小さいころ、友達の家に遊びに行くと、洗面所で 資生堂の石鹸を見かけることがあった。 香りがよくて、色つきの透明で、あの感じにいつもどきどきしたな。うちにはないものだったから。 これはその十何年後にもらったカタログだけれど、今でも売っているんだな。うれしい。 小さいころのまほうだったもの。 そのもの自体を思い出すよりも、そのものを通して感じた、 感覚みたいなものを味わえたことが宝物だし、 まほうとは、ものではなくその感覚だ。
私が今所有しているのは、SONYのVAIO。 デザインや欲しい機能、価格を考慮して選んだ、3台目のパソコンだ。 VAIOと言うと、高そうに思われる。 でも、最近のVAIO は、リーズナブルなのだ。ノートPCで8万円台 からある。 2001年からパソコンを3台使ってきているけれど、3台なりの経験量がある。 1台目は、ビックカメラで「これがお得ですよ」と言われ、何だかわからずに、シャープのパソコンを買った。デザインも機能も特に優れているわけでもなく、可もなく不可もなくのパソコンだった。最初はよかったけれど、電源を落とすことが重なったせいか、バッテリがうまく効かなくなり、最初にファイルをチェックしますという表示が出るようになり、しまいには、起動した途端に警告音のようなものがなり続けるようになり買い替えに。 2台目は、オークションでソーテックのafinaというパソコンを。新品で、デスクトップなんだけど、キーボードとの一体化でちょっと個性的なデザインと値段が気にいった。 ただ、今はどうかわからないが、ソーテック商品は、品質的にも、あんまりよくなかったみたいで、キーボードが打てなくなった。 こんな風に書くと、しょっちゅう壊れているみたいな感じだけれど、両方とも、3年ほど使ったのでそれなりに(?)役目は果たしてくれたとは思う。一応、まだ使えはする。だけど、キーボードの箇所が打てなかったり、起動すると、怪しい金属がすれている音がしたり、完璧な状態ではない。ある意味原因不明で買い替えに至っている。 私は、買い替えスパンが短いほうなのだろうか。 パソコンは購入するたびに、快適度はもちろんあがっているけれど、同じ時期のパソコンを眺める分には、性能には大差ないように思うし、デザインも本当に限られてしまうなぁと思う。逆に言えば、選ぶのが楽ということだ。 6年も経っても、あんまりファッションや個性の段階には入っていないんだなと思う。今回の買い替えで、macも選択の範囲に入ってもよかったのかもしれないけれど、けれど、なぜかそこまではいいと思って手を伸ばさない。でも、今回のVAIOに関しては結構満足している。 (私の条件は、TV録画機能付き、横長の画面、見るに耐えうるデザイン、15万以下ということだった) 今回購入してみて、なかなか快適に動くし、さすがSONYだな、しっかりしたメーカー品は違うなと思った。 特に、購入するときには考慮に入れていなかった部分で、これはいいなと思ったのが、VAIOスタイルで購入したときに付いてくる3年間長期保証サービス だ。 3年間は無料で修理が受けられる。 値段は電化製品店で購入するのとほとんど変わらないと思うので、VAIOを購入するならば、VAIOスタイルから購入した方がいいだろう。 (ヨドバシカメラでは展示はするが、購入のときには店頭のPCからVAIOスタイルにアクセスして手続きする方式だった。) 実は、去年の8月に購入して、今年に入ってからすでに2回修理に出している。(こんなことも珍しいのだけれど) とはいっても不良品というわけではなくて、PCは持っていて思うけれど、他の電化製品と違って、原因不明で壊れることも多い。 ウィルスやいろんな原因があったりするので、一概にメーカーのせいとは言えないし、動かなくなると、自分ではどうしようもなく、途方にくれてしまう。 メーカーもちゃんと直してくれるのかなとかいろいろ考えてしまう。 1回目に壊れたのは、電源が入らなくなったことだ。 これはもしかしたら初期不良かもしれないけれど、それにしても 私は、TV録画とかバンバン使っていて、いつも謎の 「メモリーの想定値が低すぎます」という表示が出ていたので、 それなのかなと思っているんだけれど。 だましだまし使っていて、ある日何度押しても電源が入らなくなった。 次の日になってようやく電話をかける。 状況や登録番号などを聞かれ、「明日の午前中に取りにうかがいます」 と言われ、電話を切った。 次の日に宅急便屋さんが取りにきてくれた。 指定されたもの(本体やコード、バッテリ、バイオカルテ)を、 パソコン用の梱包をしてくれて持っていった。 