My life as a cat
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2018年12月25日(火) A day without laughter is a day wasted

これといって何もないノエル。リュカがローズマリー・ポテトが食べたいというので夕飯はそれにする。少しだけ特別だったのは、シューを沢山焼いて、ホイップ・クリームをボウルにたっぷり入れてふたりして好きなだけ頬張ったことくらい。食後に"The Kid"を観る。ありとあらゆる工夫が生活の中に散りばめられていてすごくクリエイティブな貧乏暮らし。めちゃくちゃ笑った。そんなに食べるのっていうくらい大きな食事とか、何段にも重ねたパンケーキとか。"LOONEY TUNES"みたいなリズムなんだけど人間が体を動かしてやってると思うと本当に面白い。何もないと思ったけどたくさんの笑いがあった。良いノエルだった。


2018年12月22日(土) Call of the wild

今週はぞくぞくとリュカの同僚達がノエル休暇にと去って行った。こつこつと労働に勤しんでいたリュカは、患者さんやその家族からプレゼントにと頂いたチョコレートやら自家製のチーズやペーストなど忙しくあれこれ抱えて帰ってきた。毎年末、家に十分な食べ物がある、と確認してつくづく感謝する。わたし達のノエル休暇は家の大掃除と映画三昧の予定。

コタツが恋しくて苦肉の策にと考え出したもの。寝袋を半分閉めて、底に湯たんぽを入れて足を突っ込む。これを椅子やカウチにセットして使っている。クロエちゃんは寝袋の底で湯たんぽを枕にして寝ているし、わたしが使っていない時はリュカが足を突っ込んでいる(相当気に入ってる)。コタツときたら鍋。土鍋は持ってきたがIHだから使えない。正月はSTAUBにあれこれ野菜や豆団子を突っ込んで鍋らしきものをやろうかと考え中。

ジャック・ロンドンの"Call of the wild(野生の呼び声)"を読んだ。突然アラスカの厳しい自然の中に放り込まれて橇犬となった南国育ちの犬バックの目線で語られる物語。古典とは思えぬ読みやすさ、寛厳な自然の美しさと、普遍的な人間の愚かさが描かれているのは良かったけど、やっぱりどこかアメリカっぽくて、このバックが奇跡の力を備えた英雄犬みたいに愛する飼い主の賭けのために火事場の馬鹿力を発揮して橇を動かしたりするところには興醒めした。否応なしに欲深い人間の暮らしに巻き込まれていく動物の話はいつもどこか苦しい。

(写真:ハチャプリを作った。ヨーグルトだけで練った生地にリコッタ・チーズとモッツァレラ・チーズが入っている。乳製品だらけで抵抗あるけど、ふんわりで軽い風味でとても美味しい。リュカの大好物なのでたまに作ってあげよう)


2018年12月16日(日) わたし、すごく幸せだよ

ここに来る前、日本で働いていたとき。猫一匹と人間ひとりの暮らし。日々競争に追い立てられていた。自分のパフォーマンスを数字に換算して見せられて、うまくできなかったらその理由を探して改めて、うまくやれたらどうやったらもっとうまくやれるかと考えた。わたしはゲームの中にいた。精神を病んで消えていってしまう人も少なくなかった。わたしが毅然とこのゲームをただ楽しむことができたのは、ここで負けたからといって人生で負けたわけではない、と割り切っていたからだろう。勝ったら一杯やろう、負けたらただゲーム・オーバー。違うゲームをプレイしてもいい。仕事が終わったら農園まで歩く。野菜の世話をして収穫して家路につく。夕飯はたいてい一品しか作らないかわりに自分が大好きでとびっきり美味しいと思うものを作る。そして映画と共に味わう。

