舌の色はピンク
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ここ数カ月のBGMは lo-fi HIPHOPがメインで 夜のあやしげな精神にうってつけ。 これをいろいろ検索してたら FF7のlo-fi HIPHOPアレンジがあって その手があったかー と。
FF7は人気曲、定番曲がある程度固定化されてて それらに及ばない2軍も十分いい曲多いよね、 みたいな風潮あるけど lo-fi HIPHOPで組まれてる楽曲は まずまずのファンくらいからじゃ見向きもされてない ベンチ入りも怪しいような地味曲ばっかりで それがいかにもこのジャンルらしく 好もしく思った。
午前中、大泉学園駅へ戸建て賃貸の内見へ。 練馬まではバスを使う。 経路を確認する前に赤羽行のバスが来たから 運転手に 「練馬駅には止まりますか?」 と訊いたら 「止まらない」 とツッケンドンに返されて一瞬むっとした。 けどあれでいいと思う。 丁寧に返す必要なんかない。ですますもいらない。 で、こっちも別にそれに対して むっ としていいと思う。 といった話を妻にしてみたけどピンときてなかった。 それもそうか。
物件はやや古く使い勝手も悪そうで、 早々と落第させてしまった。 見どころは階段が二つあること。 玄関の両脇。 一方は書斎専用階段。これは面白かった。 また、もう一方から上がった二階にも、 廊下からではなく寝室から階段が延びていて、 そこからのみ書庫部屋に入ることができる。 備え付けの本棚は楽しかったけど日が差すようになってたから 実際には焼けまくるだろうな。
不動産の担当の方は若めで頼りなかった。 いろいろ話は聞いた。 やはり池袋線は混むらしい。 あと新桜台はこちらに比べると緑が少ないとか。
車で駅前で送ってもらって、 妻の調子が優れないのもありおとなしく帰路へ。 バスで上石神井駅まで行って新宿線で野方。 妻はあのエリアでよく体の調子を崩す。 「くんな、ってことなんかな?」 「でも僕らの家からだと、ルートが悪いから」 「そうなんだよね。歩くしバス乗るし乗り換えて電車乗って…」 まだ、石神井エリアで探していきたいとは思っている。
帰ってアラビアータつくって一息入れて スーパー行って レンタルビデオ店で映画3本借りた。
ショートケーキつくった。 スポンジが失敗。 昨日の時点で生地は焼いていて それも泡立ててる時点ではうまくいってて うまくいってるとドンドンとボリュームができてくるのが楽しく それをいつもの型に全部入れたら焼成中に片面からあふれた。 すでに固まりつつもあるから流動性を失って 片一方に生地が偏ったままとなり 熱が均一に通らず結果中央がへこんだ。僕もへこんだ。 へこむとスライスがうまくできない。 スライスがうまくいかないと三枚にカットできない。 やむかく二枚にカット。 通常五層となるところを三層に。 ナッペはなんとか形になった。ごまかし上手。
夕飯は豚汁とアジ。 アジは水煮。 本当は玉ねぎニンジンと一緒に煮込みたいけど 今回は水気切って皿に盛った。 窓を開け放して ちょっと肌寒いくらいにした室内に風が吹きこむと同時に 豚汁を掻っ込む。しあわせだ。
「はちどり」を鑑賞。ようやく観れた。 何も起こらない地味な映画…という触れ込みだったが どうやらそれはそういう系統の映画を見慣れていない方々の感想だったようで これは十分起きてる方だ。話もある方だ。 それでも、余白や間隙が散りばめられていて見ごたえあった。 僕が映画に期待するのは、イメージの積み重ねが何より第一だ。 この映画に埋め込まれている、 "再現されたあるイメージ"を感じ取る時間は心地よかった。 そしていろいろこちらのイメージも湧いてくる。
単純な意味で好きなシーンだと、 両親が大喧嘩して叫びあって妻が夫に傷まで負わせて 家庭崩壊寸前、娘も大泣き…という翌日に 気まずそうに娘がリビングに現れてみると 両親がソファに並んでバラエティ番組見て普通に笑ってるっていう。 もうイッコは主人公の女の子が入院した先に 友人が見舞いに来て それをおなじ大部屋の入院患者のおばちゃんたちが 「こっちの子も可愛いねえ」だの勝手な評判を立てだす。 二人にはこの時複雑な因縁があり 主人公はカーテンを閉めるのだが 今度はおあちゃんたち 「内緒話するのよ」 と小声ではやし立てる。 上手いよなあ…。
サイバーカスケードなんていうように ネットを情報の仕入れ先としてベースにしてるような生活では 知見が偏りがちだから 意識的に 自分と反する立場の声も見聞するようにしてるし また意識せずともランダムに そうしたノイズに触れられるようにも心がけている。 だからというわけでもないが、礼儀作法についての本を読みだしてみた。 小笠原うんぬんという由緒正しい宗家の宗主が執筆されたものだ。 もともとある先入観は取っ払って読む。 礼儀作法に興味はある。またそれぞれの由来についてはもっと興味ある。 礼儀作法を大事にするのはいいけど押し付けるな、 という現代人にありがちな声にも乗っかったりはしない。 公平性を保って読む。 ところが書き手に公平性がない。 いきなり現代批判から始まる。若い世代がなってないと。 僕は本には常に公平性を求めている。 そこんとこが欠如していると もう書いてあること全部がうさんくさく見えて信用ならない。 というわけで残念なスタートだった。 しかし、マナー講師への批判も高まる昨今、 マナーの教え手は、若い"なってない"世代に 歩み寄りがちなきらいはあるだろう。 そうなると、悪い言い方だが これはこれで「必要悪」だ。 歩み寄らずに、前時代的な観点を保つことが求められる立場で、 実践し続けることが仕事なのだから。 「価値観のアップデート」って言葉は随分流行ったけど ばっかじゃねえのとも思うのだ。 柔軟性も深みもなくて都合いいばっかりで。
レヴィナスを基本から読み直してる。 というか何度も何度も基本を洗い直してる。 そのたびに考えがずれていく。 他者は、自分が観測してその理知に取り入れた自分の延長としては存在しえない。 他者は自分とは絶対的に切り離されたところで存在している。 これが「地獄」のヒントとなるはずだ。 サルトルにとっては、他者のまなざしに晒される現実が地獄だった。 僕が思い描く地獄は、外へ明かされない言い訳によって構築されている。 私の行動の一つひとつには、それなりの理由がある。 どんなに愚かな、間違ったような行動にも、それなりの弁明が、本当はある。 「なんでそういうやり方するの?」 「どうしてそんな風にしか思えないの?」 といった他者による批判は、彼らが口にせずとも、こちらは勝手に受け取ってしまう。 「でも私にだって、その時はこんな考えがあったんだ。 こうした事情を鑑みて、こうしようと思ったんだ。 そうした背景を説明するのはあまりに面倒で相手にも退屈で、 きっと何時間もかかる。とうていやってられない。 だからわざわざ弁明はしないが、でも本当は私だって、変じゃないんだ」 というような言い訳が渦巻いた心の有様こそが地獄だ。 そしてこれは、他者によってもたらされている。 その他者とは、「自分が観測して勝手に取り入れた他者」であるはずだ。 これは、本来的な意味では他者と向き合っていない。 その人そのものと向き合おうとしたとき、 この地獄からは解放されるんじゃないか? 聞けばいいのだ。そして言えばいいのだ。 当たり前のコミュニケーションだ。 が、しえないよ。そんなことはわかってても、し続けられはしない。 だから、地獄を許容しよう。 せめてこの地獄を愛してやろう…。 という試みを、今回の読み物に込められるかどうか…。 正直なところ、あまりに読者が見えないから やる気がなくなってる。 ちょっとでも反応があればやる気がでるのは間違いない。 でも今は、あらかじめ考えておいた筋立てに 文章をのっけてるだけの作業で、創作意欲に接続しない。 まいったなこりゃ。 でも人に読んでくれーって頼むのもな。 単純に嫌だし、 完結してようやく意味のある作品だから 現時点で読ませてもそう面白くもないし。 じゃあTwitterでやんなよって話だから、 はじめからこれは織り込んでるのだ。 どんなに反応がなくてもやりきると。 だから、やる気がなくなってもやりきるつもりではいる。 でもそれでもやる気がほしい…。
会社引っ越し日。 社員の半分はお休み。 自分は半端な立ち位置にいるから出勤。 それ自体はいいのだけど やることやって やることなくなって あとはいるだけ邪魔になる、 という段になってなお 先輩があがらせないものだからかなり苛立った。 おくびにも出さないが 今日はさすがにその判断が無能すぎて ちょっと不機嫌がにじんでたかも。 時間にすれば10分や20分のロスだったろうが 無駄で無益な時間に耐えかね 上の者に働きかけてあがった。 こんな気分で連休を迎えること自体が癪だ。 バカバカしい。
妻が 花を買って帰ってきてくれ 夫セレクトで頼むというから 2000円分ぐらい見繕って よく名もわからん花々を買ってみた。 その物色をしている拍子に iPhoneがポケットから落ちて 衝撃と水気(今日は雨だ)でお亡くなりになった。 ちょうどこの連休中に交換しようと思っていたから だいぶショッキングだ。
これについてまた docomoのありえないような バカで汚い対応に見舞われたわけだけど いよいよ書き残すのもバカバカしい。
どれだけ正しい、正当性のある批判に本人からは思えても、 他人からすれば 「でもきっと〜」 といくらだって諭してやれる。 その論法は分かってる。 全面的に相手が悪いということはない。 自分にも非があるはずである。 当たり前の話だが、 ちゃんと自身の日常に一体化させている人は少ない。 しかしそういった一切を踏まえてなお、 「"憎んだ相手は憎んでいい"のではないか?」 とずっと考えてる。 それをなぜ、OKと認めてしまいたいのかも。
会社が引っ越すから重ための私物を持って帰らないととか 新型コロナの変異株も騒がれだしてて電車に乗りたくないとか 4月の陽気が心地よいとか もろもろの事由から 今日は久しぶりの自転車で出勤した。 片道1時間くらいか。 ドアトゥードアなら電車通勤と大して変わらない。 果たして気持ちよかった。 坂は多いのが難点か。 それでも運動不足解消にはちょうどいいし。 あ、道は悪路だ。 中野区はいい。 新宿区に入った途端、歩道は狭いし車道には路駐が多い。 ガードレールがないところもある。 早稲田通りを突っ切ってる間、 高田馬場〜早稲田〜神楽坂はかなり気を払う必要がある。 なるべく車道を走ってるけど危ない。 千代田区に入ったらまた安全に。
自転車通勤いいすな。考えごとがはかどる。 帰りはちょっと飛ばした。 50分くらいで帰れた。 意外と落合〜中野間が長い。上り坂もきつい。 店はちゃんと軒並み閉まってたけど 路上飲みは多くて 駅前にも人だかりが見られた。 高田馬場がひどかった。 大学生とサラリーマンが集まりまくり。 うるさくて立ち姿のいちいちに品がなくて 雑魚の見本市という感じ。 あぁいう時間ないと 連中は人生に何の楽しみもないんだろうな と決めつけてやる。
返って、牛カルビと豆もやしのナムルでドンブリを。 高校時代に購買でよく 牛カルビ丼食べてた。驚異の250円。 しょっぱくて甘くてめちゃくちゃ美味かった。 あれを再現したいのにできない。 全然繊細な味ではないのに。
docomoのアプリがゴミです。 現実のゴミはゴミでなんらかの利用価値も見いだせるけど アプリのゴミは真なる意味でゴミだ。
もともと回線プランを決める時点で ドコモショップの店員とこんなやりとりがあった。 「その時点でどれだけの容量を使用したか、いつでも確認できますか」 「はい、こちらアプリで、いつでもすぐに」 いつでも、も、すぐに、も、ウソだろうと思った。 能動者にとっては嘘ではない。 が受動者にとっては、実現されないという点で嘘も同然、で意味で。 サービスというのはそんなもんだ。 だから 「どうせ不具合や不備を被るのは目に見えてる。 業腹だがそのつもりで使っていこう」 という、ある意味では穏便な気構えでいたはずなのだが ふたを開けてみれば 到底許容しえない 想像を絶するゴミアプリなのだった。
ただでさえアプリを起動するのに1分ほどかかる。 その後、バージョンアップしろと毎回のように通知。 バージョンアップしないと最新データが取得できない。 今月のデータ使用料の項目ページに遷移する際に動作が不安定になる。 そして、データ使用料更新の操作をしてから取得に2分ほどかかる。 この間、アプリから離れて別の操作をするとやり直し。 何も触らず端末の画面が落とされてもやり直し。 さらにこの間、取得中といった情報が表示されるわけではないから なにかうまくいってないんじゃないかと不安にさらされることになる。 まさにゴミだ。 百歩譲って、 そうそううまくサービス提供し続けられないのだという 向こうの都合の背景を推し量ってやったとしても、 それならばdocomoは全ドコモショップの店員に 「通信量はゴミアプリでしか取得できないが ゴミアプリだから いつでもすぐにというわけにはいかない、 とお客様に通達するように」 と指導しろよ。 バカか。