そして、3日後、「宅急便で〜す」との声で出てみると、パソコンが返ってきていた。 画面やキーボードのクリーニングをしてくれ、きれいになっていた。 もちろん快適に動いた。 2回目は実は私のミスで、キーボードに、水をぶちまけた(笑) 文字入力機能に支障が出て、打てないキーが出てきた。 また電話をして「原因はよくわからないのですが・・・」 と押し切ってしまった(笑) そして、また修理に出し、3日後に返ってきた。 このVAIOの無料で取りにきてくれて、無料で修理し、 迅速に直して、戻してくれるシステムは、本当にありがたいなぁと思う。 安心して使うことができるし、このサービスはリスクを持つパソコンという機械を所有する上で大きい。これまで買い替えに至ったリスクも回避することができるだろう。 今度は、テレビ放送が切り替わる2011年くらいまでは、使いたいな。(内臓テレビチューナーも使えなくなるため) VAIOは、4、5年前、一時すぐに壊れると評判が悪かった。 その後、いろいろ体制を見直したに違いない。 今のVAIOは、オススメだ。 身近になったパソコン。以前よりも値段は手ごろになったパソコン。保証体制も満たされてきている。(少なくともVAIOは) 個性のあるパソコンが店頭で見られる時代が、今度こそ、やってくる。
最近、クッキーにふさわしいことばは乾きものだという気がしてきた。そう思ったのは、家に水分の多いお菓子しかなく、食べたいのは乾きもののお菓子だと思ったときだ。 私にとっての乾き物は、マリーのようなもの。 あの素朴な乾きものが欲しくなる場所が私の中には確実にある。乾きものは私の中の何を満たしているのだろう。 たまたまたどり着いた菓子美呆 というすてきなお菓子屋さんのページに載っていたことば。 タイムリーだった。 「私たち人間には本来空腹はないそうです。満たされない心が、もっと食べたい、食べずにいられない・・・ という空腹感を呼び覚ますそうです。」 それにしても森永のホームページを見てみると、マリーやチョイスやこのビスケットシリーズが一時的な流行の流れで作られているものではなく、本当に大切にされているんだなぁと思う。(それだけ人々に支持されているということかもしれない)歴史 を見るとマリーはもう発売されて82年目らしい。 このビスケットシリーズを使ったレシピ は、もうずっと前から箱についていたり、黒田知永子さんを起用して連載 をしたり。 そのがっしりとした主軸ビスケットを展開する中でひそかに、レモン風味のビスケットを販売してみたり、最近では、ディアという顔がついたクッキーも出た。がっしりとした大木のような先輩クッキーに、ちょろちょろと新しいものも紛れこませて、仲間入りできるか競わせてみるみたいなところも何だか楽しい。 ビスケットレシピは、気軽にできるものも多いし、何より、ビスケットでしかなかったものが、別の食べ物に変わる、その実験的な面白さを真剣に追求しているところがすてきだ。 もうここまで来ると、きっとこのクッキーシリーズに対しては、ある意味、社員は尊敬の念で接しているのではと想像する。
2007年05月28日(月)
YMO 今尚輝き続ける
YMOってかっこいいなぁと思う。 そしてすごいと思うんだな。 普通、一番きらきらしていた時代から数十年経つと、みんな驚くほどダサくなってゆく。 明らかに時代の一線から外れた、そのきらきらしていた時代のままでい続け、時代は移り変わっているのに、賞味期限切れのきらきらを身にまとってるから。 それか、若さの輝きで乗り切っていたか、だ。 両方はきっと=なんだろうけれど。 まぁ一時代で輝けるだけでも十分すごいんだけど。 YMOがすごいのはダサくないところ。 当時のサウンドを焼き直したアレンジが今の時代にぴったりあっていて、今の時代に通用する旋律にばっちりなっている。 3人並んでもおじさん3人というよりもかっこいいひとたち3人なんだよな。 パリっとしていて、こぎれいな感じで、上手に年を重ねてきて初めて出てくるものを身にまとっている。 輝きをずっと保ったまま、過去に閉じ込められず、時代と歩みを共にしながら歩いてきた人たちの図。 これなら、YMOが全盛期だった頃のファンたちが、誇りに思ってもその気持ちわかる。 「俺たちの時代にはYMOがいたんだぜ」 と言いたくもなるでしょう。 TVで流れていたYMOの数十年ぶりのライブを見た。 誇り高く演奏し、熱狂的な観客に包まれたその場は、輝きで満ちていた。 この輝きがスターなのだなと思った。 キリンラガービールのCM 再生をクリックすると見られます。 こういう風なCMって、すごくいい形だと思う。 