ある日、婦人科で血液検査をした時、結果を見て主治医が呟いた。

「あなたやや男ですね」

どういう意味かと聞くと男性ホルモン値が高いという。

「え!!そのうち髭が生えたりするんでしょうか」

「うん、それも考えられるね」

「どうしたらもっと女になれますか」

「あなた男に混じってばりばり働いてるんでしょ。そういう人は男性ホルモン値があがりがちなんですよ。心配いりませんよ。仕事辞めたりすると自然に女に戻りますから」

こんな暮らしぶりだったけど、わたしは幸せだった。経済的に自立していて、自由な自分が好きだった。

今、わたしはまったく違う暮らしの中にいる。朝起きて考えること。今日のランチは何にする?夕飯は?買わなきゃいけないものは・・・。家事をひととおり終えたら中庭で日向ぼっこ。午後、図書館へ行く。クリスティーヌがカフェを淹れてくれて、少しお喋りして、それから夕方まで勉強する。リュカが帰宅して夕飯を摂る。彼の仕事はそれなりのストレスを伴うものでも、彼の持ってくる職場の話は、わたしがかつていた競争の世界とは別物で、どこかゆったりしていて静かだ。一日の中で会う人はみんな穏やかで優しい人ばかり。ゲームに勝つことよりも休暇に何をして楽しむかということのほうがよほど大事な人々。綿菓子の上に寝転んでるみたいな暮らし。今血液検査をしたら、男性ホルモン値はずんと下がっているだろうと思う。

やわらかな陽ざしの中でカフェをのみながら古い写真の整理をしていたら過去のことがぽろぽろと甦ってきた。その時々でわたしはなんとか自分なりの幸せを追求して、それなりに幸せに過ごしてきた。でもわたしは本来そうゲームや競争に興じるタイプではなかった、と今振りかえって思う。今の暮らしのほうがより自分の自然な姿のように感じられる。

「わたし、今ここで暮らしてすっごく幸せだよ。ここに来る前も幸せだったけど、ここではもっと幸せ」

夕飯を食べながら唐突にそんなことを言うと、リュカは手を止めてわたしを見た。わたしがここでうまくやっていけるかと心配していた彼はほっと胸を撫でおろしたようだった。

(写真:ほうとうを練った。イタリアで買った日本のと同じ皮の緑色のかぼちゃをたっぷり入れて)


2018年12月10日(月) 年末のお菓子作り



今年最後のラテリエ・キュイジヌはパネトーネとパン・デピス作り。パネトーネというものは中途半端に甘くて、どう捉えて食べればいいのかまだ解釈できていない。パン・デピスは何を持ってそう呼ぶのか、食べるたびに全く違う食べ物のように味が違うが、スパイス入りのパウンドケーキということだけは決まっているらしい。今日焼いたのはこの町で採れる本物のハチミツをふんだんに入れたもので焼いているそばから恋に堕ちてしまうような香りを放った。

誰かが焼いてきたタルトを切り分けておしゃべりをする。この時のお菓子は絶対リュカの分も切り分けて持たせてくれる。彼は本当に年上のマダム達にモテる。"仕事に遅れる〜"と言いながらも道で会えばおしゃべりにつきあい、患者としてどこかが痛いとやってくれば、親身に聞いてあげるからだろうな。わたしは誇らしい。

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歯医者へかかった。イタリアとの国境すれすれのフランスにあるこのクリニックはイタリア人のお母さん、仏伊ハーフのふたりの息子の3人ともが歯科医。初めての時はお母さんを指名したら手一杯でお兄ちゃんが治療してくれた。今回はお兄ちゃんを指名したら手一杯で弟が治療してくれた。このふたりの息子はいずれも長身でイケメンで、しかもとても優しそうで感じが良い。

「フランス語大丈夫?それともイタリア語がいい?」

「英語か日本語がいい」

「じゃぁ、フランス語でゆっくり話すから」

大丈夫かなぁ?と思ったが、大した難しいことはなくて無事終わった。

次回は是非ともお母さんを見てみたい。

(写真:地中海に面したクリニック。誰に見られているわけではなくてもちゃんと健気に寄せては返す波。冬の海も美しい)

