DiaryINDEX|
past|
will
2022年10月21日(金) |
こんなお母さんになりたい |
朝食に自家製黒豆納豆をご飯に乗せて、オリーブオイルとフルール・ド・セルをかけてみる。葉加瀬太郎さんがJ-WAVEのラジオ番組で美味しいと言ってた。普通の納豆に醤油または味噌に柚子七味もいいけど、これはこれで一味違っていい。ロクちゃんはちょっと食べるペースが落ちてたから、普通の納豆ご飯のほうがいいんだろう。そういえばここへ来たばかりの時、梅干しの代わりにオリーブをご飯に乗せて食べてたっけ。地産地消というけど、やっぱりそこの土地にいたら、そこのものを食べてるのが一番健全だろう。
ここ数日母と同じ年の隣人から彼女の友達に対する愚痴をよく聞かされる。この話をする時、彼女はすごく怒ってて、その怒りの根源が寂しさなのだとわかるから、一緒に辛くなる。ふたりは同郷で、何十年もテニス仲間としてつきあってきた。だが、数年前友人の夫が亡くなって以来、生きる気力を失ってしまい、食事も作らずスーパーのプロセスフードばかり、ついにはあちこちが痛いと言い出し、暇さえあれば入院している。病院にいれば食事もでてくるし、話し相手もいる。退院したくないから、治ろうとはしない。そして隣人がお見舞いに行けば、死にたい、死にたいとそればかり。隣人は憤って叱る。
「リハビリも何も真剣にやらないで、治るものも治らないでしょ。死にたいって言ったって、そう簡単にあなたの希望通りにはならないのよ」
友人はこう返す。
「わたしより7歳若くて元気なあなたにわたしの痛みなどわからないでしょうね」
こんな口論ばかり。死にたいという人を前に何ができるのだろう。わたしだってわからない。隣人だって不妊や離婚、血の繋がってない養子との絶縁、ダウン症の孫との生活と人生にあれこれある。ただ彼女は精神的になんとか切り抜けられただけなのだ。それを"あんたにはわからない"といかにも自分だけが大変なのだと言われることに憤り、友人が変わり果ててもう過去の楽しかった時間は戻らないのだということがとてつもなく寂しいのだろう。
子供が欲しいと明確な強い意志を持ってお母さんになった人というのは、子育てに関しても明確なヴィジョンを持ってるもので、離乳食はこうあるべきで、この時間は寝かしつけ、おもちゃは知育になるもの、よくよく本を読んで聞かせて‥とかあれこれあって、教育に関する本も読み漁ってて、〇〇式とかいう話を聞く。そんな話を聞いてると、ただ流れに身を任せてお母さんになったようなわたしのような人はすっかり気後れしてしまうことがある。人からもらった服やおもちゃを充てがい、食事はこうあるべきとか、教育はこうあるべきとかいうような大した方針もない。一生懸命育ててます。それしかない。ただ、そんなわたしでもこんなお母さんでいたいっていう小さな理想のようなものはある。ロクちゃんには普通にガラスのコップや陶器の皿で食事をさせているのだが、数回落として割ったことがあった。そんな時、いつも思い出すのは「青いパパイヤの香り」で使用人のムイが壺を割った時、奥さまがいいのよとさっと涼しい顔で許したシーン。高価そうだし思い入れもあるかもしれないに。いつも大切な陶器が割れた時、あのシーンを思い出して、あんな風でいたい、と思う。ロクちゃんが落とすからって、落としても割れないプラスチックやシリコンを充てがわなくていい。ロクちゃんには自分の気に入った食器をあげる。そして落として割ってしまっても涼しい顔でしょうがないわねって片付けるお母さんでいたい。ちょうど1歳くらいの時、彼が怒って皿を地面に叩きつけて割って、その音に自分自身が驚いて大泣きしたということがあったが、今はもうお母さんの大事にしてるものっていうのはよく見てて汲み取ってくれてる。だからそっとエスプレッソカップを両手で抱えてカフェを飲み、終わるとソーサーの上にそっと置いて、ソーサーごとわたしに渡してくれる。それでも間違って割ってしまった時は涼しい顔で許すつもり。
あとは、美味しいものだけ食べさせて育てたいと思ってる。砂糖や塩や油脂たっぷりでごまかしたプロセスフードじゃなくて、わたしが一番美味しいと思う素材で手作りしたもの。離乳食は"自分の食指が動かないものを我が子に与えるのか?"という母親の一方的な理由で10ヶ月の時にやめてしまったが、それ以来、ロクちゃんは大人と同じものを塩や油を控えめにしてフルコースで少しずつ全て食べている。将来彼が外にでていけば、それなりに傷ついたり、辛い目に合ったりすることもあるだろう。でもそんな時、"とりあえず家に帰れば美味しいごはんがある"って思い出して、走って帰ってきて、よく食べて、よく寝て、翌日少し痛みが癒えてるみたいな‥‥大きな理想はないけど、わたしはこんなお母さんになりたいの。
(写真:最近お気に入りのアンティークのピアノ。ちゃんと音がでる)