2007年02月28日(水) |
憧れの人が家にやって来る! |
先日PTAの仕事で下のチビが通う幼稚園へ出向いた時のことでした。園長先生と話をし、家に戻ろうとするとある人が僕に声を掛けてきました。ある人とは用務員のSさん。 Sさんは幼稚園での保育には直接携わりませんが、裏方としてさまざまな幼稚園の活動を手伝っている方です。いつも人懐っこい顔で笑みを浮かべているSさんは園児に人気があり、Sさんの周囲に絶えず多くの園児たちが集っている姿がみられます。僕の下のチビもそんな園児の一人で、Sさんになついているようです。僕自身、この1年間、幼稚園にしばしば通い、様々な行事に参加してきたことからSさんとも顔なじみになっていました。
「会長、実は折り入って話があるのですがよろしいでしょうか?」
いつものにこやかな表情とは異なり、神妙な顔つきで僕に語りかけるSさん。一体何事だろうと思い話を聞いてみると、僕に相談事があるというのです。人生の先輩でもあるSさんが僕に相談するとは一体何だろう?僕も思わず身構えてしまいました。Sさん曰く
「歯医者さんの治療のことで教えて欲しいことがあるのです。」
詳しい話を書くことはできないのですが、Sさんは現在ある歯科医院で歯の治療を受けているとのこと。ある治療に関し疑問に感じたそうで、何度も担当の先生に質問をするものの、納得することができず悩んでいたそうです。幼稚園で仕事をしていて僕の姿を見たSさんは僕が歯医者であることを思い出し、相談にのって欲しいということだったのです。
Sさんが僕に求めていたのは、まさしくセカンドオピニオンでした。 今の時代、患者さんの権利意識の高まりから、患者さん自身、自分が受ける医療について、主治医や担当医以外の専門家に意見を求めるべきだと風潮が高まってきています。心情的に主治医や担当医に直接尋ねにくい、つい感情的になったり、角が立つ。これまでの信頼関係を損なう可能性もある。そういった場合、これまで全く自分と関係ない、専門家に意見を求めることがセカンドオピニオンです。 セカンドオピニオンは、患者さんにとってもメリットは大きいと思います。一昔前のように医療従事者と患者さんの関係は“依らしむべし、知らしむべからず”といった時代ではありません。医者が自分の権威をちらつかせるような時代ではありません。患者さん側も、医者に頼りきりになるのではなく、自分の体は自分で守る。そのためには必要な情報は自らが動き、情報を得ることが必要とされる時代です。昨今のインターネットの普及により誰でもいつでも医療情報が得られるようになっていますが、更なる詳細な、個別の情報は専門家でないとわからないところも多々あります。 セカンドオピニオンを求める患者さんの声はこれからもますます強くなるでしょうし、僕もセカンドオピニオンを求められた場合には、自分なりに診査、診断し、治療方針を伝えるようにしているつもりです。
話を元に戻しまして、Sさんのセカンドオピニオンを求めることに僕は何の異論もありませんでした。ただし、実際に僕のセカンドオピニオンを述べるには、Sさんにうちの歯科医院に来てもらい、種々の検査を受けてもらってからでないとできません。そのことをSさんに伝えると、Sさんは少しでも早くうちの歯科医院へ足を運びたいということでした。
ということで、Sさんがうちの歯科医院に来る日が決まりました。このことをうちの下のチビに言うと、下のチビは小躍りして喜びました。
誰しも幼稚園や小学生の頃、担任の先生が生徒たちの家庭を訪ね、保護者と出会い話をする家庭訪問を経験したことがあるはずです。僕も家庭訪問を何度か経験しましたが、いつもは学校で他の生徒たちと一緒に過ごしている先生が、自分の家をわざわざ訪問し、自分の目の前にいる。他の生徒たちの姿はなく、自分と親だけが先生と相対している。結構期待と不安で心が一杯だったのではないかと思うのです。 下のチビの場合もそれに似たような心境だったことでしょう。しかも、担任の先生ではなく下のチビを含めた園児に人気のあるSさんです。普段は多くの友達と一緒にSさんと集っていますが、Sさんがうちの歯科医院へやってくるとなると、自分がSさんを独り占めできる。憧れのSさんがやって来る!そんなドキドキワクワクな気持ちが下のチビからはにじみ出ていました。
果たして、Sさんはうちの歯科医院へやってきました。僕は下のチビと約束をしていました。Sさんが歯科医院へ来院した時には必ず自宅へ連絡すると。僕は下のチビに連絡をしてやりました。
「Sさんがこれから歯の治療をするよ。」
僕はSさんの口の中を調べ、いくつかの検査を行ってから、僕なりの考えを伝えました。途中からは親父も話の輪に加わり、親父の意見もSさんに伝えました。Sさんはいくつかの質問をしながらも僕や親父の話に熱心に耳を傾けていました。 Sさんの診療も終わりに近づいた時のことでした。何気なく診療室と待合室を分けるドアの方を見たところ、ドアが少し開いているのに気がつきました。その隙間には下のチビが僕やSさんの方を覗いている姿が見えました。下のチビはSさんが診療を終えるのを今か今かと待っていたのです。
診療が終わり、Sさんが待合室へ出るとうれしそうにはしゃぐ下のチビの声と 「お父さんに口の中を診てもらったよ」 と言うSさんの声が聴こえてきました。
二人の声に思わず微笑んでしまった歯医者そうさんでした。
昨日取り上げた空き部屋になった子供部屋のその後について、何人かの方からメールや掲示板への書き込みを頂きました。どの手紙も子供が巣立ってからも子供部屋を使っているとの話。頂いたメールや書き込みを見ていると、どの方も自分たちの生活をある程度犠牲にしてでも子供のために部屋を確保していたのですね。子供に対する親心の偉大さを改めて感じました。
さて、最近、あまり歯の話を書いていないので、今日は久しぶりに歯のことを書こうと思います。
「子供の歯に突然角が生えてきているみたいですので診てください。」
そう言ってうちの歯科医院を受診したのはEさん親子。Eさんの子供さんは現在、中学校2年生。以前からうちの歯科医院に通ってきていたなじみの患者さん親子です。そんなEさんが突然、びっくりした表情で来院したのです。一体何事かと思い、詳しく話をしてみると、
「先日、息子が『僕の歯に角が出てきた』と言い出したのです。最初は『何をふざけたことを言うんだ』と相手にしていませんでした。ところが、しつこく何度も同じことを言うものですから、仕方なく息子の口の中を見たところ、下の奥の歯に角みたいなものがあるのを見つけたんです。親としてもびっくりしました。何か悪いものでもできてきたのか不安になりまして。それで先生のところを訪ねたというわけなのです。」
早速僕はEさんの子供の口の中を診てみました。Eさんが指摘していた歯は下の左右の第二小臼歯と呼ばれる歯の咬み合わせの面にありました。
角というよりも何か突起物のようなものがあり、このことをEさんは角と思っていたようです。一見した僕はEさんに言いました。
「これは悪いものでも何でもありませんよ。中心結節と呼ばれるものなのです。時々特定の歯に出現する突起物の一つなんです。」
歯の噛み合わせの面のことを咬合面というのですが、この咬合面は通常、溝と呼ばれる皺の部分と咬頭と呼ばれる高い部分から成り立っています。ところが、中には溝の中に突起物が出るようなことがあるのです。特に、小臼歯の咬合面に見られる突起を中心結節と呼びます。 中心結節はガンのような悪いものでも何でもありません。一種の歯にできるこぶのようなものと言っていいでしょう。口腔解剖学の成書によれば、中心結節の発生率は多くて3%とのこと。100人に3人くらいの割合で小臼歯の咬合面に中心結節が出現する割合です。 中心結節は歯が生えてきた頃からあるのが普通です。Eさん親子が最近になって見つけたというのは、おそらくこれまで気付かず、最近になってから中心結節の存在に気がついたというのが本当のところだと思います。
中心結節ですが、厄介なのはその位置です。咬合面のほぼ真ん中に位置しているのです。
まず、下の図は通常の下の第二小臼歯の断面図です。
それに対し、中心結節がある第二小臼歯の断面図が下の図です。 斜線を引いている部分が中心結節と呼ばれる部分です。
ところで、歯には内部に俗に神経と呼ばれる歯髄があります。血管や神経、免疫細胞等様々なものが集まる複合体の組織です。 上の図でわかるように中心結節は咬合面にあります。 咬合面というのは常に上下の歯が接触する可能性が高いところです。そのまま放置しておくと中心結節が折れてしまう可能性があります。単に折れてしまうだけならまだいいのですが、更に厄介なことには中心結節の内部には歯髄、所謂神経がある場合が多いのです。 下の図のような感じです。
もし、中心結節が折れると同時に中の歯髄が露出。歯痛を生じたり、無症状の場合、歯髄が壊死、壊疽を起こし、根っこの先に膿がたまり、歯肉が腫れるといったことが起こりえるのです。そうなると、歯髄の処置をしないといけなくなります。
このようなことにならないよう、咬み合わせを確認しながら、中心結節は補強をすることがあります。中心結節が折れないように周囲を人工材料を充填し、補強をするのですが、実際のところ、咬合面という位置の関係から、補強した材料が磨り減り、無くなってしまう可能性が多々あります。
通常は、中心結節を持っている患者さんは、定期的に中心結節を検診し、経過を見ていくことが必要となります。 Eさんの子供さんの場合も、レントゲン検査や歯髄が生きているかどうかを調べる検査などを行い、現在のところ問題がないことを確認しました。このままむし歯や歯周病のチェックと同時に中心結節の検査も行うということになりました。
それにしても、神様は何人かの人間の歯に角を生えさせるようなことを仕向けたものです。人間へのちょっとした悪戯かもしれませんが、角が生えた方や歯医者にとって、中心結節は厄介な角だと言えるでしょうね。
2007年02月26日(月) |
空き部屋となった子供部屋を思う |
うちの歯科医院では3年前からデジタル式レントゲン装置を導入し、活用しています。デジタル式レントゲン装置とは、従来のようにX線をフィルムに当てて感光させ、現像するタイプのレントゲン装置とは異なります。X線をCCDセンサーもしくはイメージングプレートと呼ばれるものに感光させ、画像をパソコンで確認するタイプのレントゲン撮影装置です。 デジタルレントゲン装置の利点の一つは現像、定着といった一連の操作を行う必要がなくなったことです。デジタル式レントゲン装置を導入するまでは、毎朝自動現像機に入っている現像液、定着液の状態をチェックし、スイッチを入れ、温度管理をすることが日課となっていました。レントゲン撮影前には、フィルムをレントゲン室の隣にある暗室でセットし、レントゲン装置にセットしてからレントゲン写真を撮影、その後、暗室にて自動現像機に入れ、現像するという作業をしていたのです。 ところが、デジタル式レントゲン装置を導入してから、フィルムに関する諸操作が全く要らなくなりました。デジタル式レントゲン装置の場合、画像はフィルムではなくパソコンの画面に写し出されます。必要な場合のみプリンターでプリントアウトするだけ。そのため、自動現像機が不要となったのです。 不要になったのは自動現像機だけではありませんでした。自動現像機を置いていた暗室も要らなくなったのです。フィルムを感光させないために設置していた暗室ですが、フィルムが要らないデジタルレントゲン装置を導入することで、暗室の必要性が全くなくなったのです。 うちの歯科医院は築30年。思わぬ技術進歩で暗室が要らなくなったことは開業当初では予想もつきませんでした。限られた空間を有効利用する観点からみれば、暗室がデッドスペースになってしまったことは思わぬ誤算といっていいかもしれません。