バカなところと 商売の汚いところが合わさって つくづく現代の醜悪にさらされて 心の底から気分が悪い。 木っ端の詐欺企業ならもすこしうまくやるものを 王様商売してるからその程度まで低い。 あんなバカみたいな広告たくさん打ってないで その予算をもうちょっとこっちに回せよ。 こんなカスみたいな出来事に 心と時間を奪われるのがバカバカしいったらない。 そして、だからこそ泣き寝入りして黙認、 というユーザーたちに甘えてさらに助長する悪の連鎖。
今ここに書く文章は感情を第一にしてるから 文法めちゃくちゃなのはいつもだけど 今日は殊更に勢い任せ。 バカ企業が。汚い、汚い。
グリザイアの果実、 作中BGMはエレメンタルガーテンが噛んでる曲だけよくて、 この季節によく聞いてる。 ボーカル曲はみちるのED曲だけずばぬけてる…のだけど 歌詞がめちゃくちゃ恥ずかしい。 どんなムチャな歌詞にも感じたことない感情が押し寄せてくる。 「逆上がり パンツ見えた? 気にしない ちょっとする」 ていう…。 これを男が作詞して女に歌わせてるのがかなりやばい…。 単純な下ネタとかお下劣とかじゃなくて ちょっとしたかわいらしさみたいな風味をもたせてるから それでやばくなってんだと思う。
テレビでたまにある、 芸能人がものすごい意気込みでSNSに進出したけど ○千人しかフォロワーつかなかったんですよ〜アハハハ みたいな自虐、やめた方がいいと思う。 これが何百人でも何十人でも同じ。 なんだったら一人でも。 いや一人ならわかりやすいか。 その人、その人たちにめちゃくちゃ失礼なのだ。 普段何千といいねを荒稼ぎする人が 渾身のネタで数十しかいいねを獲得できなくて 「滑った」とかいうのもきつい。失礼すぎる。 こみパのちゃん様を見習え。 あんなに莫大な売り上げ数を誇ってた神サークルの主催が 一度落ちぶれるとこまで落ちぶれて どうにか再起して挫折しそうになって諦めず なんとか新刊書き上げたのに全然売れず それでも信じてようやく一冊買ってもらったとき 涙流して喜んでたろ。 あのシナリオすっきだなあ王道だけど。
地元の商店街歩いてると 公道にせり出した看板が当たり前みたいに乱立してる。 毎回蹴っ飛ばしてやろうかと思う。 それ自体が危ないし。 車が通るとなお歩行者の可動域が狭められて危険だし。 売上をわずかでもあげたいという私利私欲のために 公共に迷惑を与える極悪人にゃよろしい銃声聞かせてやるぞ。 という規範意識とともに、 いーじゃん堅苦しいこと言うなよ なんでもかんでも規制しちゃあ町が窮屈になるばかりさ いいよいいよのびのびやれよ という昭和回帰欲みたいな意識もある。 後者の方は だからなんでもオーケー受容するぞ ってわけでは当然なくて、 互いに言い合える関係性というか。 邪魔だぞ馬鹿野郎 とか言いながら、でも一律のルールに訴えるわけじゃない。 個人として許したり個人として批判したりする。 それはもう、その時々の気分で。 こっちの方が健全なのは間違いない。 だからってそれじゃ立ち行かんから ルールになってったんだろうけど。 大抵は、できないやつのためにルールが用意されるんだよな。 それなのに、できないやつこそが ルールをじゃまっけに扱いがちだったりする…。 うちの仕事だと、 納品したデータのバックアップはできれば当日、 当日が無理なら翌日でもいいからこれこれの処理をしておいてくださいね〜 と何度伝えてもウッカリが発生し続けたから 毎日必ず朝イチでそのチェックをしろというルールを設けてしまった。 ほぼできている人間にもそのルールを強いるのはこっちもストレスだ。
公道にせり出した看板は 道路交通法と道路法と あと自治体ごとの決まりとか景観に関する条例がどうとか かなりがんじがらめらしい。 防災上の観点からも問題ありらしい。 そりゃそうだ。 正式に届けを出して許可されないかぎりはアウト。 あとは訴える人がいるかどうか。 たしかに、街のために店に賑わっててほしいというのはあるもんな。 ましてや個人経営っぽかったら、 いろいろ大変なんだろうし…と斟酌したくもなる。
でもその日の気分で 許したり咎めたりしていいと思う。一番人間らしい。 向こうも、常に出すんじゃなく 今日は人通りが少なそうだとか どうしても今日だけは売り上げたいんだとか そういう人間らしさがあればいい。 当たり前みたいに だって皆やってるじゃん とかいって悪びれないやつが最悪だ。 通行人をなめてるし 通行人をなめてるってことは 客をなめてるってことでもあるし。 入店した人間だけが客って意識ならそれも最悪だし。 つぶれたほうがいい。
週に4、5回通ってる近所のスーパー、 有線でかかってる売れ線JPOPが耳につらい。 なるべくイヤホンで遮ってるけど ちょいちょい忘れてしまったり バッグの深いところに入り込んでたりすると 耳に入ってくることになる。 もう誰に気を遣う必要もないし 伏字もいらないよな あの髭男オフィシャルなんとかみたいな ダッサイダッサイ ダサさを煮詰めて ダサさだけを一子相伝してきた一族のなれの果てみたいな 三下どものカス曲が耳につらい。 あんな音楽(音楽とは思わないが)を 好き好んで聞いてる連中がいるって信じられない。 全員の耳の穴を耳の穴よりはるかにでかい耳栓で閉じてやりたい。 正座だ、正座。 これからは何をするにも正座しながら過ごすのよ。 ついでに視力と握力も奪っておくわね。
これを 好みがどうこう みたいな扱いされたらかなわん。 全身から汗が噴き出ろ。噴き出続けろ。 三分目くらいで慌てだしてヤバイヤバイとかいって なすすべもなく涸れろ。
というのは本気で思ってるわけではないですが 瞬間的には激情が沸き立つ。 自分を戒めもする。 なにしろ自分が好んで聞いている音楽だって あるいは音楽以外の趣味も 他の誰かからすれば許しがたかったりするわけで それも アホな連中はどうでもいいけど そうでない人からもありうるだろう。 そうでないからこそというか。 だからいくらオフィ髭なんとかが ダ、ダ、ダサくても 聴いてる人までを貶めちゃならん。 というのを全部ひっくるめて激情が沸き立つ。
妻が職場で 隣の席の人から 週末こんなケーキ食べたんですよ〜 と写真を見せられて、 うちの夫はこんなケーキ作るんですよ〜 と写真を見せ返し、 キャーすごいキャーの声を頂戴したらしい。 「マウントとりにいったんけ」 「そう。自分が作ったのでもないのに」 「わるいやっちゃな」 「あのね、すごく素直に言うとね。 私、マウントとるの好きなんだと思う」 笑った。 世間的にはもはや一般化された悪徳だが こう居直られると健全な気もしてくる。 また、この言いぐさの肝は、 だからこそ"マウントとられると腹立つ"という点だ。 そこんとこの敵愾心には世間の声と差がない。 「もっと皆マウント取りに行ったらいいと思うよ。 マウントの取り合いなら、楽しいじゃん」 どこまで本気かは知らないが 少なくとも話している今この一時に限れば本心からの言葉なのだろう。
月曜はつっらい。 よくある精神的なそれじゃなくて 単に体が重い。 怠さが他の日に比べて抜群にひどい。
体の怠さを初めて感じた日を覚えている。 小学校3年生の体育の時間、 体育館で縄跳びをし終えたインターバルの合間に、 なにか背負わされたような重みを胴体に感じた。 「さっきまでと全然違う!」 と思ったし、 「これから先ずっとこうだったらどうしよう?」 と思った。 実際、それから先ずっとそうだったわけだけど。
月曜は単に眠いのと、 たぶん日曜日に 体重をソファに預けた姿勢を長時間取り続けているのが 関係している。
それでも飯は作ったし洗い物もやった。 マグロのブツを丼にしたやつ。 刻みのりワサビ万能ねぎと、アボカドが余ってたから足した。 アボカドってマグロだかトロの味を再現できるのが強みなんだっけ。 じゃあマグロそのものがあるんだからいらないじゃん、 という考えもよぎったけど いやマグロアボカド丼てやつも街中で見かけたことあんな とも思ったから結局足した。 美味かった。あんま変わんなかったけど。 月曜は刺身系に世話になることが多い。楽だから。 なにしろ帰宅して20分後には飯を食べ終えてる。
少年のアビス2巻読んだ。おもろ。 一気に深み増したなあ。 1巻で散りばめてった種が芽吹きつつあるのか。 新たな要素もキャラもなく、 すでに物語に配していったありもんで 展開させていく感じが 地方都市の閉そく感と接続してなんだか巧妙だ。
狂ったラノベのタイトルをたまたま見かけて あんまり衝撃的で覚えてしまった。 「パワハラ聖女と絶縁したら何もかもがうまくいって最強の冒険者になりました 〜ついでに可愛くて優しい嫁がたくさんできた〜」 もうホントにバカだなというか 女を敵にまわしたくて仕方ないんかっていう。 ついでに、から畳みかけていく加速度がすさまじい。 そしてどこにも書いてないけど 「可愛くて優しい」の裏地に「巨乳」という二文字が透けて見えるようだ。 なんなんだろうこれは。 こんなこと言ってるくらいだからモテが欲しているのだ。 女からの。 それでいて、女から嫌われたくて仕方ないんかっていうような この言いぐさ。 ここまでいくと腹立たしさも恥ずかしさもないし ただただわななく。
読みもの書くの楽しい。 ただ140字に収めるのに苦労する。 文内容を犠牲にしてもいる。 それでも楽しい。 あとはもうちょっと読まれさえすれば… 誰一人として読んでない可能性はだいぶ高いので… ちょっとでも反応があれば… ほんのわずかでも…
ミュークルドリーミーみっくす。 ときわちゃんの回。 なんか今回は振るわなかったな。 全体的な…なんだろう脚本か…? 久しぶりにプリチャンのほうが見ごたえあった。 クライマックス感あるけど一か月遅れで終盤扱いなのかこれ。
昼飯に素麺つくって 食べ終わってすぐタルト焼いた。 焼成しながらサーモンとアボカドのサンドイッチをこしらえて、 タルトが焼き上がり次第近所の広場へ出向き 青木淳吾の このあいだ東京でね を読んだ。 あーすげーえ。 小説でしかできないことを 小説文を駆使してやってのけてる。 視点のドライブ感。 読書メーターの誰かの感想に 街が視点として描かれ人が風景として描かれ ってあってなるほどって。 ところどころは読み疲れて飛ばして読んだ。 普段扱う言語としては処理できない文だから 使われきてない回路通すから とっても疲れるのだ。 それ自体が醍醐味で凄味なんだけども。 しかし何より悔しくなるからもう読みたくない。
帰ってきて一息ついてタルト食べた。 あまおう、すご。 とちおとめと全然違うな。甘味がオッ上品に広がって。
夜は アジの梅肉ちらしをやった。 アジおろしてたたきにして酢飯に混ぜて 梅肉と大葉を散りばめる。白ゴマをふる。
ブルガリア映画見た。 ソフィアの夜明け。 めちゃくちゃよかった…! いい映画って冒頭一秒で雰囲気ある。 一秒は言い過ぎでも二秒とか三秒とかのカットで。 意味にあふれない、ただ映像を写してるだけの映像というか。 今作は昼の退廃的な街並みもいいし 夜の奥行きある街並みもいい。 ところどころで4カ月3週間と2日を思い出したな。 気まずい食卓とか。 僕にとってこの映画で一番の見どころが兄弟の描写で とりわけ食卓は象徴的だった。 食卓の場面って複雑な事情を持ち込めがちなんかもしれん。 そう思ってみればいくつかの映画でもそんなんあった。
休日あっちゅーまにおわっちったな。 全然読みものを書くの進まん。 とくに今日なんか、青木淳吾とブルガリア映画のせいで 自由に世界観を構築させるタイプの読みもののアイデアばかり湧きいでて かえって困った。
2021年04月24日(土) |
晴れててあったかくて涼しくて気持ちいい |
いい天気。 共同口座に預金するのと 家賃半額4か月分と 奨学金と実家に入れる金と生活費で 一気に40万近くおろしたドーン。
昼飯のチャーハンべらぼううまかった。 じっくりたっぷりネギ油をこしらえてから 国産ニンニク炒めてベーコンも加えて キャベツ長ネギはサッと炒めて 卵べしゃ ごはんトパッ がしがしがしがし べらぼううまかった。
飯食ってすぐ実家へ。 毎度自転車で45分ほどかけて行くのは 運動不足解消のみならず いろいろ思考をめぐらせることができて かなり有意義な時間になるから。 でも往路は大してものを考えなかった。 イヤホンから聞こえてくるやくしまるえつこの声聞きながら ほんとそそる声だなとびっくりしてるあいだに着いた。
小学校だか中学校だかの 教員手伝いのパートをしている母は 忙しいなりにそれなりにうまくやってるようなのだが 校長先生がきっつい人らしい。 語気を荒らげたり言い方に配慮がなかったり 非を認めなかったりと前時代的で そのせいでやる気をなくしてしまい辞めてった若い教師も 何人かいるんだとか。 が、話を聞いているとそんなに母は 彼女(校長)へ悪印象を抱いてないような口ぶり。 どうやら正面切って勝ち気、という人はへっちゃらのようだ。 「だって、ウチの家系がそうだからね」 なるほどだ。 パワハラ上等なのだ。 荒々しくやり合える相手は よっぽどやりやすいらしい。
ついでに母の日の相談をした。 コロナを警戒して翌月は来ないから 花でも贈ろうかと思っている。 そう伝えると、花はいらないとの答え。 でも鉢植えならありらしい。
あと、祖母の手術が難なく成功したそうだ。 「あれ笑っちゃうわよねえ。 手術中にいつ終わりますかって聞いたら、 もう終わってますって。言われたって。 あらいつ手術したのって。うふふ。 手術っていっても内視鏡のあれなのに。 手術っていったら切ったりするものって思ってるのね」 「内視鏡の手術ってどんななの」 「知らない」 じゃあ笑うなよ…。
