37.2℃の微熱
北端あおい



 アビシニアン

たぶん、公園で過ごす四度目の冬。
高齢のアビシニアンに、この寒波はこたえた。
わたしはずっと抱きつづけた。
温めつづけた。
私の肉体が猫の寝床だった。
ずっとそうだった気がする。
アビシニアンのからだがこわばる。
わたしは離れない。
アビシニアンの口から、甘いにおいがする。
わたしは予感に慄【ふる】えるが、悲しみはない。
わたしたちは、充実して生きた。
どこに不幸がある? どこに悲しみが?
わたしに悔いはないし、もちろん、猫にも。

(古川日出男『アビシニアン』幻冬舎、2000)

2005年05月31日(火)



 DIGNITAのマスカラ

泣いてもまったく滲まないと噂のマスカラをようやく入手。
2000年発売のロングセラー、SHISEIDO、DIGNITAのマスカラ。

まつげが針のようにぱきぱきのつんつんになります!
落とすときには専用クレンジングが絶対必要!!

なので、期待は大。
今度こそ涙にも耐えうるマスカラでありますように。
涙腺が脆くなっているいまのわたし、頼むよーとちょっと縋る気持ちなのです(パンダ顔になるのはやっぱり嫌)。

2005年05月29日(日)



 人形

やっぱりわたしは人形になってしまいたいのです。
いいえ、「可愛らしい」人形というのではなく「異形」の人形に、ひと以外のなにかになってしまいたいのです(でも、そうするとますます処分なぞして貰えなくなってしまうでしょうか)。

だから、わたしはわたしの意志でできるだけそうなろうと思ったのでした。
でも、わたしは弱いのですぐそれを忘れてしまう。
わかっている、それではだめ。そうしてはいけない。
忘れてはいけない。忘れそうになったら、忘れた後でふいに襲ってくるあのこわさを思い出すことにするのです。

ええ、わたしは人形です。
だから、なにもこわくないはずです。
だから、いつもどおり眠って起きて、明日は電車に乗って会社に行き、にこにこ笑いながら元気に仕事をこなせばよいはずです。
もう、わたしの醜い欲望や意志で、これ以上だいじなものを汚したりしないですむのです(これは最期の願いです)。
もうなにも心配することはないはずです。

この意志だけは貫けるよう、誓います(もういちど)。

2005年05月22日(日)



 ビューティフル・ドリーマー

夜の赤坂の路地に風鈴屋。
りーんりーんと耳にこだまする涼やかな音に、おもわず立ち止まる。
「ビューティフル・ドリーマー」(押井守、1984)のワンシーンが脳裏をよぎる。
白光のなか、影絵のように黒く浮かび上がる家々のあいだのせまい路地を横切っていく風鈴屋台、時間が止まった世界で、無数の風鈴が鳴りつづけるあの場面。
そう、思い出した。
あのシーンを見たとき、世界に対する距離感が失われ、同時に夢と現実の境界線もわからなくなっていく、あのふしぎな感覚をわたしもはっきりと思い出したのだった。そして、そのふしぎな感覚のあとで、ふいに怖ろしさに襲われる。
わたし、どこにいるの?(ここはどこ?)
わたし、どこにいたらいいの?(ここはいるはずのところじゃない?)
ここは夢と現実どちらなのでしょうか? それともどちらもおなじ?
風輪(風鈴のルーツという説がある※)は、仏教の世界観では世界を支えている最下底の層だという。
そうならば、あの風鈴の音は遠く世界の底から響いてくる音?
では、その音を聴きながら世界の底にたどり着き、この眠りからはやく醒めよう。

「この風鈴、ください」
「はい、いい音するよ。初夏の昼寝にはうってつけ」

※風鈴は、古い塔堂伽藍の軒裏の隅々に釣された「風鐸」(風輪とも言う)の涼しい音色をもとに作り出されたと言われている。


■その2

『お兄ちゃん、どうしても帰りたいの?』
『お兄ちゃんはね、好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ。わかんねえだろうなぁ。お嬢ちゃんも女だもんなぁ』
『教えてあげようか?』
『えっ!? 知ってんの? 現実へ帰る方法を知ってんの?』
『誰でも知ってるよ? ただ、目が覚めると忘れちゃうの。こうやって、ここから飛び降りるの。そして、下に着くまでに、目が覚めたらどーしても会いたい人の名前を呼ぶの。名前が呼べない人は、きっと目が覚めるのが嫌なのね』
(『ビューティフル・ドリーマー』押井守、1984)

飛び降りたいのに、でもまだわたしは呼べる名前を持ってはいない。呼べないまま、飛んだとしてもきっとまだこの眠りのなかにいる。目覚めたいのに、まだ夢を見ている。
ここを読んでくださっている貴下、貴下には呼びたい名前がありますか?


2005年05月21日(土)



 パニック

■その1

ただでさえいろいろあって胸が鬱いでいるというのに、痴漢にあってしまいました。
硬直していると、酔っ払っているのか、にぎやかにこちらに歩いてきた人たちがいたので、痴漢は逃げて行ってしまいました(痴漢が出るような道じゃないのに)。
でも、怖くて駅からでられなくなってしまいます。
痴漢されたこと、した犯人が怖いだけじゃなくって、
それが引き金になって、それでなくても不安定な自分をコントロールできなくなりそう。

それがいちばん怖い。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
胸がどきどきして、頭が真っ白になってしまって、その場にうずくまったまま動けません。
そのうえ、それでなくてもゆるかった涙腺に歯止めがきかなくなってしまいました。でも、頭の隅っこのほうは妙に冷静で、あしたはS先生の宴だから、泣きやまないと顔がひどいことになるとか、そんなことを考えているのです。

