歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2008年05月30日(金) アフリカよりも日本ではないか?

このニュースを読んで、僕は複雑な気持ちになりました。以下、このニュースからの引用です。

福田首相は第4回アフリカ開発会議(TICAD4)の開会式で基調演説し、日本企業による投資を倍増させるため、国際協力銀行に「アフリカ投資倍増支援基金」を設け、5年間で25億ドル規模の金融支援を行う方針を表明した。
 また、アフリカの道路網構築への支援として、5年間で最大40億ドルの円借款を提供することも明らかにした。
 演説ではこのほか、食糧危機への対応として地下水開発や水道管理の専門家を「水の防衛隊」として派遣することも明らかにした。会議は30日までで、共同文書「横浜宣言」など3文書を同日採択する。


アフリカの国々はこれまで世界の発展から取り残されてきた感がありますが、昨今の資源確保の動きからアフリカ諸国の中には年間数パーセントのGDPの伸びが出て国もあるのだとか。ところが、こうした国々は貧富の差が広がり始め、大きな社会問題となってきているのだそうです。
今回の会議で、日本ではアフリカ諸国の社会基盤の発展を中心とした支援策を次々と打ち出しているようで、上記のような支援が行われているようですが、この背景には将来にわたる安定的な資源確保や国連安全保障理事会における常任理事国入りにおけるアフリカ諸国からの支持があるのだとか。

外交上、日本がアフリカ諸国の支援を行うことに対して僕は否定はしません。アフリカ諸国が貧困にあえぐことは、地球規模において大きな問題となりかねないからで、先進国の一員としてこれら国々に援助をすることは日本の国益にもかなうことでしょう。それにしても、今回の支援策は、一ドル100円として、金融支援として5年間で総額2500億円、円借款に5年間で最大4000億円、二つ合わせて6500億円という規模の高額支援です。

その一方、日本国内、とりわけ社会保障に目を向けると、その状況は年々厳しくなっています。小泉内閣以降、政府は社会保障費の伸びを年間2200億円抑制するという方針が出されていますが、医療、福祉、年金といった社会保障制度の根幹を揺るがす問題は枚挙にいとまがありません。その理由は財政的なバックアップがないことであることは明白です。

政府が行う政策は日本に住む全ての国民からの税金で成り立っています。外交面での援助も社会福祉、教育、公共事業、防衛、農林畜産業、漁業等も財源の根本は税金です。政府、ならびに国会はこれら税金の使い道をどのようにするか考え、使っていくかを決定する機関だといっても過言ではないでしょう。アフリカ諸国への援助が長い目でみて日本の国益にかなうなら、税金の使い方としては正しいのかもしれません。けれども、今回の会議での大盤振る舞いをみるにつれ、政府はもっと足元を見ないといけないのではないかと強く感じるのです。

医療現場で働く人間として、今の医療、介護の現場が如何に大変か?限られた条件の中で医療、介護現場で働いている人たちは必死で毎日を過ごしているのです。本当に財政に余裕がないのであれば、我慢することは仕方がないでしょうが、今回のニュースのようなことや昨今の各省庁の特別会計、それにまつわる無駄遣い報道を知るにつれ、本当に必要なところに金がまわっているのか、疑問に感じるばかりです。

アフリカを大切にするのはいいですが、もっと日本国内の様々な諸問題に投資すべきではないだろうか?今回のアフリカ諸国支援の大盤振る舞いをみるにつけ、その思いを強くする歯医者そうさんでした。



2008年05月29日(木) 携帯メール炎上直前

先日、地元歯科医師会の上司の一人であるY先生から僕の携帯電話にメールが届きました。
その内容を見て、僕は正直言って驚きました。メールには、
“地元歯科医師会で所有しているある物がきちんと管理されていないのは僕のせいである、もっとしっかりと管理しろ!”
といったようなことが書かれていました。

正直言って、僕には全く寝耳に水の話でした。この所有物の管理に関しては僕が担当することになっており、Y先生もそのことを承知していたのですが、僕が全く与り知らぬところで、この所有物が使われていたようなのです。
僕の管理不行き届きであると言われればそこまでの話ではあるのですが、僕自身、自分に落ち度があったとは到底思えたかったのです。自分に責任があれば素直に認めるつもりでしたが、僕の目を盗んで誰かが使用したとしか思えない状態だったのです。それを一方的に僕のせいだと書かれていた文面のメール。正直言って僕は思わず言いたくなりました。

“いい加減にしてほしい!”と。

メールで書かれていた書き方がかなりきつい表現で僕に注意するような書き方だったので、僕はつい感情的になってしまいました。

“このことに関して抗議しよう!”
そう思い、返事のメールを書こうとしたのですが、僕は念のため、メールの返事を書く前にY先生に直接電話で確認をすることにしたのです。Y先生の真意を直接確かめたかったからです。

その結果はといいますと、Y先生の話しぶりが説教する様子ではなかったことに僕は面食らいました。いろいろと直接話をしてみると、Y先生は僕にとやかく言うつもりはなかったことがわかりました。直接の責任は僕にはないのだか、僕にも念のためにちょくちょく所有物を見てほしい。そんな軽い気持ちだったことがわかったのです。

今回の件で、僕は改めてメールの難しさを感じました。メールは非常に便利なツールであり、基本的に相手の状態に関係なく自分の意見、考え、お願いなどを伝えることができます。さすがに時間帯に関しては深夜や早朝は控えますが、それ以外の時間帯であれば時間を気にせずメッセージを送ることができる。そんな利便性が人々に受け入れられて、広く浸透しています。
ただ、メールというのは会話と異なり、文字のみ、テキストのみで書かれています。最近は絵文字などを多用して書く場合もあるようですが、それでも、細かい微妙なニュアンスを伝えるのは不向きです。自分が何気なく書いた表現が相手にとって気に触れたり、けんかにまで発展し収拾がつかなくことさえあるものです。
よくインターネット上で炎上と呼ばれる、収拾がつかなくなった書き争いが散見されますが、これなどもテキストによる意思疎通のちょっとした誤解、ニュアンスの感じ方の違いが影響していることが多いのではないかと思います。
僕も何度かネット上で炎上を起こしてしまったことがありますが、最初はそのつもりではなくても、テキストに酔ってしまい、ついつい感情的になったしまったと反省することしきりです。それ故、テキストによる表現には細心の注意を払わなければと肝に銘じています。

世の中には、メールが便利だからといって意思疎通の手段をメールしか持とうとしない人が少なからずいるようです。確かにメールは便利ではありますが、時と場合によって不用意なトラブルを生じるきっかけとなりえます。

いずれにせよ、Y先生のメールに過激に反応しなくてよかったと思う今日この頃です。



2008年05月28日(水) 持っているだけでは意味が無い資格

世の中にはいろんな資格があります。資格を取るためには、一定期間特定の教育機関に通い、試験を受けて合格しないと得られない資格から、特定の研修を受講するだけで取得できる資格まで様々です。
社会が混沌としている中、資格を持っていることが優位であるという風潮があります。確かに何らかの職に就いたり、ポストを得る際、特定の資格を持っていることが絶対条件であったり、優先されたりすることはあることでしょう。
けれども、どの資格にも必ず言えることがあります。それは、資格を持っていることがその専門のエキスパートとは言えないということです。

歯医者などはその典型と言えるでしょう。仮に、今年某歯科大学を卒業し、歯科医師国家試験に受かり、歯科医師免許を授与された新人歯科医師と歯科医師になって今年で17年目の僕を比較してみましょう。歯科医師という資格を持っているという面では新人歯科医師も僕も全く同じです。けれども、まだ右も左もわからない、ほとんど臨床経験のない新人歯科医師と多少なりとも四苦八苦しながら今に至った僕とは、決して同じ歯科医師とは言えません。おそらく、誰から見ても僕の方が新人歯科医師よりも歯科のエキスパートとして見えることでしょう。資格があるからといって、専門のエキスパートと言えない例の一つです。
歯科医師になって17年目の僕ですが、今でも自分の至らない点が多々あります。むしろ、多くなってきたと言っても過言ではありません。たかが歯科の世界かもしれませんが、奥が深いことを痛感する今日この頃です。
おそらく、どの専門の専門家も、名前の通るようになった専門家でさえ、一日一日が勝負なのではないかと思うのです。今まで培ってきたことを糧に日々、挑戦し続ける。それがその道のプロといえるのではないでしょうか。
そんなプロも必ずスタート地点があります。それが資格を取得した時です。資格を持っている瞬間からその道が始まるのです。

一応、歯医者としての資格を持っている僕の独断と偏見では、どんな資格も資格を持っているだけでは意味がないように思います。資格をもって仕事に従事し続けることによって初めて資格が意味をもってくるはず。世の中の資格優位風潮には一理あるかもしれませんが、資格だけが一人歩きし、資格の本当の意味が理解されていない点に危うさを感じる、今日この頃です。



2008年05月27日(火) おばあさん(おじいさん)、何回言ったらわかるの?