さて、当初頻繁に使用していた空間が今では使われなくなったことは意外と多いのではないでしょうか?その最たる例が子供部屋ではないかと思います。 子供を持つ家庭ならば、子供が成長するにつれ、子供部屋が必要となります。子供が幼少の頃ならば子供部屋の心配をすることはありませんが、大人近づくにつれ子供も自分だけのプライベートの空間が欲しくなるもの。親としてもそんな子供のために部屋を用意するわけですが、子供が進学、就職、転勤、結婚することを機会に子供部屋が空き部屋になってしまうことがあります。 我が家もそうです。僕には弟が一人いますが、かつては一緒に暮らしていました。弟は大学進学後、下宿生活を過ごし、その後は仕事の関係から自宅から離れた場所に住まいを借り、生活をしていました。自分の部屋を常時使用しなくなり、空き部屋状態となったのです。その後結婚し、子供ができた今では、新しい自分の家を新築しています。二度と自分が過ごした子供部屋に戻ってくることは無い状態と言えるでしょう。
親とすれば、子供の巣立ちによる子供部屋の空き部屋化は、全く予想しなかったことではありません。子供部屋がいつかは空き部屋になる。それならば子供部屋を最初から作る必要はないのではないかと考えそうですが、ほとんどの親はそうは考えません。経済的な問題さえなければ、子供がプライベートに暮らせる空間を家に与えたい。そう思うのは親心ではないかと思うのです。将来空き部屋になってしまう宿命だとわかっていても、子供の成長のためには確保しておきたい。子供部屋とは親の子供に対する切なる成長への願いの空間であるはずです。
空き部屋になった子供部屋ですが、子供が使用しなくなった現在、どのような状態になっているのでしょう?個人的には興味のあるところです。 何人かの人生の先輩に話を聞いてみたところ、子供が暮らしていた当時そのままの状態で残している方が多いように思いました。その理由を尋ねてみると、様々でした。
一つは子供たちが部屋の家具類の持ち出しをしなかったこと。子供部屋に置いてある家具類は、子供が利用していた時代、その部屋にマッチしていた家具類であり、子供が他の場所で生活しようとしても、その場所の実情に合わず、持ち出しをすることができない場合が多いというのです。 また、経済的な理由があるようです。親としては、子供部屋を何か別の目的で使用しようとしても、子供専用に作られた部屋は意外と他の目的に利用することが難しいとのこと。家全体をリニューアルしないどうしようもない場合が多いのだそうです。
意外だったのはは、子供が暮らしていた時を懐かしむ気持ちを持っている方が多かったことでしょうか。 幾ら空き部屋といっても親としては自分たちが愛している子供達が一時期を過ごした思い出の部屋。そうやすやすと改造したくない。時には子供たちの残した香り、記憶を懐かしく感じたいと思うこともあるというのです。親心とは実に切ないものなのかと感じた次第。
ちなみに、我が家の場合ですが、空き部屋となった子供部屋は、将来的には僕のチビたちの子供部屋になる可能性が大です。おそらく、チビたちが使う頃には多少の改造が必要となってくるでしょう。新たに家具類を整えないといけないものもでてくるでしょう。僕が使用してた時代と今とは違いますから。 それでも、僕や弟の思い出詰まった部屋が空き部屋とならず、チビたちが使ってくれる。このことを考えるだけでも、親として感慨深いものがありますね。
2007年02月24日(土) |
将軍様の長男はえらい!? |
最近、テレビを見ていると、世界各国の反対にも関わらず核実験を強行し、核保有国になったと高々に宣言した国の指導者である将軍様の長男といわれている男の映像がしばしば流れています。 数年前、東京ディズニーランドへ行く目的だったか何だかで不法入国し、国外退去になった将軍様の長男と言われている男。当時から高級ブランド物の服やアクセサリー、バッグを身にまとい、でっぷりと肥えた体をゆさゆささせながら、悪びれる風もなく堂々と歩いている姿が実に印象的でした。彼の母国の多くの人は毎日食べることにも苦労が絶えないと言われているのとは実に対照的です。
将軍様の長男と言われている男ですが、今はマカオや北京といった中国を中心に動いているようで、その姿が度々目撃されています。六カ国協議の進展と共に、中国各地を飛び回っているのかどうかよくわかりませんが、目ざとい日本のマスコミは将軍様の長男と言われている男を見つけるや否や、密着突撃取材を敢行し、その映像がテレビにしばしば流されています。
某国や某国の指導者である将軍様、そして、将軍様の長男と言われている息子たちを政治的にどうこう言いませんが、日本のマスコミにとっては格好の取材対象ではあるでしょう。何せ某国はなぞだらけの国ですし、将軍様や将軍様の息子たちについてほとんど情報がありませんから。彼らの映像を流すだけでもそれなりのニュース価値があるのでしょう。
けれども、テレビカメラに追い続けられている将軍様の長男と言われている男には、正直いって同情します。うっとおしいたらありゃしないでしょう。自分が動く度、日本のテレビ局の取材陣に捕まり、移動を遮られるさえあるような取材ぶり。少しでも怒ったりするようなことがあれば、尾びれ背びれがついてとんでもない男にまつりあげられてしまう可能性があります。ところが、将軍様の長男と言われている男は、今のところ泰然自若の態度を取り続けています。自分が進むところに邪魔者のようにまとわり付く日本のマスコミ。日本語や中国語、朝鮮語、英語などで質問をぶつけられているのですが、適度に反応し、適度にあしらっているその姿に僕は感心します。
内心は穏やかではないのは確かでしょうが、将軍様の長男と言われている男は自分の言動が自分の母国や世界にどんな影響を与えるかよく知っているはず。何を言われようとも決して怒らず、過剰な反応をしない。 過度のマスコミ取材に対する彼の示す態度は、ある意味あっぱれと言えるのではないでしょうか?今のところは。 もしかしたら、自分がおとりになって誰かが工作を行うことを側面から手助けしているかもしれません。それならば、将軍様の長男と言われている男、ますます油断ならざる男といえるでしょうね。
2007年02月23日(金) |
洋式トイレの立小便にこだわりたい |
築30年近くするうちの歯科医院。これまでも何回か改造を行ってきたのですが、トイレに関しては開院当時のままでした。昨今、うちの歯科医院に来院する患者さんを見ていると高齢化が進んでいること、また、各家庭に洋式トイレが普及したことなどからうちの歯科医院のトイレも洋式にしないといけないだろうと思い、昨年末、ようやくトイレを洋式化しました。 トイレの様式化は患者さんからは概ね好評です。中でも高齢の患者さんにとっては足腰に負担を強いられる和式よりはずっと楽にトイレを使用できるという評判です。改造にはそれなりの金額がかかったのですが、患者さんからの評判が良いとそれなりの投資効果があり、うれしい限りです。
トイレは洋式化ですが、各家庭のみならず、様々な施設、建物を見ても和式のトイレを探すのが難しくなってきているくらいトイレの洋式化が進んでいると言えるでしょう。そんなトイレの洋式化では、予想もしなかったライフスタイルの変化が現れているようです。 ある調査によれば、男性の3割が用を足す際、立って行わず、座って用を足しているといるとのこと。その理由として、幼少の頃からトイレを汚すことを注意されてきたため、座って用を足すことが生活習慣となったとのこと。また、自宅以外の場所で用を足す際、洋式トイレを探し、座ってしないとできないという男性が少なからずいるというのです。
これは考えものだと感じた歯医者そうさん。理由は簡単です。立ち小便は男の文化、ロマンではないかと思うからです。立小便とは男だけに与えられた特権のようなもの。その特権を自ら放棄し、座って小便をするとは、何てもったいないことなのだろうと感じるのです。
そこで僕はない知恵を絞って考えてみました。座って小便をすることが増えてきている理由が、立小便によって便器周囲を汚すことが問題となっているからです。それならば、立小便で便器周囲を汚さない方法を考えればいいことだと。
愚考するに、立小便で便器周囲を汚すということは、男のシンボルから出た小便が便器や便器に溜まっている水に当たり、それが外部にはじき飛んでしまうからでしょう。これを無くすような立小便をすれば、洋式トイレで立小便をしても便器周囲を汚さず、文句を言われないはず。 ポイントは何か?それは、立小便をする高さ、速さ、角度ではないでしょうか。
まずは高さです。便器の高さと立小便の際、尿が出る男のシンボルの先が高ければ高いほど、尿は拡散します。この拡散は尿が便器や便器周囲の広範囲に飛び散る結果となるはず。そうならないためには、便器になるべく近い場所に男のシンボルを位置する必要があります。具体的には、中腰になり、男のシンボルをなるべく便器に近づけることです。何とも窮屈な姿勢かもしれませんが、これには思わぬ効果が期待されます。それは、足腰が鍛えられるということです。普段運動不足の男性でも小便という普段の生活習慣の際、中腰になることにより足や腰に力が入り、筋肉が鍛えられる。素晴らしい効能だと思うのです。僕は身長180センチありますが、洋式トイレで中腰で立小便をするようになってきてから尿が便器周囲に飛び散ることが少なくなりました。
次に考えなくてはならないことは、速さ、すなわち小便を出す勢いです。むやみやたらに力いっぱい放尿すれば、小便はかなり広範囲に拡散されるのは自明の理。ここは、落ち着いてゆっくりと出す。この行為は尿道にとっても健康的です。あまりにも勢いよく放尿してしまうと、尿道にいらぬ刺激を与え、時と場合によっては痛い感覚を覚えることがあります。ゆっくりと放尿することは、小便の広範囲への拡散を防ぐだけでなく、健康の観点からも有効なことだと思うのです。
もう一つが角度。角度というよりも小便を便器のどこへ出せばいいかということになります。洋式トイレは水口に至るまで傾斜がついています。傾斜がついているところに小便を落とせば角度がついていればついている程小便は反射してしまう確率が高くなるもの。また、水溜りに当ててしまえば、水同士が反発し、小便を含んだ便器の水が外部に出てしまう可能性もあります。ここは、便器の傾斜と水溜りの境目あたりを目標に小便を出してはどうかと思うのです。僕自身、何度か便器のいろんな位置で立小便を試してみましたが、どうも水溜り近くに小便を放尿すれば跳ね返りが少なく、便器の外へ小便が出ることが少ないように思います。
意外と盲点なのが、立小便の最後ではないでしょうか。すなわち、小便を出し終わった後、男のシンボルに残った小便を振るって出し切る時です。量はわずかながらも、男のシンボルの先からは様々な方向に小便が拡散してしまうおそれがあります。どうすればよいか?僕は女性と同じように男性もトイレットペーパーを利用すべきではないかと思うのです。せっかく立小便にこだわっているのに最後にトイレットペーパーを使うなんてと思われる方もいるかもしれません。便器の汚れを防止するという点を考えれば、仕方のない行為ではないかと思うのです。あくまでもトイレを掃除する人に迷惑をかけず、立小便を行うことが前提です。立小便を守るためには、ある程度変えるところがあってもいいのではないか?それならば、立小便最後の仕上げである男のシンボルを振る際には、トイレットペーパーで残った小便を吸収させてもいいのではないかと思います。この行為そのものは他の人に見られれば恥ずかしいかもしれません。男性専用トイレであればそうかもしれませんが、実際の洋式トイレは閉鎖空間ですから誰も見ていません。決して恥ずかしい行為ではありません。堂々と行えばいいと思います。
立小便にこだわるならば、便器を汚さない立小便の方法を考えている暇があったら座って小便した方がいいんじゃないか?と思われるあなた。そのとおりです。座って小便すれば便器周囲を汚すことはないでしょう。洋式トイレそのものが立小便を前提とせず、座って小便をするような構造になっているという話を聞いたこともあります。けれども、立小便に男の文化、ロマンを感じる僕としては、それは何とも忍びないこと。
世の男性の皆さん、トイレを掃除する方のことを考え、洋式トイレであっても周囲を汚さない立小便の仕方を追求しようではありませんか!
