My life as a cat
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2014年01月29日(水) A friend in need is a friend indeed

こちらが心配して送ったメールの返信を、仕事が忙しいことを理由に何か月も放置しておいて、新しい彼氏と毎日スカイプしていることを嬉々として報告してくる女友達の無神経さは、どこからくるのだろか。前回会った時、失恋の痛手を負って、生活も成り立っていないくらいボロボロの様相だったのだから、心配するのは当たり前だろう。毎日誰かとスカイプする時間はあっても、わたしにひとこと″元気でやってる″と返す時間はなかったのか、またはスカイプする時間はあったという真実は伏せておくくらいの配慮はないのか、と考えたら、初めて女友達に″幻滅する″という感覚を味わった。

″A friend in need is a friend indeed"という英語のことわざがある。日本語では、「困った時に助けてくれる人こそが真の友達だ」という意味で、これは万国共通の考え方なのだろう。じゃぁ、困った時だけ泣きついてくる人はどうだろう。人の親切心を利用してるだけなのかな。わたしは困った時こそ、友達を巻き込みたくないと、ひとりで解決を試みる傾向にある。でも、もしも素直に助けて欲しいと言えることが出来る人がいたら、その人は真の友達だろうと思う。

つい先日、数年音信が途絶えていた友達からメールが来た。自然と途絶えていたのではなく、こちらが会うのを拒んでいたのだった。わたしは怒っていた。何年もつきあいがあれば、お互いに相手を不快にしてしまうようなことが少なからずあるのかもしれない。人間関係にはこれがつきものだ。嫌だと思ったら、それをぐっと堪えてまでなんとか密な関係を続けようとは思わない。心がふっと相手から離れてしまい、距離があく。でも、″時が来たら許すこと″ってすごく大事だ。時間は必ず気持ちの変化を運んでくれる。猫みたいに、シッポを踏まれたらすごい勢いで怒ればいい。でも次の瞬間にはすっかり忘れること。人間関係に於いて″成熟している″というのはこういうことだと思う。

すぐにメールを返した。久しぶりだね。会おうよ。いいね。じゃぁいつも通り銀座でランチね。喧嘩するのも、すぐに″元通り″の感覚を思い出せるのも長年のつきあいの成せる業なのだろう。


2014年01月20日(月) やっぱり手作り

こたつでちまちまとアンチョビ作り。イワシはクロエちゃんの大好物だが、こたつの中でスヤスヤと眠っている間にしめしめと処理してしまったので、横取りされずに済んだ。アンチョビ作りはとにかく時間を要する。ヒコイワシを処理して、粗塩をまぶして、ローリエやローズマリーなどと一緒に2ヶ月冷蔵庫に入れておく。それからオイルやハーブやコショウなどと一緒に瓶詰めしてまた数か月熟成させる。1年くらい熟成させるとかなり美味しいというが、わたしは3か月目くらいからチビチビと料理に使い始めてしまう。

朝起きがけに、ベトナムコーヒーに牛乳と砂糖をギュッと煮詰めて作ったお手製コンデンスミルクを入れて飲んだ。朝食には昨日焼いた黒糖、ライ麦、柚子ピールとマルチグレインカンパーニュを。夕飯は母の友人が畑で作った無農薬のキャベツを使ってお好み焼きを。出汁はくず野菜を煮て作ったものを入れた。キャベツが甘いせいだろう、野菜の薄味の出汁を使ったにもかかわらず、しっかりと味がきまった。

キッチンに立つのが寒くて、怠けてしまう日もあるけど、やっぱり手作りのものを体に入れると、なんだか気持ちからポカポカしてくるのだね。自分の手でも他人の手でも、人の手の温もりを感じる料理はいいものだ。クロエちゃんが、わたしが休日にどんなに寝坊しても、日頃の多忙を気遣うかのように、鳴きもせずベッドでじっと朝食を待っていてくれるような良い子に育ってくれたのは、手作りごはんの効用かと思っている。


2014年01月16日(木) どんなに時代が変わっても

Twitterというものを良く知らずに言うのだが、エクアドルで日本人の新婚夫婦が銃撃に遭った事件で、″犯人が特定された″なんていう情報を内相が発表するのに使用するツールなのだろうか。人が死んでいるという重い事件に対する声明を″つぶやく″ためのツールで配信するということに気持ち悪さを感じるわたしは古いのだろうか。

時代は変わったのだなぁとつくづく感じることは多々あるが、最近強い印象を受けたのは朝のJ-WAVEで流れているドコモのCMだ。バックにユーミンをプレイして語られるストーリーの筋は、別居中の家族の話。別居してるお父さんとお母さんがいる。

「月一の電話が週一になり、それが三日に一度になり、、、僕たち今ならやり直せるかもしれない」

というようなことを言っている。別居とか離婚とかする人が増えたから、ぐっときちゃう人も多いだろうという狙いなのだろうか。こういう題材にまったく負というイメージをつけずにむしろ美しい雰囲気を演出してるのが、これまた気持ち悪さを感じる。別居や離婚すること云々ではなく、それを美化することで時代の先端を行く価値観を演出しようとしてるのが気持ち悪い。どんなに時代が変わったって、そういう人が増えたって、少なからず大人同士も子供もみんな無傷でいられるなんてことはあり得ないのに。

