Leben雑記
DiaryINDEX|past|will
自分から、「メシ食いに行くか?」と切り出さないのは、断られるのが怖いからだ。それは誰でも思う。しかし、どのように怖いのか? 明らかにそれは、相手は用事があり、自分にはない、ということが露呈するからだ。断られた場合、相手には一緒に飯を食いにいく相手がいるのであり、自分にはいない。その寂しさが怖いのであって、その人と飯が食えないという事実が怖いわけでは決してない。
レヴィ・ストロースによると、近親相姦の禁止は「女の交換」という社会原理を成立させるためのものらしい。女の交換とは、部族間あるいは家族間において、女を交換することによってもともとは異種であるコミュニティの関係性の樹立、ひいては人間社会を成立させる……と。 このとき、「贈与の一撃」と呼ばれる作用が起こっている。贈与の一撃とは、あるものを贈られることは、実は贈られた側にとって利益になるわけではなく、新たに何者かに(たいていの場合贈り主に)贈り返さなければいけないという負積を背負わされたことを意味する言葉である。よって、贈り物をされた者は、新たに誰かに対し贈り物をし、そのとき贈られた者はまた誰かに贈り物をする……という具合に、交換による関係性が成り立つ。 女の交換もこの原理によって作動する。
さて、話は変わって、昨今どうやら「近親相姦萌え〜」が大人気である。というか、これは昔から存在する欲望である。 ところで、フロイトが言うように、欲望は常に禁止されたものに対し病的にむけられるものなので、おそらく近親相姦の欲望は、論理的には近親相姦の禁止の樹立後に、実質的にはそのとき同時に、成立したといえるだろう。 とすると、「近親相姦萌え〜」は、極めて制度依存的な欲望であることが分かる。これは実体験からも間接的に証明可能である。というのは、自分の異性の親・兄弟に対し実際近親相姦の欲望を持つ者はあまりいないからである。つまり、極めてプライヴェートな感覚の中では近親相姦の欲望は成立しない。この欲望は社会性の中でのみ成立する、というのは換言すれば、前述したとおり社会的制度的欲望なのである。
|