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農園から掘り出したさつまいもでスウィートポテトを作った。ココア生地をきれいに巻きつけるのにちょっと苦労したが、なかなかの出来具合。自然とでこぼこしちゃうのも本当のさつまいもみたいな風合いでいいではないか。
仕事をシェアしている女の子が呆れ顔で、新人君が会社の敷地内にいる猫に食べ物をあげているのだと噂していた。わたしもたまにおなかをすかせて鳴くその猫を見かけていた。今日は食べ物にありつけたのか、よかったなとホッとしたのはわたしだけで、彼女は新人君を"バカなヤツ"と一蹴した。その後ホームレスの話題になり、
「自分で食べられないヤツは死ねばいい」
という彼女の発言が胸にぐさりと突き刺さってしまった。ホームレスがおやじ狩りにあって暴行されたとか殺されたという話はある。おやじ狩りなどをするのは、自分で働いたこともなく、親のお金で食事にありつける子供であり、そんな子供がホームレスをバカにするところにはまっとうな理論はない。しかし、彼女のような何年も自分で自分を養っている社会人がそう言うのだ。そういう発言に至るには彼女なりの経験から成る考えがあるのだろう。
自然界は弱肉強食で食べ物にありつけない者は飢えて死に、逃げる力を失えば食われる。だから、どちらが正しいとか間違っているという答えはないが、わたしは彼女とは正反対の考え方だ。わたしと彼女は職場でも同期で、辞めたり、辞めさせられたり、出入りの多いこの厳しい職場環境を生き抜いてたった二人生き残った戦友のような存在だ。しかし、人間なんてどこでぽっきり折れてしまうかわからない。ここまでふんばってやってきても明日ぽっきり折れてしまうことだってあり得る。わたしは"自分で食べられないヤツ"がどうやって自力で食べられるようになるかと考える。そのような妹を持っているからそれは家族が抱える大きな課題だ。妹は自分で食べられていないけれど、心根の優しい人間だ。だからもちろん死んでほしくなんてない。ずばぬけて明晰な頭脳を持っている代わりに野性の勘が鈍いのが人間というものだ。だったら野生の勘に生きなくても、その明晰な頭脳でみんな生きる道を考えてもいいじゃない、と思うのだ。
友人がハロウィンお楽しみセットのようなものをプレゼントしてくれたので、その中のシェープの凝ったパスタを食べてみようとミネストローネの中に入れたら・・・・ シェープがなくなってしまった(汗)。せっかくシェープのあるものを溶かすようにスープに入れるなんてアイディアが悪かったのかしら。残りの半分はサラダにしよっと。うん、それがいいかも。しかし、焼きたての黒パンとことこと煮たミネストローネの夕飯は幸せ〜。 チョコボールをデザートにコーヒーを飲みながら映画鑑賞を楽しんだ。
そして今、愛猫を膝に乗せて寝息を聞きながらこれを書いてる。日曜の夜はこうでなくっちゃね。
2012年10月24日(水) |
カネ目当てとカジ目当て |
夜のテレビで女性の婚活ドキュメンタリーがやっていた。その中でセレブ婚を望む人々のお見合いというのがあった。その婚活エージェントを切り盛りしている女性は自らが70回のお見合いの末にセレブ婚を果たしていて、彼女に見込みがないと思われたらお見合いにすらこぎつけない。それゆえに男女ともひとりめで結ばれるという確率が非常に高いのだそうだ。登録男性は医者や弁護士ばかり。そして彼女の元に面接にくる女の子達はみんなどこか金銭感覚がずれている。
「外食でおごってもらう一回の食事はひとり5000円くらいで十分です。でも彼の誕生日におごるなら1000円くらいです」