最近、うちの歯科医院には子連れのお母さんの来院が多いのですが、お母さんが治療中、子供たちは待合室でにぎやかに待っていることが多いのです。 中でも特に目立つのが男の子3人連れのお母さん。お母さんが治療中、待合室で非常に賑やかに騒いでいます。受付さんの話によれば、他の患者さんに迷惑にならないように見張っているそうですが、そんなことお構いなしで ”あ〜でもない、こ〜でもない” と話している様子は、待合室だけでなく診療室の中にも聞こえてくるぐらいです。当のお母さんは ”申し訳ありません” と小さくなりながら歯の治療を受けていますが、男の子三人兄弟は実に元気です。
先週末、家族で近所のスーパーへ買い物に行った時のことです。買い物を終え、レジで清算しマイバッグに買ったものを詰めていると、嫁さんがある赤ん坊を抱いたお母さんに挨拶をしていました。
「Yちゃんのおかあさん、お久しぶりです。以前お会いした時はお腹が大きかったのですけど、無事お生まれになったのですね。」
Yちゃんとは上のチビの幼稚園時代の友達です。昨年、Yちゃんのお母さんはお目でたとなり、妊婦服を着てスーパーで買い物をしていたのだとか。その際、嫁さんとよくスーパーで会っていたそうですが、最近は姿が見えなかったとのこと。どうも赤ちゃんを出産したために自宅にいる時間が多かったようです。一通りの挨拶が済んだ後、嫁さんが僕にこういいました。
「Yちゃんのお母さん、今度のお子さんも男の子だったんだって。」 Yちゃんは二人兄弟のお兄ちゃん。下に弟がいたのですが、今度生まれてきた子供も男の子だったそうです。いわゆる、団子三兄弟になってしまったわけです。
家に帰宅してから某新聞の読者投稿欄を読んでいると、ある40歳代前半の女性の方から下のような投稿がありました。
“某新聞社が発行する小学生新聞を見ていると、投稿するのが多いのは圧倒的に女の子が多い。この偏りはなぜか?自分なりに考えてみると、女の子の方が話し好きということに尽きるのではないかと思う。もちろん、男の子にも楽しい会話もあろうが、男の子は“何でもない話”をあまりしない。“
思い当たるところがあります。うちのチビたちに小学校や幼稚園であったことを尋ねても、親が尋ねることについて返事を返すことは少ないのです。返事があったとしても話しが長続きしません。“楽しかったよ”とか“試験問題は難しかった”という具合。これが女の子であれば淀みなく話が続くことが多いでしょうが、男の子の場合はそうでないのが多いのではないでしょうか。かくいう僕もそんな男の子でした。理由を問われれば、いちいち学校や幼稚園のことをこと細かく話すのが面倒くさく、自分の興味あることを話をしたかったのではないかなあと思うのです。某新聞の投稿欄に投稿していた読者の指摘のとおり、男の子は何でもない話をするのが苦手である子供が多い傾向にあるように思います。
Yちゃんの団子三兄弟を見て、某新聞の投稿欄を読んだ嫁さんは “Yちゃんのお母さんは女の子が欲しかったのではないか?” と言います。既にいる二人が男の兄弟。三人目は女の子が欲しい。そんな気持ちを持っていた可能性が高いのではないかと言うのです。 自分にもそんな気持ちが理解できるとのこと。その訳の一つがまさしく某新聞の投稿欄の指摘そのものだそうです。このことは常日頃、嫁さんも感じていることだそうで、自分の子供でありながら男の子であるが故に会話が弾まない時があり、不満を感じる時があるとのこと。だからといって子供たちが嫌いとかではなく、愛して止まないのですが、嫁さん自身も何気ない話が好きな女の子だったわけですから、自らの子供にも何気ない話ができる子供がいてもいいなあと感じる時があるのだとか。
贅沢な悩みであることは百も承知ですし、今のチビたちのことを考えると、不謹慎きわまりないことではありますが、自分が今でも実の母親と会えば、気軽に長時間話に華が咲くことを考えると、将来的に女の子があったらいいなあと感じるようです。
それでは、 “もう一人頑張ってみるか?” と嫁さんと話すことがあります。
いつも、結論は一緒。 ”もう止めておこう。”
やはり年齢的なことが大きいです。僕は41歳、嫁さんは今年40歳になります。さすがにもう一人産むとなると高齢出産となります。無事産んだとしても後の子育てのことを考えると体力的に自信がありません。このことを考えると、ジャガー横田はよく出産できたなあと思います。 生まれたからには責任をもって育てることが親の義務ではあるわけですが、それでは、今からもう一人責任を持って育てられるかというと、なかなか決心がつきません。 しかも、産み分けに確実なものはありません。女の子が欲しいと思っていても実際にできた子供が男の子の可能性があるのです。
人間というものはつくづく欲張りなものだと感じることのひとつに子供の産み分けがあります。最初の子供が男の子であれば、次の子は女の子。最初の子供が女の子であれば、次の子は男の子。そのように感じる家庭は意外と多いのではないでしょうか?贅沢な悩みですし、自分勝手な話だと思いますが、人間というもの子供に恵まれれば、恵まれた時点で更なる悩みが生ずるものだと感じる今日この頃。
最後になりますが、今日の話、様々な事情で子供を産むことができない方に申し訳ない話ですが、何卒ご容赦のほどを。
2007年02月21日(水) |
間一髪セーフと間一髪アウトの差 |
昨夜のことでした。地元歯科医師会の仕事を終え、車で帰宅している途中のことでした。とある峠の上り坂のカーブを曲がろうとすると、前方から車が照らすライトが見えました。夜間、山道を運転する時、ライトによって対向車が見えるのは大きなメリットです。こちらとしてもある程度対向車を警戒しながら運転していく余裕ができるからです。 ところが、いつもなら心の準備をもって曲がることができるカーブが、昨夜は違っていました。対向のライトは猛スピードでカーブにやってきたのです。このような場合、ほとんどが暴走族が運転している改造車です。僕はカーブを曲がる際、いつも以上に左寄り曲がるようハンドルを切りました。案の定、対向車は改造車だったのですが、その車、カーブをうまく回ることができず、センターラインをオーバーし、僕が運転する車の方へ膨らんできたのです。僕は対向車が僕の運転席の間際にまで接近している光景が見えたのです。
“これはやばい!” 僕は思わず衝突することを覚悟しました。
実際のところ、僕の車は対向の車とは接触することはありませんでした。何の衝撃もなかったからです。念のため、僕は直ちに車を止め、傷がないか確認しましたが、傷一つありませんでした。一瞬の出来事でしたが、僕は危機一髪衝突事故に遭わずに済んだのです。 もし、改造車に僕の愛車が当てられたなら、只事では済まなかったことでしょう。愛車の破損のみならず、僕も病院へ即入院になっていたのは必至。このように日記を書くことはできなかったはずです。間一髪セーフでした。
帰宅後、僕はしばらく考えました。 これまで僕は何度となく命に関わるような危機に襲われたことがあります。ほとんどの危機は予想もしないことであり、突然やって来ました。 以前にも書いた阪神大震災に被災した時などは、地震による大きな揺れに体が動くことができず、目の前で大きく振動している家の柱を見つめ、本棚から落ちてくる大量の本が顔面に当たっても何もすることができませんでした。家が潰れるとともに僕の命も終わるのかという恐怖感のみを感じたものです。 僕は幸いにも阪神大震災で命を落とすことはありませんでしたが、今から思えばよくもあの大きな揺れに耐え、生き残ることができたものだと思うのです。実際に6400人以上の人が亡くなっている阪神大震災。僕が命を落としても何ら不思議ではなかった状況下、どうして生き残ることができたのは不思議でなりません。この時も間一髪セーフだったのです。
間一髪セーフと間一髪アウトの差。この差は実に微妙な差ではありますが、実態は雲泥の差があります。誰でも何らかの予想もしないトラブル、事故、危機に瀕した時、理由を説明することができない要素というものによって、回避できる場合と回避できない場合があります。医療の世界ではこの手の話はよくあります。
例えば、体に何も異常を感じない、自覚症状がなかった人がたまたま人間ドックでレントゲンCTを撮影したところ、進行ガンがみつかったとか、動脈瘤が見つかったことがあります。これら進行癌や動脈瘤というのは生死に関わる深刻な病です。直ちに適切な治療、処置が必要なわけですが、そのような自覚が全くなく、偶然に検査した時点で見つかったというのは単なる偶然なのかと思いたくなります。その人の運命だと言われればそうなのだろうと思うのですが、少なからず命の危機に直面し、間一髪セーフであった話を耳にすると、人の運勢には何か筋書きがある台本が左右されているように思えることがあるのです。
間一髪セーフと間一髪アウトを分けるものは何か?頭の悪い僕にはよくわかりません。これらを追及しているのが宗教なのかもしれませんが、理論、理屈では表現しようのないものが間一髪セーフと間一髪アウトの違いを分けていると感じることがしばしばです。
実は、今回のカーブでの事故回避を含め、詳細は書けませんが、僕の周囲で立て続けに偶然とは思えないような命の危機に遭遇することが起きました。しかも、これらは全て命を奪われるようなことはなく、適切な処置を受けることにより快復し、健康や穏やかな日常生活を取り戻しているのです。一度や二度ならまだしも複数回続くと、さすがの疑い深い僕も、これは何かあるのではないかと思いたくなるのです。何かによって死なされていない、生かされている。そんな気持ちを持たざるをえなくなるのです。
