歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2007年01月31日(水) 楽しく話しながら食べられたらなあ

学生時代のちょうど今頃のことでした。僕は男女の友人ら何人かである温泉地へ旅行に行ったことがあります。普段から仲の良い仲間同士でしたから、行きの電車の中では朝から酒を飲みながらの宴会気分。
お互い“今からこんなにハイテンションで大丈夫か?”と言いながらも、しゃべりっぱなしで目的地へ。
目的地で口にしたのがカニ料理のフルコースでした。カニの刺身から焼きカニに至るまでこれでもかというくらいのカニ料理だったのですが、どの料理も美味しいもので皆夢中で食べていたのです。そのような中、この旅行を企画した幹事の一人曰く

「ついさっきまでしゃべりっぱなしのみんなが一斉に黙っている!」

そうすると、仲間の一人が

「美味しい料理を食べていると時って黙ってしまうよね。人間に口が二つあれば、しゃべりながら食べることは可能なのだろうけど、残念なことに口は一つしかないからなあ。」


このようなことは誰しも経験があるのではないでしょうか?カニに関わらずなんでも美味しい料理を口にする時、思わず話すことを忘れて料理の味を堪能してしまう経験は誰でもあると思うのです。

ところで、僕は一緒に食事をした人から

「そうさん、少食だね」と言われます。その理由は、僕が普段から食べる食事量が少ないということもありますが、それ以上に話をしながら食べることが苦手だからです。僕は何かを同時に行うことが苦手な性質なのですが、中でも、食事と一緒に話をすることが大の苦手なのです。
しばしば気心の知れた人と食事をしながら話をする機会はあるのですが、そんな時は食事を楽しむよりはお互いの会話を楽しみたい気持ちの方が強いのです。そうすると、会話の方に気が取られてしまい、箸の手が止まってしまうのです。もし、食事の方をメインにすると食事に集中してしまい、何も話をしなくなってしまいます。せっかく気心の知れた人と話をする機会なのに黙り込んでいては何も意味がありません。ただでさえ、美味しいものを食べていると食が細るのに、話をしながらの食事苦手であるために、僕は少食にならざるをえないのです。

こんな僕ですから、普段の家での食事は寡黙なことが多いです。嫁さんや子供が話すのを聞きながら食事をしてしまうのですね。これはあまり褒められたことではないなあと思っているのですが、限られた時間の中で食事をしてしまおうとするとついつい無口になってしまいます。
おそらく、僕は食事つきの会議なんてものは苦手だろうと思います。ビジネスの世界では朝食や昼食を共にしながらビジネスの話をする機会があると聞いていますが、僕が当事者であれば、ほとんど出された食事は口にすることができないであろうと思います。話をしながら食事ができる人がうらやましく思います。

そんなことを思っていると、ある雑誌に3人の作家と漫画家、芸能人による対談が掲載されていました。その中で取り上げられていた作家の一人が13年前に亡くなった作家の吉行淳之介氏の思い出でした。
取り立ててイケメンというわけではない吉行淳之介氏の周囲にはいつも女性が寄ってきた。彼の醸し出すダンディズムに当時の多くの女性が魅了され、つい近づきたくなるものを持っていたという話が中心だったのですが、その中で
ある漫画家がこんなことを語っていました。

「吉行さんは健啖家でした。吉行さんは長年にわたって週刊誌に対談コーナーを連載し「座談の名手」としても知られた人ですね。普通、対談をしているとホスト役の人っていうのは、インタビューをする方ですからどうしても食が細くなるものです。けれども、吉行さんはホストをしていても“一体いつ食べたのだろう?”と思うくらい、出された食事は皆平らげていましたね。あんなことができたのは吉行さんぐらいでしたよ。」

美味しく食べながら会話を楽しむことができた吉行淳之介氏。どうやったらそのような器用なことができるのか?もし、今も活躍されているならば、是非教えを請いたいものです。

そうそう、吉行淳之介氏にはどうしたら女性にもてるのかということも尋ねてみたかったですねえ・・・。



2007年01月30日(火) 女性は子供を産む機械なのだろうか?

初めて告白することなのですが、今から11年前、嫁さんが最初に妊娠した時は残念な結果に終わりました。すなわち、流産だったのです。結婚して間も無く、嫁さんが妊娠したということで、僕たち夫婦は、今後生まれてくるであろう初めてのわが子に期待と不安に満ち溢れていましたが、不幸にしてお腹の子供は育ちませんでした。せっかくできたお腹の子が育たなかったことに僕たち夫婦は、大変大きな精神的ショックを受けました。周囲からは一度の流産は珍しくないなどと慰められたりしたものですが、もしかしたら、僕たち夫婦は子宝に恵まれないのではないか?何ともいえない不安、絶望を感じたものです。子供は思っているよりも簡単にできるものではないことを実感したものです。それ故、二人のチビを授かった今、子供を持つことの有難さをしみじみ感じています。


今年僕がもらった年賀状の中に、大学時代に仲が良かった女性友達からのものがありました。その年賀状にはこんなことが書かれていました。

“昨年の4月に待望の女の子を授かりました。名前は○○と言います。夫と結婚して15年経って初めての子供です。大切に育てていきたいです。”

彼女は僕の大学時代の仲間の中でかなり早くに結婚したのですが、結婚してから子供に恵まれせんでした。僕を含め、大学時代の友人が次々と子供の親になっていく姿を見て、内心穏やかではなかったでしょう。時間だけが経過し、年を重ねるにつれ、自分たち夫婦は子供と縁が無いと諦めようとしていた矢先、子宝に恵まれたのです。彼女の喜びは相当なものでしょう。僕は彼女にお祝いのメッセージを送ったのは言うまでもありません。

既にご存知の方が多いとは思いますが、柳沢厚生労働大臣が発言した内容が物議を醸し出しております。
問題になっているのは島根県松江市で27日あった自民党県議の後援会の集会での発言とのこと。柳沢大臣は、少子化問題にふれた際、「機械と言ってごめんなさいね」などの言葉を入れつつ、「15〜50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭でがんばってもらうしかない」などと発言したのだとか。

ここで問題になっているのは、やはり女性の出産を機械に例えて言っていることでしょう。子供を持っている方、いや、そうでない方も重々承知のことだと思いますが、子供を作ることは並大抵のことではありません。単に性行為をして、タイミングが合えばできる代物ではありません。肉体的、精神的、経済的、社会的、環境的などなど様々な要素が複雑に絡み合った中で初めて産むことができるデリケートなもの。世の中には子供が欲しくても諸事情のため子供を産むことができず苦しんでいる夫婦がたくさんいます。機械的に産むようなものではありません。

ところで、世の中には誰一人として同じ人間はいません。同じDNAを持つという点で言えば、子供がそうでしょうが、その子供でさえ父親と母親が持っているDNAを半分ずつ持ってはいるものの、親と全く同じDNAを持っているわけではありません。人間が多様である理由がここにあります。ここに個性というものがあるのです。
一方、機械は、多様性を否定するものです。短時間にできるだけ多くの均一な製品を生産することが目的の機械。限られた時間の中で同じ規格、同じ品質のものを大量に生産するのが機械です。機械によって作り出されたものに多様性があるということは売り物になりません。
人間の子作りの本質を考えると、決して子作りを機械に例えることはできないはず。どうして、子作りが機械に例えられるのか、子供を持つ親として理解に苦しみます。

女性一人あたり子供をたくさん産まないと少子化が進み、将来の日本の経済が成り立たなくなる。柳沢大臣は、そんな話の中にこの例え話を話したようですが、現代の社会状況を見てみれば、子供をたくさん産もうとしても産むことができない環境です。そういった状況の改善をせず、女性だけに産めよ増やせよと号令しても、それは無理な話です。

今回の“女性は子供を産む機械”の例えは、国の厚生行政を司る長である厚生労働大臣として実に不適切な例えであったといえるでしょう。柳沢大臣の大臣としての資質を問われても仕方がありません。早速、安倍総理から注意を受けたそうですが、このような厚生労働大臣を任命したのは安倍総理です。野党からは辞任要求も出ているようですが、近いうちに始まる国会は荒れることが必至でしょうね。



2007年01月29日(月) 有名人口元チェック 東国原英夫宮崎県知事

昨日の日曜日、新聞のテレビ欄を見ていると、朝と夜の時間帯にある有名人が出演している番組が目白押しだったように思います。その有名人とはそのまんま東こと東国原英夫宮崎県知事。正直言って、”東国原”と書いて“ひがしこくばる“とは読めなかった、歯医者そうさんです。

全国の官製談合汚職の事件の中では何人かの知事が辞職に追い込まれ、警察に身柄を拘束されていますが、旧宮崎県知事も逮捕されたことは記憶に新しいところです。そこで、年明けから宮崎県知事選挙が行われたわけですが、宮崎県民が選択したのは、そのまんま東候補者でした。聞くところによると、保守候補が一本化できなかったために当選できたのだとか、無党派層のみならず各政党支持者の中のかなりの部分が自党の候補者に嫌気がさし、そのまんま東候補に投票したということが言われていますが、とにもかくにも宮崎県知事選挙に当選したのはそのまんま東候補であったことは事実です。

そのまんま東候補は、タレントでありながらも政治のことをかなり勉強されていたようです。もともと、そのまんま東候補は専修大学を卒業後、ビートたけしに弟子入りしたたけし軍団の一人だったのですが、タレント活動をしながら早稲田大学第二文学部を卒業、さらに政治経済学部で政治のことを勉学に励んでいたのだとか。彼の選挙演説を聞いていると、とても付け焼刃的な演説とは思えないもので、相当の知識的裏づけ、明確なビジョンがあってのものだと思えました。
また、演説も言葉巧みでした。僕が印象的だったのは、
“誰が宮崎県知事をやっても一緒であれば、僕にさせて下さい”という言葉です。これは多くの宮崎県民の心の琴線に届いた言葉の一つではなかったかと思うのです。かつての自身のスキャンダルを今の宮崎県の状態に例え、そのスキャンダルから脱却しようとしている自分が今の宮崎県に役立つと訴えた、演説の巧みさ。時流をつかみ、これまでの宮崎県議会、宮崎県庁、宮崎県各団体、業界のしがらみがないところ訴える戦術の中にあって、県民の気分を巧みについた言葉ではなかったでしょうか。なかなかのやり手だと感じた次第です。

さて、そのまんま東候補、改め東国原英夫知事の口元ですが、白い歯が印象的でした。選挙戦で日焼けした広い前頭部、すなわち、広いおでこの顔に見事に対照的に白い歯が生えているところなどは、有権者に対しクリーンなイメージを売り込むのに効果的ではないかと感じた次第です。そんな東国原英夫知事の右上の前歯(正確には右上中切歯)はメタルボンド冠と呼ばれる被せ歯が装着されていました。この歯は歯と歯茎の間が微妙に黒くなっていることから誰でも気が付くのではないかと思います。
それから、もう一つ歯について感じたのは、前歯の形というのは顔の輪郭に相似するものだということです。うそのような話かもしれませんが、皆さんも一度自分の口元、前歯を見てください。自分の天然歯は顔を上下逆転した輪郭に相似しているはずです。このことを歯科では、ウィリアムの法則と呼ぶことがあります。これは、前歯を失い、入れ歯を装着する際、入れ歯の前歯の人工歯を選ぶ時に基準となる法則です。入れ歯のように自分の永久歯が残されていない場合、顔の輪郭に似た形の人工歯を選ぶのです。そうして選んだ歯は顔の輪郭にマッチし、違和感のない口元を見せることができるわけです。
下の右前歯に多少の歯並びの乱れはありますが、東国原英夫知事の口元は、面長で日焼けしたおでこが広い顔と白い長い歯により、彼のクリーンなイメージを無意識のうちに伝えることができる武器になっているのではないかと感じた次第。

