萬葉集覚書

2006年12月28日(木) 19 綜麻形の 林のさきの

綜麻形(へそがた)の 林のさきの さ野榛(のはり)の 衣(きぬ)に付くなす 目につくわが背


三輪山の神域の先にあるさの榛の情景が、くっきりと着ているものに染み込むほど、目に焼きついて離れない愛しい我が夫よ。




17,18の額田女王の長反歌に和する形で詠まれた、井戸王(いどのおおきみ)という方の歌です。
綜麻形というのは地名で、三輪という地名を地元の人間はそう呼んでいました。
三輪の辺りは、日本の揺籃期からずっと歴史に見える地名なのですが、それ以前からの地名が残るということは、この飛鳥・奈良の地に政権を立てた人々が他所からやって来た人間だということを如実に表しています。

古代のさらに前、いわゆる有史以前から、三輪の地は政権交代を何度も見てきたのでしょう。
新たな政権が樹立するたびに、新たに神域として祭られてきた三輪山は、創建すでに軽く二千年を越えて今に伝わる古社ですから、統一王朝という考えがなかった時代から、この地の鎮守であったわけです。
その当時からの地名が綜麻形だと思えば間違いないでしょう。

綜麻形という地名の由来と思われる話が、古事記に見えます。

この地に住む一人の乙女が、男の訪れのないまま妊娠してしまいました。
不審に思った両親が娘に問いただすと、夢に神々しい男性が現れてその光に包まれたらこうなったと答えます。
相手を確かめるべく一計を案じた両親が娘に言い含めて、糸を通した針を件の男性の衣の端にそっと刺しておきました。
翌朝になって両親が確かめてみると、糸は鍵穴から外へ繋がっていました。
その糸をたどって行くと、大神神社の神域で終わっていたという話なのですが、針についた糸を巻き取っておいたものを綜麻といい、その由来からこの地を綜麻形といったとあります。

三輪ではなく、古い古い地名でこの地を呼んで、さらに故郷を離れる悲しみを強調させていますが、額田女王の三輪山と井戸王の綜麻形。
うまく対応していると思いませんか。



2006年12月26日(火) 18 三輪山を しかも隠すか

三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや



もう戻っては来れない飛鳥の都なのに、三輪の山を隠してしまうなんて、なんて心ない雲なのかしら。




17の長歌に対する反歌として詠まれた歌ですが、ここでも三輪山を見ていたいという思いが強く出ていますね。
道の折々の角で振り返って故地の象徴を褒める行為、というのが一種儀礼として成立していた可能性を指摘する意見も有りますが、たとえそういう儀礼を持ち出さなくても、二度と見ることはない故郷の山は、自分を含めた周りの人間達を育んだ神そのものとして映っていたのでしょう。
神としての三輪山は、大神の社として全山が御神域とされていました。
今でこそ古き神の座します社と神さびた雰囲気が荘厳さを醸し出していますが、古代の三輪の神は、時に荒ぶる神として人々の前に在りました。
良いことも悪いことも、すべて神の思し召しと考えるのは神職に任せても、大神の神に懐かしさと畏怖とを重ね合わせて、惜別の気持ちを捧げるのに、雲がどうしても邪魔をしてしまうという、何かの前兆かとも受け取れる歌ですね。
まして詠み手が額田女王であればなおさら、神の声を聞くことに長けた女性ですから、その感が強くなってしまいます。



2006年12月25日(月) 17 味酒 三輪の山

味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで
道の隈(くま) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも
見放(さ)けむ山を 心なく雲の 隠さふべしや



三輪の山をいつまでも見ていたいのに。
奈良の山々に隠れてしまうまで、ずっと見ていたいのに。
道が何度も曲がり角にさしかかって、もうこれ以上は見えないというところまで見ていたいのに。
雲がそれを隠してしまうなんて。
なんて心ない雲なんでしょう。
やんなっちゃう!




