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チャズとまたまた表参道で待ち合わせ。先週の続きで、小さなアートギャラリーをまわった。迫力のある国立美術館のような大きなギャラリーももちろんいいけれど、こんな風に小さなギャラリーでこつこつと個展を開いて、作品を売り、どうにか自分の好きなことをして食い繋いでますというようなつましくも夢の詰まった空間が心地いい。
あたりがすっかり暗くなり、一際高い六本木ヒルズが浮かび上がっているのが青山通りから見えた。すごく近いように見える。よし、おなかもすいてきたから、六本木ヒルズを目指して歩きながら、途中で何かを食べようということになった。近いように見えても間に青山墓地があってストレイトには進めないからおしゃべりを楽しみながらゆっくり気長に歩いた。途中でいくつかウェディングドレスを売る店を通過した。わたしはアメリカ人と結婚というものの関係がつくづくよくわからない。人々は結婚に強く憧れ、強く恐れ、強く肯定し、強く否定する。チャズは両親も離婚しているせいなのか、"永遠"を信じない。例えば、"そしてこの二人は結ばれて幸せに暮らしましたとさ"というような話をすると必ず"For how long?"と返ってくる。
「もしあなたがわたしに"Will you marry me?"と言ったら、わたしはもう答えを決めてるのよ」
「えっ? 何??」
「For how long!!」
そんな冗談を言ってるうちに西麻布に入った。インディペンデントな小さなレストランが点在していて、どれもこれも惹かれる。立ち止まっては中をのぞき、また歩き出す。結局はチャズの知っているイタリアンに落ち着いた。
おなかを満たしたら六本木を抜けて麻布十番へ。まだまだと東麻布まで歩き、ニッシンで買い物を楽しんだ。パスコがオーストラリアで売っているような、日本の食パンの3/4サイズのシードやホールミールの入ったパンを明らかに外国人向けに出しているのに驚いた。こんなの他のスーパーでは見たことない。
そして、結局は神谷町まで歩いた。東京は徒歩がやっぱり面白い。
ニュースの特集で19歳から34歳の男女の約半数がシングルだというアンケート結果がでたというのを見た。咄嗟にこの忙しいライフスタイルが大きな要因だと思ってしまったわたしは古い!道行く男女へのインタビューではシングルである理由をほぼ誰も忙しいなどとは言わなかった。
「ひとりでいるのが気楽で楽しいんです(22歳女)」
「どうせ告白したって断られることを考えたらひとりでいるほうがいいです(19歳男)」
「デートに誘ったりできなくて、どうしても誘われるのを待ってしまうんですよね(20歳男)」
「収入も低くて不安定なので結婚は無理です(32歳アルバイト男)」
「2次元に彼女がいますけど、3次元にはいません(22歳男)」
なんだかショッキングというよりもどんより落ち込んでしまう。わたしが高校生の時などはいわゆる女子高生ブームなどと言われる時代で、ミニスカートにルーズソックス、ブルセラに援助交際、ブランド品が欲しくて体を売ってしまうような女の子もいた。良くも悪くもとにかくまだ若者の間に欲とエネルギーが渦巻いていた。それが今ではそんなことをする学生はいないんだそうだ。ブランド物にも興味がない、だからお金を得ることにも興味がない、もう無欲・無関心それが今の若者の実態なのだそうだ。"無欲"にも種類があるが、それはおそらく無気力からなる無欲なのであって、マザー・テレサやマハトマ・ガンジーのような頑健で強靭な信念に基づく尊重すべき無欲ではないのだろう。