最初にCMそのものよりも、別の価値を提供してくれ、その後に、提供してくれたキリンラガービールのことも、商品としてじゃなく、自然と頭に入ってくる。 追記:you tubeの貼り付けって初めてやったのですが、ものすご〜く簡単なんですね・・・。 あっけなく再生できたときは感動的でした。 自分の貼り付けたいyou tube動画の右側に「URL」と「Embed」というのが、明記されているんですが、その中の「Embed」を文章草稿に貼り付けて、アップロードするだけです。 大きさは「Embed」の最初に width(幅)=数字 height(高さ)=数字 があるのですが、 この、数字の部分を変えると自由に変えられます。 width=255 height=210くらいのバランスがよいみたいです。
2007年05月27日(日)
クリスピークリームドーナツへの挑戦
少し前に、用事で新宿に通う日々があった。クリスピークリームドーナツ が新宿にあることは知っていた。テレビや新しもの好きの友人から聞きつけてきた母のリクエストもあって、「じゃあ、今日の帰りに買ってくるね〜」と気軽に答えた。でもそれが、通いの日々のはじまりだったなんてそのときまるで思ってもみなかった。 帰り道、その日は寄れなかったのだけれど、クリスピークリームドーナツの、箱を持っている人が、山手線ホームで私の前を歩いていた。おしゃれな箱だな〜と思った。古きよきアメリカを喚起させるような、幸福なクリスマスのような箱。 次に用事のあったときに、どこにあるかも調べて、新宿サザンテラスに向かった。18時頃だったかな。 お店について、あっけにとられてしまった。 ロープがしかれて、何列にもなった人がお店のデッキにたくさん並んでいる。しかも、待ち時間ボードには1時間20分の文字が・・・。どうやら、デッキのみならず、階段上にさらに列があるらしい。守衛さんに「いつもこうなんですか?」と聞いてみると、「ええそうなんです。割合午前中だったら空いているんですけど」と言われ、「9時30分くらいはどうでしょう?」と聞くと、「空いていると思いますよ」と言われたので、次は朝を狙うことにした。 次に訪れたのは、土曜日の朝だった。 「午前中の方が空いているんだって。今日こそ買ってくるから!」と期待を込めて、家を出発した。 JRのサザンテラス口から降り、店にたどり着いてみると。 1時間半待ちだった・・・。 並んでいる人には、普段着のひとが結構いたので、「ああ、これは多分、週末新宿に出てくるのに、ついでに早めにきて並んでいる人とか、観光にきている人なんだろう」と思った。 その日は、通っている講座のひとにもドーナツを買っていく予定だったので、講座のメンバーに、「今日クリスピー・クリームドーナツで買おうとしていたんですけど、すっごく混んでいて!」と話して発散をした(笑) そしてまたあきらめた。 そのあとネットでいろいろ調べると、新宿でマラソンをしている人が、朝の6時頃にいったらそれでも10人くらいいたとか、いろんな情報があって、でも私が行く時間帯の9時半に、空いているという話は皆無だった。 最後に平日の朝9時半頃に行ってみた。 50分待ち・・・。 階段上までは並んでいないものの、相変わらずデッキは、人だかりだった。そこには、会社に行きそうなスーツ姿の人もたくさんいた。 そして、私は、クリスピークリームドーナツを現時点で買うことをあきらめた。あのデッキの上の列に加わるほどの情熱はなかった。 その後、若者2人がクリスピークリームドーナツの箱を持っているのをまた山手線ホームで見かけ、「彼らは並んだんだな・・・」とあの列を思い浮かべた。 2006年12月にオープンして5ヶ月になろうとしているのに、未だに行列なのはすごい。 日本ではまだ一店舗というのが大きいんだろう。 でも、ずっと1店舗でもいい気がするのだ。 他店舗展開ではなく、ずっと1店で、混み続ける店。 朝の6時に行かないと空いていない店。 実際に食べるよりも、いつまでのあの箱のままの夢のドーナツ屋さんであってくれてもいいのかなとちょっと思う。 韓国では、ロッテがフランチャイズ契約を本国と結んでいて、 たくさんあるらしい。それもそれで、何だかすてきだとも思うけれど。 また、口にする日がきたらここにも書こうと思う。
2007年05月26日(土)
R25 おもしろくなくなった