「わたしが失業中なのでセレブ婚が希望です。1ヶ月の生活費は150万円くらいでしょうか」
「タワーマンションに住みたいのでセレブ婚希望です。結婚しても仕事を続けたいです。貯金と家の家賃は旦那の給料でして、わたしの稼いだお金は全部自分で使いたいです」
どこまでリアルでどこまでショウなのか知らないが、ここまで観てすでにあきれてしまった。わたしがお金持ちの男性なら彼女達に聞くでしょう。
「では、あなた達にお金をつぎ込むとして僕の得はなんですか」
お金に比例した見返りがあるのだろうか。愛はお金に換算できない?だったらセレブ婚じゃなくてもいいわけですよね。まぁ、お金を持っている男性というのは、それなりに精悍で野心と強い志のある人が多いし、よりよい子孫を残そうとそこにメスが群がるというのは動物として自然なのでしょうけど。
その中でひとり自ら希望したという番組スタッフがいて、彼女はまぁ、地に足のついた感じであったから、医者の男性とのお見合いをセッティングしてもらえることに決まった。ところが、この女性は爪が長く、エージェントの女性がそれは絶対切るようにと指導するも、本人はそれに固執しているようで、どうしても切りたくないという。そして見合い当日結局彼女はその爪のままやってきた。医者との会話もなかなかはずみ、彼女がこの男性に直接爪に関してどう思うかと尋ねた。一瞬長い長い爪を見て表情の固まった医者はこう答えた。
「いやぁ、別にいいですけど。。。それで米が研げますか」
結局お互いにそう悪い雰囲気はなく、交際をしてみましょうということになったのだが、スタジオにいた若くして既婚の女優達までもがみんな口を揃えて爪を切らなければ家事ができないだろう、男性が嫌というなら変わるべきだ、と彼女を諭すのだ。そして結局彼女に、
「爪を切ります」
と宣言させてしまった。わたしは切ない気持ちになった。彼女は39歳。善良な市民としてよく働き、その褒美として爪を長く伸ばしてネイルアートをするなどの自由を満喫してきたのではないか。ここではっきりと若くして結婚した女優達と彼女のようにおそくまでひとり身でいる女性との違いを見てしまったようだ。
男性が嫌だというなら変わるべきだ、と前者は言う。でもこの女性だって最初はっきりと爪を切るのが嫌だと言った。どうして女性が折れるべきなのか。男性だって女性の嫌がることは尊重してくれたっていいではないか。お米なんて泡だて器で研げばいいじゃないか。そもそもどうして彼女がお米を研ぐと決められてるのか。フェミニストの小倉千加子先生は結婚はカネとカオの交換だといったが、カネとカジの交換とも言えるだろう。しかし、結婚がカネとカジの交換だというのなら、わたしはこの戦線から離れて、フレーズを変えよう。
"求む、相乗り!"
(写真:秋はバルコニーでの昼寝が最高!)
2012年10月21日(日) |
ドイツ・フェスティバル |
「ビールばかりじゃない」、「オクトーバーフェストとはちと違う」
というウリに魅かれて友人と足を運んでみた。食べ物の屋台から日用雑貨、チーズやパンとひととおり出店が並んでいて、かんかん照りの太陽の下、みんな豪快にビールをぐびぐびと飲っている。客の大半は日本人。ドイツ人はあの大地震で放射能にぴりぴりと反応して、逃げていってしまったのだろうか。ドイツほどの反応を見せた国はないだろう。風力発電やら太陽光発電の再生可能エネルギーへの転換の取り組みも早かった。医療とかそういうところをとっても、つくづくドイツ人って生き延びることに真剣な人々のようだ。