わたしもそうだが周囲の若者でもシングルが圧倒的に多い。オーストラリアでは何をするにもカップル単位のことのほうが多かったから、これは本当にカルチャーショックなのだが、単純な理由の一つに都市の大きさの問題があるのではないかと思う。このトピックについてあらゆる都市から来た外国人達と話し、大きな賛同を得たので、これはオーストラリアに限った話ではなく、世界一大きな都市といわれる東京に対する他国の都市との比較だ。東京からその近郊ほどこんなに大きく街と人が広がっているところは稀だろう。オーストラリアでいえば、"シティ"と呼ばれる中心地区があり、人々はシティに集中して住み、シドニーでさえシティの中心から30分もドライブすればもうファームのど真ん中にいるという土地柄なのだ。だから出会う人殆どが30分以内のドライブで会える場所に住んでいる。この"ドライブ"というのも大きな鍵で、やはりそれは地下鉄で何度か乗り換えて・・・などとするより余程楽なのだ。部屋着のまま車に乗ってふらりと会いに行くなんてことはオーストラリアでは簡単に出来ることだ。それに加えて残業などしない文化だ。だからちょっとめぼしい相手に会えば、毎日デートを重ねる。それだけに親しくなるスピードも早い。パースの友人・知人ではシングルのほうが圧倒的に少ない。それにひきかえ、東京のわたしの周囲のシングルは揃いも揃って残業族で、常に体に疲労が溜まったままで、めぼしい相手に会ってもそれに気付くほど精神がフレッシュに保てていない、または気付いてもそのうち忙しさにかまけてフェイドアウトしていくというような侘しいルーティンを疑うことなく続けている止まらない歯車のような人が多い。
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週末はチャズと表参道で落ち合って、彼のお気に入りの個人経営の小さなカフェでおじやのランチを食べて(すっごく美味しかった)、小さなアートギャラリー巡りをした。学生の時にべったり寄り添った街は、同潤会アパートも取り壊されてしまったけれど、それでもそこを歩く人々の風俗の傾向は一向に変わっていないように思う。
そして、夜にチャズの家の屋上に登った。人が簡単に登れないようになっているから無理やりよじ登ったというのが正しい。そこには東京タワーがくっきりと澄んだ秋の夜空に映えていた。
2011年11月18日(金) |
Never let me go |
痛く、切なく、美しい映画だった。一見普通の寄宿学校でのびのびと育っているかのように見える主人公のキャシー、ルースとトミー。良い仲のキャシーとトミーに嫉妬して必死でトミーを奪おうとするルース。そんな他愛ない子供の世界を映しているが、実はこの寄宿学校の生徒は、何らかの形で捨てられた、または売られた孤児達で、生まれながらに臓器提供のために生きる運命を背負わされていた。語り手のキャシーは、"大抵は3度目の"Donation(提供)"で"Complete(終了)"を迎えるというが、一度目でCompleteしてしまう人もいる"と説明している。寄宿学校でそう教え込まれたのだろう。死がCompleteなどとさらりとした言葉で表現されているのがおぞましいと思いながら最初は見ていた。18歳になるとこの寄宿学校を出て、農場のコテージに移り、Donationの通知がくるまではそこそこの自由を与えられ、日帰りなら旅行なども許可される。逃げようと思えば出来てしまいそうだが、子供の頃からそういう運命だと洗脳されて育ったのだろう、誰も運命に抗おうとはしない。しかし、病的にそれが正しいと信じているわけでもなく、彼らの中には人を愛したり、痛みを感じたりする感情がしっかりと息づいているから余計切ない。
やがてルースを失い、愛するトミーを失ったキャシーの心ににわかに形作られた思想にこのストーリーの結論が集約されているようだ。
What I'm not sure about, is if our lives have been so different from the lives of the people we save. We all complete. Maybe none of us really understand what we've lived through, or feel we've had enough time.