天智天皇六年(667)、飛鳥宮から近江大津宮へ遷都が決まりました。
飛鳥を離れて大津へ向かう道すがら、三輪山の姿を目に焼き付けるように見ていたいと願っているというのに、雲がそれを隠してしまうという悲嘆を述べています。

百済救済に失敗したあと、新羅や唐の侵攻に病的なまでの恐怖心を抱いた天智天皇は、都を内陸の飛鳥から陸路・水路両面の交通の要衝に移します。
それまでにも、九州に防人を配置し、各地に城を建設し、なりふり構わぬ国防態勢を敷くわけですが、結局この遷都は民にも廷臣にも喜ばれることはなく、各地で起こった火事や災害などの原因に比定されたりして、天皇自身の治世に少なからぬ影を落としました。
白村江の大敗以後の天智天皇の後半生は、結局怯えと逃走の連続としか見えず、近江に遷都した大きな理由のひとつも、実は退路の確保ではなかったかと思われてなりません。

慣れ親しんだ飛鳥の地を離れる廷臣たちの心はいかに乱れたか、を額田女王が代表して詠んでいるわけですが、そこには故地を離れて未知の土地へ行くという不安感だけでなく、天智天皇の怯えの影がさしていたのだろうと窺えます。
実際のところは、新羅も唐も攻めては来なかったわけですが、恐怖感は長く天智天皇を支配しました。
結局この後わずか5年で、天智天皇は恐怖と怯えの中で息を引き取るのですが、これほど情けない後半生を送ると、誰が想像したでしょうか。



2006年12月24日(日) 16 冬こもり 春さり来れば 

冬こもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 
咲かざりし 花も咲けれど 山を茂(し)み 
入りても取らず 草深み 取りても見ず 
秋山の 木の葉を見ては 黄葉(もみち)をば 
取りてぞしのふ 青きをば 置きてぞ嘆く 
そこし恨めし 秋山ぞわれは



冬が過ぎて春になると、それまで鳴かなかった鳥たちも鳴き始め、咲かなかった花々も一斉に咲き始めます。
けれど、山々は春の息吹に感応して一気に緑が濃くなって枝は茂り草は萌え、どんなに美しい花といえども入っていって手折って見ることもかないません。
一方、秋の山々は全山真っ赤に染まるほど紅葉しているので、近くまで行って一枝手折って見ることも出来ましょうし、まだ青い葉は紅葉するまで心待ちにしてため息をつきましょう。
その点だけは残念ですが、どちらかを選べとおっしゃるならば、秋の山が優れているとお答え申し上げます。




近江の大津宮で天智天皇が、春の山の百花の競演と秋の山の紅葉の艶やかさと、どちらか優れているか答えよという問いかけを臣下にしました。
侃々諤々百家争鳴、様々な意見が飛び交いますがなかなか結論が出ません。
そこで、藤原鎌足を通して額田女王に評価をせよと詔を下されました。
それに答えたのがこの長歌です。
色彩としては、百花繚乱たる春の方が確かに美しいのでしょうが、それを手にとって愛でることができないのは興趣を半減させることだと言い切るところが凄いですが、いかに古代から紅葉を愛してきた国民性かと、納得もし嘆息もする結果判定ですよね。
当時の宮廷人が、決して花を好まなかったわけではありませんが、間近で見ることに重きを置けばこういう結果になることは致し方なし、というべきですか・・・。

今の観光地の山を想像しても、この歌の趣を理解することは出来ないでしょう。
春になって緑が芽吹き始めると、それこそ一気に全山緑に包まれますが、そこへ行くべき道すらも草に覆われてしまう自然の力を想像してください。
舗装道路などあるわけもなく、道筋とて人が踏み分けた獣道程度の有るか無しかのおぼろげなものだったのでしょう。
草に覆われると、その道すらも見えなくなって、肝心の花に近づくことができなくなってしまいます。
後から後から次々と咲き継いでゆく花々を愛でるよりは、色づいて後は散るだけの紅葉のはかなさに「おもむき」を感じる感性は、その後桜を愛でる日本人の国民性に確実に繋がっていると考えて良いのではないでしょうか。