顔くらいの大きさのプレッツェルを頬張り、いろんな酒を試飲し、最高級のワインとその薀蓄とやらに友と口を揃えてあっさりダメだしして、会場を去った。あれじゃ、売れやしないね、などと物を売ったこともないふたりがセールスの薀蓄を垂れながら長閑な青山墓地の中の小路をよろよろと歩く姿は、よく晴れた秋の休日に相応しい光景であったでしょう。
大量にいただいた大粒の栗で渋皮煮を作り、さらにその渋皮煮でモンブランタルトを焼き、そして最後の栗で栗おこわを炊いた。塩と砂糖以外何も入れないシンプルなレシピだけれど、栗をぼろぼろに崩さないように栗を先に煮て、その煮汁でもち米を炊いて、最後に混ぜ合わせるという工夫をした。味付けはやっぱりみりんとか醤油とかいろいろ隠し味を入れるより塩だけがいちばんいいみたいだ。しかし、わたしほどの栗好きはいるだろうか。栗の季節になると夜な夜な大好きなクラシック音楽を聴きながら黙々と栗の皮むきなんかして寝不足になっちゃうんだから。しかし、この栗おこわ、自分好みの味に仕上げたんだから当たり前だけど、買ったやつなんかよりずっと美味しい。もうちょっと、もうちょっととぐんぐん食べてしまう。剥く時も黙々となら食べる時も黙々とだ。世の人が黙々と食べるのは蟹らしいが、わたしのそれは栗だ。
昨日美術館を出ると雨がぱらぱらと降っていた。こんな日は温かいコーヒーを啜りながら、ナッツやチョコレートでも齧って映画館でまったり過ごすのもいいねぇ、そう思い立った。まえもってチケットを買って行こうと、駅ビルの中の一畳くらいのスペースでおじさんがひとりで営業しているチケットショップに入った。チケットは映画ごとではなく"京成ローザ"(古い古い映画館)のチケットとして販売しているらしい。
「一枚ください」
「はい、1400円」
チケットには1300円と書かれている。
「チケットに1300円と書いてあるのに、なんで1400円なんですか?」
と訊ねるとおじさんはさらりとこう言った。
「うちが100円手数料とってるから」
手数料?チケットショップで手数料を取られるなんて初めてだ。仕方なく1400円払ってチケットを受け取るとおじさんが聞く。
「何観たいの?」
「"新しい靴を買わなくちゃ"」
「それだとね・・・・(時刻表を追っている)、15:25分だね。京成ローザの1のほうだよ。ボーリング場の隣ね。駅ビルの中歩いてけばいいよ」
100円の手数料はこの時刻案内と道案内賃なのか。東南アジアで無理やりシクロに乗せられたような気分だ。
平日の15時の映画館で上映される恋愛映画。ギリギリに映画館にすべりこんで当たりを見渡すとガラすきではあるが、パラパラといる客は意外にも全員女性だった。ひとりの女性が半分、友達連れが半分、全部で20人くらいしかいない。この京成ローザという映画館、客席にほとんど段差がなくな斜め45度に首を上げてスクリーンを見上げる格好となる。ちょっと辛い。そして背後に座っている"モンスターホテル"と間違えて入ってきたんじゃないよねぇ?と聞きたくなるようなおばちゃんが、笑うところじゃないところで大きな声で笑うのだ。セン(向井理)の苦労話の中の、"朝も昼も夜ももやし食べてた。朝は醤油味、昼はカレー味、夜はソース味・・・"というところでガッハッハと笑い声がする。そしてお互いに人生の中の苦悩を打ち明けあったセンとアオイ(中山美穂)がそっと体を寄せて横たわっている。アオイが囁く。
「もっと近づいて」
センが近づく。アオイがもう一度囁く。
「もっともっと近づいて」
ギャッハッハッハ。再び背後からおばちゃんの声が聞こえた。ちょっと〜、個人的には感動もしてないけど、一応ラブシーンなのだよ、ここ、笑うところじゃないのよ!
