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2005年12月31日(土) |
2005年最後の朝に |
2005年を振り返ってみる。桜のつぼみが開き始める頃に成田に降り立ち3年ぶりの桜の木の前に立ち止まりしみじみと見上げるも束の間、あっというまに怒涛の渦に飲まれるようにして東京生活が始まり、木枯らしが吹き始める頃に幕を閉じた。そして今は南半球にいる。
ほんの小さな不幸やほんの些細な幸せに日々心は波動して、渦中にいるときはそれだけで精一杯で後から振り返り、初めてその意味が解かる。成功も失敗も後悔もわたしが歩んできた人生が形成したものだけれど、これがまた新たなこれからの人生を形成する糧となる。
キャンベラではおととい山火事があり、炎は瞬く間に辺り一面を飲み込んでしまった。年の瀬に家を焼失してしまった人々にも、住処も食料も焼失してしまった森の動物達にもどうか平穏な2006年を。
そしてこれを読んでいる皆様もよいお年を。
夕暮れ時に裏山に登った。よく見ると叢と同じ色をしたカンガルー達が沢山寝そべっている。"ダルマさんが転んだ"みたいに親子のカンガルーが叢に顔をうずめて夢中で草を食べている隙に素早く忍び足で近寄り、彼らが顔を上げて目があうと静止してよそ見をする。そうして5mくらいまで近づいた時にジャンプして逃げられてしまった。トランポリンの上で跳ねているようなすごいバネ。野うさぎや野鳥を見ながらトコトコと小道を登り頂上を目指した。
頂上に着くと視界にはわたし達の住む丘と人工的に作られた湖(ダム)が広がる。その付近で花を見たりして遊んでいるとさっきまで夕暮れ色に染まっていた町が静かに夜の帳に包まれはじめ民家に点々と明かりが灯りだした。何故か母親が作るアジの唐揚げの味を思い出した。濃い醤油と酢に漬けてあって白髪ネギがたっぷり乗っている。これはわたしの大好物でこれが食卓に乗る日は沢山ごはんを食べた。わたしは魚の調理は出来ないからこれは完全なオフクロの味。咄嗟に早くオウチに帰らなくちゃと思い、オウチは遥か空の彼方だと気付いて急にホームシックに襲われた。向こうの山の上空を飛んでいる飛行機にしがみついて成田まで飛んでしまいたかった。たまに世界がこんなに広いことが嫌になる。
裏山を降りて町に戻ると辺りはもう完全に暗くなっていて、民家からこぼれてくる家族の声と小さく灯されたクリスマスのイルミネーションが温かかった。
辻仁成の長編小説「太陽待ち」を読み終えた。戦中は助監督として南京での国策映画制作に携わり、21世紀を目前にその頃に見た太陽を忘れられない愛した人に重ね合わせてもう一度映画に収めるため、ひたすら同じ太陽がでるのを待ち続ける井上という監督。そしてその映画に携わる人々の周囲に漂って交差する過去と未来、光と闇、死と永遠のストーリー。戦争の渦中を生きた過去の人々とこれから21世紀を迎える現代の人々の間を植物人間の魂を漂わせる男、その命が絶たれた時、その世界は永遠を手に入れる。愛に翻弄され、裏切りに苛まれ、過去に執着する人間達の儚さが哀しく切なく愛しい。
辻仁成が村上春樹に挑戦したなどと囁かれたこの小説だけれど、「ねじまき鳥クロニクル」にはない辻流のセンシティブな美しさがここにはあると思う。
2005年12月18日(日) |
週末のCity of Canberra |
ランチを摂りにシティに繰り出した。平日のランチタイムでもちょっと人が沸きだす程度にしか賑わうことのないキャンベラのシティの週末は完全に眠っている。平日には料金をチャージするパーキングが週末はただで利用できるところがもうその静けさを物語っている。
営業しているのかしていないのかひっそりとしたアジアンレストランを覗きなんとか食事にありついた。客はわたし達以外に1カップルだけ。市場が小さいのに店舗の価格の高いキャンベラのレストランがどう生計を立てているのかというのがわたし達の最大の謎。しかしカレーラクサが美味しい。日本ではなかなかこんな肝っ玉母チャンが作ったような豪快こってり味のラクサにはありつけない。東南アジアのごはんはこうでなくっちゃ。