それから今も実家に住まう次男が 一瞬だけ廊下に現れたが ちゃんとお兄ちゃんに挨拶しなさいよと母は言う。 しかし僕ら兄弟はまったく仲は悪くないのだし ろくに口を聞かないといっても これはこれで一つの兄弟像なのだという意味のことを伝えた。 長男にはかなり面倒になってきているうえ 近年はすっかり蟠りのない会話ができるようになっているが 僕からすれば次兄に対しても長兄と同等の信頼を寄せている。
昔を懐かしんで復路ではミスチルのクロスロードを聞いた。 冷静になってみれば 何がいいんだか っていういかにも売れ線のポップスに過ぎないけども 7歳か8歳くらいの頃 狭いマンションの一室で 兄二人と布団を奪いながら夜の自由時間を過ごしている間 よくこの曲が流れていた。 実はそんなに繰り返しかかっていたわけじゃないかもしれないのだが やけに思い出深い。 そこにいるだけでいじめられるから隅っこで気配を殺し ひっそり兄の漫画を盗み読んでいた。 この頃は貧乏していて、母は毎日がつらく、 思い返すと泣けてくるそうだが、 僕にとっては幼少期のかけがえない記憶で、 なんだったら いつでもあの空間を追い求めてる。 最高の片思いとかいったか、 夜に放映していたドラマを 家族4人そろって布団の上で見た時間を忘れない。 福山雅治のHelloを聞くたびに思い出す。 自分というものの起点、因果の発生が あの時あの空間にある気がする。 この思い出は単に感覚だけで まったくエピソード性がないから 人に聞かせる意義も文章に残す機会もなかった。 でももし自分が消失してしまったら この思い出はこの世から消え失せてしまうのだなあと思い 書いてみた。 しかしそれは誰のどんな思いででも同じだ。 記憶は記録できるが 思い出は記録しえない。 当人の感覚は完結性が高すぎて外部保存できず、 当人の消失とともにこの世から抹消されるさだめだ。 もしかしたら プルーストの失われた時を求めては この限界を突破してるのかもしれないが 読んだわけじゃないのでわからない。
自転車こぎながら 友達少ないよなあってぼんやり考えた。 増やそうと思えば増やせるんだろうけど。 友人の友人みたいな関係性で広げていくのが 自然で健全だってイメージはある。 が 友人の友人は、なんでだか初対面で 殺すぞ って思ってしまう。 いや別に殺害したいわけじゃなく 単に敵意をもってしまう。 女性なら別だけど。 知らない男ってだけで 知り合った瞬間は ぶっ殺してやる くらいの気合が破裂する。 一瞬後にはしぼむし、 すぐに和やかな仲が紡がれることはわかってるんだけど。 それでもだ。 知らない男は大体敵だ。 だから知り合っていけない。 しかしこれはこれで大事な自分らしさだとも思う。 ぶっ殺すぞ って気持ちがもてなくなったら 例の、あの、 大人になってしまう。
緊急事態宣言下で活動が抑制されるから 古本屋とか図書館でいろいろ仕入れてきた。 中野区立図書館はまだ方針が決まってないようだ。 ホームページの方をごらんください と言われた。 オツカレっス。自分応援してるっス。
青野くんに触りたいから死にたい1巻 面白かった。ホラーでもあるのが楽しい。
夜は映画を。 前々から気になってた TOKYO! を。 オムニバス三本のうち 初め作品は知らない監督で イマイチだなあと思ってみてたけど終盤よかった。 イマイチなのは脚本。 それも多分、ホンとしてはいいのだけど 日本語にしたときのト書きがよろしくないのだと思う。 それを口にしていく役者人もよくない(加瀬亮はよかった)し 芝居の演出も行き届いてない感じ。 ゴチャゴチャした部屋は好み。 話はよくできた読み切り漫画みたい。 二本目は本命のレオスカラックス。 ホーリーモーターズの野人の元ネタがこれか。 銀座であれをやってくれるのは満たされるものがある、 街中を闊歩しながら無意味に無法を働いていく というのは僕の中にもあるイメージで、 ひとつの完成形を見た。 しかしこいつは… おれたちの東京をめちゃくちゃにしやがって… ニュース番組のとこなんか完全にふざけてるし。 でも、映画だった。 刑務所内だろうが裁判中だろうがカラスの鳴き声がところどころ入る。 現実がどうあれ、レオスカラックスにとってのTOKYOはそうなのだ。 三本目、ボンジュノ。 いっとう良かった。 というかボンジュノの他作品と比べてもパラサイト含めて このシェイキング東京がいちばん。 日本でロケして日本人しか使ってないんだから 理論上は日本人でもこの映画は撮れるはずなのだと思うと悔しかった。 香川照之の一人芝居ずっと見てられるし 蒼井優はかつてないほど美人に撮ってもらってた。 音楽もよかった。 なにより脚本か。 引きこもりと地震。 引きこもりが引きこもりに会うには。 途中、街中ですりガラス越しに見た女性の人影が消えるとこ怖すぎる。 あれがあるから、 引きこもりが外にでましたという希望きらきらのシーンじゃなく、 不安や精神的歪み、非日常の世界といった重みが グッと作品を締め付けてるのだなあ。 かえすがえすも素晴らしい。 人を食ったようなラストはいただけないけども。
緊急事態宣言が出るとのこと。 それにともなって勤務形態が普段と変わる。 だから各部署の責任者にあたる人間が その調整をしていくはずなのだが 決めなければならない何を質問しても どうなんだろうね の一言でワンクッション置く。 低能なのは知れてるから こちらから問題点を整理しきってやって ほとんど方針を指図してやるくらいのヒントも与えてやって そのうえでイエスかノーで答えられる質問形式にして そこまでやっても わっかんないんだよねえ と独りごちる。 わかんないならわかる人間に確認しにいくのがお前の役目です。 僕はそういう停滞がばかばかしくって嫌気さすから 率先して動いて見えにくい事情を明らかにして その都度妥当案を練って関係者から承認を得ていく という役回りをかつては引き受けていて 実務のみならずそういった立ち回りが 当時の上司からたいへん評価されていた のだけど上司が入れ替わってから逆の評価になった。 余計なことはするなと。 そして責任者が僕から低能の先輩に入れ替わり ばかばかしい停滞に毎日悩まされることになった。 簡略化するとこんな感じだけど なんともはやありふれた話だ。 それも二十代半ばくらいの仕事の愚痴でよく聞くような。 とても人に話せたもんじゃねえや。
毎日通ってる庚申通り商店街に ホラーカフェとかいう店ができて まぁ好きな人は通えばいいんじゃないですか くらいのつもりで大して興味ももってなかったのだけど いつも暗い2Fの窓に人形が置いてあるのです。 呪怨?ぽい、青白い子供の。等身大に近いサイズで。 それが外へ向けて体育座りしていて。 ものすごい不快だ。 ホラー好きなやつらは勝手にこの店の中で楽しんでりゃいいにせよ そうでない人に向けてまで何してんのって 不快で不快でしかたない。 ホラーが苦手ってわけでもない僕ですら 視界の隅に違和感を感じてそれを視認した瞬間はギョッとしたし ましてホラー嫌いな人からしてみたらしばらくは脳裏に焼き付くだろう。 「反応を楽しむ」みたいなお寒い趣味も働いてるんだろうし 抗議含めていっさいリアクションしたくないけど。 あれやめてもらえませんか なんて言われたら連中はもう達するほど喜んじゃうもんな。 ゲスだ。
ところで ある人が攻撃的な態度してたから その人に対しては因果応報とばかり 攻撃的に接していい ってのはちょっと違うと思う。 自分もそれに近いことやってしまうことあるけど反省が必要だ。 これは連鎖の構造をもつから。 AさんがBさんに厳しくあたっていました。 それを見てきたCさんはAさんに厳しく接するようになります。 「あなたがBさんにしてきてたほど厳しくないよ」 という言い分がCさんにはあります。 しかしAさんからすると、 BさんはかつてDさんに苛烈な厳しさで接していたから、 「あなたがDさんにしてきたほど厳しくないよ」 という言い分があるのです。 Cさんはそのあたりの事情を知らない。 AさんもBさんもDさんも言いたくはない。 しかしまたDさんにも似たような背景があったかもしれず… って。
生クリームあまってたからカルボナーラ作った。美味しい。
文化大革命についてちょっと調べた。 もともとのイメージとして、 悪名高い文革のせいで 中国はその文化や文物、歴史が積み重ねてきた風習を バキバキ破壊されて 儒教思想も根絶やしにされて そうして今の中国になっていった。 歴史で学ぶ中国と今の中国が結びつかないのも文革のせいだ。 という見方があった。 調べた限りそう誤ってもなさそうだったが 一部の意見としては 文革が破壊せしめた文化文物は 広大で深遠な中国文化のほんの一部に過ぎず、 莫大な歴史を誇るかの国においては その影響などたかが知れている。 そーゆー話があった。 これがどれだけ正しいかはともかく、 なるほど自分は 文革がとかく悪の原因になっていると見なした方が 自前の思想の論法が成立しやすいから 安直にその図像に飛びついていたきらいがあったな と反省した。 こういうことって多い。 自分で描いた絵図のピースを埋めるために よそから引っ張ってきた断片の形を 都合よく歪めてはめてしまうこと。 いや、歪めるというほどじゃない。 曲解や牽強付会くらいなら皆意識してる。 あらゆる物事には正誤も善悪も多元的に含まれている。 少なくとも、そう前提すべきだと僕は思っている。 そのバランスを無意識的に偏らせて扱ってしまうルール違反を 世の多くの人が犯している、 だから自分は気を付けよう本当に気を付けようと、 かなり警戒していたはずなのに まだ自覚しきれてなかった。
意見。主張。論考。 対立するどっちの意見も正しい。 どんな正しい意見にも穴はあるし どんな愚かな意見にも正しさはある。 そんなことは当たり前だ。当たり前のはずだ。 でもなかなか共有されてない。 だから正論なんて恥ずかしー言葉がはやる。 コロナ禍は世間に潜んでいた多くの問題を暴いてってるが 意見の対立については みなさん身近になってよかったと思う。 意見の対立慣れをしてないと被害者意識ばかりもってしまうから。 コロナ禍で目下いらいらしちゃうのは 「〜しないと意味がない。」構文。 もともとコロナとか関係なく大嫌いな言い回し。 全然何にも考えてないんだなって思う。 ただ強調したいからその言い方を 慣用句的に採用してるに過ぎない、 軽い軽い、上滑りの日本語。 だいたいほとんど意味はあるし。 本気でその意味を見いだせてないならまんまバカだ。 さすがにそこまでバカとは信じたくないから、 ただ強調したいだけで何も考えず その言い回しを使ってる三下という見方にとどめておいてやる。
ここの日記には かっこつけずてらいもなく 文章も練らず ただネガティブな感情を書きつけてしまおうと決めてる。 こうしてみるとTwitterなんかでは ずいぶんかっこつけてたんだなあと気づく。 そして毎日いろいろなこと考えてるもんだなあと再認識。 Twitterでは考えがキッチリ整理されたうえで ちゃんと健全な出口を用意して さらにそれが140字×3程度にまとまらないと 投稿もしないようにしているから。 ここでは書きなぐってるだけなので 毎日じゃぶじゃぶ所感が出てくる。 今日こんなことを思った。 ってだけなら無限に出てきちゃうもんな。 頭のなかの一日は24時間よりはるかに膨らんでる。
あぁそうだ TwitterでRTされてきたツイートで まともな人はTwitterやめてったから 今残ってるのは異常者だけ みたいなしょーもない いかにもTwitter的痛々しさにまみれた文を読んで いちぢるしく気分が害されてたことをここに記録しておきます。 自虐風なのが本当に痛々しい。 帰属意識まみれで恥ずかしいし これに無批判に賛同してる連中って 「ほんと私の周りって変わった人ばっかりなんだよね」 とか もっと言うと 「濃いメンツと飲んだ!」 みたいな言いぐさをどう捉えてるんだろう。 お前らがみたいな連中が一番 こうした言いぐさをイタイイタイ!って面白がってたんじゃないのかって。
あともういっこTwitterで。 グルメ情報や美食の美学を書きつらねているアカウントを フォローするでもなくリストに入れるでもなく たまに覗いていて しかしどうやら人格的には好めない。 彼なりの思考様式は確立しているし 文章の節々に知性が散りばめられ 世間的に見て賢い人ではあるのだろうとは認められる。 ただ気に食わない。 人格よりは価値観の問題だろう。 勝手にツイートを追っていながら ひそかに敵愾心を燃やす一人相撲をとっていたのだけれど 何日か前のツイートで大塚英志の名前を自前の論法に援用していた。 それを見てどこか安心してしまった自分を恥じた。 大塚英志は文芸評論も創作もいくつか見てきたが くだらん男だ。 生半可なくだらなさじゃなく 日本の文化にとって害悪と見なしきってるから はっきり悪い言葉で貶す。 アホをもっとアホにさせるアホの活性剤みたいな男だ。 こんな愚劣の筆頭みたいな輩を好む人間が この世から一人でも少なくなればいいと本気で思っている。 なのに、今回そのアカウントの彼が大塚なんとかの名前を (好きかどうかまではわからないが)引っぱってきたことで、 僕は瞬間的に、 ほらねやっぱりこの男も下らん男だった、 と自分に言い聞かせる心理を作用させていたのだ。 これはとても、とてもとても醜いことだ。 劣等感まるだしだ。 フェアーでもない。 品もない。強さも。知性も。 ただ、この作用の構造自体は、 人間が人間と関わり合うフィールドにおいて、 多かれ少なかれ、見えにくく働いてるとも思う。 覚えておきたかったのでここにメモ。 へこんだが…。
