My life as a cat
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2015年01月30日(金) バカ正直の壁

どこの世界にも適当なことを言って調子よくやっているのがいる。同部署の女の子は、誰かが退職するなどと言えば″いやだ〜、さびし〜″と大げさに騒ぎ、、陰では″あぁ、ほっとした″などとぬけぬけと呟いたりしている。産休を取っていた女性が職場復帰した時、お菓子を持って真っ先に向かったのは彼女のところだった。前日まで″もう帰ってこなければいいのに″と言っていたのに、″あぁ、帰ってきてくれて安心しました〜″とキャンキャンやっている。そんな光景をいつも隣で冷ややかに見ていたるわたしは、かねがね自分はバカ正直で損をしているのではないかと思っていた。

しかし、よくよく話を聞いていると、そういう類の人には、付き合っていた人に浮気をされたとかうまいこと言っといて裏切られたとかいう話が多々あって、同じように調子よくやってる人が自然と集まるものなんだなぁ、とぼんやり思って、ふと気付いた。バカ正直なわたしにはバカ正直な人しか寄り付かないではないか、と。だから、浮気とか裏切りとかそういったものには無縁に生きてきた。誰かが騙そうと近寄ってくるとき、バカ正直の勘はものすごい勢いで警報を鳴らす。

塩野七生さん著の「男たちへ」の中の '' 嘘の効用 ''という話があった。自分の発した言葉を真っ先に聞くのは他ならぬ自分の耳で、それは精神に確実に刻まれていく。だから愛していない女に "私のこと愛してる?"と詰め寄られて、嘘でも"愛してるよ"と口走るうちに男は本当にその女を愛するようになるというもの。これはポジティブな効用だが、裏を返せば、本音と違うことばかり言っていれば、本当の自分の気持ちが自分にすら見えなくなってしまうのでしょう。思考のすっきり整理整頓された正直者でいいじゃない。決して損などしていない、と思い直した。


2015年01月26日(月) 心づけ。。。

農園で顔を合わせる同年代の女性が手作りの味噌をお裾分けしてくれた。


お裾分けしてくれた。そう思っていたのだが。。。

「ありがとう。いただきます」

で終わろうとすると、こんなことを言い出した。

「どういたしまして。口に合うかわからないので少しだけしか持ってこなかったのだけど、美味しかったらもっと持ってくるわ。でね、その時に″心づけ″が欲しいの。わたし犬が好きで盲導犬育成する機関に寄付してるの」

大げさだが、この瞬間わたしの心の中でなにかがボロボロと綻んだように感じた。

「そうですか。とりあえずいただいてみますね」

と答えて半ば強引に会話を結んで5分程考えた。このボロボロの正体はなんなのか。無償と思い込んでいたところに金銭を要求されたせいだ。この人は単にわたしを慕ってくれているのだと思っていたのに、実は単に商品サンプルをもらっただけだったみたいな裏切られた気持ちになった(彼女にまったく悪気がないのは解る。だから本当に大げさなのだけど)。もしこの話が逆だったなら、こんな気持ちにはならなかっただろう。″盲導犬育成機関で寄付を募っているので、お味噌をいくらかで買ってくれない?″と言われたならば、快く了解したのでしょう。的と手段が同じでも順序が変わっただけで、物事の印象まですっかり変わってしまうことってあるのだ。心づけとか寄付と言われるものに対して、わたしには考えがある。自分が心を動かされて、真に感謝してるとか、助けたいとかそう思ったところに届けたい。盲導犬育成はけっこうだが、わたしはそれが実際どんな機関なのか知らない。次回会ったらごちそうさまというお礼と、わたしの心づけや寄付に関する考えを正直に話そう。それがいちばんお互いに気分が悪くならずに済む方法ではないか、という自分なりの結論に行き着いた。

わたしは変なところで非常の神経過敏だ。この話を聞いて、何をそんなに過剰に反応しているのかと首を傾げる人も多いのではないかと想像したりしている。でもこういう性分はなかなか変わらない。今夜は味噌を食べる気になれなかった。しかし明日になったらペロリと平らげてるような気もする。


