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2007年04月25日(水)

またしても評価会議でむかつく

しかし、肌寒い。
空模様はぐずつきっぱなしだし。

今頃の時期、薄手とはいえウールのセーターなんて着ていたことはなかったように思う。
変な感じ。


って、過去の日記とか読んでいて。
腹立ちとともに、先日の評価会議のことを思い出した。

4月って大体こんなん出て、むかついて帰ってくることが多いから。
出たくもないのだけど、自分が担当した人のために真っ当な評価をGETすることは
それをしなきゃ人非人なので出る。

他の人の評価コメントが、聞いていて毎度のことで何なんだけど、いちいちむかつく。
「定時に帰るから"C"」とか「子育て中で勤務時間の自由が利かないから」とか
「習い事とかをしていて、夕方もさくさく帰るので、クライアントにも
おたくにもそういう人いるんですねとか言われちゃってるので。マイナス評価。」とか。

何か、つまりは、全てを差し置いて仕事を最優先にする人出来る人以外はいりません、
みたいなコメントがばしばし出る。あーいらいらする。


実態もない法人格になぜそこまで人格をよりそわせなければいけないのか、理解不能。

自分のことを考えると。
もうちょっと真剣に仕事をしなきゃいけないっつー反省点はある。

それはもう非難されても正当だと思う。
そういう指摘がされたとしたらそれは許容できる。
正すべきって自分でも思うから。

でも、生活の中で仕事を一番には出来ないな。
それを求められても、それは無理。

だって、楽しく生きることが一番で。
仕事はその糧をえるための一手段だもの。

皆がそうであるべきとは思わないけど。
排除される理由がわからない。

って、毎年。
ものすごく違和感があるの。
なんなんだろう。この人たちって。

何のために働いているんだろうって。


2007年04月22日(日)

窓が開かない。

とりあえず。

あと5日行けば、お休みだー。
こんなことを考えながら、日を過ごすのって、なんかイヤだな。

世界は宇宙はこんなに広いのに。
自分の窓が小さい所為で、何にも見えない。

開けばいいのに。
開く勇気がないことに、さらに落ち込んで、もう一押し窓を閉じてる。

そんな午後でした。


2007年04月21日(土)

自分の人生こうあるべきとか、あんまり思わないほうがいい。

ポケモンの公式サイト見るようになるとは・・・

自分の人生こうあるべきとか、あんまり思わないほうがいい。(by 源さん@組!)
ホントにねー。

それにしてもトニオって山本さんに似てない?
鼻の稜線とか、デコな感じとかさ。


人生って言えば。
2005年の2月に小笠原さとさんに占ってもらったことがあるのだが。

最近、親の体調が悪く、なんかそー言えば言われてたかもって、
当時のメモを引き出しから探した。

書いてあるがな・・・。
他にも、クラシック音楽とか、不思議系が心の糧だとか。
まぁ不思議系についてはそもそも占いに行く時点でどーかという話はあれど、
クラシック音楽なんて2005年当時は全く興味なかったし。

今はモーツァルトに嵌って、自分でも弾く。
というか思う存分弾ける週末を待ちわびるとこまで来ている。

要するに。
当たってる。

当時はそーかぁ?とイマイチ合点のいかなかったことが、今になって現実化している。

普段でも2年前に一度会っただけの人なのに、妙に気になる。
もう一回行ってみようかな。


でも、今月は御殿山のサロンにチャクラ・リーディングのapo入れてるから。
来月以降だな。そんなにお金ないし。

チャクラの存在だけでもそれ何っつー感じなのに、それを読むんだぜ。
不思議系全開。

面白そうなので人体実験というのが動機の一つ目。
もう一つは。

このぐだぐだから救って欲しいとい他力本願。
自分で何とかするしかないってことは自分でも分かっていて。

でももしかしてとか、自分だけはとか思っちゃうんだな。

臍が決まってないっつーか。

痛いのはイヤだけど。
早いとこ即死してGAME OVERしたいな、出来れば勤務中、だって労災になるじゃん、
という安易というか甘いというか不穏というか、それが今の一番の望みって、
病んでるよなー色々と。

でも、地球滅亡系の予言とかのネタが尽きず、出版物も手を代え品を代え出ている
ということは、多分、そう珍しい存在じゃないのかもしれない。

社会としてヤバイじゃん。
(って自分が一番やばい)



2007年04月20日(金)