「おばあさん、どちらにお住まいですか?」
「はぁ?」
「おばあさん、お年はおいくつですか?」
「はぁ?」
「おばあさん、綺麗ですね。」
「有難う!」

高齢のおばあさんと若い人との会話の一部です。何かテレビや劇場で見るコントの一場面のような感じがしますが、実際に某所で僕が目にした光景です。高齢の方に対していろいろと質問をするものの、聴こえているのか聴こえてないのかわからないような答え方をするのに、実際に自分が褒められる言葉を言われると直ぐに反応する。
この場面、思わず笑ってしまいそうですが、高齢の方とのコミュニケーションを図る時の難しさを表しているように思えてなりませんでした。

僕の地元歯科医師会では、定期的に一般市民向けに歯や口の健康講座を開きます。この講座に参加される方は、60歳以上の高齢の方が大半を占めています。
この講座では、最後に参加者から質問を受け付けるのですが、毎回受ける質問にはある特徴があります。それは、講演の内容そのものに対して質問は限られており、多くの質問が自分の歯や治療に対するものであることです。司会者が事前に
「今日の講演に対しての質問はありませんか?」
と言っているにも関わらずです。

実際に健康講座に足を運んで下さる高齢者というのは、自分の体、歯や口の中に関心があることは明白です。そんな高齢者でさえ、自分と直接関係の無い、自分の問題と直結しない話題に対しては理解しようとしても理解できない。そんな人が多いのが実情なのです。
よく高齢になればなるほど子供返りすると言われていますが、これは一理ある、いや二理、三理もあると僕は思います。

最近、後期高齢者医療制度に対する批判が相次いでいます。国会では野党が後期高齢者医療制度廃止法案を提出し、参議院で審議が開始されようとしています。これに対し与党と厚生労働省は見直すべきは見直すが、廃止法案そのものは認めない姿勢を崩していません。そんな与党や厚生労働省も後期高齢者医療制度に対して実際に対象となっている75歳以上の高齢者に対して説明不足であったことは認めており、今後更なる説明をしていくという方針なのだとか。

高齢者、特に75歳以上の後期高齢者と呼ばれる方は、実に様々です。元気はつらつ、足腰もしっかりし、頭脳明晰な高齢者がいると思えば、一見するとしっかりしているようでも実は認知症であるような高齢者がいます。また、長期療養のために寝たきりになったり、身寄りが無く、毎日食べていくのも大変な高齢者もいます。これら様々な後期高齢者と呼ばれる方に後期高齢者医療制度を周知していくというのは非常な困難を伴うと思うのです。

冒頭で書いた例のように、高齢者というのはコミュニケーションを取るにも一苦労である場合が多いもの。中でも後期高齢者と呼ばれる方に対し、後期高齢者医療制度を理解させ、年金から保険料を天引きすることを承知させるには、ちょっとやそっとの説明では話になりません。
僕自身、医療の現場で高齢者の人に治療の説明をするのですが、口を酸っぱくするくらい説明しても、まだ理解してもらえない場合が多いのが実情。
手を変え、品を変え、最低10回は説明するくらい気概をもって行わないと、後期高齢者医療制度を対象者に周知させるのは困難ではないかと思う今日この頃。



2008年05月26日(月) ”すみません”の意味を勘違いする人

自分が何か誤ったことを行ったり、過失があったりして相手に迷惑を掛けた時、相手に対して陳謝やお詫びの気持ちを表す言葉の一つとして
“すみません”
があります。

「○○をしてしまい、すみません。」
「約束の時間に間に合いませんでした。すみません。」

などなど。

“すみません”という言葉を言われると、言われた方も言った方が非のあることを認めることを表明しているようなものですから、機先を制せられるような所があり、少し感情的に攻撃的になっていた自分を収めざるをえなくなるところがあります。
僕自身、相手から“すみません”と言われると、ついつい一歩引いてしまう気持ちになってしまいそうなのですが、世の中にはこの“すみません”を逆手に取って行動しているのではないかと思いたくなるような人が少なからず存在するようです。

うちの歯科医院に来院する患者さんの中で、歯痛が生じたり、歯肉が腫れたりしないと来院しない患者さんがいます。それだけならまだいいのですが、この患者さん、歯痛や歯肉の腫れの応急処置を行い、症状が消えると全く来院しなくなるのです。
応急処置はあくまでも応急的に行うもので、本格的に原因治療を行うために何度かの来院が必要で、必ず何度かの来院をお願いするのですが、その度に、

「すみません、次は必ず来ます」
と言いながら、予約を取っても症状が無くなれば全く来院しないのです。

これまでこの患者さんには、何度も応急処置の意味と原因治療の大切さを説いているのですが、その度にこの患者さんは必ず

「すみません。」
と言う言葉だけは必ず言われるのです。

僕の独断ですが、この手の“すみません”の使い方をする人ほど、“すみません”の意味を考えずに使っているとしかいいようがありません。いくら相手にお願いをしたり、頭をさげても、その都度
「すみません」
を言っては梨のつぶてとしか言いようの無い態度を繰り返す。一体どんな精神構造をしているのでしょうか?“すみません”をその場しのぎに使っているのでしょうか?それとも、“すみません”の意味を何も考えずに使っているだけでしょうか?

どうもこの手の人は“すみません”を連発しながら相手が自分を責めることを防ぎ、マイペースを貫く主義なのかもしれません。これも一種の相手の攻撃から自分を守るリスクマネージメントなのかもしれませんが、“すみません”の本当の意味を知っていれば、このような言い訳がましい“すみません”はできないはずです。“すみません”の後には、自分が至らなかった点を反省し、自分が犯したミスや行為を繰り返さない態度、行動を示さなければならないと思うのですが、“すみません”を言いながら何もしない人というのは、確信犯的に問題の本質から自らを避けている、言い逃れているようにしか思えません。

僕自身、この患者さんに対し感情的になって大声で怒鳴ってやろうかと思ったことが多々あります。しかしながら、そう言えば言ったで相手はなおさら“すみません”を繰り返すのが関の山だと思い、押し留めています。いつになったら事の重大さに気がついてくれるのでしょう?自分の体の管理に関しては自己責任です。“すみません”を言い続けながら、何も改善しようとしないのであれば、最終的な責めを負うのは自分自身。治療をする側としては、何度でも我慢強く、手遅れになるまでに相手が気がついてくれるよう、地道に説得していくしか手が無いのかもしれません。



2008年05月23日(金) 時代おくれの男になりたい

先日、自室を整理していると、とある場所から古びたCDが出てきました。そのCDとは、今は亡き河島英五のベスト版のようなCDでした。

僕は音楽の好みはクラシック音楽がメインではあるのですが、他のジャンルの音楽も聴かないわけではありません。河島英五に関しては、叔父が大ファンであったことから僕も影響を受け、好きな曲が何曲かありますが、その中でも最も好きなのが時代遅れ。作詞がこれも今は亡き阿久 悠、作曲が森田公一で、河島英五のヒット曲の一つなのですが、今回見つかったCDの中にもこの曲が収録されていました。
久しぶりに聴いてみました。何といっても歌詞がいい。

目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは無理をせず
人の心をみつめつづける
時代遅れの男になりたい

ねたまぬように あせらぬように
飾った世界に流されず
好きな誰かを思いつづける
時代おくれの男になりたい


僕が密かに理想とする男像を歌い切った歌詞に、今更ながら感動しました。自分は大した男ではないけれど、人から見えないところで温かな気持ちを常に保ちながらささやかな幸せを感じられる男。今の僕からは程遠い男性像ですが、これの少しでもこの先実現することができたなら・・・。

いやいや、いつ聴いてもいい歌ですね。

実際にこの曲を聴いていると、嫁さんもこの曲を聞いていました。
僕がこの曲の素晴らしさを語っていると、嫁さんは

「私の理想とするところと全く正反対だわ」
とのこと。

目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは無理をせず
人の心をみつめつづける
時代遅れの男になりたい