2006年12月23日(土) 15 綿津見の 豊旗雲に

綿津見(わたつみ)の 豊旗雲に 入日さし 今夜の月夜 清けくありこそ



海の神がたなびかされた豊旗雲に夕日がさしている。
今夜の月はきっときれいであって欲しい。




綿津見は海の神のこと。
日本には八百万の神々がおられるので、海の神さまもひと柱だけではありません。
他にもいろいろといらっしゃるのですが、ここでいう綿津見はそういう海の神の総称とでも考えるのが良いかもしれません。
その海の神様が豊旗雲をたなびかせておられるのは、天気が崩れることはないという徴(しるし)だと思ったのでしょう。
入り日は、いま沈んでいこうとしている夕日ですから、今宵の月はきれいであろうと、これまた考えました。

総合的に考えると、海の神様が瑞雲をたなびかせておられるのは、今宵の月がさやかに照るという証だから、夜の航海に支障はないという解釈に到ったということですね。

実はこの歌も13の長歌に対する反歌になっているのですが、どう考えたって大和三山の歌に夜の航海の歌を反すというのはおかしな話です。
でも、14の歌で印南まで来ていますから、その後の海上移動のことを念頭に置けば、この歌も理解できなくもありません。
やはり、百済救済の道程の跡を辿っていく道すがら、印南から陸路を海路に変えて西へと行軍していく模様が目に浮かんでくるようです。

万葉集の注釈にも、早くからこの歌に対する疑問が提起されていたのですが、中大兄皇子がそう歌ったんだから、これはあの大和三山の妻争いの長歌に反した歌だというところで落ち着いています。
よ〜く考えると、やっぱりそうだったんだよ。
というところでしょうか。

しかし、妻問いの歌にかけて百済救済に向かう皇軍を暗示するとは、なんと迂遠なことでしょうねぇ・・・(笑)



2006年12月22日(金) 14 香具山と 耳成山と

香具山と 耳成山と あひしとき 立ちて見に来し 印南国原


香具山と耳成山が争ってる時、それを見に来た神が立ったとされる印南国原よ。





13の長歌に対する反歌です。
香具山と耳成山が、畝傍山をめぐって争っているという噂は、遠く出雲の神々にも届いたとみえて、わざわざ飛鳥まで仲裁をしようとやって来た神様がいたと、播磨国風土記は伝えます。
やって来たのは、阿菩大神という神様でした。
どういう霊験をもたれた神様なのか、さっぱりわかりませんが、一説にその後阿菩が伊菩と訛り、疣を落とすのに大変霊験あらたかな神様として出雲の地に鎮座座しましていらっしゃるとか。
それはさておき、仲裁のため出雲から出てきたところ、播磨の国の印南の地まで来た時に、諍いが収まったと聞いてその地に立ち尽くしていたという伝説が残っているそうです。
で、せっかくここまで来たのだからと、その地に鎮座されたという伝説もあるそうで、それが印南国原とされていました。


なんでまた大和三山の妻争いの話がいきなり播磨の国に飛ぶのか、と思いませんか?
この歌、大和から印南国原を偲んで詠われたものではありません。
見るからにその地に来て、印南国原をその目で見ながら詠んだととれるのですが、これは百済救済で熟田津への道筋と考えれば得心がいきますね。
だから、昔からそういう風に解釈されている歌なんです、実は。



2006年12月21日(木) 13 香具山は 畝火ををしと

香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき


香具山は、畝傍山を妻として得ようと耳成山と争ったことがあったそうだ。
神代の昔からそういう諍いがあったのだから、現在でも妻を得るために男同士が争うのは無理のないことなのだなぁ。




この歌は中大兄皇子の長歌だとされています。
中大兄皇子が妻争いの歌を詠むと、すぐに額田女王をめぐって弟大海人皇子と争った故事が想起されますが、この歌が果たしてそれを暗に仄めかしているかというと、少しばかり疑問が残ります。
確かに大海人皇子との間に十市皇女という娘をもうけていた額田女王を妻として迎えた事実はあるのですが、そこに争いがあったとは思えません。
当時の婚姻形態は少なからず複雑で、誰かと子をなした女性が他の男との間に新たに子をもうけることは、特に珍しくもありませんでした。
それが同時進行で二人乃至それ以上の男の訪れを受けているというのなら、男達の間で争いが生じる可能性は否定できませんが、そこに時間的な差があるのなら、何ら問題のないことだったのでしょう。
今のキリスト教的倫理観に支配された感覚で判断すると、なんと退廃的な、倫理観に悖る女性だとの謗りを免れないでしょうが、

