発つ鳥 跡を濁さず って言うじゃない? と ある方に言いたくなりました。 どんな試練も苦労も、結局、自分との闘いで 最後を美しく閉じて初めてよし!」と自分自身が思えるのではないのかな?と思うわけです。 理不尽な世の中はお互い様 そんなことが、今日、ある方が捨て台詞のように放った言葉を聞いたとたん、くるくると頭に浮かびました。 彼女の奮闘は違うセクションのわたしたちも知っていること そして、今回の彼女の異動をだれもが祝福していたのに 職場に対する恨み辛みが爆発したような別れ際の皮肉な捨て台詞に、、ちょっと凍ったわけですね、心が。 でも、わたしの同僚たちはさすがです! 静かに微笑んでおりました。 さて、来年度も張り切って参りましょう! 毎日波瀾万丈な職場ではあるけれど 逆巻く波もサーファー気取りで乗りきって行きましょう! 愛すべき同僚に助けられ ちょっぴりわたしも助けたりして 日々、笑って仕事をしましょう♪ へっぽこなわたしの力を試せる場所を 与えて頂いて神さまに感謝です。 平成二十二年度、COME ON!
2010年03月30日(火) |
桜 寒いかと付き笑う |
なんと寒いんでしょう! 富士山も大山も真っ白とのこと。 年度末というより、年末を思わせる寒風です。 明日でひとつのステップが終わって 四月から違うステージが待っています。 出会いと別れと。 寒風と桜と満月と。 なんだからんちき騒ぎをしたいような… そんな宵であります。
突然、水滴がひとしずく落ちて来たように脳天から不安が全身に染み渡っていくことがある。 それは、昨夜訪れた。 ラジオから「サハラ砂漠」という言葉が聞こえて来たとたんだった。 そうだ… わたしはサハラ砂漠の砂を持っていた… あれは、職場の華道部にいらしている先生からいただいたのだった。わたしは可動部ではないのだけれど顔見知りのわたしに先生は声をかけてくださったのだった。 「わたしサハラに行って来たのよ。砂漠の砂を持って帰って来たんだけど、あなた欲しい?」 そうおっしゃる先生は現在八十五歳ぐらいだから声をかけてくださった当時でも七十五歳は下らないお歳だったと思う。そんな高齢であっても先生は果敢に様々な秘境へ出かけられていたので、サハラなんて聞いてもわたしは全然驚かなかった。そして、ぜひいただきたいと応えたのだった。 小さなコルクの蓋がされたガラスの小瓶に入った少量のサハラの砂をわたしは手に入れた。 で、その十年以上も前にいただいたサハラの砂がどうわたしの不安感をかき立てたのかと云うと… ダニ… 聞いたことがあるのだ。 たしか、アフリカだか中東だか、とにかくあの辺の砂漠に生息しているダニ。 足から体内に侵入し人を死にまで至らせるというダニの話を思い出したのだった。 不思議にネイティブの人々は平気らしいが、旅行者はソックスを絶対に履かなければ危ないし、砂漠を歩いた時に着ていた下着などは必ずアイロンをかけてダニ退治をしてから着なければ危ない… そんな話がサハラ砂漠」という言葉を聞いたとたんに脳のシナプスを駆けめぐり瞬時にして不安の大津波を連れてきた。 果たしてあの砂をどこにしまっただろうか? もし、瓶が壊れてあの砂が外部へ漏れて、ダニが繁殖したら? あんな乾燥した過酷なところで充分生きていけるんだから、こんな穏やかな土地柄ではすくすくと子孫を繁栄していくんじゃないだろうか? そしたらわたしはその辺の川にメガネカイマンやピラニアを捨てるなんて非道なこと以上にいけないことをしたんじゃないんだろうか? いやいや感想の強いところの生物って結構湿気に弱いんじゃないんだろうか… 思いは堂々巡りを繰り返しすっかり疲れてしまった。 このマイナスな思考回路 どうにかならないものだろうか… わたしの横で同僚のおみやげを食べている夫に、 「それどんなお菓子?」 と尋ねたら、 「瓦せんべいをふやかして、二枚重ねた間にあんこをはさんで、踏んづけたみたいなお菓子」 ? いったい、それって… すっかり寒さが戻ってきた。 帰りには雨が降り始めた。 明日も寒いらしい。みなさん風邪など召しませんように。
中途失明社の わたしが点字を読めるようになった頃、もうそれは二十年以上も前のことになるのだけれど、点字図書館には数少ない蔵書しかなかった。 翻訳本に関しては絶望的に少なかったし、国内のタイトルにしても、三島由紀夫、太宰治、川端康成などという、東大教授で盲聾者の福島智さんに言わせると「死んでしまいたくなるような」本ばかりが並んでいた。 読書が好きだったわたしが本から遠離ったのはそれだけが理由でもなく、どんどん落ちてくる視力と、慣れない職場生活と結婚の両立なんていうものたちと格闘していた時期だったからかもしれない。いずれにしても、わたしの読書生活には空白の十年間が存在する。 やがてCDの録音図書が登場し、コンピュータ点訳が行われるようになると読書環境は劇的に変わった。