このあたりは、

目だっていたい はしゃいでいたい
似合わないことも時には無理をしたい
人の心はきにしない
流行に敏感な女でいたい



ねたまぬように あせらぬように
飾った世界に流されず
好きな誰かを思いつづける
時代おくれの男になりたい


の部分などは、

ねたんでしまう あせってしまう
飾った世界に流されてしまう
好きな誰かには直ぐにアタックする
流行に敏感な女でいたい


これが嫁さんの理想なのだとか。

"お前は、男の美学というものがわからんのか?"
と思わず突っ込みたくなるも、突っ込まずそのまま笑っていた、時代おくれの男になりたい歯医者そうさんでした。



2008年05月22日(木) 仕切りたがる人に思うこと

先週末、僕は歯医者仲間同士の勉強会に参加してきました。歯周病をテーマに専門雑誌に投稿されている論文を輪読し、議論を交わしていく勉強会で、僕自身、毎回参加する度に自分の至らなさを知るとともに論文や他の参加している歯医者の先生からいろいろと刺激を受けます。

今回、この勉強会にあるベテランの先生が初めて参加されました。初めての勉強会ということで会の雰囲気に慣れるのが一苦労ではないかと思ったのですが、この先生は最初から何かと積極的に発言されていました。僕自身、この勉強会に参加した当初は、参加されている先生方の様子や会の進行具合を観察し、会の雰囲気に慣れるのに時間がかかったものですが、この先生は初対面であるにも関わらず自ら発言を繰り返されていました。
それだけであれば僕は気にならなかったのですが、会が進行するにつれ、この先生、自分で勉強会を仕切ろうとすることまで言い出されたのです。

「いらないことは言わないでもっと論文に集中しませんか?」
「この手の話は会が終わってからにしましょう」などなど。

勉強会が終わってから食事に出かけたのですが、その際にも
「行く先は既に決まっているでしょうね?」と言い出される始末。

世の中に何事も仕切りたいと思う人はいるものです。自分で何らかの集団でリーダーシップを取り、参加している人たちを引っ張っていくことを生きがいとしている人は確実に存在するでしょう。この手の仕切り屋の方が必要であることは間違いありません。何らかの集団を統合するにあたり、参加する人たちを束ねる指導力がある人がいなければ集団自体が成り立たなくなります。

僕自身、仕切る人がいることの重要性は理解しているつもりです。ただ、今回の先生のようにまだ参加して間も無く、参加者の人となりを理解せず、会の方針、歴史を理解しないまま、自分の思い通りに仕切ろうとする態度を見せるのは如何なものかと思います。
何らかの団体の長となる人は、長期にわたり団体で下積みを重ね、仕事を熟知し、周囲の信頼を得て初めて先頭に立てるもの。こうした人が長になれば、人を動かす仕切りはリーダーシップとなり、組織や団体、そして、構成員の皆に大きく益するものになりますが、周囲の状況を何も考えず、KYで、すなわち、空気が読めず自分の思い込みだけで人を動かし仕切ろうとしても、周囲の人間には煙たさが残るだけではないでしょうか?自分の考え、主張を展開することは大切なことではありますが、自分が新参者であるならば、まずは新参者としていろいろと学ばなければならないことがたくさんあると思うのです。このステップを経ず、無視して仕切ろうとしても周囲の人は戸惑うだけではないだろうかと感じました。

こんなことを書くとお前は保守的だと言われそうですね。状況によっては新参者のパワーによって閉塞していた状況が一気に打破され、改善されることもあるとは思いますが、一種の荒療治で、人間関係にかなりのしこりを残すリスクがあることを覚悟しなければいけないのではないかと思います。



2008年05月21日(水) 赤ちゃんポスト一周年で感じたこと

昨日、地元歯科医師会の夜の会合へ行く車の中でラジオを聴いていると、昨年5月に熊本県熊本市の慈恵病院に設けられた赤ちゃんポストに関するニュースが流れていました。赤ちゃんポストが設置されて一年経過したということで、熊本市は赤ちゃんポストに預けられた子供の状況を公表しました。以下、このことを報じた朝日新聞からの引用です。

熊本市の慈恵病院が「こうのとりのゆりかご」の名称で運用する赤ちゃんポストについて、熊本市は20日、昨年5月の運用開始から今年3月末までに預けられた子の人数や性別、健康状態、その後の対応などを初めて公表した。託されたのは17人で、男児13人、女児4人。手紙や親からの連絡などで9人の身元が判明した。関東や中部、中国から各2人、九州は3人で、全員が熊本県外だった。それぞれ、出身地の児童相談所に保護された。身元がわからない残り8人は幸山政史・熊本市長が命名、熊本市で戸籍を作り、県内で育てられている。
 市や病院は運用開始以来、プライバシー保護などを理由に、預け入れの有無や人数など一切を発表してこなかったが、10日に運用開始1年を迎え「より多くの人がこの問題を考えるきっかけになるように」と公開した。
 預け入れ時、生後1カ月未満の新生児だったとみられるのは14人、1歳未満の乳児が2人、1歳以上の幼児が1人。治療が必要とされた子が2人いたが、病状などは明らかにしなかった。新生児のうち体重1500グラム未満の極低体重出生児はおらず、1500〜2500グラムの低体重出生児が2人。12人は2500グラム以上。障害のある子もいたとみられるが、障害児の有無については明かさなかった。
 13人の傍らに手紙やおもちゃなどが残されていた。手紙には「すみません」「育てられません」とだけ書かれたものや、生年月日や名前など数枚にわたり詳しくつづられたものも。会見した幸山市長は「つらい思いがうかがえるものもあった」と語った。
 親などが事後に電話やメールなどで病院に連絡してきたのが5件で、うち1件は病院などとやりとり後、親が子どもを引き取りに来ていた。
 当初は住所の手がかりがなかった9人について、熊本市が新たに戸籍を作ったが、うち1人は後に身元が判明し、熊本市の戸籍は破棄された。身元がわかった9人については、出身地での出生届が確認されたり新たに出されたりしたとみられる。
 市は昨年9月、ポストの利用状況を短期的に検証する会議を設置。「運用1年」を機に、検証会議が検討し、障害の有無や手紙の内容など「個人特定につながる」ものをのぞき、公表に踏み切った。

赤ちゃんポストの設置に対しては設置当初から賛否両論がありましたが、昨日聴いたラジオ番組の中でも赤ちゃんポストに対する検証と題して話がされていました。この検証の話の中で僕が非常に気になることがありました。それは赤ちゃんポストに預けられた子供の数が多いか、少ないかということです。
一年間で17人の子供が赤ちゃんポストに預けられたそうですが、この数字を多いとみるか、少ないとみるかということで、その道の専門家と称する人が意見を述べていたのですが、僕は話を聴いていて非常に腹立たしく思いました。なぜなら、一年間に預けられた子供の数の多さ、少なさを議論すること自体が愚問ではないかと感じたからです。


生まれてくる子供には全く罪はありません。どんな事情があるにせよ、子供は生を受け、この世に出てきた大切な存在です。どんな人でも親は必ず存在し、生を受けた瞬間があるのです。生まれてくる子供を評価することは全くナンセンスなことで、どんな子供も将来に可能性があり、我々の未来を背負う、頼もしい存在であるはずです。
本来なら生まれてきた子供を親は手放したりしてはいけないはず。それが手放さないといけないということは余程の事情があることだとは思いますが、親の事情がどうであれ生まれてきた子供にとってこれほど不幸なことはありません。実の親に捨てられるわけですから。生まれもって親がいないという不幸。いろんな意見があるとは思いますが、親が子供を捨てることほどむごいことはないと思います。

本来なら赤ちゃんポストなるものはあってはならないもののはず。それが存在し、機能するということは悲しむべきことではないでしょうか?一人でも赤ちゃんポストに子供が預けられたのであれば、それだけでも悲しまなければならないことのはずなのに、一年間で17人の子供が預けられたことを多い、少ないと論ずることに僕は非常な違和感を覚えました。預けられた子供の数を議論するのではなく、赤ちゃんポストそのものがこの世から必要なくなるような対策、政策をもっと皆が考えるべきではないか?
赤ちゃんポストに預けられた子供の数の多さ、少なさを話すラジオを聴き、子供を持つ親として思わず一言言いたくなってしまった、歯医者そうさんでした。



