2007年01月11日(木) |
24 うつせみの 命を惜しみ |
うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻苅り食(は)む
このような姿に成り果てても命が惜しいばかりに、波に濡れながら玉藻を刈って食べて命を繋いでいるのです。
23の歌に対する返答のような歌ですが、麻続(をみ)の王が詠んだというわけではありません。 当時としては大きな政治スキャンダルだったので、みんなが知っている事件だったのでしょう。 だから、それに事寄せて誰かが麻続の王に成り代わって詠んだ歌です。
麻続の王にしてみれば大きなお世話なのですが、こういう事件が起これば誰だって関心を抱きますから、各地でこれに似たことはあったのだと考えてよいかと思います。 万葉集という後世に残る歌集に入っていたから、たまたま今の私達の目に触れているだけで、これも当時の風俗の一つと考えれば、結構な資料だといえますね。 本来は因幡に流された麻続の王ですから、実際はこれほどの苦労はしなかったかも知れません。 配流当時三位という高官でしたから、地方官の中には麻続の王を見知った人間がいたかも知れず、そういう人間の世話になった可能性は否定できません。 もし、流罪になって流された時点で幾許かの財産を持っていれば、その地に家を建て人を雇って食料の自給が成立したでしょうし、その可能性の方が有り得ると考えて良いのではないでしょうか。
麻続の王のその後については何の記録もありませんが、それは即ち都へ帰って来なかった可能性が高いということであり、在地のまま一生を終えてそれなりに幸せだったのかも知れません。 もちろん、この歌のように生き恥をさらして不幸なまま死んで行ったのかも知れませんが・・・。
2007年01月08日(月) |
23 打麻を 麻續の王 |
打麻(うつそ)を 麻續(おみ)の王(おおきみ) 海人なれや 伊良虞が島の 玉藻苅ります
あれあれ、あれをご覧。 麻續の王は海人になっておしまいか。 伊良虞の島で玉藻を刈っていなさるよ。
天武四年(675)、麻續王は罪を得て流罪に処されました。 罪名は不明ですが、そのことを伝える日本書紀では因幡に配流されたとあります。 近親の者として、息子達が2人、片や伊豆大島へ、片や五島列島血鹿島へと流されました。 息子二人は絶海の孤島へと流されて、父親が因幡へ流されたことから推測して、おそらく主犯は息子達であり、麻續王はそれに連座する形での配流だったのでしょう。 罪名は特に記されていませんが、これだけバラバラに遠くへ流すとすれば政治犯だったのでしょう。 もしも、天皇や皇后、若しくは皇子のいずれかの命を狙ったとすれば、即死刑となったでしょうが、流罪にとどまったのはおそらく高官の暗殺か暗殺未遂を起こしたのだと考えて良いではないでしょうか。
ただ、流罪といっても、流された先に家や食が用意されているわけではなくて、ただ単に絶海の孤島へ放り出されると言い換えた方が理解しやすいかも知れません。 即ち、死刑にしろ流罪にしろ、為政者の側からすれば命を助けるつもりなど毛頭ないわけで、流した先で罪人がどうなろうと一切無視しました。
生きていくためには住む家も食べるものも、すべて自分で調達しなければなりませんから、それまでの立場や位に関係なく、恥も外聞もなく生に執着して生き恥をさらすハメになるということでした。
因幡へ流罪になったはずの麻續王が、万葉集ではなぜ伊良虞が島に流されたとされているのでしょうか。 当時のそういうニュースは、正確な情報を専門のメディアが伝えるわけではありませんから、いきおい風聞に頼らざるを得ませんが、あちこちと噂が伝わっていくうちに、何処に流されたかが怪しくなっていったのでしょう。
2007年01月07日(日) |
22 河上の ゆつ岩群に |
河上(かわのへ)の ゆつ岩群に 草生さず 常にもがもな 常処女にて
川の上流にある神聖な大岩にはいつも水が流れて苔が生えないように、我が皇女(ひめみこ)さまにあらせられても、変わらず永久(とこしえ)に美しく輝いていて下さい。
これは、吹黄刀自(ふきのとじ)というちょっと年かさの女官が、十市皇女(とをちのひめみこ)の伊勢参宮につき従った折に詠んだ歌です。 十市皇女という女性は、20,21の歌で競演した大海人皇子と額田女王の間に生まれた皇女です。 生まれ自体がすでに悲劇性を帯びていると思うのは少し考えすぎかも知れませんが、実際大友皇子と結婚して壬申の乱では父と夫の板挟みとなった女性です。 そういう星の下に生まれついてしまったと言えばそれまでなのでしょうが、若い女性にその運命はあまりに過酷なものでした。 壬申の乱が終結して、父大海人皇子が勝利したあと、父の元に身を寄せてひっそりと暮らしますが、あまり長命な方ではなかったようです。
この歌は、そんな十市皇女が気分転換に伊勢参宮を思い立って、吹黄刀自以下の女官を従えた旅の途上で詠まれました。 今ほどは結婚、再婚についてキリスト教風倫理的にどうこう言われる時代ではなかったのですが、特異な立場に居た皇女を慮った吹黄刀自が、姫様はこの先も乙女のように輝いてお過ごし下さい、との願いと慰めを込めています。
夫であった大友皇子在世中から、異母弟高市皇子との噂もあって、恋多き女性だったのか、儚げな印象が男を引き寄せたのか、よく判らないところもあって、謎多き女性です。