考えれば考えるほど怖くなります。
2007年02月20日(火) |
一度くらいの浮気なんて・・・ |
先日、うちの歯科医院にある中年の女性患者さんが来院されました。患者さんの名前はGさん。 “久しくGさんを見なかったなあ?”と思い、過去のカルテを見ていると、僕の記憶どおり、Gさんは6年ぶりにうちの歯科医院に来院したことがわかりました。Gさんが診療室に入ってきました。初診の患者さんにいつもするように挨拶をし、問診をしようとしたところ、Gさんは開口一番、
「先生、正直に告白しますが、私、浮気をしてしまいました。」
思わず面食らった、歯医者そうさん。 “いくら以前に治療をしていた患者さんとはいえ、いきなり田舎歯医者である僕に浮気を告白するとは一体何事だろう?うちの歯科医院は歯や口の中の治療は行うけれども、人生相談所ではないぞ!“ そんなことを思いながらびっくり仰天していると、Gさんは更に言葉を続けました。
「私、以前先生にお世話になっておりながら、最近まで他の歯科医院に通っていました。けれども、事情があって先生の診療所に戻ってきました。浮気は一度だけですから、これから診て頂けますでしょうか?」
Gさんの言う浮気とは、他の歯科医院で治療をしていたという意味の“浮気”だったのです。ほっと胸をなで下ろす、歯医者そうさん。
この手の話はよくあると思うのです。これまでかかっていた歯科医院を受診するのを止め、近くに新しくできた歯科医院や友人、知人に紹介された歯科医院へ通院するようなことはよく耳にする話です。 歯医者として本音を書かせてもらえれば、自分の歯科医院に通っていた患者さんが他の歯科医院へ通っていく、移っていくことは決して気持ちが良いというものではありません。歯科医院を経営する歯医者にとって、患者さんが他の歯科医院へ移っていくということは歯科医院の経営に影響しますから。また、多少ながらも自分の患者さんだと感じていた患者さんがそうではなかったこととなり、現実の厳しさを思いやられることでもあるのです。
だからといって、歯医者が自分の歯科医院に通っている患者さんを強引に引き止める権利はどこにもありません。今や全国のコンビニの1.5倍以上あると言われている歯科医院。数ある歯科医院を選択する権利は患者さん側にあるのです。患者さんが気に入り、信頼すれば同じ歯科医院に通い続けて構わないし、何か事情が生じれば、他の歯科医院を受診しても問題はない。患者さんが歯科医院を浮気するようなことになっても、歯医者はそれを責めることはできないのです。 むしろ、一人でも多くの患者さんを引き止める、一人でも多くの患者さんに信頼されるよう努力することは歯医者に求められていると言えるでしょう。歯医者が患者さんに対し、何か口や歯に異常があれば直ぐに駆けつけられる、かかりつけ歯医者としての魅力を持ち続ける努力を怠ってはならないのです。他の歯医者への浮気は自由だと言っても言い過ぎではないかもしれません。
浮気の甲斐なく、いやいや、元の歯科医院へ戻ってこられる患者さんについて歯医者がどのように感じるか? 僕は普通の浮気のことに関してはよくわかりませんし、他の歯医者がどのように感じるかはわかりません。あくまでも僕個人の考えですが、浮気をしたにも関わらず戻って来られた患者さんに対しては、何も差別するものはありません。むしろ、 “よく戻ってきてくれましたね”と温かく迎えたい気持ちが強いです。浮気をした患者さんがどんな理由、事情があってかはわかりませんし、それを問いたくもありませんが、どんな患者さんでも自分の歯科医院に来院される患者さんは有難い存在です。歯医者である自分のことを忘れず、思い出し、戻ってきてくれた貴重な患者さんなのです。
一度くらいの浮気なんて・・・へっちゃらですよ。
2007年02月19日(月) |
昭和生まれはこれだから困る! |
「昭和生まれはこれだから困る!」
風呂に入るようにせかしてもなかなか入ろうとしなかった8歳のチビに注意したところ、チビが思わず漏らした言葉です。 思わず笑ってしまった歯医者そうさん。
上のチビは平成10年生まれ。現在小学校2年生なのですが、最近親が注意をするといろいろな言葉で返すようになってきました。あまりにも理不尽でわがままな場合には怒ることもありますが、中には気の利いたことを言うことがあり、親である僕も思わず感心してしまうこともあるくらいです。上の言葉もそんな言葉の一つだったわけです。
上のチビの言葉で、僕は幼少の頃、大正生まれの祖母がしばしば言っていたことを思い出します。
「昔は大正生まれと言えば、若い世代の代表みたいなことを言われていたけど、気がつけば、いつの間にか周りは昭和生まれの人が大半を占めるようになってきた。今や私も大正生まれのおばあちゃんだからねえ。」
先週末41回目の誕生日を迎えた僕からすれば、大正時代というのははるか雲のかなたにある歴史の時代という印象があります。僕が生まれた昭和41年からすれば、大正時代は第二次世界大戦前の時代で、あまりにも過去の時代というイメージが強くあります。ところが、大正生まれの人にとってはむしろ昭和生まれの若い世代が自分たちとは異質のものと受け止めているのでしょう。そんな世代がいつのまにか自分たちの世代を凌駕する勢力となり、社会を担う世代となった。若い世代が社会を担っていることに対するうれしさはあるものの、自分たちの世代がいつの間にか少数派になった一抹の寂しさ。祖母の言葉からはそんな思いがにじみ出ていたように思います。
かつて祖母が感じた思いを今度は僕が思う番になりつつあります。昭和は63年と7日間という長期間でした。(実際には昭和元年も7日しかなかったそうですが。)その後、平成になったわけですが、その平成も今年で早19年。僕のような昭和生まれからすれば、平成の時代というのはまだまだ歴史が浅いようなイメージを持つのですが、実際のところ、平成も既に19年経過しています。 平成が19年経ったというのは大きな節目です。平成元年生まれの人が今年は高校を卒業し、中には就職する人も出てくるはず。中学卒業後就職して働いている人は別として、平成生まれの高卒社会人が今年の春から生まれるのです。また、大学生ということになれば、今年の春から平成生まれの大学生が全国各地の大学に入学するはず。まだ子供だと思っていた平成生まれの人たちが社会の中枢に入りつつある現実。
医者や歯医者の世界でも、後6年経過すれば平成生まれの医者、歯医者が誕生します。さらに時間が経過すれば、平成生まれの医者、歯医者が社会の医療を担う中心的な存在になることは確実。昭和生まれの医者、歯医者が少数派となるのです。
光陰矢のごとしといいますが、平成生まれの人から「昭和生まれはこれだから困る」としょっちゅう言われる時代が直ぐそこにやってきています。僕としては、“昭和生まれはこれだから困る”と馬鹿にされないような歯医者として時代を見つめ、年を重ねていきたいものだと思う、今日この頃です。
2007年02月17日(土) |
僕を産んでくれて有難う |
個人的な話で恐縮ですが、今日は僕の41回目の誕生日です。昨年、40歳になって以来、年のことはあまり考えないようにしているつもりですが、それでも誕生日となると一つの区切りとして感じるものはあります。 誕生日に一つ年齢を重ねることは、それだけ人生を長く生きてきたことにもつながります。人生の先輩から見れば笑われるかもしれませんが、これまでの僕の人生の歩みを振り返ると、“思えば遠くへ来たものだ“と感じます。
今、僕は独り身ではありません。人生の伴侶となる嫁さんと8歳と5歳のチビがいます。家庭があります。僕が何かあれば、嫁さんやチビたちの人生にも大きな影響を与えます。気がつけば、僕の人生はぼくだけのものでなく、僕の家族に対する責任も大きくなってきた事実。考えさせられる今日この頃です。
オジン世代に足を踏み入れつつある僕ですが、僕という人間がこの世に存在するのも、全ては親父とお袋のおかげです。親父とお袋が出会い、結婚しなければ僕は41年前にこの世に生を受けていません。そして、両親二人が共に僕を育てくれたことによって、僕は何もわからない人間の卵から人間として生きる基礎を教わったように思います。 普段、何も考えず、親に文句ばかり言っていた僕ですが、いざ自分にも子供ができ、子育てをしていくうちに、ふと思うことがあります。僕にもチビたちと同じ時代があったのだなあと。チビを見ていると親にしてもらうことが当たり前のように育っていますが、その裏には、僕や嫁さんが家庭を守るために必死になって仕事や家事に勤しんでいます。 きっと僕が子供の頃、両親もそうだったのでしょう。僕が当然のことのように思っていた家庭は、両親たちが必死になって支えていたはずです。
親父は今年76歳。現在、体調を崩し、仕事を休み静養していますが、ここに至るまで病気一つもせず、元気に過ごしてきました。僕はそれが当たり前だと思っていたのですが、いざ親父が静養している姿を見ると、親父の存在の大きさを改めて知らされたように思います。 お袋は親父と同じ未年でありながら一回り若い64歳。親父とともに家庭を切り盛りし、歯科医院を支えてきました。歯科医院での仕事の合間に僕と弟の二人の教育をしてきました。忙しい診療の合間によく僕ら兄弟の世話をしてきたものだと思います。今の僕には到底まねできません。
僕の誕生日を迎えるに当たり、僕は親父とお袋に感謝の気持ちを捧げたいと思います。
親父、お袋、僕を産んでくれてどうも有り難う!
