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アパレル関係の会社で写真の編集の仕事を始めて一ヶ月経った。未経験なところも教わることができるのでなかなか面白い。しかし、お姉ちゃんなんだから面倒みてあげないさい、とばかり言われながら5歳下の妹と育ってきた姉の宿命なのか、気付くと金魚の糞のようにくっついてくる頼りなく優柔不断の年下の同僚がいる。聞いたことはないが、彼には絶対年上の兄弟がいるに違いない。写真選びひとつにしても深く考えてしまい相談される。こんなんだから時間内に仕事が終わらない。一度、「あなたは深く考え過ぎて破滅するタイプだと思うわ」と言ったら、次の日大失敗をして、「僕言われたとおりでしたね。あぁ、どうしよう」と、これまたいつまでもくよくよしている。定時間際になるとわたしが「早く、早く!バスに乗り遅れるよ」と彼を急かし、「先に行っててください」と言って後から息を切らして発車寸前のバスに飛び乗ってくるのも毎日同じ。わたしの半分くらいしか仕事を終わらせることができないのでクビにならないのかとみんな心配し、本人も焦っているが一向に改善されない。読書ものろい。その本いつから読んでるの?と聞くと一日1ページしか読めないという。要するに面白くない本なのだろうと思うが、面白くない本を読むのをストップするという見切りものろい。2週間くらい経ってようやく諦めて別の本を持ってきた。
「僕、子供の頃から体育の時間とか着替えるの一番遅かったんです」
「わたしは女友達と買い物に行くと絶対店の前で待たされるよ」
という会話があって、やっぱりこういう習性は治らないのかもしれないと思う。
そんな彼に国際電話のかけ方をたずねられたかと思ったら、次の日、
「僕、中国へ行って友達のビジネスを手伝おうかと思ってるんです」
とあっけらかんと打ち明けられた。中国人の友達があちらでビジネスを興して成功し、誘われたらしい。日本人の中でものろいのによりによって中国なんて!
「あのね、中国人はわたしよりせっかちよ」
と老婆心ながら教えてあげたのに、もう春が来たような顔つきで中国語のCDを聞きながらわたしの耳にもイヤホンを押し付けてくる。
夕方に自転車でコンビニまで写真を取りに行った帰り道、轟音とフラッシュのすさまじい雷を伴う夕立に襲われた。見渡す限り田園風景で雨宿りする場所もない。なんとか大きな木を見つけて木陰に滑り込むと、ぴたりと同時に反対側からもわたしと同じように小学校高学年くらいの男の子が滑り込んできた。大きな木もあまり役に立たないほどの豪雨で、もう髪の毛先から水が滴り始めていた。せっかくプリントした写真が塗れてしまうとそればかりに気を取られていると、どうも男の子が落ち着かずこちらをちらちらと見ているのに気付いた。こちらも横目でちらちらとさりげなく確認してみたが、やっぱりわたしを気にしている。男の子がいる2mくらい離れた木陰は特等で彼はわたしのようには濡れていない。視界に入る範囲で二人きりなのに顔を背けているのもあまりにも無愛想かと思い、小さく意を決してまっすぐ顔を見てニカリと笑いかけてみると、目を合わせずてれたようにぺこりとお辞儀をする。それでもやっぱり落ち着かないようすでこちらを見ていたが、そのうち鞄を肩にかけて、全く雨脚は弱まっていない中へ飛び出して全速力で自転車をこいで行ってしまった。小学生のくせに時間に追われているのだろうか、どうせあと5分も待てば雨脚が弱まるだろうに待てないのか、と思いながら男の子がいたところへさっさと移動して気付いた。彼はわたしにこの濡れない場所を譲ってくれようとしたのではないか。それでも、どうぞと声をかけるのが恥ずかしいから黙って雨の中飛び出して行ったのではないだろうか。そんなことをたらたらと考えはじめたら、近くの電線に雷が落ちたのかショートするのを目撃して悲鳴をあげた。
なんとか家に着くと緑色のリブニットが色落ちして白い麻の帽子にシミを作ってしまい、母はこんな色落ちするやつ日本ではもう売ってない、オーストラリアは遅れてるのね、と言ってゴミ箱に投げ入れた。
この国では電車で我先にと席を取り、我先にと外へ出ようとするような大の男が目立つ。知人と他人をきっぱり区別つけて他人へ親切にしないことは当たり前だと思っている。ギュウギュウに混んだ30分に一本しかないバスに最後のひとりが駆け込んできて「すみません、、もう少しつめられますか?」と乗り込み口で叫ぶと、近くにいた花輪君のような若い男が「無理ですっつっても乗ってくるんだろう」と迷惑そうに吐きすてるのを見て、あの男の子を思い出して、あれは絶対わたしに譲ってくれたんだとどうしてもそう思いたかった。