これ以後史上に登場するのは、薨去した折に噂の相手であった高市皇子が挽歌を詠んだ時くらいになってしまいますが、時代に翻弄された女性として、可哀相な印象が強いひとでもありますね。
2007年01月04日(木) |
21 紫の にほへる妹を |
紫の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに 我恋ひめやも
紫草のようにしっとりと美しい我が妻よ。 おまえのことは、一度たりとも忘れたことなどありはしない。 もしお前のことが憎かったら、お前がすでに他人の妻と知りながら これほど切ない思いをするものか。
20の額田女王の歌も強烈なら、大海人皇子のこの歌も強烈ですねぇ。 十市皇女という娘をもうけて、幸せな生活を送っていた夫婦。 かつての夫大海人皇子と、かつての妻額田女王。 その二人が引き裂かれて幾年月が過ぎた頃、自分から額田女王を奪ったその人、天智天皇主催の狩りの場で再び邂逅した喜びに思わず袖を振った大海人皇子。 袖を振られて慌てはしたものの、それは大海人皇子がイヤなのではなくて、かつての夫が天皇に罰されることを恐れた額田女王。
いや、そういう風に考えるとドラマですねぇ。
でも、ご存知の方も多いでしょうけど、この二首はそんな艶っぽいものではありません。 単なる宴会での戯れ歌です(笑)
そう言い切ってしまっては身も蓋もないですが、この歌を詠んだ頃、二人はすでに人生の折り返し点を過ぎていました。 今さら昔の妻と艶聞を響かせたところで、大して面白くもなかったのではないでしょうか。 大海人皇子は天智天皇の皇太子候補の最右翼であり、額田女王は巫女としての能力をもって天皇に仕える女官でした。
蒲生野で行われた宮廷を挙げての狩りの後、宴席が設けられて、その場で大海人皇子が踊りを披露したとしましょう。 興に乗って少々傍若無人な舞を舞ったときに、その場に居た額田女王に大きく袖を振って意味深なサインを送りました。 受け取ったサインに額田女王は歌を詠むことで返したのだと想像できます。
そんなに袖をお振りになったら、野守に見られてしまうじゃないですか。 野守は、天智天皇の暗喩ですね。
歌を贈られたら歌を贈り返すのが礼儀とばかりに、大海人皇子もちゃんと詠み返しました。 どう少なく見積もっても、この時すでに四十路の坂を迎えて、老いの色を隠せないでいた額田女王に向かって、「にほへる妹(匂いたつように美しいわが妻)」とからかったことで、宴席はやんやの大喝采だったことでしょう。
まぁ、野守に見立てられた天智天皇の心中はどんなものだったのか度外視することにすれば、の話ですが・・・。
実はこれは、池田彌三郎という方の著作にある説の受け売りで、恥じ入るべきところなのですが、これ以上の解釈はないんじゃないかと思えるほどの楽しい説ですよね(^^)
2007年01月01日(月) |
20 茜さす 紫野ゆき |
茜さす 紫野ゆき 標野ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる
紫草が生えている野原。 狩場を示す標が張り巡らせてある野原。 狩りをするあなたは、そこを馬で行きながら私に向かって袖をお振りになるなんて。 あれっ、あそこで番人が見ているじゃありませんか。
茜さす というのは、紫にかかる枕詞で、これといって意味はありません。 古代では何らかの意味があって「茜さす」と「紫」が関係付けられていたんだと思いますが、今となってはもう本来の役割がなんであったのかさっぱり分りません。
紫野ゆき 標野ゆき というのは、この時代の狩りを意味しています。 狩場には関係のない者を近づけないように、標=綱を張り渡してありました。 今でも注連縄というのがありますが、あれと同じく境界線を表すボーダーだと思って下さい。 結界といえば分りやすいでしょうか。 ここから先には立ち入るべからず、という意思表示ですね。 それは、天皇と皇族や貴族・群臣たちが狩りをするための場所を示しているのと同時に、関係ない者が入ってきて無用の事故を起こさないための配慮でもあったのでしょう。
古代の狩りは、時代を下った鷹狩りなどと違って、鹿を仕留めることが目的でした。 鹿の肉や毛皮ももちろん利用されたのでしょうが、一番の目的は疲労回復や回春の薬効がある角にありました。
また、女性たちは薬草を摘んで、やはり薬の原料としました。 ここで詠われている紫野は、紫草の生い茂るところという意味ですが、紫草の根を原料として衣料を染めると同時に、抗炎症薬を作りました。
女官を引き連れて薬草を採っている作者のそばを馬に乗って通りかかったかつての夫が、彼女に気付いて袖を振ってきたので慌てて周りを見回してみたら、案の定誰かに見られてしまいました。 ほら言わんことじゃないでしょ、あそこで番人が見ているじゃないの!
昔の妻を見かけて大らかに袖を振ってくる男と、それに慌ててドギマギしている女性と、コントラストも見事に一場面をスパッと切り取って見せてくれるようです。
袖を振るという行為は、古来招魂の意味があったそうです。 それ故に、昔の妻に袖を振るという行為は、今一度お前を我が手に抱かんという、禁じられた遊びのように感じられてしまいます。
と、いうことにしておきましょうか・・・(笑)
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