ついさっきまで大人しくテレビを見ていたのかと思っていたが、どうやらすでに飽きたらしい。 「っ」 前触れもなく膝にこそばゆさを感じて、紬里は堪える余裕もなく思い切り体を揺らした。 「お、いい反応」 楽しげな呟きは下から聞こえた。紬里は手にしていた参考書から、自分の膝――というか腿の上へと視線を下ろす。 「変なことしないって言っただろ」 「変なことしてないだろ」 非難がましい紬里の声に返ってくるのは、いつもの如くとしか言い様のない、まったく悪怯れる気配もない答えだった。 「してんじゃん。くすぐったいよ」 水橋家、ソファの上、腰掛ける紬里の膝枕で和臣が寝転んでいる。 夕食のシチューを煮込む間、参考書のページをソファに座ってめくっていたら、大学から帰ってきた和臣が当然の顔で紬里の両脚の上を占拠したのだ。 料理中なので、万が一にも、何かしら――不埒な行為が始まるのは、よろしくない。利一郎の給料日なので彼の好物のビーフシチュー、リクエストもあっていつもよりちょっとお高めの肉を使っているから、断じて焦がすわけにはいかなかった。中途半端なところで火を止めて野菜が生煮えになるのも御免だ。 だから変なことをしない約束で、紬里は自分の脚を和臣に貸し出したのだが。 「これのどこが変なことなんだよ?」 指先で紬里の膝をつつきつつ、和臣の声音は完全に面白がっている。 「だからくすぐったいんだって! もうほんとやめて、やーめーろー!」 丸めた参考書で、紬里は和臣の頭を叩く。ごく軽く。何度目かの攻撃を、手首を掴んで阻まれた。 「おまえ、類い希なる頭脳を持つ貴重なお兄様の頭を殴るとは何ごとだ」 「殴ってないじゃん、ぶってるだけで。っていうか自分で類い希なる頭脳とか言う?」 「殴るもぶつも一緒だろ。おまえ国語ヤバすぎマジで」 和臣は一向に紬里の膝をつつくのをやめようとはせず、力を入れて握ってみたり、かと思えば急に力を抜いてさわさわと撫でてきたりと、紬里をくすぐったがらせることに腐心している。 「揚げ足取るなよ、っていうか、もう……っ」 和臣は逃げようとする紬里の脚を押さえつけて膝をくすぐっている。紬里は今度は和臣のその手を参考書で叩こうとしたが、相変わらずがっちり手首を掴まれているのでままならない。 「何でこんなとこがくすぐったいんだ」 自分でくすぐっておいて、和臣は首を捻っている。紬里が仕返しをしてやりたくても、和臣の方はどこを触ろうが大抵涼しい顔をしているので、仕返しになることはなかった。 心頭滅却、心頭滅却、と心で唱えて紬里は和臣から与えられる微妙な刺激をやり過ごすため目を閉じた。 少しすると和臣の指が止まる。やっと飽きてくれたのか……とほっとして目を開けた紬里は、和臣が自分のことをじっと下から見上げる視線に気づいて何となく怯んだ。 「な……何」 「我慢してる時の紬里は本当に可愛いなあと思って」 「……」 絶句したのは、呆れたからではない。 ストレートな和臣の言いようが、恥ずかしくて、嬉しくて、狼狽したからだ。 最近の和臣はずっとこうだ。ちょっと前に、「兄の弟に対する抱擁」などと称して紬里を抱き締めた時から、どこか開き直ったような、妙な素直さで紬里にまとわりついてくる。 もちろん、「根がいじめっ子」だとこれも自称する和臣は所詮和臣なので、意地の悪いことを言って紬里を困らせたり、からかっておもしろがったり、時々は人間性を疑うような暴言を吐いたりすることだって多くはあるのだが。 何にせよ、紬里に対して全力で構う姿勢を崩すことはなくなった。 「……そんなの、和臣の方が可愛いのに。今」 そして紬里は紬里で、そんな和臣のことをいちいち全力で甘やかしてしまう。 自分の膝の上に寝転んでじゃれついてくる和臣は可愛い。 「生意気」 応える和臣は、台詞の割に特別怒ったふうもない。どこかおかしげに笑いを含んだ顔で言ってから、まるで犬猫でも呼ぶみたいに軽く唇を尖らせて、小さく舌を打って音を立てた。 そんな仕種だけで、紬里はあっさり和臣に陥落する。ふらふらと、それこそ犬猫みたいに呼ばれて、身を屈め、尖った和臣に唇に自分の唇を触れさせた。 「――変なことはしないんじゃなかったっけ?」 軽く触れてすぐ離れた紬里を見上げ、にやにやしながら和臣が訊ねてくる。 また遊ばれた、と思いつつ、怒る気にもなれず――その必要が見当たらなかったので――紬里は形ばかり眉を顰めて和臣を見返した。 「変なことさせるなよ」 「変なことじゃないだろ?」 