2008年05月20日(火) 失恋を2年間引きずる男性を見て

先週末、あるテレビを見ていると、彼氏や彼女がなかなかできない若い世代の人を取り上げた番組がありました。なかなか興味深くみていたのですが、その中である30歳近い男性が以前に付き合っていた彼女のことが忘れられず今もなお引きずっていることが紹介されていました。この男性、2年前に別れた元カノのことがいまだに忘れられず、なかなか彼女を作ることができないとのこと。しかも、その元カノが結婚するという知らせを聞いて、更に落ち込み、思わず涙ぐんでしまうという場面がテレビに映し出されていました。

正直言って、この男性の精神状態はわからないわけではありません。
僕自身、失敗したり嫌な経験をした際、直ぐには忘れられないタイプです。口に出してぼやいたりはしないものの、心の中では“どうして、なぜ?”ということを自問自答しているように思います。誰でも失敗や嫌な経験はあるものです。本来なら失敗や嫌な経験を冷静に分析し、次に繰り返さないことを心がけ、自分の糧にしていけば済むことですが、どうしも精神的に引きずってしまうことが多いのが僕です。

過去の恋愛に関しても同様でした。かつて、僕にも人並みに失恋の経験はあります。親しく付き合っていた彼女とちょっとしたことがきっかけで別れた時には、精神的に落ち込んだものです。精神的に落ち込むだけではなく、食事はのどを通らない、夜は熟睡できない、仕事もはかどらないといった具合に、生活全般に悪影響が出たものです。ですから、今回の番組で取り上げられていた男性の気持ちは理解できる部分はありました。

ただ、2年経過した今でも元カノのことが忘れられず、精神的に吹っ切れていないというのは、過去の恋愛を引きずり過ぎているような印象を持たざるをえませんでした。
一緒にこのテレビ番組を見ていた嫁さんは、

「何てだらしない男なの!そんな肝っ玉の小さいことでは世の中生きていけないよ。」
と呆れ顔をしておりました。

この男性にとって、元カノは心の底から好きだった彼女だったのでしょう。何でも自分から声を掛けて付き合いが始まったのに、最終的には彼女の方から別れ話を出され別れたとのこと。この男性にとっての失恋は今もなお癒えない、精神的トラウマになってしまったのかもしれません。

この男性にとって元カノのことを忘れる唯一の方法は新たな彼女を作ることであることは明白なのですが、言葉ではわかっていても気持ちがついていかないのが現状なのでしょう。と書きながらも2年間元カノのことがいつも心から離れられないというのもチョット長いよなと思ったのも事実。どちらかというとハンサム系のこの男性。正攻法でいけば新たな彼女なんて直ぐにできそうに思うのですが、心の状態というのは顔に出るというのか、雰囲気に微妙に現れるもの。そうした物に女性って結構敏感だったりしますからね。

過去の恋愛にけじめをつけ、吹っ切れるには誰も助けてくれません。周囲は何かの助言をしてくれるかもしれませんが、最終的には自分で立ち直るしか手がないのです。

一緒にテレビを見ていた嫁さんに尋ねました。

「どんな男だったら彼氏にしたいと思う?」

「仕事に自信を持っている男性かな?少なくとも、2年間も過去の恋愛にこだわって、めそめそしている男なんてちっとも魅力を感じないわ。『顔を洗って出直してコイ!』と言ってやりたいね。」

なかなか痛烈なコメントだったのですが、僕自身、嫁さんのコメントに頷かざるをえませんでした。

とにもかくにも、一日も早くこの男性が精神的に立ち直り、新たな彼女ができて精神的に立ち直ることを祈るのみです。



2008年05月19日(月) いい加減なことが許されなくなった時代

先週末、ある送別会に出席しました。今年3月、長期間にわたって地元歯科医師会関係の仕事のために尽力して下さった嘱託歯科医の先生が辞められたのですが、今回の送別会はその先生の功績を称え、送別の意味での催しだったのです。参加者は年長者が多く42歳の僕が一番年下という集まりでした。僕は下っ端らしくカメラ係りとして参加者の写真を撮っておりました。トホホホホ・・・・。

それはともかく、送別会が終わってから、地元歯科医師会で世話になっている先生の一人T先生と話をしながら帰宅したのですが、その中でT先生が興味深いことを話されていました。

「僕が某病院の研修医時代だった頃、上司の先生の一人がね、よく近くの交番に通っていたことがあったんだよ。」
「交番に通っていたですって?その先生は何か悪いことをし続けていたのですか?」
「そうじゃなくてね、その先生と交番のおまわりさんはね、友達だったんだよ。その先生は仕事が終わって家に帰る前に、友達の顔を見る感じでしばしば交番に立ち寄っていたのだよね。」
「何だか公私混同のような感じもしないでもないですが。」
「今の時代の感覚ではそうだろうね。いくら友達だとはいっても相手の警察官は勤務中。勤務中に友達の相手をするのは問題だろうと思うけど、当時はそうではなかったんだよ。
しかもね、たまに僕の上司は一升瓶を持ってその交番に行っていたんだよ。」
「それってやばくないですか?」
「当時でも思いっきりやばかったよね。正直言って交番のおまわりさんも大変だったと思うけど、上司の話では一緒に一升瓶の日本酒を呑んで話をしていたそうだよ。」
「信じられない話ですね。」
「驚くべきは帰る時だよ。いい加減酔いがまわって帰るのだけど、上司はね、車を運転して帰っていたんだよ。それも、交番の目の前に止めていた車でね。車に乗って帰ろうとすると、その交番のおまわりさんがね『気をつけて帰ってください』と言って見送っていたというのだから。」
「今の時代では絶対に許されないことですよね。」
「当時でもこれは許されないことだと思うけど、それでも何か訳がわからないままと通っていたんだよ。」
「そうなんですか?」
「飲酒運転で数多くの人が亡くなって社会問題化して以来、飲酒運転行為に対して厳罰化の傾向にあるよね。それは僕は当然だと思うよ。いくら当時でも、僕の上司が行っていたことは許されるべきではないことだと思う。そう思う反面、僕はね当時の環境をうらやましく思うこともあるんだよ。」

「実にいい加減なことを僕の上司も交番の警察官も行っていたわけだけど、結果オーライだった。危ない橋を渡っていたとはいえ、微妙なバランスのもとに成り立っていたと思うのよ。白黒はっきり決めるという意味では完全に黒の行為だけど、お互いがいい加減に、グレーゾーンの感覚で行っていたことがそれなりのバランスを保っていた。当時は、世の中でこれと似たようなことが数多くあったのじゃないかな?その背景には暗黙の了解や人と人同士のあうんの呼吸があって、そんなルールの範囲内であれば認められる雰囲気が世の中にあったのだと思う。ところが、今の時代は全てが白黒はっきりしないといけなくなった時代。いろいろなことが明らかとなり、日進月歩で技術革新が起こり、インターネットが普及し誰もが情報を気軽に手に入れられる時代となった。今や小学生さえ携帯電話を持つ時代なんだけど、我々人間は、時代が便利になるにつれ、いい加減に済ますことができない心理状態に追い込まれているように思うのよ。勤務中の警察官が一般市民と一升瓶を呑んでいて、その市民の一人の飲酒運転を黙認できたという行為そのものは許されなかったことだとは思うけど、そうしていても何とか世の中が回っていたという時代。何だか懐かしく思うのは僕だけだろうかと思うのだよね。いい加減さが許された時代に一種のノスタルジーを感じる時があるよ。」



2008年05月16日(金) 学ラン、丸刈り未経験

昨日、一日の診療が終わり診療所の後片付けをしていた時のことです。嫁さんが僕に尋ねてきました。

「そうさん、今晩は何を着ていくの?」

このようなことを嫁さんが僕に尋ねる時は、僕が外出することを意味しています。
僕は診療の傍ら地元歯科医師会の仕事をしているのですが、地元歯科医師会の会合は診療が終わった夜の時間帯にあるのが常です。会合といっても若手の先生同士の集まりがあれば、年配の先生を交えて集まりもあったりします。また、講演会が予定されている時もあります。最近、僕は講演会で司会をすることが多い立場であるせいか、講演会の予定の場合はスーツに着替えて出かける機会が多くなっています。昨夜も地元歯科医師会主催の講演会があり、僕はスーツに着替える必要があったので、僕は嫁さんにスーツの用意をして欲しいという返事をしたのでした。

スーツ姿で地元歯科医師会へ向かう道すがら、僕は自分の格好のことを考えていました。診療所では僕は常に白衣を着用しています。白衣といってもいろいろなタイプの白衣がありますが、僕が着用しているのは、いわゆる”ケーシー型”の白衣です。このようなタイプの白衣ですね。