会社だって、何かの変更をメールだけで告知してきたりする。みんな一日100通くらいメールを受け取るのだから、見落とす人がでるなんて当たり前なのに、それは結局見落とした人の責任になる。立って話しに行ける距離なのにメール上で喧嘩してたり。相手の目を見て言えない言葉はメールでも言うもんじゃない。先日読んだ北野武の「全思考」に書かれていた言葉がフラッシュバックする。

「人類の英知を結集して、人間の脳味噌を退化させている」

結集した英知とはスマートフォンやネットやメールなど便利なツールのことだ。

「会って話しゃいいじゃねえか。腹が立ってるいるなら、殴り合いの喧嘩をすればいい。好きならどうして手を握らない。一発の挙骨が、一回の抱擁が、1000本のメールよりもたくさんのことを相手に伝えるなんてことはいくらでもある」

昔はそれ以外になかったからそれがあまりにも当たり前だったのだろうけど、今の時代に聞くとそれはそれは感動してしまう。時代がどんなに変わっても生物の本質はそう変化するものではないのでしょう。


2014年01月13日(月) 全思考

北野武さんの「全思考」を読んだ。泣かせるための本じゃないのだろうけど、諸行無常の世の中に、こんな純真な人が残っていたのだと思ったら涙がでてきた。こういうことをはっきり声に出して言ってくれる大人はそういない。表面ばかりのきれいごとで取り繕われた世の中のモラルにぐさりとメスを入れてくれる。好きだな、こういう「王様は裸だ!」って言っちゃう人。子供の教育の問題などは、唸らされた。「誰でも無限の可能性がある」なんていう前提では夢が叶わないのは努力が足りないということになってしまう。どんなに努力してもダメなものはダメということを子供に教えないからおかしくなってしまうんだと。ストーカーなんかが増えたのもやっぱりこういう教育からなんでしょうね。でもこれってわたしが言って欲しかったことなのかも。だって自分なりに頑張ってるのに成果が上がらないものってある。こんなに頑張ってるのにそれでもやっぱり努力が足りないのかって落ち込んだりする。人にはやっぱりある程度素質というものがつきまとうのでしょう。逆に人が一生懸命努力している横で自分だけがあっさりやり遂げてしまうこともあるものね。

すごく良い勉強になった。こういう粋な大人になりたいね。ってやっぱりわたしが憧れる大人はいっつもオバサンじゃなくオジサンなんだよね。


2014年01月10日(金) すーちゃん、まいちゃん、さわ子さん

映画「すーちゃん、まいちゃん、さわ子さん」を観た。原作を書いた益田ミリさんってすごい。どうしてこんなに″普通の30代の独身の女の子″の気持ちが解るのだろう。漫画を売って食べていけるのだから、彼女自身はかなりの成功者でしょう。友達にこういう人がいるんでしょうね、と想像する。わたしの隣にもこんな子達いるもの。キャリアにフォーカスして仕事に打ち込む反面、既婚者と付き合っていたり、仕事も恋愛ものらりくらりで、男性に言い寄られても気付かないくらい鈍感だったり。みんなそれぞれ良い子で、優しい気持ちを持ってて、社会の中でストレスを抱えながらも自分で自分をちゃんと支えて生きてる。他人との接触の中で傷ついたり、言い返したいことがあっても、本音だけ言っていては生きていけないから、ぐっと堪えて何もなかったように暮らして、それが積もってある日発狂して大泣きしてみたりね。配役もいい。柴崎コウさん演じるすーちゃんなんてすごく現実味あった。本当は綺麗なのに、田舎者故にセンスが悪く、髪も服も喋り方もとにかく野暮ったい。対照的に実家が都内のさわ子さんに寺島しのぶさん。ごてごてと飾らないすっきりと洗練された雰囲気が妙に都会的だ。

心にぐさりと刺さったセリフ。

「わたし一つやめる。がんばりすぎちゃったから」

「変わりたい、変わりたいとわたしは思ってる。あんな人になりたい、こんな人になりたい、と色んな憧れがあるけど、それはみんな自分じゃない誰かだ」

「時々考えちゃう。捨てたほうの人生もアリだったんじゃないかなって」

わたしは自分に揺るぎない自信を持ってるわけじゃないし、誰かから羨まれるような人生など送ってないけど、自分じゃない誰かになりたいなんて思わないし、選ばなかった道の先に希望を見出すこともない。でも揺れ動く30代女性の気持ちみたいなものに少なからず共感したりした。

そして猫のみーちゃん本当に良い役割果たしてる。行方不明だったみーちゃんが見つかった時、思わず泣いてしまったもの。猫って本当こういうところあるの。


2014年01月05日(日) ブラウン管の中の勉強仲間

先日購入した″Vegetable soup"の本はかなり重宝している。野菜くずを冷凍庫に貯めておいて、両手いっぱいくらいの量になったらスープストックを作ってそれをまた冷凍しておけば、あらゆるスープに展開できる。毎食作れるような簡単さもいいし、完全ヴェーガンなのに満足の味。ブランチはキャロットポタージュとポテトとカリフラワーのバター醤油炒め。