レオスカラックスの新作情報きた。 ヤッター。嬉しいです。 予告編の映像も期待させてくれるものだった。 この人の撮る街道、 とくに車を走らせた街道がとても好きだ。 去年公開したギャスパーノエの新作は コロナで観に行くの諦めたけど7月にはレンタル解禁だそうで。 ウーン遠い。
あらためて近所のレンタルビデオ店の ヒューマンドラマコーナーを物色してて パッケージのうたい文句にいらいら。 感動作の三文字が見えた時点で観る気が失せる。 まぁ実際そのケのある映画は見たくないから 判別できて便利ではあるんだろうけど… ヒューマンドラマってくくりをやめてほしい。 その他みたいな扱いのジャンルだ。 お涙ちょうだいの感情をかきたてる場面で それっぽいBGMが流れるような三下ドラマと アートフィルムを別にしてほしい。 そしてパッケージなんとかならんのかな本当に。 これがアニメだったらジャケットに ゴチャゴチャ能書き載せてないわけでしょう。 少なくとも感動作の三文字はない。 どんなお涙ちょうだいアニメだろうと。 広告代理店が噛んでるのはどちらも同じなんだし 単に客層の違いってことなんだろうか。 だったらなおさらヒューマンドラマでまとめるのやめてほしい…。
夕飯、すき焼き。 お義母さんが送ってくれた能登牛。美味しかった。 しかしこれが、ふるさと納税による返礼品であるらしく、 この制度を快く思っていない僕にとっては複雑だ。 「ふるさと納税が気に食わないから利用しない」は個人的信条の範疇で、 「ふるさと納税が気に食わないから人からのそれも固辞する」とまでなると へそ曲がり呼ばわりも仕方ない。 そして僕はそのつもりで営業していきたい。 のだが、配偶者の親御さんという関係性は、 そうした頓着のもつ力学を機能させないところがある。 こちらが勝手に我を抑えているだけなのだが、 ちょっと考えてみれば、 あっちの偏屈もそっちの偏屈も、 義理の親には弱い。 弱いというかこの場合に限っては ゴーイングマイウェイをあきらめるというか。 この構造はちょっと面白いので今後も考えていきたい。
天気よすぎ。 あったかい。 中目黒行きたい。 中目黒行って街歩きしてちょっと冷えた飲み物飲んで また歩いて適当に店入っておしゃれなもん見て 最終的にはフレンチでフルコースしたい。 いつわりならざる本音。
むかしのことを思い出す頻度が高まってる。 もともと僕は過去を振り返りまくる男で、 8歳くらいの時点ですでに「あの頃」の感覚があり、 なにかと思い出を振り返っていた。 最近は初めて一人暮らしをした20歳くらいの頃、 狭い部屋でブラッドサースティーブッチャーズや ルミナスオレンジをかけてのんびりしていた時間を思い出す。 部屋にテレビはなく、携帯端末はガラケーで、 今では考えられない量のメールを毎日誰それとやりとりしていた。 街の歩き方も人との接し方もこなれてきた頃で、 まぁ最強だった。 いろいろ悩みはあっても こわいものなし最強の毎日を過ごしていたから 思い返すと気分が上がる。 まだまだまだまだ未熟だったけど 未熟だったからこその最強なのだ。 それは満点が低いという意味なわけではない。 深遠を、奥行きを、先を知らないからというわけでもない。 熟す余地があるからというわけでもない。 あの頃、未熟の自覚はあっても最強の自覚はなかった。 これから成長していく確信はあった。 これから挫折していく未来も想定していた。 十年後の自分は今の自分を恥じるだろうという見通しも立てていた。 風がよぎるとほんのかすかに肌寒さを感じる五月のよく晴れた休日に、 ひとり自由が丘の街路に設置されたベンチで本を読んだ。 さして集中もせず、道行く人をぼんやり眺めたり 人目を気にして微妙に場所替えをしたり 雑感にまみれながら数十分を過ごした。 もうあんな幸せな時間は味わえないかもしれない。 今でもやろうと思えば同じような時間は過ごせる。 自由が丘に行ってベンチに陣取り本を読むくらいの予定は確保できる。 でも今の僕は、最強でなくなってしまった。 しかも未熟だ。
仕事で今日は印刷会社やら編集部やらと メールのやり取りを何本かした。 うちはそういった外部交渉の一切を営業部が担当しているから 本来は現場が携わることじゃないのだけれど いま属している部署は長年の経緯があり 直接メールや電話をする。 営業任せにするのと比べると一長一短だし メール打つのは好きだからいっこうにかまわないが 上はやはりというか分化させたいらしい。 そもそもまともなメール書けない者が上に立ってるし。 でもあんたメールくらいは書けないと…と思うと、 学歴で人を計るなーって見方にも与したくなくなってくる。 うち程度のところだろうとさすがにメールくらいは…。
深夜のダメ恋図鑑最新刊読んだ。 もともとこの作家さんは好きだけど この漫画はヘンな売れ方しちゃったから心配だったけど トータルで見れば好きだけど やはり行きすぎなところもある。 不動産のお話はうさんくさいなあと思ってたら やはりというか担当編集からのお話らしい。 つまりネット上での「ありがちな」話なのだ。 多くの女性が、あるある、わかるわかる、としている。 でもそれって大体の人が、 そういう話を知ったからこれまで眠っていた獅子が目覚めたって話で、 純度がひくくて、 不健全な感じがする。
スーパーでまた遅いレジの人に一瞬いらだってしまった。 もたもたするなよ、と心の中で毒づいてた自分に嫌気。 いいじゃんね別に。 本人も一生懸命やってるんだろうし、 仮に一生懸命じゃなかったとしても、 別にいいじゃんね。 そう思っていきたい。 心にゆとりを!とか 人にやさしく!とかってより、 都市生活に支配されてる感じが嫌だ。
家帰ってすぐ飯の支度してちょっと休んで飯仕上げて ちょっと休んで洗い物して 余りものでかぼちゃパウンドつくって洗い物して 明日の飯の支度してついでにローストビーフサンド作って 今日記書いてる。これから風呂掃除、風呂、そして読みもの進める。 今さら、やることやって偉いでしょう、というところはあんまりなく、 でも、ちゃんと休んでて偉いでしょう、という自負はある。 休むのは大事だ。
Twitterで前から気になっていた人がフォローしてくれた。 だいたいフォローくらいでどうとも思わないけど 今は延々読みもの投稿してるだけだし 本来ならフォロー減るような真似してるわけで そんななかページ開いてちょっとでもツイート見て フォローすることを選んだくれたのなら それはとてもうれしいことだ。
いまちょっと目を横に向けたら 妻が飾ってる花瓶の花に蛾が止まっていた。 隣の部屋にいる妻を電話で呼び出すと 小器用にポリ袋でつかまえて外に放してやっていた。 蛾は嫌いだが生き物は殺したくないのだという。 しかし花に蛾か、ああなるほどなあと妙に実感してしまった。 部屋に飾ってある花は観賞用の花でしかなくて、 自然界においての虫の居所という現実と結びついてなかった。 そりゃそうだよねっていう。
2021年04月19日(月) |
生きる意味、生きている意味 |
知らない土地にいって記憶を失いたい。 知ってるものが知らないもののように感じる、 ジャメビュ的感覚は好みだ。 あれも異化の一種だろうか。 難しいことはなくて、 たとえば旅先で食べるカップ麺は 知ってる味であるにも関わらず 新奇の意味が迫ってくる感じがする。 今、あれを欲してる。
NHKの逆転人生、 いつも番組構成のあくどさにイライラしてしまう。 嫌なら見るな は正論でもなんでもない。 いろいろつつきようはあるけど とりあえず "嫌"で一くくりにまとめられるほど ネガティブ感情は単純じゃないし。
今日は脱北者の女性の半生を追っていた。 脱北にあたってはそれを専業としている ブローカーを頼るものらしい。 でもブローカーが道中で悪さを働いても露見しようがないし、 人身売買やレイプなどの危険は十二分にあるそうだ。 で、そういう恐ろしさを存分に紹介してから、 今回の彼女がその道中、メコン川を渡る際を振り返って、 「そのときブローカーは、 私たちを恐ろしいところへ連れ出そうとしていたのです」 と述べる。 こんな引きをされたら ブローカーがどんな悪さを…と疑りながら見ることになる。 実際には、ワニがうじゃうじゃいるところを小舟で渡ると。 警備の目をかいくぐるにはそこしかないからと。 …別に全然ブローカー悪くないじゃん!(今回は) それどころかはした金だろうに ブローカーごと命かけて川渡ってるし。 つまり番組の都合で そういう引きをさせたわけです。汚い。本当に汚い。 仮にそのつもりがなかったなら 単純に構成がへったくそだ。 でもそのつもりだったろうけど。 引きのためにやってた。確実。
その後彼女は韓国で、 北朝鮮出身の女性と韓国の独身男性を引き合わせる マッチングサービスを開始。 意外にも韓国男性からの問い合わせは多かったそうだ。 ワールドカップのときの美女応援団が報道されて話題になってたとか。 でも実際に合ってみると、女性は第一声から年収をたずねる。 じっくり仲を深めていきたい韓国男性は面食らうとのこと。 それを彼女は説得する。 もう絶対にみじめな生活に戻りたくないからなのだと。
僕が面白いなと思ったのは、 きっと韓国男性は、北朝鮮女性を下に見て登録してきてるのだ。 下に見て というのはつまり、 求める幸福の水準が低いだろうから おれでも幸せにできるだろうとか、 おれでも優良物件扱いになるだろうとか、 そういう相対的な目で場に臨んでる。 で、蓋開けてみたら第一声から年収。 ここにはドラマがあると思った。
会社の引っ越し先を見学した。 真新しいオフィスだとか立地だとかはどうでもよくて 席だけが問題だった。 どうやらこれまでのように 後ろが壁 というわけにもいかなくなるようだ。 仕事を人の何倍かこなしてから 仕事中に仕事ならざるあれこれをするのが この会社に居続けるメリットだったけど それすらなくなりそう。 ウーン面白くない。
自分の引っ越し先は見つからない。 ゆるゆる2年くらい探してるし この半年はかなり本腰入れてるけど見つからない。 なんとか石神井公園に住みたいのですが。 きれいめで広めの。
ローストビーフサンドうまい。
読みもののために ならず者を列挙していきたいのに 自分が敵視するようなならず者って もうあんまりいないみたいだ。 それなりに強くなったし ならず者たちの事情も見通してやれるから 敵として純化しない。 でもその構造自体を主題にできるかな。どうかな。 憎み切れない連中でも憎んでいいのかどうか。 憎むべき連中を愛してもいいのかどうか。
オーオーオー。
あなたが生きる意味はと問われたら 即答できるつもりでいたが よくよく考えてみればそれは 生きている意味 であって 生きる意味 とはまた別かもしれないと思った。 その違いは死を念頭に置くことで引き立つ。 生きる意味は 死を想定してみてやることで像を結びやすい。 生きる意味。 ありていにいえば、死に意味を与えるためと言えるだろうか。 よくいう話、死が到来したときには自分はもう無に帰している。 死は経験できない。 つまるところ、自分の死に意味を与えうるか以前に、 死は自分にとってのすべての意味を剥奪しうるのだから、 この答えは答えとして成立していない、と言えるかもしれないが、 死が自分にとって経験しえない事象であると前提しているからには、 それを語ろうとしている時点で、 生きている自分にとっての未来における死を仮想しているに過ぎないと あらかじめ話題を限局しているわけだから、 その意味において、 今生きている自分にとって、 やがて到来する死に意味を与えてやれるという実感さえ達成できれば、 これは成立するのだと思われる。
昨日に続いてやる気が出ない。 本は一冊読んだ。 アフターコロナの都市計画。 そりゃそうなるよねって内容が語られてる本。
天気はめちゃくちゃよくて 洗濯ものも干して気分は上々。 ミュークルドリーミーは これまでより子供向けになった気がする。 もともと子供向けなはずとはいえ あの高度なギャグの数々が子供にわかるのか疑問。
ローストビーフサンド作ろうとか にんにくを国産にしようとか ちょっと贅沢にスーパー堪能したら あっちゅーまに5000円いっとった。 贅沢こわ。
スーパー、コンビニ、ドラッグストアと 立て続けにレジで待たされ こんなことでイライラしたくないなあと思った。
自分の前で店員さんとお客さんとが ペチャクチャしゃべっていて 早くしろよという文句が一瞬頭によぎっちゃうとか。
買い物が、買い物だけを目的とした予定になってるから そう思えてくるのだ。 たとえば中東圏では売値をふっかけてくるという。 客はそれを値切る格好で交渉が始まる。 それで結局は適正価格に落ち着く。 じゃあ初めから適正価格で売れと言いたくなるのが合理主義。 しかし店主は言う。 「あなたとお話できたからそれでいいのだ」 ここには買い物が単なる金銭と品物の取引という目的にとどまるのでなく、 生活、生きる営みの一部となっている。 本来自分が体感する時間のすべては 生きる営みと一致しているはずで、 そこに無駄はあろうはずがない。 それを好き勝手に、生きる営みを生活のための目的別に切り刻んで、 一つ一つをタスクとしてこなそうとするから 時間がもったいないとか無駄にしたとか思えてくる。 都市化ってそういうことだ。 しっくり腑に落ちた。 自分が体感する時間のすべては 生きる営みと一致しているはずなのだ。