恋愛 = SEX 

という公式が成り立っていた古代日本では、恋愛すれば子どもが出来るのは当たり前のことで、両親の元で暮らす女性は経済的な心配をすることなく子どもを育てることが出来たので、恋愛して子どもができることを悔いる気持ちなど微塵もありませんでした。
そこのところをキチンと理解しておかないと、万葉集をはじめとした日本の古典文学は理解できません。


千三百年以上も前の歌なので、この長歌の解釈もいろいろなものが存在しています。
一般的には畝傍山を女性と見立てて、香具山と耳成山とを男性と見立てて男性同士の妻争いと見るのですが、中にまるで反対の解釈をしている例があります。
折口信夫がその最たる例で、香具山と耳成山を女性と見立てて、雄雄しい畝傍山を女性同士で争ったと解釈しています。
当時の女性が、男をめぐって争わなかったとは言いませんが、これは極端に過ぎると思えます。

ま、いいんですけどね、表現の自由があるんだからどう解釈したって・・・(笑)



2006年12月20日(水) 12 吾が欲りし 野島は見せつ

吾が欲りし 野島は見せつ 底ふかき 阿胡根(あごね)の浦の 珠(たま)ぞ拾はぬ


私が見たいと願っていた野島は見せていただきました。
けれど、底が見えないほど深いといわれる阿胡根の浦。
その阿胡根の浦の絶景はまだ見ていないので、そこで獲れるという真珠はまだ拾えていません。



牟婁の湯への道筋で、今の御坊市のあたりの海岸線から見える野島(一説に小島)を過ぎて、阿胡根の浦で真珠が拾いたいという、ちょっとわがままな女の要求のように聞こえてしまいますね。

阿胡根の浦がどの辺りを指す地名なのか、まだ特定は出来ていないのですが、現在の和歌山県の西部海岸線を北からずっと白浜へと下っていく道筋で、御坊より南にあることだけは確かだと思われます。
飛鳥から牟婁への道は紀伊の西海岸を南下する西ルートと、飛鳥から吉野を通って大峰山系や大台ケ原を過ぎ、熊野から新宮を経て行く東ルートとが考えられますが、役行者や修験者でもない限り、東のルートを採ることは考えられないので、大阪から海沿いに南下して行ったのでしょう。

ここで阿胡根の浦の真珠が欲しいと言っているのは、女性が装飾品としての宝石を欲する気持ちとは少し違います。
真珠は珠という字がつきますが、この珠と魂を重ね合わせて旅の無事を祈れるような具体的な「モノ」が有ればいいのに、と言っているわけです。
いわゆる言霊としての珠と魂ですね。
神に祈り、天皇の意を享ける中皇命ならではの歌といえるのでしょう。