これまでタレント出身県知事はいろいろと悪戦苦闘しているケースが多いのですが、官製談合で揺れた宮崎県を今後どのように立て直すのか?就任早々、鳥インフルエンザの集団感染があり対応に大変そうですが、東国原英夫知事の今後の政治的手腕に注目したい、歯医者そうさんです。



2007年01月27日(土) 温かい直筆手紙

歯医者家業をしていると、時々患者さんから治療に対する感謝の手紙を頂くことがあります。手紙には治療によって口や歯の健康を取り戻すことができ、うれしいことが書かれてあるのですが、いつもこのような感謝の手紙を受け取ることは有難いものです。僕は常日頃からあすなろ歯医者であると思っているのですが、そんな僕にも少しは人様の健康維持のためにお役に立っているのかと感じる瞬間でもあるからです。有難いことです。

先日も、僕は先日まで来院していた患者Mさんから直筆の手紙を頂きました。手紙には自分の治療のみならず、往診で母親の治療までもしてもらったことに対する礼が書いてありました。
僕が最初にMさんと出会ったのは、Mさんの自宅でした。実は、某介護センターからの紹介でMさんのお母さんの往診を頼まれていたからでした。僕は何回か寝たきりであったMさんのお母さんの治療のためにMさんのお宅へ足を運んだのです。治療終了後、Mさんから連絡があり、今度は自分が治療をして欲しいということで来院されたのでした。
Mさんは寝たきりのお母さんの世話に忙しく、歯に問題があることはわかっていたそうですが、放置していたとのこと。僕が往診にやってきたことをきっかけに一念発起し、自分の悪い歯も治そうとされていたのでした。幸い、Mさん自身の治療対象の歯はごくわずかで治療回数もさほどかかりませんでした。Mさんは気になっていた口の中が治療されたことに満足されていたようで、笑顔でうちの歯科医院を後にされたのです。

そんなMさんからの直筆の手紙です。達筆な直筆の手紙を見て、僕は改めて人が書く文字の優しさ、温かさ、豊かさを感じることができました。これはワープロ書きの文書や手紙、メールでは決して味わうことができないものです。年賀状でも単に印刷だけのものよりも、何か一言でも直筆で書いてあるとうれしいもの。達筆で書かれた直筆の手紙には、送り主の感情がひしひしと伝わってきます。読んだこちらが励まされるような温かい、何物にも代えがたい直筆の手紙。

もしも、自分がMさんのような立場にたったなら、お礼の手紙は直筆で書かないといけないなあと強く感じた次第。そのためには乱筆を改め、丁寧な字が書けるようにしないといけません。頭の痛い問題です、ハイ



2007年01月26日(金) 目には目を 高齢者には高齢者を

先週のことでした。昼休みが終わり午後の診療を始めようとした時のことでした。待合室には予約の患者さん以外に高齢の方が一人立っていました。
”見かけない顔だなあ?”と思いながら受付の方へ行くと、受付さん曰く

「先生、さっきからあの方が先生に話があるとお待ちですが。」

この高齢者の方は、アポなし、すなわち事前に約束せずに僕と会いたいと言っているようなのです。このようなアポなしで来院する方は、急患の患者さんか、業者に決まっています。
僕はぴんと来ました。これは、例の新聞の勧誘だなあと。

先日の地元歯科医師会の新年会で何人もの歯医者の先生が異口同音に言っていたことの一つに、高齢者を営業マンにした高齢者向け新聞の広告勧誘がありました。これは、高齢者向けと称しながら、実際には地元の老人クラブ連合会とは全く関係のない会社が発行している高齢者向けと称している新聞です。それだけならいいのですが、新聞の広告を取るため、わざわざ高齢者を担当者として向かわせるのです。しかも、実際の集金には若手の新聞社の社員を向かわせるというやり方。地元の歯科医師会の先生の中には、高齢者向けの新聞ということ、高齢者自身が広告を取りに来たということから、少しぐらいいいだろうという気持ちで広告料を払うことに同意し、後から若手の集金係りが広告料を取りにきたところで
“これはおかしい!”と気が付くのも後の祭りといったところなのです。

ある意味、高齢者の立場を悪用した商売、商売というよりも詐欺にも近い行為だと言えるでしょう。事前にこのことを聞いていた僕は、うちの歯科医院に来られた高齢者営業マンにお引取り願おうか、断ろうと思ったのですが、その時、たまたま親父が診療所にやって来ました。親父は予約していた患者さんが急遽キャンセルになったということで時間に余裕がありました。

“ここは親父に頼もう!“

そう思った僕は高齢者営業マンを親父に断ってもらうことにしたのです。僕の申し出に首を縦に振った親父は直ちにその高齢者営業マンのところへ話をつけに行ってくれました。
その後、受付さんに尋ねたところ、親父は高齢者営業マンが自分より年下だったことから、いろいろと苦労していることを労いながらも、丁重に広告のことは断ったのだそうです。その高齢者営業マンはがっかりとしていたそうですが、親父には深々とお辞儀をしてうちの診療所を後にしたのだとか。

おそらく、この高齢者営業マンは、悠々自適の生活をしたいであろうに、何らかの事情で働かざるをえない状況なのです。実際、仕事を探そうとしても高齢者向けの仕事の求人はなかなか見つからなかった。苦労して見つけた仕事求人に応募し、採用されてみたものの、勧誘というノルマと広告を取った数だけ給料がもらえるような成果システムの中で働かされているのです。既に高齢者でありながら自分より若輩である院長の診療所に足を運び、頭を下げて広告を取る。新入りの営業マンのようなことをさせられているのです。いくら生活のためだとはいえ、70歳以上にもなってこのような営業、勧誘商売をしないといけないとは?

社会の厳しい現実の一端を見せ付けられたような気がした、歯医者そうさんでした。



2007年01月25日(木) スープの冷める距離、冷めない距離 後編

結婚を前提とした付き合いをしている場合、彼氏の両親と同居してもいいと言ってくれる女性は限られていると思います。今だから言えることですが、せっかく良いお付き合いをしていたにも関わらず結婚の段階となって、僕の考えを受け入れることができずたもとを別れていった女性はいました。さすがにその時は僕自身落ち込んだものです。僕の考えは間違っているのではないかと真剣に悩み苦しんだものです。そんな僕の悩みを親しい友人に相談したことがあります。彼のアドバイスは、最初は両親とは別居して、結婚生活に慣れてから両親と同居してはどうかというものでしたが、そのアドバイスは僕はどうしても受け入れることができませんでした。同居するなら結婚生活の最初から同居しないとうまくいくはずはないと信じていたからです。両親と別々に暮らし始め、結婚生活に慣れていったとしても、その時点で旦那の両親と暮らすということになって一番ストレスを感じるのは奥さんであることは目に見えていたからです。

昨年末、某所で忘年会があったのですが、そこで既婚の女性友人がこんなことを話していました。
その友人は、将来、旦那さんの仕事の関係で旦那さんの出身地に移る可能性があるとのこと。もし、そのようなことになったら、住む場所をどうしようかということを話していたそうです。すると旦那さん曰く
「俺の実家で住めばいいじゃないか?」
と言われたのだとか。
その言葉を聞いた途端、友人は思わず感情的になってしまったそうです。
「結婚して何年も経ってから私が貴方の両親と一緒に暮らすわけ?貴方は仕事場と家の間を往復するからいいでしょうけど、私はあなたよりもずっとご両親と暮らす時間が多くなるのよ。私の立場も考えてよね。」

彼女の言うことは無理もないことだと思います。これまで旦那さんと二人で暮らしてきた環境にいきなり旦那さんの両親が入ってくるわけです。その精神的ストレスは相当なものですし、彼女自身の居場所がどこにあるのか悩み続けなければならないことでしょう。
いくら諸事情があるとはいえ、女性の立場を考えると、これまでの生活を一変させるような旦那さんの両親との同居は、受け入れることは困難であることを僕は理解できました。

僕の願いを受け入れてくれる伴侶探しは難航しましたが、幸いなことに僕には人生の後半を共に過ごしてくれる女性が現れました。それが今の嫁さんなのですが、どうして嫁さんが僕の伴侶になってくれたのか正直言ってわかりませんでした。後日、僕は嫁さんに僕の両親と同居しても構わなかった理由を尋ねてみました。
すると、嫁さんの答えは
「何も考えなかったよ、ハッハッハ・・・」
と全く能天気な返事。

嫁さんの答えにもならない返事に“あてにならないなあ“と苦笑いしていたのですが、僕はあることに気が付いたのです。それは、嫁さんが僕の両親と同居するということに”何も考えなかった“のではないか、すなわち、違和感を感じなかったのではないかということでした。
愚考するに、嫁さんの育ってきた環境と僕が育ってきた環境は似ていました。嫁さんは若き頃、病気でお父さんを亡くし、母親に育てられてきたのですが、家の中には母親のお母さん、すなわち、母方のおばあさんが一緒に暮らしていたのです。嫁さん曰く、

「いつも朝ごはんはおばあさんが作ってくれていた。」
おばあちゃん子だったわけです。嫁さんは僕が育ってきた大家族ではないものの、核家族ではなく、三世代の家庭で育ってきたわけです。その意味で、核家族ではない環境で育ってきた僕と似た境遇だったわけです。嫁さんと僕とは育ちが似ていた者同士だと言えるかもしれません。

結婚を考える際、両親との同居、別居との兼ね合いでスープの冷める距離、スープの冷めない距離ということが言われることがあります。
どちらも一理ありますし、優劣をつけることはできないでしょう。ただ、男性、女性とも育ってきた環境に影響を受けるという考えは結構当たっているのではないかと思うのです。
昨日も書いた昨日書いた厚生労働省の国民生活基礎調査によれば、平成15(2003)年の時点で日本において核家族世帯は全体の60%、単独世帯が23%を占めています。一方、三世代となると全体の10%、その他の世帯ではほぼ7%となっています。
現在の独身男女間で、両親とは別居を、すなわち、スープの冷める距離の結婚を望む人が多いのは、こうした家族環境が与える影響が大きいように思います。核家族で育ってきた人は男性、女性に関わらず結婚後も核家族のイメージしか想像できないのは自然なこと。また、大家族で育ってきた人は大家族のイメージが優先するものだと思うのです。僕のようなスープの冷めない距離の結婚を望む人が少数派であるということも大家族が少ないということから説明できるように感じます。

僕の希望どおり、嫁さんと僕の間に生まれた二人のチンチンボーイは、生まれた時から僕の両親と一つ屋根の下で暮らしています。幼少の彼らは両親と両親の親と住むことが当然であると考えています。大家族生活が彼らの成長にどんな影響を与えるか想像はつきませんが、家族のぬくもりを感じながらじっくりと成長してほしいものです。