2015年01月20日(火) 大人の女のトレンチコートを買う

大人の女の象徴と言われるトレンチコート。あっさりしたアジア人の顔つきや黒髪ではあまりにものっぺり見えてしまいそうだし、何よりも″大人の女″なんていうタイトルからほど遠い自分には不釣り合いだとずっと敬遠してきたというのに、うっかり買ってしまったのは、2か月前のパリ旅行のせいだろう。前回は、″パリジェンヌは赤と黒の組み合わせが好きなのよ″という言葉に浮かされ、黒いコートに合わせる赤いマフラーを購入した。今回は″トレンチコートを着崩すのがパリジェンヌの定番のお洒落なのよ″だって。Olive育ちのわたしにとって、パリジェンヌの言葉は神のお告げほどの威力を持つわけで、それ以来トレンチコートを見かけたら試着して、あまりにものヘンテコさにがっかりして店を去るというパターンを繰り返した。トレンチコートがおかしいのか、わたしの体型がおかしいのか、はたまた両方なのか。。。ネットで調べた情報によればバーバリーやアクアスキュータムというわたしの中では″おっさんっぽい″イメージで、あまり好みでない部類のブランドのものがトレンチコートの王道らしい。そんなに言うならと試着してみたが、やっぱり撃沈。今思えば価格も相当な予算オーバーなので、似合わなくてよかったと胸を撫で下ろしているのだが。諦めかけた頃、ポール・スミスでなにげなく試着した春の新作のトレンチが、なんとわたしにぴったりだった。膨張色なのに、形がいいのかのっぺりと見えず、むしろかなりほっそりと見える。価格はそれなりだが、色もデザインも一生着られそうだし、何より雨にも負けないトレンチコートだもの、と自分に言い聞かせて購入に至った。いくつになってもちゃんと大人になっていない気がしているけど、″出来るようになるまで出来るフリをしろ″とは誰の言葉だったか。新年会では参加した女の子が口々に電撃結婚発表をして、ついついわたしも

「今年結婚することになりました」

などと口走ってしまった。

「相手は・・・未定です!」

とつけ加えたら全員ズッコケてたけど(笑)。今年は″出来るフリ″に徹します。春が来るのが楽しみだ。

(写真:午後のコーヒータイムは極上の幸せの時間)


2015年01月06日(火) ポヴェリエッロ

叔母が毎年お正月にくれる卵。今年初めて知ったのだが、わたしが近所のスーパーマーケットで見つけられないと嘆いていたフリーレンジの卵だったらしい。祖父の家の近くの農家が小さな直売所で売っている物なのだそうで、1個40円とのこと。身動きの出来ないゲージで1日中ライトを浴びさせられて卵を産み続けている鶏ではなく、大きな庭を走り回っている鶏を想像しながら卵を食べられるのならこの価格は惜しくない。ただ、祖父の家がそう近くないことが問題なのだが。この卵の黄身の色は本当に自然な黄色で、あれこれと餌に細工をしたりして不自然に作り上げた濃い黄色などではない。

さて、良い卵をもらうと食べたくなる料理はこれ。渡辺陽一さんという在ローマバチカン日本大使館・大使付き料理長をしていた方が恵比寿にだした自分のお店で賄いとして出しているポヴェリエッロというシンプルなパスタ。一流シェフの賄い料理を特集した料理の本でお見かけして、コピーをとっておいたのだ。具はペコリーノチーズと卵だけ。ベーコンのないカルボナーラといったところ。ポヴェリエッロの意味は「貧乏人のパスタ」らしいが、食事の8割がたはヴェーガンのわたしの日常食の中ではずば抜けてコッテリ・ガッツリ系で、お肉を食べる人ならば焼肉とかに位置づけられるものだろう。何よりたんぱく質が豊富でかなりの贅沢にあたる。1年に1度くらいしか作らないが、それでも確かに毎年絶対食べたくなる。食べると決めた日は日中の食事を控え目にして、夜にはかなりの空腹を感じるように備える。シンプルなレシピなだけにパスタの茹で方から卵の焼き方までちゃんと指導している。パスタの塩加減はお吸い物よりちょっとしょっぱいと感じるくらいにする。昨年″辞めた習慣″の一つに″パスタの茹で汁に塩を入れること″というのがある。物心ついた時から当たり前のようにやっていたが、ラジオでピストン西沢さんが言っていたのだ。

「オレはね、パスタ茹でる時には塩入れないの。もったいないから」

ふと考えた。塩を入れずに茹でたパスタと後から塩味を付けたパスタを目の前に出されたらどちらがどちらと当てることが出来るほどわたしの舌は敏感だろうか。まったくもって自信がない。違いがわからないなら必要がないではないか。

それ以来塩味は後から付けているが、それで″どうもパスタの味がキマラない″と感じたことはない。

ともあれ、先生によれば塩水で茹でないと味がぼやけるとのことなので、今回は美味しくなるおまじないだと思って指導通りに塩を入れた。フライパンにたっぷりのオリーブオイルを熱して、卵を二つ器に割入れてから滑らせるようにフライパンに流し込む。ふちがカリカリになったら(黄身はかなり生)一つを取り出して、茹であがったパスタをそこに入れて、火を止め目玉焼きをほぐしながら絡めて、摩り下ろしたチーズ(ペコリーノはなかったので、フランスで買ってきたグラナ・パダーノを使った)と粗挽きのブラックペッパーをたっぷり振って、塩で味を調える。最後にもう一つの卵を上に乗せて完成。残念ながらこの写真からその美味しさは伝わりそうもないが、これは絶品。大満足で、食後のコーヒーを啜りながら思うことは、この後当分は粗食(素食)でいい、ということ。