『感動には勉強が必要』

『感動には勉強が必要』って、アニメーション作家のノルシュテインの言葉だそうだ。
赤川次郎が引用していたのを、さらに引用。

感受性の器を大きくしておかないと、どんなに大量の感動が注ぎ込まれても溢れて
失われてしまうから、と。

山本さん関連のブログで好きで頻繁に読みに行っているところがあるのだけれど。
その人が、来るメールに「頑張ったよな、俺たち」(これはもちろん組!台詞)と
書いてあるのがあると書いていた。

確かに、ヘドウィグ。
英語歌詞で受け取るために、渡すほうも必死だったと思うけど、
受け取るほうも、ほんと「頑張ったよな、俺たち」


「感動できないのは自分のせいじゃない。作品の所為だ。」と思いがちだ。
まぁ、作り手が闇雲に観客の所為にするのもどーかと思うが。
そう考えると、自分のせいじゃないって安易に開き直るのも、あんまりみっともいいもんじゃない。
(と自戒で言っている。)

今回のヘドウィグは。
口を開けて待ってる雛じゃなく、自分から取りに言った。ちゃんと。

大楽のMidnight Radioは。
奇跡のような一曲だった。

それは観客の地道な努力なくしては生まれなかったと、思っている。

・・・そういえば。
思い出した。組!!のテーマ。三谷さんが言っていたこと。
「違う価値観を持った人間が心を通わせること認め合うこと。」

舞台に対してちゃんと分かろうとするなら、人に対しても。
切らないで、理解する努力をしましょう。⇒自分。

あー。
いろんな事ってリンクしているんだな。


2007年04月18日(水)

寒い! そして、2002年から全てが始まったような気がする。

おいっ!寒いぞ。

10度でそれ何?
もうそろそろGWというのに。何これ。
ねぇ温暖化は?地球温暖化は?
思えばゴアの映画ってタイミング良かったよねー。
今公開していても、説得力ないもん。


ところで。
日記っつーものでもないけれど、ちまちまと気持ちを打ち込んでいると、そしてそれを溜めておくと、
自分の気持ちの流れっつーのかな、そういうものが見えてきて面白い。

転機は何時ですか?みたいな質問って、TVではゲストに対してよくやるじゃない?
私にはこれと行った転機ってないんだけど。

でも2002年が萌芽の年だって言うのは明らかにわかる。
この年に何かが変わったというのではなくて、この年に種が撒かれたという年。

横森理香の本を読み、精神世界とかマクロビ系に流れ出したのもこの年。
美容関係の某サイトの会員になったことも、
ハーモニーベルのセッションに行くことも、五穀米(商品名はふっくら御膳)を常食していることも、
エバメール好きも、LOHAS・ORGANIC系も。
全ては、横森理香の『愛しの筋腫ちゃん』という本を、BOOKOFFで購入したことから始まっている。

身体動かす系のDVDとか買うのもこの年。(正確にはVIDEO)
今やそのVIDEOは全く見ていないけれど、太極拳とヨガだったのが面白い。
まさにその2つに、2007年4月現在夢中だ。

三谷幸喜が大河ドラマを書くことが発表されたのもこの年。
2004年には、その三谷幸喜脚本の『新選組!』で山本耕史に落ちる。
そこから派生して、RENTにジョナサン・ラーソンに。
ヘドウィグの愛しさも知った。
さらにはモーツァルトにも引っ張りこまれ、現在、週末の趣味がピアノでモーツァルトのソナタを弾くこと。
という2002年にはこれっぽっちも予測出来なかった事態となっている。


2002年の10月には、嵐の1ヶ月がある。
ねじを巻かれたチョロQのように、自分がお掃除マシーンになってしまったのだ。
突然に。
何だか自分でもわけわかんないけど、片付けまくり、捨てまくった1ヶ月がある。
毎晩毎晩だから、眠いし疲れるし。
でも、自分が止まらなくて、ホント嵐に巻き込まれたとしか言いようのない期間があった。

あんまり身辺整理してるんで、自分でも死期が近いのかと思ったくらいだ。

変化って、いきなり落ちてくるものではなく、
見えないけれど積み重ねた何かが崩れてくるもの、崩れて始めて気づくわけだが、

そんなものなのかなぁと思う。


2007年04月17日(火)