2007年01月24日(水) スープの冷める距離、冷めない距離 前編

先週末、僕の地元歯科医師会では新年会が行われました。新年の挨拶を兼ね、地元歯科医師会の先生同士の相互交流と地元歯科医師会と関係のある方々を招いての新年会でした。僕は同世代の歯医者の先生方と同じテーブルにつき、話をしておりました。
今回、彼らとの話の中で最も盛り上がった話題は、高齢になった両親のことでした。話をしていたのが僕と同じ40歳代を中心とした先生ばかり。この先生達の両親は、60歳代後半から70歳代後半、中には80歳近い方もいらっしゃるようで、高齢の親御さんをどのように世話しているかお互いに興味があったのです。
話を続けているうち、僕が生まれてから今まで親と同居している話をすると、一同驚きの目で僕を見つめました。

「ずっと両親と一緒なの?よく今まで何もなくやってこられたなあ?」
「自分がやりたいことを自由にできなかったんじゃない?」
「親の干渉がうっとおしく感じたことはなかった?」
等々言われたのですが、中でも極めつけは

「よく奥さんがそのことを承知してくれたなあ?」ということでした。僕が結婚してからも親と同居していることに一同驚いていたのです。
今時の妙齢の女性の中で、心から愛している彼のためとはいえ、彼の両親と同居しても構わないと言える女性が果たしているのだろうか?そんな奇特な女性とよく結婚できたなあと何か珍しい動物でも見つけたかのようなものの言われようだったのです。

彼らのいうことは理解できましたが、正直言って、僕にとって親と同居生活は当たり前の生活であり、自然なことでした。
これまで何回も書いたことですが、僕が生まれ育った家庭環境は大家族でした。一時期、母方の祖祖母、祖父、祖母、叔父、叔母と両親、弟と一緒に暮らしていたわけですから。一つ屋根の下に四世代が住んでいたことになります。世間の中では極めて希少価値的な家庭環境で僕は育ってきたわけです。
そんな僕ですから、独身時代、将来の結婚に対して僕はあることを心に秘めていました。それは、生まれてくるであろう子供も、僕と同様おじいさんやおばあさんが一家にいるような大家族で育って欲しいという願いでした。

ところで、厚生労働省が調べた国民生活基礎調査によれば、平成15(2003)年の時点で日本において核家族世帯は全体の60%、単独世帯が23%を占めています。一方、三世代となると全体の10%、その他の世帯ではほぼ7%となっています。すなわち、10世帯のうち6割が核家族であり、両親と同居しているであろう世帯は10世帯中2世帯しかないということになります。それくらい、現在の日本において大家族が過去のものとなっているということを証でもあります。
核家族には核家族の良さがあり、大家族には大家族の良さがあります。どちらかに優劣をつけようとすることは意味がないことではありますが、僕は自分が育ってきた大家族という環境を将来生まれてくるはずの子供たちにも経験させてやりたいという気持ちが強かったのです。

僕は大家族が故、常に様々な世代の人間の姿を見てきました。それは、同じ一つ屋根の中に様々な年代の人がいるということでした。弟が一桁歳台、僕が10歳代、叔父が20歳代、お袋が30歳代、親父が40歳代、祖母が50歳代、祖父が60歳代、疎祖母が70歳代という時期があったぐらいです。家族が皆各世代を代表するような人であったわけではありませんが、少なくとも各世代の一員であったのは事実。大家族であるために各世代の人たちを社会に出る前に見ることができ、肌で感じることは僕にとって何物にも代え難い体験となりました。このことは僕が社会に出て、全く見ず知らずの世代の人と接するにあたり、変に臆することない自信となったように思います。

そんな僕の希望だったわけですが、実際のところは大きな問題が立ちはだかっていました。それは僕の考えに共感し、受け入れてくれる伴侶となるべき女性がいるかどうかでした。簡単にいえば、僕の両親と同居してくれる結婚相手がいるのかどうかということだったのです。

明日へ続く。



2007年01月23日(火) 脱サラ自給自足生活者は本当に幸せなのだろうか?

僕の診療所は山間部にある田園地帯のど真ん中にあります。田舎であるわけですね。そのことを知っている口悪い友人からは「人間の人口よりも動物の方が多い」とか、「○○市のチベット」などと言われっぱなしなのですが、住めば都でそれなりに不満も無く過ごしている今日この頃。
そんな田舎に住んでいるせいでしょうか、患者さんの多くは農業を営んでいる人が多いのが特徴です。農業といっても専業農家は少なく、兼業農家が多いのですが、患者さんの数が農繁期と農閑期では随分と違うのがうちの歯科医院が田舎にある証拠でもあります。
このように大部分を占める農家の患者さんの中に変わった方がいます。その方は、元来農家の方ではなくある企業のサラリーマンだった方ですが、一念発起して脱サラし、農業を営まれているのです。それだけではありません。この方は長年の夢であったあることを実現しようとしているのです。この方の夢とは埋蔵金探し。いわゆる、トレジャーハンターなのです。
どうして安定した収入を絶ち、自給自足の生活を送ることを決心されたのか?僕はその方に尋ねたことがあります。

「埋蔵金探しは長年の夢だったのです。いわゆる男のロマンというものだったわけです。」

この方のように脱サラして自給自足生活を送っている方は少なからず全国にはいらっしゃるようです。テレビを見ていますと、このような自給自足生活者の生活ぶりが報じられていることがあります。番組の中で取材を受けている自給自足生活者の皆さんは皆異口同音に
「今の生活に満足している」
と言い、にっこりと微笑まれている姿が映像に映っています。

僕はこのような自給自足生活を営んでいる人の姿を見ていつも思うことがあります。それは、本当に今の生活に満足しているのだろうか?という疑問です。
脱サラして自給自足生活を営んでいる人は、勤務時代に当時の生活に何らかの疑問を感じ、自問自答し続けていたといいます。そこで、自分らしさを取り戻す、本来あるべき生活をしてみたいなどといった理由で勤め先を辞し、田舎に移り住み農業をはじめ、生活の全てを自給自足しようとされています。
その心がけや素晴らしいものだとは思うのですが、果たしてその結果が当初自分たちが追求しようとしていたものなのでしょうか?

“現実は理想よりも厳しいものではなかったのだろうか?”
“後戻りできないため、今の自給自足生活を無理やり満足しようとしていることはないのだろうか?”
と僕は思うのです。

どうしてそのように僕が感じるかと言いますと、それは自給自足生活をしている方の顔つきです。僕の独断かもしれませんが、自給自足生活者の顔は皆年齢以上にふけている、年を取っているような顔つきのようにしか見えないのです。さらに口元に目をやれば、歯の状態は決して芳しいものとは言えず、むしろ悪い状態を放置しているような方もいるくらいです。
“今の生活が満足である”と口で言っていても、顔に深く刻まれたしわやしみの多さが今の生活の苦労を物語っているように思えてならないのです。
自給自足生活者の脱サラ前の写真を見る事がありますが、その頃はおしゃれな服装を着こなし、肌もつやがあり、仲間と楽しんでいる雰囲気が見て取れます。表面上は生き生きとした顔つきをしているように思うのです。その時の写真の表情と自給自足を営み始めている現在の顔つきはあまりにも変わっているのです。何か竜宮城で開けてはならない玉手箱を開ける前と開けてからの浦島太郎の姿のような感じがしてなりません。

外面と心の中は違ったものなのかもしれません。顔で笑って心で泣いてなんてキャッチコピーもあったくらいですから。会社に勤務時代は、安定した収入があった一方、人には言えない様々なストレス、軋轢、トラブルを抱えていたのかもしれません。時間に追いまくられ、睡眠時間を削り、人間らしい生活とは縁遠い企業戦士だったのかもしれません。そんな生活から足を洗いたい。そのように思っているうちに、一念発起し、脱サラし、自給自足生活に入ったことでしょう。自分の夢や理想を求めるために。

その一方、僕は人間の顔というのは心の中の状態を映し出しているのではないかと思うのです。心が豊かであれば、その表情は生き生きとしたものがあり、勢いを感じるもの。心が豊かでなければ、その表情はどこか疲れているような、落ち込んでいるような顔つきになるものではないかと思うのです。顔の表情は心を映す鏡のようなものではないでしょうか。

果たして自給自足生活者は今の自分に満足しているのでしょうか?
冒頭の患者さんにそのことを尋ねると
「後悔はしていませんよ」
と言いながら笑われていましたが、その表情にはどこか暗い影があるような気がしてなりません。この患者さんは、僕が思う以上に、想像以上に人には言えない苦労を重ねてきていることは間違いないと思うのです。自分の夢、ロマンの実現のための苦労は苦労ではないのかもしれませんが、それでも今の生活が本当によかったのでしょうか?実際のところ、この患者さんは埋蔵金を探して30年近くになりますが、まだ埋蔵金を発見できていません。厳しい現実です。

自ら望んで脱サラし、自給自足生活を選択した。自己責任は自分にあるのですが、実際の本音として、どれだけの人が自給自足生活に満足のいく結果を得ているのでしょう?素朴な疑問です。



2007年01月22日(月) 山崎豊子とヘミセクション

先週から山崎豊子原作、木村拓哉主演のテレビドラマ“華麗なる一族”が放映され、高視聴率をあげています。このドラマ、原作は山崎豊子。山崎豊子と言えば、二つの祖国、白い巨塔、不毛地帯などの名作を残している日本を代表する大作家の一人です。彼女の作品は、膨大で詳細な取材を元に緻密な構成、息をもつかぬ展開、魅力的な登場人物が活躍し、重厚さに満ち溢れているのが特徴です。
山崎豊子には数多くのファン、読者がいることは間違いないことですが、何度もテレビドラマ化、映画化されています。中でも、テレビドラマの世界では山崎豊子原作というだけでかなりの視聴率が取れるということで、彼女の原作のドラマはどれも話題にあがるものばかりです。今回の“華麗なる一族”もそんなドラマの一つになることでしょう。

さて、彼女の作品の中でまだドラマ化されていない作品の中に“沈まぬ太陽”があります。国民航空という日本を代表する航空会社を舞台に繰り広げられる愛憎に満ちた長編小説です。沈まぬ太陽は5冊から成り立っている長編小説ですが、その第三巻に御巣鷹山篇があります。これは、いわずと知れた日本航空123便の御巣鷹山墜落事故をモデルに書かれています。その中に、このような記述があります。


歯茎まで焼け焦げ、下顎に四本の歯が残っているだけで、そのうちの一本は縦に半分、欠けている。ミラーでよく観察すると、欠けた半分が、腐った血液と脂肪がどろどろになって溜まっている咽喉部に落ちている。補助をつとめる若い歯科医は怯気づくように手を硬わばらせたが、大国医師はその下顎部と耳の部分を抱き寄せるように抱えた。・・・・
下顎にある歯に、咽喉部からつまみ出した残りの半分をあてがった。
「これはヘミセクションという方法で接いだ極めて珍しいケースだ、半分を生かし、半分を人工歯で繋いでいる。めったにない治療法だから、遺族から提出されたレントゲン写真さえあれば、身元の割り出しは充分、可能だ」
自信を持って云い、推定年齢三十〜四十歳代、血液型はO型と記し、所見を書いて、身元確認班に渡した。
[山崎豊子作 沈まぬ太陽(三)御巣鷹山篇 新潮社 107ページ〜108ページ
ISBN4−10−322816−4]