2007年02月16日(金) |
素振り、素投げ、素指揮 |
先日、僕が診療所に入ろうとした時のことでした。ふと待合室に目をやるとある患者さんの姿が目に見えました。その患者さん、何やらシャドウピッチングとでもいうのでしょうか、野球のピッチャーのまねをするが如く、素振りならぬ素投げをしていたのです。一球を投げ終わったその時、視線が合いました。患者さんは思わず苦笑い。見られたくない姿を見られ、気恥ずかしい気持ちでたまらないといったところでしょうか。
実は、僕も同様の経験が何度かあります。 数年前、友人たちと久しぶりにボーリングのお誘いを受けました。僕は何年ぶりかのボーリングということで、うまくできるだろうかと不安に感じていたのです。そんな思いから、人の目の付かないところでボーリングの素投げを何度もしていたのです。ある時、僕は診療所の技工室で、ボーリングの素投げをしていたのです。今から思えばどうしてそのようなことをしていたのかわからないくらいですが、それくらい思わず体がボーリングの態勢になっていたのかもしれません。その時でした。スタッフの一人が何気なく技工室を出入りする扉を開けたのです。そのスタッフが目にしていたのは僕のボーリングの素投げ姿。スタッフは思わず笑みを浮かべていましたが、僕としては非常に恥ずかしい思いをしました。穴があったら入りたい心境とはこんな心境ではないかと思ったぐらいです。
何かが好きだったり、思い入れがあり思わず体が動いてしまうことって誰でも一度や二度はあるのではないでしょうか?何か習い事やスポーツをしている方は、何か時間を持て余した時、自然と自分が習っている習い事やスポーツの動作をしてしまう経験があると思います。
昨年、ヒットしたテレビドラマで阿部寛が主演した結婚できない男というテレビドラマがありました。その中で、阿部寛扮する主人公が一人大きな部屋の中でクラシック音楽を聴きながら一人悦に入り、指揮をしてしまうシーンが何度も放映されていました。男の独身主人公の変わった一面を示すシーンとして実によくできたシーンではあったのですが、僕もこの指揮というのは何度かやってしまったことがあります。 僕がまだ5歳くらいのことでした。親父やお袋に連れられ、僕はある吹奏楽団の演奏会を聴きに行きました。今でも記憶があるのですが、当日は有名な曲ばかりの演奏会で当時幼かった僕でも楽しめる内容だったのです。演奏会が佳境に入ると、僕は思わず指揮をしてしまったのです。僕自身、どうしてそのようことをしてしまったのか説明できませんが、とにもかくにも指揮をしたくなったのです。演奏会終了後、お袋が苦笑いしながら言ったのが今でも記憶に残っています。 「あんたが演奏会の途中から指揮をしだして恥ずかしかったわ。止めようとしたけど、止めたらあんたは機嫌が悪くなるから止めなかったけど、周りの人はみんなあんたの指揮ぶりに思わず笑いを押さえていたで。」 さすが今では演奏会で指揮をするようなことはできません。実際に、アマチュアオーケストラに参加していると、指揮者の大変さはよくわかります。オーケストラ楽曲の複雑な総譜を全て把握し、音楽のイメージを持ってから、実際に目の前で弾いているオーケストラの全員やパートごとに的確な指示を与え、自分のイメージする音楽を作り上げる。指揮者とは単に棒を振っている仕事ではないのです。そのことは重々承知しながらも、それでも、一人で車に乗りクラシックのCDを聴いている時は、思わず手を振ってしまうことがあります。主に赤信号で車を止めている時にですが。もしかしたら、僕が赤信号で止まっている時、僕の車の隣に停車した運転手が僕の方を見れば、“あの人、頭おかしいんじゃないか?”と思われるかもしれません。自分で言うのも何ですが、ある意味病気です。我ながら変な癖だと思うのですが、止められませんね。まあ、長い目で見てやってください。
昨夜は、地元歯科医師会で会合がありました。例の如く、会合の後に何人かの先生の話をしていたのですが、その中で話題にあがったのが警察に逮捕され、留置場に収監されている容疑者の歯の治療でした。
警察に逮捕され、留置場に収監されている容疑者ですが、彼ら、彼女らにも人権があります。以前であれば、収監中の容疑者の歯が痛くなっても警察は放置していたのですが、昨今の人権問題の取り上げられ方から、警察も無視できなくなり、応急処置を受けさせるようになってきたのです。ところが、実際の歯の処置は警察ではできません。歯科医院へ出向かないと治療できないことから、警察は警察署の近隣の歯科医院に連絡を取り、収監中の容疑者の歯の治療を受けさせるようにします。 昨夜、僕とともに話をしていた先生の何人かは、留置場に収監された容疑者の歯の治療経験がある先生でした。留置場に収監していた容疑者の歯の治療経験のあるK先生曰く
「容疑者と言っても警察官が手錠をはめ、紐をつけて逃亡しないようにくるし、容疑者も歯が痛い場合は大人しくしていますよ。他の患者さんに対して迷惑はかかるかもしれないけど、容疑者も患者さんだからね。どんな患者さんでも公平に診療することが求められているのではないかなあ。」
僕はK先生に質問しました。 「治療費は一体誰がもつんですか?そもそも、保険証なんてないわけですよね。」 「留置場に収監されている患者さんの治療は自費なんだよ。保険証がないからね。治療費の負担は、表向きは担当の警察官のポケットマネーということになっているみたいだけど、どうもそれなりの予算があるみたいだよ。それから、治療に関しては基本的に応急処置の1回だけだね。それ以上は無いとみていいだろう。本来なら経過をみていかないケースでも応急処置をしか警察は許さないみたい。」
会話に参加していた先生の中に、地元警察歯科医のH先生がいました。H先生曰く 「僕も何人かの囚人の歯の治療をしたことはあるよ。誰が囚人かわからないような数人の警察官に連れられてきた囚人を治療したんだけど、中には覚せい剤の常習者もいてね。その時はさすがに緊張したよ。大人しくしていたからよかったけどね。」
「俺も収監されている容疑者の歯の治療をしたことがありますよ」と言うJ先生。 「ある時、警察から連絡がありましてね。うちの歯科医院で治療を受けたいという囚人がいるっていうんですよ。“一体誰だろう?”と思い、名前を聞いたら、以前にうちの歯科医院に来ていた患者だったんですよね。うちの歯科医院の患者さんだった囚人からの指名があったわけですから断るわけにもいかず、待っていたんですよ。そうしたら、パトカーに乗ってやってきました。他の患者さんはびっくりですよ。何の前触れもなく、いきなりパトカーがやってきて、中から警察官に囲まれた男がうちの歯科医院の中にやってきたわけですから。」
パトカーという単語を聞き、敏感に反応したのがH先生でした。 「警察歯科医になって初めて警察から遺体の確認のために依頼があったんだよね。警察からの電話では迎えにいくということだったんだ。俺も警察歯科医としての初仕事だったし、パトカーがわざわざ迎えに来るということで、ある意味どきどきしていたんだ。何せ、それまでパトカーの中に乗ったことといえば、交通違反をして反則切符を切られた時に乗ったことしかなかったからね。今回は正式な警察からの依頼ということで堂々とパトカーに乗ることができると意気込んでいたんだよ。それが間違いだったよ。」 「どういうことなのです、その間違いって?」 「間も無くしてパトカーがうちの診療所にやってきたんだよな。俺は迎えに来てくれた警察官と一緒にパトカーに乗り込んだんだよ。ところが、その光景を近所の人が見ていてね。『H先生が警察に捕まった』と勘違いしたんだよな。そこから話に尾びれ、背びれがついて、俺が警察に逮捕されたという評判が近隣に広まったんだよ。良い評判ってなかなか伝わらないものだけど、人の不幸というか悪い評判というのはあっという間に広がるものだろう。俺は警察歯科医としてパトカーに乗り込んだのにも関わらず、近所の人からみれば俺が何か悪いことをして警察に逮捕されたとしか見られなかったんだよ。えらい目にあったよ。その悪い噂を火消しするのにどれくらい時間がかかったことか。その時以来、俺は警察から警察歯科医としての出動を要請された時は、自ら自家用車で出向くか、警察にはパトカー以外の車で迎えに来てもらうようにお願いしているよ。二度と誤認逮捕はいやだからな。」
2007年02月14日(水) |
おしゃれな男になりたい |
今日は2月14日。言わずと知れたバレンタインデイ。今やお歳暮やお中元のような習慣となりつつある、バレンタインデイ。世の女性が男性にチョコレートをプレゼントするという習慣は客観的に見れば実に変わった習慣ではないでしょうか?別にチョコレートでなくてもいいとは思うのですが、全国各地の様々な場所で女性が男性にチョコレートをプレゼントする光景が繰り広げられることでしょう。一応、我が家でも嫁さんがチョコレートを用意しているようですが、3月14日が怖いなあと思う今日この頃です。
話が変わりますが、 歯医者の姿というと白衣姿が目に浮かぶと思います。ところが、皆さんの中で、白衣を脱いだ普段着の歯医者を知っている人はどれくらいいるものでしょう?