腹ごなしに当てもなくシティを歩いていると突然萎びた初老の男がわたし達の目の前に現れ黒ペン1本で書いた絵を差し出した。そして数枚見せてくる。抽象的で一般人のわたしの心を動かすような物ではない。そう思っていると"I am an artist. Would you like to spend on me?"などと言う。絵を売っているわけではなく自分に投資しないかと言っているらしい。絵はともかく、もうその発想が充分アーティスティックだわと1ドル渡すと礼儀正しく頭をさげて立ち去っていった。
2005年12月16日(金) |
ほらね、壁などなかった |
久々にパースにいるマレーシア人の友達から連絡がきた。3年前は学生だった彼も今では立派な社会人。希望の職種にありつき、その"経験者"となった後、数回の転職でスキルアップも図り仕事も生活も順調、来年には家を購入する予定だという。顔は見えないがわたしの記憶の中の彼よりも凛々しく一回り大きくなったように感じる。
思えばあの頃、彼はよくうまくいかないことの理由を人種差別に結び付けていた。
人種差別以前に英語でのコミュニケーション能力に欠けている人々がすんなりとネイティブの人々の中に溶け込むのは難しい。そこに見た目も文化も歴史の背景もかけ離れていたらなおさらだろう。英語の出来ない外国人に慣れているここの人々はそういったことに関して寛容だけれど、裏を返せばとりわけ親切にするようなこともない。人種差別を嘆く人というのはまずそこでつまずいていることが大半であると見受けられた。
相当のことがなければうまくいかない物事を人種差別のせいにするのは難しい。
そこに英語に不自由することなどない若く教養のあるマレーシア人の彼がそういうのなら何かあるのかもしれないと思う半面、ただの甘えではないかとも思っていた。
大学も終わりに近づく頃、彼はここで就職活動をするか母国に帰るのか迷っていたけれどそこに運良く希望の職種の企業にアルバイトの口を見つけ、申請した永住権もあっさり取得、色々なことがうまく廻り始めて今では有名な巨大企業で社員として働いている。結局高い壁を築いていたのは彼自身でそれを少しずつ崩していった時に誰も彼の前に壁など築いていなかったことに気付いたのではないだろうか。
2005年12月14日(水) |
Betemans Bay |
内陸部のキャンベラから海を求めてひたすら東へ車を走らせた。自分の人生に起きた全てのことを忘れてしまいそうなほどただただ広大なファームの中の一本道を、マーティンが選んだクラシック音楽を聴きながら無心に突き抜ける。やがて、車にクラッシュしたウォンバットの死体が転がっているような深い森にさしかかり、そこを抜けると一瞬にして視界に海が広がる。Betemans Bayに到着。
あてもなくシーフード店や土産物屋をひやかし、Videoを撮り、コーヒーを飲み、海岸沿いを歩き回った。そしてわたし達の口から同時にでた言葉は"I miss Perth"だった。
家に帰り撮影したVideoを見て自分達のバカップルぶりに苦笑いした。自分の言動は2,3m離れたところから冷静に見てみると自分の意志と微妙にずれていたりするものなのね。
US ex-gang boss Williams executed
今度はカリフォルニアで死刑執行。Williamsはギャングで人殺しもした(とされている)。危険な人間だったことはもう変えられない過去の事実。けれど24年間の牢獄生活の中で彼は全く別人と生まれ変わり、非暴力を説いた青少年向けの本を何冊も書いていた。
彼のサポーターも沢山いたけれど被害者の家族のことを思うとはっきりとした言葉がでてこない。
けれど人間は悪になることも、そして人々を、世界を、地球をも救うことができる果てしない可能性を持っている。生まれ変わった彼が牢獄からでも発する力によって彼が絶ってしまった以上の人命を救うという未来の可能性もあったはずだ。
2005年12月12日(月) |
War is over if you want to |
裏山に登ってみた。猫しか知らないような細い細い路地をとこつこつと登ること20分。頂上に着く。雲にさらわれそうなくらい空が近く感じる。気温はそれほど高くないのに紫外線は突き刺さるように皮膚に差し込む。木陰に駆け込んでわたし達が住んでいるのどかな住宅地を見下ろした。バスもスーパーマーケットも人間も全てがオモチャみたいで自分達だけがインテリジェントな気分になる。
ここ数日テレビをつければ25年以上前のジョン・レノンがいる。彼自身が21世紀に存在していないことの無念さと、21世紀になっても依然愛され続ける偉大さを痛感。ごめんね、世界はまだ平和じゃなくて。