R25 を最初に手に取ったのはプレ創刊のときだ。 私の家の路線は、結構マイナーな線なのに、なぜかR25は配布地域がまだ少ないころからあった。 その頃は、フリーペーパーの中で頭1つ出ていたR25はとても新鮮で、これが本創刊になるといいなと 思った。そして本創刊になり、駅のラックに置かれるようになった。 そして、最近思う。「面白くない」と。 面白くなく、それでも一応もらって、ぱらぱらと見る。 矛盾しているようだけど、つまらないわけではない。トリビアの泉風に「へぇ〜」と思うことはある。だけど、最後のページのコラムではっとしたくらいで、それ以外は特に目を惹かれるものはない。 あのときの面白さはなんだったのか。 それは「目新しい」という面白さだったのだと思う。 今までにないブルータスのノリがある、しかも中身がしっかりとしたフリーペーパーを「ばん」と出されたこと。 「これが無料?」と思わせるそのインパクトと新しさ。 今まで無料でここまでのクオリティを保てるものはなかったということ。 きっと、失礼ながら、別に内容が特別面白かったわけじゃないのだ。コンビニの新商品をカタログのように紹介するような切り口のインパクトや、今までなかったものがあるようになったのが面白かったのだ。 消費のスピードは早い。L25も週刊化されたけれど、すでに面白いと思えなくなってしまった。 無料という形、決まりきった連載。新鮮さが一般化されてしまった。 ただ、一般化されるということはものすごいことだ。携帯電話が当たり前に、インターネットが当たり前になったように、フリーペーパーのクオリティは、確実にR25で引き上げられた。人々の間にも定着しはじめ、まだ当たり前とはいかないまでも、一般化されたということだと思う。 一般化したからこそ、当たり前を面白くないと感じるのだろう。 ある意味、贅沢病かな。 でも普遍的なものは変わらずに面白い。 多分比較するものではなく、面白さの土俵が違うのだろう。 ただだから情報が得られるから、でもらう人はこれからもいると思う。だけど、R25に求められるのは、新鮮な枠組み(連載)や記事自体の切り取り方なのかもしれない。 言っている側は言っていればいいのだから気楽だけれど、毎週だからほんと大変だろう。毎週毎週の勝負を面白がってやれるひとが、携わっていくのがいいんだろうな。 私自身は、R25をもう、もらわなくてもいいと思っている。 でも、つい、どさっと置いてあるともらってしまうけれども。 そして、何か面白いものはないかとやはり、ぺらぺらとページをめくってしまうんだけどね。 それがただの力なのかもしれない。
2007年05月25日(金)
結局のところ、人生というのは・・・
「海のふた」みたいなものなんだなと浮かんだ。 「海のふた」はよしもとばななの小説で、読売新聞に連載されており読んだ。毎週土曜日の連載で、久しぶりに、毎週楽しみと思える新聞小説だった。 そこにはまほうがあった。 自分の魂に忠実に生きている者たちがいて そして、愛があった。 必要十分で、欠けているものがないくらい、満たされていた。 今を今のスピードで生きて、あっという間でない毎日を積み重ね、 1ヶ月には1ヶ月分の重みを感じることを許していた。 結局のところ、人生というのは海のふたみたいなものだ。 海のふたは、本当に魂に忠実すぎて、きれいでとうめいで じわっと涙がでてくるような、そんな小説だ。
最近のはまりもの。紀文の枝豆とうふ。 うちの近所のスーパーで売られているのは、写真のように2個パックではなく1個なのだけれど。 枝豆が丸ごと入っていて、あっさりして、でも枝豆の味がちゃんとしておいC。 枝豆好きには必見。 食べたい気分になるとついつい買ってしまうリピートもの。 カロリーも低く、食べてあんしん。 ちなみに同じシリーズの「黒ゴマ豆腐」はイマイチでした。紀文のホームページ を見てみると、結構普段お世話になっているもの多いんだなぁと感心。 おためしあれ。 (紀文枝豆とうふ1日宣伝部員 記)
mina perhonen が好きで、時々お店に行く。家には、清水の舞台から飛び降りて、お金と交換したスカートとサンダルがある。 テイストが少女っぽいので、私には、合わないものも多数。でもときには、合うものもある。デザイナーは皆川明さん。古いものを整理していたら、雑誌に載っていた皆川さんの記事からことばを書きとめたものが出てきたので書いてみる。 ・早く作って早く消費される服よりも、大切に作って大切に着てもらえる服を作りたい。 ・無知で未知。ひとつひとつ世の中を知りながら、手探りで進んでいく感じでした。でも既存の知識や背景もなく、ゼロだったから自分たちらしくやってこられたと思うんです。 ・好きなものはずっと大事にしていいんだよ。いいんだよ。大人になってうさぎが好きでも。いいんだよ、大人になってクローバーが好きでも。 ・ゼロを知る人間には、またゼロになっても大丈夫と思える強さがあるんです。