映画は無味無臭、パリと中山美穂と向井理が嫌いじゃなければ害もないでしょうというくらいのものだ。岩井俊二と中山美穂と聞いて"Love letter"くらいのストーリーの面白い映画を期待したのだけどね・・・。
2012年10月18日(木) |
ブラティスラヴァ世界絵本原画展 |
共産国時代のチェコスロバキアではじまり、現在はスロバキアが主催しているこの展覧会は、世界の絵本作家の完成度の高い作品が見られるというので(実際に出版されているものしか出品できない)、千葉市美術館まで足を運んだ。ここは初めて訪れたのだが、古風な雰囲気のとても落ち着く良い美術館だ。
これが想像をはるかに上回る充実ぶりで、内容の濃い面白い展覧会だった。原画が数点壁にかけられていて、その横には実際に出版された絵本が手に取って見られるようになっている。日本語に翻訳されたものはほんの数点だったが、絵を見ているだけでも十分楽しめる。日本人作家ではいまいあやのさんの「くつやのねこ」が入選したそうで、貧しい靴屋の主人と猫が力を合わせて生きるすべを見つけていくストーリーで、心優しいだけのような靴屋の主人に対し、猫がやり手で主導権を握っているのが面白い。わたしの心に強く響いたのはフランス人作家の"Le Surprise"という文字の無い絵本だった。絵の中に多くのストーリーを読み取ることができる。それはひとりの女性と愛猫の物語だった。だって、もうそれだけでぐっと感情移入してしまうよ、だれかさんみたいだもの。猫はいつもひとりで家で待っている。暗くなると女性が帰宅する。猫は喜んで玄関へ行き出迎える。寝食を共にして、つつましい日々のルーティンがある。そんな暮らしに変化が起きる。男性が女性の家を訪れるようになり、やがて女性が身ごもる。おなかが大きく大きく膨らんでいく。環境の変化に敏感な猫は家を出て行ってしまう。女性は悲嘆に暮れるが、やがて子供が誕生した。赤ん坊とリビングにいると、戸口で猫の鳴き声がした。ドアを開けるとそこには2匹の子猫をつれた愛猫がいたのだった。静かな女性と愛猫の暮らしは一揆ににぎやかになった、という話。わたしはいなくなった愛猫を探し歩いた不安な夜を思い出したりして涙がでそうになった。猫って本当に不思議な存在。テレビを見ててもパソコンに向かっててもシャワーを浴びててもいつも周囲でうろちょろしてるかと思えば、ある日突然どこかに隠れたりして不安にさせたりする。恋愛の駆け引きをする賢い女みたいだ。ガサガサ遊んでる時は呼べば喜んで走ってきたりするくせに、こちらが必死で探し回っている時はどんなに呼んでもそっと息を潜めて物音ひとつ立てない。だから見つけた時は嬉しくておやつをはずんでしまったりする。まんまと駆け引きに乗せられた気分だ。犬はそんなことしないもの。
日本の歴史的な古い絵本の展示もあった。明治時代の絵本はあまりカラフルではないが、すでに飛び出す絵本のようなものがあったというのは驚きだ。絵の中の扉をめくると中に妖怪が潜んでたり、ストーリーはぬるりと湿っぽい感じがうけたのだろうか。それが大正時代のものになると一気にカラフルになって、ただただから明るい雰囲気なのだ。昭和になると、今度はアニメチックになり、大人は楽しめないような幼稚な雰囲気のものになる。この頃になると今でいう3Dメガネのようなもので見ると立体的に見える絵本などもでてくる。こういうのは子供の頃見た記憶があるな。
ブラティスラヴァ世界絵本原画展で入選した絵本は日本語で出版されていないものはその場で購入できないのが残念だった。買って帰って夜な夜なベッドの中で眺めたい魅力的な絵本がたくさんあったのに。
近所を歩いていたら前に手を繋いで楽しそうに話す若い母親と小さな男の子がいた。そしてこんな会話が聞こえた。
子「あのヒトちょーヘンな顔なんだよー!ギャッハッハッ」
母「オマエ人のこと言えたツラかよ!」
わたしはぎょっとして思わず立ち止まってしまったのだが、なんと、
ギャッハッハッハッ!!!
