37.2℃の微熱
北端あおい



 年末年始

会社納めの28日、すでに気分はわるかったのだけれど、
あまりに寒いので、ほとんど倒れそうになりながら、電気ストーヴを買って帰宅。 そのあと、年明けまで風邪でほとんど動けませんでした。
(なので、大掃除も年賀状も今年読んだ本の自己ベストもまだまだ)

今年はキャンセル待ちだったけれど、ぎりぎりでチケットがとれたので、帰省する予定だったのに…この体調で新幹線は無理、飛行機なんて致命的(それでなくてもわたしの内耳や外耳はすぐ炎症をおこす)。

パソコンもメールチェックなどはかろうじてして、 それでも、関節と悪寒でベッドから出ることもままならず、がんがん頭痛がするので読書も難しく、熱でうとうととはするのだけれど不眠症は健在で、 かといって、体力が落ちいるのと風邪薬をすでに服用しているので、睡眠薬を併用するのはちょっとこわい。

なので、なかなか手に取れなかったビデオテープをひっぱりだしてビデオ鑑賞。響きすぎないようヴォリューム抑えめで、半覚醒状態でみる映画のおかげで、お薬でぼぉっとしている頭がますます惑乱してきます。

真っ白いミツバチのタワーのような電気ストーヴの横でぬくぬくと現実と夢のキメラに抱かれて、夢をみていたような年末年始(でも、もう醒めた)。







2005年12月31日(土)



 午後の曳航

うごく体力すらなくて、ぼんやりLuis john Carlino監督『午後の曳航』 を鑑賞。
DVD鑑賞できる環境になりましたと言ったら、会社の三島由紀夫ファンの先輩が貸してくれたのだ。
「北端さんの好みじゃないかも」という但しつきで。



純粋であることは美しい、人間の本能の欲望肯定、弱肉強食賛美…。
展開される悪の論理がとても幼稚に見えてしまう。
『純粋』=『完璧』という思想に、なんだかなじめません。
『純粋』と『完璧』がイコールで結ばれてしまっているのにもとても違和感を覚えます。



でもなにより三島由紀夫はすべてがロマンチックすぎるのです。
それよりにゃんこが…解剖されてしまうシーンがショック。
映倫でも問題になったシーンとかで、あれでもカットされているの!?

なので、北端の好みではありませんでした…
せっかく貸してくれたのにごめんなさい、先輩。




2005年12月29日(木)



 

なにがわるかったのでしょう? いけなかったのでしょう?
わからないのです、こんなに考えているのに
苦しさから逃れたくて、こんなに後悔しているのに。

書けないくらい苦しいことは、こんなに身近にあって、
なんでもない日常の中に、無害な顔をして侵入してくる。

…眠りかけている記憶を揺り動かさないで。
刺激しないで…だめ、おきてしまう、おきてしまう。
このまま、目覚めないで…そっとしておいて…お願い…

2005年12月24日(土)



 プレゼント

最近のわたしは貴下をこまらせてばかりだ。
なのに、クリスマスプレゼントを貰ってしまう。
申し訳なさとうれしさで、今日のわたしはいっぱいいっぱいでこのままはちきれてしまえたらいいな。

いまなら、漲っているよろこびの分だけ、微塵もあとかたなく、
(それこそ空気とおなじくらいにまで)小さく小さくはじけ飛んでしまえるのに。

2005年12月23日(金)



 幸福

「世界にはまだまだ君がしらない
うつくしいものがたくさんあるんだよ」

素敵な曲を聴かせて貰って喜んでいると、
そう言ってもらえた。
まだ知らないものがあるという、このしあわせ。
嬉しい嬉しい。

だって、いまだに小さな子供みたいに、知らない世界への
憧れや期待感で胸がどきどきする一瞬の幸福があるのですから。






2005年12月19日(月)



 

ヴェイユの言葉が響く日はヴェイユを読む。


2005年12月18日(日)



 写真展

横須賀さんの写真展に行く。
ソラリゼーションで貌が半分鎔けている女性の写真になぜか惹かれて、
ぐるっと巡りおえたあと、しばらくその前で佇む。

わたしが怖がる恐怖には貌がない。
もっとも貌があれば、正体がわかるからそれは恐怖ではないのだけれど。



2005年12月17日(土)



 古本買い

今日は五反田古遊会。
会社のやすみをぬって、足をはこぶ(と、いっても会場は会社の裏だ)。

ぐるっとひとまわりしたあと、編集部のひとたちに会う。
だいたい趣味が似通っているので、つかずはなれずの距離を保ちつつ、
ちゃっかり古本指南はしてもらう。

図書館では何度も借りたけれど購入していなかったミルボー『責苦の庭』(国書刊行会)、エビング『異常性愛の心理』(ヒューマンライフ社)は図版に惹かれて、最期にたしか発禁本だったアラン・Z・ノールマン『十七歳』(二見書房)を購入。