僕が歯医者仲間や歯科医師会関係の会合で目にする歯医者の姿は、いうまでもなく普段着が圧倒的に多いです。むしろ、白衣姿を見たことがない歯医者の先生もいるくらいです。 普段着としてどんな服装を身に付けている歯医者がいるかと言いますと、人それぞれです。ただ、歯医者は女性が増えてきてはいるものの、まだまだ男性が圧倒的に多い社会です。世間一般の男性社会の服装の傾向が歯医者の世界でそのまま通じるのではないかと思うのです。
何日も同じ服装しているのではないかと思われるくらいいつも同じファッションの人がいるかと思えば、常にユニ○ロ系の服装で全身を固めた人もいます。そうかと思えば、「数ある服の中でどうしてそんな服をチョイスしたんだ!」と言いたくなるくらいブランド物でかため、派手好みの先生もいるかと思えば、あまりにも地味過ぎて存在そのものがわからないくらいの服を着られている先生もいます。
僕が仕事をしている地元歯科医師会には、いつもおしゃれな井出達をしている先生がいます。A先生は決してハンサムというわけではありません。どちらかというと三枚目系の風貌で、体型は小太りの方に入る人です。年齢的には初老に近い年齢であり、髪の毛には白髪がかなり混じっています。けれども、いつも身に付ける服が何とも垢抜けているのです。
嫁さんがA先生を見たことがあるのですが、見るや否や
「A先生っておしゃれね!」 と言っておりました。テレビを見ていると、服装チェックを頻繁にしている嫁さんです。テレビ番組よりも登場人物の服装だけをチェックしているんじゃないかと言いたいくらい時もあるくらいの嫁さんなのですが、そんな嫁さんがA先生を見て、身に付けている服のセンスを絶賛していました。 嫁さん曰く、A先生は決して高価な服を身に付けているわけではないが、一つ一つの服装の選び方が絶妙で、組み合わせ方に一工夫あるのだとか。
僕は思い切ってA先生に服装のことを尋ねてみました。A先生は 「僕はおしゃれでも何でもないよ、ハッハッハ・・・」と笑いながらこんなことを言われました。
「服が好きなんだよ。定期的になじみの店に行って覗くのだけど、他人と同じような服装をするのが嫌なんだよ。」 「服は全て自分で選ぶのですか?」 「そうだよ。家内にも尋ねることはないことはないけど、ほとんど自分で服を選ぶねえ。」
愚考するに、A先生は自分の外見のことを熟知しているのではないかと思うのです。熟知しているからこそ自分に似合った服装を自分で選び、合わせる。そのことが億劫ではなく、まめであると思います。おそらくA先生も最初は服選びに失敗を重ねていたのかもしれませんが、何度も試行錯誤を重ねていくうちにセンスが磨かれ、自分の個性を引き出す服を選ぶ能力を身に付けられたのではないでしょうか。 女性の方なら当たり前のことではないかと思われるかもしれませんが、男性でこのような方は珍しい部類に入るのではないかと思いますが、いつも見ていてどこか垢抜けている服を着こなしている方に、僕は憧れます。
自分の身の回りのことを構いださなくなったら、その人の精神状態はかなり危ない状態であると指摘する方もいるようですが、僕もいくら精神的につらくても身の回りを構うくらいの余裕は持っておきたい。そのためにも、見につける服装ぐらいは、いつもこぎれいな物を身につけたいと思うのですが・・・。
僕もいつかはA先生のようなおしゃれな服を選ぶことができ、身に付けられるようになりたいものです。ちなみに、今の僕の私服の選択権は全て嫁さんにあります。プロデュースドバイ嫁さんであるわけです、ハイ。
僕が某病院の歯科研修医時代の時のことでした。僕がある患者さんの抜歯をしていると、指導医の一人は僕に耳打ちしたのです。
「患者さんがうがいする時を注意して見るように。」 僕は“なるほどなあ”と感心しました。
患者さんの抜歯が終わり、止血を待っている時、患者さんにうがいをしてもらう時があります。その際、僕の指導医は、患者さんがうがいをして吐き出した水を見ることを注目するように指導したのです。どういうことを意味しているかといいますと、抜歯後きちんと止血できなければ、吐き出した水の中に血が混じっていることがあるからです。それによって、更なる止血処置を追加しないといけないのです。 抜歯をした後の止血処置は、歯医者にとって欠かすことができない処置です。そのことを確かめる一つの方法としてうがい時に患者さんが吐き出す水を注視することが大切であることを僕は教わりました。
歯科医院に来院された患者さんの行動、言動を見ることは歯医者にとって非常に大切なことです。何気ない仕草、動作、会話から患者さんから得られる情報があるものです。 “何となく落ち着かない” “いつもよりも多弁である” “ちょっとした物音が気になる” “周囲をきょろきょろ見回る” “視点が合っていないような状態” 等々、患者さんが示す行動、状態から得られる情報は診療を行う上で非常に大切な情報となります。 患者さんが訴える主訴を聞き、実際に口の中を診査し、診断する。そして、患者さんに治療について説明し、同意を得られれば治療を始める。こういった行為が患者さんごとに繰り広げられるわけです。 そんな患者さんの行動の中で何気なく観察することの一つがうがいです。僕がうがいを注目するようになったきっかけは、先に書いた抜歯後の止血確認のためですが、今では患者さんから得られる医療情報の一つとして注目しながら見ています。
治療の合間や終了時に患者さんに口をゆすいでもらうことがあります。歯科医院に来院された方なら誰しもうがいはされているはずです。うがいをする場所は診療台の左横、場合によっては右横の場合もありますが、そこに設置されているスピットンと呼ばれる場所です。 中にはスピットンが無い診療台もあるのですが、ここではスピットンがある診療台を前提に話をしていきます。
興味深いことにうがいをする際、患者さんの動作は様々です。例を挙げますと
うがいをするのに口のうがいと共に咽喉のうがいをされる患者さん 口のうがいをする際、首を激しく左右に振りながらうがいをされる患者さん うがいを吐き出す際、必ず痰も一緒に吐き出す患者さん うがいをする際、頬をガマ蛙のように膨らませる患者さん うがいをする際、かならず“クチュクチュ”という音を発せられる患者さん などがいると思えば、
うがいは必ずコップ2杯分しないと気がすまない患者さん うがいを吐き出す際、必ずといっていいほどスピットンからはみ出るように吐き出す患者さん 全くうがいをしない患者さんもいます。
うがいを終了した時、ハンカチで口元を拭かれる患者さんもいれば、ティッシュで口元を拭かれる患者さんもいます。こうした患者さんはいいのですが、中には口元を手で拭いてた後、その手を自分の服につけてしまう患者さん、汚れた手を診療台に擦り付けてしまう患者さんもいます。この手の患者さんは歯医者にとって非常に対応に苦慮します。なかなか面と向かって診療台を汚さないように言えませんから、結局、患者さんの入れ替えの間にスタッフに掃除してもらうことになります。困ったものです。
うがいの仕方も三者三様といったところでしょうか?この何気ないうがいという行為を診ていると、患者さんの本当のキャラクターが見え隠れしているような気がしてなりません。 このようなことを書くと患者さんに失礼かもしれませんが、敢えて書かせてもらうと、うがいをしている時の人は無防備なものです。治療という緊張を強いられる合間のうがいです。ちょっと一息といったところがあり、ほとんどの患者さんが気を許してしまう瞬間ではないかと思います。そんな時に行う動作、所作であるうがいの仕方にその人の本質が見えてしまうのではないかと感じるのです。 まあ、好きで患者さんのうがい姿を見ているわけではありませんが、うがいの仕方、動きを見ていると、会話をしているだけではわからなかった患者さんのキャラクターが垣間見えるように思えます。僕にとってうがい姿を見ることは非常に興味深いことです。ある意味、歯医者冥利につきるといっても過言ではないでしょう。
2007年02月10日(土) |
参議院議員選挙の準備 歯医者の場合 |
歯科医師会は多くが公益法人であり、学術団体です。それ故、歯科医師会が組織として政治活動を行なうことはできません。歯科医師会は別組織を作りその組織が政治活動を行なっています。日本歯科医師会の場合は、日本歯科医師連盟。数年前、中医協を舞台とした汚職事件で一躍世間で名前が知れ渡りました。あまり良い意味ではないですが。
ところで、今年の夏は参議院議員選挙の年であります。既に多くの業界では夏の参議院議員選挙に向けてそれぞれの職域代表として候補者を決め、政党の支援を受け、活動を始めています。法律の関係でこれら候補者はおおっぴらな活動はしていませんが、業界内では着々と参議院議員選挙の準備を始めています。
実は、歯科医師会、いや歯科医師連盟でも既に候補者を擁立し、全国各地で選挙活動を始めています。今回の歯科医師連盟推薦の候補者は女性歯科医師。広島県出身の方なのですが、ポスターの写真を見ると上沼恵美子そっくり。 それはともかく、上沼恵美子似の候補者は、診療の合間に現在全国各地を飛び回り、選挙支援をお願いしてまわる日々を過ごされています。既に当地にも何度も来られておられています。歯科医師連盟ではこの上沼恵美子似の候補の後援会を各地に作り、ますます選挙準備を活発化させています。早々に与党自民党の公認も受けています。
歯科医師連盟の幹部の方はこう訴えます。 “我々の職域代表を国会に送り込まないと、国政の場で歯科医師の考えを直接伝え、歯科医が歯科医療の政策に携わることができなくなる。官僚の言いなりになってしまわないよう、是非とも今回の選挙では○○先生(上沼恵美子似の候補者のこと)を当選させるよう努力しないといけません。”
言われていることは理解はできるのですが、その反面、僕はどうも納得できないことがあります。 確かに、業界代表として議員を送ることは必要だとは思います。国政の場で歯科医師の考えを直接伝えられる人がいることは歯科医療の発展に大きく寄与するものだとは思います。ところが、これまで歯科医師会の職域代表が歯科医療の発展のために、国会の場で汗を流してきたかと言われると、首を傾げたくなるのです。特に、ここ数年の小泉内閣時代には、様々な改革と称することが行われた裏で、福祉医療の切捨てが行われて、多くの人が苦しんでいるのは周知の事実。こうしたことは最初からわかっていたはずなのですが、この動きを止められた無かったのも事実。小泉内閣時代、与党に歯科医師連盟の職域代表の議員もいたのですが、彼らは小泉内閣の福祉医療切捨てに異を唱えなかったどころか、賛成にまわってしまった。一体、職域代表とは何なのか?僕は疑問をもたざるをえないのです。
今度の歯科医師連盟の職域代表候補も自民党公認。政権与党から出ることで直接政策に携わることができるとのふれこみなのですが、先例を見ていると全然説得力がありません。 歯医者としての本音を言わせてもらえば、昨年、政権与党は、診療報酬改定でマイナス改定を行ないました。この改定ではほとんどの医療機関が影響を受け、対策に苦慮しています。歯科医院でも大半の歯科医院が経営に四苦八苦の状態に陥っています。ここまで政権与党に裏切られておきながら、どうして歯科医師連盟の代表が政権与党公認なのでしょう?あまりにも人が良すぎるのではないかと思わざるをえません。
複雑な思いを抱きながら、歯科医師連盟からの職域代表候補の活動を見つめている、歯医者そうさんです。
2007年02月09日(金) |
既に老眼が始まっている? |
日常生活を過ごすに当たり、目で物を見ることは非常に大切なことです。目から得られる様々な情報を脳の中で処理し、行動するのが人間なのは言うまでもありません。読者の皆さんが僕の駄文日記を読むことができるのも、皆さんの目があるからですね。
仕事においても目が果たす役割は際限なく大きなものです。何を書くのか、何をつかもうとしているのか、何を取ろうとしているのか、何を操作しようとしても、目を使うことは必要不可欠なことであるはずです。 医療の世界では、目が見えないと仕事になりません。歯医者稼業もそうで、口や歯、歯肉、粘膜などが目で見えないと診査、診断できませんし、治療を行うこともできません。歯医者にとって目が見えること、視力の問題は死活問題なのです。
先日、歯医者仲間同士で話をしていると、視力のことが話題にあがりました。口の中を診て、治療するにはかなりの照度の光を使用しないといけません。歯の治療では室内の蛍光灯の光だけでは十分に口の中を診るには暗すぎます。そこで、室内の蛍光灯以外に各診療台には必ず口腔内を照らすライトが常備されています。このライト、照度が3000ルクスと言われています。一般の生活で必要とされる照度は100〜300ルクスと言われていますから、如何に歯医者が明るい光のもと、目を酷使しているかわかるというものです。
多くの歯医者は午前と午後の診療の合間に休憩を入れますが、その際、目をつぶる歯医者が多いのです。その理由の一つは酷使している目を休ませる意味があるのです。かくいう僕もそうで、昼休憩の間は、わずかな時間でも目をつぶり、目を休ませるように心がけています。
ところで、40歳代の人が必ず経験することの一つに老眼があります。これまで焦点があって十分に見えていた範囲が急に見えなくなる。視野を遠くすると焦点が合い、見えるようになる。これがまさしく老眼なのですが、歯医者も例外ではなく、老眼の対策に苦労しています。 ある先輩の先生曰く
「そうさん先生は40歳だったね。先生も既に老眼が始まっているよ。老眼って30歳代の後半から始まっているものなのだよ。本人が気がついていないだけでね。眼鏡を取って以前よりも見えやすくなるようなことがあれば、それは老眼の兆候だよ。」
僕は思い当たることがありました。 「実は、僕は数年に一度眼鏡のレンズを交換しているのですが、昨年が交換の年だったのですよ。懇意にしている眼鏡屋さんに視力を測ってもらったのですが、『視力が改善していますね』と言われ、以前のレンズよりもやや弱いものと交換したんですよ。」 「それは、眼鏡屋さんが気を利かしてくれた証拠だよ。本人に対して『老眼が始まりましたね』なんてなかなか言えないものだよ。眼鏡屋さんは事実を知っているものの、表現をぼかしてレンズをそうさん先生の現状にあったものを選び、調整してくれたんだよ。」
老眼になった場合、歯の治療をどうすればよいか?ということで話題にあがったのがこれでした。 これは拡大鏡と呼ばれるもので、元々は脳外科医や心臓外科医が手術などで微細な部分を処置したり、血管縫合する際に用いられていたものです。これを歯科にも準用したものなのです。裸眼で見るよりも手元が拡大され、クリアに見る事ができます。 実は、僕もこの拡大鏡を数年前から使用しています。常時使用しているわけではないのですが、細かい部分を削ったり、仕上げをしようとした時に細部を確認するのに役立っています。当初、この拡大鏡を利用しようとするのは抵抗感がありましたが、実際に使用してみると裸眼で見えなかった微細な部分を確認することができ、一種の感動を覚えました。それ以降、使用しているわけですが、老眼が進んでくるとこの拡大鏡を使用する頻度が増えてくるとのこと。仕方のないことかもしれません。高齢歯医者の宿命かもしれません。
とにもかくにも、既に老眼が始まっている可能性が極めて高い歯医者そうさん。寄る年波には勝てないということでしょうか?それは悲しすぎる!