そしてわたしの読書生活も復活したのだった。 その空白の十年間に素敵なエッセイストの著書が編まれていたことをつい最近になって知った。そして、その著書の素晴らしいことにわくわくと読書の幸せを感じる。 わたしは、この一年ほどで、須賀敦子さんの随筆を次々に読んでいった。 「ミラノ 霧の風景」「コルシア書店の仲間たち」「ユルスナールの靴」… それぞれの乾燥は少しずつ日記に書いて行きたいと思う。残念なことは、わたしが須賀敦子さんを知った時には、既に須賀さんが亡くなってらしたことだ。そう思うと、残された数少ない作品たちのひとつひとつが貴重に思える。 そしてまた、その読書生活が始まった頃から十数年、わたしはテレビから遠離った。 それまでは、たとえわたしたちが画面が見えなくともテレビの音声は我が家のリビングに流れていた。 見える頃から馴染んでいた俳優たちの声を聞き分けてはドラマの画面をイメージしていたものだ。でもテレビドラマが少しずつつまらなくなり、満足な読書環境が整うと、もはやテレビのスイッチを押すことはなくなった。 最近、時々何の拍子にかテレビをつけてみると、偶然、いくつかのよいプログラムにぶつかった。 それをきっかけにテレビをつける回数が増えてきた。 知らないタレントや俳優が圧倒的に多くなり、見知った俳優たちは驚くほど歳をとっておじいさんおばあさん役を堂々と演じている。 まるでわたしはテレビ浦島のようだ。
土曜の日記を書いたつもりだったのに アップしたのは日曜の早朝となっていたことに昼頃気付いた。 なので日曜の日記を編集し直し。 何とも言えないすごい暴風雨 爆弾が落ちたような雷鳴 大荒れに荒れた土曜の夜の空だった。 人でさえ眠れないこんな夜に いったい鳥たちはどうしているのだろう? そう言えば 昼頃に小鳥が戸惑ったような鳴き声でベランダの無効の電柱から電柱へと渡って飛んでいた。 あれは金曜の朝、公園の木々の間を楽しげに歌いながら飛び回っていたあの鳥だ。 あまり聴いたことのない囀りで わたしは愛鳥家である友人のMに何という鳥なのか鳴き声を録音して尋ねてみたいものだと思っていた。 土曜の昼におろおろと飛んでいたあの鳥は、 あの朝のスタカートの効いたリズミカルな囀りとはかけ離れた 途方に暮れた鳴き声だった。 うちのベランダにおいで 室外機の影においでなさい そっと丸まって夜をやり過ごして わたしはそう小鳥に心の中から話しかけていた。 さて小鳥はどうしたものか。 それはわからないけれど、春の嵐は日曜も続いた。 今日の読書は須賀敦子。 「コルシア書店の仲間たち」 文藝春秋 夜食にラカタンバナナ アップルバナナの別名があるという酸味の効いたバナナです。 詩を三編書きました。 さて日曜のうちに日記をアップしましょう…
2010年03月20日(土) |
カラーひよことコーヒー豆 |
「カラーひよことコーヒー豆」 著者 小川 洋子 小学館 敬虔な気持ちになってしまう。いつも 小川洋子さんの文章を読むと透明なものに包まれたような敬虔な気持ちにさせてもらえる。 1962年生まれの著者はわたしと同年。狂ったバブルの時代を同じに通過してきたのに彼女の慎ましい心のありようは、きっと進行されている宗教も少なからず影響していることと思う。 ほんの一言の言葉や、ちょっとした仕草や、ふと漏らされる吐息など人の微かな心の揺らぎを小川さんは見つめている。これは、そんな静謐でありながらきらきら輝くエッセイが編まれたもの。 <<これでもかと立ちはだかる障害を乗り越え、皮肉、嫌み、小言、のたぐいを上手にやり過ごしくたびれた肉体に鞭打ってどうにかひとつ重大な仕事をやり遂げる。しかし、褒めてくれる人はだれもいない。…>> 著者はそんな時には好きなあんてぃーくの品をひとつ手に入れる。ご褒美として。 けれども思いがけないところから本当のご褒美はやって来る。 「博士の愛した数式」が映画化されて小川さんは映画館へおもむく。 その途中の電車で偶然隣に座った同年代の女性が大きなバッグの上に開いていた本は「博士の愛した数式」だった。 熱心に読んでいた女性は、降りるべき駅をうっかり乗り過ごしてしまうくらいに小説に集中していた。慌てて降りていく女性の背中に小川さんは静かに頭を下げた。 <<本物のご褒美は生涯にひとつあれば充分だ。何度思い起こしても新たな喜びに浸れるのだから…>> 好きな小説を書いて暮らせるだけでも幸福であるのに、その書いた小説が誰かの心に確実に届いている… そういうことこそが本当のご褒美なのだと。そして、そんなご褒美はひとつあれば足りるのだと… もっともっと…と期待するわたしは反省し、真摯な心になるのでした。