仕事場である診療所は僕の自宅の隣ですから、僕の格好は一日の大半が白衣姿であると言っていいでしょう。この点、会社勤務の男性とは随分と異なります。
会社勤務の男性は、常にスーツ姿である人が多いはずです。昨今の夏場であれば、クールビズということでラフなカジュアルウェアを着る人もいるかもしれませんが、それでも男性会社員の服装はスーツが基本であることは誰も否定しないのではないでしょうか?
この点、僕とは随分の状況が違いますが、僕はスーツを着ることに抵抗感はありません。歯医者仲間の中にはネクタイを結んでスーツを着ることを面倒くさがる人もいますが、僕はそのように感じたことは一度もないのです。
どうしてだろう?自問自答してみると、答えは学生時代にあるのではないかと考えました。

実は、僕は中学校、高校と某私立学校へ通っていたのですが、その学校の制服はスーツだったのです。中学校からネクタイを締め、スーツで6年間通っていたのです。中学に入学した当初は、ネクタイの結び方がわからず四苦八苦していたものです。ネクタイの結び方には何通りかあるのですが、たった一つの結び方さえわからなかった当時の僕は、親父の結び方を見よう見真似で何とか覚えようとしていたものです。そのうち、ネクタイ結びにも慣れ、スーツで学校へ通っていたのですが、中学、高校の6年間という青春時代にスーツに体が慣れてしまったことはスーツに抵抗感がない理由ではないかと思います。

その一方、今更ながら僕はあることに気がつきました。それは、詰襟学生服、いわゆる学ランを着たことがないという事実です。中学、高校で制服といえば学ランです。今でこそ、学校の制服はおしゃれになってきたといえるでしょうが、少なくとも僕が中学、高校時代はまだまだ学ランが制服の主流でした。そんな学ランを僕は着ることなしに中学、高校時代を過ごしたのです。
それだけではありません。僕は丸刈りをした経験がないことにも気がつきました。かつて、中学生、高校生の生徒は丸刈りが定番だったはずですが、少なくとも僕の記憶がある限り、髪の毛を短く刈った丸刈りをした記憶はありません。どこか運動部に入部していればそんな機会もあったでしょうが、運動部で部活を経験したことがなかったために頭の毛を“カツオ”にしたことがないまま大人になった歯医者そうさん。

これが良いことか悪いことか?僕が結論を出すことはできませんが、どんな人でも青春時代に経験をしていないことにほのかな憧れを抱くことってあるのではないでしょうか?今となって学ランを着たり、丸刈りをしたりする機会はないでしょうし、自ら率先して学ランや丸刈りを体験しようとするつもりはありません。ただ、もし僕が学ランや丸刈りをしていたらどのように感じていただろう?どのように見えていたでしょう?
そんなことを考えただけで思わず笑ってしまった、スーツ姿の歯医者そうさんでした。



2008年05月15日(木) 習うより慣れろ

先週末、僕はあるものを買い換えました。あるものとは嫁さんの携帯電話。かつて携帯電話の使用にかなりの抵抗感のあった嫁さんでしたが、今ではメールを中心に器用に使っています。いわゆるママ友同士の連絡や小学校の電話連絡網の代わりのメール連絡システムの利用など、携帯電話は嫁さんにとっても生活必需品の一つとなっています。

そんな嫁さんの携帯電話でしたが、今まで使用していたものは購入して5年が経過しました。携帯電話の基本機能は問題はなかったのですが、それでも電池のもちが悪くなったり、傷が目立ったりするようになってきました。ぼちぼち携帯電話を買い換えてもいいのではないか?そんな思いから携帯電話を新しい機種に変更したのです。

新しく機種変更した嫁さんの携帯電話は、スリムなタイプのものでした。見た目がおしゃれになっただけでなく、カメラ機能も性能が良くなり、地上デジタル放送も見ることができます。しかしながら、嫁さんは悪戦苦闘です。

「性能が良くなったのは何となくわかるんだけど、新しい機能が増えて何処をどのように使いこなせばいいのか、よくわからないね。」

嫁さんの気持ちよくわかります。何事でもそうでしょうが、新しいことをし始めたり、新しい物を使い始めたりすると、当初は非常に戸惑うことが多いものです。ある程度使い方、使用方法を調べ、対応しているつもりでも、実際に使ってみると思わぬトラブルに巻き込まれたり、想定の範囲外のことに遭遇します。遭遇するだけならまだしも、どのように解決すればいいか、方策に時間を費やしてしまい、基本的な使い方さえマスターできずに時間だけが経過していく、焦りばかりが募ることがあるものです。

これは歯科治療でも同様です。新しい材料、治療方法を実際の臨床に取り入れようとしたとします。かなり前準備をしていても、実際に使用してみると自分でも感じることができなかった様々な点に悩まされ、思ったように自分の新しい選択肢となることができずに焦ってしまうことがあるのです。

それでも使っているうちにいつの間にか自家薬籠中のものとなり、新しい技術、知識を自分の物にできた時には喜びもひとしおです。何か新しい世界をみつけ、自分の物にできたかのような新鮮な感動さえ感じられるのです。そうなればしめたものですが、そこにいたる道はなかなかに厳しいものがあるもの。
器用な方であれば、何物でも何事でも新しい未知のことにチャレンジし、新しい自分を開拓していくものですが、僕は元来不器用な人間なので、ついつい保守的になりがちです。よく言えば慎重派なのかもしれませんが、実際は新しいものを手に入れたり、チャレンジすることに奥手なのかもしれません。

そうこういいながらも嫁さんは新しい携帯電話に少しずつ慣れているようです。習うより慣れろといいますが、嫁さんはまさしくこのことを実践しているようです。



2008年05月14日(水) 大きくなったら何になる?

昨日の朝のことでした。

「今日ね、学校で○○○へ遠足に行くの。楽しみだなあ。」

いつも僕は寝室で嫁さんと二人のチビと一緒に川の字で寝ているのですが、一緒に寝ていた上のチビに僕は上のチビにいきなり起こされました。
時計の針は5時半をまわったところ。いつもの僕の起床時間より1時間以上前に上のチビに起こされ、僕は少々困惑しましたが、それでも上のチビの遠足が待ち遠しい態度に思わず眠たい目をこすりながら微笑んでしまいました。

○○○とは、遊んで学べる子供のための博物館と銘打って場所です。楽しく遊びながらいろんな体験ができる施設で、この施設の中に仕事の擬似体験ができるコーナーが数多くあるようなのです。工場や交番、美容室や郵便局、医者の擬似体験ができるコーナーがあるようで、上のチビは前日からドキドキワクワクでなかなか寝つけなかったぐらいだったのです。

こうした仕事を疑似体験できる施設は、非常に有意義なことだと思います。社会にはいろいろな仕事があることを肌で感じる機会はそうあるものではありません。多種多様な仕事を見るだけでなく、一部を体験してみることは、仕事に対する理解が深まりますし、招来自分がどのような職業を選択するか、判断材料にもなりうるからです。子供の世代は今は漠然としてはっきりとしてイメージを持てと言っても難しいものですが、子供の時代に体験したことはずっと記憶に残るもの。自分がどの職業を選択するか悩んでいる若い世代の人たちは少なくない中、幼い頃の仕事の疑似体験は、自分の将来を選択する意味でも非常に有意義なことだと思うのです。

ところで、僕の場合ですが、将来自分がどんな仕事に就くか想像したことはあまり記憶にありませんでした。ただ言えたことは、幼少の頃から僕の家の隣に親父の歯科医院があり、親父が白衣姿で自宅と診療所を行き来していた姿があったことです。家にいていると隣から“キィーン”という、患者さんなら誰もが抵抗感がある歯を削るタービンの音がしょっちゅう聴こえていましたし、つばを吸い取るバキュームの吸引音も聞こえていました。時には子供が泣き叫んでいる声も聴こえていたものですが、僕の生活は自宅にいる限り歯科医院とは切っても切れない環境にありました。歯科医院の雑踏とともに大人になってきたとも言えるでしょう。僕自身、意識をしませんでしたが、いつの間にか歯医者になるという意識が形成されていたのかもしれません。家の隣が歯科医院という環境がいつの間にか僕を歯医者の道へ導いていた、洗脳されていたのかもしれません。

さて、遠足に行った上のチビですが、時間が限られていたせいかごくわずかの仕事体験しかできなかったようです。それが不満で、僕に再度○○○へ連れて行くようせがんでいます。
世の中にはいろいろな仕事があり、働いている人がいる。社会は数多くの人たちが協力し合って動いている。単純な事実ですが、上のチビにとっては擬似体験することでより鮮明に社会の仕組みが想像できたようです。

僕は最後に尋ねてみました。
「大きくなったら何になりたい?」

上のチビはしばらく考えていましたが、出した結論は

「僕はやっぱり歯医者かな。」



2008年05月13日(火) COって一体何のこと?

