37.2℃の微熱
北端あおい



 ai

愛も立派な狂気のひとつのかたち。
そう思うと、わたしは少しは安心できるのです。


2006年03月31日(金)



 




お花見もかねて上野動物園に行きました。
動物園に行くのは初めて!! 水族館にはよく行った子供でした。
それにしても動物園って面白い!!
見てても見てても飽きないのです。
見れば見るほど、動物の造形って可笑しいな(そして人間も)。

でも、ホッキョクグマがおちつかなげに檻のなかでうろうろしていたのは、忘れられなかったりするのでした。

恐い夢を見ないよう獏と一緒に記念撮影もしてもらって、羊と山羊を自由に触わることができるふれあい広場では、こっそりこっそり電気羊らしきものがいないか探してみた。
けれど、それらしいのは(もちろん)いませんでした…。

「さがしてどうするの?」(一緒に行った人)
「つれて帰るの!」(北端)

空気は冷たかったけれど、櫻は綺麗で、夢みたいな一日でした。
まだ満開とまでは言い切れない櫻なのだけれど、風が吹くともう花びらが惜しげもなく、はらはらと散っていくのです。

たとえ夢でも絶対に忘れたくない夢。

2006年03月30日(木)



 




お風呂につかりながら、アナイス・ニン『小鳥たち』(矢川澄子訳、新潮文庫、2006)を読む。


とても暑い日でした。
シーツのせいであたたかいし、ポーズもだらしない姿勢だったので、わたしはほんとに眠ってしまい、どのくらい経ったかもわかりません。
ともかくけだるくて、夢みたいでした。と、そのときわたしはだれかの柔らかい手が、両脚のあいだにあって、そうっとそうっと、かるくわたしを愛撫しているのに気づきました。目をさまして触られたことをたしかめました。レイノルズがわたしの上にのしかかっていましたが、その表情がいかにも穏やかでうれしそうだったので、わたしは動きませんでした。彼はやさしい目付きで口をなかばあけていました。そしてささやきました。
「撫でてるだけだよ、ちょっと撫でてる」(中略)

「わたしはまた、こんなふうに撫でておこしてもらえたらっていつも思っていたの」
(「モデル」より、上記本所収)

キャンドルの明かりで読むにはうってつけのエロティカ。
かなが多くてやわらかい表現になっていて、使われている日本語も素敵。
翻訳された方はエロティカを書いておられないのかしら。
わたしが知らないだけか知らん。
きっと素敵なエロスの世界が生まれたのだと思うのですけれど。
読みたかったな(どきどき)。


そういえば、バスチアン・バルタザール・ブックスも蝋燭の明かりのもとで本をひらいたのでしたっけ。今日は少年の冒険心じゃなくて、少女の好奇心の下でページをめくります(表紙が赤くて二匹の蛇がつながっている御本ではないのだけれど、この本だって少女心にとっては大きな冒険)。

此の13編の物語を読まれたら、どの物語が貴下のお好みなのか、ぜひ知りたく思います。

2006年03月29日(水)



 巻きますか? 巻きませんか?

少し前の深夜、テレビをつけるとやっていた『Rozen Maiden』
美麗なゴスファッションドールが主人公のアニメーション!!

「巻きますか? 巻きませんか?」
電話や手紙で突然訪れる謎のメッセージ。
うっかり「ま、巻きます」と答えたひとのもとには、かばんに入った美麗な少女のドールが送られてくる。
背中のねじをいったん巻くとドールたちは、動き喋り、笑ったり泣いたりもできるようになる。 まるで人間の女の子のように。
でも、彼女たちは人間の女の子とは違って不思議な戦闘能力を持っている。ひとひとりなんて簡単に殺せるくらいの。

…実は彼女たちは「アリスゲーム」と呼ばれるゲームに於いて闘う宿命を背負っているドールたちだったのだ!
マスター(持ち主)の無意識が、その不思議な力の源泉となる。だから、ドールたちは「アリスゲーム」に参加するために必死で背中のねじを巻いてくれるひとを探す。

なぜならゲームを勝ち抜き、史上最高の少女「アリス」として君臨したドールだけが、自らを創った人形師に会えるのだから(物語の中では、ドールたちに「お父さま」と呼ばれる人物)。