元同僚から無事に子宮の治療を終えたとの知らせが届いた。そしてわたしが何気なく発した一言が大きく彼女の心持ちを変えて、不安や落胆もなく乗り切れたのだと感謝もされた。メスを入れるということで既に体に負担をかけているのだから、心的負担だけでも軽減されたのはよかった。
岡部伊都子著「ハンセン病とともに」という本を読んだ。自身が結核にかかり、14歳で通学をやめて読書に耽る日々の中で知ったハンセン病患者の心的苦痛、社会のあらゆる差別への反感、命の尊さなど飾らない率直な言葉で語られている。
「わたしは、痛みを持つことが人間としてどんなに大事なことか、健康というものは、痛まないのではないのでして、痛むべきものは、まともに痛むのが心の健康だと思っているんです。鈍感に、何にも人の苦労がわかれへんことが、健康なのでも幸せなのでも、わたしはないと思っています。」
というのが強く心に残った。
他人と比較して嫉妬や優越の感情ばかりに左右されて生きるのはつまらないと思う。親の受験戦争に巻き込まれて塾通いしなければならない子供達の表情を見れば、靴下を丸めて作ったサッカーボールではしゃいで遊ぶ貧しい国の子供達が可哀想とは思わない。でも、生きたい人がちゃんと治療を受けられることがどれだけ特別で恵まれていることか、世界を見ればよくわかる。
既に出産を終えた友人達は健康なのに、子供が欲しいと切に願うわたしがどうして、と一度だけ異物を吐き出すように嘆いた同僚も、「あなたの言った通りだった。入院中抗がん剤を投与されて暴れて苦しんでる人と隣り合わせて、見ているのが苦しかった。こんなこと言ったら申し訳ないかもしれないけれど、偶然早期発見してこの程度で済んだわたしは何て幸運だったのだろうと思った。」と言ってくれた。わたしは自分の為に彼女にそんなことを言ったのかもしれない。もう泣き言はない彼女のメールに勇気を贈り返された。
2007年08月17日(金) |
潮風が呼んでいる〜♪ |
ベジ友のさなちんと南房総一周ドライブへ。東京湾側から山道を抜けて太平洋側の勝浦まで抜け、そこからは鴨川、千倉、白浜と最南端まで下りて、そして館山、保田、木更津と北上、ひたすら海岸沿いをはしるコース。ランチは千倉のカフェで、あとは所々で車を停めて海に降りてまた走ることを繰り返した。ペルーで起きた大地震の影響による津波警報を聞いては母が電話をかけてくる。「波の高さ20cmです」と言われてもよく解らないが、、、。
どの景色にもわんぱくな夏の思い出がいっぱい。今日のこともまたそこに重ねておこう。
2007年08月15日(水) |
買い手はないが豊作!? |
しまい忘れたとか出し忘れたとかと駆けずり回って母が作っていた梅干しが、なんとか無事食卓に乗った。「田舎の人みたいに塩が吹くほど辛くしない」のがウリなようで得意気に何度も同じことを聞かされる。思い当たる節があって受けた内視鏡を使った大腸癌検診では「至って健康」との太鼓判を押されて晴々帰ってきたもの、検診日までの不安が効いてしまったのだろう、近頃食事の味付けがぐんと薄くなった。以前から懇願していた化学出汁の使用もやめた。決して料理好きでない母なりの頑張りが見えて、まだまだ長生きするつもりでいるのだろうと安心する。
お盆中は母が忙しいので、残された3人は各自どこかで食料を調達してきて勝手気ままに食べる。みんな食の好みが違うからこれが自然なのか、それとも単に全員B型だからなのか。長距離バスでたまたま隣り合わせた者同士のように「ひとつどうですか?」「あら、まぁ、いただきます」のような雰囲気で結束が弱い。酒飲みの父はどこかでもらったお菓子などは全く興味を示さず持って帰ってくる。本来ならばこれで可愛い孫の気でも引こうものだろうが、行き遅れたわたしと妹は今だに無邪気にそれを貪って、ぶくぶくと育ち続けている。
2007年08月13日(月) |
美味しい果物のはなし |
パースでのある夏の日、オージーのシェアメイトがココナッツを買ってきて、中のジュースを飲むのに、鈍いオージー・ナイフで懸命にギコギコ、ギコギコと穴を開けようとしていた。穴が開いたら少し分けてもらおう、と勝手に決めて隣で見ていたのだが、いつになったら飲めるのかと気が遠くなってきた頃、上半身裸、テロテロなパンツ一枚履いて、野良犬のようにだれて転がっていたマーヴが見るに見かねて起きだした。
「そんなんじゃ、いつまでたっても飲めないよ。かしてごらん。」
と言ってキッチンで比較的シャープで刃の長いナイフを選んで外に出た。おぉ、何が起こるんだと着いていくと、マーヴは外のテーブルにココナッツを置いて、上からぎゅっと押さえつけてワン、ツー、スリー!でもう片方の手に持っていたナイフを思いっきり横に振って、スパンッ!と一瞬にして二つに割ってしまった。友達は、韓国人のBFが兵役で鍛え上げられた逞しい腕で、石焼きビビンパをもりもりかき混ぜる姿にメロメロになったのだ、と話していたが、その気持ちがすごくよく解った。ジュースを飲んだらスプーンで実をくり抜くようにして食べる。プリプリとした蒟蒻ジェリーのような固めの食感がたまらない。