2006年12月18日(月) 11 吾背子は 仮廬作らす

吾背子は 仮廬(かりほ)作らす 草(かや)なくば 小松が下の 草を刈らさね


今あなたは仮屋を立てていらっしゃるけれど、屋根に葺く草が足りないのなら、私が立っているこの松の木の根元の草をお刈りなさいな。



これも10の歌に引き続いて牟婁行幸の際の歌です。
旅の行程が幾日にも及ぶ時、食料はある程度持って行けますが、泊まるところを運ぶことはできません。
現在のようにテントや遊牧民の天幕があったわけではありませんし、ましてや宿泊施設があったわけでもありません。
どこかに寝る場所を確保しなければなりませんが、人が多く住む場所以外はおそらく原生林が広がっていたこの当時は、道といっても獣道程度の人の足が踏みしめたわずかな痕跡があるだけで、確かな道幅が確保されていたわけでも、駅宿の制度が完備していたわけでもありませんでした。
旅の一日は、日が暮れる前にその日一夜を明かす仮屋を建て終わってからでないと、終了しませんでした。
今日、アスファルトの道路の上で一夜を明かしたとしても、それほど濡れることはありませんが、国土の大半が手付かずの自然だった当時、草に結ぶ夜露は雨に降られたほど着るものを濡らしたと想像できます。
そんなことを続けていたら、健康に害があるばかりでなく、野生動物の被害だって考えられたでしょう。
そのための仮屋だったわけです。
屋根に草を葺くのは、製材した板があったわけではないので、柱に渡した横木に小枝を並べて屋根としただけでは十分に風や夜露を防げなかったからでしょう。

この背子というのは、おそらく中大兄皇子を指しています。
皇子本人が仮屋を立てたとは思えませんが、斉明女帝が我が子を案じて作ったと仮託して詠まれているので、こういう呼びかけになっています。



2006年12月17日(日) 10 君が代も 我が代も知るや

君が代も 我が代も知るや 磐代の 岡の草根を いざ結びてな


私の命もあなたの命も、みんなこの岩に託して旅の無事を祈りましょう。
それ、その証として、この草を結んでいきましょうか。




この歌をパッと見ただけでは、おそらく意味が判らないと思います。
古代の人の習俗として旅の無事を祈るのに、沿道の草や木の枝を結んでお呪いとしていたようです。
おそらくは、旅の往還の往路だけにした、ほんのささやかな祈りの気持ちだったのでしょう。
それは、万葉集141のこんな歌に強く表されています。

磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸(さき)くあらば また還り見む


旅は行くだけでは終わりません。
帰ってきて初めて旅が終わるわけです。
だからそこに、帰りの行程で必ず無事にこの草を結んだ印が見られますように、という願いをしたのでしょう。

この歌は、9の歌に引き続いて斉明女帝の牟婁行幸に帯同した中皇命(なかつすめらみこと)の作とされています。
中皇命という個人がいたわけではありません。
天皇と神の間に立って、天意を享(う)けてこれを天皇に伝える人をそう呼びました。
多くは天皇の血縁の近しい女性が宛てられましたが、天皇専属の巫女と言えば近い表現になるかも知れません。
旅の無事を祈るという行為は、それだけ重要だったのでしょうね。



2006年12月16日(土) 9 莫囂圓隣之大相七兄

莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣吾瀬子之射立為兼五可新何本




あ…、フォントがおかしくなったわけじゃありません。
この歌は、いまだにどう読むべきか定説のない歌なんです。

但し書きに、斉明女帝が牟婁の湯(現在の白浜温泉)へ行幸された折に、心に浮かんだ感想を額田女王が歌として詠んだものだとしています。

読み方に定説がない以上、現代語訳することは不可能ですので、ここはこのまま、これだけを挙げておきます。


万葉仮名という言葉を聞いたことがある方は多いと思いますが、これがまさしく万葉仮名表記の歌なんです。
古代日本では字を持っていませんでしたから、記録を残そうとすると中国から導入した漢字に頼らざるを得なかったのですが、漢字をその音のまま導入した朝鮮半島と違って、日本人は悪戦苦闘しながらも日本語の訓を一字一字に宛てていきました。
当然ながら中国と比べた場合、語彙が極端に少なかったために日本語の訓が宛てられない字がわんさかあったわけです。
そういう漢字はそのまま漢語として使うことをせずに、その音だけを利用して日本語を表記することを思いつきました。
それが万葉仮名です。

ところが悲しいかな、その後遣唐使などの派遣によって大陸文化をどんどん吸収していった日本人は、漢字の制御に成功したわけですが、本来の漢字の音とその字が持つ本来の意味が理解できたときには、100年前に万葉仮名として使っていた和製の漢字表記の万葉集が読めなくなっていたのです。
以後、平安時代から現代に到るまで、万葉集の解読作業は連綿と続けられてはきたのですが、いまだにこの歌のようにお手上げ状態のものが残ってしまっているのです。

古来からこの歌には三十数種の読み方が宛てられてきましたが、そうすると、三十数種の解釈が成り立っているということになるわけです。

ということで、今回はお手上げです(^^;;



2006年12月15日(金) 8 熟田津に

熟田津(にきたづ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな


熟田津で月の出を待って船出の時としようとしていたら、折り良く潮の流れも船出にふさわしくなった。
さぁ、今こそ漕ぎ出そうぞ!



