My life as a cat
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2008年02月27日(水) ショーティーさんとビッキーさん

いつも帰りの電車で一緒になる二人のおじさんに心の中で密かにつけたあだ名だ。小柄なほうはそのままショーティーさん、もう一人は中背で痩身、ビッコをひいているからビッキーさん。彼らとは家の方向が同じらしく、同じ駅で乗換えをするのだが、これがとても不便。元の電車と乗り換えの電車がぴたりと同時に別のホームに入ってくるので時間がない。逃せば20分待つことになるから走って必死で乗り込む人が多い。わたし(腹ペコで早く家に帰りたい一心)と二人のおじさんは「走り込む組」のレギュラーで元の電車の中では階段の真ん前で開くドアの前で加速をつけて走る準備をして、ドアが開くと勢いよく飛び出す。しかし、当然ビッキーさんはハンディがある為わたしやショーティーさんのように速く走れない。そこで先に乗り換えの電車に飛び込んだショーティーさんは閉まりそうになるドアにまだ乗っていないビッキーさんのために傘とかを挟んでしまうのだ。そしてもう一度ドアが開いた瞬間にビッキーさんが乗り込んでめでたしめでたしとなる。危険だしJRにとっては迷惑な話だが、でこぼこな二人の見た目のせいかアニメ的道化のように映る。だって何が可笑しいって第一この二人、知り合いなのかと思いきやその連携プレイだけの仲らしいのだ。

さて、ビッキーさんの脚は痛々しい感じがするのだが、優先席に座るのを好まないらしく、普通席が空かなければ立っている。わたしが利用する図書館では身体障害者を積極的に採用しているため、口がきけない、耳が聞こえないとかそんな人ばかりなのだが、全く何事もなかったように働いている。五体満足な若者が働く気力なくホームレスになっていくこのご時世、そういったプライドはご立派だ。


2008年02月20日(水) 問題発言

“People in this country are ready for change and hungry for a different kind of politics and … for the first time in my adult life I am proud of my country because it feels like hope is finally making a comeback.”

オバマの妻の問題発言だそうだ。先週日本に起きたあのシンガーの問題発言騒動に、この国には発想や発言の自由もないのか、、、、アメリカを見よ、などと呟いていたのだが、アメリカでも"愛国心"ということになると、たちまち自由などなくなるらしい。

しかし、日本人というのは良くも悪くもあかの他人を気にせずにはいられないようだ。わたしはこれに関しては生まれつき日本人離れしていると自覚していて、自分が信じて愛する人々の言動以外に傷つくことは出来ない。だからあのシンガーの熱狂的ファンが傷ついたというのは理解出来ても、そうでない人々までもが目くじら立てて怒るのは不可解だった。それに、発言自体がマンガ的で、それを"泣いて謝る彼女と世間"も"幼児とヒステリックな母親"のような滑稽さであった。


2008年02月19日(火) 偶の贅沢

ぶらりと銀座へ。冬のセーターが一枚欲しいといいつつもたついていたらもう春の風が吹き始めてしまった。コンクリートの谷間で賢く品良く生きることを強いられているような気にさせられる銀座・丸の内族の洋服は、暴れん坊のわたしには血行が悪くなりそうな窮屈なものなので滅多に買わないが、先日珍しくRoxyを少しだけ都会的にしたようなショップを見つけたのでじっくり物色。レーヨンで編んだブラを購入した。今度これに合わせるシースルーのシャツを買おう。それで行きたいのはやっぱりコテスロービーチかな。

美味しいランチを食べて、アートギャラリーを観て、OAZOで本を物色。久々に新しい本を買った。
「新しい本なんて贅沢ですよ。」
とは社会人になったばかりの頃の上司の言葉。頭が良かったけれど、地味でお人好しな人だったから、わたし達の部署が廃部になったら、そのまま本人の懸念どおり"窓際族"となってしまった。自分の世界に篭って寡黙に知識を磨いていたけれど、ノックすれば快くドアを開けてくれた。わたしは素直に彼を尊敬していたので、この言葉に彼の書物に対する敬意を読み取ると、組織の底辺の自分が新しい本を簡単に買うことがおこがましいことのように思えてきたのだ。部屋も小さいし、引越しも大変だし、という要因も重なり、図書館の常連で、いつか読み返したい本は古本屋から得る。人がつけた油染みなどが嫌で、料理本だけは新品だ。

帰りの電車で真新しい本を開き、にんまりした。「偶の贅沢」はわたしのような小動物をこの上なく悦ばせるらしい。


2008年02月17日(日) 彼氏がいない理由

パースの友と銀座で待ち合わせ。友は生まれつき肉嫌いの天然ベジタリアンで豆と芋を主な栄養源として生きているので、ランチは迷わず自然食レストランへ。背はすらりと高く、フィットな体型、くっきりした目鼻立ち、真っ白で並びのいいキレイな歯、それに風邪ひとつひかない健康な体を持った彼女だが、"カレシが出来ないこと"がここ数年一貫した悩み。正確には出来たりもするがワルい男に遊ばれただけだったりするので、問題外だ。"カレシがいない"は仲間内ではもはや彼女の代名詞のようになってジョークになりつつあったが、本人は深刻なので周囲も真剣に理由を分析する。
「片付けられない女だから」
(確かに部屋はぐちゃぐちゃ。何より過去の男との関係がきっちり片付いていないじゃないか。)
「服の色が暗いから」
(それじゃぁ、健康な男は寄り付かなそうだ。)
など色々でてるが、わたしは何よりも"自信の無さ"じゃないかと思っている。"わたしなんて、、、"と口走ってしまっては自爆だ。自分が自分を認めずしてどうやって他人に魅力をアピールするのか。けなされたら真剣に怒り、褒められたらニッコリ笑って真に受けていればいいのに。明日はひとまわり以上年下の男の子とデートだというので、
「若いだけに洗脳しやすくていいかもね。」
と言ったら、
「若いだけにわたしのようなおばさんに飽きていつか浮気されるかも。」
と後ろ向き。
春はまだまだ遠そうだ。