図書館で青木淳吾借りた。 あと、またコロナ後の都市計画についての本を。 野方図書館のおかげで都市計画まわりの本読むようになって 本当に収穫だったとつくづく思う。 いずれなんらかのお礼をしたいとたくらんでいるくらいだ。 でも図書館員も公務員だから何一つ謝礼は受け取れないんだろう。 それでも何らかの礼はできると思うけど。
昨日見た 酔いどれ天使について妻とちょっと話した。 その中で思ったこと。 三船演ずる松永にとっては、任侠道は間違いなく美徳であったはずだ。 しかしそれは兄貴分である岡田、親分によって打ち壊されてしまった。 じゃあ岡田と親分にとっては任侠とは嘘っぱちだったのか? というと、そうでもないんじゃないか。 つまり、武士道みたいなもので、任侠もまた 「これが任侠で、これが任侠じゃないですよ」とは成文化されていない。 成文化マニュアル化されていないから、 各々の信ずる任侠道があるはずだ。 それは大筋は合っていても、細やかな部分では統一はされておらず、 (そもそも"細やかかな部分"という見方自体がこの場合誤りだ) 各々にとって都合よく解釈されているはずのものだ。 コンプライアンスなんかとはまるで違う。 だから岡田と親分にとっても、それぞれの任侠道がある。 …というわけで、麻雀中の 「それにしたって親分、どうしてあんな死にぞこないを あのシマでのさばらせておくんですかい」 「近々よその組と戦争がありそうだからな、 そのときにあいつを鉄砲玉にさせるんだ」 みたいな会話を松永に聞かれた二人が 取り繕えないのはすごくがっかりだった。 お前らなら取り繕えるだろう。 いやそれは取り繕いですらない。本心から言えるはずだ。 「松永てめえ馬鹿野郎。 そのままくたばっちまうんじゃ情けねえだろう。 てめえはてめえなりに、 死にぞこないは死にぞこないなりに、 死にざまで男を見せてみろってんだ」 この程度の啖呵をきってみせればそれで充分なのに。 大事なのは、これは逆切れでもなんでもないってとこだ。 彼らにとっては等身大の任侠、侠気で表せるはずって点だ。 これが、現代的なものの見方に縛られてるとなかなか行きつかない。 でもとてもとても大事なことだ。
エロネタでちょっと思いついた。 エロは とくに自分用のエロは 全く取り繕いのないマジのガチの むきだしの好みが現れるはずだ。 どんなに本当の自分がわからないとか抜かしてる モラトリアム野郎だってそこんとこはガチだ。 それを細部まで突き詰めていけば話になる。 ちょっと面白いかも。
2021年04月17日(土) |
おとこ女かくあるべし |
朝なにげなくつけていたテレビに 氷川きよしが出ていて 女性寄りの中性的なその見た目に 妻が この人こんなんだったっけ と言うからここ数年の事情を伝えてやった。
僕も全然詳しく知るわけじゃないけども、 彼は やれLGBTがどうの制度がどうの などのメッセージは発しておらずに ただ行動で示しているだけなのだろうと思われ 妻に伝えながら 実に素晴らしいことだと感じ入った。 妙ちくりんな層から たわけた利用のされかたされないといいな。
雨でやる気が出ず 本もほとんど読まず ものも書けてない。
ウェイバックマシーンで キヨミズダイバー見て感慨にふけった。 ルビコンダイバーも。
黒澤を見た。 酔いどれ天使。 こんなに面白かったっけと首傾げるほど面白い。 今回初めて字幕つけてみた。 それで脚本のすばらしさを再認識。 そして三船敏郎のかっこいいことよ… ちょっとした後姿、つぶやき、手の仕草一つ一つに かっこよさがあふれてる。 他のどんな映画見るより真似しちゃうもんな。 態度でいうと 肺に穴空いてるってのに 久しぶりに会った兄貴分から酒を促されても 今病気あるから とはすぐに切り出さない、切り出せないところに 今時分には失われた男気が垣間見えたようだった。 打ち明けない理由はいろいろ考えられるけど 単に男としてダセーからなんだと思いたい。 それは病気患っちまったこと以上に、 そんなことを言い訳にする情けなさ、 さらにはそれを口にすることの情けなさが 彼にとってはダセーのだ。
なんか久しぶりに性欲に支配された一日だった。 性欲邪魔だな。足かせだ。
通勤途中 大通りの路肩にトラックが一時駐車されてるのを ひんぱんに見かける。 今日は自販機かコンビニかの飲料品配送車両の中の ダンボールが一部開けられてるのを見た。 缶コーヒーが何本か抜き取られてるっぽかった。
そんなわけはないだろうが、 運転手が途中でこじ開けて飲んでしまったのだ、 と想像してみた。 すると配達後、届け先から責められるわけだ。 配送業者としてはありえない過失で、 即座に会社へ報告され、深刻な事態となるだろう。
でもそんないけないことか?とも。 これが互いに会社を通さない、個人取引の商売なら、 各々の裁量で…というのも大げさだ、 そのときの気分次第で、 「飲んじゃったよ。うまかったゼ!」 「なにしてやがる。代金払って配送料まけろ」 「アイヨッ!」 くらいのやりとりで済む話だ。
で、まぁ日本人が中韓とか中東圏で なんらかの取引をしようとしたときに よく聞く話だ、こういうのは。 こっちの文化こっちの常識では 到底ありえないようなことをする。 品物を業者が盗んだり、壊したりなくしたり… で、揉める。 しかし、けど、でも、 それがそんなにいけないことか? 別にいいんじゃないの? コノヤローで済ませれば。 コノヤローで済まないから社会病理がドンドン加速していく。 盗みが発生すること自体は社会病理なんかじゃないだろう。 これを許さず線引きしなきゃってんで、 成文化された契約やら法やらが整備されて、 それに従おうとして窮屈になって病んで 倫理や道徳を自ら考え抜く必要もなくなっておばかんなって とまで書くと言いすぎですが。 こんなやり口は西欧とアメリカさんには妥当なのかしらんが 日本に適しているとは全く思えない。 コノヤローでいいと思うんですけどね。 実際問題、ここまで新自由主義が浸透しきった社会じゃ 今さら無理でしょうが。
暇さえあればパオンパオン言ってる。 中学のとき パオーン というのが自分のなかで流行って 辛抱強く続けてたら 友達も気に入ってくれて まっちゃんアレやってアレ とせがまれるまでになった。 いくよ ヴヴン … パオーン という間が大事なのだ。
twitterに書いてる話は これからガネーシャ像が絡みだすけど パオン癖とか全く関係がない。
なんとなく辞書を引いていて 歓喜団 という見慣れない言葉が引っかかり 見てみると 菓子だということで 興味ひかれて調べだしてみたら 歓喜天という神にたどり着き ちょっとおもしろいなと思って 読みもののギミックにこじつけることにした。
主題先行だけど 今回はギミックも凝ってやろうという野望がある。 素晴らしき日々の影響です。
いちおう 書こうとしている主題自体は面白いと思う…。 …"私"が他者と接するとき、他者は情報として扱われがちだ。 情報としての他者は"私"の中に住処をもつ。 作中の私は一部の他者のアドレスを爪に割り当てた。 その一部の他者とは、"私"が忌む敵だ。 社会的通念にとって悪とは限らないし、斟酌の余地もある。 だが"私"にとっては気にくわない。 そんな彼らを"私の地獄"に招待する。 "私"は日々がつらい。 そのつらさには妥当性がない。 社会的通念にとっては苦悩と見なされにくいものだ。 だが"私"にとってはつらい。 "私"の毎日は、心のなかで言い訳ばかりだ。 他人からどう見えようが、すべての行動に、"私"なりの理由がある。 おかしいと断じないでほしい。 "私"は必死で生きている。 それは"私"だけが知っている。 "私"の言語世界のなかでだけ成立している。 "私"の言語世界には言い訳が支配している領域がある。 そこが、"私"にとっての地獄だ。 ならず者たちは、その地獄のなかでどうか、 "私"の言い訳の嵐の中で、"私"の正しさに埋め尽くされてくれ。 その地獄へ落とす手立ては、 すべて"私"の中だけで完結する。 彼は情報として扱われるからだ。 彼自身がどう生きているかは、"私"には手に負えない。 そして…
で、結末につながっていくと。 主題にもかかわるし、場所性は大事にしたい。 住処、地域、サードプレイス。地獄。
主人公は27歳の女だ。 自分のなかで育ててきた女が、 かつては22歳の壁を超えられなかったが、 今はなんとかここまでたどり着いた。 30の大きな壁を前に、 一度、27歳を開放してみたくなった。 そしてまた、その苦悩も書き出してみたくなった。 正直なところ、男であるなら、 オトコである時点でその苦悩は乗り越えられてしまう。 オトコという物語によってだ。 それではその苦悩が現前しないから、女を媒体にする。
ちょっと思ったこと。 現代日本で少年少女のかかえる大抵の問題ごとは、 そりゃあもう押しなべてって言っていいくらい、 漫画で語られてる。 そして文学は必ずしも答えを示さないが、 漫画はなんらかの答えを、少なくとも方針を示す。 だいたい解決されてる。 青少年までいってもそう。 これが青年期までいくとそうでもなくなってくる。 「その頃回収されなかった苦悩」の描出も主題だ。
あとはなんだっけ…。 中途半端なところか。 善と悪、祈りと呪い、などなど二項対立の極端は、 「どちらとも言い切れない」と 「どちらの属性も併せて含有している」という 複雑怪奇な様相を示しがちだ、人間は。 論理の上では並立しないはずのそれらが、 しかし実際並び立つという実相を証明したい。 人は人を呪いながら祈れるし、地獄へ落としながら愛せる。
三千世界。 仏教のフィールドにおいては多種多様な世界がある。 その数は三千にも及ぶ。 自分はその世界のどこに属しているか考える。 しかしそれは逆である。 今ここでこうしている自分の、 一瞬でうつろうめまぐるしい心に、 すでに三千の世界があるのである。 三千の世界が及んでいるのである。 善意も悪意も、祈りも呪いも、 そうした相反し合う情念もひっくるめて、三千の世界が渦巻いている。 自分と関わり合った他者は、その三千の世界のどこかに置かれる。 そのひとつが爪のなかの地獄であるに過ぎない。 自分もまた、誰かの三千世界のどこかに身を配される。 Aさんの、Bさんの、Cさんの…。 そこいらに自分は割拠している。 それぞれの世界にはそれぞれの秩序、ルールがあるはずである。 それぞれの重力があり、それぞれの名付けかたがある。 この世界を… うーん こんがらがってきた。 まだ整理しきれてないな。
2021年04月15日(木) |
変わったとか変わんないとか |
今は精神のすさみに自覚的でありたいという目論見があり ここにはなるべくネガティブな感情を書き起こしてるけど 実際にはなかなか機嫌よく過ごせている時間が多い。 なにしろ春なので。 この空気の気持ちよさは何にも代えがたい。
日本は破産法が厳しく 比べるとアメリカは破産しても 前途が途絶えないので リスクを負ってチャレンジしやすい、 だからスタートアップ企業が 果敢に市場に乗り込んでいく といった話を仕入れた。フーン。
街並みが変わっていく。 飲食店はつぶれても再起するけど 本屋や古本屋は減る一方だ。 ネット商戦に押され 店舗経営縮小傾向にあるし 残るのは資本力のあるチェーン店ばかりとなり 街は個性を失って 似たような街ばかりになって まったくもってつまらない。
だから下の世代をかわいそうに思う。 と、言い出すと いかにも旧来の、老害という感じがする。 とりわけネット上ではありきたりな論調だ。
でも、その下の世代にとっての当たり前を尊重しようという 個人主義万歳の風潮は信用ならない。 いかにも正しいそうってだけで 突き詰めてみればあやしい。 それはそれで、安直な答えにとどまってる気がする。 放っとくだけでいいわけだし気楽なもんだ。 せめぎあいもいるだろう。
いやな流行り言葉。使わないようにしてる。 「雑」 「こんなに〜なことある?」 「アウトプット/インプット」 最近になって「言語化」もいやんなってきた。
さくばん入浴中 バンプの「K」を口ずさんでみたところ 青臭すぎてあまり好きじゃなかったなと妻が言う。 それに加えて、最近ナナナンキリコを読み返してみたら やはり青臭くさが過ぎて のりきれなかったという。 「でも昔はこういうの好きだったんだよなーって懐かしくなった」 と。 僕は僕でちょうど昔を振り返っていたので 「15、6、7、あたりの頃と、今の自分と、 あー何も変わってないなーって思うよ。 と同時に、 あー全然違うなーっとも思うよ」 と。
何にも変わってないなぁとも思うし、 全然違うなぁとも思う。 それは両立するものだ。 それも全体性としてだ。 変わった部分もあるし変わらない部分もある、ではなく、 全面的に変わってない と同時に 全面的に変わった が併存する。