斉明七年(661)、新羅・唐連合軍の侵攻にあった百済からの救援要請に応えて、女帝を筆頭に遠征軍の派遣を決めた朝廷は、現在の愛媛県の海岸部の熟田津に軍を留めて出発の時を待っていました。
物資の調達に手間取ったのか、兵員の招集に手間取ったのか、はたまた戦勝祈願の儀式を厳重に執り行ったためか、軍は70日の長きにわたって熟田津に駐留していました。
いかに古代の儀式が荘厳に過ぎたといっても、これはあまりに長すぎると思えますね。
一説に、斉明女帝の体調が芳しくなくて、長旅に耐えられなかったのではないか、と言われています。
事実、女帝はこの後九州に到着して間もなく崩御してしまいました。

当時の宮廷の実権は、すでに中大兄皇子が握っていましたから、母たる女帝の諫言も聞き入れず、無謀な遠征に出ることになってしまったのでしょう。
結局、新羅・唐連合軍に敗れ、百済はもとより、半島南部の任那にあった領土まで失ってしまった朝廷は、その後しばらく外交的に逼塞を余儀なくされてしまいました。



2006年12月14日(木) 7 秋の野の

秋の野の み草苅り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬(かりいほ)し思ほゆ


過ぎしあの秋の日に下草を刈って屋根に葺いた、宇治の行宮の仮屋の一夜が思い起こされることよ。



額田女王の歌と伝えられている歌で、額田女王の歌の初出となります。
およそ数え切れぬほどの歌人が登場する万葉集の中で、屈指の歌詠みとして名を挙げても異論がでないだろうと思われる人です。

この歌は、斉明天皇がまだ皇后として舒明天皇に寄り添っていた頃、狩りに行ったか紅葉を見にに行ったか、宇治の野原に一夜の仮屋を立てて仲良く遊んだ日の思い出を、天皇に代わって額田女王が詠ったものとされています。
あるいは、これの元となるような歌を斉明女帝自らが詠われていたのかも知れませんが、今日に残るのはこの歌のみです。

宮廷歌人というのは、当時の記録係を兼ねていたような感があって、様々な事象や事柄、思い、果ては貴人に成り代わってその心を詠い上げるということまでやってのける技能集団でした。
後の柿本人麻呂や山部赤人などの例を挙げるまでもなく、額田女王自身が不世出とも言えるほどの才能溢れる方でしたから、その作の多くはこうした宮廷歌でした。



2006年12月13日(水) 6 山越しの 風を時じみ

山越しの 風を時じみ 寝る夜おちず 家なる妹を 懸けて偲ひつ


山を越えて吹きつける風は止むことを知らず、夜毎に家に居る妻を思い出してしまう。



5の長歌に応じた反歌です。
いいたい事はこれで十分伝わってくるんですが、何が不足だと思ったんでしょうか?
万葉の時代は、旅に出ることが即ち今生の別れになる場合がありました。
もちろん、陸路を行く場合ですらその危険性は日常生活の比ではなかったわけですが、内海とはいえ海を越えてゆく旅というのは、危険性がとんでもなく跳ね上がったものでした。
現代の言葉で餞別といえば、これで土産でも買ってきて、というような軽い気持ちで渡すものですが、当時にも餞という言葉があって、それには「うまのはなむけする」と訓が付いていました。
もう会えないかも知れないから、付いて行けるところまで一緒に行って、その間馬の手綱を取ってあげる、という強い気持ちが込められた言葉でした。
また、旅に出るに際しては、残る人たちに形見分けをしてから出発するというのも、当然のように行われていたことでした。

それだけの危険を冒して行く旅ですから、長歌が冗長になったとしてもまぁ、割り引いて考えてあげるべきなんでしょうね(笑)