前にもこの日記に書いたけれど、わたしはカラスが好きだ。 わたしが彼らを好きなのがカラスにも伝わるのか、わたしはカラスのわたしに対する好意を感じて暮らしている。どんな風に好意を感じるのかと言うと、 まず鳴き方 カラスは電柱から下方のわたしに身を乗り出して、「くわあ…」と優しく鳴くのだ。ほんとだもん。 それから誘導… 視覚障害者であるわたしが通勤で通る道には、もちろんたくさんの障害物があるのだけれど、調子が狂うときは、いつもは難なくクリアする障害物にぶちあたり方向感覚をなくしてしまう時がある。 焦って杖で探っていると、そういえば先程来聞こえているバサバサという羽音にふと気付く… カラスがわたしの左先方へと緩やかに旋回を繰り返している。ああ…そうか…そっちなのね… わたしは進むべき道を探り当てる。カラスのおかげ。 先日も曲がるべき脇道を通り過ぎてしまい後戻りをしていると、いつも曲がる角の上で子ガラスが「カア…」と鳴いていた。それまでは気配がなかったのに… 偶然と言われればそれまでなのだけれど、わたしはカラスの好意を確信しているのだ。 カラスがわたしによくしてくれるのは、わたしがカラスを好きだからだ。 たとえ餌をやらなくともカラスはわたしがカラスを好きだからわたしに好意を持ってくれる。 わたしはカラスが好きなのだ。そしてわたしの好意を彼らは感じられるのだ。 生き物たちは敵意に関して何より敏感だ。 彼らの生存に関わる問題だから。
三月は満月から始まった。 ルナティックなわたしはいつも満月には充分注意している。 かなり抑制しなくては、ウルフなみのワイルドな匂いを発散しそうだから。 フォクシーレディはなまめかしく魅力的だけど、狼女ってのはねえ… でも満月に充ち満ちるこの荒ぶる気持ちは何なんだろうねえ…
どの小説を読もうか、海外の小説を選ぶとき、ひとつの目安になるのは翻訳者なのだけれど エッジが効いていてへんてこな小説を読みたい時は岸本佐知子さんの翻訳本を選ぶ。 ジュディ・バドニッツだとか、トム・ジョーンズ(歌手ではありません)なんていう作家も翻訳が岸本さんだから読んでみたのだった。で、面白かった。 大体、この岸本佐知子というお人自身がへんてこらしい…てか、変だ。 それは彼女のエッセイに詳しいのでそちらを参照希望。 気になる部分 著者 岸本 佐知子 白水uブックス ねにもつタイプ 著者 岸本 佐知子 筑摩書房 そのエッセイの中で、通勤電車で出会う不思議な人々について書かれているんですけど 毎朝新聞を読んでいる真面目なおじさんサラリーマンが、ある日気がつくとアイシャドウと口紅を塗っていつものように新聞を読んでいただとか、掌のオニヤンマに向かって大声で話しかけているおばさんだとか、終点まで声を張り上げて「わたしの青い鳥」を歌い続けたサラリーマンだとか、 そんな車内の妙な人々を彼女は「きてれつさん」と呼んでいるのです。 彼女の乗っていた通勤電車、それはすなわちわたしの乗っている通勤電車なのであります。 そしてわたしもそんなきてれつな人たちに毎朝のように出会うのです。 実況中継中のおじさん-「それではスタジオの○○さんにお返ししまーす…」というセリフと共に何やら隣のわたしに差し向けられた気配…それはおじさんの右手のげんこつに握られた架空のマイクだと容易に想像されるわけですが、わたしを含めた車両の人々は彫像のようにかたくなに押し黙り呼吸すら次の駅でドアが開くまで我慢するほどのの堅固な決意…。まるで車両は真空状態のようです。 そうかと思うと、突然♪オーソォレェ〜 ィ〜ミィィィィィィィオォォォォォォ… と肺活量の限り歌うサラリーマンだとか、 セーラー服にブルマー姿ではにかんで車両から車両へと歩く四十代のおじさんだとか、 きてれつさんたちの生態については枚挙にいとまがないわけです。 さて、H駅に着きました。ドアが開きます。ホームから明るい声が聞こえて来ますよ… 「○○駅でえーすっ!気をつけておおりくださあいっ!」 ああ…いますいます…またきてれつさん… 「あれっ?降りないわけっ?えーっ!なんだよっ!降りないわけっ?」 おや?なんだか、デンジャラスな空気ですよ。 で、そのデンジャラスなセリフは、ドアの端に立っているわたしに向けられているような… 「なんだっ!ったく紛らわしい…まっ・ぎっ・らっ・わっ・しっ・いっ! いとへんに ふんと書いて まっ・ぎっ・らっ・わっ・しっ・いっ!」 そうでした…「まぎらわしい」って「紛らわしい」って書くんでしたね… 明るいおじさんはなおも大声で明るく文句を続けていますよ。 「ああっ!あっついっ!なんだかサウナみたいだっ!あっついっ!」 まことに滑舌よろしく妙にうれしそうに怒っていますよ。 「あっ!次は△△駅か!よしっ!降りてみるかっ!よしっ!降りてみるかっ!」 ええーっ? 降りなくていいよ…おじさん… △△駅はわたしの降りる駅です… こうして毎朝楽しくきてれつさんたちと通勤をするわたしです…
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