アニメを見た翌日、
「巻いてやろうか」

お皿に半分以上残っているファミレスのスパゲティ。
食べられなくて、フォークで弄んでいると、向かいに座っていた人が、そう言いながら手を伸ばしてきた。
『巻いてくれますか?』
「巻いてあげる」
『本当に巻いてくれますか』
「巻いてやるから」

ひと巻きふた巻き。
くるくる回ったのは、背中のねじではなくてお皿の上のフォークで、向かいに座っている人は『Rozen Maiden』なんか知るはずないのをいいことに、心の中で邪な一人遊びをした。

『Rozen Maiden』の最後はとうとう見ていない。見なかった。
最高の少女「アリス」となったのは誰だったのか。
「お父様」に会えたのは誰だったのか。
今でもとうとうわからないまま(ネットで調べればいいのだけれど、なぜかそれもしていない)、見逃している。

『巻いてくれますか』
『巻いてくれますか』
『巻いてくれますか』

面白がって何回も訊ねながら、スパゲッティを巻いてもらっていると、だんだん自分も「アリスゲーム」に投げ込まれている気になる。
この現実も間違いなくあの「アリスゲーム」に似たようなところがある、とずーっと思っていたから、余計そう思えて仕方なくて、なんだか悲しい。

此の現実でアリスとなるのは誰なのか?
「お父様」に会えるのは誰なのか?

勝ちたいのは「お父様」に逢いたいがため。
それとも「アリスゲーム」を設定し、投げ込んだその存在を憎むべき? それとも創造主として愛するべきなの?

……求めているのだけは間違いないの。

不安になって、もう一度ねだる。
『もっと巻いてください、もっと』

「あのさ、さっきから巻いてやってるのに、全然減らないんだけど、このスパゲッティ。ちゃんと食べなさい、ほら」


2006年03月28日(火)



 可能性

生きて存ることは、まだすべての可能性があるということ。
閉じることと、開かれることへの。

2006年03月22日(水)



 悲しくて…


●その1
悲しくて身体がばらばらにひきちぎれそうな日はつまさきがじんじんするくらい熱いお風呂に入る。

●その2
眠れない。
眠れないまま、夢を見ます。
わたしは世界が見ている夢なのか、それともわたしが世界を夢見ているのか。
そのどちらでもいい。どっちもいい。

唯その底を覗きたいだけなのです。ひとめだけでも生きているうちに見たいのです、と「なにか」に祈るように願う。
祈りではない、決してそれは祈りではないのだけれど。

●その3
ある詩を教えてもらった。
その詩に書かれたある存在のように、緊密にゆったりとなけるよう、いつもより少し深く静かに呼吸してみる。






2006年03月13日(月)



 ひとごみ

心療内科にいった後、ビッグカメラにフラッシュメモリを買いに行きました。それだけのことなのになんだか疲れてしまって、とたーっとソファにくず折れています。

喫茶店なんかでぼんやり人ごみを眺めるのは好き。
でも、目的があってそこに行こう行こうとすると、
人ごみはたちまち厳しくなってしまうのでした。

疲れていて思考すら出来ないなんて、
そんなのって生きているって言える?

それでもちっとも眠れなかったりするくせに、身体はメンテナンスしてあげないと疲れて動かなくなってしまう。
なんだか悔しいのだけれどじぃっと横になっています。



2006年03月11日(土)



 

アンテナが鈍っていると思えてしかたがない日は、
とびきり毒のあるものを摂取する。




2006年03月09日(木)



 

折れそうになっている心をなんとか建て直す。

思いがけないトラブルがいくつかかさなったりして、
いままでにないほど、お仕事は忙しい(と思う)。

今折れたら、すべてがこけてしまう。
その恐怖はとても大きくて大きくて大きいので、そのおかげでどうやら完全に折れてしまわずにいられる。恐怖が支えになることもあるんだ!?
でも、同時になにかすごく大事なことを置き去りにしている。

聞こえないはずの声に苛まれる夜、狂った夢ばかりを見ました。


2006年03月08日(水)



 お薦めのキャットフード

「(近所の猫を餌付けしたいので)お薦めのキャットフードを教えてください」と某編集長にお願いしたら、「あれは人間が食べるものじゃない!! 人間には不味いからやめておけ!!」というお返事が、即座に返ってきた!
某編集長、どういうことなのでしょうか(焦)!?