子供はバカウケだった。子供ながらに母のセリフの滑稽さを理解しているというのだろうか。わたしの脳裏に浮かんだ言葉は
"カエルの子はカエル"
英語で、
"The apple doesn't fall far from the tree"
である。このおたまじゃくしがお笑い芸人志望なら将来有望でしょう。
プライベートのメールボックスに届いた記憶にない名前のメール。
「僕はあれから結局ドイツに戻って今は家族とゆっくり過ごしてます・・・・中略・・・あなたはとてもナイスガールだから、絶対また会いたいです。そのチャンスがめぐるまでkeep in toughしてくれますか」
ドイツに戻った?どなたでしょう?ひとめぼれ君だったら忘れるはずがない(っていうか、ヘンテコな別れ方をしたせいでしょう。実はめちゃくちゃ引きずってます(涙))。しばらくじっと考えてやっと思いだした。まだスリーブレスの服を着ていたね、たしか。友人のギャラリーのオープニングで知り合って、その次の週に別のギャラリーへ一緒に行ったのだった。日本に住む予定なのだが、ビジネスがうんぬんかんぬんで・・・と話していたっけ。しかし、メールに長々、どんなにわたしを気に入ったかと書いてくれるくらいなら、どうして1ヶ月以上間をあけて忘れたころにしてくるのだろう。のろすぎませんか?いくら仕事がどうのとか、生活がどうのっていっても1ヶ月以上たってそんなメールもらって、
「わたしもあなたのメールを心待ちにしてました」
なんてわたしの時計ではありえませぬ。
それから出勤して仕事のメールボックスに届いたドイツの取引先からの自動返信メール。
「会社にいません。戻るのは*月*日(1ヶ月後!)緊急の場合は***まで」
・・・。
あちらの時計では頼まれたことを1ヶ月後に片付けはじめるなんて当たり前なのかもしれないけれど、こちらは1日デリバリーが遅れるだけでもあれこれ面倒なことになるのだ。緊急の場合の***さんまでメールをすると3日後に返事が来た。
「なにか、ご用でしょうか」
もう用なんてないわいっ。あ〜ドイツもコイツも! である。
青堀温泉へ行って来た。青堀駅の周辺は本当に静か。車は走ってるけど、ひとっこひとり歩いてない。いいね、こういうところに来たかったんだ。人気スポットでもないだろうから道中撮影した写真など載せておこう。
| まずはランチ。温泉宿に向かう道中の高砂家というお蕎麦屋さんにて。
ひとっこひとり歩いてないような場所にあるけど、なかなか混んでる。地元で人気があるらしい。あられそばという青柳の貝柱の乗ったそばが名物だというから素直にそれをたのんだ。感想は、そば通じゃないから、そばについてはなんとも言えないが、つゆは濃い味。で、貝柱ってそんなに強い味があるものじゃないからつゆの味に負けて貝柱の味がわからないね。貝柱のかきあげとかにしたほうがいいんじゃないかな。自前の箸を使用すると100円会計からひいてくれると書かれているのを見て思いだした。いつも会社に持っていくバッグでそのまま来たからたまたま箸を入れたままだった。それを使用して100円値引きしてもらった。 |
| 町のバーバー。 |
| Sanseido? 三省堂書店?表に回ってみると本当に書店だった。でも三精堂だって。 |
| ペコちゃんのいないFUJIYA。 |
| Service Express。 何かの修理を商売にしてるらしい。 |
| 神社が見えるともう温泉宿はすぐ。 |
| はい、着いた。温泉宿の隣にある古い館。 |
| この花はこの町のあちこちに咲いている。花の背後が温泉。 |
| そしてこれが琥珀の湯。天然らしいが、すごい色。イソジンのうがい薬の中に浸かってるみたい。お湯の持ち帰りも許可されてるらしいけど、ステンレスの湯船に入れると穴が開いちゃうらしい。へ〜。熱すぎず湯加減もよくてなかなか気に入った。この町もこの宿も寂れてるけど、静かでいいな。この湯に浸かったら肌がぷるぷるになった。 |
以前流行った"空気を読む"という言葉。外国人の同僚達も週一で通わされている日本語のクラスで教わったというくらい日本の風潮を示す重要な表現だ。太田光は、