2007年02月08日(木) |
誰が見ているかわからない |
先月、地元歯科医師会主催の新年会が開催されました。一年の門出を祝う会として毎年開催されている新年会ですが、僕も新年会に参加し、何人もの先輩、上司、後輩の先生に新年の挨拶をし、会話を交わしてきました。新年の挨拶を交わした先生の中には、最近、地元歯科医師会に入会された先生も何人かおり、僕も先輩として挨拶をしたのですが、その中の一人Y先生が僕にこんなことを言ったのです。
「そうさん先生とは初めてお会いしたのではないのですよ。」
僕は戸惑いました。僕自身、Y先生と初対面のつもりでした。以前にどこかで会ったことがあるのかと思い、自分の記憶を辿ったのですが、僕の記憶にM先生の顔はありませんでした。
「いつお会いしました?僕は全然覚えていないのですけど。」 「そうさん先生はお子さんが○○幼稚園にいらっしゃいますよね。」 初対面の先生に言われ僕はびっくりしました。まさしく、下のチビが通っている幼稚園が○○幼稚園だったからです。M先生は更に言葉を続けました。
「実はうちの子供も昨年○○幼稚園に入園したのです。そこで、そうさん先生のお顔を何度もお見かけしているのです。」
頭の悪い僕でもピンときました。僕は現在、○○幼稚園のPTAの会長をしているのですが、 M先生は入園式や運動会、バザーなどで僕が挨拶をしたり、現場を走り回っている姿を見ていたのです。何と世間は狭いことでしょう。僕が初対面のつもりでも、M先生にとって僕の顔は既になじみの顔だったのです。
家に帰り、そのことを嫁さんに話すと
「そんなこともあるわよ。私の幼稚園のお母さん友達の間でも、そうさんは有名よ。何せPTA会長だからね、ハッハッハ・・・・。」
昨年の今頃、僕は○○幼稚園の園長先生からPTA会長の就任の話をされました。いろいろと考えた挙句、任期が平成18年度の1年間ということでPTA会長を引き受けたのでした。これまで、入園式やPTA総会、運動会やバザーなど様々な幼稚園行事に参加し、多くの保護者の前で挨拶をしてきました。その結果というべきでしょうか、僕は幼稚園に通う多くの保護者に顔が知られてしまいました。幼稚園の近くのショッピングモールやコンビニ、スーパーや駅、バス停等々、僕がうろついていると全く見知らぬ女性から頭を下げられる、といったことに頻繁に遭遇するようになりました。その都度、僕も挨拶をするわけですが、挨拶をするものの、僕としては相手が誰か検討がつきません。少なくとも、○○幼稚園関係の親御さんであることは間違いないのですが。相手の方からすれば僕がPTA会長であることはわかっているだけに、何とも不公平なものです。
おかげで、近隣では下手なことはできなくなりました。一体下手なこととは何か?ということは置いといて、思わぬところで思わぬ人から僕は見られているという事実。これまで以上に自分の言動には注意をしないといけないなあと感じた、歯医者そうさんです。
2007年02月07日(水) |
痴呆のおばあちゃんからのプレゼント |
昨日、午前の診療を終え、昼食を取っていた時のことでした。近くに住んでいる叔母が訪ねてきました。叔母は僕を見るなり、 「見せたいものがある」と言うのです。 “叔母が直ぐにでも僕に見せたいものとは一体何だろう?“いろいろと思いめぐらせようとした時、叔母が見せてくれたのが下の写真でした。
この写真は僕がかつて祖母にプレゼントした土産物です。 今から13年前、当時某大学の大学院生だった僕はある国際学会で発表するため、カナダのモントリオールへ出張しました。初めての海外での国際学会発表ということでいろいろと思い出深い学会であったのですが、その際、家族にいろいろと土産物を購入しました。その中の一つが上の写真で、一種の記念楯のようなものです。表には “I love you, grandma”と書かれてあります。
幼少時代の僕は、母方の祖父母と一緒に暮らしていました。弟が誕生し、お袋が弟の世話に掛かりっきりにならざるをえなかった時、僕を世話してくれたのがお袋の祖父であり、祖母であったのです。幼少の頃の僕はおじいちゃん子であり、おばあちゃん子でもあったのです。 僕がカナダはモントリオールへ出かけた当時、既に祖父は他界していましたが、祖母は元気一杯でした。僕はモントリオールへ出かける際、祖母にそのことを伝えたのですが、祖母は 「何やら難しい話をするために外国へ行くんだねえ、頑張ってよ」と励ましてくれたものです。そんな祖母に買ってきた土産物が上の写真だったわけです。祖母は僕の土産物を大変喜び、自分の部屋に飾ってくれていました。
そんな祖母も今では僕の顔を見ても反応を示してくれません。祖母は痴呆、すなわち認知症が進んでしまいました。きっかけは数年前に見つかった乳癌でした。祖母は乳癌の手術により左右両方の乳房を全て摘出してしまったのです。手術後の経過は順調だったのですが、次第に言葉数が少なくなり、まだらボケが始まりました。認知症は徐々に進み、玄関先で転倒し大腿骨骨折してからは、寝たきりに近い状態となっています。今では嚥下、すなわち、飲み込むことが不自由となり胃瘻の手術を受け、胃瘻で食事を取らざるをえなくなっています。
昨日、たまたま叔母が祖母の部屋を叔母が掃除した時に、上の写真の楯をはずしたのだそうです。そこで叔母はあるものを見つけました。それはこの楯の裏側にありました。叔母はこの楯の裏側を僕に見せるために、我が家に楯を持ってやってきたのです。
“喜びて手をかけし初孫が遠き国より吾にみやげを” “男の子故異国への旅気に成らずそれよりうれし学会発表” “よく学び英語の発表素晴らしいよく育ちたる孫見上げみる”
楯の裏側には僕がモントリオールから帰った直後、祖母が書いたと思われる三篇の短歌が書かれてありました。僕自身、このような短歌は初めて見ました。僕だけではなく、お袋や叔母も全く知らなかったと言います。 おそらく誰にも言わず、僕の土産物をもらった時の気持ちを短歌に書き、そっと楯の裏側に飾っていたのでしょう。今となってはその真意を知ることはできませんが、僕にとってはこの短歌だけで充分でした。 認知症が進んだ祖母からの思わぬプレゼント。
「おばあちゃん、どうも有難う!」
2007年02月06日(火) |
社会インフラと健康に共通するもの |
昨夜、一日の診療を終え自宅に帰ると、一足先に帰っていた親父がこの番組を見ていました。
この日のテーマは社会インフラの老朽化問題。最近、北見市で起こったガス漏れ事故での原因も、かつて敷設された鋳鉄製ガス管の腐食が原因であることがわかったのは記憶に新しいところ。かつて整備された道路や橋、下水管、ガス管といった社会インフラが老朽化し、各地で被害が多発しているというのです。 これら社会インフラの多くの中でもコンクリートと鉄筋で作られたものは、かつて永久建築物と呼ばれていたもので、一度作ってしまえば永久的に保たれるという話だったとのこと。実際はそうではないことがないことが今から30年前にアメリカでわかったそうなのです。アメリカ各地で道路や鉄橋の陥没や落下が頻発したことからわかったのだとか。 日本においては1960年代の高度経済成長期に整備された社会インフラが軒並み限界に達し、崩壊の危機に達しているそうで、各地の自治体では社会インフラの補修に苦慮しているそうなのです。 こうした社会インフラを少しでも維持させるには、新規に社会インフラを整備するよりも、新規に整備した社会インフラを早期のうちから保守し続ける必要があり、そのことが結果的に社会インフラに対するコストを下げることになるという内容でした。
このテレビを見て思ったのは、社会インフラも人間の健康とよく似ているなあということです。 人間は、健康である時は自分の体のことになかなか関心を持たないものですが、何処か体を患うと治療費用が掛かります。直ぐに治る病気であればいいのですが、大病を患ったり、慢性疾患を患うと医療費をかなり負担し続けないといけません。社会全体で考えると、大病や慢性疾患の医療費は莫大な額になります。 人間誰しも健康でありたいものですが、その健康を維持するためには、健康であるうちから病気にならないような予防が必要です。予防を進めることが、医療費のコストを下げることにも繋がるのです。
以前にも書いたことですが、日本歯科医師会では8020運動を進めています。これは80歳で20本の歯を維持できれば、一生自分の歯で食べることができまという意図で進められた運動なのですが、最近、大規模な調査で8020達成者の医療費が明らかにそうでない人に比べ低いということがわかってきました。 8020を達成するためには、若い頃からの歯の予防が大切で、定期的に歯科医院を受診し、歯が悪くなる前に歯の健康チェックを受け続けることが必要です。こうした若い頃からの心がけが結果的に8020となり、歯だけでなく体全体に掛かる医療費を抑制することに繋がるのです。厚生労働省もこの8020に重大な関心を抱き、今後の政策の中に8020を入れることを真剣に検討しているのが現状ですが、その背景には少しでも増え続けている医療費を少しでも抑制したいという本音があるのです。
社会インフラをめぐる状況と医療費をめぐる状況は極めて似かよっているのです。少しでも長く維持、機能するためには早期からの保守維持、疾病予防が必要であり、そのことがコストを下げる。 一見すると社会インフラと健康とは関係のないようなものかもしれませんが、大いに共通点があるものだと感じた次第。 社会インフラと健康の二つの共通点だけで判断することは無理があるかもしれませんが、世の中に存在するものは最初から大切に丁寧に扱うことが長持ちすることかもしれないなあと感じた、歯医者そうさんです。
2007年02月05日(月) |
有名人口元チェック アニータ・アルバラード |
先週末、南米の国チリから日本へやってきたある女性がテレビで取り上げられました。その女性の名はアニータ・アルバラード(アニータ)。
今から6年前、青森県住宅供給公社の元職員である千田郁司が公金横領の罪で逮捕されました。千田郁司が横領した金額は、尋常な額ではありませんでした。およそ14億円余り。どうしてこのような高額の公金を横領することができたのか、いい加減な会計管理や責任の所在などが当時の大きな話題になったものです。 捜査が進むに従い、横領した金の多くが一人のチリ人女性に送金されていたことが明らかになったのです。その女性がアニータでした。 千田受刑者はアニータと婚姻関係にあったようですが、アニータは日本を離れチリに帰国していました。そんなアニータに対し、千田受刑者は公金を送金していたことがわかったのです。アニータは千田受刑者から送金されたお金で自身の豪邸を建てたり、レストランや病院を買収するなどしていたのです。 後日、青森県はアニータに渡った公金を回収しようとしたようですが、結果的に5千万円しか回収できなかったとか。一説には弁護士費用がかさみ1000万円程度との話もあるくらいです。
