった。

そりゃあそうだ。だって、君が迎えに来てくれるなんて思わなかったんだからさ。

皆が足早に帰りを急ぐ中で、足を止めたままの俺と泉に降り注がれる視線なんて有りもしない。だからそれに乗じて、という訳でもなかったんだけれど。

わざわざ持って来てあげたんだから感謝してよ? そう紡ぐ唇に、そっと自分の温もりを重ねて。

「してるよ、感謝」

呆れたような色を浮かべる泉に、微笑み返した。


【END】

2008年09月01日(月)
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