2007年05月22日(火)
ホームページの変遷と私
今回ホームページを作るにあたって、重視したのは、「できるだけ軽く、負担なく」だったのかもしれない。負担にならないように極力そぎ落としたホームぺージになった。私はこう見えても、ブログ、HP歴(?)は長く、2002年くらいから楽天にブログをはじめて、2004年に、このHPの前身、「1日のことを1日分だけする暮し」という長いタイトルのHPを運営していた。 そして4年くらいやってみて思うことは 「重くなってくると辛い」「環境は大事」だった。 まずは、ブログ。ブログは、いろいろな会社が提供しているけれど、ネットコミュニケーションの過剰ツールがふんだんに盛り込まれていると私は感じる。元々私は、そんなにネット交流大好きというわけでもないので、そんな私視点の話は前提だけれども。「掲示板」「コメント数の表示」「カウンター」「更新のお知らせ」最初は新鮮で楽しかったけれど、だんだんとそれがあることが苦しくなってきた。それから、ブログという形態が文章そのものの匂いを薄くしてしまうこと。四角い枠に自分の文章を収める。そして更新すると下がっていき、埋もれる。日記と題されているところ。とりとめもない話と同じ風になってしまうこと。そういう枠。 それで苦しくなって、自分でホームページを作った。 イラストを描く友人にイラストを提供してもらい、今思えば、相当、気合が入ってたHPだったと思う。ブログの反動で、文章ができるだけ埋もれないページにしたくて、私は、「おいしいもの」「心のあかり」「よかったばしょ」「ほんのちょっとしたこと」「名言ノート」などカテゴリに分けたり、文章も左に目次を置き、見やすいようにした。最初は順調にいっていた。とにかく書きたいことがいっぱいあって、毎日更新していた。でも、皮肉なことに、自分で自分の首を絞める結果になった。自らがこのカテゴリに縛られ、溜まっていく文章を重く感じ、身動きが取れなくなってしまったのだ。(他にあまりに凝りすぎたため管理も大変だった) それに重なって、この時期は、自分の進路を考える時期と重なっていた。私は、そのころから自分で何かやっていきたいという気持ちがあって、就職活動は一切していなかった。が、当時の私は現実と望みとの距離をうまくとれていなかったし、身となるものを得た上で、現実とリンクさせるということを全くしていなかった。私は、現実と望みの間で揺れ動き、人生最大の危機を迎えた。死にたいと思ったのは、そのときが初めてで、明日が真っ暗に見えた。食欲も初めてなくなった。今となっては笑い話だけれど、友人が中華料理屋に行ったときに、私が注文を「何でもいい」と力なく言ったのを聞いて「umiちゃん、やばいんだな」と本気で思ったそうだ。私は普段、迷って迷って決め、決して何でもいいなんて言わないのだ。「ほんと、あのときはびっくりしたよ」と今でも友人は熱を込めて言っている。そしてよろよろになった私は、方位学の占いの先生のところに行ってさらにショックな占断(あなたは普通に事務職をやって早く結婚相手を決めた方がいい)を受け、西南の方向がいいということで、前出の友人2人と無理やり押し切って、台湾へ旅行に行った。その後に、大学の掲示板で会社のアルバイトを見つけて、そこで働きはじめたことが安定につながって、ことなきを得たのだった。その会社で私は大学卒業後も、2年間お世話になることになるのだが。 話はすっかりそれてしまったけれど、いろんな要素が重なってHPの更新は止まった。ずいぶんと書きたいこともないし、枠が重過ぎて書きたい気持ちにもならない状態が続いて、最近まできたのだった。 もう1つ考えられることに、私の書くことは「楽しい」「嬉しい」「幸せ」と明の部分のみだったことがあると思う。それが、自分の暗部に向き合わざるを得なくなったときに崩壊したのだなと思う。最近までずっと持ってきたテーマだったと思うけれど、少し前に、暗部とも和解をした。これからは、明だけで固めない。明と暗、両方ともを認めながら、許して生きていく。それは、HPにも反映されるだろう。 これまでの自分のHPの続いた期間を見てみると、7ヶ月スパンくらいでスランプに陥っている。本当に無意識にやってきたけれど、今回はこれだけ意識しているので、その壁を打ち破れればいいと思っている。「できるだけ軽く、負担なく」を心がけたつもりだ。そして、これからは「あまりハリキリすぎず、ぼちぼちといこう」と思っている。さてどうなることやら。 でも結局のところ、これらのホームページでの出来事は、私を如実に表しているのだ。 つまり、私は、枠から自由でありたい性質が突出している人間ということだ。何が原因なんだろう。有力なのは幼少期に転校が多かったこと。でもまだよくはわからないし、元々生まれ持った性質なのかもしれない。 ときどき考える。どこまでがその人固有の個性で、どこまでが、大体の人間に共通した反応なんだろうと。
