My life as a cat
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2015年02月28日(土) Made in Germany

LOFTで見つけた。日本ではこういう柄の着いた食器を洗うための道具をあまり見たことがなかったのだが、あったらいいのにとずっと思っていた。しかも、柄が木でブラシは馬毛。暮らしのツールは″土に還る″ものに越したことがない。使い心地はまずまず。どれだけ使えるだろうか。価格からして3か月以上はもってほしい。しかし″Made in Germany"とこんなに大きく書かなくてもいいような気もするな。ドイツでとても売れてるとのことだけど、日本人が″日本製″に大きな信頼を寄せるようにドイツでも自国の製品ということがセールスポイントになるのだろうか。

町でたった一軒の小さなパン屋さんがリニューアルオープンしたので行ってみた。夫婦でやっていたのだが、だんだんと奥さんを見かけなくなり、そのうちお店はシャッターを閉めたままになり、やがては体の具合が悪いのでしばらく休むという貼紙が出ていた。それから半年以上休んでいただろう。

店の奥には旦那さんがいたが、奥さんは戻っていなかった。しかし新しくなった店内には店員が前より沢山いて、町の人も再開を待ち望んでいたのだろう、小さなパン屋は人々で賑わって活気に溢れていた。母が子供の頃作ってくれたのとそっくりの材料5つくらいの素朴な味のマドレーヌは今日はなくて、月曜に作るというので一袋取っておいてもらうことにした。

近頃は田舎町は田畑を潰してアウトレットや大きなショッピングモールばかり作ってガラクタのようなものばかり売っていて、げんなりしてしまう。わたしは″好き″という気持ち一筋で営んでるようなこんな小さな専門店に生き抜いて欲しいな。


2015年02月25日(水) 正義の定義

自分が正義と信じていることを、他人が必ずしも同じように捉えているとは限らない。自分は正義感が強いが故に人間社会で生きにくいのではないかとずっと思ってきた。実際、わたしの知っている″正義感の強い人″は誰からも好かれて人気者で、なんて人はいない。じゃぁ、″誰からも好かれて人気者″は正義感が弱いのかと言ったら決してそうとは限らない。正義感が強くても″誰からも好かれて人気者″がいるとしたら、その人はきっと他人にとっての″正義″を尊重できる人なのではないか。

このところ色々あって、気を揉んで、今日になって突然明るくなった。わたしの″色々″なんて日常の小さなことで、ひとりでちまちま考えて首を捻ってるようなレベルの話だけれど、これが大きなレベルの話になれば、先日のパリの銃撃のようなことになるのだろう。撃ったほうも撃たれたほうも両者が我こそ正義と思っていたのではないのか。

自分の正義の定義だけが正当だと思うのはやめよう。あれもこれも正義だなんて言い出せば結局自分の思考の方向を見失う。だからといって自分こそが正しいなんて信じたら他人との交渉は相当険しいものとなるのではないか。結局互いにより良い道を模索するしかないのだろう。どうしても解りあえない時、相手を自分の視界から除外する必要はない。また自分と意見を共にする人々と結束する必要もない。相手を説き伏せる必要もない。そういうのは自然と日頃の言動に自然と練り込まれてくるのだろうから。自分の内で静かな信仰を続けるのみなのだ。