わたし達が救った人と、わたし達に救われた人はどう違うのだろう。誰もが生の意味を理解しないまま死んでいく。
さて、人間だととても異常に映るが、動物の世界にはすでにこんなことはどこにでもある。実験用の動物は工場のようなところで、同じ健康状態で育つように生み出され管理されているし、食用の動物も然り。ある海外のドキュメンタリー番組で見たものでは、ペットの犬や猫のための臓器を処分される寸前の犬や猫から取り出して移植するというものだった。友人は、どうせ処分される命なら他の命の役にたてたほうがいいのではないかという意見だったが、わたしは納得できなかった。わたしのペットの命と処分される命どう違うのだろうかと。他の猫の体を切り刻んででも自分の猫を生かしたいとは思わない。生には必ず終わりがあるのだ。それを受け入れて静かに終わりを迎えるほうが安らかに眠りにつくことができるのではないか。
大根一本手に入れたら、余すことなく全てを使ってフルコースにする。皮は大根の皮フライドポテト風に。わたしのお気に入りはカレーパウダー入り。揚げ物は面倒だから大目の油で両面焼くことに。これでぽりぽり立派なおつまみに。
そして身はとろとろ大根と玉子のこってり煮に。わたしは鶏ガラスープの代わりに昆布を。十分おいしい。
葉っぱはやっぱり定番菜飯。あげとごま油で炒めて塩だけ。
今年は大根がよく育ったようでとても大きくて安いですね。
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週末は天気がよくてあたたかかったので、チャズと会ってのんびりと散歩したりした。仕事が終わって家事をひととおり済ますともうほとんど寝る時間になってしまうんだよね、もっと勉強したり本を読む時間が欲しいのに〜、という話をしたら、彼がこんなことを言い出した。
「君の家がすぐ近くだったら、掃除しに行ってあげるのに」
「やさしいのね!」
「うん、じゃぁお皿洗いもしてあげる」
「いいね、いいね」
「料理もしてあげたいな」
...... う〜ん。それは遠慮したいな。 だってこんなんだし。
2011年11月06日(日) |
Lindt Cafe |
4連休の最終日はチャズと1日びっちりデートした。お台場でランチして、埠頭を歩き、近況を分かち合い、夢を語り、思考を探りあい。。。。それなりに楽しかったけれど、彼とこの先友達以上の関係を築いていくのは簡単ではないだろうと思った。わたしはわたしと同じくらい、悩んで、傷付いて、痛い思いをしてきたからこそ、年を重ねて少し楽する術を覚えたのだという人と付き合いたい。一人でも幸せ。でもこの人といたらもっと幸せ。そう思える人と出会いたい。そこまでは同じなのに、さて、その人を失ったら?わたしはそれでまた一人に戻って元どおり幸せとは思えない。今まで彼の強さだと思っていたものは単に獣道を避けてポーカーフェイスで脇道を通り過ぎてきただけに過ぎないのではないかと思えた。
"Have you ever be in love?"
思わず聞いてしまった。答えはやっぱりNoだった。
銀座にできたLindtのカフェに行ってみた。真ん中にクリームの入ったあの丸いボールのチョコレートが大好きで、あんなのがケーキやフォンデユやドリンクになってるなんて考えただけでも楽しい。オレンジのリキュールのケーキにしてみた。アルコールもチョコもすごい濃厚。でもそれとふわふわのスポンジやムースの組み合わせが、フォークの折れそうなブラウニーとかチーズケーキが好きなわたしにはマイナス10点。依然ポイントは高いけど。
日もすっかり落ちた頃、良き飲み仲間のフィルと銀座三越前で待ち合わせ。彼の友達のマルクスの会社の主催するパーティに顔を出すことになっていた。年間1/3くらいはビズトリップにでているから、今夜の再会も久々。お互いにラフなシャツ姿でしか会ったことがなかったから、目の前にバッチリスーツを着込んだフィルが現れた時、あまりにもの恰好良さに気絶しそうになった。あちらも会うなりフューと口を鳴らし、わたしの青のドレスを褒めてくれて、ちょっと女として見直してくれたらしかった(笑)。
パーティはなんだかつまらなくって、一杯飲んで、そうそうにフィルとマルクスと3人で抜け出すことにした。彼らは仕事がらみでない純粋な友達のようで、いつもスノッビーなヒルズ族のクライアントなどとつるんでくだらない高級な店で飲んでいるらしい彼らは、私生活では有楽町のガード下などで飲むことを好む。店に入るなり、このジャーマン男二人は"Prost!!"と高く掲げた一杯目のビールを勢いよく飲み干し、早々に2杯目を注文した。二人の飲みっぷりにこちらもなんだか楽しくなってきた。
フィルは初めて会った時からわたしにベタ惚れだった。といっても関係を持ちたいとかそういう類ではなくて、わたしの強くてインディペンデントで気骨のある生き方に惚れたのだという。彼は日本に長く、この国の良いところも沢山見つけているが、どうも典型的な日本人の女の子が苦手なようなのだ。