「先生、学校の歯科検診でCOって言われたのですけど、COって一体何ですか?」

最近、うちの歯科医院に来院したある中学生からの質問です。話を聞いてみると、先日学校で歯科検診があったそうで、その際、検診担当医が自分の奥歯をみて“CO”と言っていたのが耳に止まったのだとか。”C”であればむし歯であり、”斜線”と判定されれば健康な歯であることは知っていたそうですが、COと言われて何のことかよくわからず、僕に尋ねてきたというわけです。

何だかかつてあった人気テレビドラマのタイトルみたいなCOですが、このCOって一体何でしょう?

学校に通う生徒の健康管理に関して法律があります。学校保健法という法律なのですが、この法律により、幼稚園から小学校、中学校、高校にいたるまでの園児、生徒は毎年6月30日までに各種健康診断を受けなければなりません。これを定期健康診断といいます。
具体的には

身長、体重、座高
栄養状態
脊柱および胸郭の疾患および以上の有無
視力および聴力
目の疾患および異常の有無
耳鼻咽頭疾患および皮膚疾患の有無
結核の有無
心臓の疾患および異常の有無
尿
寄生虫卵の有無
歯および口腔の疾患および異常の有無
その他の疾患および異常の有無

が調べられます。
歯科検診ではむし歯や歯周病のチェック、歯並びやかみ合わせ、顎関節の状態などが調べられるわけですが、何といっても最も注意して検診するのがむし歯です。
かつて、むし歯であれば削って詰める、被せるという治療が一般的でした。歯の予防に対する知識が充分に社会に浸透していなかったため、むし歯に侵される子供がたくさんいたのです。ある人などはむし歯の洪水の時代と名づけたものですが、言い得て妙とでもいう時代がかつてあったのです。
歯科検診でもこのことが前提にあり、少しでもむし歯になる可能性のある歯に対してはCと判定し、治療勧告書を出して早期の治療を促すようにしていたのです。

ところが、今ではむし歯の数は減少してきました。5年に一度全国レベルで調査される歯科疾患調査に歯科疾患実態調査という調査があります。この調査によれば、12歳児のむし歯経験歯数、すなわち、むし歯やかつてむし歯であったものの治療をした歯の数(永久歯)は、昭和62年では4.9本でしたが、平成17年では1.7本と減ってきています。20年近くの間に12歳児の永久歯のむし歯はほぼ3分の1に減少していることがわかると思います。これは歯の健康に対する関心が深まり、予防に対する意識の高さ、実践による影響であることは間違いありません。

ところで、最近の歯の耐久性に関する研究で、歯はなるべく削らない方が耐久性があることが実証されてきました。なるべく削らないといってもむし歯になってしまえば削らざるをえないのが実情ですが、むし歯になりかけの歯の場合、適切に予防をしておけば、むし歯が進行せず、場合によってはむし歯が治っていくケースも見られることがわかってきたのです。
未来のある子供の場合、なるべく歯を長持ちさせるためには日頃からの歯の予防が欠かせませんが、運悪くむし歯になりかけてしまった場合、適切なブラッシング指導や食事方法、生活習慣の見直し、フッ素を利用した歯の強度をたかめる治療などを併用すれば、必要以上に歯を削るケースが減少するのです。

これらのことを学校検診に取り入れた成果がCOという判定なのです。COというのはCaries Observationの略です。直訳すればむし歯観察とでも書くべきでしょうか。むし歯と判定するまでには至らない状態ではあるが、時間経過とともにむし歯に発展する可能性が高い歯のことをCOと言います。もっと平たく言えば、経過観察を必要とするむし歯になりかけの歯のことです。
むし歯になりかけてはいるものの、本人の自覚と予防処置、定期的な検診をしていくことにより、不必要なむし歯処置を避け、歯を削らないことで歯の耐久性が増し、結果として健康な歯を維持し、健康な体を作る。
COというのは何もしないということではなく、注意深く見守りながら歯の健康を維持する、積極的な経過観察処置であるのです。



2008年05月12日(月) 歯科衛生士紹介番組を見て

先週末、何気なくテレビを見ているとこの番組が放送されていました。以前にここでも取り上げたこの番組。今回のテーマは歯科衛生士。香川県の某歯科医院に勤める3年目の歯科衛生士の仕事ぶりが紹介されていました。
以前この番組では歯科技工士について取り上げ、僕もこのことについて日記に書いていました。

ここでも歯科衛生士の仕事の内容が取り上げられていますが、歯科衛生士とは看護師とは異なります。まず、歯科衛生士に関しては歯科衛生士法という法律があり、この法律によって仕事の内容が規定されているのです。歯科衛生士法によれば、歯科衛生士の仕事は

『厚生労働大臣の免許を受けて、歯科医師(歯科医業をなすことのできる医師を含む。以下同じ。)の直接の指導の下に、歯牙及び口腔の疾患の予防処置として次に掲げる行為を行うことを業とする女子をいう。』

1.歯牙露出面及び正常な歯茎の遊離縁下の付着物及び沈着物を機械的操作によつて除去すること。
2.歯牙及び口腔に対して薬物を塗布すること。
2 歯科衛生士は、保健師助産師看護師法(昭和23年法律第203号)第31条第1項及び第32条の規定にかかわらず、歯科診療の補助をなすことを業とすることができる。
3 歯科衛生士は、前2項に規定する業務のほか、歯科衛生士の名称を用いて、歯科保健指導をなすことを業とすることができる。

わかりやすく書けば、歯科衛生士の仕事は
1.歯科医師の診療を手助けすること
2.歯科医師の指導の下、口の中の歯の病気の予防処置(歯磨指導、歯石除去等)を行うこと
3.歯科に関する健康を維持するための啓発活動、保健指導を行うこと
といったところです。

診療所や病院における看護師の仕事とよく似ているのですが、歯科衛生士は更に歯科の診療に特化した役割が与えられていると言えるでしょう。歯医者が治療を中心に行うのに対し、歯科衛生士は、診療の補助のみならず、歯の病気に罹らないように予防処置を行ったり、一般市民を対象に歯の健康の大切さを啓蒙するために保健指導を行っていく仕事でもあるのです。最近では、高齢者、特に寝たきり高齢者や介護を必要としている人に対し、よりよき生活を過ごしてもらうために口の中の衛生管理を積極的に行う口腔ケアの担い手としての仕事が注目され、医療現場で活躍しだしている歯科衛生士も数多く存在します。

歯科医院というと、誰でも最初に思いつくのは歯医者のことだと思いますが、歯医者だけで歯科医院の仕事を全て行うのは不可能です。患者さんに対してサポートしてくれる、別な視点を持って接してくれるスタッフの力が欠かせません。専門的な教育を受け、専門知識と技術をもった歯科衛生士は必要不可欠な存在であるのです。
これまで歯科衛生士は2年間の専門教育を受けた後、国家試験を受けて合格した者が資格を得ていましたが、平成23年度からは3年間の専門教育を受けなければならないようになりました。これは歯科衛生士として仕事がこれまで以上に多種多様になってきたことを意味します。歯科衛生士の仕事が重要視されてきた証拠の一つと言えるでしょう。

このような歯科衛生士ですが、僕は歯科衛生士に関することを定めて法律歯科衛生士法について、一つ不満があります。それは、法律の文言に

『厚生労働大臣の免許を受けて、歯科医師(歯科医業をなすことのできる医師を含む。以下同じ。)の直接の指導の下に、歯牙及び口腔の疾患の予防処置として次に掲げる行為を行うことを業とする女子をいう』
という規定があるからです。
実際のところ、男性の歯科衛生士も数は非常に少ないながら活躍しています。決して女性だけの仕事ではありませんし、法律の規定どおりとはなっておりません。一種の解釈で男性にも門戸が開放されている仕事ではあるのですが、他の医療スタッフのことを定めた法律に比べて不備であることを感じざるをえません。この文言の訂正を求めたいものです。



2008年05月09日(金) 君島十和子の力は偉大

どのような社会、業界にも流行があるように歯科業界にも一種の流行があります。流行といっても様々で、治療法の流行であったり、材料や治療器具等々の流行があるものです。
最近、歯科業界の中で流行になっているもの一つにセラミックによる被せ歯があります。