それを言うのならば、身体の"どこが"固いかだ

「身体が固い」という表現があり、自分でも何の気なしに使っていた。

この表現は間違ってはいないけど、若干の嘘がある。
ヨガのクラスとか行って、他の人の身体を見る機会が増えたことで初めてわかった。

身体が固いという表現は正確じゃない。
それを言うのならば、身体の"どこが"固いかだ。

子供の頃からバレエやってたとか、柔軟性を鍛えてきた人は別にして、
普通にちょっと運動してみようかーと思う人の身体は、それなりに身体が柔らかく、かつ、固い。
そしてどこが柔軟でどこが固いかは人によって、全然違う。


私の場合。
足首は驚異的に柔らかい。下手したらインストラクターより柔らかい。

肩関節はまぁ柔らかいほう。
背骨を捻ったり、横に曲げたりも、かなり得意。

股関節については、前方向への稼動(つまり前屈ね)は、まあまぁ。
なんといってもだめなのが、開脚。
そして開脚しての前屈。

この動きが全く出来ない。


「これは難しいよー!」と周りを見て、ようやく自分にとっての難易度と、人とのそれは全然違うことに気づいた。

面白いくらい肩は硬いのに、開脚前屈はぴたっと出来る人とか居て、新鮮な驚きだった。
身体の癖って人によって違うのだ。。。


そこで気になったのが、身体と性格の関係。
本で読んだことあるけど、病気とその人の性格って結構関連があるという話。
元看護師の人にもそう聞いたことがある。

整体でもそういうらしい。腰が固い人は頑固とか・・ね。


オーラの本に身体と心との対応との対応が載っていたのを思い出して、調べてみる。

足首のオーラの意味するところ。
地面が周囲の現実や環境。足首は自分と生活との接触面であると。

腰のオーラの意味するところ。
自分の理想が上半身と下半身が現実にある自分の姿。腰はそれらを繋ぐ交流点。


つまり、この解釈で言うと私の身体は。
『自分のやりたいことと、社会生活は上手く繋がっていない(=腰の柔軟性に欠け、特に円運動が出来ない)けれど、周囲との妥協だけは小器用につける(=足首は抜群に柔らかい)』

ということだ。
それなりに納得出来る解釈になっているのが面白い。

っとーことは、だ。
せっせと柔軟に励んで、腰を柔らかくすれば、性格も矯正されるということ?!

やってみるか。面白いから。人体実験だ!



2007年04月16日(月)

太極拳を始めてほぼ一年。体型の変化には驚く。

ポケモンって!!
と思ったのは私だけではあるまい。

一人の人をここまで真剣に追ったことがないのだけれど。
芸能人の仕事ってはば広い上に、移動が多いし、同時並行で色々進むし、めっちゃ混乱しそうだ。

あぁ・・・でも映画館で聞いてみたいな。
山本さんのやる天才科学者トニオの声。


ところで。
太極拳を始めて、そろそろ一年になる。

これはねー。個人的には超お勧めだ。
週一でフィットネスクラブの健康太極拳(要するに全然本格的でない)だけど、
半年くらい経って、いきなり腿の、そもそも一般的にはかなり細いといわれている、
そもそも体脂肪率が10代でBMIが16%台の私の腿の、
それでも多少は残っていた贅肉がざっと落ちた。

お尻がぎゅっと上がった。
ヨガが流行っているけれど、脚痩せ効果を望むならば、太極拳の方が絶対に効果があると思うなー。


ヨガは10月から、通える時間に講座が出来たので、80%位の確率でこれも毎週通っている。
ヨガの効果はさ、身体感覚が鋭敏になったことだと思う。
自分の身体が今どういう状態にあるのか、どう動いているのか、歩いている今、
どこの筋肉をどんな風に使っているのかを、自分でちゃんとわかることが出来るようになったこと、だと思う。

あと、骨盤の中の筋肉に意識が行くようになったこともある。
歩く時の意識の使い方とかも変わった。

今まで脚に力をぎゅっと入れて歩いていたのね。
じゃないとたるんだお尻になると思っていたし。
そして腰から歩く。
だって、モデルさんとかそーだって聞いてたから。

今はね。違う。
力は脚には入れないの。
あ。それも脚が細くなった一因かも知れないな。

力は背筋に入れて、胸骨から歩く。
そして脚には力は入れない。意識は入れるけど、あくまで筋肉はリラックスさせて。

今までは車で言うと、後輪駆動というのかしら、脚だけでがんがんと歩いていたけれど。
肩が前輪で骨盤が後輪で、という4輪のバランスを取れるようになったと思う。

駆動は二足歩行をしている以上、後輪にあるわけだけれど、方向指示機能をちゃんと
前輪に割り振れるようになったことによって、後輪周辺についていた筋肉の一部が前輪、
つまりは肩周辺とか大胸筋に移ってきたように思う。