妻は僕に、きみは変わったよねという。 昔はもっとちゃらかっただの詐欺師っぽかっただのと。 今は丸くなった、気難しくなった、 コミュ障っぽくなった、根暗だと。 一般論でいえば真面目な方がいいはずだが、 オトコとしての物足りなさでも感じているのだろうか。 くそくらえなので我が道を行く。 真面目も不真面目も併せ呑んで 唯一独自の道を切り開いていくのだ。 しかし誰になんと思われようが誤解されようが認められなかろうが 自分一人そのつもりで営業していくつもりであろうと ただ妻一人にだけは理解されたいところもあったから 少なからずショックだった。 とりあえず だいたい皆年を経るにつれて 自分はこういう人間なんだ という無意識的な決めつけや意識的な決意をして あちらこちらの観念をわが身に固定化させる。 あぁはならないぞ でもならないと決めつけもまたしないぞ というような話をした。
保坂和志の 小説のなんとかいう本を読み ちっとも小説脳のない自分を見せつけられる。 青木淳吾また読みたいな。 日本語文の作用が変わる、 小説でしかなしえないあの味わい。
わかっちゃあいた とはいえ 読みもの完全無反応はややつらい。 まだ2割も書けてないのだし この程度でくじけちゃいかんのだけど。 反応ないままだとスゲーェやる気なくなる。 これはたしかだ。 わざわざTwitterで タイムラインのお目汚しして 疎まれてるんじゃないかってのも 考えるだけで気が滅入る。 書いてるもののヘタさも目に余るし あらゆる粗が様々な観点から照射されて うめき声あげちゃう。 それでもやる、やりきると決めたから やってやるんだけども。 うすぐらいモチベーションの一つに フォロワーたくさんいる連中は もうこういう勝手はできないだろう フン みたいな思いがある。 それ自体は悪くない。
ミュークルドリーミーみっくす、 あいかわらずに超高速テンポのよさに満足。 心の中の飢えが満たされていく感じする。 オープニングとエンディングはやはり前の方が良かったけど…。
高円寺から新高円寺にかけて散在している古着屋をいくつかまわった。 なにも買ってない。 聞いたことないブランドのデニムのコートがとても素晴らしいと思ったけど 5万して諦めた。 まぁブランド知らな過ぎてだいたい聞いたことないってなるんだけど。
図書館行って本の購入を申請。 正規の司書さんが呼び出されて申請書一つ用意するのに 大変あちらこちら走り回ってらした。ごめんなさい。
コンビニで 90過ぎと思われるおばあさまが会計にてこずってらした。 品物は10点ほど、カートを引き引き、 あとは支払うだけなのだが、 その支払いという行動がぴんとこないようで、 何かしなくちゃいけないはずなのはわかってるんだけど… という様子。 店員さんも困ってらした。 かくなる上はとバッグを店員さんに預けて、 これでお願いしますといった旨を告げていた。 しかし 「バッグの中に財布が入っているからそれを取り出して会計をよろしく」 と明言されたわけじゃないから、 さすがに店員さんもバッグを開けかねて、フリーズしていた。 僕は隣のレジに通されてしまったから ことの顛末は知らない。 あれは助けようにも助けられないし せめて野次馬的に見届けるのだけは避けようと店を去ったので。
高齢化社会では接客業のありようも変わるのだなあと思った。 当のおばあさんと僕の間には80くらいのおばあさんがいて、 そちらの方が前のおばあさんを見やる目が印象的だった。 おそれと哀れみと苛立ちと情けがいりまじったような…。
他者について。 この世に顕在している他者と、 自分のうちに取り込んだ、記憶の住人としての他者がいる。 前者をA、後者をBと呼んでみる。 直接コミュニケーションをしているとき、それはAを相手どっている。 しかし直接でないとき、 その人を思い浮かべていたり、あるいはネット上で交流している間などは、 それはBだ。 その人を祝うとき、その人を呪うとき、やはりBだ。 直接、顔を見て接している時間だけがAだ。 それにしてみても、Bありきで接することとなる。 Bはつまり情報の集合体で、 いうなれば「私」の延長でもある。 Aは生き物で、何が何やらわからない未知の存在だ。 Aに危害を加えることは許されない。 しかし、Bに危害を加えることは、Aに危険をもたらさない。 それで「私」が救われることがあるのなら、 果たしてそれは罪といえるだろうか。 社会通念上は是としないだろう。 しかしBは「私」の内在にとどまる。表沙汰にならない。 とかなんとか。
西東京へ妻とデート。 青梅駅に降り立ち玉川を堪能。 妻は清流に足を浸した。 冷たすぎる、全然気持ちよくないと笑っていた。
川沿いには重要文化財の なんとか邸という古民家があり 茅葺き風のがち古民家でやや尻込みしたが 縁側から眺める風景が素晴らしかった。 春の陽気と、そよ風というにはやや強い北風と、 緑と、勢いのある川の無遠慮な音と、鳥のさえずりと、 囲炉裏からはパチパチ炭の焼けゆく音。 部屋の中の畳のうえに座って眺める景色はなおよかった。 暗い室内は隅を見やれば黒々として あぁこれが谷崎のいう陰影なのだなあとぼんやり思った。 管理人のおばさまが言うには 例年だと春先には花見客、暖かくなればバーベキュー、 夏には川遊びで一帯は大変にぎやかだそうで、 コロナ禍を嘆く様子だったけれど、 正直なところ喧噪よりは今日くらいの静けさがちょうどいい。 ささやかな自然音がよく通るくらいの。
喫茶店では緊急事態宣言の終了と 新たなまん延防止策について妻と語り、 政財界のシステムについて触れ、 僕は建築を領分としている人たちの三次元的認識が 有用なのではないかと持論を展開して、 グローバリゼーションへの憎悪につなげた。 アーモンドシュークリームはずいぶん深みのない味で、 ケーキ屋では決して出てこないであろう素朴さだった。
青梅駅のモスバーガーの入口には 「私は昨日羽村のチューリップ畑に行ってきました。」 から始まる店員さんの挨拶がブラックボードに書かれていて なんと美しい日本語なのだろうと思った。 チューリップ畑に行ってきました。 こういう日本語だけで日々をまかなえたら それはとても素敵なことだ。
奥多摩方面へ足を延ばす予定を翻し 立川で買い物。 コロナ禍でおとなしくしていた分 おおよそ一年ぶりの買い物となり 妻は時計を、 僕は靴とバッグとパンツとシャツをいっぺんに買った。 タケオキクチはもっと高いイメージがあったが 4点で4万ならかなり得だと思う。 さらには、ポーカーフェイスでメガネを試着して、 カラーレンズやサングラスに興味を持った。 気に入ったのが5万したので手は出さず。 しかしこうしてみると、 自分はこれまで財産の多寡で行動を左右されないつもりでいたし、 制限もかけてない自信もあったはずが、 実のところ衣服に関しては、我慢しているのかもしれないと思い至った。 たぶん、もっとずっと金があったら、 あれもこれも買ってしまいたいのだ。 それこそ桁の違う服を。あれもこれも。
服の面白いところは、着るのが自分だというところだ。 自分という無料のプレイヤーキャラクターを 好きに着せ替えて 自由に動かせる。 すごい。
電車移動の最中は それ町を二人で読んでいた。
休日らしい休日。 帰り際、駅前の書店で本の取り寄せを注文した。 多元共生社会の構想がどうとかいう。 図書館で借りたものを浴室で読んでしまったばかりに ページの一部が湿気てしまったから 確認するまでもなく買いなおすことにした。 経験上、ぬれずとも蒸気で湿気てしまう紙質の本は 30冊に1冊程度なのだけど さすがにもう控えようと思う。 少なくとも借りものでは。
新社屋のセキュリティキーだかカードだかを 見学しに行った同僚が紛失してしまったらしく 小さな騒ぎになっていた。 部署が違うから 当の彼女と接することはないけれど 心から同情した。 明日は我が身だ。 ああいうの、誰が他人事として責められるっていうんだろう。
それは数時間経ってから無事見つかった。 特命を任ぜられた別の同僚が見学場所から発見したらしい。 彼女は当面のあいだ彼に頭が上がらないだろうと思われるが 彼は別に彼を彼たらしめる人格の達成において その手柄を得たわけじゃなく たまたま役柄がまわってきただけだ。 この認識においては彼は誰とも交換可能な匿名者になり下がる。 別に彼が彼である必要はない。 なのになぜ彼女は彼に感謝し恩を表明していくことになるのか。
べつにその彼の名誉を貶したいのでなくって 思考の物種として なかなか興味深いことだと思った。
どうでもいい話題。 ラズベリーキューブのオープニング曲がいい。 いかにもキャッチーで 音楽をよく知ってる人からすれば あぁこのパターンね そういうコード進行ね つくれるつくれる みたいなこと言われちゃいそうだけど(偏見) 結局自分は耳肥えてないから わかりやすくキャッチーな歌が好きというのはある。 作詞作曲が堀なんとかさんという業界では有名な人らしく ニコニコあたりを出自とするそうで ベースのうねりが気持ちいい。 でオープニング映像もちょっと中毒性がある。 いかにもオタク向けでございってかんじの。 まじめにフェミやってる人からも 不真面目なフェミからもあいてされなさそうな。 僕でさえエッきもちわるっ と一瞬みがまえたくなるほどコテコテの美少女絵。 今や若い世代が旧世代に比べアニメ絵に抵抗なくなってて いわゆる萌え絵みたいな絵柄ですら市民権を得つつある という見識には否定的立場をとるつもりないけど 往年の美少女絵、ギャルゲーっぽい絵は やはり今もってなお蔑視されてしまうと思う。 蔑視とまではいかなくとも軽視や無視とか。 そういった絵柄を先鋭化させたところにラノベ絵があって、 さらに洗練させるとソシャゲ絵になって、 ここまでくるとだいぶ市民権。というイメージ。
読みもの一章目を投稿し終えた。 頭んなかでごちゃごちゃイメージ膨らませる作業が一番楽しいかな。 整理していくのがその次で、 話に落とし込んでいくのがその次で、 成文化がいちばんめんどい。
レヴィナスの他者論、 都市学における場所論、 祈りと呪いなどの二項対立の超克、 錯誤、 コミュニケーション不能、 つまらない人間の筋合い、 言い訳(理由、根拠、正当性妥当性)、 あらゆる敵を愛してみよう。
2021年04月08日(木) |
コミュニケーション上の笑い |
12時から13時まで休憩 その正規の休憩時間はほしいままに 11時50分から10分弱トイレにこもり 13時15分から10分弱トイレにこもる彼 頭おかしいんかなと思う。 15時から15分間の小休憩があるのだけど その前後も似たような感じ。毎日。 サボってるわけじゃない、 がぎりぎり通る汚い汚い釈明が 彼の中で用意されてそうで その自分で自分を納得させてる感じに吐き気がする。 それで尊敬されようはずもないし 尊敬の念がどれだけ指示系統に影響するか 見通せていない鈍麻な意識に対して呆れる。
あげくたくさんある空き時間は仕事してるふりしてるという。 サーバー上の階層をいったりきたり、 フォルダを作成して名前を付けて削除したり、 手だけは動かしておいて、何もしていないという。 もっと、いくらでもやることあるのに。 同じポストにいたからわかる。もったいない。
体制が変わって以来 能力如何より年功序列が優先されてしまい こんなのが上になってしまった。 もちろん空き時間に待機しておくのも 立派な仕事であるけれども それをひっくるめたうえであれはだめだ。
バカをバカ呼ばわりしたくないし 人のバカをバカにしたくもないし こんなしょーもない くだらないことに 意識を払いたくはないのだけど バカって本当に人の悪いところを掘り出してくる。 押し込めよう、封じよう、 圧殺してしまおうと 奥の奥にまで追いやっていた 醜い性質をえぐりだしてくる。 きれいでいたいのにと願うほど そのギャップに身もだえすることになる。 でもこれも自分の正体なんだもんなあ いや これこそとでもいうのか。 きれいでいられなかったとしても きれいごとをはき続けることはできるはずだけど きれいごとをはき続けるには途方もない強さがいる。 僕はまだまだ弱いってことだ。
後輩のひとりが 会話のあいま頻繁に笑い出す人で それが愛嬌や愛想でなく こりゃあおっかしいや って笑い方で べつに無礼ではないし とりあえず笑っとけの極致というか 他の人は気にならないのかもしれないけど 僕は辛抱たまらない。 面白くもないのに笑うのは、 人のを見てるだけでもいらいらする。 「敵意はありません」と 「笑ってるので許してね」と 「発言を最後まで言い切ってないけど 文末の言葉選びに困るから笑い声にしておくね」と そういった無数のごまかしというか これも"言い訳"の亜種だと思うんだけど そういったものが凝縮されてる。
で、思ったこと。 この人はとりあえず何にでも笑っておくという人だけど とくに相手の発言に関しては ちょっとでも冗談かなと汲み取れそうな調子があったら 吹き出すように笑う。 でもこれが、自分が会話に参加してなければ、 そういう発言が聞こえていても別に全く笑わない。
そりゃそうだというか、これは誰にでもあることで、 よっぽど面白い発言でもなければ 対話者でもないのに笑ったりはしない。 でもその手の よっぽど面白いというわけでもない発言ばかりで 大抵の会話は組み立てられていて、 そういう発言をされると 対話者であれば笑うよなあと。 つまり大体ほとんど嘘の笑いってことだ。 笑おうとして笑ってるだけの。 そりゃあコミュニケーション上の 笑う ってそういうもんだけど 思ってる以上に そういうもん なんじゃないかと。
彼のおかげでそんなこと考えた。
アニメの空手バカ一代の第一話を見た。 あれだけ実写を挟んでくるとは… なんか戦争から始まったし、 主人公思いのほか鬱屈してるし… 期待とは違ったかたちで面白かった。