2006年12月12日(火) 5 霞立つ 長き春日の

霞立つ 長き春日の 暮れにける わずきも知らず
むらきもの 心を痛み 鵺子鳥(ぬえことり) うら泣け居れば
玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大王(おほきみ)の
行幸(いでまし)の 山越す風の 独り居る 吾が衣手に
朝宵に 還らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へる我も
草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに
綱の浦の 海人処女らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 吾が下情(したごころ)



霞が立ちこめて、いつの間にやら長い春の日が暮れていくから、この心の疼きがどこから来るものやら判らないまま、まるで鵺という鳥が鳴く声のように忍び泣いていると、遠き昔は神でいらせられた天皇陛下が行幸されている遥かな山から吹いてくる風に、美しい襷をかけたような神々しさを感じて、その風がまた、朝な夕な早く帰って来いとばかりに、独りでいる私の着物の袖に吹き込んでくるものだから、男だと自負していた私だけれど、旅の空に日々を重ねる境遇だからか、抑えがたいこの気持ちを晴らすすべも持たずに、網の浦の海女たちが焼く藻塩のように、ただ焼け焦がれている、我が恋心よ。



軍王(いくさのおおきみ)という人の歌と伝えられている長歌です。
軍王の人となりについては、今日に何一つ伝わっていませんが、どういう用があったものか、四国の讃岐へ赴いた折に詠んだとされています。
もっと言うと、この歌が詠まれたとされる時期に天皇が四国へ行幸された記録はないらしく、まさしく歌も歌人も伝未詳の、如何とも評しようのない歌です。

とりあえず現代語訳してみましたが、今回は逐語訳にしています。
これを現代的な感覚に意訳してみせる技量は私にはありません。
逐語訳してみた感想としては、あまりに冗長な語句の垂れ流しにしか見えません。

で、結局何が言いたいかといえば、所用でこんな遠くへ来ているけれど、都から吹く風を感じて、置いてきたあの娘を思うと居ても立ってもいられない、というところでしょうか。



それだけのことなんだったら、もうちょっと言葉を厳選して歌を詠めば?
それが私の感想です(笑)



2006年12月11日(月) 4 たまきはる

玉きはる 宇智の大野に 馬並(な)めて 朝踏ますらむ その草深野


宇智の野に馬を揃えて、今朝は草深いその野を踏みしめていらっしゃることだ。




3の長歌に付属した反歌です。
長歌には反歌がつきものだとは、いつごろからのしきたりなのでしょうか。
反歌は、長歌で詠った事柄の特に強調したい部分を取り上げて、あらためて短歌に詠ったもののことです。
これも一つの形式として成立しているので、それはそれでいいのですが、反歌という名称が何か長歌の内容と違うことを言いたいのかと、勘違いしていたのは私だけでしょうか。


閑話休題。
天皇が狩りに出るわけですから、そこには廷臣以下武官がずらりと勢ぞろいして、さぞ壮観だったことでしょう。
そういうビジュアルを想起させる内容だと気がつけば、もうしめたものです。
作者の意図をちゃんと汲み取れていますから(笑)



2006年12月10日(日) 3 やすみしし わが大君の

やすみしし わが大君の 
朝には とり撫でたまひ 
夕には い倚(よ)り立たしし 
御執(みと)らしの 梓の弓の 
中弭(なかはず)の 音すなり 
朝猟(あさかり)に 今立たすらし 
暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし 
御執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり



この国をすべてお治めになっていらっしゃる天皇陛下が、朝には手に取ってお撫でになり、夕べには手元にお寄せになって愛用されている、梓の弓。
その弓を射る音が聞こえてくることよ。
朝の狩りに、今出発される。
夕方の狩りに、今出発される。
ご愛用の梓の弓を射る音が聞こえてくることよ。




舒明天皇の皇女が臣下の宮廷歌人に命じて、父である天皇を褒め称える歌を詠ませた、その歌です。
国も褒めれば人だって褒める。
そりゃそうですよね。
褒めれば良きことがあると信じられていた時代に、天皇の行いを褒め称える歌ですから、きっといい治世になれとの願いがこもっています。