You may say I'm a dreamer but I'm not the only one
でもね、そう大丈夫、ドリーマーはあなた1人じゃない。
オージーは庭に薔薇を植えるのが大好き。M家の隣近所もみ〜んな庭にちゃんと薔薇の花があってそれだけで豊かな感じがする。薔薇の無いM家はいかにもアジア人が住んでます的なイメージがある(その通りなのだけど)。ここの歴史の本を見てみるともう随分昔からオージーは庭に薔薇を植えるのが好きだったらしい。
オーストラリアのようなあまり土壌が豊かでない土地でも立派に大きな花を咲かせるのだから薔薇は美しくトゲがあるだけじゃなく相当逞しい花というイメージもある。マーティンに聞いてみたら、彼の実家のほうでは降り積もった雪が溶けきらないうちにもうつぼみが開きはじめるとのこと。
それにしてもガレージに置いてあるM車の助手席に乗り込む際に何度も隣家の薔薇に肩を掠ってトゲで擦り傷を作ってしまった。もっと強くなれと薔薇につつかれているような気分だ。
外の世界で何が起こっているのかわからなくなりそうなくらい静かなM家。今日は朝からチョコチョコと創作活動。まずはクリスマスカードを。こつこつと切り張り。あまり凝ったものではないが大量生産する前に肩が凝ったので2枚で終了。
マーティンも今日はちょこっと創作を。朝食にフルーツグレイン(雑穀とドライフルーツがMixされたもの)にミルクではなくヨーグルトドリンクを注いだものを。う〜ん、まずくはないけどいまいち。
わたしが住んでいる丘はキャンベラのシティより約20km南に下った静かなサバーブ。見かける人の90%くらいが白人で残りの10%くらいがアジア系。だが、ここらへんのアジア系はみんなオージーのようだ。もう喋る前から体型や身振り手振りで余所者じゃぁないと解かるのだが、喋り始めると案の定アジア系のアクセントはない。ここで生まれ育っているらしい。パースで出会うアジア系は自国の色を強く残した留学生や移民が多かったからこれはちょっと反応してしまうところだ。しかし長年の疑問なのだけれど、何故アジア人もここで生まれ育つと大きく育つのだろう。明らかに骨格から大きいし、手足も長い。ある程度親の遺伝を受け継いで、そこへ白人のオージーチルドレンと同じ高カロリーな物を食べたら単に太ってしまうだけのような気もするが。成長期に何を食べるかというのは体の成長に大きく影響するのだろうか。食べ物だけではないかもしれない。戸口や椅子や車のシートからトイレの便座までが全てが大きい人用に出来ているのでそれに適応するように成長していってしまうものなのか。友達の旦那さんはシンガポール人の両親を持つオージーなのだけれど、2人がシンガポールで暮らした時「彼は体もジェスチャーも大きくて浮いていた」と彼女が話していた。
しかし近所の猫も大きい。日本でいえば普通サイズのミケはよく「子猫」と言われる。立派な成猫なのに。小さなミュンミュンが日本からやってきたら栄養失調と言われるだろう。
朝から向かいの丘に走って登りたくなるような晴天。こんな日はパワー倍増。洗濯物を一揆に片付けて掃除機もかけた。ここは暑さも寒さも厳しい。午後からはぐんと気温があがってきた。しかしこんな時に思う。今の家はソーラエナジーを利用できるように出来ていないのでもったいない。パースはソーラシステムを利用している家が多いようで、留学生などはよく最後に浴びる人のことまで考えてシャワーを短めに使用するようにと注意されるという。わたし達の住んでいたところもそうだったから1年のうちの3/4くらいはソーラエナジーで沸いたお湯を使うことができた。陽の当る地域でこういうものを利用しないてはない。
夕飯には先日思いがけず手に入れたシソを薬味に蕎麦を、それから昼間に作って寝かせておいた焼きナスのマリネも。生のにんにくがぴりぴりとする。窓から入ってくる風もいいし最高だ。シャワーの後にヨガまでやった。こんな日ばかりは山の暮らしも悪くないと思うのだけど。
元同僚から嬉しい知らせのメールが届いた。
「**部長(わたしの直属の上司)と話す機会があって彼は"Michellinaさんはひとりが好きみたい"などと言っていたから"それは違います"と言ってあなたの思いを伝えておいたよ。そうしたらすごく反省してしまったみたいで後任の女の子とはもっと沢山コミュニケーションを持とうと頑張っているよ。なんだかんだ言って彼らにとってあなたの存在は大きかったようだよ。」と。
