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ひみつにっき
渡海奈穂
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2013年03月04日(月)
 『兄弟とは名ばかりの』兄弟とは名ばかりの・その後


 伊沙が風呂から上がって居間に戻ると、稜がローテーブルに突っ伏していた。
(あれ、寝てる)
 テーブルと稜の顔の間には、ページを開いたノートが挟まっている。
 夕食後の家族団欒も過ぎ、自室に戻ろうとした稜を掴まえ、勉強をするならついでに課題のわからないところを教えて欲しい、あ、その前にサクッと風呂入って来ちゃうな――と伊沙が風呂場に向かったのが、三十分ほど前。どんなに急いでいるつもりでも、湯船に浸かって、体と髪を洗ってとやっていれば、思ったより時間がかかってしまう。待たせすぎたかな、と少々申し訳なく思いつつ、伊沙は稜のすぐ隣まで近づいて床に座り、濡れ髪をタオルで乾かしつつ、その寝顔を覗き込んだ。
 稜は右手にペンを握ったまま、ノートに左の頬をくっつけて目を閉じている。
(綺麗な顔だなあ……)
 稜の顔をまじまじみつめるたびに浮かぶ感想を、伊沙は今日も律儀に頭に浮かべた。稜は、伊沙の同い年の義理の兄は、綺麗だし、格好いい。
 格好よくてしっかり者で、でもちょっと手先が不器用で、右手の人差し指に絆創膏が巻いてあるのは、夕飯の支度を手伝った時に包丁で傷つけてしまったせいだ。
 野菜の皮の剥き方を指導する自分に、真面目な態度で従っていた稜の姿を思い出して、伊沙は一人で顔を綻ばせた。
 伊沙の父親と稜の母親が再婚してから、そろそろ半年。
(本当は眠かったのに、俺が勉強教えてくれとか言うから、一生懸命起きて待ってようとしてくれたんだ)
 最初はあんなに苦手だった稜のことを、伊沙は毎日、いや、一時間ごとに好きになっていく気すらする。
 今日もまた好きになってしまった、と思いながら、伊沙はすうすうと小さな寝息を立てる稜の顔にそっと顔を近づけた。
 両親ともすでに寝室に向かったあと。
 それでも一瞬、居間の入口からどちらかが顔を覗かせてやしないかと視線で確認してから、伊沙は眠っている稜の頬に唇をつけた。
 一瞬触れて、すぐに離れる。
 離れた途端、「ふへへ」と自分でも薄気味悪く思えるような声が、伊沙の口から零れてしまった。
「ん……」
 その笑い声のせいか、それとも頬に触れられたせいなのか、稜が小さく呻き声を上げ、瞼を震わせた。
 ゆるゆるとその瞼が開き、頭が動いて、すぐに視線が伊沙の姿を捉える。
「伊沙……何した……」
 声がちょっと掠れているが、寝ぼけているわけではないようだ。
「チューした」
 堂々と答えた伊沙に、ぎゅっと稜の眉が寄る。
「……起きてる時にやれよ」
 文句を言いながら、稜が手を伸ばし、タオルを被った伊沙の頭に触れる。
 伊沙はすぐにその意図を察して、もう一度相手の方へと身を寄せた。
 稜が首を伸ばし、伊沙を迎えに来る。伊沙はぎりぎり間近まで稜と視線を絡めて、唇が触れた時にやっと目を閉じた。多分、稜も同じことをした。
「伊沙、髪冷たい……」
 軽く唇を触れ合わせたあと、稜がまた眉を顰めて呟いた。
「ああ、悪ぃ、濡れた?」
 風呂から出て、まだ髪を乾かし切っていないままだ。水滴が稜の顔に当たったのかと伊沙が謝ると、稜は「そうじゃないけど」と答えながら、テーブルに突っ伏していた体を起こす。
「風邪ひくぞ。まだ寒いんだから」
 一月の終わり、エアコンをつけているとはいえ、濡れ髪で過ごすにはまだ肌寒い時期だ。
「うたた寝してた稜に言われたくない」