でも、怖い。
怖い。
怖い。

 こんなときに痴漢にあってしまう自分が情けなくて許せなくなる。どこがいけなかったの。
なにがだめだったの。
スカートだったから?
それともどこかに隙があった?
そうやって自分を責めて、責めて、責めてしまいます。
 でも、もちろん(とくに)痴漢などの性的な暴力に関しては、被害者にも非があるという論理展開は成り立たせてはいけないのです。
 誘っていた、とか、そんな格好をしているのが悪い、などというのは、お前が女だからしょうがない、と言われているのとほとんど同じ。
 だから、きちんと怒りをもたないといけない。
怒らないといけない。
 こんなとき、自分を責めてしまうのがいちばん悪い。
経験上わかっているのに、頭の中ではわかっているのに。

こんなとき自分を責めるのは駄目だってわかっているのに。
ほかの女の子が痴漢にあったなんて、相談にきてくれたときには、正しく怒ることができるのに。
たくさん性犯罪やトラブルの本だって読んで、どの本も貴女は悪くないのだと教えてくれた。

けれど、ちいさいときから身近で受けてきた悪しき教育は習慣化していて、そう簡単に消え去ってはくれない。

怒るより先に、自分が消えたくなります(でもこれは、死にたくなる、というより消極的)。

感情が麻痺してしまう薬が欲しい。
欲しいです。

■その2

パニックになりながら、電話で命令をしてもらいます。
「ちゃんと帰って眠りなさい」

はい、帰ります。
帰って眠ることにします。
明日のために。
ちゃんといい薬ももらったので、大丈夫です。大丈夫。


2005年05月18日(水)



 13階からの景色

夜中、高田馬場のとある場所に行く。
先月から数えて、4回目。

地上から、13階ものぼると車の音も街の光もとても遠くに在るようで、ここから見る景色は綺麗。
綺麗だと思う。

だから、もっと遠くへ行きたくなってしまう。

2005年05月13日(金)



 太宰治『お伽草子』

言葉といふものは生きている事の不安から、
芽ばえて来たものぢゃないですかね。
腐った土から赤い毒きのこが生えて出るやうに、
生命の不安が言葉を醗酵させているのぢゃないですか。
よろこびの言葉もあるにはありますが、
それにさへなほ、
いやらしい工夫がほどこされているぢゃありませんか。
人間はよろこびの中にさへ、
不安を感じているのでせうかね。
人間の言葉は工夫です。気取ったものです。
不安の無いところには、
何もそんな、いやらしい工夫など必要ないでせう。

(太宰治「お伽草子」『太宰治全集 7』筑摩書房、1990)

2005年05月09日(月)



 澁澤誕生日

澁澤龍彦氏の誕生日に乾杯。

女を一個の物体【オブジェ】に出来るだけ近づかしめようとする「少女コレクション」のイマジネールな錬金術は、かくて、究極の人形愛にいたって行きどまりになる。
ここには、すでに厳密な意味で対象物はないのだ。
ポーのように、死んだ者しか愛することのできない者、想像世界においてしか愛の焔を燃やそうしない者は、現実には愛の対象を必要とせず、対象の幻影だけで事足りるのである。
幻影とはすなわち人形である。
人形とは、すなわち私の娘である。
人形によって、私の不毛な愛は、一つのオリエンテーションを見出し、私は架空の父親に自分を擬することが可能となるわけだが、この父親には、申すまでもなく、社会の禁止の一切が解除されているのである。

(澁澤龍彦『少女コレクション序説』中公文庫、1985)

このような人の娘になれたら、と夢想する。

2005年05月08日(日)



 あるひとへ/ごーふる

あるひとへ

 ごーふる、ちいさいときから大好きなのです。
うすくてあまくてかるくて美味しいから。
はんぶんあげようかって、いってくれてありがとう
(こちらもちゃんといただきました)。
 でも、ごーふる大好きなのでうなずきそうになってしまいそうだったのでした(よくばり)。

 ところで、ごーふるをぱりぱりたべながら思い出しました。詩人・歌人の穂村弘さんの作品にこんなにすてきなごーふるのうたがあります(ご存じ? 知っていらっしゃるのなら、…でも、もういちど読んでも素敵ですね、ね)。

「自分の吐く白い息。思い出した。
楽しかった。転んで氷に手をついたまま、はあはあいうのも楽しかった。
そうだ、俺たちは、俺は、つるつるでごーふるだったんだ、最初から。
そして、そしてホチキスの…。」
わたしは言葉を切って、深呼吸した。こわかったのだ。

「そして、ホチキスの針の最初のひとつのように、
自由に、無意味に、震えながら、光りながら、ゴミみたいに、飛ぶのよ。」
と、女は笑った。
私も笑った。笑うより他なかったのだ。

(穂村弘「ごーふる」『シンジケート』沖積社、1990)

 このうたを片手にごーふるをぱりぱりたべています(最初はチョコレェト味にしました)。
ホチキスの針みたいに光ってとべたら、それはそれはもうすてきでしょうね。
 ところで、そちらはもう、ごーふるは召されましたか?


ついしん
穂村さんの本では『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』(小学館、2001)がすてき。
たとえば、こんな歌があって。

・可能性。ソフトクリーム食べたいわ、
ってゆきずりの誰かにねだること

・「殺虫剤ばんばん浴びて死んだから
魂の引取り手がないの」

・早く速く生きているうちに愛という言葉を使ってみたい、
焦るわ

・神様、いまパチンて、まみを終わらせて
(兎の黒目に映っています)

・なんという無責任なまみなんだろう
この世のすべてが愛しいなんて

なんて、きらきら鋭い歌ばかりで、どきどきします。
 
・夢の中では、光ることと喋ることは同じこと。
お会いしましょう

 では、またお会いしましょう。

2005年05月07日(土)
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