2018年12月06日(木) 吹く風は優しくて

年をとって少しだけ賢くなったと思えるのは、"落ち込む"ということにエネギーを費やしなくなったこと。若いころは希望に満ち溢れていて、全てがちゃんとうまくいくと信じてる。だからそうならないと落ち込む。でも何度も失敗して、期待を裏切られて、落ち込んで、と繰り返していくうちにふと気付く。そもそもなんで最初から成功すると思っていたのだろうと。低い山でも高い山でも登ってみればいい。落ちたらまた登ってみる。何度も落ちているうちに痛くない落ち方やより良い登り方を少しずつ見つける。いくつになってもうまくいかないことはいっぱいあるけど、今は落ち込むエネルギーを前に進もうとするエネルギーに転換できる。時には妥協しなければならなかったり、諦めなければならなかったり、どんなにしても達成できなかったり人生はそんなことで満ち溢れている。そしてその中で前に進もうとすることこそがどれだけ意義を持つのかとわかる。毎日やれることをやるだけ。わたしの心は平穏だ。

(写真:マルセイユで買ったプロヴァンス色の陶器とフィルがくれたサーディンのポプリ。ラヴェンダーの香り。これはフランス在住の日本人女性が作っているらしい)










2018年12月03日(月) 良き母のいる街へ

クリスティーヌとマルセイユへ行ってきた。2泊の週末旅行。マルセイユにはクリスティーヌのボーイ・フレンドのフィルが住んでいて、彼がわたしの泊まる場所を用意してくれていた。このフィルとわたしの出会いはミラクルだ。フランスまでサントラを抱えてきたというほど好きな映画の主役を演じた俳優がなんと彼の息子なのであった。たった数人のフランス人俳優しか知らず、たった数人しかフランス人の友人のいないわたしなのだからこれはすごい。いつか息子に紹介するよ、と言われた瞬間、しどろもどろでフランス語を話す自分が脳裏に浮かんできて心臓がどくどくと震えた。

フィルのアパルトマンはアフリカ系の移民で溢れかえった地区にあって、その上着いたその日はマニフェスタシオンでジレ・ジョヌがあちこちで活動していたこともあって、通りでは何かが燃やされていたり、テラスでアペロをしていたら下の通りで催涙ガスをまかれて避難したりと大混乱だった(この騒ぎで死人もでた)。

朝、坂を下るとそこはアラブ人の商店街。巨大なパンや野菜や果物がうずたかく積まれていて活気に満ちている。色んな種類があっても全てキツネ色、ナッツとセモリナ粉と砂糖を固めたお菓子ということにかわらないようなアラブのお菓子と大きなパンをリュカへのお土産に買った。パンが本当に美味しくて、しばらくはアラブのパン作りにはまってしまいそう。

最後の夜はフィルの友人のアフリカ人の男の子の誕生日で、マルセイユの中心から車で30分ほど下ったところの港の前にあるレストランへ魚を食べに行った。日本と比べて魚は格段に高いから、クリスティーヌ達は"今日は魚を食べに行こうか"と特別なことのように言うのだった。価格もけっこうなものだが、でてくる魚もなかなか大きい。日本の切り身の3倍くらいの量はでてくるだろうか。白い人、黒い人、黄色い人が揃って同じ料理に舌鼓をうつ光景はどこか平和の象徴のようで幸せな気持ちになった。マリというとんでもなく貧しい国からきたこの男の子は、子供の頃煙草を吸う真似をしてカボチャの蔓を切って火を点けて吸ったらとんでもなく酷い味で、それ以来大人になっても絶対煙草には手をつけられないんだそうだ。この日は魚を食べて、デザートにこれでもかというくらい生クリームの詰まった大きなシュークリームをたらふく食べて、楽しい夜を過ごした。

マルセイユを嫌うフランス人は多い。貧しい移民で溢れかえっていて街は落書きだらけ。でもわたしのマルセイユは、ノートルダム寺院から見下ろした土色の街なのだ。数年前この丘の上に立ち、"ここに住みたい"と強く思った日のことは忘れもしない。マルセイユではこの寺院は"ラ・ボンヌ・メール(La Bonne Mère)(良き母、優しい母)"の愛称で呼ばれているのだとフィルが教えてくれた。やんちゃで手に付けられない子だけど、良き母に丘の上から見守られているかのような街。この味の濃い街がわたしは好きだ。


Michelina |MAIL