2015年02月20日(金) English Vinglish

″English Vinglish(邦題:マダム・イン・ニューヨーク)″というボリウッド映画を観た。英語の出来ないインド人の主婦がニューヨークで繰り広げるただのトンチンカンの物語かなにかなのだろうと思っていたのだが、予想に反して良い映画で、随所に感じ入ってしまった。現代のインドのファッション(風俗)が手に取るように伺えるのもとてもおもしろい。主役のシャシは働き者の旦那と二人の子供がいる主婦。ルックスは奇跡のように美しい(役の年齢は知らないが実年齢50代ですって!!)のだが、″古風で料理上手な普通の主婦″という役柄。家族の″いつもの″朝はドタバタと始まる。シャシに一目惚れして結婚を決めた旦那は今では″チャイをくれ!″と命令口調で、中学生くらいの娘は反抗期で、ひたすら都会やら都会っぽさに憧れ、ジャズ・ダンスを習い茶色いパンじゃないと食べないなどと文句をたれる。おそらく外資系の企業に勤めている旦那と英語を公用語とする学校へ通う娘は英語を喋れないシャシをいつも小バカにして笑っている。ところがある日、ニューヨークに住むシャシの姪が結婚することになり、そのウェディングのお手伝いにシャシが家族より先に単身ニューヨークへ乗りこむことになった。ひとりでカフェに入るシャシ。混沌とした忙しい都会のカフェのキャッシャーの前には数人が並んでいる。シャシの番になると黒人女性の店員が英語でまくしたてる。アメリカなんかにはいやいや仕事をしているという態度をあからさまにしたブルーカラーなどざらに見る。そして英語を母国語とする人達にありがちな英語を喋れない人々は排除すればいいという傲慢な姿勢も。それでもこんな酷い店員はいないだろう。インドでは家族にバカにされ、ニューヨークではカフェで食べ物にすらありつけないシャシは、家族にも内緒で4週間の英語学校に飛び込む(ここで登場する英語教室の受付だって、こっちは英語が出来ないから電話してるのだからあの早口はあり得ない!)。自信喪失の状態にあったシャシはそこで出会った仲間から受けるリスペクトと英語の上達により自信を取り戻していく。

言語能力を得意げに思うことは大いに結構だが、できない人を見下すのはお門違いだ。それは単に個人の興味の問題だ。この場合、母は"料理"に、娘は″都会的なこと″に興味があったというだけのことだ。ともあれ、反抗期の小娘にこんなことを諭したって、糠に釘だろう。最近見つけた″家族の法則″は、両親がお互いをどう扱うかが子供が親をどう扱うかを決定するということ。先日テレビで見かけたとあるニュージーランド在住の家族の話。ニュージーランド人の旦那さんと日本人の奥さんの間には小学生くらいの息子が3人いる。多額の借金をして買った農場で両親は朝から晩までせっせと働き詰めだが、それでも母は朝お弁当を作って子供を学校に送り出し、夕飯時にはまた湯気のあがった温かい食事を家族で囲む。母と3人の息子は月に一度だけ遠くの町まで食料品の買い出しに出かける。月に1度なので4人で手分けしてカートに沢山詰めていく。そして最後に母が言う。

「君たち今日はよく頑張ってくれましたね。なので今から君たちが欲しいものを1個だけ買ってあげます。何でもいいので持ってきてください」

わ〜!っと、おもちゃ売り場やお菓子売り場へ一斉に走りだす3人の息子。ひとりはたった1ドルくらいのガムでいいという。あとのふたりは欲しいものを掴んで価格を見比べて、

「こっちの安いほうにしよう」

などと呟いている。小学生の子供が親の懐を思ってより安いおもちゃを選ぶ。これには泣けた。どうしたらこんな子に育つのだろうと考えた。きっと答えはシンプルで、父親が母親に接する静かな思いやりに溢れた態度なのだろうと思った。娘が父親をバイキン扱いするような家では大抵母親が父親をバイキン扱いしているものだ。この映画で言えば、父親の母親を小バカにした態度が娘に″お母さんは小バカにしてもいい″という雰囲気を作ってしまったのだろう。

シャシが自信を取り戻す大きなキーとなったフランス男。声のトーンが落ち着いていて、笑った口元がセクシーで、わたしは画面の前でくらっときていたのだが(笑)、貞淑なインド人主婦のシャシは彼の熱いアプローチに逃げ惑う。どうしても報われそうにない一途な片思いがすっかり気の毒になってこのまま終わってしまうのかと見ていたのだが、ふたりの最後はとてもよかった。シャシが彼に彼女の母国語でお礼を述べるシーン。男はヒンディを理解せずともその空気から彼女の好意を受け取ったに違いないが、字幕を観ているわたしが理解出来て、当の本人がはっきりと理解できなかったのは歯がゆい。とても素敵なことを言っていたのだから。

「人は自分のことが嫌いになると、自分の周りも嫌になって新しさを求める。でも自分を愛することを知れば、古い生活も新鮮に見えてくる」

とは、結婚に限らず、長い人生や人と人とのロングタームリレーションシップの真髄だ。わたしはインドという国に特別な思い入れはないが、この国の人々の好きなところのひとつは、こういった物事の真理が人々の中に自然と根付いていることだ。