御巣鷹山墜落事故で亡くなられた犠牲者の死体の身元を確認しようと関係者が必死に努力をしているのだが、遺体の損傷がひどく身元確認もままならない。そのような中、遺体に残された歯を元に何とか身元確認をしようと奔走する歯科医の姿が描かれています。
この話は実際にあった話で、当時の群馬県歯科医師会の警察歯科医が奔走し、何人もの遺体の身元を確認されました。沈まぬ太陽を書くにあたり、山崎豊子は実際に群馬県歯科医師会の警察歯科医の下を訪ね、当時の模様を詳細に取材したそうです。

さて、この中で大国医師が言うヘミセクションですが、実際にどういったものでしょう?
実際のヘミセクションを解説したいと思います。
ヘミセクションとは大臼歯に行われる治療法の一つです。下の図は下顎の大臼歯ですが、基本的に下顎の大臼歯は二本の根っこがあります。




この根っこの一部が損傷をしたり、化膿をしたりして保存ができない時、大臼歯全体を抜歯するのではなく、保存可能な根っこの部分だけを残し、それ以外を抜歯することがあります。




これをヘミセクションといいます。下の図のようにするわけです。




ヘミセクションの“ヘミ”とは、半分とか片側という意味の接頭語です。“セクション”とは切断、分離という意味です。ヘミセクションとは半分を切断するということになります。下顎の大臼歯であれば、二つある根っこのうち一つだけを残し、一つを抜去するということなのです。一種の抜歯の変法である、分割抜歯の一つであると言えるでしょう。
単にヘミセクションをするだけなら放置したも同然です。抜去した歯の部分は前後の歯を利用し、ブリッジにするのが普通です。




小説で書かれているようにヘミセクションは頻度は余り多くはない治療法の一つですが、“めったにない治療法“というほどではないというのが正直なところです。
このヘミセクションですが、本来あるべき大臼歯の半分がないわけですから残っている歯に相当の無理を強いているのは事実です。実際、ヘミセクションを行った経験からしますと、ヘミセクションを行い、ブリッジ処置を行なった歯には定期的に検診を行い、チェックをしていく必要があります。放置していると、後日、せっかく残した根っこを抜歯しないといけないことになってしまいます。
一見すると、ヘミセクションは妙案かもしれませんが、それ故、処置後にはかなり慎重に経過を観察していかないといけない手術法なのです。



2007年01月19日(金) しゃっくりを止めるには?

誰もが何度も経験したことがあるしゃっくり。一度起こるとなかなか止めることができず、難儀したことが二度、三度ではないのではないでしょうか?僕も幼少の頃からしゃっくりが出ては止まらず苦労をしたことがあります。しゃっくりを止めるために、深呼吸をしたり、氷砂糖をなめたり、水の入ったコップを反対側から飲んだりものです。
先日、僕は地元歯科医師会の先生からしゃっくりに関する勉強会に参加した先生からしゃっくりのことを教えてもらいました。はっきりいって目から鱗が落ちたような、新鮮な驚きに満ちた内容でした。

しゃっくりとは横隔膜の痙攣ということが言われていますが、生理学的には横隔膜の痙攣だけでしゃっくりは起こらないそうです。必ず横隔膜の痙攣と連動して声帯を閉じる運動が生じないと“ヒックヒック”という音が出ないのです。
このしゃっくりですが、あくび、咳、くしゃみと同じように一種の反射運動で、自分の意思でコントロールできないものなのです。
これまでしゃっくりのメカニズムは解明されていなかったようですが、最近になって反射中枢が延髄に存在することが解明されたのだとか。専門的な話になりますが、何らかの刺激が咽頭にあると咽頭に分布する舌咽神経が延髄に信号を伝え、その信号が横隔膜を支配する横隔神経と声門を支配する迷走神経に伝わり、それぞれ痙攣や声帯を閉じるような動きが生じる反射運動になるのだそうです。
しゃっくりそのものは、GABA(ギャバ)という神経伝達物質が抑制し、普段しゃっくりが起こらないようにコントロールしているのですが、何らかの理由でGABA減少するとしゃっくりが発生すると考えられています。
しゃっくりは男性に発症することが圧倒的に多く、男女差は50:1なのだそうです。

しゃっくりは、どうも動物の進化と大いに関係があるようです。生物は魚類、両生類、爬虫類、哺乳類と進化しますが、魚類はえら呼吸、爬虫類以上の生物は肺呼吸です。両者の中間にあたる両生類ですが、この両生類はどうかといいますと、両方の呼吸が混在しています。カエルを例に考えてみると、カエルはおたまじゃくしでは水中でえら呼吸ですが、成長すると肺呼吸をします。おたまじゃくしの体の中では徐々に肺の発生やえらの退化が起こっているはずで、肺が形成されても、えら呼吸の時には肺の中に水が入らないようコントロールする必要があるのだとか。
横隔膜は吸うか吐くしかできないので、水の浸入を防ぐため、入り口にフタをするのが声帯であるとのこと。すなわち、声帯は原始的には声を出す器官ではなくて、空気の通る道を塞ぐための器官だと言われているのです。人間も進化してきていることを考えると、かつての魚類や両生類の呼吸パターンを潜在的に持っていると考えても不思議ではないそうです。
その証拠の一つが赤ん坊です。妊娠している女性は赤ん坊がお腹の中でしゃっくりするのに気付くそうですが、赤ん坊はお腹の中でかつて人間が進化してきた道を辿ります。受精卵から魚類、両生類、爬虫類、哺乳類といったような進化を辿るのですが、赤ん坊が妊娠している女性のお腹の中でしゃっくりするのは、どうもこの進化のなごりのようなところがあるとのことです。
また、生まれた赤ん坊がミルクを飲むためにしょっちゅうしゃっくりを起すのは、胎児の時の反射が残っているせいなのだとか。

それでは、一度出たしゃっくりを止めるにはどうすればいいのでしょう?
一つは、舌を乾いたガーゼでつかみ、30秒ぐらい強く前方へ引くのだとか。痛いから止めてくれと患者さんが涙を流すくらい強いのがいいのだそうです。この方法は有効なのだそうですが、人前ではできないのが欠点です。

フォーマルな場所では外耳道、すなわち、耳の穴の中に指を入れ、両側から強く力を入れて30秒ほどを押さえることが有効なのだそうです。強く力を入れるというのがみそで、これもほとんどの人が苦痛であえぐぐらいの相当な力が必要なのだとか。

他に咽喉に指を突っ込んだり、チューブを入れたりして咽頭を刺激すると止まることが多いそうですが、おそらく先ほど書いた反射経路の問題とリンクしており、何か物理的な変化、変形がからむと反射が止まるのではないかということのようです。

そんなしゃっくりですが、1週間以上続くようであれば、専門医に診てもらった方がいいとのこと。
よく“しゃっくりが3日続くと死ぬ”という言い伝えがありますが、これは言い伝えに過ぎないようです。実際のところ、1週間以上続く慢性しゃっくりの中には、中枢神経疾患、上部消化管、呼吸系などどこかに疾患が隠れているような可能性があるようで、専門医による精査、治療が不可欠なようです。


以上のようなことを教えてもらったわけですが、医療関係者でもしゃっくりのことは知っているようで知らない人が大半です。今回、某先生に教えてもらったことは非常に有意義な情報で、これからしゃっくりで悩んでいる人に適切なアドバイスが与えられるような感じた次第。



2007年01月18日(木) 考えるな、想像するのだ!

先日、テレビを見ているとある有名な寿司職人のインタビューが放映されていました。僕は食通でもグルメでもなんでもないため、寿司業界のことは何も知りませんが、この寿司職人はかなり著名なすし職人の方だったようで、各界の有名人がこぞってこの方の寿司を食べに来るのだとか。自分の店での寿司の値段は時価というぐらいですから、その方の実力が思い知らされるところでもあります。

この寿司職人がインタビューの中で非常に興味深いことを語っていました。

「美味しいと言われる寿司を作るには出来上がった時の寿司のことをイメージしながら作らないとだめだ。漫然と作っていてはいつまで経っても美味しいと言われる寿司は作ることができない。」

どんな業界の方でも極めている方の言われることは共通点が多いなあと感じているのですが、今回のインタビューに出演していた寿司職人のコメントには非常に思い当たるところあります。医療業界でも全く同じことが言えるからです。

僕が研修医時代のことです。僕がある患者さんの神経の治療を終えた直後のことでした。僕の指導教官の一人が僕を呼び出しました。

「君は患者さんの根管治療(神経の治療のことです)をしている際、どんなことを考えながら治療しているのだ?」

思いもしなかった質問に僕は答えに窮しました。そうすると指導教官はこのようなことを言ったのです。

「常に患者さんの治療している歯のことを思い浮かべることだ。歯は前歯から大臼歯に至るまでそれぞれ形が違う。その上に個人差もある。実際に自分の目で患者さんの歯をよく観察し、どのような形なのか想像することだ。そして、レントゲン写真を参考にしながらどのような歯髄(神経のことです)の形をしているかイメージするのだ。まっすぐの形なのか、彎曲しているのか?もし彎曲しているならどのような具合か、立体的イメージを常に持ちながら治療をすることだ。何が何でも歯髄を取るということしか考えていないと、失敗の元になる。常に自分が治療をする歯のことをイメージし、そのイメージを元に治療をすること。これが基本だ!」

総入れ歯の治療をしている時のことでした。僕は患者さんの歯型の模型を持って別の指導教官の下で指導を受けていました。その際、その指導教官は
「総入れ歯を作る際、最も大切なことは何だと思う?それは、最終的にどんな総入れ歯が患者さんに入るか、最終的な総入れ歯の色、形を明確にイメージすることだ。歯型を取る際、噛みあわせを調べる際、人工歯をならべ歯並びを点検する時、自分が最初にイメージしたものと実際に出来上がったものが合致しているかどうかを常に確かめるのだ。何もイメージしないで行き当たりばったり入れ歯を作ったとしても、決して患者さんが満足いく入れ歯を作ることはできない。もし、古い入れ歯があるなら、その入れ歯の長所、短所を徹底的に調べることだ。そして、残すべきところは残す、改善すべきところは改善する。そのような診査、診断ができて初めて新しい入れ歯を作ることができる。初診時、最終的に装着する入れ歯の姿を思い浮かべること。これができるようになれば一人前だ。」

僕の指導を受けてきた先生たちは皆異口同音に治療後のイメージを最初に持つことが大切であることを訴えていました。僕自身、このことが今できているか正直言って自信はありませんが、よりよい歯科治療を提供するために常に最終的な治療完成イメージを持つようにして治療を心がけているつもりです。

かつて、ブルース・リーは出演した映画の中でこんなことを言っていました。

Don’t think. FEEL!(考えるな、感じるのだ!)

ブルース・リーではないですが、理想の歯医者になるためにはさながらこのようなことが極意なのかもしれません。

Don’t think. IMAGINE!(考えるな、想像するのだ!)

あすなろ歯医者の独り言ですが。



2007年01月17日(水) どうしても忘れられない阪神淡路大震災

昨日、午前中の診療を終え、後片付けをしている時のことでした。突然、外から“ゴー”という音が聞こえるや否や診療所の建物がわずかに揺れました。時間にしてわずか数秒の出来事でした。震度1にも満たない揺れだったかもしれませんが、僕はどうしても身構えてしまいます。どうしてのあの時のことが思い出されて・・・。

あの時から今日で12年経ちました。平成7年1月17日午前5時46分。当時僕は28歳でまだ独身でした。この時間帯、僕は寝床にいたのですが、目を覚ましぼんやりと天井を見ていたのです。その時、“ゴー”という地響きが聞こえるや否や突然家全体が揺れ始めました。最初は突き上げるような衝撃があり、その後、家全体が揺れ始めました。しかも、その揺れが尋常の揺れではありませんでした。家の柱が左右に揺れ、振動しているのです。机や本棚からは本やノート、CDやビデオなどが落ちてきます。そのいくつかは僕の顔を直撃しました。僕は避けることができませんでした。避けるどころか動くことができなかったのです。地震が起これば机の下に隠れろと言われていましたが、不意に大きな揺れに遭遇すると、動こうとしても何も動くことができない。そのことを実感しました。

“このままでは家が潰れてしまう!僕の命はどうなるんだ!神様、何とかしてくれ!”