身体って、面白い。
どーやっても変わらないとか思ってた。
子供じゃないんだし。

いや、それは違う。
自分でもびっくりするくらい。
体型って身体の癖で出来てるから、ある日いきなり突然に変わる。

自分でもびっくりしている。


2007年04月15日(日)

ハーモニーベル ソシズノノ レベル3の2回目の感想

金曜日。
急に時間が空いたので、だめもとでTELしたところ空いていたので、
タクシー飛ばしてで御殿山の某サロンへ。

ハーモニーベル レベル3の2回目。

一回目から空くこと3週間くらいかな。
再開したことで変化という変化はないのだけど、とにかくベルの音って気持ちがいいのだ。
すっきりするっていうのかな。

澱のようなものが流れ出る気がして、"すっきりしてーっ!"と単純にその気持ちが強い。
前世のカルマとか思い癖とかを取る!とか、人格的向上とかそんなんは全くなく、
"おっちゃんの風俗通いの感覚"と共通するものを感じたりする。

それに、17日(火)が春分の日の後の最初の新月じゃん?
その前に身も心もすっきりさせたかったっつーのもある。

今回も揺れましたねー。
そして前回より、ちゃんと身体が音を受け入れだしたよう。
上半身にもしっかり気がめぐって、肩のあたりもゆったりすっきり。

マッサージより気持ちがいい理由はさ。
マッサージって外から圧力を掛けて揉み解すじゃない?

ベルって、音で身体の細胞だか、水だかが揺れるから、内側から揉み解される感じがするんだよね。
外から火で焼くのと、細胞が振動する電子レンジの違いみたいな感じ。

空気の流れでぐわんぐわん揺れる大きな波と、細胞がぷるぷるするのと両方感じて、
もう気持ちいいったらないですわ。

で、がん寝。

あと、妙に眉間が痒かったな。
っつーか、これ、ここ一年くらい、時折妙に痒いんだよな。

第三の眼とか言うが、今のくらいの私の心根で開いても、変なものが見えるだろうから、
それはそれで微妙だな。

後、ベルの最中、妙にギャルが脳裏をちらちらしていた。
ビーチの水着の背中とか。かわいいワンピで緑の下を闊歩とか。
かわいい女の子の楽しそうな絵ばかりが、脳内に浮かぶ。(← オヤジかよ)

私の金星かー?
最近、結構活性化しているからなーと思いつつ、当日のホロスコープを見たら、
n海王星にt金星が180度でHIT。

私の中のイメージの海王星に、きゃぴきゃぴの金星が流れ込んだのかー。

うーん。
変なものチャージしちゃったかも。
物欲とか遊び欲とか全開だしー。

えーでも、かわいーサンダル欲しいな。
あと、今年はなにをおいてもワンピでしょー!




2007年04月11日(水)

ヘドウィグ感想 多分最後

ヘドウィグに決定した時に、確かWebのぴあだったと思うのだけど、
「加減しない山本耕史を見ることが出来るのではないか。」というような評が出ていた。
相手役に合わせて、自分の表現力なり歌唱力なりを加減していて、全力を出していないように見えるからと。

やっぱり、同じような印象を受ける人はいるのだ、とその時思った。

TVnaviの対談で佐藤浩市さんに「一回痛い目みないとな。」と言われていた。
その時も、だよね〜と思った。


彼が仕事に対して、手を抜いていると言っている訳ではなく。
泰然自若に微笑みながら出来るようになるまで、裏でどれだけ努力をしているかということは、
もちろんその大変さを本当にはわかっちゃいないけど、きっと大変な努力家だろうなとは思う。
彼の言う"茨の道を歩んできた"についてもそーだろうなと思うし、
"階段を上ってきたのではなく、作ってきたのだ"という表現にも、素直に頷ける。


でも、何ていうのかな。
"のたうつ"という印象が彼からは感じられないのだ。

多分それは、彼の努力や真摯さが、
自分で設定したハードルとの戦いに勝つためのものだからなんじゃないかと思う。

ひたむきに自分と戦う姿には孤高の美しさがあり、
それが各種劇評で"高潔"と表現される彼の持ち味になっているのだと思う。


だけれども。
戦いって、そして負けって、もっと理不尽で暴力的なものじゃないかと思うのだ。
そして相手は自分以外の存在に限る。

よく"自分との戦い"って、対誰かの戦いより、レベルの高いという位置づけをされるが、
私は違うと思う。
自分を律するという点が評価されているのかも知れないけれど、
自分との戦いはあくまで自分の意思で行うわけだし、戦いの種類も自分で決められるわけでしょ。