 どうやら稜は伊沙の体を心配してくれたようだが、伊沙だって同じ気分だったので、言い返す。こんなところで毛布も被らず居眠りしてたって、風邪を引いてしまいそうだ。
「眠かったら、課題は自分でどうにかするからさ。稜は部屋行って、寝ろよ」
「目、覚めた。おかげさまで」
 真面目な顔で、稜が言う。
「そうかい。寝込みを襲った甲斐があったわ」
 伊沙も大真面目な顔を返してから、目を見交わして、お互い噴き出す。
 ――正直、このやりとりの何が可笑しいのかなんて、伊沙にはわからない。稜も同じだろう。
 ただ、稜と話していて、稜の近くにいて、稜の顔を眺めていると、いつでもムズムズと胸がくすぐられっぱなしで、ちょっとしたことなのに、ついつい笑い出してしまいたくなるのだ。
「髪乾かして、課題持ってこいよ。数学だっけ?」
「そう。じゃあすぐ部屋行って支度してくるから、一人で寂しくても泣くなよ?」
 居間から二階の自室に行って、ドライヤーで髪を乾かして戻ってくるのに、五分もかからないだろう。ふざけて言った伊沙の台詞に、稜が小さく喉を鳴らして笑う。
「泣くよ。だから早く戻って来い」
「……おう」
 同じ家の中で、一体、何をやってるんだか。
 そう思いつつ、笑って言った稜に、照れて自分もへらへら笑いながら、伊沙は頷いた。
「伊沙、部屋行く前に、もう一回チューして」
 挙句稜にそんなことをねだられて、伊沙はそのまま床にひっくり返ってじたばたと暴れたい心地になってしまう。
(チュー、だって。稜が)
 最初にそう言ったのは自分なのに、でも稜がそんな言葉を口にするなんて予想外で、伊沙は何だか堪らない心地になった。
 出会ったばかりの高校一年生の春、いや、兄弟になってこの家で同居を始めた去年の夏も、まさか稜が自分に向かって『チュー』をねだる日が来ようとは、伊沙は本当に予想だにしていなかった。
「はい、チュー」
 そして照れまくって笑いつつも、稜のおねだりを素直に受け入れてしまう自分というものも。
「あれ」
 伊沙がちゅっと音を立てて稜の頬に唇をつけたら、何だか不満そうな呟きが聞こえてきた。
「そっち?」
「ん? さっきと同じとこだろ? 反対がよかったか?」
 稜を寝込みを襲った時は、右頬にキスをした。だから同じように右側に触れたのだが。
「違うだろ」
 稜がますます不満そうな顔で、伊沙を睨みつけてくる。そこでやっと、伊沙は「ああ」と納得した。チューしたと言った自分に、その言葉でせがんでくるものだから、てっきり同じ場所に同じことをしろと言われたのかと思っていた。
「こっちか」
 顔を傾け、今度はすぐに目を閉じて、唇に二度目のキスをする。ちゅ、とまた音を立ててキスしてすぐに離れようとした伊沙の唇を、稜の唇が追い掛けてきて啄む。笑いながら、伊沙はそれを真似て啄み返した。
 稜も笑っている気配がする。
 稜の笑い顔が伊沙はとても好きだったから、できれば間近で眺めたかったが、照れてしまって目を開けられない。
「……ああ、駄目だ、これで一晩終わってしまう」
 しばらくつついたり摘まんだりひっぱたりとお互いの唇を唇で弄んだあと、ひどく名残惜しそうに言いながら、稜が離れていく。
 伊沙も名残惜しくて仕方なかった。
「いいじゃん、一晩中」
「駄目だ、課題あるんだろ」
 声音に心残りを滲ませて呟いた割に、稜はきっぱりと伊沙の言い分を拒んだ。
「ちぇー」
 伊沙がしつこく不平を表すのは、まあ、単にじゃれ合いの一環だ。
「せっかく一緒の家にいるのにさ。あんまいちゃいちゃできねーな、俺ら」
「……そうだな」
 テーブルに頬杖をついて伊沙を眺めながら、稜が苦笑気味に頷く。