(写真:うっすら富士)


2008年02月14日(木) 乙女の愉しみ

若い女の子ばかりの部署のバレンタインは朝から甘いかぎりだった。カレシのいるコもいないコも幸せ顔でチョコレートを抱えて通勤してきて、コーヒーメーカーの周囲はソフィア・コッポラの描いたマリー・アントワネットの世界さながら、賑やかなスウィーツの山となった。10年前なら義理チョコのひとつももらっただろうが、もう時代は完全に変わったらしく、男子社員まで手作りケーキを持参してみんなを微笑させた。おみくじチョコなんてのもあって、中吉だ、大吉だ、というから騒ぎをしてみたり、くすぐったい一日を過した。去年は学生ながら頑張って指輪をくれたボーイフレンドからは、今年は電話ごしの
"Happy Valentine!"
の言葉だけだったが、それなりにまんぷくだった。


2008年02月07日(木) 雪男

雪。これぞ、エルちゃんの季節。夏はダレきった舌から涎をだらだらたらして情けない姿だが、今日は凛々しく庭を歩き回って、勝ち誇ったような顔つきで片足をあげて小便をしていた。

テレビで世界中の孤児のことがやっていた。親の身勝手で捨てられてしまう子供達というのはもちろん言いようもなく悲しいけれど、一番切なかったのは愛のある親子が離れ離れになるのだった。厳寒のモンゴルで、冬の間仕事も見つからない上に、健康を害している母親が、二人の幼児を施設に預ける以外になくなってしまった。真っ赤な顔をぐちゃぐちゃにして泣いてぐずる妹と、声を無くしたみたいにだまって佇む姉。わたしが子供の頃、母と口論をすると、母は、
「そんなに言うこときかないんだったらお母さん、どこかに行っちゃうからっ!」
と言ったが、そのうちなんだかんだと仲直りしてしまう。しかし、忘れた頃にわたしはその言葉を思い出して、急に母がもう帰ってこないのではないかと不安になって庭で泣き喚いて、ちょっとゴミを出しに行ったとか、買い物に行ったとかでひょっこり帰ってきた母を驚かせた。口から飛び出してしまいそうなほどドクドクと震える心臓の音や周囲の景色が見えなくなってしまうほどの精神の狂乱を覚えている。春が来たら仕事を見つけて迎えにくるからと約束して親子は別れてしまった。とても悲しかった。人間は多くを手に入れれば入れるほど欲張りになるのが常だから、悲しみとか不満とかの感情なしに生きていくのは無理だろう。けれど、おなかいっぱい食べられて、働きたければ受け入れてくれる場所がある、愛する人がいる、平穏な寝床がある人々はそれだけでもっともっと笑って愉快に生きていくべきだ。


2008年02月03日(日) "The twenty fifth hour"

ナチュレルの心情に過去の自分の哀しみを重ねてはじんじんと深く感じた映画だった。当たり前のように友達がいて、家族がいて、恋愛もしていた平凡なモンティを束の間支配した邪念によって、愛する人々の幸福、平穏な未来も全てを奪われ、地獄に落ちようとしている。収監されるまでの24時間のカウントダウンには散りばめられた様々なせつない感情がどんより重く立ち込めている。あらゆる映画やドラマで描かれる生粋のアメリカ人というのは、生まれ育った町と幼馴染を離れられないようだが、モンティは正にそれであるのが絶望の大きさを物語っている。経済や人種の格差の大きいニューヨークで、何らかのコンプレックスを抱えて生きる平凡な誰しもにとって、ただの紙一重の向こう側は底知れない後悔と絶望ばかりだ。しかしそれでも人間の強い生命力は、最後に砂漠の向こうの小さな町に、あるいはただ瞼の裏側に、儚い光を見せてくれるのだ。


2008年02月02日(土) 甘栗羊羹

作るとすぐになくなるおやつ。黒糖と餡子の味が程よく共存した水羊羹の水分が甘栗をしっとりさせて、つるつる過ぎず、ぎっしり過ぎず、ちょうどいい。

NHKで「爆笑問題のニッポンの教養」という番組がやっていて、哲学者や精神医学者やら各界知識人がトークしている中で、
「面白い社会というのは常に危険と隣り合わせで、良い文学や映画は苦境の中でこそ生み出される」
というのがあって、それは日頃微かに胸につかえていた今ひとつ得体の知れない思いがやっと吐き出されたような言葉だった。「空気が読めない」とかいうのがよく言われているらしいが、立ち込めた空気を濁さずに自分の意思を持つのが苦手な人が多い。つまらないことにも首を縦に振って楽する人ばかりで面白いことが少ない。と、わたしは内心でぶつぶつ言っているのだ。



Michelina |MAIL