後から考えると実に情けないとは思うのですが、自然が起す大天災に対し如何に無力であるかということを思い知った瞬間でした。僕は死をも覚悟しました。
大きな揺れは数十秒続き、やっとのことで止まりました。九死に一生を得たとはこのことを言うのかと僕は安堵の息をしたものです。僕は直ちに停電になっていた我が家から電池つきラジオを探し出し、ラジオを聴くと神戸を中心とした阪神方面で壊滅的な被害が出ていることがわかりました。
死者数6400余名を出した未曾有の阪神淡路大震災でした。

今から思えば、阪神淡路大震災によって阪神淡路地区の人たちの生活は一変したはずです。
避難人数 : 30万名以上、全壊住家10万5千棟、半壊住家14万4千棟、一部損壊39万棟、火災被害7500棟、道路被害10000箇所、橋梁被害320箇所、河川被害430箇所、崖崩れ378箇所、被害総額10兆円 等々、これら被害の実態がその証拠です。

僕の周囲の環境も激変しました。僕の家そのものは壁にひびが入ったものの何とか持ちこたえましたが、周囲の家の中には半壊、全壊の家がいたるところに出ました。僕がよく知っていたはずのいくつもの光景はむざんにもその姿を一変させていました。過去のいくつもの思い出が一瞬にして無くなったかのようなむなしさを感じざるをえませんでした。
友人、知人の中には帰らぬ人になった人が少なからずいました。僕はいくつもの涙を流さざるをえませんでした。
命は助かった僕でしたが、阪神淡路大震災は、僕の人生も大きく変えるものとなりました。平成9年の4月から僕が仕事をする予定であった病院は阪神淡路大震災によって大被害を受けたからです。その施設では復旧作業で奔走しており、僕を受け入れる余裕などありませんでした。そのことは仕方のないことだとは思いましたが、僕はどのような人生の選択をすべきか考え直さざるをえませんでした。今から思えば、このことはその後の僕の歯医者人生を大きく左右することになったのですが、当時の僕はそのようなことを考える余裕もなくただ絶望するだけだったのです。
そんな時を何とか乗り越えられたのは、友人、知人、そして、家族の温かい励まし、支えでした。ともすると落ち込んでしまう僕を精神的にサポートしてくれた人たち。どれだけ僕は勇気づけられたことでしょう。彼ら、彼女らのことは一生忘れまい。そう心に強く誓っています。

最後になりますが、阪神淡路大震災から12年経過した今日、僕は阪神淡路大震災で被害に遭い、鬼籍に入られた6400余名の方々に哀悼の意を捧げたいと思います。

合掌



2007年01月16日(火) 現場を見たがらない世代?

先日、ある恩師の先生と話をする機会がありました。この恩師のW先生は僕が高校時代大変お世話になった恩師なのですが、高校卒業以降もお世話になり続け今や20年以上の付き合い。僕が歯医者になってからは僕をかかりつけ歯科医として定期的に歯の治療に訪れてくれる患者さんでもあります。
そんなW先生ですが、話の中で僕はこんなこと尋ねられました。

「そうさんは、僕が電話で歯のことを相談する時、いつもはっきりと答えるということはしないね。」

僕は答えました。

「確かにそのとおりです。それには理由があります。W先生に限ったわけではないのです。時々僕は歯や口の中のことで相談を受けることがあるのですが、自信を持って答えることができないのです。なぜなら、僕自身が相談者の口の中を実際に診ていませんから。
全く相談者の言われることを信用していないというわけではありません。相談者の言われることは診断をする上で非常に大切な情報の一つではあります。けれども、相談者が言われていることと実際の口の中の状態に違いがあることがあるのです。
例えば、下の親知らずが痛いと訴えられていたけれども、実際は上の親知らずが伸びてきて下の親知らず周囲の歯肉を噛んでいたことが原因だったなんてことがあるわけです。このような場合、いくら下の親知らずの治療をしていても症状は治りません。上の親知らずを処置、多くの場合は抜歯ですが、しないと症状は治らないのです。
このような例は結構あるもので、実際に患者さんが感じられる症状と実際の原因とが食い違っているということなのです。電話やインターネットなどでよく医療相談がありますが、僕自身がこの手の相談に消極的なのは自分の目で相談者の口の中を確かめることができないからなのです。相談を受けるからには責任を持って答えないといけない義務があります。ところがそれができないとなると、相談者に対しては一般論しか話すことができません。
W先生からの相談の場合も同様で、実際にお口の中を診ないかぎり、僕は自信をもって、責任をもって相談に答えることができません。先生にはそのことを理解して頂きたいのです。」

このことを説明すると、W先生は大いに頷かれました。

「いやいや、そうさんの言うことは尤もなことだよ。僕はちょっとしたことにもこだわる性格だからちょっと口の中で何か違和感があると直ぐにそうさんに電話してしまうんだけど、いつも実際に見せて欲しいと言われていたからね。そうさんのようにしてもらうと助かるよ。」

この話の流れでW先生は最近感じられたことを話されました。

「全ての30歳代の人というわけではないだろうけど、僕の周囲にいる30歳代の人の多くって共通の特徴があるんだよ。それは、実際に現場を見ないで話をするという特徴なんだね。何か事が起こるとするだろう。僕なんかは事が起こった現場を見たり、関係者に話を聞いたりしながら何が原因か探すことが当然だと思うし、僕自身これまで実践してきたんだよ。ところが、僕が最近接している30歳代の人は、問題が起こって僕が指摘をしても、何も動こうとしないんだよ。
『これは大丈夫なようにできているはずだ』とか『トラブルマニュアルが完備されているから問題ない』とか言い切るんだ。現場に足を運ぼうとする意思すらない態度を示す人が多いんだよね。僕だけの周囲の話かと思って友人、知人に尋ねてみたら、皆異口同音に今の30歳代の人に対して同じような思いを言っているのよ。その結果、事態は好転するどころかむしろややこしくなって、場合によっては解決するのが困難なケースが多くなっているらしい。」

にわかに信じがたい話ですが、考えてみれば思い当たる節もあります。最近の政府の様々な政策などは、現状を全く無視し、特定の業界の意向にだけ沿ったものが数多くあります。その背景には政策立案者が現状を、現場を見ず、知らず、足を運ばず、把握しないまま、自分たちの思い込みだけの都合のよいシミュレーションを元に政策を立案しているとしか思えません。
このような政策立案をしているのは、多分に30歳代の官僚が大きなウェートを占めているのは間違いありません。去年、物議を醸し出した身体障害者自立支援法、今議論になっているホワイトカラーエグゼプションという横文字の残業代廃止法案などは全く現状を、現場を知らない官僚が政策立案しているのではないかと思わざるをえない法案で、机上の空論に過ぎないのではないでしょうか。以前から官僚は社会の現状、現場を知らないというころが言われていますが、今はその傾向がますます強くなってきているかもしれません。

現場を知らずして物事を語る輩が多い世の中。この先、どんな世の中になっていくのでしょうか?想像するだけでも怖いです。



2007年01月15日(月) 携帯メールは親展ではないか?

歯医者稼業をしていると、他の医療関係者と患者情報、医療情報のやり取り、交換を行うことがあります。その際、主たる手段として手紙でやりとりをするのですが、この手紙は親展です。すなわち、宛先の先生以外は内容を知られてはならない、手紙の内容を読んでもいけないものです。理由は簡単です。患者さんの個人情報をやり取りしているからです。医療上の正当な理由が無い限り、手紙の内容を他人に公表すれば刑法や個人情報保護法に抵触するのは明らかです。

このような手紙の親展に関することは何も医療だけの話だけではありません。他人宛の手紙を勝手に封を切り、中身を見てしまうということはあってはならないことなのです。いくら微妙なやり取りであったとしても、関係者以外が手紙の内容を見ることは礼儀に反することであるはずです。
それでは、手紙に代わり他人との情報伝達に欠かせない手段となってきたメールはどうでしょう?僕はメールも手紙と同じだと思うのです。すなわち、メールも親展が基本ではないかと思うのです。
送信者は受信者を指名してメールを送るわけです。決して受信者以外に内容を知ってほしくない、公開することを前提としていないはずです。そのことを無視して、他人がメールを覗き見することは公序良俗に反する行為ではないでしょうか。

最近、よく見聞きする中で、友人宛、知人宛、家族宛のメール、中でも携帯メールを本人の了承なく覗き見て、自分が知らなかった情報を知るきっかけになり、そのことが元で人間不信に陥り、取り返しの付かない事態、修羅場に陥るケースが多発しています。以前から自分が関係しないところ、自分のあずかり知らぬ所でおかしく感じていることがあった。何か隠し事をしているのではないか?そんな思いから、つい自分と親しい人の携帯メールを本人の許可なく覗いてしまい、秘密を知ってしまう。その秘密が自分との信頼関係を大いに裏切るものであり、どうしても我慢できず親しい人と衝突してしまう。こういった話は枚挙にいとまがありません。

いろいろと意見はあることでしょう。自分の親しい周囲に対し、隠れてやましいこと、知られたくないことを行っている方が悪いと指摘する意見もあることでしょう。携帯メールを見て確かめたいと思ってしまうような挙動不審なことを起す方が悪いという意見があることは承知しています。
また、メールを覗き見られることを前提として、都合の悪いメールを消去しない、履歴を残さないといった手段を講じない方が悪いと言われる方もいることでしょう。これはこれでいろいろと問題があることでしょうが・・・。

こういった意見があることを承知で僕は敢えて言いたいのですが、どんな理由があるにせよ、携帯メールは本人の了承無しに覗き見することは間違っていると思うのです。携帯メールが親展であると考えれば、それを本人の了承無しに覗き見た時点で、これまで築き上げてきた人間関係を自ら壊していると言っても過言ではない。本人の了承無しに携帯メールを覗き見る行為は、自らが親しい家族、知人、友人、恋人を信用していないことを宣言してしまっているように思えてなりません。
世間では、携帯メールを覗きみた時点で家族や周囲の人の様々な事情が明らかなり、その人に対し不信感をもったという話が数多くありますが、それ以前の話として、勝手に人の携帯メールを見るという行為の良し悪しの問題が棚上げされているようなケースが多いように思えてなりません。互いを信頼、信用している間柄であれば、互いの携帯メールを覗き見ることは決してやってはいけない行為ではないでしょうか?親しき仲にも礼儀ありと言います。携帯メールにもこのことが大いに当てはまると思うのです。

もし、どうしても他人の携帯メールを覗き見するのであれば、その人との人間関係を壊す、取り返しのつかないことになっても後悔しないという強い気持ちを持たないとやってはいけないと僕は考えます。



2007年01月13日(土) 入れ歯を上手に使うには?