数日後"Iron chef"(料理の達人のアメリカ人バージョン)でココナッツ対決だった時、白人アメリカ人シェフ達がココナッツをギコギコとやって苦闘しているのを見て、もう一度自分のBFの"暮らし"における逞しさを自慢げに思った(そう本人に言ったら「っていうか、こいつらホントにシェフなのか」と呆れていたが)。
マンゴーやアヴォカド、ネクタリンなどの果物を買うときも、いつもマーヴがボンボンと積み上げられた果物の山から何個か手にとって、実がしっかりしていて程よく熟れているものを選んでくれた。実家のバックヤードには腐るほど生っているそうだ。果物は外見によらず中身がいいこともあるんだと言っていた。
こんな暑い日は美味しい果物に齧りつきたい、と思ってスーパーへ行くとエアコンをガンガンきかせた店内にクッションに乗ってキレイにパック詰めされた果物が品よく並んでいる。それはパースのように店員が捥がれてそのまま来たような裸の果物が入ったダンボールを逆さにして品出しするような新鮮さが奪われているような気がして少しがっかりする。
実家の周辺のイチジク畑ではいよいよ収穫が始まって、犬の散歩で通りかかったらくれた、と母が数個持ち帰ってくる。家族全員これが大好きで奪い合うようにしてペロリとひとくちで呑み込んでしまう。
東京周辺で暮らしていると"もしかしたらわたしは今日死んでしまうかもしれない"と思うことが多い。悲観的になっているわけじゃない。ただ、地震にも台風にも見舞われるこんなか弱い土地に色んな物を積み上げすぎてしまったのではないか。日本へ来る外国人は決まって「新幹線に乗った。トイレが全自動でスゴい。秋葉原ではビル全部が電化製品売り場だった。」と口を揃える。科学や技術の発展への批判ではなく、ただ一般家庭の生活レベルでゴミが多いのではないかと思う。いつか自分達が無我夢中に産み出してきた"物"の下敷きになって死んでしまうのではないかと漠然とそんな気がする。
毎年この時期になると放映される戦争を描いたテレビドラマは、見なくたって展開が読めるけど、やっぱり泣ける。簡単に物を捨てるわたし達の先祖がお腹を空かせて焼け野原を彷徨っているなんて。歴史はもう変えることができないから明るい未来を築くしかない。
21世紀に入ってからいよいよ日本では"削減"という言葉が頻出し始めた。今の日本では削減こそが発展だと思う。"残業削減"なんて一番好きな言葉だ。戦後の貧困を立て直した祖父の世代や高度経済成長期を"いけいけどんどん"と進んだ父の世代が"カロウシ(過労死)"という日本語を世界に知らしめてまで築いてくれた富を無駄にせず、簡素に心身健康に生きて、青い空やクリーンな空気を取り戻すよう努めるのがわたしの世代の使命ではないか。
かかっていた産婦人科医は全くやる気が見られないリタイア寸前のような女医で、検査も説明もアドヴァイスもやる気なし。命を預かる者としてのその姿勢に不信感を募らせ、紹介状だけ書いてもらい、自分で調べた医者に会いに行った。
銀座まで行った甲斐はあった。あの女医とは全く違う熱血先生だ。「僕はね、ぜぇ〜んぶ調べないと気がすまないの。だから、なんでそこまで!ってよくクレームがくるの」などと話しながらさっさと色んな検査を済ませてしまう。人間の体は全部繋がっているのに一箇所だけ見て診断をくだす医者ほどいい加減なものはない。超音波のモニターを見ながらここが子宮でここが卵巣と説明してくれる。卵巣の周辺にまん丸い卵子が4つくらい見えて、その愛らしさに、卵を大切に温める鳥にでもなった気持ちがして妙にあたたかくなった。これが本題ではないのだが、「子宮も卵巣もキレイだからいつでも妊娠できるねっ!」と言われたのは意外で嬉しかった。子宮筋腫などは30歳以上の女性の4人に1人はあると言われているから何かあってもおかしくないと思っていたし、父はわたしが猫を溺愛するのを見て「動物を溺愛する女は子供が出来ないってよくゆうんだ」と言うし、付き合った男の人からも何回か「子供が出来ない体なんじゃないの?」と薄い根拠でそう言われたことがあったから。ダイオキシンを極力溜めない菜食生活の成果だろうか。しかし、産婦人科というのは不思議なところだ。病気を宣告されて自分の命すら危ぶまれている人も、これからあたらな命を生み出す人もみんな長椅子に隣り合わせに並んで診察を待っている。
マーヴに卵のことを話すと「どんなんだった?」と聞くので「丸かった!」という他愛ない会話をして、モーニングアフターピルを飲まなければならなかった少しだけものかなしい朝を思い出した。