突然降りかかる不運とか不幸にもがくほうが、よっぽど大変じゃないか。
まず、自分では何時おこるかもコントロール出来ないし、下手すると何が起こっているのかも理解出来ない。
何と戦っているのかもわからず、そーなると、どーすれば勝てるのかもわからない。
でも、どんどん、なすすべもなく落ちていく。

なぜか唐突に関西弁なんだけど、"もう、あきませんわ"というさらさらした泣き笑い。
必死とか、哀れとか、ずたぼろ感って、その泣き笑いの上にしか育たないように思う。
(力量のない人が取り繕うとする低レベルの必死さとは別のものね。)


山本耕史と言う人には、その弱い生き物の持つ無力感がない。

結果、今回のHedwigには、決定的にみじめさと汚さがなかった。
ぼこぼこに殴られて、でもカウントナインでよろよろと立ち上がるボクサーの様な、
悲壮と滑稽が入り混じった人間像は感じられなかった。

かわりに、自らの純粋な愛に翻弄されて傷ついて、でも愛に支えられて立ち上がる
"瑞々しい"Hedwigがいた。

表現の志向性が異なるのだから、それを欠点とか物足りないというのは筋が通らないと思う。
だから言わないけどー。

ただ・・・。
やっぱり、いつか、"のたうって、でも負けて落ちていく"姿も見てみたいーと思うのは・・・。

ドS?


というところで、一旦ヘドウィグの感想はおしまい。
どっかで、まとめて別ページにUPすることは当面の目標。


2007年04月10日(火)

ヘドウィグ感想 続きの続き

本屋に行き、『月間ミュージカル』をチェック。
小藤田千栄子さんのHedwigの観劇レポを読むため。

TTBの時も褒めてくれていたが、今回も"感心しきり"と絶賛。
嬉しいなー。
それにしても"二枚目サン"って。

山本さんって綺麗だなーとは思うけど、私の基準では二枚目には入らないのだけど、
世間的にはどーなのだろう?
最近は、バラエティとかでもイケメンキャラとして扱われているから、そーなのか?
座りが悪いのは私だけか?


もう一つ『アクチュール』にも評が載っていると聞いていたので、これも立ち読み。
既出の評価と感想とほぼ同じだったが、写真に惹かれるとこともあり・・・。
うーん。買う?買う?どーする?どーするよ自分!


でも、Hedwigの劇評は新聞とか雑誌とかでかなり読んだけれど。
Webの時代になるとホント怖いなー思う。
お金出して売っている媒体のより、検索掛けてHitした個人のPageの劇評の方が、
よほど緻密で表現も的確だったりする。

特に読売新聞の評なんて、これほど学級新聞くさい表現は最近あまり見ないのでむしろ新鮮だったくらいだ。
(もちろん、けなしているのだ。)


私には評を書くほど、エネルギーと文章力ない。
でも、気持ちは残しておかないと消えてしまっては哀しいから、感想はここに置いておく。
さて。

公演が始まる前に何が不安だったと言って、所謂山本耕史振りや山本耕史節が、全開だったり、
さらに悪いことに散在していたら、興ざめだなーと言う事。

ジェイミーはある意味まんまだし、ヒロシも引き出しにありそうだし、
シーモアはおどおど系ということでこれも持ちキャラだし、ジョンというかジョナサンは彼の血だし。

いずれにしても彼の素(ないしは素としてメディアで演じているキャラ)が出ることが不自然ではないように思う。

でも、うらぶれたドラァグクィーンを演じるにあたっては、素がちらちらしたら、
ストーリーには力がなくなるなって感じていた。


新宿FACEで見た。
舞台の上には、山本耕史はいなかった。
Hedwigだった。

歌っても歩いても喋ってもHedwig。


全く。
見くびっているつもりはなかったけど、やっぱり見くびっていた。
L5Yの初演の時に、演出家のスズカツが『山本くんは天才』と言っていた。
TTBの再演の時に、演出家の吉川徹が『あとは彼がなんとかしてくれる』と言っていた。

身近にいる人は分かっているのだなぁと。
演じるために生まれて、本人が覚悟を決めて命削っている舞台は、それは素晴しいものだった。

比喩ではなしに、身体が震えた、あの大楽のラスト2曲は。
これを聞くことが出来ただけで、自分が今ここにいることの意味としては充分だと、
思わせてくれるものだった。

色んなあれこれ。
いうなれば運命?
仰々しい言い方だし、微妙にずれもあるのだけど、単語言うとそうとしか言えないなにものかに。

この上なく素直に。感謝って言える。
斜に構えずに今なら言える。

 