誰しも自分の歯を失いたくないものですが、不幸にしてむし歯や歯槽膿漏で歯を失った場合、何らかの処置を施さないといけません。失った歯の本数が少なければブリッジができます。また、自費治療ではあるもののインプラントという手もあるでしょう。
多数の歯を失ったり、全ての歯を失った場合には入れ歯となります。実際のところ、多くの高齢者は入れ歯をはめておられているのが現状です。今日はそんな入れ歯の取り扱いについて注意すべき代表的なことをいくつか挙げていきたいと思います。

1.入れ歯は徐々になれていくべきもの
初めて入れ歯を入れる人に多いのですが、入れ歯をセットしたら直ぐにでも何でも食べることができると思われるかもしれません。これは間違いです。入れ歯はそれぞれの患者さんの口の中に合わせてつくっているオーダーメイドではありますが、同時に異物でもあります。自分の生まれ持っていた歯と同じように噛もうとしてもうまくいかない場合がほとんどです。最初は食べやすいものを選ぶこと、小さな柔らかい食べ物から順番に食べていくようにしていく必要があります。
その中で、噛みあわせがうまくいかなかったり、歯肉に痛みが生じたりする場合が出てきます。このような場合、歯医者が調整をしないと治りません。入れ歯が痛いからといってはずしていると、確かに入れ歯によって生じた傷はなおりますが、入れ歯を入れ直すと再び痛くなるという繰り返し。入れ歯をセットしてからは必ず何度か歯医者にかかり、調整してもらい、自分の口の中の状態、機能にあった入れ歯になじませていく必要があります。
また、よくあることなのですが、入れ歯が噛めないからといって噛める方の側だけで食べる人もいますが、口の中は左右均等に噛むべきものなのです。どちらか一方でかんでいると、かみ合わせのバランスが狂い、そのつけが顎に生じる場合もあります。注意が必要です。

2.入れ歯は優しく取り扱うもの
総入れ歯は別として、部分入れ歯の場合、クラスプという歯にひっかける金具が必ずついています。部分入れ歯を着脱する際、このクラスプを着実にひっかけるべき歯に適合させ、ゆっくりと着脱するようにして欲しいと思います。患者さんの中には、部分入れ歯を途中まで入れたら噛んでセットする人がいますが、これは止めて欲しいと思います。無理して噛んで部分入れ歯をセットするとクラスプそのものが曲がったり、破損したりすることになりかねません。

3.入れ歯はセット後、定期的に歯科医院で点検を
先ほども書いたことですが、口の中の状態に合わせてつくった入れ歯ではありますが、人工物でもあります。極端な話、入れ歯は複雑な形をした一枚の板とも言えます。顔の形が時間と共に変化するように口の中も時間経過とともに変わります。ところが、入れ歯は作った時の口の中の状態には合っていますが、経時的変化にはついていけません。その結果、入れ歯がはずれやすくなったり、噛むと痛くなる、入れ歯の裏側に食べかすが入りやすくなったり、入れ歯にひびが入ったり、割れたりすることになるのです。入れ歯は、最低6ヶ月に一回は歯科医院で点検を受けるようにしてほしいものです。入れ歯の症状がないような場合でも実際に歯医者が診れば、大きな問題、支障が生じている場合もあります。転ばぬ先の杖といいます。入れ歯は作ったら終わりというものではなく、定期的なチェックを歯科医院で受ける習慣を身に付けて欲しいと思います。

4.入れ歯の手入れについて
最後に入れ歯の手入れについてですが、通常の歯磨きと同様、食後には必ず入れ歯をはずして入れ歯を清掃して欲しいと思います。流水のもと、入れ歯専用の歯ブラシを用いて磨くようにして下さい。部分入れ歯の場合、入れ歯だけでなく、残っているご自身の歯も忘れずにきれいに磨かなくてはいけません。入れ歯を装着している人は入れ歯を装着していない人に比べむし歯や歯周病にかかりやすいのです。
入れ歯の清掃剤ですが、使用しても使用しなくてもいいと思います。大切なことはどんな方法、どんな薬剤を用いようとも確実に入れ歯の汚れを除去することです。入れ歯の清掃剤だけで入れ歯の汚れが取れるわけではありません。あくまでも入れ歯用歯ブラシと併用して効果的に入れ歯の汚れを取り除くようにして欲しいと思います。

就寝時、入れ歯ははずして寝るようにしましょう。入れ歯をつけたまま眠ると入れ歯にばい菌が繁殖し、口の中が非常に汚れる元になります。また、入れ歯と接している歯肉は入れ歯を装着していると常に圧迫を受けています。せめて眠っている間はこの圧迫を取ってやり、粘膜に休息を与える必要があります。そういった意味で、眠っている間、入れ歯ははずして欲しいと思います。
はずした入れ歯は乾燥を防ぎ、湿箱のような中で保管して下さい。入れ歯は乾燥させると材質の関係で割れてしまいます。通常は口という適度な唾液の湿り気のある環境で装着しているわけですから、入れ歯をはずしている時も同様の状況で保管する必要があるのです。

最後に入れ歯の安定材についてですが、入れ歯の安定材は基本的には使用するべきものではありません。入れ歯の安定材が必要な時は入れ歯が落ちやすかったり、安定しなかったり、噛むと痛みが生じるような時です。このような場合、入れ歯そのものを調整する必要があります。入れ歯に何か不具合が生じた場合、下手に入れ歯安定材に頼らず、お口の専門家である歯医者の元を訪ね、入れ歯を調整して欲しいと思います。もし、患者さんが動けなかったり、寝たきりの場合、歯医者も往診することができます。近所の歯医者さんに往診が可能かどうか問い合わせをした上で、往診治療で入れ歯の調整をしてもらうという手があります。ただし、往診の場合、保険治療でも治療費は通常の場合に比べ高額になることは覚悟して欲しいと思います。



2007年01月12日(金) 飲酒運転防止装置付き自動車開発で思ったこと

年明けのことですが、ネットサーフィンをしているとこのようなニュースが流れていました。

トヨタ自動車は、運転前にハンドルに備え付けられた特殊なセンサーで運転手の手のひらの汗の成分を分析し、血中アルコール濃度を測るようにするのだとか。アルコール濃度が一定量を超えるとエンジンがかからないようにするのだそうです。
また、発進と同時に運転手の目の瞳孔を社内カメラで撮影し、瞳孔の焦点が定まっているか確認するのだとか。ハンドル操作から蛇行運転などがないかをチェックするそうです。これら複数の運転手の情報から飲酒運転でないかどうかを車自身が判断し、飲酒運転に該当するようであれば、車は自動減速して停止するのだとか。
これまで先行して開発されている呼気でアルコール濃度を測定する装置と異なり、運転手の状況を確実にチェックでき、特別な動作も必要でないことが特徴で、飲酒運転による事故を防止する技術開発にはずみがつくとのこと。

昨年、道路交通法による改正で飲酒運転に対する罰則が強化されました。また、来春にはさらに飲酒運転に対する罰則が厳罰化されそうです。このことは、昨日のここでも取り上げられていました。
確かに一頃に比べれば飲酒運転による事故は減少しているのは事実で、道路交通法改正による効果が出てきているのは確かです。恥ずかしい話ですが、以前であれば呑み会に車で参加しても、酒を飲むことに関して咎められることはありませんでしたが、今では酒を勧めた者に対しても処罰の適用となっていることから、車で呑み会に参加した時はアルコールを飲まなく済むようになりました。以前であれば
“ちょっと一杯くらいいいだろう?”とか“酔いを醒ましてから帰ればいいじゃない”と言われたものですが、今ではそのようなことは言われなくなりました。
また、代行運転などのサービスが普及し、車で呑み会に参加しても金さえ払えば自宅まで自家用車を運んでくれることもできるようになりました。
現実はどうかというと飲酒運転による事故は減りこそすれ、依然として多くの飲酒運転事故が報告されているのは皆さんご存知の通りです。罪を厳罰化しても飲んで運転する輩は確実に存在しているのです。
そんな輩が酒を飲んで車を運転しようとしても、運転できないようにする画期的なシステムの開発が自動車業界で急ピッチで繰り広げられているようで、世界の自動車界をリードするトヨタ自動車が開発に乗り出したことで、この流れは更に加速することが予想されます。飲酒した輩がハンドルを握っても車が動かない。そんな時代がもうすぐそこに来ている。

このシステムが全ての車に導入されるならば、飲酒運転による事故は激減することでしょう。中には改造する輩によってこういった飲酒運転防止装置が改造され、飲酒していても運転できる車が闇で売られるような時代がくるかもしれないくらいです。

飲酒運転を無くすにはここまでしないといけないのかもしれません。飲酒運転による事故で犠牲になった方の無念を考えると、飲酒運転撲滅は至上命題と言っても過言ではないかもしれません。
その一方で、僕は何か違和感を覚えます。それは、人間というのは信用されないものなのだろうかということです。
かつては、飲酒運転に対し寛大である社会風潮もありました。これはよくないことであったとは思います。飲酒運転をしてはいけないのに飲酒し運転をしてしまう輩も、本人に自覚がないし、理性があるとは思えません。理性がないような輩のために飲酒運転防止装置の付いた自動車が普及する。一見すれば飲酒運転撲滅のためにいいのかもしれませんが、人間の理性、判断力を発揮する機会が失われてしまう、強いていれば人間が状況判断し、行動すること事態が否定されてしまう世の中に進んでいってしまうのではないか?僕はそんな一抹の不安を感じるのです。
飲酒運転防止技術が他に応用され、為政者の中に悪賢い者がいれば、自分の都合のよい社会に作り上げてしまわないかという危険を感じます。町中至る所に為政者による監視の目が光り、逆らう者がいれば瞬時に感知し、しょっぴかれる世界。人間の主体性、多様性が根本から否定される社会。考えてみただけでも恐ろしく感じるのは僕だけでしょうか?それとも、考えすぎなのでしょうか?



2007年01月11日(木) 力は必要ない

先日、某所でこのようなことを言われました。

“歯医者の仕事は力が必要なのではないか?”
患者さんとして歯医者に通った経験のある人の中には、歯を削られたり、抜歯をされたりした際、相当強い力が歯や口の中にかかっているように感じられたのかもしれません。
果たして歯医者の治療は力仕事なのでしょうか?