「自分が変なことって言ったんじゃん」 和臣に言い返しながら、紬里はキッチンで鍋がくつくつと大きく煮立つ音を立てているのを聞き止め、慌てて立ち上がった。紬里の手首を掴んでいた和臣の手は簡単に外れた。和臣だって、焦げたシチューを食べる気はなかったのだろう。 「あともうちょいかなー……」 キッチンに走っていって、シチューの味見をする。なかなかいい感じに仕上がってきたが、利一郎が会社から戻ってくるまでもう少し煮込んだら、もっと味が染みて美味しくなるだろう。 「おい枕、戻ってこい」 一緒に出すサラダとパンの下準備はすんでいるし、デザートは利一郎が買って帰ると言っていたし、などと今後の手順を頭で確認する紬里に向けて、ソファの方からお呼びがかかった。 「眠たいんだったら部屋で寝れば、利一兄ちゃん帰ってきたら起こすし」 「枕も一緒に来るならな」 「料理してるから火の前離れられないって言ってるだろ」 「だからここで我慢してるんだろうが」 偉そうに言う和臣に反抗する理由がやっぱりみつからず、紬里は鍋の火加減をもう一度確認してから、ソファの方へ戻った。呼びつけた割に動こうとしない和臣の肩を引っ張り上げて、頭が上に載るように、ソファに再び座り直す。 「ん」 ついでに、満足げに頷き目を閉じる和臣の髪を撫でてみた。 和臣は実は割と眠たかったのか、ごそごそと動いて寝やすい体勢を探って、そう大した時間もかけずに寝息を立て始めた。 「……」 和臣がつけたくせにろくに観もしなかったテレビをリモコンを使し、紬里はまた参考書を手に取ってみたが、そのページよりも、どうしても和臣の寝顔に目が行ってしまう。仕方がない。 (……平和だなあ) 少し前まで、このリビングには和臣の友人たちが男女問わず我がもの顔で居座っていたり、そうでない時も和臣とふたりでいることに緊張を強いられたり、自分の家なのに紬里が落ち着いて過ごすことのできる時間は少なかった。 でもここ最近はずっと、和臣とふたりいる時間は落ち着いているし、楽しいし、倖せだ。 (……や、落ち着かない時も……まあ、あるけど) じゃれ合う以上に深い触れ合いを、和臣や自分の部屋のどちらかでする時のことをついつい思い出してしまい、紬里はひとりで勝手に赤くなった。 そういう行為をする時はとても平常心なんて保っていられず、泣かされたり、しつこくされて怒ったり、怒るふりをしたり、甘えて甘えられてすっかり骨抜き、という状態だが。 (でも全然、倖せだなあ……) 少し前なら、和臣と過ごすそんなこんなの時間が来ることを、紬里は決して信じようとしなかっただろう。夢にも思わなかった。 ――なのに今は、夢みたいだなんていうふうにも思えない。ふたりきりの触れ合いも睦言も、あっさりと紬里にとっての日常になった。まるでずっと以前からこうやって過ごしてきたかのように。 そのことが紬里には嬉しい。 自分に甘い和臣がいることも、それを受け入れることのできる自分がいることも。 (利一兄ちゃんが帰ってきたら、和臣を叩き起こさなくちゃいけないけど) それも紬里にとっては後ろめたい幸福だった。家族と恋人とをいっぺんに手に入れているという喜びとやましさ。利一郎と一緒にいる時は、いい弟の役割を演じることに何の違和感も覚えないし、そこに和臣が混じっても同じだ。 (そのうち、そこに、茜も加わるようになるのかなあ) 大好きな家族と、恋人と、おまけに親友。この家で大事なものに囲まれて生きていくことが出来るかもしれないという未来。 (まあ茜が来ることになったら、俺と和臣は出てかなきゃだろうけど) それでも紬里には、四人で食卓を囲む姿がすんなりと想像することができる。 もしくは、新婚家庭に気を遣って出ていった弟ふたりが、この近くのアパートに部屋でも借りて、一緒の生活を始める様子などというものも。 ついでに、自分に甥っ子とか姪っ子とかができて、それを可愛がっている姿にまで想像が至ってしまった。 あまりにも先走りすぎだとさすがに自分でおかしくなったが、でもやっぱり、そんな未来を想像するのは簡単だ。 こうして、和臣が自分の膝枕で気持ちよさそうに眠っている姿を眺めていれば、なおさら。 (そうなるといいなあ……) 和臣の髪をそっと撫でながら、利一郎から帰宅を報せるメールが届くまで、紬里はこの先に続くであろう幸福な未来について飽きもせず延々と想像を働かせ続けた。
想像した未来についてはそのうち続く
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