洗濯ものが雨でぬれた。 全然心乱されなかった。 不運や不幸や不遇、 原因が人によるものじゃなけりゃどうでもいいな。 平和で飽食だからこんなことを言う。
二十代前半の頃に友人としていたネットラジオを なんとなく聞き返してみたところ やたらノリが若くてきつかった。 当事者的には良き思い出だし フレッシュで可愛いことよとほほえましくもあるけども。
今はもうこんなスラスラと話を転がせはしないだろう。 と思うと俄然やる気にもなってくる。 その友人に声かけて 一回くらいやってみるかな公開はせずに。
Twitter上で飛び交わされるネタツイ、議論ツイに 怨念がわきわき。 以前より強まってるかも。 あまりよくない方なんだろうな。 嫉妬もあるかも。
ちょっと前の話題だけど 小泉のあんちゃん 彼自身の善し悪しはさておき 彼を話題にしようとした際の ネット上の論調きもちわるいなあってかんじ。
いるよなあこういうやつっていう。
クラスでちょっと変わりもので 皆からよくいじられて笑われてる、 そういう手合がいるからって 全然つっこむところじゃないのに やたらとつっこんで 笑い取ろうとして しかも見かけの雰囲気は笑いとれてるから 割りと満足してるっていう。 そういうやついる。 ださいしつまんないし汚い。 お膳立てされたムーブメントにのっかって 安全圏でせせら笑うだけという… 石油-プラスチックの話題はほんと最悪だったなあ がきくさいったらなかった。 意外と知られてないんですけど という言葉をそのまんま額面通りに受け止めて 何一つ想像を働かせず 情報に振り回されるだけのくだらない雑魚たち。 こちらとて小泉のあんちゃん憎しというのはあるんだけど それ以上に苛ついたかもしれないってくらい。
高1くらいの頃が 一番ニュース見ててむかついてたな。 政治家どもはあほばっかりだ、 その政治家を持ち上げるメディアも たたくメディアもあほばっかりだ、 こんなあほな国があってたまるかと 若さゆえの熱きちしおが たぎってしまって収まんなくって テレビ画面ぶんなぐってた。 今はどっちかつうと ニュース見るたび あぁ世に並みいる雑魚どもは きっとこんな風に捉えてるんだろなと 勝手に邪推して苛立ってる。
そとみからは すっかりなりを潜めたと見せかけて 黒い衝動は今でもばりばりある。 日清の広報が滑り倒しているという話題を見ると スカッ とする。
つまんないネタを取り上げて つまんねえつまんねえ とトピック化する俗っぽさに呆れながら、 つまんなさを共有できること自体には胸がすくのだった。 でも一次感情はしかたないよね… 表にださんようこれからも内に秘めてこ。
あーいう広告ものは 話題にした時点で負けみたいなところもあるから 不快だったら無視するのが一番 とわかってる わかってても分かち合いたいあの不快感 そういうからくりです。
あーいうん作ってるならず者ども 何もない部屋に監禁して 猿ぐつわかまして何もしゃべれないようにして 一晩中 ただただ つまらないよ つまらないよ と延々言い聞かせる そういう陰湿極まりない サイテーな妄想をして ようやく叫ばずにいられる。
監禁して反論できないようにして… というのは脳内の憂さ晴らしとしてよくやる。 これはですねー 対話を恐れる現代的なですねー とTVショーのコメンテーターに一蹴されちゃうような。 陰険で陰湿でまったく健康的でない悪徳さ。
しかしこれもまた 今回の読み物で超克していきたいテーマでもある。 勝手に邪推して勝手に人さまを呪って。 頭んなかで監禁して頭んなかで憂さを晴らして。 それでも祝福してやりたいと。
今の問題は 数々の誤解をとこうとしなかったことに起因してる。 一定期間に生じた不備のあれこれの責を全面的に負って それでよしとしていたことが今の問題に帰結してる。 後輩のミス、マシンの不調子、 ちょっとしたタイミングのずれで傍からは失策に見える実体なき不備、 パズルの完成を前に散らばったピースから判断されて段取り下手扱い、 よくある数々のこうした不適な評点の一切は 本来なら正しい事実関係を報告するのが義務なはずだが 生来の気質のため一言たりとも訳を説明する気になれなかった。 言い訳にしか思えないのが嫌だからだ。 それを聞くことになる逆の立場は容易く想定できる。 だから詰問されてもハイ、ハイ、と応じるばかりだった。 犯してないの間違いを犯したことにして、 それでも誠実に過ごし続けていれば だいたい誤解は解けるもんだし これまでさんざん同じようなことはあって そのたびにちゃんと見直してもらえてたから かえって経験があだになったのかもしれない。 世界を信じすぎていた。 向こうからすれば (他人からの歪んだ)情報と(直接の先入観ありきの)印象で 信頼が抜けてったってとこか。 でもそんなに悪いんかな。 依然、何も悪いことはしてないんだけれど。
架空のミスで(情報で)侮られてるのは今もってどうでもいい。 仕事できすぎでドンドン仕事が増えていき 他の人の1週間分の作業を1日でこなし続ける悲劇も過去あったから もうそれを避けたいって打算もある。 自分は間違ってないと、自分だけがわかってれば問題ない。 ただそのためには、胸中においてだけは自己弁護していく格好になる。 自分の中には言い訳が渦巻いていくようになる。 それが苦悩になる。
僕には僕なりの妥当性、僕なりの正解、 僕なりの真実があって、 一つ一つの行動に理由もつけることができる。 しかしそれを人から問われたら、 断片的にしか伝えることはできない。 会話には音楽的リズムが求められ、また時間的制限にも縛られる。 真実的に緻密な話をしようとしたところで聞き手は退屈してしまい 話し手にしてみても面倒になってしまいがちだ。 こういうときほとんどの聞き手は 話し手の言葉一つ一つを誠実に聞き取りはせず また話し手の論法を読み取ろうともせず なんとなくな"印象"と"先入観"で 「話を聞きながら」自分なりの答えを 「話を聞き終わる前に」出してしまう。 仕事に限らないし、僕に限った事柄じゃない。 ありふれた構造なはずだ。
誤解はテーマになりうる。 言い訳もそこにくっつくだろう。 誰になんと思われようが 自分さえわかってればいいという達観さえも 心のなかは おれは間違ってないのに おれは正しいのに おれは真実を知ってるのに など自己防衛からくる感情にまみれて地獄と化す。
でも本当は、 私だって本当は、本当のところは、 知ってもらえたら、理解してもらえたら、 いい人なんだよ… と認めてもらいたいものなのだろう、誰しも。 半端に理解を求めるよりは 勝手に誤解されてた方がましってことはあっても 心からの理解はされたいはずだ。 それに人のことを理解してやりたいのももちろん。
こんなふうに言葉を練らず だらだらと心中を書きなぐるのは高校の時分以来かもしれない。 たしかに考えがまとまる気はする。 でも考えようとしている思考体系はかなりの大物で、 言葉を練らないことには真相に接近できないかもしれない。 理解と誤解。 人を知ること。人に知られること。 コミュニケーション。 印象。 人を見ること。人に見られること。
リングにかけろ!を読み返してるのですが オリンポス12神編はスカスカだなあと。 それでも好きだけど。 ボクシングまともにやってた初期を思い返すとブルーになる。 菊ねえちゃんもかわいそうだ。 バトル漫画展開のためにせっかくの人格が駒にされて。 しかし23巻からの流れは好きで好きでたまらないのだった。 とくに最終戦直前の展開。 景気のわるい、貧乏くさい人情話やってたころが ここにきてようやく思い返され、 キャラとキャラが噛み合ってドラマが爆発する。 ラストもベタだけどあのテンカウント大好きだな。
そして改めてあの漫画を観察してると 必殺パンチで攻撃力はあがっていくばかりだけど 防御力やヒットポイントがあがるわけじゃないから 整合性を捨て置いているとはいえ いくらなんでもさすがに ってなってくるのが十二神編。 そう考えると 十二神編に輪をかけてスカスカな阿修羅編も再評価できる。 防御力やらヒットポイントがあるという。
で、リンかけにおける数多の問題点を みごと超克したのが聖闘士星矢なんだなあと。 聖衣の設定があるからいくらでも必殺技を強くしていってもいい。
ただ聖闘士星矢、 さっこんのポリコレ過剰社会からすると 目の敵にされてもおかしくない、 いやされないとおかしい、されろ、とすら思えてしまうほど 前時代的だ。
身分の上下関係が定まりきった封建制度下の役回り、 現在過去未来と一生分の自由が奪われてる、 女人禁制または女人にだけ厳しい掟、 問題ごとは暴力で解決、 まだまだあるけど そもそも聖闘士の社会には人権という概念がない。 でも「アテナのために!」を号令にしたら 何もかも美徳になっちゃうのです。
でもたしかに男側からだけなら それはそれで成立してしまうのです。 女たちは アテナの身の上に自分を仮託して読めばいい、 自分のためだけに無数の男たちが戦ってくれるのだ、 命を懸けて守ってくれるのだ、 誉れ高い感じも味わえるだろうと。 女がそんな物語を押し付けられる不自由を嘆く程度の自由は 実現しつつあるのが現在の日本だと思いますが
それにしても、 「アテナのために!」 でビシッと固まる価値観、 この美徳はなおも美徳なんじゃないかとも思うのです。 男は男らしく、 女は女らしく、 という前時代的固定観念がどれだけ否定されようと、 男らしくから抽出された美徳、 女らしくから抽出された美徳は、 今もってなお大事にしていっていいと思うのです。
やはり若者の自転車の二人乗りは 男がこぐべきだと思うのです。 という話。
妻が買ってきた花を活けながら ワアキャアわめいとった。 「なんか知らないんだけどお花屋さんが ちっこいリンゴもつけてくれた」 「リンゴじゃん、本物かよなにそれ食べれるの」 「食べられないんじゃない」 「なんかさ、今のすっごいモテない男っぽくなかった?」 「うん。なんかモテない男のセリフだね」 「でも彼女はいる感じの」 「ああ、彼女相手のセリフだよね」 「もうじきフラれる感じの」 「意外とフラれないんじゃない?」 「そうか、意外とフラれない。それもわかる。人畜無害でね」 「できた」 「おお。…なんだその、カメレオンが舌巻いてるみたいなのは」 「ぜんまい」 「は? 花屋で? 山菜?」 「大きくていいなーと思って買っちゃった」 「面白いけど。それは食べれるの?」 「食べれるんじゃない?」
バージョンアップのお知らせってメールがきてるけど、 と話しかけられ久しぶりに全身が強張った。 応対不要の旨を説明しようとする舌がもつれて挙動不審になる。 何がそんなに気にくわないのか顔を歪ませたまま あぁ、はい、とだけ小声で言い捨てられて冷たい怒りが募った。 今はもう苛立つことができるからまだいいか。 会社が嫌だ、と嘆く現代人のありがちな苦悩の一片を 少なからず知れたのはまあこの人のおかげだ。 そう自分に言い聞かせれば苛立ちも抑え込める。
衿沢世衣子の 「ベランダは難攻不落のラ・フランス」読んだ。 めちゃくちゃ面白かった…。 短編とはいえこんなん一作仕上げるだけで 一生分の生命力賭けた宝物だ、それを量産してくれやがって、 世衣子め、と、悔しいやら感動するやら情動が忙しい。
電車に乗り込むと足を広げて座ってるならずものが。 40くらいの大柄な男で、隣の空席にはみ出しているから 気の弱い人だったらそこへは座れない。 僕はこういうとき気が強いから 他に空席があろうと敢えてならずものの隣に座る。 するとちょっと彼は足をひっこめた。 し、よくよく見れば日本人ではない。東南アジア系。 こうなると敵意はどこへやら、むしろ悪いことしたな、 くらいの罪悪感までせりあがってくる。 外国人には弱い。 多少モラルに反していても、まぁ異文化だもんな仕方ないか、 と許してやりたくなる。 これはこれで外国人差別なのだと思う。
電車内には無数のルールや約束事があり そのモラルの試験場のなかで 僕はだいぶ厳しい方だ。 ちょいちょい お前初めて電車乗ったんか という詰め寄りから始まる脳内論戦を思い描いてしまうけれど 冷静になってみれば ほぼ初めて乗ったに等しい人 だって十分ありうるはずなんだな。 電車内で見かける他人がどんな人間かだなんてわかるはずないんだし。 いろいろわけあって十数年ほぼ乗ってきてなかったとか、 東京の電車には不慣れだとか、外国暮らしが長かったとか たまたま体調が悪いとか精神的に不安定だとか 十分ありうるはずなんだよな。 ここ一年くらいでようやくその容赦になれてきた。
夕飯食ってから NHKの逆転人生で フォントを作成してる家族経営のちっこい会社を追ってて 親子三代 九十くらい、六十五くらい、四十くらい の男三人だったんですが 字をデザインしてるのが全部九十のおじいちゃんで それも手書き 子と孫は案を出したり販売したりなどしっかり経営してるけど なにぶんおじいちゃん頼りだし 案出して書いてもらってそれを後ろで観てるさまが 老人虐待みたいで異様な画だった。 しかもちょっとした映像の切り替え時に このおじいちゃんが料理してるカットが差しこまれて その飯を3人で食ってて 飯までじじいに作らせるのかよ という衝撃でかなり笑った。