「彼女達は美しくセクシーに着飾っているから喋ってみたいとすごく興味をそそられる。でも喋ってみるとその意志の薄さと自信の無さにたちまちがっかりする。キャーとかワーとかやたら奇声をあげて、子供っぽさや無知を売り物にするのが気持ち悪いんだ。俺は経験豊富な大人の女と関係を持って結婚して子供を作りたいんだ。子供と子供を作る気はないんだよ」
隣でマルクスが強く同意している。
「俺は最近気付いたんだ。そんなふうにか弱く無知で経験の浅い女を装うことのできる女の子は計算高いんだよ。男に染められたいと望んでいるような女は本当の意味では男を必要としてないと思うな。本当に男を必要としているなら男を飼いならして絶対自分から離れさせないように言うことを聞かせるのだろうから」
その後も話題は女のメンタリティーを軸に彼らの育った東ドイツの共産主義思想までに転がった。"Du tunnel"というドイツ映画にでてきた女達を思い出した。男が何かを運んできてくれるのを待っているのではなく、男と対等に働き、危険を侵す。彼女達が時折ちらりと見せる女らしさと母性がどんなに魅力的にうつったことか。
彼らのほうが断然酔っていたが、この紳士達は駅まで送り届けなければ気がすまないというので、甘えることにした。わたしは自分の強さを適切に評価してくれる人がいるということがたまらなく嬉しかった。彼らはわたしを送り届けるとまだ飲むのだといって肩を組んで銀座の街に消えていった。
2011年11月03日(木) |
Captain America |
4連休の初日はこのところお互いにほんの少しいれこんでデートを重ねているチャズの家へ出かけた。プロジェクターがあってミニシアターになっているので、みんなで映画鑑賞をしようということで数人集まっていた。
夕飯はチャズがパスタを作ってくれるという。お母さんはイタリア系だからパスタやピザがおふくろの味だというからさぞかし美味しいのを作ってくれるのかもしれない。いや、でも彼もお母さんも依然アメリカ人。"食"について彼らに淡い期待を抱いて何度裏切られたことか。興味津々で手伝うふりしてキッチンを覗き込む。真っ先に目に入ったのは輸入食材店で買ったらしい瓶詰めのプッタネスカソースだった。もう後者であることほぼ間違いなかった。そしてまたパスタの茹で方がなんともあやしい。まず沸かしている水が少ない。そして沸騰していないうちに塩をとパスタを投入。鍋の前に立って健気にずっとかき混ぜている。煮えるまでずっとかき混ぜるつもりらしかった。ここまででもう結末が見えたので、リビングにひっこんで、スナックを食べながらだべっていた。男の子達がしゃかしゃかとキッチンで準備をしてくれる。
が、でてきたパスタの横にきちんと最後にソースを拭うためのパンが添えられていたので名誉挽回。最後にパンでソースを拭うと"完結"したという気になってちょっとした快感なのだよね。
おなかを満たしたらいよいよ映画鑑賞。光の灯された東京タワーを横目にプライベートシアターで映画鑑賞とはなんとも贅沢な気分。しかし、、、、
映画は誰が選んだのか知らないが"Captain America"というなんとも幼稚なハリウッド映画で、開始から10分でいやになった。誰も声を発しないのでわたしも黙って最後までみた。ひとつだけよかったパートは、ひ弱な体型の青年に年老いたドクターがかけた言葉。
"A strong man who has known power all his life will lose respect for that power but a weak man knows the value of strength, and knows compassion"
生まれつき備わった恩恵に敬意を払うことは忘れがちだ。そして備わっていないものを努力して手に入れた時、人は強く優しくなれる。
映画を見終わって第一声誰かが"よかったね!"というとみんな賛同している。わたしは何も言いますまいとテーブルの上のスナックをめいいっぱい口に詰め込んで喋れないふりをした。
チャズは頭の回転が速く、家族に向けるまなざしが自然でいてとても温かい所、そして他人に対しても良いところも悪いところもひっくるめて冷静に受け止められる度量の大きさが好きだ。そして何よりも一緒にいて楽しい。この年になって自分が変わったと思うことは、一緒にいて楽しいということが何よりも大事で、その他の大抵のことは目を瞑れてしまうようになったこと。10年前だったら茹で過ぎのパスタや映画の趣味の違いなどは致命的だっただろう。
駅まで送ってもらう帰り道に手をつないで、大きなハグをして、小さなキスをした。このキャプテン・アメリカに着いていってもいいかなとじわりとそんな感情が沸きはじめたところで突然、
「お世話になりました」
と言われた。
「、、、、えっ!!!もうこれきり会わないって意味!?」
あまりにも突然で直立不動になるわたし。
"No!!! I wanted to tell you "Thanks for the great time tonight""
んも〜。日本語間違えないでよ。あぁ驚いた。