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■ 交差③(終)
運転席のドアにもたれ掛かり、火を付ける。 囲った掌の中で灯る橙の火が、思いのほか強くなった風に揺らめいた。 怒ってる? そう問うた時に、泉は随分と幼い表情を浮かべていたのをオレンジ色の火の中に思い出した。 金銭的な面で言っても人手の面で言っても、将来を約束出来る言い難いその決断に、苦渋を見せられても――勿論失敗する気なんて欠片も無いが――仕方ないとは思ってた。 だが目を逸らした泉には、そういったシビアな現実面を危惧した様子は微塵もなく。 遊びに混ぜてもらえなかった時のように、細めた目。打算の働かない無垢さ。まさにそんな感じ。
最初に相談しなかったのには、それなりの理由はある事にはある。
そんな中で連絡も無しに今夜帰ってこなかったのは、少し予想外で、少し当てが外れた。
灰にしたそれを先程空にした缶にねじ込み、自動販売機脇にあったダストボックスに放り込んで、車に乗り込む。 煙草一本五分、プラス熱いコーヒー缶を飲み干すまで。 それを勘定して告げた時間は然程ずれ込む事無く目的地へと着いて、苦笑いを浮かべて待っていた泉の美容院で働く彼に手を上げて出来るだけ愛想良く笑い返した。
◇
「泉ちゃん」
返事は無くてただ無言が返されて、妙な心地だった。泉が黙り込む時は喜怒哀楽で言えば『恕』で満たされている事が圧倒的に多いのに、今はそれに当てはまりそうもない。 助手席に乗り込んだ泉の頬はほんの少しだけ上気していて、今の状況にあまりそぐわないそれに僅かな欲を掻きたてられる。 無言なのは怒りのせいではなく明らかな後悔を含んでいて、俺はどうしても緩んでしまう口元を隠すのに精一杯になってしまう。 何をしたって何を言ったって愛らしいとしか映らないのは、自分でも溺れきっているとしか言いようがない。
いつもの強気は影を潜めきって、こちらの様子を伺うような泉なんて、初めて見るかもしれない。 けれど、そんな事を口に出せばそれこそ怒りを買うのは目に見えた愚行だ。
浮ついた感情を出来るだけ表面に出さないように抑え込んで、ちらりと横目で見れば、同じようなタイミングで目が合った。
「ねえ、まだ怒ってるの?」
わかっていてそう覗き込めば、細い指が額を押さえてそれから頭がゆるゆると左右に振られた。 そう言えば、昨夜もそうやって否定していたか。「…怒ってなんか、ない」少々短気なところはあるにしても、自分が悪いと思えばすぐに軌道修正出来る素直さ。 「ごめん、」
ある種の羨ましい。 母親同士が双子だった事を思えば、同じような育てられ方をしている筈なのに、どうしてこうも性格面で差異があるのか。
「ごめんね」
繰り返される謝辞を遮るように、キーを回す。
「……俺ね、泉ちゃんの事大好きなんだよね」
ほとんど身体に感じられないエンジンの振動の中、アクセルを緩く踏んだ。
「…は?」
泉が顔を上げたのが、横目に見える。何を唐突に、とでも言いたそうな空気が手に取るようにわかって。
「ごめんね、最初に言わなくて。夫婦なんだから一番最初に相談しなきゃならないのはわかってたんだけど。でもね俺、泉ちゃんの邪魔とか、したくなかったんだよね」
邪魔なんて。助手席から囁くような呟き。 俺に連絡をくれた彼は、通りに目をやっても既に姿が見えなかった。送って行く、と言えば「や、疲れたんで」と返されそれ以上は何も言わなかった。 俺の性質をある程度知っているらしい彼は、口先だけの社交性に乗ってくる真似はしない。人を見る目、という意味であれば彼はとても優秀な部類の人間に違いなかった。
「はっきり形にもならない内に口にするなんて、格好悪くて出来ないじゃない、プロポーズと同じでさ。実行出来ない内は、言えない」 「…そ…それとこれとは関係ないでしょ」 「同じだよ、俺にとってはね。だから、それは俺のプライドって事で許して欲しいんだけど」
俺の行きたいところへ行っても、ついて来てくれる?ずっと、そこで。
小さな溜め息。 もう、何なの、それ。 窓を下げて流し入れた夜風は、泉の返事をところどころ遮って消してゆく。 伸ばした左手に触れる、泉の右手。握りこんだ指先の皮膚は固くて、お世辞にも心地良いとは言えない。それでもこうして手を伸ばしたいと思うのは、いつも泉だけ。 返事なんて、最初から必要無い。 そこにいてくれさえしたら、それで。
【END】
2008年09月08日(月)
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