2007年04月09日(月)

ヘドウィグ感想の続き

Hedwig and the angry inchの感想 続き。

私にとっては、結局、英語歌詞は良かったように思う。
新宿FACEから約一ヶ月。

ずっと歌詞カードを手放さず、読み込んで聞き込んで。
英語が英語としてでなく、日本語変換もせず、気持ちとして入ってくることを目標に。

それなりにがんばっちゃったよ。
(毎度思うのだけど、このエネルギーをもうちょっと有効に・・・)

英語歌詞が壁なしで心に染みるようになると、そりゃ原語だから、一番無理がないわけで。
もちろん、歌の力と、歌い手の山本さんの表現力あってのことなのだけど、
そりゃもう絶品でした。

英語歌詞でなければ、これだけ深く原曲に嵌ることも、読み込むこともなかったわけで、
そういう機会があったことは、思えば良かったのかも。

山本さん云々でなく、Hedwigの曲そのものに対して、始めて聞いた時より、
今の方がずっとずっと深く愛しているって言える。


それ以外の感想をちらちらと。
中村中さん。

歌番組で聴いて、いい歌手だなぁって思っていたけれど。
期待以上の素晴らしさ。
コーラスの合わせ方、リズム感、さすがでした。

演技も新宿FACEと大楽では、別人の様に進化していてびっくり。
それから、声の表情が多彩。

まだ、20代前半だよね?
若いのに陰影があって厚い。
それは彼女の経てきた過去という土壌あってのことかもしれない。
決して取って変わりたくはないが、歌い手としては大きな武器になるよね。

彼女くらい、声が太く音が揺るがない人がコーラス入れてくれていたおかげで、
山本さんは伸び伸び歌えていたという面はあるんじゃないかって、思う。


演出で気になったのは。
バックバンド。

まず、衣装。
スーツならスーツで、もうちょっと何とかならなかったのか。
酔っ払ったサラリーマンみたいだった。

モッズっぽくするとか、バンドが派手というわけにも行かないのなら、
せめてネクタイだけでも極楽鳥にとか、何かなかったのだろうか。

黒子にするなら、パンキッシュな黒Tでも良いわけで。
衣装には最後まで不満が残った。

それからピアノというかキーボードの人。
出たり入ったりを繰り返していて落ち着かない。
ずっと座っていられないわけがあるのだろうか?

他の人が見に行った時には、空き時間のたびにケータイで話していて不愉快だったと
言っていたが、それもどーかと。

演出にしては変だし、自分勝手に動くというのも、あまり考えられないし・・・。
何だったのだろうか。


とりあえず、今日はこんなところで。



2007年04月08日(日)

『ヘドウィグ アンド アングリーインチ』TOUR FINALを見た!

魂を持っていかれた・・・
終わった瞬間の率直な感想。

演技とか歌とかの五感面の感想を言えば、とにかく歌が圧巻。
2000人入るホールに響き渡るMidnight radioには、比喩ではなく本当に身体が震えた。
表現力、歌唱力、佇まい。

遠近法で絵を描くときって、中心点を決めて、建物の角度とかって全てをそこに集めるよね。
それと同じく。

観客の思い、バックの音楽、照明などの裏方、当日の舞台だけでなく、事前の全ての作業に関わってきた人たち、
全ての思いを一点に凝縮させて、真っ暗な夜空に一点、白く強く輝く星のように、彼はそこにあった。


ここ2,3年だけど、山本耕史さんが好きだーと公言し、
公開メディアの9割は雑誌立ち読みを含めてカバーし、舞台も何度か見ている。

でも、もう頭かかえちゃう。
私は今までこの人の一体何を見てきたんだろうって。
一人スマンカッタ祭りだ。

そして、帰り道に思った。
これだけのものを見せるのに、彼はどれだけ努力をしたのだろうかと。
単純にあの長大な台詞と英語の歌詞を覚えるだけだって、信じられない。

私は凄い人のFANになってしまったのだなぁ・・・。
と、今更ながらに思う。

もう、毒を喰らわば皿までも。(使い方違う?)
彼の行くところは、どこまでも追いかけて、見届けてやろうじゃないの!