この間、MDプレイヤーを買った。 特に音質にこだわるわけでもない私は、MP3で十分満足していた。一生縁のない機器だと思っていたけれど、今習っている気功がMDメディアで、MDを購入せざるを得なくなったのだ。 私は、こういうとき、適当に何でもではなく、とことんベストを追求する。今市場に出ているものの「デザイン」「価格」「性能」「評判」を調べつくして、総合的にベストなものを選ぶ。この作業は、楽しい。好きだ。 今、手元にあるのはパナソニック製だ。私の型のMDは基本的にはもう生産終了している。60年代(適当)を思わせる、ちょっとレトロだけどおしゃれなデザイン。4色あって「ピンク」「ブルー」「オレンジ」「シルバー」。正直最初は「オレンジ」が欲しかった。オークションやネットショップではまだまだ全色売られていたけれど、気功のMDは悪い気を吸うらしく壊れやすいらしいので、「長期保証」は外せない条件だ。それを満たしているショップで扱っているのは「シルバー」「ブルー」だった。「シルバー」はちょっとそっけない感じでパス。「ブルー」は最初はどぎついかな?と思ったけれど、よくよく見れば悪くないと思って、取り扱いショップのあるアキバに買いに行った。 みなさんはアキバの卸売りショップに行ったことがあるだろうか?なかなか普通とは違う雰囲気で面白い。入り口から入ると、いきなり商品が積みあがっている。そして、低めのカウンターが あり、その後ろでは、社員の机が8つくらいずらーっと並んでいる。若めでラフな格好の人たちが、働いている。アキバは気取らない。私が欲しいものを伝えると、これまた若いけれど、やり手そうな男の人が商品を取り出してくれた。現金払いが常のようで、近くのコンビニにまで、お金を下げに行く。戻ると男性客が1人いて、もくもくとプレステ3を買っていた。 ところでここの5年保証はなかなかすごい。普通大手家電店は、1年目は100%保証してくれるけれど、2年目以降は割合が下がってゆく。ここは5年間100%保証で、しかも、購入代金を超える修理代金になった場合には、現物を交換してもらえる。若手のやり手スタッフも、熱を入れて、この保証について話していた。私とスタッフは壊れることを前提に話を進めていた・・・。 そして、今使用しているのだけれど、ちらっと見たときに、きれいなブルーの2色使いを見ていると、何かが満たされる。デザインの効用はやっぱり大きい。身近にあるものは、いつも見るものだから、できるだけ自分の美意識に叶うものを置くと生活が充実する気がする。 ちなみに他のいろはこちら。
この間、友人と代々木上原探検に出かけた。 代々木上原はグルメな街で、ベーグルの最高峰(?)マルイチベーグルやパンケーキのお店や中華料理で有名なジーテン、あとパン屋さんがたくさん、チョコレート屋さんもあったり。とにかくすごい。 街の空気も、花屋さんがたくさんあったり、普通に中学生やおばさんやおじさんや若い人も歩いていて気取っていない。あの空気もちょっと珍しいなと思う。 それはともかくとして、数あるパン屋さんからブーランジェリー プーヴーというところに入ったときのことだ。たくさんの種類のパン。カウンターのガラスケースにデニッシュ系のパン、ブルーチーズなどが入ったハード系のフランスパン、他数え切れないくらいのたくさんのパンがある。ガラスケースの上にも様々な種類のフランスパンが。後ろにもイングリッシュマフィンや食パン、調理パン、クッキーなどもあってパンだらけである。 私は、イングリッシュマフィンとブルーチーズとくるみのフランスパンみたいなものを買った。300円くらいだったかな。私の前の人はあげパン100円くらいのを買っていた。 たくさんのパンを視界にいれながらふと思った。 「これって売れ残ったりしないんだろうか?」 前の人はあげパンが食べたくてあげパンを買う。私も自分の好きなのを買う。 選ばれないパンも出てくるんじゃないか。パンを選ぶのも100円のもの1つ買うのもお客さんの気まぐれだ。 ある日お客さんが30人入ったとして、10人が100円の日もあるかもしれない。そうしたら1000円。残りの人が500円買っても10000円だ。 大丈夫なのだろうか? こういう風に思うようになったのは、組織に属さず自らの手で稼ぐというのはなかなか大変なんだな思うようになってから。