僕は、歯医者の仕事は決して力を必要としない仕事だと感じています。全く力が要らないというわけではありません。必要最低限の力は必要ではあるのですが、決して力づくの仕事ではないのです。
歯医者は様々な機械、器具を利用して治療を行います。これら機械、器具の特性を理解し、効率よく使いこなすことができれば、決して力を必要とすることはないはずなのです。
例えば、歯を削る機械にタービンというのがあります。“キーン”という高音を発して歯を削る機械のことです。このタービンにはダイヤモンドの細かい粉末をまぶしたバーをセットし、一分間に20万回転〜40万回転という高速回転させながら歯を削るのです。バーを一分間に20万回転〜40万回転という高速回転させると、相当の回転力が働きます。歯を削るのはこの回転によって生じた力を利用すればいいのです。すなわち、高速回転しているバーの付いたタービンをそっと目的とする歯に接触させる。それだけで歯を削ることができるのです。タービンを力一杯握って削る必要はないのです。
抜歯の場合も力は必要としません。抜歯に必要な器具としてへーベルと呼ばれる器具と鉗子と呼ばれる器具があります。これら器具はてこの原理を利用すれば、決して力を要れずに抜歯することが可能なのです。もし最低限の力で抜歯できない場合、それは根っこが曲がっていたり、根っこが骨と癒着していたりすることが考えられますので、それなりの対策を講じるきっかけにもなるのです。
神経の処置も同様です。リーマーと呼ばれる器具を用いて神経を除去していくのですが、力がかかるような場合、根っこが曲がっているようなケースであり、無理をして力を入れて治療をしているとリーマーが根の中で折れてしまう可能性が高くなります。力がかかるような場合、リーマーに相当な力がかかっている信号を意味し、操作に注意しなければならないのです。

力を必要としない歯の治療ですが、それには前提となることがあります。それは姿勢です。背筋を伸ばし、腰を入れる。猫背にならないように姿勢を保つ。そして、視線を一本の歯だけでなく口や顔を含めた全体にも向ける。このような心がけが無駄な力を体に要れず、最低限の力で歯科治療を行うことにつながるのです。力を入れない治療は正しい診療姿勢が基本なのです。正しい診療姿勢であれば決して腰を痛めることもありませんし、肩がこるようなこともありません。腰を痛めたり、肩がこるということは姿勢や無駄な力を入れている証拠ではないかと思います。

僕自身、常に力を入れない診療を心がけています。力を掛けないことは自分の診療姿勢を安定化させ、効率のよい治療につながります。また、治療を受ける患者さんにとっても無駄な力が入っていない診療は安心感を与えるものになるのではないでしょうか。
僕が尊敬する歯医者は、皆美しい診療動作をしています。姿勢が正しく、無駄な力、無駄な動きがないからです。僕もそんな美しい診療姿勢を目指していきたいと考えています。



2007年01月10日(水) 有名人口元チェック 松坂大輔選手と宮本恒靖選手

日本人プロスポーツ選手が活躍を海外の場に移すことはもはや珍しくなくなってきました。中でも際立っているスポーツは野球とサッカーでしょう。
野球に関しては野茂英雄投手がアメリカ大リーグに挑戦し、成功を収めて以来、佐々木主浩投手やイチロー選手、松井秀喜選手ら日本プロ野球界でトップ選手から中堅クラスにいたる選手まで枚挙にいとまがないくらいです。サッカー界においても日本チームがワールドカップに出始めた10年前くらいから海外に移籍する選手が増え始めました。実際に活躍している選手は野球ほどではありませんが、それでも中田英寿選手、小野伸二選手、中村俊輔選手などはチームの中心選手として活躍するようになりました。

今シーズン(といってもサッカーは既にヨーロッパではシーズンに入っていますが)も野球界、サッカー界ともに海外チームに移籍する選手がいます。その代表として、野球界からは松坂大輔投手、サッカー界では宮本恒靖選手がいます。

移籍金と契約金を合わせ120億円以上の金が動いたかということが言われている松坂大輔投手。日本を代表する投手であることは誰もが認めるところですが、移籍に伴って動いた金があまりにも高額であったことから様々な論議が生じたことは誰しも記憶に新しいところです。
そんな松坂選手の写真を某雑誌で見たのですが、彼の口元を見て僕は“あれっ”と思いました。何かが変なのです。何が変なのだろうと思いながら詳細に彼の口元を見ていると謎は解けました。
実は、松坂選手は上の前歯が一本足りないのです。一番前の中切歯と呼ばれる前歯と犬歯との間には側切歯という歯があるのですが、松坂投手の場合、右上の側切歯がないのです。すなわち、松坂投手の前歯は一番前の中切歯の直ぐ右に犬歯が並んでいる歯並びなのです。松坂投手のレントゲン写真を見たわけではないので詳しいことはわかりませんが、松坂選手は本来生えるべき右上の側切歯が生まれつき無いか、または、埋まったままの状態で生えていないか、もしくは何らかの理由で抜歯してしまったかいずれかに該当するのではないかと思いました。中でも可能性として高いのは生まれつき右上の側切歯がないことでしょうか。

本来生えるべき歯が無いことを専門的には先天性欠如といいます。略して先欠なんて呼ぶ場合が多いです。松坂選手のような側切歯や第二小臼歯、親知らずに先欠が多いのです。口腔解剖学の本によれば、側切歯の場合、確率的には100人のうち2人程度かそれ以下なのだとか。
この先欠ですが、歯並びが乱れる原因の一つになるかもしれませんが、多くの場合、先欠の歯があっても歯並びはそれなりのバランスを保ち、かみ合わせもそれなりのバランスを保っていることが多いの実情です。治療の対象となるようなケースが多くはないということが言えると思います。
松坂選手の場合も歯は足りないものの他の歯によって歯並びのバランスが保たれているような口元のように思いました。敢えて治療をする必要はないように感じた次第。

宮本恒靖選手は、端正な顔立ちと落ち着いた言動からサッカー界のみならずいろんなコマーシャルの広告塔として活躍している選手です。この宮本選手ですが、日本と韓国で開催されたワールドカップ直前に鼻中隔を骨折し、整復後、顔面を保護するためにバットマンのようなプロテクターを装着していたことは有名です。実は、昨年の年末、宮本選手はサッカーの天皇杯の試合中、相手選手の肘打ちが顔面に入り、前歯を損傷し、歯の治療を受けていました。プロのサッカー選手の場合、審判の見ていないところでの顔面肘打ち行為は結構あるようで、以前にも中村俊輔が相手選手からの肘打ち攻撃で前歯を損傷していました。
その後、宮本選手は歯の治療を受けたようですが、以降の天皇杯の試合中はマウスガードと呼ばれるプロテクターをはめながら試合をしていたようです。マウスガードとはボクシングや格闘技の試合で選手がはめているゴム製、シリコン製のプロテクターです。最近では、高校ラグビーの選手はマウスガードを装着することが義務付けられているようですが、サッカーの試合でマウスガードを装着するのは珍しいと思います。
彼の口元を見ていてもう一つ気が付いたのは、下の歯の歯並びです。宮本選手の下の歯の前歯が叢生と言われる状態でした。叢生とは歯並びが乱れていることを指す専門用語です。宮本選手は話す際、あまり口を大きく動かさない話し方なので下の前歯は見えにくいのですが、それでも注意深く見ていると、彼の下の前歯の歯並びが一列に並ばず、重なりあっているような歯並びが見えます。

海外に移籍するスポーツ選手は同じスポーツをするとは言え、今までとは異なった環境の中でスポーツをやっていくわけですから、何かと慣れるのに時間がかかることでしょう。けれども、彼らの実力があれば必ずしや海外でも活躍し、日本人選手の質の高さを世界に示してくれるのではないか?僕はそのように信じています。松坂選手と宮本選手の活躍に注目していきたいと思います。



2007年01月09日(火) 時に患者は身勝手なもの

世の中の多くの方にとって、歯科医院という場所なるべく近づきたくない、敬遠したくなる場所であるというイメージは強いとは思います。

“麻酔の注射が痛い”
“歯を削る機械の音が嫌”
“上から覗かれるのが気持ち悪い”
などなど歯科医院というのはどうしても避けたい場所であるのは仕方がないことかもしれません。
一方、実際に歯に問題が生じ、我慢できなくなるような状態になるとどうしても歯科医院へ駆け込まざるをえないのも確かです。
歯医者の本音として、歯が悪くなる前に一人でも多くの方が歯科医院を定期的に受診し、歯の健康維持に努めて欲しいものなのですが、実際のところ、何か問題が起こらないと歯科医院を受診する人が少なくありません。
世間での印象が必ずしも良くない歯医者ではあるのですが、歯科医院に来院する患者さんの中には、歯医者から見て明らかに首を傾げてしまいたい患者さんがいるものです。

先日のことでした。上の奥歯が痛いということでうちの歯科医院に駆け込んできた患者Tさんがいました。

“数日前から違和感があり、我慢していたが、前日の夜に痛みがひどくなり、夜も眠れなかった。何とかして欲しい。”
そのようなことを訴えておられました。Tさんの口の中を診てみると、上の親知らずに大きなむし歯がありました。
むし歯が深く進行し、神経にまで達しているような場合、通常は、神経の処置を行います。ところが、親知らずがむし歯であった場合、多くの場合は親知らずを抜歯します。その理由は、親知らずの位置にあります。親知らずは一番奥にあるために、歯を削ったり神経の処置を行うのが難しい場合が多いのです。また、仮に治療ができたとしても、一番奥にあるために歯磨きで汚れを取り除くことが難しく、後日再度むし歯になりやすいこともあるのです。そのため、親知らずがむし歯になった場合、抜歯することが多いのです。特に、むし歯が神経にまで達するような場合は、ほぼ抜歯するといっても過言ではないでしょう。
Tさんの場合、まさしくこのケースに相当しました。歯痛を取り除くには抜歯をしなければならないことを説明したのですが、Tさんは

「先生、歯を抜かずに痛みを取る方法はないですか?」
と言われるのです。
歯を抜くということに対する恐怖心が相当あったようですが、僕は上記のことを再度説明しました。この患者は痛い歯の部分を押さえながら、

「歯を抜かないで痛みを止めて欲しいのです。」
僕は抜歯の必要性を再度説明しました。そして、

「僕はあなたの症状を取り除くには抜歯が一番だと思います。どうしても抜きたくないというのであれば、痛み止めを飲んで我慢してもらうことになりますが、痛みが止まるとは限りませんよ。原因を取り除いていないわけですからね。ここは決断して下さい。」
しばしの沈黙が続きました。Tさんかなり考えられていたようです。そして、Tさんが出された結論は

「歯を抜かないで痛みを止めて下さい。」

僕はむし歯の穴を仮のセメントで塞ぎ、痛み止めだけを処方し、Tさんに帰って頂くことにしました。診療室を出る際、Tさんが僕に尋ねてきました。

「明日仕事なのですが、歯の痛みは止まるでしょうか?」

僕は痛みが止まる保障はどこにもないことを再度説明し、帰って頂くことにしました。


予約が詰まっていた忙しい時間帯にある若者の患者Kさんが急患として来院してきました。
このKさんも歯が痛いので何とかして欲しいということだったのですが、どうもKさんは受付で何度も直ぐに診て欲しい訴えていたようです。受付では予約の患者さんがいることから、何とかその合間に診ることを伝えたのですが、Kさんが何度も訴えることから歯の症状が相当ひどいように感じたらしく、僕と予約の患者さんの了承を得てからかなり早めの時間帯にKさんの処置をするよう段取りを組んでくれました。
Kさんの口の中を診てみると、下の奥歯に大きなむし歯があり、深く進行していることを確認しました。僕は、この患者さんに神経の処置をしないと痛みは治らない。今から処置を行うと2〜30分はかかることを伝えました。Kさん曰く

「先生、ちょっと急いでいるもので、痛みだけ取ってくれればいいですから。」

痛みをとる処置を行うのに2〜30分かかると説明したのですが、Kさんはどうもそのことがよくわからなかったようです。再度、説明したのですが、それでも急いでいるの一点張り。どんな事情があるのかわかりませんでしたが、この患者さん、少しでも早くうちの歯科医院を出たがっていたようです。けれども、歯痛は止めてほしいという希望。歯医者の本音としては、何とも身勝手な患者といったところです。
その一方で、予約の患者さんの合間に診療しているということで、予約の患者さんに対し迷惑を掛けているところもありました。そこで、僕は患者さんの意向を聞き入れ、むし歯の穴を仮のセメントで塞ぎ、痛み止めの薬を出すことで様子を見てもらうことにしました。