しかし、トレイラーが映画本体より面白くないってどうなの?良いところまったくピックアップされてなかった気がするのだけど。


2015年02月15日(日) 芥藍

芥藍(カイラン、英名:Chinese broccoli)の初収穫。近所のスーパーマーケットではなかなか売っていない野菜は自分の小さなファームに種を撒いてみたりしているのだが、これは簡単にすくすくと育ってくれた。間引きと水やり3か月でやっと口に入った。シンプルに中華料理の定番の一皿のように、蒸した芥藍にオイスターソースを垂らして、ガーリックを炒めたごま油をじゅわりとまわしかけていただいた。蕾のところに苦味があるが、茎のほうはとても甘い。ごはんが進むね〜。

美容院は行きつけがあって、担当の方とは″適当に整えてください″くらいの会話で髪に鋏が走るくらい長年の付き合いだ。彼女に最近使い始めた″オイルシャンプー″について相談した。これを使うとパサパサの艶なし髪とは無縁なのだが、髪がぽってりと重く、櫛もよく通らない。冬のか弱い陽を見ると″逃すものか!″と勇んで飛び出していく身としては、髪にオイルが付いているというのが少し気がかりだった。彼女の意見はやめたほうがいいとのことだった。

「わたし達の世界ではまず肌に付くものは″オイルフリー″というのが基本なんですよ。オイルは酸化して肌が黒ずんでくるといいますからね」

オイルの化粧落としなどもよく落ちるが肌のことを考えるとおすすめできないそうだ。納得してしまった。今あるものを使い終えたら次はオイルフリーのに変えよう。

髪を切ってもらう間はいつもこんな相談を持ち掛けたりする。常に彼女の意見を鵜呑みにするわけではないけれど、毎日それと関わってるプロフェッショナルの一意見はとても参考になる。

ふと北野武の書いた″作法″についてのこんな記事を思い出した。

料理人に会ったら料理のこと、運転手に会ったらクルマのこと、坊さんに会ったらあの世のことでも何でも、知ったかぶりせずに、素直な気持ちで聞いてみたらいい。自慢話なんかしているより、ずっと世界が広がるし、何より場が楽しくなる。 〜(略) 井戸を掘っても、誘い水をしないと水が湧いてこないように、人との会話にも誘い水が必要なのだ。どんなにワインに詳しくても、ソムリエにワインのことを語ってはいけない。そんなことをしたら、ソムリエは何も大切なことを教えてくれなくなる。「このワインはどうしてこんなに美味しいの?」と、聞くべきなのだ。

正にこれ!ネットでも何でも調べられることでも、見ず知らずの人の書いたことではなくて、目の前にいる人の生の声はどんなに大きく響くことか。だからちょっと見聞きしただけでもう全てを知ってるなんていう気にならないで、目の前のプロフェッショナルに聞いてみると、新たにもっと良い情報を入手できたりするものだ。なにより相手も自分の専門分野を嬉々として話しているのだから、聞かない手はない。


2015年02月10日(火) 養われる?

「うちの会社のような大きなところでは、30%の人間がせっせと働いて利益を出して、あとの70%を養ってるなんて聞きますけど、実際そんなところだと思いますね」

という、同部署の本当に仕事のデキのいい青年の何気ない発言がぐさりと突き刺さった。次々に新システムを開発して、大幅な納期短縮を可能にした彼は間違いなく30%側の人間だろう。しかし、周囲を見回せば容易に間違いなく70%側の人間というのも見つかる。携帯ばかりいじっている人、給湯室の番人になっている人、立ち話に興じている人。。。それが20代〜40代くらいの働き盛りだと見るのも悲しくなってくる。それを楽ができてラッキーと思う若者は、長い人生の中で確実に自身の能力や可能性を損失していることに気付いていないのだろう。今の仕事は一生続けたいと思うものではないし、大きな野望や情熱も持っていない。でも、どこで何をやっているかは問題ではない。わたしは会社に利益をもたらさない人にだけはなりたくないと思った。もっともそれは会社のためではなくて、自分の姿勢をまっすぐ保ちたいという利己的な考えに過ぎないが。