とても涼しげにおしゃれにお店をやっているが、それは見た目だけ?実は、毎日3食パンとか?閉店後にはパンをじゃんけんで競いパンを夕飯にしている? 今急浮上してきたのは「予約を受けて収入を確保」というもの。 ホテルだって宴会で稼ぐというではないか。 お部屋に泊まるのは、しかも自分のホテルを選ぶのはお客さんでお客さんは自由に選べて、結果的に気まぐれ。今日は、Aホテル、来月はCホテルとなるかもしれない。やっぱり確実性というのは大事だろう。あのパン屋さんにもそういう確実性があるのか!? 気まぐれなお客さんの中で、職人さんや売り子さんをたくさん擁して涼しげに成り立っているパン屋さん。 今日もちゃんとあるのだから偉大だ。
2007年05月18日(金)
食べ物を選ぶときの基準
代々木上原散歩のときに、友人がケーキとかいろんなものを買うときに色とりどりきれいなケーキにうっとりすることはできるんだけど、いかんせん買うとなるとなかなか選べないという話をしていた。家族に向けて買うときには、それぞれの好みを思い浮かべながら買うそうだ。 私はどうだろうと考えてみると「今まで会ったことのないような味のものを選ぶ」だった。 例えば、ケーキだと、フランボワーズ系のケーキの味ってたかが知れている気がする。今までいろいろなフランボワーズ系のケーキを買ってきたが、あの濃厚な味のせいかホワイトチョコレートベースであろうとチョコレートのスポンジに入っていようとチーズケーキの中に入っていようと「フランボワーズ味」がする。あとチーズケーキも、家で作るチーズケーキと大して変わらないと私は思う。 そういうわかりそうなものではなく、お店によって味わいに差のでるケーキや珍しいものに手を出すのが私だ。 パンの場合も、レーズンや胡桃が入っている細長くて小ぶりなパンやデニッシュ系のパンなどは選ばない。 ブルーチーズにくるみとかこれはどういう味なんだろうと思うものを買ったりする。友人は安定路線を行くそうだ。 私が求めるのは、想像の余地なのかもしれない。 私が「まほう」と呼んでいるもの。 この「まほう」は、私の生活のもしかしたら結構な割合を占めているのかもしれない。自分の人生とまほうの関わりをもうちょっと考えてみようかなと思う今日この頃だ。
2007年05月16日(水)
セクシーボイスアンドロボ
テレビが好きだ。 こういうと大抵驚かれる。あんまりテレビ見なさそうなのかな。 でも両親ともに、私以上のテレビっ子。そんな家庭で育ったのだから、私のテレビ好きは必然でしょう。うむ。 去年の夏に、TV機能付きPCを購入して以来、TVライフの範囲はずいぶんと広がることになった。ネットの番組表で、深夜にやっている番組もチェックしておもしろそうなのは撮る。 それをPCの右画面に置いて作業をしながら見るのが好き。番組自体は、まほう(その番組を毎週楽しみと思えるような要素、あまりことばにはできないが確かな感覚)があるかないかを重視する。 今期のドラマでは、セクシーボイスアンドロボが、一押し。視聴率自体は振るわないみたいだけど。第1回目を見て一度見るのを止めようかと思った。悪くはないんだけど、想像とちょっと違ったのだ。もっとアクションスパイものっぽいのかと思っていた。普通っぽく見えるけど、実は優秀なスパイの話だと思っていたのだ。でも、ほんとに普通の2人が事件に巻き込まれていく話だった。だけどもう1回見たら、その世界観にも慣れて、とても面白いという見解に変わった。普通の2人だからこそ、この話は面白いと思った。特別な能力のある2人ではだめなのだ。日常のすきまに混沌としたありえないわけではないものを、持ち込んで、現実と、本当の世界を、絶妙な線で結んでいる。新鮮な感じ。ニコは7色の声を使いわけるのが特別なくらいで、あとは現実から外れていない。でも、どこかおかしい。はちゃめちゃで整合性のない世界である。私は、そういう世界を見ると、はてしなく落ち着く。 主人公のニコのクールさと、ロボのハートワーミングな感じがばっちり噛み合っているし、お姉ちゃん役のハルカ(村川絵梨)の存在も何だか楽しいし、岡田義徳も、ボケをかましてものすごくさえているし、実生活でビーズ作りが趣味の浅岡ルリ子など、すごくキャラがたっているんだ、みなさん。 ニコは女子中学生というところが、絶妙な設定なんだろうな。女子高校生だったら、こんな雰囲気は出ない。小学生でもちょっとおさなすぎで。変な色気が出る前の感じでよいし、演じている女の子がよい。 まほうのある番組というのは、その世界に身をおくことに意味がある。ストーリーはないと世界がないも同じだから大切なんだけど、それでも、その人たちがその時間に存在するということが一番重要なことなんだろうな。 ぜひ、見てほしい、テレビ番組でございます。 火曜夜10時セクシーボイスアンドロボ