 今でも充分いちゃつきまくっている気がしないでもないが、しかし伊沙には物足りなくて仕方がない。随分と贅沢になっているみたいで、稜と一緒にいられるだけでも嬉しいはずが、触れられればもっと嬉しいし、キスできたら最高だし、『最も高い』だなんて表現したくせに、もっともっと触れてくっついて色々したいと思ってしまう。
 しかしこの家には両親がいる。共働きだが母親の江菜は週に三日の勤務体系で、帰りがものすごく遅くなるというわけでもない。父親の余一が仕事を終えて在宅している時は、なるべく全員居間で団欒しようというのが、なりたての家族である倉敷家の暗黙の了解だ。
 伊沙も稜も自分たちの家族がとても好きだったから、四人で過ごすことに不平不満は一切ないが。
(でもやっぱ、もうちょっと長く、稜と人目を憚らずに二人で過ごしてみたいよなあ)
 同じ学校に通っていると言ったって、クラスは違うし、昼休みに人目を忍んで逢瀬を楽しむにも限度がある。
「――旅行、春休みになっただろ?」
 どうやったらもっと稜との時間を過ごせるのか、悶々と考え込んでいた伊沙の耳に、そんな呼びかけが届いた。
「ああ、温泉な、温泉」
 旅行、温泉、と心躍る単語に、伊沙は一瞬にして門門を吹き飛ばし、満面の笑みで頷く。去年の年末から、家族旅行をしようという計画が、倉敷家の中で持ち上がっていた。電車ででかけて、二泊くらい旅館でのんびりと過ごそうと。
 はじめは冬休みの間にというつもりだったのが、あまりいい宿が取れそうになかったのと、余一の仕事が忙しかったので、春休みにずれ込んだ。もう泊まるところも予約済みで、乗る電車も決まっている。家族全員が楽しみにしている旅行だった。
「母さんたちは四人で同じ部屋にって予約してただろ。でも旅館の手違いで、四人部屋が埋まっちゃったから、一日だけ二部屋に別れてしまうって連絡があったみたいで」
「あれ、そうなんだ?」
「そう。で、二人部屋の方も結構埋まっちゃってるから、本館と別館で別れるんだって。両方とも結構いい部屋らしいぞ、旅館側の手違いだから、料金据え置きでグレードアップ」
「へー」
「客室露天風呂もあるって」
「へー!」
「一晩分は、二人でゆっくりできる」
 重々しく言った稜の言葉に、伊沙はちょっと赤面した。
「……へー……、うん、そうだな」
 家族旅行でそういうことを考えるのは不埒とかいうやつなのでは、と思いつつも、勿論伊沙の頭は稜と過ごす旅館の夜という想像と期待で一杯になってしまう。
 真面目な顔をしているが、稜もきっと一緒だ。
「えっと……楽しみだな、すげぇ」
「うん」
 こくりと頷いてから、稜が顔を綻ばせる。
「すごく、楽しみだ。家族旅行も、伊沙と一晩二人きりなのも」
 まったく正直な稜の言葉に、伊沙はまた「ふへへ」と変な笑い声を漏らしてしまった。
「――というわけで無事に進級して補講のない春休みを迎えるためにも、課題。やるぞ」
 しかし稜は伊沙よりもうちょっと現実的だった。三学期の期末考査の点数や、普段の生活態度が悪ければ、春休み返上で補講になってしまう。伊沙は稜に勉強を教わるうちに、文系の成績だけは人並み程度に上がったが、理数系はほとほと弱くて、低空飛行を続けている。
 せっかくの家族旅行に一人だけ取り残されるのは勘弁だ。
「ふぇーい」
 だから伊沙はしまらない返事をして、渋々と立ち上がるほかない。
(というか、万が一にも俺だけ行けないってことになったら、稜も、江菜さんも、親父も、俺のこと置いてけないって、旅行自体中止になっちゃうだろうしなあ)
 それがわかっていて、みすみす補講を命じられるわけにもいかないのだ。
「じゃあ、すぐ部屋行って戻ってくるから」
「うん、早くな」
 たった五分の別離を名残惜しそうに笑う稜の顔が、どうにもこうにも、愛しい。
 伊沙はさっと身を寄せて、もう一度稜の頬にキスしてから、相手の反応を見ずに大急ぎで居間を飛び出した。