次に、五感でなしに、感じた感想。
前回の新宿FACEとは何か違う。
以前の感想は、2月20日の日記以降何回かに分けてぽつぽつ書いていたんで、読み返してみた。
(メモ残しておくとこーゆー時良いよな)

うん。
やっぱり。

方向性は同じだけど、質的変換がある。

自分でも書いててすっかり忘れてたんだけど、観劇後の気分は『浄化』。
これは前回も今回も同じ。

今日の日記の冒頭、『魂を持っていかれた』って書いたけど。
そうなの!
エネルギーを貰うとか、舞台の感想であるじゃない?
でも、この舞台には貰うじゃなくて、持って行かれる、吸い取られる、ないしは、託す、
というOUTの指向性を感じる。

見終わった後、何だか妙に、胸のあたりがすかすかする。
あえてビジュアル化するならば、身体が海綿。
魂を抜かれた感じ。
決して不快なものではなく、元気がなくなるとか萎えるというのとも違う。
風と水の通りが良くなるとでも言うのだろうか。


と、ここまでが新宿FACEと今日の厚生年金会館TOUR FINALとの共通点。
つまりは舞台から受ける根本印象には違いはない。

そして、今度は相違点。
新宿FACEの時の印象は"波"だった。

寄せては返し、柔らかく包みつつ癒して浄化してくれる波を思わせる舞台だった
柔らかく生命を育む地球の命の源である海の水だった。

が、今回の舞台には海は感じなかった。地球も感じなかった。
暖かさも柔らかさも感じなかった。
というか、物理的な感触がない。

『魂を持っていかれた』と言っても、鷲づかみにされたー!とかじゃなく、
4次元的にというのかな、"いつの間にか消えた?!"という無くなり方をしていた。

感じたのは。宇宙。
音もなく、空気もなく、どんな大きな星の強い光も途中で力尽きてしまう、広大な宇宙。

静寂。完全な均衡。つまりはエネルギーの消滅。つまりは無。

エネルギーってものが動くときに発生する。
発電を考えたって、水が高いところから低いところに流れるから電気が生まれる。
食べ物は消化されて成分が変化するなかで、カロリーになる。

何も動かない。完璧にバランスが取れて入れて、かつ何を吸い込んでも揺らがない。
今回の舞台にはそんな宇宙の暗さを感じた。

ROCKで、あれだけ爆音で、激しい舞台なのだけれど、観劇後の印象は、一言で言えば"静謐"なのだ。

舞台で演じられるHedwigの波乱の過去や純粋で強すぎる愛、ついでに付け加えると持っていかれた私の魂。
それら全てをブラックホールじゃないけど、すーっと飲み込んでニュートラルに中和し、果てしなく広がる無がそこにあった。

なぁんてことを考えて、帰り道にとっことっこと歩いていて、唐突に思い出した!

レスリー・キーの取ったヘドウィグの宣伝写真。
表参道に写真展を見に行った時に写真についていたメッセージ。
「Stageは汗、Stageは息、Stageは血、Stageは鼓動、Stageは命、Stageは・・・無・・・」


そうだー。あれだ。
今日の舞台は、まさに"無"だった。


素晴しいものを見た。
一生で何度もない、素敵な時間を過ごせたと思う。

清水玲子の『秘密』という本では、死後、脳の摘出し視覚的記録を再生することが可能という設定が出てくる。
死んでから人に再生されるのはイヤだが、今日の見た絵をディスクに焼けたら、どんなに嬉しいだろうとは思う。
(あーでも音もないと寂しいな)




2007年04月06日(金)

眠い

眠い・・・

退屈だから眠いのか、寝てばっかりいるから退屈なのか。
好きなことをやりたい気持ちはあるけれども、生活苦のストレスもきつそうだ。

好きなことイコール生活苦という発想も貧困だが、かと言って、
有望なビジネスプランも皆無。

それにしても眠いな。
何かをやりに生まれてきたのだとしたら、それは全くもって無駄足だったということだ。

ぐだぐだだもの。

でもさぁ生まれてくるのが意思だとしたら。
ちゃんとその動機を覚えていろよなと、思う。

効率的じゃない。



2007年04月05日(木)

青山に行きてーっ

無性に青山に行きたくてたまらない。

六本木って、どうも自分のテリトリーじゃない気がして、わりとどーでもいい。
長州藩の屋敷跡だしね。
私、血統的には会津なので、"敵じゃいか〜"という想いがなきにしもあらず。
高杉晋作とか好きだけどね・・・。