中弭の音というのは、弓を射るときに弓弦が左手の籠手に当たって響く音のことなんだそうです。

古来から、弓を持つ左手を弓手(ゆんで)、馬の手綱を取る右手を馬手(めで)といいました。
弓を持つ左手には、弓を射ると引き絞った弦が反発で左手の二の腕あたりに必ず当たってしまいます。
逆に考えれば、反発で二の腕に弦が当たらないほどの絞り方しかしていなければ、矢は前に飛ばないとも言えます。
だから、戦装束でない場合でも、弓を射るときは弓手に革製の籠手をつけて、二の腕をケガから守っているのが普通でした。
現在の弓道の試合や稽古でも、指までカバーできる籠手をはめていますよね。
あれがなければ、弓を射るたびに大怪我してしまいますもの。

そして、中弭の音は同時に破魔の音でもありました。
古来から日本では魔を払うのに弓の弦を鳴らしていました。
その音が大きければ大きいほど、その効果も大きくなると考えられていましたから、中弭の音が大きく響くほど、良いことがあると考えたのでしょう。
なかなか奥が深い歌ですね、これは・・・。



2006年12月09日(土) 2 大和には 群山あれど 

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山
登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ
海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は



この大和の国に山は数々あれど、とりわけ素晴らしい香具山の頂に立って私が治めるこの国を眺めれば、国土には民の煮炊きする煙が多く見え、南の湿地帯にはゆりかもめが舞い、いかにも豊かではないか。



舒明天皇の御製とされる長歌です。
歴代の天皇の大切な儀式の一つとして、「国誉めの儀」というものがありました。
どこか高いところに立って、見渡す限りの国土を誉め称えるわけです。
古代、神々はいたるところにそのお姿を現して、民草とともにあると考えられていました。
天皇は、祭政一致の象徴としての役割が大きなウェイトを占めていた時代には、そういう神々が宿り賜う国土を誉め称えて、国の称栄(いやさか)を祈念することが、重要な仕事だったわけです。
言霊という存在が真実のものとして信じられていた、そんな時代の国家の生産力を維持上昇させる手段として、欠かすことの出来ない儀礼だったわけです。

この歌も、だから、舒明天皇の御製ということになっていますが、歴代のどの天皇が詠ってもよいわけで、連綿と歌い継がれて来た里謡のひとつなのでしょう。

誉めれば誉めるほど豊かで美しい国になる。
昨今の教育の真髄を見るようで、人間も国土も誉めれば伸びるということなのでしょうか。



2006年12月08日(金) 1 籠もよ み籠持ち

籠もよ み籠持ち 堀串もよ み堀串持ち
この丘に 菜摘ます子 家聞かな 名のらさね
そらみつ 大和の国は 
おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 
吾にこそは告らめ 家をも名をも



キレイな籠とカッコいい箆を持って薬草を摘んでるお嬢さん
あなたはどこの家のなんという名前なのかな?
私はこの大和を治めているんだよ
だから安心しておっしゃいな
家も名前も





万葉集巻一の巻頭の歌ですね。
俗に雄略天皇の御製とされていますが、おそらくは当時流布していた民謡か里謡の類に少しばかりアレンジを加えただけの、誰でも知っている歌だったのでしょう。

今でこそ和歌というと詠むものですが、当時古代の日本ではそれぞれが独自のメロディをつけて、それこそ歌っていたんだと思います。
もちろん、基本となる旋律は共通の認識の中にあったのでしょうが、それにどういうアレンジをして歌い上げるかが、歌人としての評価のひとつの基準になっていたんじゃないでしょうか。
この場合は民謡、里謡ですから、そんなに本来の歌とかけ離れた調子っ外れなマネはできなかったでしょうが、歌い方、節の上げ下げ、音の長短などで個人の技量を競ったんだと思います。

この歌の歌詞の一部をそっと変えて、好きな女性の家のそばで歌えば、あるいは想いが叶えられた男もいたでしょう。
そう思うと、身近なものだったんでしょうね、歌って。


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セレーネのためいき

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