2015年01月04日(日) ブラチスラヴァ世界絵本原画展 24th

2年に1度開催されるブラティスラヴァ世界絵本原画展へ。この催しはわたしが生まれる前1960年代から、チェコ・スロヴァキアが分離に揺れた年を除いてずっと続いているそうだ。高校生以下は入場無料と、子供が対象なのだが、絵本は子供だけのものじゃない。頑丈な大人の胸をも揺さぶるような作品がいくつもある。いくつかメモしておこう。


Gu Li 「雲みたいな九官鳥」(中国)
子供達と出会った九官鳥は果物をもらい、素敵な鳥籠を与えられ可愛がられるが、やがて山が恋しくなり歌えなくなってしまう。人間もそれに気付き再び山に放たれた時、九官鳥は自由を取り戻す。どの鳥にも自分だけの夢と幸せの歌があることを伝える物語。

金のりんご賞に入選したこの作品。黒の影絵のような切り絵が中国の深々とした山の雰囲気を現していて趣深いのだが、なによりもわたしが子供の頃、籠から逃げた九官鳥のことを思い出してほろりときてしまった。よくわたしの真似をして妹の名前を呼んでいたが、本当はあんな小さな鳥籠の中ではなくて、大きな木の上で思いっきり歌を唄いたかったのかもしれない。子供のわたしは泣きべそをかきながらキュゥちゃんを捜し歩いたが、帰ってこなかった。


きくち ちき 「しろねこくろねこ」
いつも一緒にいるしろねことくろねこ。でも人々はしろねこばかりをキレイと言い、くろねこは拗ねていた。ある日、色とりどりのキレイな花が咲く一面のお花畑に辿り着いてみると、くろねこはその中でひときわ目をひいた。

ひたすら無垢なしろねことくろねこの物語なのだが、イラストは水墨画なので甘すぎない。しろねことくろねこの物語といえばイタリアで活躍する日本人絵本作家とねさとえさんの″Dove batte il cuore″もとても好きだ。


ノ・インギョン 「ぞうのおじさんと100つぶのしずく」(韓国)
ぞうのお父さんはおなかをすかせた子供たちのために遠いオアシスまで水を汲みに行く。自転車に乗って、おばけにふるえながら。。。100つぶのしずくを汲んだものの、帰り道は太陽がぎらぎらとして容赦なくしずくを奪っていく。子供たちのもとに辿り着く頃にはしずくはなくなりかけていた。すると突然恵みの雨が降ってきた。

著者のお父さんが語ることのなかったその生涯について想像して描いたもの。それは驚きであり悲しみであった。


マリア・クリスタニア 「キリンのジェリーと巨大なバタークッキー」(インドネシア)
この本はインドネシアのスラバヤ動物園で虐待を受けておなかに20圓離廛薀好船奪を溜めて死んだキリンへの献辞の意で作られた作品。物語の中でジェリーは高い木の上にある大きなバタークッキーを食べることを夢見ていた。本当に悲しい話だ。


ウェン・シュウ=チェン「見えないおはなし」(グアテマラ)
殆ど白の世界の切り絵。でこぼこを触れば目の見えない人も見える人もそこからイマジネーションが広がる。


荒井 良二 「あさになったのでまどをあけますよ」
これは物語ではなくて、ページをめくるたび、山裾の家、朝が訪れたにぎやかな街、南の島の家、風吹く海辺の家。。。世界のあらゆる場所に存在する朝の風景が現れる。朝のコーヒーを啜りながらめくれば素敵な一日のはじまりになるでしょう。


降矢なな 「ひめねずみとガラスのストーブ」
オレンジ色の輝くガラスのストーブを手に入れた風の子フーは料理上手なひめねずみと出会い幸せに暮らしていた。そこに外国からやってきた風の子オーロラが現れて、二人はひめねずみに留守を頼み旅に出る。。。

ガラスのストーブやひめねずみの料理の温かさが伝わってくるイラストもいいのだが、ストーリーがしっかりしていて、単純なハッピーエンディングはなくて、生きていくことの厳しさを知らしめすような大人の絵本だ。

作者は日本人だがスロヴァキアで勉強された方らしい。


ヨナス・ラウシュトレア 「いたずらカラスのハンス」(ドイツ)
やんちゃな男の子のフリッツに捕まえられたカラスのハンス。その家で飼われるも悪戯し放題。猫を追いまわし、噛みつき、ごちそうは奪ってしまう。そんなハンスに哀れな末路が待ち受けている。

ここでもカラスは悪役だが、カラスは捕らわれの身だから悪さをするのであって、野鳥としては健全な振る舞いだ。これには、動物をペットとして飼うことをもう一度よく考えてもらいたいといういかにもドイツ人らしい作者の意図が含まれている。


牡丹靖佳 「おうさまのおひっこし」
困っている人を放っておけない心の優しいおうさまと6人のおっちょこちょいの家来のコミカルなストーリー。イラストと物語の文字がぴったりマッチしている美しい本。ストーリーも良くて、くすくすと笑ってしまった。


Michelina |MAIL