2015年02月04日(水) みんな神の子

介護問題についてのドキュメンタリーをテレビで観た。介護士という職業は過酷で定収入というのが現況で、そうなるとやはり人手不足となる。介護の必要な人はわんさかと″待機″している。介護士は人の世話を焼いても自分の私生活すら経済的に困窮している。国は彼らに補助を与えるのか検討している云々という内容だ。

これを見て脳裏に浮かんだのは、電車の中で誰にも席を譲ってもらえず立ち尽くしている老人の姿だ。″優先席″なんてものがあるのがそもそもおかしいのではないのか。社会のモラルが老人や妊婦に席を譲ることを当然としていたら、そんな物は必要がない。介護は徴兵ならぬ徴介護士にすればいいのではないかと発言した政治家がめためたに人々に叩かれているのをお見かけしたが、わたしはこれはそう突飛な発想ではないと思う。徴兵制度のあるヨーロッパのいくつかの国では戦闘訓練か病院で働くかが選択できたりする。以前付き合っていた人は、わたしが具合が悪くて吐いてしまった時、ポーカーフェイスで後処理をしてくれた。あまりにも慣れた手つきなので聞いてみると、自分は戦う意志はないので病院で働いたのでこういうことはなんでもないと言った。ベッドメーキングもお手の物だった。徴介護の経験は必ず人生のどこかで役立つ良い授業ともなるに違いない。

しかし本当は、こういうものはボランティアで賄える社会というのが理想なのだと思う。専門知識のある介護士は現場を取り仕切る役となればいい。それとも専門知識のない者にできるような仕事は皆無なのか。ただ、このアイディアは介護士とボランティアの間にきっちりと線引きをしないと、″ボランティアで賄えるなら″と介護士のさらなる労働条件悪化に繋がりかねないのでしょう。

この世に生み出してくれた親がいない人はいない。人はみんな神の子だ。本来は自分の家族がそうなった時だけでなく、全ての老人は″この国を残してくれた恩師″として社会が面倒を見るべきなのだと思う。


2015年02月01日(日) EMU

″EMU″という銀座のフレンチ・レストランでランチをした。食べログで見つけたのだが、あらゆる意味で印象に残るお店だった。ビルの入り口はモダンで真新しい雰囲気なのだが、一歩中に入るとガラリと様子が変わる。光の鈍い蛍光灯の灯る古びたロビーに年老いたレセプショニストが立っていて、そこで予約の名前を告げる。各フロア全てがレストランなので、告げられたフロアに上がる。エレベーターの扉が開くともうそこがレストランの中。狙ったわけでない、ナチュラルな薄暗さと古臭い高級感が妙に不気味だ。ギャルソンはこの道一筋みたいなプロフェッショナルな年季の入りよう。先客達の身なりも心なしかブルジョワジーに見える。一見アンティーク調にしているのかとも思えるが、よくよくテーブルや椅子をよく見るとただただ本当に使い古して手入れをしていないだけなのかとも思えてくる。木枠に布張りの椅子の木枠の塗装はボロボロ剥がれているし、布は破れている。古い物を大切に大切に使い続けているホテルやお店は精神性では信頼できる。ただ木枠は塗りなおして、布は張り替えたほうがいいのではないかと思う。。。

着席してメニューを広げてほっとする。食べログで見たとおりランチコースは1500円〜選べる。2000円のコースを選んだ。オードブル、前菜、メイン、デザート、パン、コーヒーで、全てチョイスが多い。料理はわたしの口に合う。フレンチって味付けはマイルドだけれど、それでも添えられている野菜などひとつひとつに確かにちゃんと個別に味付けされていたりするのが甲斐甲斐しくて愛おしい。こういうところが日本とフランスの通ずるところなのだろうな。デザートに選らんだタルトタタンのシナモンシャーベット添えはユニークなお味だった。

さて、最後にトイレに入り、あまりにもの素敵なトイレットペーパーに反応する。柔らかめの和紙のような手触りで折り鶴の絵が描かれている。予備のトイレットペーパーは桜模様。絵付きのトイレットペーパーなど一度も買ったことがないが、欲しくなったのでお店の人に購入元を聞くと、専属の業者から買っているとのことで、お店では売っていないそうだ。


Michelina |MAIL