「これで歯痛は止まりますよね?」とKさん。

僕は言いました。
「歯痛が止まるという保障はありません。なぜなら、原因の歯の治療をしていませんから。あなたの意向を優先しましたけれども、専門家の目からみて歯痛が止まることを自信を持って断言することはできませんよ。」


これら二人の患者さんはその時以来うちの歯科医院に来院しません。どこでどうされているのかはわかりませんが、もう少し歯医者の言うことを素直に聞き入れ、処置を受けて欲しかったものだと思う限りです。



2007年01月06日(土) 歯科医一家死体切断事件で感じたこと

既に皆さんもご存知のことと思いますが、東京の渋谷の歯科医院兼自宅において女子大生の遺体が見つかった事件で、女子大生の兄である21歳の予備校生が逮捕されたという悲惨な事件が起こりました。

この事件ですが、まず僕が感じるのは、今回の事件の報じられ方です。各マスコミでは歯科医一家の事件という話題性、正月明けで事件が少ないということもあり大きく報じています。一見すると幸せに見えた裕福な歯科医一家に突然襲った殺人事件。被害者が歯科医一家の長女、加害者が歯科医一家の次男。格好のワイドショーネタになっても不思議ではありません。その裏にはどうみても歯医者に対する野次馬的な見方があるように思えます。日頃のねたみ、ひがみの裏返しのような報道のされ方されているように思えてならないのです。
確かに、今回のような事件に兄が妹を殺す、しかも、死体をバラバラにしてしまうまでの悲惨な事件は特異な事件といえるでしょう。それが歯科医一家で起こったわけですから話題性には富んだ内容になるかもしれませんが、これは何も歯科医一家に限った話ではなく、どんな家庭でも起こりうる話であることを僕は強調しておきたいと思います。

さて、事件そのものについてですが、僕はこのような悲惨な結果になる前に家族の誰かが、父親や母親、長男の誰かが何らかの手が打てなかったのかと思います。今回の事件の背景に一体どんな事情、背景があったのか、詳細はわかりませんが、おそらく、このような事態になるまでに家庭内では何度も何らかの救いを求めるシグナル、警告を発するシグナルがあったはずです。そのシグナルを結果的に無視してしまった。もしくは、知っていたとしても有効な手立てを打てなかったのは明らかです。
おそらく、兄と妹の確執は、昨日今日の問題ではありません。かなりの長期間にわたり作り上げられてきた確執でしょう。その背景には、二人の育ってきた家庭環境が影響しているのは間違いないことだと思われます。結果的に歯科医一家は、被害者の家族であり、加害者の家族という、取り返しのつかない事態となってしまったことに非常に残念でなりません。

少なくとも、次男は長女に対し取り返しのつかないことを犯してしまいました。次男は長女だけではなく、父親や母親、兄に対し、今後、殺人者の家族というレッテルを張っていかざるをえなくしてしまいました。これほどの親不孝があるでしょうか?
おそらく、今回事件があった自宅兼用の歯科医院は、経営が成り立たなくなるでしょう。誰も殺人が行われた歯科医院を好んで受診したがる患者さんはいないからです。悪い評判はあっという間に広がるもの。しかも、今回はマスコミがこぞって大きく報じました。患者さんの多くはこの歯科医院を敬遠せざるをえないでしょう。長年地域医療に貢献してきた歯科医院は廃院せざるをえない運命かもしれません。

どうして、このようなことになる前に何とかならなかったのか?同じ歯医者一家を持つ身として、僕はただ無念でなりません。



2007年01月05日(金) つながってくれてありがとう

昨年末、僕は以前から交流のあるネット友達にメールを送りました。メールには昨年世話になったお礼、感謝と良き新年を迎えられるようにという意味合いの文言を書いて送りました。
僕が送ったメールに対し、返事のメールが届いていたのですが、その中の一つにこんなことが書いてありました。

“つながってくれてありがとう”

僕はこのメッセージを見た時、思わず胸が熱くなりました。
人と人との縁故というものは不思議なものです。友人同士、恋人同士、夫婦同士、先輩後輩同士、仕事上の付き合い等々を考えてみれば、予想もしていなかった出会いから深い人間関係に進展していくことがあります。一方、永遠に続くような関係が些細なこと、思わぬトラブルで破局を迎えたり、自然消滅したりするようなこともあります。愚考するに人間関係というものは決して強固な繋がりではなく、何か細い糸で結ばれているようなところがあるように思うのです。

僕自身、ネットで日記を始めてから少なからずの方と交流を持つことができましたが、ずっと交流を保つことができている人があるかと思えば、いつの間にかネット上から姿を消している人もいます。こちらからコンタクトを取りたくても取れない人もいます。ネット上での交流は、実際の社会での人間関係よりも希薄なところがあります。仕方がないことかもしれませんが、いくらネット上とはいえ、せっかく作り上げた関係が消滅してしまうということは非常に残念に思うのです。
そんな思いから、僕は実際にネットを通じて交流のある人たちには個別にメールを送るようにしているのです。
そんな交流のある方の一人から返ってきたメッセージの一つが“つながってくれてありがとう”だったのです。

僕は“つながっている”という文句の中に、人間関係の縁故の本質が見え隠れしているように感じました。それだけではありません、“つながっている”という言葉のニュアンスの中に非常に人間味あふれる、温かいものを感じざるをえませんでした。
後日、僕は“つながってくれてありがとう”というメッセージを日記に書いていいか承諾を得るためにメールを送りました。その返事にはこんなことが書いてありました。

私は『つながる』ってことばが好きなのよ。何かしっくりいくところがあるのよ。お互い手と手を握り合ってにっこりしている感じがするから・・・。

手と手を握り合うと感じるぬくもり。そんなぬくもりを感じながらお互いに微笑みあう。そんな関係が一人でも多くできれば、世の中もう少しましになるのではないだろうか?
そんな思いを持ちながら、僕はメッセージを送ってくれた彼女に感謝を捧げたいと思います。

つながってくれてありがとう!



2007年01月04日(木) 今年の目標

新年早々、窮屈そうな話で申し訳ないのですが、今年の自分なりの目標のようなものを考えてみました。

自分の仕事をより好きになること
僕にとって自分の仕事とは、言わずと知れた歯医者稼業です。僕は歯医者稼業が好きです。僕から歯医者稼業を取り除けば何も残らない、つまらない人間であることは目に見えています。歯医者となって16年目、曲がりなりにも歯医者稼業を続けていくことができたのは、一つには歯医者稼業が好きだったからではないかと思うのです。そんな僕ですが、歯医者の仕事を続ければ続けるほど奥が深い仕事であるなあと感じることが多くなりました。
どんな仕事でもそうだと思うのですが、仕事を追求し続けていると際限がないものです。これでいいと満足していても、時間が経つと何かが足りないのではないかと感じるものではないかなあと思うのです。医療の世界では、教科書で書かれていないようなことに多々遭遇します。そうした時にどう対処すればいいか?これまでに培ってきた知識や技術、経験を活用し、立ち向かっていかないといけないものなのです。僕も今もってそういった場面に多々遭遇します。それなりに悩み、苦しみもあるものです。そういった時、どうすればいいか?これまで以上に学ぶという姿勢を続けていかないといけないと思うのですが、それだけでなく、今まで以上に自分の仕事を好きになる努力も必要ではないかと思うのです。
“好きこそ物の上手なれ“という格言がありますが、今年の僕はこれまで以上に自分の仕事を好きになる努力を続けていく必要に迫られているのではないかと感じる今日この頃です。


相手の良いところを引き出せるようになりたい
僕の仕事は一人でできる仕事ではありません。歯医者の仕事は歯医者を支えるスタッフが欠かせません。歯科衛生士や歯科助手、受付などがいないと仕事がまわらないのです。
僕は自分の診療以外に某専門学校で講義を担当していますが、講義の際には専門学校の担当者との意思疎通が欠かせません。また、地元歯科医師会での仕事では、同業者である歯医者の先生や事務局の事務員、その他関係者とのまめな情報交換、伝達を行わないと組織同士の不信にも繋がりかねません。
僕はいろんな人に囲まれて仕事をしているわけですが、同じ仕事をするには気持ちよく仕事をしたいものです。そのためには、自分が一歩引き、仕事相手に気分良く仕事をしてもらう配慮が必要ではないかと思うのです。仕事相手が気分良く仕事をすることで自分自身の仕事がうまくまわる。仕事の理想の一つではないかと思うのです。
もちろん、時には仕事相手に様々な負担をかけることもあります。僕自身、仕事相手に申し訳なく思うようなことをお願いすることもしばしばです。そうした時こそ、日頃の仕事相手との接し方が物を言うのではないでしょうか?
“頼まれた仕事は大変だけれども、あの人の言うことだから何とかしてあげよう。”
仕事相手にそう思われるよう、常日頃の仕事相手との意思疎通、心配りが必要だと思うのです。
今年の僕の目標として、これまで以上に仕事相手の良いところを引き出し、気持ちよく仕事ができるような環境を作る努力を続けることを挙げたいと思います。これは何も仕事上の人間関係だけでなく、知人、友人全てに当てはまることかもしれません。


自分の体を意識したい
普段、人様の口の中を治療している僕にとって、ともすると体の中を治療しているという意識が希薄になることがあります。
“まさかそんなことがあるの?”と思われる方もあるかもしれません。例えるなら、車を運転していて最中、車を動かしているという意識が薄くなるようなものと言ったらいいでしょうか。僕は歯科医師免許のもと、人様の口の中の歯を削ったり、抜いたり、粘膜を切ったりすることが許されている身分です。ところが、毎日歯科治療を続けていると、ともすると人様の体を扱っているという感覚が鈍ってくることがあるのです。
常に人様の体を扱っている感覚を忘れないためにはどうすればいいか?
僕なりに悪い頭をひねって考えた結果は、いつも自分の体を意識することではないかということです。自分の体を意識することができないのにどうして他人の体を意識することができるだろうかということです。僕自身、他人から体を触られて気持ち良いと感じるのは、好きな女性と接触する時ぐらい?で、それ以外は違和感を感じます。多かれ少なかれ、他の人も同じではないか?患者さんの治療をする際、このことを認識しなおさなくてはならないと思うようになりました。
それでは、自分の体を意識するためにはどうすればよいか?それは、意図的に自分の体を動かすことが必要ではないかと考えたのです。要は、常日頃から体を動かさなければならないということですね。
僕のような歯医者の仕事は手作業が中心ですから、あまり移動することがありません。しかも、仕事場は自宅の隣。外部へ仕事へ行く際には車を利用する。体を動かす機会が少ないのは当たり前です。そういった時には、無理やり短時間でもいいから時間を作って、体を動かすことをしていかなくてはならないと感じるのです。僕も今年で41歳。決して若い年齢とは言えません。体力維持のためにもこれまで以上に体を動かし、自分の体を意識することを心がけたいと思います。



2007年01月01日(月) 今年も宜しくお願いします

明けましておめでとうございます。皆さんは元日の朝を如何迎えられた
でしょうか?
今年も”歯医者さんの一服”では、ある歯医者の周囲に起こる日常の出事、
感じたこと、提言などを今年も書いていくつもりです。少しでも歯医者を身近に感じてもらえるように日記を書き続けて生きたいと思っております。

これからも”歯医者さんの一服”を宜しくお願い致します。

取り急ぎ、新年のご挨拶まで。


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