今日気付いたことは、テレビの中の人がこちらに向かって、
「さぁみなさんも一緒に発音してください」
などというNHKの教育番組などを見ていると、その番組の出演者に妙に親近感が沸いてしまうということ。相手は画面の中でも、″一緒にやってる″みたいな仲間意識を植えるのだろう。出演者同士が話しているだけの番組は同じ人を毎週見ていても他人としか思えないので、この効果は明らかだ。フランス語講座に出ていたギタリストの村治佳織さんが舌の腫瘍の為療養中と知って、友人が病に倒れたみたいな心境になった。この講座の中で、村治さんの役どころは、フランス人3人と日本人の教授にフランス語を教えてもらうというような役どころなのだが、実際のところ、プロフィールを見ると、パリに音楽で留学しているのだから、そうレベルが低いはずはない。ペラペラなのにヨタヨタをやるのは歯がゆいことだろう。でも、テレビの前の初心者と同目線で、
「この発音はちょっと難しいな〜」
なんて言ってくれるやさしいお姉さん的存在なのだ。わたしのフランス語学習は独学というだけあって孤独だ。カミーユ君は″恋愛対象″であって、言語交換の相手ではない。わたしのたどたどしいフランス語で会話のテンポを狂わせてしまうのが嫌なので、たまに練習にメールを送らせてもらう程度だ。いつもは下を向いてテキストを目で追う学習だから、水曜の夜に顔を上げて、テレビの中の人々と一緒に発音したりするのが嬉しくて、毎週とても楽しみにしているのだ。

Prends soin de toi(お大事に)

ですね。


2014年01月04日(土) 幸福学

NHKの「白熱教室」でブリティッシュ・コロンビア大学の博士の「幸福学」の講義を見た。初回はプロローグだったのであまり深く切り込んだ内容ではなくて、そう真新しさもないのだが、どの説もどこかの博士の分析データを元にしてるというのでちょっと面白かった。

「お金持ちの層と貧困層の幸福度はそうかけ離れていない」
「人は自分に起こる災いなどで幸福度が決まるわけではない」

にもかかわらず、人が必ず幸せを感じるのに必須なものが3つあるという。

1、人との交わり

二つのグループに分かれて、カフェに行かせる。片方には無駄口はきくなといい、もう片方には店員と世間話をしろという。両グループがカフェから出たところで幸福度を測ると、後者のほうが高くなっているという結果が出た(幸福度の測り方は説明されていなかった)。これは外交的な人でも内向的な人でも結果は同じだそうだ。

2、親切と感謝

二つのグループに分かれて、片方にはその日の出来事をただ日記につけろといい、もう片方には何か感謝するべきことを見つけて日記をつけろという。数日後幸福度を測ると、後者のほうが高くなっているという結果が出た。

3、ここにいること

二つのグループに分かれて、片方には一日何度でも携帯電話のメールをチェックすることを許可し、もう片方には一日3回までと制限した。数日後幸福度を測ると、後者のほうが高くなっているという結果が出た。電話の中の世界ではなくて、目の前の出来事に集中しているということが人に幸福感をもたらすのだという。

「幸福」なんていう実態のあやふやなものを突き詰めて行く講義、なかなか興味深い。


2014年01月03日(金) 舟を編む

カウントダウンはバスルームにて。昨年の日記を見ると2年連続同じパターンだということがわかる(一歩も成長してないような腑に落ちない気分だね)。一番乗りでLINEに″Happy new year!″のメッセージをくれたのはカミーユ君だった。時差があるというのに、ちゃんと気にかけていてくれたんだね。ありがたい。

こたつに足を突っ込んでの正月映画は「舟を編む」を観た。静かで地味で一途で、自分の心が欲するものをちゃんと知ってる、好きだなぁ、こういう人達。オダギリ・ジョーは「時効警察」のまま別の映画に出ちゃったの?という感じだったけど、もうこの人はそういう人にしか見えない。実はけっこう真剣にやってるのに、喋り方のせいでゆるく見えてしまう人。しかし、マジメ君とカグヤちゃんが夫婦になるまでの過程は良かったけど、夫婦になってからもう少し温かい人間味のある感じでもよかったんじゃないかなぁ。あれじゃぁ、ラブレターと同じ″戦国武将″の世界ですよ。西岡君(オダギリ)とレミちゃん(池脇千鶴)がいかにも人間ぽい普通のカップルなだけに、そのコントラストが激しくて、何時代の話なのかわからなくなる。しかし、一昔前はあぁやって誰かが一生を捧げて作っていた紙の辞書。それが数年後には電子化されていて、作る過程でもあんな風に目で見比べてやるような作業は無くなって、もう誰も一生を捧げなくなったことでしょう。もう今時の辞書は誰かの人生の集大成のようなものにはなり得ないのだろうかね。


Michelina |MAIL