セラミックによる被せ歯そのものは以前からあったもので決して最近に開発された代物ではないのですが、今流行なのは一種の人の手ではなく機械化された手法で作るという方法なのです。住宅、住居などを設計する際に使用されるCAD/CAMというコンピュータソフトを使用して設計、加工する手法がありますが、これを被せ歯製作に応用したものなのです。

被せ歯の製作に人の手を使わず、CAD/CAMを使用して作るとなると、何だかすごいシステムのように思いがちですが、当初は使いものになりませんでした。せっかく作った被せ歯が口の中で合わず、何度も作り直すようなことが頻発したからです。ところが、技術革新はバカにできないもので、何度も試行錯誤を繰り返しながら使い物になるくらいの精度の被せ歯ができるようになってきたのです。
また、セラミックというと一種の陶器の材料そのものですが、これは見た目はきれいなのですが、強度に問題があるものです。被せ歯においてもそうで、被せ歯全てをセラミックで作ると使用しているうちに欠けたり、割れたりすることが多かったのです。ところが、この弱点も技術革新のおかげで徐々に改善され、今では長年の使用に耐えうるセラミックによる被せ歯が出来上がってきたのです。

実は、歯科業界で流行になってきた理由がもう一つあります。それは、このセラミックで作った被せ歯を女性有名人が使用し、しかも、自らが広告塔となって宣伝しているからです。その有名女性人とは君島十和子。女性の方なら知らない人はいないでしょう。美のカリスマとして今や各方面から引っ張りだ女性のようですが、彼女が前歯にこのセラミック製の被せ歯を利用し、しかも、自らの口元を見せながら微笑んでいる写真を掲載したパンフレットなどがあるからです。このパンフレットを歯科医院においたところ、女性を中心にした若い患者さんからの問い合わせが殺到し、興味を持つ人が後を絶たず、中には自らの歯にこのセラミック被せ歯を使用する人がいるというのです。有名人の宣伝効果が絶大なことは既に知られているところですが、歯科界においても同じことが言えるわけですね。君島十和子の力は偉大です。

審美がよく強度も得られ、耐久性が保証されているセラミック製被せ歯ですが、気になることもあります。それは、開発されたのが最近のため、今後セラミック製被せ歯がどのように経過していくか、誰もわからないことです。一説によれば、これまで普及してきた表面だけをセラミックにして裏面を金属にしたメタルボンド冠と呼ばれる被せ歯よりもツヤ、輝きがもたないとも言われています。この点、注意が必要でしょうね。



2008年05月08日(木) へその緒の絆

今回のゴールデンウィーク中のある日のことでした。お袋の弟である叔父が我が家を訪ねてきました。結構頻繁に会っている叔父ではあるのですが、この日、叔父はあるものを携えてやってきました。
「これを渡そうと思ったんだ。」

叔父が手に持っていたのは桐製の小型箱でした。叔父曰く

「中身を見たら、姉ちゃんのへその緒だったよ。」

叔父によれば、自宅の母親の部屋を整理していたところ、ある場所からこの箱が見つかったというのです。当初何が入っているかわからなかった叔父だったそうですが、中身を確認してみるとどうもへその緒だったとか。箱に書かれていた、消えかけて字を注意深く見てみると、そのへその緒はお袋のものであることがわかり、急遽我が家へ持ってきたというのです。

現在、お袋の母親は、僕からすれば母親方の祖母ですが、某病院に長期入院中です。乳癌の手術の後、予後が悪く寝たきりになっていた祖母。今では認知症が進み、現在では会話もできないような状態です。きれい好きだった祖母でしたが、自分で整理することができなくなり、叔父や叔母が代わりに部屋を片付けるようになっていました。そんな片づけをしている最中、偶然見つけた小箱がお袋のへその緒だったのです。

自らのへその緒を見て、お袋は思わず涙ぐんでいました。無理もありません。祖母が寝たきりなって毎日のように病院に祖母の世話のために病院に通っているお袋です。そんな祖母とかつて自分をつないでいた命の絆であったへその緒。いくら古びたものになったへその緒でもお袋にとっては祖母とのつながりを感じさせる大切な、大切なモノなのですから。いとおしくなり、思わず目頭が熱くなったのは自然なことだと感じました。側でみていた僕も思わず感じてしまいました。

ちなみに、お袋は子供である僕と弟のへその緒は今でも大切に保管しているそうです。また、僕の子供である二人のチビのへその緒は嫁さんが大切に持っています。いくら子供が独立したといっても親にとって子供はいつまで経っても子供なのでしょう。
お袋が自らのへその緒と対面した姿を見て、改めて切っても切れぬ親と子の絆を感じざるをえなかった、ゴールデンウィーク中の歯医者そうさんでした。



2008年05月07日(水) 知人を講義する気持ち

ゴールデンウィークが終わりました。今日から仕事再開という方が多いのではないでしょうか?僕もそんな輩の一人です。ただし、仕事といっても診療は休診です。今日は某専門学校での講義日で、僕にとってゴールデンウィーク明けの初仕事は講義ということになります。

4月から始まった某専門学校での講義ですが、毎年、講義が始まる前、僕は講義を受ける学生の名簿を一通り見るようにしています。名簿を見ただけではどんな学生なのかはわかりませんが、僕は頭の悪い人間です。いきなり顔を見て名前を覚えられるような器用な真似はできません。何回も何回も顔と名前を一致させるようにしながら学生の名前を覚えていくのが常です。一度名簿を見ただけで全ての学生の名前を覚えることはできませんが、少しでも記憶の断片に残る名前があればそれを頼りに実際の学生たちの顔を見て名前を覚えていく。そんなことをしています。

そんな某専門学校の学生名簿を見ていると、僕はある学生の名前に目が留まりました。それは僕の知人の名前と全く同じ、同姓同名だったのです。
“それにしてもそっくりな名前があるものだなあ”と思いつつも、“もしかして?”という思いも捨て切れませんでした。
いざ講義室に足を運んでみると、僕は思わず目を丸くしてしまいました。なぜなら、その学生は僕の知人、Hさんだったからです。Hさんは教室の一番前の列に陣取っていたのです。

「どうしてこの学校で学生になっているんだ?」
と思わず言いたくも他の学生がいる手前、言えません。正直言って、恥ずかしかったところがありました。Hさんも顔を下に向けながら思わず苦笑いしている姿が見えました。

後日、僕はHさんに会う機会があり、ことの次第を尋ねてみました。もともとHさんは、某医療機関で助手として働いていたのですが、働いているうちに専門職として仕事をしてみたいという気持ちが強くなってきたのだとか。ただ、専門職の資格を取るには専門学校に通学しないといけないため、どうするべきか悩んでいたそうです。悩んだ挙句出した結論として、Hさんは某専門学校の入学試験を受けることだったのだそうで、Hさんは某専門学校の入学試験に見事合格し、この4月から晴れて学生として通学しだしたそうです。

正直言って、僕はHさんがよくぞ決断を下し、実行したなあと感じました。おそらく様々な精神的葛藤があったはずです。家族との間でも何度も話をしたことでしょう。年齢的なことも頭をよぎったことでしょう。既に某医療機関に勤めて何年も経過していた中、再度学生になることを決め、授業料を払いながらも資格を取るために講義や実習を受ける身となったのです。なかなかできることではありません。

Hさんにとっての久しぶりの学生生活。かつて授業を受けていた身とはいえ、既に社会人となり仕事をこなしていた生活からの変化です。一日中、講義を聴くために机の前に座ったり、他の若い学生と共に実習を受けることは、並大抵のことではないでしょう。そのことは賢明なHさんなら最初からわかっていたはず。わかっていながら敢えて学生生活に戻る決意をし、実行したのは余程目的意識が強くあったに違いありません。専門資格を取り、専門家として医療の第一線で働きたい。そんなHさんの心意気を僕は称えたいと思います。

そんなHさんが専門職を取ろうとしている専門科目の講義を僕が担当する。なんという巡り会わせなのだろうか?と思わざるをえません。
僕はこれまで決して講義に対して手を抜くようなことはしたことはありません。自分なりに講義の準備をし、講義をしてきたつもりですが、大げさかもしれませんが、僕の講義が知人であるHさんの一生の一部を僕が左右するかもしれないのです。この点、かなりの精神的にプレッシャーを感じるのです。
その反面、近い将来、Hさんが医療の専門家として仕事をするための手伝いができることに僕は大いなる喜びを感じます。Hさんがどのような医療の専門家を目指しているかはわかりませんが、短時間とはいえ、一つの科目のこととはいえ、Hさんが医療専門職の資格を得る過程に僕の講義があるのはまぎれもない事実です。少しでもHさんが僕の講義から得るものがあり、今後の活躍に役立てられるなら、非常に光栄です。

これからのHさんの健闘を心から祈りたいと思います。頑張れ、Hさん!