あれから6年。当事者の一人のアニータがどうして今頃日本にやってきたのか、正直言ってよくわかりません。何でもチリのテレビ局の番組がらみで来日したようですが、先週の後半にはアニータの動向を日本のテレビも頻繁に伝えていました。
正直言って、僕はあまりアニータに関心は持たなかったのですが、テレビに放映されたある写真を見て、おやっと思いました。それは、アニータが千田受刑者との結婚した際に記念に撮影した写真でした。 いつものように、口元に視線を向けると、写真に写っていたアニータの口元が今の口元と違うことに気が付きました。結婚当時のアニータは前歯の一部が口唇側に傾いていたのです。すなわち、上の前歯が出っ歯だったわけです。ところが、今のアニータの口元は前歯が全てメタルボンド冠という被せ歯に変わっているのです。
歯を削って歯並びを治す治療は、芸能人がよくやる手です。矯正治療で歯並びを変えるのは時間がかかる。それならば自分の歯を削り、被せ歯によって歯並びを修正する方が手っ取り早い。以前、八重歯で有名だったアイドルが突然歯並びがよくなったなどというケースは、歯を削り、被せ歯にしたと言って間違いないことでしょう。 アニータも自分の歯並びにコンプレックスがあったのでしょう。自分の前歯を全て被せ歯にしてしまっています。
いつアニータがメタルボンド冠という被せ歯をセットしたのか定かではありませんが、少なくとも千田受刑者との結婚後、何処かの歯科医院で治療を受けたはずです。日本の歯科医院なのかチリの歯科医院かはわかりません。もし、日本の歯科医院で治療を受けたならば、彼女の歯の治療に要した費用は100万円はかかっていることでしょう。 このような高額な治療費を支払うことができたのなら、この費用の支払いの元手は一体何なのでしょう? そうです。青森県住宅供給公社から横領され、千田受刑者から送金された公金の一部が彼女の被せ歯の治療に使われている可能性が高いのではないでしょうか。 アニータは、多額の公金をチリでの豪邸やレストラン、病院まで購入するような輩です。自分の私物や体に対しても相当の投資をしていても不思議ではありません。その中に自分の被せ歯の治療費用も含まれている可能性が極めて高いと思うのです。
いずれにせよ、自分が日本でどのように思われているのか知ってか知らずか、堂々と日本にやってきたものです。厚顔無恥も甚だしいと思うのですが、そんな厚顔無恥の輩に付き合う日本のマスコミも如何なものかと思いますね。僕もそんなマスコミに踊らされた一人ではあるのですが、少なくともアニータの歯の治療に青森県住宅公社の公金の一部が使われている可能性が高いことを知ることができたのは、ある意味、収穫だったかもしれません。
2007年02月03日(土) |
重宝するコンビニトイレ |
先日のことでした。朝の通勤時間帯、僕は車で某所へ出かけていたのですが、運転の途中で便意をもよおしました。その時、僕はお腹の調子が悪く、下痢気味でした。家を出る前にもトイレに駆け込んだくらいだったのですが、再びトイレに駆け込みたくなったのです。最初のうちは目的地まで何とか我慢して運転しようと考えていたのですが、どうもそれが不可能であることがわかってきました。
“さて、どうしよう?トイレがありそうな場所は何処かないだろうか?”
僕が車を走らせていた界隈は比較的地理を知っているところでした。直ぐに思い出したのが、あるガソリンスタンドでした。そこまで何とか我慢してという思いとは裏腹に、道路は渋滞中。なかなか車が前に進みません。このままでは我慢できなくなってしまう! その時でした。僕の目の前に見えたのが某社のコンビニの看板でした。
“ここしかない!”
僕は直ぐにそのコンビニにへ車を寄せ、店内に駆け込み、何とか急場を凌ぐことができたのです。
いつ頃からでしょうか、最近のコンビニには必ずと言っていいほどトイレが設置されています。おそらく従業員用に用意していたトイレを一般客にも開放したところ、好評だったため、今やコンビニの標準装備の一つとしてトイレが設けられ出したのかもしれません。
今回のような僕のようなケースや子供の思いもかけぬ尿意や便意の際、コンビニのトイレは非常に助かります。街中で公衆トイレを見つけることは難しいかもしれませんが、コンビニは全国各地のいたるところにあります。また、看板も設置され目立っています。我慢できない尿意、便意をもよおした際、コンビニにトイレがあるということは何とも心強いものです。一般市民にとって一種のインフラとも言えるかもしれません。 日本は、外国に比べ公衆トイレの数が多いという話を聞きます。確かに様々な建物や施設には必ずといっていいほどトイレが設置されてはいますが、コンビニのトイレは、これらトイレの隙間を埋めるような役割を果たしていると言っても過言ではないではないでしょうか? かつて“町のホットステーション”なるキャッチコピーなるものが某コンビニの宣伝でありましたが、今やトイレという点においても、コンビニは“町のホットステーション”ではないかと考える、歯医者そうさんです。
昨夜、僕はある方の通夜に参列してきました。その方とはM先生。M先生は僕が大変世話になったm先生のお父様で歯医者でした。享年96歳。 通夜の席で伝え聞いた話では、M先生は昨年の年の瀬まで大変元気にされていたとのこと。今年になってから風邪をこじらせ、病院に入院していたそうですが、体力が回復せず鬼籍に入られたのだそうです。
僕はM先生には何度かお会いしたことがあります。僕はある時期、m先生の歯科医院を何度も訪問したことがあるのですが、その際、いつもm先生と一緒に患者さんを治療していたのがM先生でした。親子同じ歯科医院の屋根の下で仕事をされておられていたのです。 僕がよくm先生の歯科医院を訪れていた当時、M先生は既に90歳近かったはずですが、実にかくしゃくとしておられました。M先生をかかりつけの歯医者とされている患者さんも多く、若先生であるm先生と変わらない診療ペースで仕事をしておられたのが印象的でした。 高齢なM先生の治療技術はどうなのだろうと思っていたのですが、密かに見たM先生が作られた患者さんの模型をみて、技術の確かさに僕は驚きました。90歳近い年齢であっても一向に衰えない技術の正確さ。一体M先生はどんな日常生活を送っているのだろう?恐れ多いながらもM先生にそのことを質問してみました。 M先生曰く
「何も特別なことはしていませんよ。長年やっていることといえば、早寝早起きぐらいですかな。何よりも歯医者という仕事が好きなのですよ。」
純粋に歯医者を楽しむことができる域にまで達しておられていたM先生。偉大な方です。僕自身、今後どんな歯医者になるかどうかわかりませんが、M先生は僕のあこがれ、目標である先生の一人であることは間違いありません。
尊敬するM先生のご冥福を祈りたいと思います。
合掌
2007年02月01日(木) |
容疑者の過去写真掲載について |
長年歯医者稼業をやっていると、普段から人様の口に関心がいってしまうことはこれまで何度も書いてきました。口というのは顔のパーツの一部ですので、顔のことを抜きにして考えることはできないもの。口の中を治療する際、顔全体のことも考えながら治療することが求められます。 ところが、普段の歯医者の仕事では口の中に気が入ってしまいがちで、顔全体のことを考える余裕が無くなって来ます。このようなことにならないよう、僕は普段から意識的に顔にも関心を向けるようにしています。 写真を見る時も同様で、口の周囲を中心にどのような顔をしているのか、僕は常に関心を持って見ています。
昨今、思いもかけぬ悲惨な事件、凄惨な事件が後を絶ちません。年明け早々から東京の歯科医師一家の尊属殺人事件があったと思いきや、夫を殺し、死体を切断し、遺棄した事件などなど枚挙にいとまがありません。人間というもの、精神的に追い込まれると人を殺してしまうことを何とも思わなくなるものなのでしょうか?自制心が無くなり、歯止めが利かなくなってしまった残虐な行為には言葉を失ってしまいます。
この手の事件で、マスコミで必ず報じられるのが容疑者の写真です。報道ということを考えると容疑者の写真を取り上げることは仕方のないことかもしれません。けれども、僕がどうしても納得できない写真があります。それは、容疑者の過去の写真です。容疑者の学生時代の写真や卒業写真、友人同士の旅行での写真や勤務先での写真など、現在の容疑者の写真ではなく、かつての写真を掲載するマスコミが目立つように思います。これら写真を見る度に僕は思うのです。
“容疑者の過去に罪はないだろう!“と。
容疑者が事件を起す背景には、容疑者自身がかつて育ってきた環境が影響していることは大いに考えられると思います。家庭での躾、親や兄弟姉妹との接し方、近所との付き合い、学校での授業態度、友人との関係、クラブ活動、アルバイト、勤務先での仕事ぶりなどなど、容疑者を取り巻く環境のいくつかが容疑者を犯罪に導いた可能性は否定できないことでしょう。 けれども、再犯でない限り、現在の状況ではない過去の時点において、容疑者と言われる人は何も罪は犯していないはず。同一人物であっても、罪を犯した現在の容疑者と罪を犯していない過去は違うはずなのです。
僕は思うのです。現在、容疑者として逮捕された時点での写真を公開するならまだしも、かつての何も罪を犯していない、容疑者となる前の人の写真を掲載するのは如何なものかと。マスコミで報道される写真の中には、容疑者の幼少時代の写真を平気で取り上げている例さえあります。幼少時代に罪を犯したわけでもないのに、今の時点で容疑者であるという理由で過去の容疑者の写真を掲載するということは、それこそ人権を無視しているとしか思えないのです。 マスコミ関係者の話では、何か事件が起こり、容疑者が逮捕されると、容疑者に関係する人に接触し、その容疑者に関係する写真の提供を求めるそうですが、マスコミ関係者も、また、写真を提供する側もこのような行為は慎むべきではないでしょうか。
マスコミで容疑者のことを取り上げるならば、罪を犯した現在の写真に近いものだけを掲載すべきで、それ以外の過去のものは掲載すべきではないと考える、歯医者そうさんです。
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