あと、六本木ヒルズって磁場が変という話があるじゃん?
そう言われてみれば、その所為なのか何なのか。
わざわざ車を駐車場に止めて入ったにも関わらず、ろくすっぽ見ず食わず買わずに立ち去ったっつーことがあったが、
東京ミッドタウンの方はどーだろう?という磁石を持って調べには行きたい気はする。
別に店とかには関心ないけど。

でも混んでそうだなー。


私の中のお買い物MAPって、日常の一種義務なお買い物は新宿で、ギャル心を満たしてくれるのが青山、
サブカルの国立という感じ。

他は銀座とか丸の内とかも、職場が近かったこともあるんだけど、どーもマーキングされてないというか、
どっか自分と気が通じ合わないとこがあって、買い物はしにくい。



青山は好きだなー。
何がっつーんじゃなく、特に店がどーこーではなく。空気感が好き。

下着屋(Rue de ryu)とかPeopleTreeとか、行きたいなー。
あと脱毛も行きたい!

背中をもう一回くらいやったら、もうちょっとすっきりするんじゃないだろうか。
脱毛ってやりだすときりないね。
次次って、気になっていく。

足も脛だけじゃなくてひざ上もやりたいし、顔も産毛も綺麗にしたいしー、
襟足も腕もやりたいなー。

バッグとか時計とかには興味がないんだけど、毛焼き代だけはすっごく欲しー!


2007年04月04日(水)

海王星と土星を乗りこなす

満月。
だからなのか何なのか。
めずらしく頭痛。すっきりしない。


先週末の日曜日は満開の桜を見にサイクリング。
ファイヤーキングのお皿にげっちゅーだったんだけど、例に漏れず高っ!

サラダ盛るのに使いたいお皿が一個一万円弱っつーのは。どーかと。
高級感があるわけでなし。

あぁでも好きなんだよなー。
ジェイダイなんだけど、厚みといい、色といい、アメリカが満ち足りていた時代の雰囲気、
大きくとらえるとアングロサクソン文化の最後の質実さと寛容さを内包しているような佇まいに、
とても惹かれてしまう。

ファイヤーキングだけではなく、最近食器に気持ちが走っている。

食器というと日常で、占星術では一般に月の管轄と言われているけれど。
私の場合、食器って毎日繰り返すルーティンのツールというより、
可愛い彩りなので、金星の方が強いように思う。

それ以外にも、ファッション雑誌とか女性っぽいエッセイ、しかもイラスト付きとかに
心が動いているので、自分のホロスコープの中の金星をフューチャーしたい時期なんじゃないかなって
言う気がする。

山本耕史さんのファンで、舞台見に行ったらり、出ている記事とか集めまくったりというのも、
ハンティングの牡羊座の金星っぽい。

多分、一種の逃避なんだろうな。
太陽−土星−MCの私のホロスコープの中のかっちりしっかりラインに、
土星が重くどーん!とのしかかり、しかも海王星が混乱を上乗せしているから。


占星術の良いところ、世間一般にとってではなく、あくまで私にとってだけど、
『整理出来ること』にある。

何となく感じてる、ことを可視化するって言うのかな。
無意識を意識下に置くことで、自分で納得できる。
それから、それをコントロール出来る。ないしは、出来るような気になれる。

例えば。
2月の終わりごろ。
アルコールに弱いわけではないんだけど、普段はめったに一人で飲んだりしないのに、
何回か、一人部屋で飲んだくれたことが数回あった。

2月の終わりごろ、t土星とt海王星が私の太陽の上でぴったり180度のオポジションをつくっていた。
海王星はアルコール。土星はプレッシャー。
そしてネイタルの太陽は自分の生き方スタイルをあらわす。

自分の生き方とかスタイルに、真っ向から批判やプレッシャーがかかり、
それをアルコールで紛らわす・・・・と読める。
そのまんまやん。


と、占星術で読んでいくと、自分の行動に解釈をつけることが出来る。
かつ、じゃあどーするという、展開を考えることが出来る。

t海王星とt土星のオポを現実は変えられない。それは星の配置だから。
でも、その星のエネルギーをどう現実に落とすかは、誘導可能。

海王星にはイメージ力という意味もある、土星には現実という意味もある。
だから、プレッシャーとアルコールという具現化ではなく、
頭に描いた無意識とか混沌とか混乱を、すっきり整理して具体化・可視化するという、
展開も可能ではないかと。

6月末にもう一度、n太陽の上でt海王星とt土星のオポがある。
その時にはもうちょっと上手く使いたいなー。



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