涙。一時は本当にこの事業部の雰囲気が嫌いで同グループの男性達を信用できなかったので孤独だった。他所の部署にいる女の子の同僚はそんなわたしを気遣ってとてもよくしてくれた。だから彼女達にはわたしの気持ちを沢山話して彼女達も親身になって聞いてくれた。けれど、職場の悩みなどは目上の人間に話さなければ改善はなくそれはただの愚痴で終ってしまう。
辞める寸前にわたしの思いを打ち明けることができた上司はその後の残りの数日間はすごく気遣ってくれた。最後の日に彼に"後任の子には淋しい思いをさせないでね。女の子だからって柵を張らないで、自然に仲良くしてあげてね。いい上司&いい友達でいて相談に乗ってあげてね"とあれこれ言い残してきた。
自分が去った後にでも元同僚が代わって意見を届けてくれて、そしてその意見がきちんと届いて空気が代わりつつある、自分がどうしても乗り越えられなかった高く険しい山がどんどん緩やかになっていくよう。あの事業部に残っている女性達が働きやすい職場へと変わっていきますように。
2005年12月02日(金) |
Singapore takes Nguyen's life |
Singapore takes Nguyen's life
今朝ヴァンの死刑が執行された。先日から考えていた。結論はやはり彼は死ぬべきではなかったということ。邪悪な人間に見えない顔写真を見たからでもなく、彼と彼の家族が難民キャンプからオーストラリアに入ってきたという背景に同情したからでもない。いくらになるかも知らずただお金になるということだけを知ってカンボジアからオーストラリアまでヘロインを運ぶ途中、トランジットで立ち寄ったシンガポールのチャンギ空港で逮捕されたのが2002年、彼が22歳の時。彼には犯罪歴はないし、その後も刑務所の中で深い後悔と反省の色を見せ、捜査に協力もしている。シンガポールは彼の所持していたヘロイン○○gで○○人の命を奪うことが出来たなどという計算をしその行為が死刑に値するものだと主張しているけれど、運び屋というのは実際に死んでいく人を見るわけではないから自分がそこまで悪いことをしているという実感が沸きにくいところでもあると思う。記事を読んでいてもどうも彼が根っからの邪悪な人間という箇所は見つからず、22歳という常識的には大人と見なされるけれど、内面的にはまだ定かではない不安定な大人といった年齢でただ「考え足らず」だったという印象を受けた。彼を取り巻く環境としても友達や家族から愛されている。だから彼にはこれから充分更生の余地があると思った。
わたしはシンガポールの無慈悲な刑罰に対して少し批判的だ。恐ろしく厳しい刑罰があるから多国籍文化の小国を治安の良い国にできたのかもしれない。けれどそれでも一度罪を犯してしまった人間の中に少しでも残されている希望を省みて摘むこともせず石のように頑なに刑罰を適用するというのはどうかと思う。
そしてこの機会にもう一つの批判は逆に日本の甘すぎるる刑罰に対して。女子高生のコンクリート詰め殺人事件の犯人の少年達など反省の色の見えない者も含めたったの5年〜9年で刑期を終えてしまった。これこそ劣悪な犯罪だと思った。そしてその後も少年犯罪は増える一方なのに依然被害者よりも容疑者に偉大な慈悲を注いでいる。
早いものでもう師走。昨日に続き今日も晴天。バスに乗ってシティへ出た。マーティンと待ち合わせて日本食レストランでランチを食べてから1人でショッピングへ。一見シティはクリスマスショッピングで賑わっているように見えるけれど、それでもここは人口的に言っても密度が薄いキャンベラ。キッチン用品売り場を眺めているとすぐ隣の子供のオモチャ売り場にサンタの恰好をして立たされてHo-ho-ho-と雄叫びをあげているオジサンと目があってしまった。周囲を見回すとわたし以外に誰もいない。なんとなくその場から立ち去るのも気が引けてしまう。オジサンは見てくれる人が誰もいないのでもう面倒くさくなってしまったのかわたしが目を反らしたすきに溜息をつきながら椅子に座って休みはじめた。そして子供が目の前を通った時だけ立ちあがってHo-ho-ho-と言う。こんな気だるいサンタ見たことないぞ!