月曜日しんどい。 仕事終わって家帰ってきたらもう何もできない、 という日々を過ごしてるわけじゃないが 月曜だけはかなりそれに近い。 洗いものもするし飯もつくるけど… 精神力も体力もおっつかない。 頭も回らないし。 仕事があほらしい。 あんな仕事ごときで私生活が乱されてるのあほらしいったらない。 同僚がつまらない雑魚ばっかりになってしまったから 会社にまつわる話の一切を面白おかしく仕立てる気にもなれない。 ここまで書いて消そうか悩んだけど 今は初めてこうした愚痴を書き残しておこう どんなにみっともなくても一回やっておこう って気になってるからそうしてみる。
2021年04月04日(日) |
日々の過ごし方と、褒められと貶され |
ミュークルドリーミーおわつちまつた。 来週から続編だけど。 オープニングとエンディングがめちゃくちゃ好きだったので それだけでも切ない。 二次裏覗いてみたら やっぱりというか ぎょうさんオープニングへの愛が語られてて ちょっと救われた。
イザベルという映画を見た。 ポルトガルから中国へ返還される直前の マカオを舞台とした香港映画。 不良刑事のもとに娘を名乗る女子高生が転がり込んでくる。 母が娼婦だったらしい。その母と主人公が関係してできた子らしい。 そのあたりの筋書やら ちょっとしたカット、構図とか 人物の飛び跳ね具合が いい感じに日本の90年代のマンガやドラマっぽくて しかもそれをハイレベルにやってくれてるものだから感激した。 ガラス瓶の叩き割り方を指南してるところめちゃくちゃよかった。 「次は二本構えろ。意味はないが、景気がいい」
本は 文鳥に関する本と 多元的共生社会がどうのこうのって本を読んだけど 一日中眠くて頭入ってこないし頭働かないし あまり身にならなかった。
スーパーで買い物した後久しぶりに八百屋へ行った。 個人商店を応援したい気持ちが強いので 多少割高であっても 野菜だけなるべく特定の八百屋で買おうとしていた時期があって しかし四年通い詰めてるのに ろくろく愛想もらえてないなとほとんど毎回思ってて ちょっといじけてこの一ヵ月は顔出してなかったんでした。 一ヵ月ぶりでもあまり変わらない。そういうものか。 慣れ慣れしくされても嫌だしな…こんなもんって思ってた方がいいのか。 他のお客様へはフレンドリーなんだけど…。
昨日買ったフライパンをデビューさせようと 餃子つくって焼いた。 こびりつかないどころじゃない。つるつる。 お料理がうまくいくと一日が救われた気分になりますね。
週7で三食メシつくって 週6で洗濯して 趣味といえば本読んで映画見て音楽聞いて 書いて描いて菓子作って チャリンコこいで それら全部足しても月に1万もかかんなくて ギャンブルしないし酒飲まないし 夜遊びせず人付き合いもほとんどなく 仕事の愚痴も吐かないし 読んだ本の面白いとこだけ抜粋して言い聞かせるし まいんち三回皿洗いして マッサージまでしてやれる、 おれはがんばってる。がんばってるぞー ということをここに残しておく。 いつまでこんな生活続けられるかわかんないし。
あとどれだけ褒められポイント高めても ふるまい一つで人品は容易くひっくり返るからあやうい。 余裕は全然ない。 過去二回、面と向かって「いやなやつ」と人から言われたこと、 どれだけ年月経っても自分の核を蝕むように巣食ってる。 言われといてよかったんだろうな。
早めに目え覚まして 声が出るほどいい天気で 飯作って洗濯して食って干して掃除機かけて 妻との共同口座に3月分の預金しに行ったら 通帳もカードも忘れててこの世を呪う。 自分が悪いんだけど。
仕事用の靴とフライパン買った。 どっちも間に合わせのやすいやつ。 それでも8000円。 この4月から総額表示のはずなのに さらに消費税加わって体感痛かったな。 美容院も行ってスーパー行ってパン屋でパンぽこぽこ買って、 なんにも「これ」という買いもんしてないのに どかどか金が出ていく。
で図書館に行く。 3月は1日1冊くらいのペースで本を読んだ。 読書メーターによるとまいんち平均200ページ読んでたらしい。 20冊くらいは図書館から借りたもの。 ゼロ円。 図書館スゲー。
でも出版業界に というか著作者にお金入ってほしいし 月あたりの本への支出額増やすことにした。
天気のよさと風のよさに負けて どうしてもソフトクリームが食べたくなり コンビニを探すもセブンイレブンしかなくて参った。 僕はセブンイレブンが嫌いなのです。嫌いの上に大がつく。 コンビニエンスストアがまだ出たての頃 セブンイレブンは同地域に複数店舗を置くようにして 移送コストの低減を実現した というのはビジネス展開の成功例として有名なんか知りませんが こいつらが街をめちゃくちゃにぶっ壊した くらいに思ってる。 だいたいどこ行っても店員の教育できてないし。 どうしても他にやりようがない か 同行者に気を遣う でもなければセブンイレブンは利用しません。
夜なんとなくつけてたNHKで カネオくんですか 今はもうカネっつうか商品やらサービスなどの トレンドぶった事業を追う番組と化してるけど 今回はボードゲーム特集で 人生ゲームがその主軸に据えられていて 何年代はどうのこうの、何年版はこうで、 などとその歴史を振り返ってた。 そもそもはアメリカのゲームらしい。 当時のタカラトミーの社長だか部長だかが日本で売り出そうとしたら 社員から猛反対をくらったらしい。 売れないと。 子供がお金儲けするなんてはしたないことだと。 反感くらうと。 50年以上前のことらしいからさもありなんという。 が、その社長(部長?もういいや)は 「子供たちにお金の大切さを知ってほしい」 とゆー信念があったらしく くじけず企画をガンバッて なんとか発売してみるや大ヒット。 以降も時代に即したアレンジを加えていき定番商品に。 その社長も「私の信念が認められて、受け継がれ、それは本当に誇らしい」 みたいなコメントしていた。 で。 時代ごとにアレンジしていってるという人生ゲーム、 令和版は初めて、$をなくしたらしい。 人生ゲームといえば$の多寡を競って勝敗を決するゲーム。 では何になったでしょう? というクイズが出題されて。 ウーン、円かな、いやそれじゃクイズにならないか、 令和らしくってことなんだろうし、仮想通貨とかそういう… と、思いめぐらそうとした一秒後にピーンときた。 正解だった。 "フォロワー"。 くっだらね! という感想はさておき、社長がかわいそうすぎやしませんか? 信念が受け継がれて…とかゆってたのに。 テレビ画面に向けてオイっつっちった。
この前妻とのラインで 夫は上機嫌でいるのが家での仕事だからな とかなんとか言ってみたら 気に入ったらしく ほらニコニコしてろよ くらいの言いぐさで上機嫌を強いてくる。 「妻は?」 「妻は、いらいらするのが仕事だから…」 「夫への誹謗中傷は、ほどほどにね」 「ほどほど」 「しないのは無理だろうから」 「無理」 仲はいいです。
電車を乗り換えようと人混みを歩いてるさなか 前のおじさんのかかと部分をかるく踏んづけてしまって おじさんの方も 一瞬だけ振り返るような素振りをみせて でも立ち止まるわけでもないし なんとなく謝る機を逸してしまった。
でもあれ 踏んづけられたクソー と思ってるのはほとんど間違いないだろうし 謝りたかった。謝るべきだった。 あーいう場面でキチンと謝れず しかもその後うだうだ思い悩んだりしてるから 自己嫌悪ばかりはかどる。 生きてるとこんなんばっかりだな。
別件。 駅を歩いていて 照明の明るさにハッとして 暗いと歩きづらいもんなあ 駅に限らずこの世の中は すみからすみまで 人間が生きやすいように なるべく快適に過ごせるように すこしでも不満がなくなるように あらゆる工夫がされているのだなあ それで、コレ? という疑念がぐるぐる渦巻いてしまいやばかった。 人は人になるべく迷惑をかけないように 醜いものや汚いものは隠して美しいものを増やすように がんばってがんばって で コレ? っていう。
でもどこぞの庭先の花壇に植えられた 今まさに咲かんとするチューリップを見たら なんか元気出た。 チューリップの良さがわかんなくて なんであんなに持ち上げられてるんだろう別にキレイでもないのに と否定的だったわけですが あいつら おりゃっ と垂直に天に向かって咲こうとするんですな。 恥じらいもなく…。 なんかそれはカッコイーんじゃないかというか 勇気がもらえる感じがした。
えー 会社が嫌です。 この手の愚痴、 上司がクソ とか 働くのがつらい とか 出勤が、満員電車が、会議が、 とかそういう愚痴、 口にした瞬間自分がモブに成り下がるというか 雑魚っぽい感じがして 全然表に出せない。思ってるのに。 しかも仮に人に正確に伝えようとすると 「いやそれに関してはそこまでひどいわけじゃないんだけどさ」 「いやその人もそこまでおばかではないんだけどさ」 などとなぜか敵をかばうような言葉を挟みつつになるはずで、 その根底にあるのは 「そこまで低い次元で悩んでるわけじゃないから」 みたいないけ好かない自意識なのであります。
でも実際そういうもんでしょうよおおおよう。 わっかりやすい愚かさとか悪意とか理不尽とかも いちじるしく悪感情をまねくけど 多くのことって 相手の理念や打算や感情もわかる、 でもこちらにも理念や打算や感情がある、 そのあいだの、ある正当性と別の正当性が重なり合う どうしようもないねじれ空間があって そこでなかなか人にはわかってもらえない苦悩てのが 発生するんじゃないですか。
そういうことを今回の読みものに込めてみたい。
読みもの書くのは今のところめちゃくちゃ楽しい。 いろんな人に読んでもらいたい。 でも実際どんなに多くても3人くらいだと思う。 しかも半端に長いし 結末はおろか話が転がり始めるまでも時間がかかる。
箸の件だけでも思い悩んじゃったもんな。 すでに書けてたのに、投稿直前になって。 もともと「使用済みの割り箸を燃やす」という悪趣味に 興じている女だったわけですが これさすがに気持ち悪いな、 奇想的な気持ち悪さより衛生的な嫌悪感が先立つな、 ということで脳内ホイッスルが鳴り響き 急遽設定を変更、 花を燃やすだとか服を燃やすだとか いろいろ代替案考えてみたけど 結末を見越すとどうしても箸がちょうどいい… そんで結局「使用済みの割り箸」を 「洗浄済みの使い古しの塗り箸」に変更したんです。 惜しかったけど…。 気持ち悪くて読む気しない、ってあるもんな。 こんな冒頭でそんな気ぃいだかせちゃいかん。 誰がそんな主人公の話を見たいんだよっていう。
Twitterを読みものの投稿場にしちまったから 日常のよしなしごとをこっちに書いていこうと思う久しぶりに。 このスペースはほぼ誰にも観測されてないと思われるし あけっぴろげに日々を打ち明けていってしまおう。 決して文章を練ったりせずに。
4月1日ということで 真新しいスーツ姿の若えお兄ちゃんやお姉ちゃんが 町にはわんさか。 通勤電車でもスーツ女子三人がきゃぴきゃぴしていて それを眺めるおっさんスーツがいて不快だった。 吊革にだらしなく体重預けてぐねぐねしながら スーツ女子をねめつけて。 なんとか嫌がらせしてやりたかったけどできんかった。
昼飯どき、木曜は週に一度の外食解禁デイだぜわぁいと 両手上げて会社近くのおしゃれダイニングみたいなとこ食べに行ったら 隣席の先輩スーツが若いスーツに何かと「すげえなお前」と言っていて 一番キライな「お前」だと思った。 別に後輩スーツの彼はなんとも思ってないかもしれないけど。 やたら後輩をお前呼ばわりするスーツ野郎の文化には近寄りたくない。
帰り道 アジアンな女性が チョットスイマセン と話しかけてきて 手元を見ると 生活に困窮してます大学も辞めました お菓子を買ってください 500円 といった情報が印字されてる紙。 ごめんなさい の一言で断ち切ってしまってから いや今のは立ち去るべきじゃなかったよなあ 500円でも1000円でも買ってやったらよかった と、考え直したのは割と早かった。 五歩目くらいだった。 でも踵返せんかった。 結局立ち去った 一歩一歩現在進行形で後悔しつつ。 自分はそういうとこある。
アパートの歴史を物語からたどるみたいな本読んでる。 アジールって用語を知った。 イスラム圏で聖域とか逃げ場所とかそういう意味らしい。 日本語にはないニュアンスの言葉。 こいつあいただきだ。 読みものに採用したい。
えらい時間かけてツナミノさんの過去日記… 15年くらい前のをあるだけ読み直してみたら 全然色あせずえらい面白いし触発されるところもあって やる気わいてきた。
自分のなかにあるどうしようもないかっこつけを捨て去って どうにかしようとするひょうきんな姿勢があって 当時それがめちゃくちゃ格好いい憧れるぅと思って 長年後追いしてたけど かっこつけでやっていきたいという本心もあるし 後追いじゃ絶対肩を並べられんよなと深刻に思い悩んで 悩んで悩んで 何年か前たもとを分かつことにしたんでした。
これまで死に物狂いで育んできた 大事な大事な価値観をかなぐり捨てるということで 蓄積させてきた自信の核心も失くすことになるし なんもかんもレベル0からのやり直し。 非常に苦しいことだったけれど そのほかに道はないと思われたのです。 あれはたいへん勇気ある決断だった。 そうして選んだ進路は間違ってないと思う。 あとはそれを証明せな。
がんばらんとなあ。 何をがんばったらいいかわからない という若者らしい懊悩はとっくに乗り越えて 今は何をがんばるべきかもわかってるのだし。
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