また昨日は朝から図版探しで上智大学図書館へ。
チャリティサークルが恒例のバザーを開いていて、
ちょっと覗く。
古本がハードカバーで二百円、文庫が五十円くらいのお値段。
大學教授がいらなくなった蔵書をバザーに寄付したりすると、けっこう高価な本やおみかけしない学術系のものがあったり、洋書も結構な数があったりする。
以前、ディックの作品だから、と手にした中田耕治訳『宇宙の眼』はあまりみかけないものとのこと。なぜかそういうものがあって楽しいのです。
今回は、年末だからか本の冊数は少なかったけれど、
原民喜『夏の花』、モラヴィア『深層生活』、ベアトリス・ディディエ『Le Journal intime』の三冊を拾い上げる。

ふだんは日常の細々としたことを日記には書かないのだけれど、こうかいてみるのは『Le Journal intime』をぱらぱらと読んだからなのでした。

2005年12月16日(金)



 とける


一のなかへ溶けこんでいく瞬間の恍惚感。
世界とひとつになる全能感覚。
それは個でなければ何度も何度も味わえないもの。
個であるのは美しい必然。だから、個として在りつづけたい。
一から幾たびも身を引きはがすたびに、心も身体もばらばらになってしまいそうなく
らいの極限の苦痛を味わってもそれは二が一になるときの魂の止揚感覚や恍惚感から
くらべるとなにほどのこともない、ことを知っているのだから。
だから、いつもいつもその瞬間を熱望し、それを味わうためだけに、そのためだけに
生きようとおもった。そのような瞬間があるのならば、生きていてもいいと思った
(過去形、ということは、そういう瞬間に奇跡的にもう巡り会っている)。
生きながらにして、Thanatosへむかう欲望をぎりぎりのところで回避するために。
街をあるきながら、魂が溶ける瞬間をさがし求めている。

2005年12月14日(水)



 しばられたいのでは

しばられたいわけではないのです
抑圧されたいのでもなくて
自虐的にはなりたくない
すくわれたいというのはとても傲慢な気がする

ただ、うつくしさにふるえる瞬間にめぐりあいたくて、
もういちにちいきのびる出来事がほしかったのです
ほんのもうすこし強いちからでここに在らしめられたかっただけ
つなぎとめてもらいたかっただけ

ありがとう
薬よりよく効いています。
だって、微睡みかけていたなにかが、また醒めようとしているのですから。

2005年12月12日(月)



 

愛と畏れは、その源泉はおなじものかもしれないと
おもい、そうだったらどうしようとおもう。
だって、もっとも畏れているものを、いちばん愛している。
畏れがないものなんて、愛せない。
でも、そのふたつが、おなじものだとしたら、それは
喜びでもあり、恐ろしくもある。


2005年12月11日(日)



 おねがい

おねがいです、というと
それはだめ、どうしてもだめ、という。
ほんのすこしでいいのです、おねがい、といっても
そのひとはがんとしてくびをたてにふらない。
忘れないよう、見るたびに思いだせるよう、
きずをください、といいながら果物ナイフをわたそうとした。
なのに、それはしまいないさい、といわれてしまう。
それでも、望みをすてきれずにたちつくしていると、
そのひとのてがナイフをとりあげてわたしのかばんのなかにしまう。
じぶんをおさえるためにほしいのです、
もうくすりではきかない気がするのです、というと、
じゃあ別の方法で、とそのひとはいってとてもやさしいやりかたで、
傷をつける。
そうしてもらっているあいだ中、そのひとはほんとうは
そうしたくないのだというのが苦しいくらいにつたわってくる。
後悔と自分の欲望にひき裂かれて、泣きそうになる。
そのひとをこまらせたくなくて、もらうはずの傷だったのに、
よけいに酷いことをした罪悪感。

傷跡は、一日たったらほとんどきえてしまったけれど、
テープを再生するかのように記憶を何度も何度も巻き戻す。
罪悪感が擦り切れるまでずっと。

2005年12月10日(土)



 バランス

自分を抑制できず、痛みにすがる。
お願いした相手の人は迚も優しくて、
もうその痕はほとんど残っていない。
肉体に与えられなかった苦痛は、
かえって想像力で補強と増幅を施される。
思考の限界を超えて、精神に跳ね返ってくる苦痛は、
わずかの差で快楽に転換されずに恐怖になってしまう。


2005年12月07日(水)



 出版記念パーティ

出版記念パーティに出席。
神保町までおでかけ。
(つづく…!?)



2005年12月01日(木)
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