北端用のおすすめを聞いているわけではないのに。
実は以前、実家で猫を飼っていたときに食べたことがあるけれど、あまりの不味さに辟易しました。あの味が舌に甦る限り、たとえ猫になっても食べ(られ)ないぞー。
でも、キャットフード会社では製品をちゃんと人間が試食するそうです……だから、暴言です、ごめんなさい。
それとも、やっぱり人間だから、口にあわないのかにゃん。

2006年03月07日(火)



 「思考を読む眼鏡」

ぼくの持っている《ビビ・フリコタン》という漫画のシリーズに、素晴らしい発明の登場する巻があって、いつも夢見心地にさせられたものだが、万がいち相手がこの僕にたいしてそれをつかってきたときのことを考えると、とても恐ろしい気がするのだった。思考を読む眼鏡、というのがそれだ。
(エルヴェ・ギベール「思考を読む眼鏡」『幻のイマージュ』1995、集英社)

こんな眼鏡だったら、欲しいなぁ。
もし手に入ったら、真っ先に自分の思考を読んで、「自分」という名の謎を解いてみせるんだ!!

わたしがいまかけている「思考を読む眼鏡」は「言語」という眼鏡だ。でも、これで中心を見ようとしても眩しすぎて、なにも見えない。上記の眼鏡だったら、その思考の中心を直視できるのかもしれないな。褐色の眼鏡をかけたら、日蝕を眺めることができるように、まっすぐ中心へと視線を向けることができるのかもしれない。

そういう眼鏡が欲しいなぁ。



2006年03月06日(月)



 『尼僧の恋』

「何度も気が狂いそうになりました。
そのたびに神様にお礼を言ったのです。狂人は罪を免れるといいますもの……
                                        ―1856年2月8日」

「神様!神様!神様!……わたしを死なせて!地獄に突き落として!
激しい責め苦を身に受けるときの陶酔感、燃えるような歓びを、あなたは知るはずがありません……人を傷つけることができないゆえに、自分を傷つけてゆくのです……
                                           ―8月26日」

※「」部分、いずれもジョヴァンニヴェルガー『尼僧の恋』(扶桑社ミステリー、1994)より引用。


『尼僧の恋』を読みました。

マリアは汚い。汚くて、でも美しい。
修道女であることを理由に、自分の恋する想いを神への愛へすり替えてしまうマリアは汚い。それは汚い。誰かを好きになるのは罪ではないはずなのに(たぶん)。誰かを好きになってそれが叶えられないのは、マリアが修道女だからではないのだもの。(そういえば、『サウンドオヴミュージック』のヒロインの名前もマリアで、彼女も修道女見習いでした…でも、彼女は自分の神様を手に入れる)

彼女に罪があるとしたら、そうやって自分を偽り、神を謀ったことなのではないでしょうか?(でもそれは神を敬慕するゆえの美しい罪だとも思う)。
でも、マリアだって、マリアだって、ニーノと愛しあえれば、狂わずに死なずに幸せになれたかもしれないのです。マリアにとっての神様はニーノだったから。(それは、たとえば、貴下も知っているあの子もあの子もあの子もそうだったと…今さらながら思わずにはいられないのです…そうではないでしょうか?)

密やかな狂気と、そこに踏み込まずにはいられない情熱、そういうものを孕んでいないものを、恋だなんていいたくない。だから、マリアの精神は汚れながらも美しい。でも、その両極に同時に在らざるを得ないマリアの精神は、本来在りえないはずのもののひとつで、彼女をそう在らしめているのは、彼女の神への意思的な思いだから、だから、それがとても痛い。

※『尼僧の恋』、映画があるそうです。
観ていません。でも、映画のマリアは死なないようです。
マンディアルグ『オートバイ』の映画版と小説版のちょうど反対になりますね。


2006年03月04日(土)



 

ひとのかたちでいたくないのです、と云ったら「ひとのかたちをしているほうがいい」という言葉をもらう。



2006年03月03日(金)
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