はぐれ雲日記
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2005年06月08日(水) 『言語にとって 美とは何か』

やっと読み終えました。

吉本隆明が日本には珍しい一貫性のある思想家であることはマチガイナイです。
マルクスも天皇制もどっちも現代では実態があって無いようなものだから
極右と極左は結局のところとどのつまりが最終的にやることが似てくるのでしょうか。

かってよく読んだ鶴見も小田実も本田勝一も悪くないが思想家ではないので。
ましてや吉本隆明は詩人でもあるので彼らとは比べるべくもないですが
吉本はまぎれもなく自身の思想をつむぐ日本の手作り職人。と言う感じがします。
この比喩は最近になって吉本氏自らが、私の言語論は指示表出の横糸と
自己表出の縦糸との織物で あると言われていることでもそう遠くないことと思えます。

今回わたしは言語にとって美とは何かを数日かけて読み終えたが
「原始人が海を見てウと言った」という文章で、軽く足を蹴飛ばされたような気分になり
思わずふう。とため息をついていったん本を置いてあたまを休めてみました。
40年前のパワフルだった彼の渾身の作品を読む。と大上段にかまえて
とりかかったのですが(正直言ってこのような本を読むのは炭鉱の労働と同じです)
でもまあ、海を見て・・・は詩人の魂の表出だと思えばいいかぁ。と思いつつ
再読することにしました。

『言語にとって美とはなにか』で「指示表出と自己表出」という初mimi用語で
語られる概念を、どう理解するのかということで、読者の「吉本度」が試されるのではないかとも
思ったですよ。さらにこの本の核。はこの部分だと思いました。結構やさしそうでむつかしい概念です。

角川の新刊で、吉本氏は指示表出とは視聴覚で自己表出とは内蔵であると今回追加
しているのでひらたく言えばこゆことだろうかと。
指示表出は説明。(対他人)客観的記事
自己表出は感動。(対自分)主観的記事

とまあこんな解釈をしたけど・・・それがどうした?と言われればどうもしないです。

テーマが何か,どんな内容のことをどのように書いているか。というようなことは
指示表出からたどって文章を読むということだし,それがどれだけ訴える力をもって
書かれているか。というのは自己表出として言葉をたどることだということだそうです。

さびアタマにはちょっと良い刺激〜。脳にサイダーをかけたみたひ。

でも戦後思想界の巨人も最近本屋では書くのが億劫なのか語りおろしが多くなりました。

「どこかで女性は不特定多数の男性との性関係があったとしても、
女性は自分の産んだ子供の父親が誰であるかを確実にしっているはずだ」
などとのたもうていましたが。とんでもねいですよ。まあしょうがねいですね。
これはジェネレーションギャップだから〜。
やはり巨人ともなると現実が見えなくなりおぼろおぼろな幻想に捉われてしまうのでしょうか。
育った時代の限界なんだろうか。 じいちゃん。それはアリエネイですよ。orz
昔は知らないが何だか最近自己表出全開なの?。・・・・かにゃ?


鈍角 |MAIL

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