「"太田空気読めない"とか苦情がくるけど、その何が悪いの?」
と言っていた。彼のような頭の良い人は空気が読めないのではなく、とっさにその場の空気を読んだ上でチャンスを伺い、行けると判断したところであえてその空気を切るような鋭い発言をすることで、一目置かれる存在になっているのだろう。しかし、救いようもなく空気が読めない人間は多い。叱って躾けることと暴力を振るうこと、掴みあいの痴話喧嘩と殺人の区別が出来ない子供と親と教員。そしてそういう人々を見て見ぬふりをする大勢のオーディエンス。"空気を読む"という言葉の真意は"状況をわきまえる"くらいの意味合いなのかもしれないが、深く深く辿っていけば、空気が読めないということに繋がっているのではないか。連日報道される子供同士のいじめや親の虐待、加減を知らないから自殺に追いやったり殴り殺してしまったりする。
わたしは母親に殴り殺された小5の女の子のニュースにとても胸をいためた。世の中の大抵の子供は親に愛されて当たり前という顔で無邪気にイタズラを繰り返したり、物をねだってぐずったりする。それが子供というものだろう。そして親は叱っても相変わらず子供を愛してる。それがこの子はどうだろう。
「いい子にしてないと捨てられる」
と、母親の顔色を伺いながらびくびくと暮らして、その挙句に殴り殺されてしまう。捨てられたほうがよほどましだったでしょう。あと5年もすれば幸せな家族を自分で作れたかもしれないのに。こんな人生ってあるだろうか。子供が欲しくても出来ない人も沢山いるのに、その脇で望んでもない人がポンッと子供を産んでしまう。日ごろ、人生は因果応報だと信じているけれど、こんな話をきくとそんな信念はぽっきり折れてしまいそうになる。
さて、やっと3連休。ちょっと気になっていたインディアン・レストランでランチした。オーガニックの素材にこだわっているのがウリらしいが、木のぬくもりを感じる暖かい店の雰囲気も味もサービスもほぼ満点。アットホームな雰囲気の演出だろうか、客が会計する時以外はレジに布を被せていたりするほんの小さな気遣いもなかなかオツだね!わたしは突然ものすごい食欲を発揮し、ターメリックライスをお代わりしたのでした。南雲先生が聞いたら泣くでしょう。
2012年10月02日(火) |
Canal Cafeにて |
"Bonjour!"
カフェをでたところでムッシューに声をかけられた。フランス人かぁ・・・逃げよう!と思ったが、それじゃぁあまりにも酷いんじゃないかなどと思うあまり立往生してしまった。1分ほど話につきあったところ、1分で嫌気が差した。
「ここのカフェ美味しくなかったでしょ?え?まぁまぁ?クロワッサンが美味しいっていったって、それはこのカフェで作ってるわけじゃないからこのカフェが美味しいとは言わないね(理屈っぽいわっ)。それにしても一人でブランチ?さびしくないの?うそ?ありえないね(あなたとブランチのほうがありえないと思うけど)。ねぇ、フランス語しゃべらないの?え?しゃべれない?(フランス語は世界共通言語じゃありませぬ)」
しまいには、
「結婚は一度したからもういいや(そんなことわたしにはどうでもいいんですけど)。 同棲なら沢山したことあるけどね(そんなに沢山女の子捕まえられたの?そうは見えないけど。。。超能力でもあるの?)」
「わたしはこのカフェけっこう気に入ったし、ひとりでブランチも好きだし、いつか結婚もしたいし、わたし達ってとっても気が合いそうね!」
と皮肉たっぷり言い返したら、
「まったくそのとおりだね」
と消え入るようにスーッとどこかに見えなくなった。
映画やドラマだとカフェなどで知り合って仲良くなってデートに出かけて・・・とか素敵な展開があるのに、どうしてわたしには変な人しか声をかけてこないのかしら、と思ってふと気付いた。そもそもカフェで女の子に容易く声をかけられるような男性がタイプじゃないんだね。だからその時点でもうアウトなんだ。友人が聞いたら呆れ顔でこう言うだろう。
「じゃぁいったいどこで声をかけられれば納得するの」
わたしは答えに窮して俯くのみだ。
(写真:今日のにゃんこはお城の屋上にてお昼寝)