2008年05月03日(土) 土佐礼子の歯の矯正治療は本当に終わったのか?

昨日、ネットサーフィンをしていると、このようなニュースが取り上げられていました。

北京五輪女子マラソン代表の土佐礼子選手が3年間に及ぶ歯の矯正治療を終えたというのです。今から3年前の2005年春から、夫の村井啓一さんに歯の矯正を勧められ、当時、足を疲労骨折して練習ができなくなったこともあり「今だ!」と治療を決断したそうで、以来、月イチで通院治療を受けていたとのこと。当初2年で終える治療が3年かかったそうなのですが、北京五輪の約100日前に歯の矯正治療を終えたというのです。

このニュースには土佐選手の歯に装着されていた矯正装置が取られ、すっきりとした口元、きれいな歯並びを得てにっこりとされている土佐選手の顔写真が載っていました。アスリートの歯並びと姿勢の関係、歯並びとアスリートの能力の関係はいろいろと議論があるところです。個人的には、アスリートが力を出す際、必ずといっていいほど歯を噛み合わしますので、歯並びが良く、噛み合わせが良い方が力を発揮しやすいように思えます。実際に、マラソン女子日本代表で金メダルを獲得した高橋尚子選手や野口みずき選手は二人とも歯並びがよかったのです。今回の北京五輪オリンピック代表の一人として土佐選手も選ばれていますが、是非ともきれいな歯並び、かみ合わせを維持し、自信の能力を最大限に発揮し、北京五輪でメダルを獲得して欲しいと思います。

ところで、このニュースで歯医者として感じた疑問があります。それは、土佐選手が本当に矯正治療を終えたのか?という疑問です。見た目には歯に装着されていた矯正装置がはずされすっきりとした口元になっていました。歯の移動も終わり、歯並びが整い、噛み合わせも改善されているように思います。

ところが、歯の治療の専門家として歯の矯正治療のことを考えると、歯並びがきれいに整っただけでは矯正治療が終了したとは考えられないのです。なぜなら、歯の矯正治療には最後の重要なステップがあるからです。そのステップとは専門的に保定(ほてい)と呼ばれるステップです。

時間をかけて歯を移動させ歯並びを整えた後、移動させた位置で歯を安定させることが必要です。このことを専門的に保定といいます。いくら時間をかけて移動させた歯であっても、矯正治療して動かした歯は不安定なのです。時として動揺したり、後戻りといってせっかく動かした歯同士に隙間が生じたり、歯並びが乱れたりすることがあるのです。そのため、矯正治療医は、歯の移動が完了した後、必ず保定を行います。具体的には、取り外し式の入れ歯のような装置やシリコン製やプラスチック製のマウスピースのようなものを装着したり、歯の裏側に針金のような金属線で歯同士を連結させるようなことをします。

矯正治療をした歯がどうして不安定なのか、科学的には解明されていないのが現状です。中には保定しなくても、全く問題の無いケースもあるのですが、せっかく時間をかけて動かした歯が再び動き、整った歯並び、かみ合わせを乱すようなことがあれば何のために歯の矯正治療を受けたのか意味がありません。そのため、矯正治療で動かした歯は必ず保定が必要になってきます。

具体的な保定治療期間はケースバイケースですが、矯正専門医によれば概ね2年〜3年が平均のようです。このことを考えると、土佐選手の歯の矯正治療が終了したとは思えないのです。見た目は歯の矯正装置が取り外され、きれいな歯並び、噛み合わせが得られている土佐選手ですが、実際は人目の見えないところでは、保定治療を続けていると考えた方が良いのではないかと思うのです。



2008年05月02日(金) 持つべきものは友

長年同じ地で歯科医院をしていると一定の数の患者さんができてくるようです。今の地で親父が開業をして30年以上経つのですが、親父をかかりつけ歯科医としている患者さんが確実にいます。言葉は悪いですが、僕が歯医者として何とか仕事ができているのもそんな親父の患者さんのおこぼれがあるように思います。歯医者というのは患者さんが来院して初めて飯を食っていけるものですから。いくら腕が良くても、外面がよくても患者さんが来院しない限り歯医者として生活することはできません。

うちの歯科医院では初診の患者さんには必ず問診表に記入してもらっています。問診表の中には患者さんの来院目的や過去の病歴、歯科医院の受診歴などの記入欄以外にどうやって来院されたかということを問う欄があります。うちの歯科医院では誰の紹介で来られたのか?を記入する欄があるのですが、先日、初診患者さんの問診表を見ていますと、この欄に僕の小学校時代の友人のY君の名前が書いてありました。この患者さんにこのことを尋ねると、

「歯のことを悩んでいたらYさんにこちらを勧められたのです」
とのこと。

Y君とは30年以上の付き合いになるのですが、既にY君の口の中の管理をして10年以上が経過します。定期的にうちの歯科医院を受診してくれるY君ですから、それなりに信用してくれているのだろうなあとは感じていたのですが、こうやって自分の知人を紹介してくれるとは、予想もしていませんでした。

先週末、たまたま某所でY君とばったり出会いました。紹介患者さんのことをお礼を言うと
「あいつ、『歯の治療を受けたい』と言っていたから、そうさんの診療所を勧めてやったんだよ。」

持つべきものは友かもしれません。有難や、有難や。



2008年05月01日(木) ガソリンスタンドに並びたくなかった理由

既に皆さんご存知のことと思いますが、昨日、租税特別措置法改正案が衆議院を可決し、ガソリン暫定税率が復活しました。今日からガソリンが値上げることになったのです。この影響でここ数日間はどのガソリンスタンドも盛況でした。特に、昨日は当地のどこのガソリンスタンドも道から車の行列ができるくらい多くの車がガソリンスタンドで給油をしていましたし、深夜までガソリンスタンドには車が列をなしていたようです。
それらを横目で見ながらマイカーを運転していた歯医者そうさん。マイカーのガソリン量を確認してみると、満タン時の半分が無くなっていました。僕もガソリンを入れるべきか、それとも入れないべきか?一瞬そんな考えが頭をめぐりましたが、僕が出した結論は“いれない”でした。

ガソリンが高くなれば当然のことながら支出も増えます。決して家計が楽ではないことを考えれば、少しでもガソリン代が安いうちに給油をしておきたい気持ちは大変よく理解できますし、僕もそうしたいのはやまやまでした。たとえ一回分の給油分の節約であったとしても、少しでも支出を少なくしたいことを考えれば、安いガソリンを入れたいというのは誰もが考えることでしょう。

ただ、僕は非常に天邪鬼でして、ガソリンスタンドに行列を作っている車をみていると、何か違和感を覚えざるをえなかったのです。異様な光景に見えたのです。昨日のガソリンスタンドに並んでいる車を見ていると何かのパニック状態に陥っているように思えてなりませんでした。パニックにならざるをえない状況ではあったのですが、本当にパニックになっていいものか?

最近の原油高もあいまって値上げ後のレギュラーガソリンは160円を超えるとも言われています。これは避けられない現実です。けれども、今や日本社会は車無しでは成り立たなくなっており、嫌がおうにもこの高い価格のガソリン代を受け入れざるをえない状況です。この状況、3月の終わりまではそうだったのですが、4月一杯の間、たまたま税率の国会審議の関係で税負担がなかったために安くなっていただけ。それが元に戻ったのです。そのように考えれば、今回のガソリン再値上げはある程度納得せざるをえないのではないか?
ガソリンが高いより安い方がいいに決まってはいます。けれども、我々が有権者として選んだ国会議員が国会でガソリン再値上げを決めたのです。いくら世論がガソリン再値上げに反発していても、我々が選んだ国会議員がガソリン再値上げを行っているという事実。ガソリンを値上げしたのは、実は我々の意思であり、我々自身であるということをもっと自覚しなくてはいけないのではないか?

ガソリンが高くなることは僕にとっても非常に頭の痛い問題ではありますが、昨日のガソリンスタンドに並ぶ車の行列をみていると、僕は現実をもっと冷静に見つめる必要を感じたのです。

とはいうものの、後数日すれば僕の車も給油です。高いガソリン代を支払うことになることでしょう。仕方がないこととはいえ、給油の度に懐が寂しくなるのは嫌なものです。


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