2007年05月12日(土)
組織・企業体というもの
組織や企業体は、人間が力を合わせて動かす、大きなロボットだと思う。それによって、到底1人ではできないような大きなことができる。 そして大きなことができる代わりに、1人1人には「それぞれに要求された役割を求められるレベルで行うこと」が要求される。 そうでなければ、大きいことができる大きい力のものを動かすことはできない。 人間自体は、機械ではないと私は定義する。 「それぞれに要求された役割を求められたレベルで行うこと」 を私たちの能力の平均値でできるレベルで要求して、企業は成り立っている。 そして私たちは、たぶんできるだけ自分に合っていると思われる場所や職種を選択し、多くの人は会社に属す。 要求されることと、その人自身のバランスが取れていれば、何ら問題はない。むしろ、最高だろう。 だけど、それと同じくらい、持って生まれたその人の資質と企業体が求めることとのバランスが取れず、ロボットの一端を担うのに向かない場合もあるんだろう。 それは、その企業体のパーツで求められていることに答えられなかったり、答えたいと思わなかったり、いろいろなんだろう。 少し無理してでもメリットがあるから、納得して続けたり、それはその人の意思に任されることなんだろう。 ただいかなる場合でも、人間である以上、人間としての個性があり、それを最重要なものとする権利がある。 人間が主で、企業体は従である。 現実はそううまくはいかないと言われても、この関係は、人間の生きる尊厳である。 そして、それを守るのは、誰かではなく自分である。 私自身は、きまぐれで、要求された役割の幅の取り方が大きくて、ほどほどさがなく、ピントを合わせる感覚があまり備わっていないので、企業が求めるものに答えるのに、普通のひとよりも苦労する。苦労してもできないんじゃないかと思うくらいだ。自分でも思い違いではないか、自分のがんばりが足りないせいなのではないか、と自分を攻め立てたこともあったが、ずっと観察してみて、やはりそうだったので、もうそれでいいと思うことにした。 それぞれがそれぞれに決めた形が現在の姿で、それは何がいいということもないと思うのでいろいろでいいと思うが、できるだけ企業というものを客観的な視点でみると、こういうことは言えると思う。 要求された役割を求められるレベルで行うことは、当たり前である。でも、それは「当たり前にすぎない」のだ。当たり前以上でも以下でもない。1を1で保ち続ける作業。それが、企業で働くということである。職種によっては1ではダメで3や4にするのが当たり前というものもあるだろう。 これを、元々自分に近い状態でがんばっていればこなせる、または面白いことと思い、面白がってやれる人だったらいいのだろうが、自分じゃない人間を演じて、演じることに必死で、いつも何かを気にしておびえていて、自分じゃない人間になることをし続ける人もいると思う。 私は、自分を含めたそのような人に思うのだ。その後に一体何が残る? 私であることを閉じ込めて何が残る? 私は、いつも私でありたい。私以外の人間を演じたくない。私自身はそんな気持ちを持ち続けている。 企業というのは大きなメリットがある。 福利厚生が整っていること、一定の義務を果たしていれば、給料が一定額保証されること。これまで人類が、環境と闘ってきた時代から、目指してきた種の保存というか「安定」をもたらす。 これは、ものすごいことだ。地震や台風の力は今でももちろん猛威で、自然は人間の人生を揺るがす強力な力を持っているが、日常的な危機を安定に変えたということはすごいことなんだろう。でも人工だけどという点は残るけれど。 カンブリア宮殿を見ていると、いろんな会社があって、楽しそうな人もいる。企業もがんばってはいるのかもしれない。だけどできるだけ多数の人の幸福に添えるような模索が必要だ。でも元々人為的なもの。そこには限界があるのかもしれないと思う。 企業みたいなものがなくても、人々が豊かに満たされ、もっとシンプルに自分の資質を生かしたことで、人生に関わっていけるのであれば、それに越したことはない。企業がないと世の中は成り立たないと言うが、競争社会が土台でなくなったなら、そんな風に苦しまなくてもすむようになる気がする。 社会人としてのマナー、社会人としてのふるまい、社会人らしくあることではなく、愛のある人間であることがすべての世の中になる日がくる。それは自分自身であることであり、社会人という人になることではない。