月に舞う桜
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便利さは、これまであった格差を解消するものであってほしい。でも、新しい便利さが導入されることで、マイノリティがそれまで使えていたツールを奪われて、むしろ格差が広がってしまうこともよくある。
今日は、久しぶりに独りで買い物に出掛けた。独りで街を気ままにうろつける時間は貴重だ。 最近、セルフレジが多くなった。私は自分でセルフレジを使えないので、有人レジに並ぶ。が、今日行ったお店は、とうとうセルフレジのみになっていた。 レジスペースに店員さんが一人常駐しているので、頼めば代わりにセルフレジをやってもらえる。だから、実質的には買い物に困らない。 でも、お店を出てから、私はひどく悲しくなって、打ちひしがれてしまった。 有人レジでは、私と健常客との間に格差はほとんどない。 (有人レジで健常者との格差を感じる人もいると思う。あくまで、「私の場合は」だ) ところが、セルフレジしかないと、途端に私は特別な計らいが必要になる。 私が打ちひしがれたのは、たぶん、自分が「できない人間」であることを思い知らされたからだ。 店員さんはとても親切で、私が頼む前に「やりますよ」と声を掛けてくれた。とてもありがたい。 一方で、しじゅう他人の善意や優しさに頼らないと生活できないのだという現実を、思い知らされた出来事でもあった。 いつもいつも他人の善意や優しさを当てにしないといけない自分の人生が、私は煩わしい。 そんな思いをしないで済む快適さと自尊の保障、そのための文明であり便利さであり、技術革新であるはずなのに、かえって他人の善意や優しさの必要性が増してしまう。 店員さんに頼めばやってもらえるから何も問題ないだろという話ではない。 いままでなら人を頼らずとも自分でできていたのに、使えるツールを奪われたことで、障害が発生してしまう。自分自身は何も変わっていないのに。 これは、自由と便利さの剥奪であると同時に、尊厳の剥奪の話だ。 できる人間の便利さの影で、いままで格差なくできていたことも、できなくさせられる人間がいる。 お店のせいでも、店員さんのせいでもないことは分かっている。社会の構造と流れのせいなのだ。
無機質な便利さがほしい。善意に窒息させられそうだ。
独りでいる孤独より、誰かといて感じる孤独のほうが耐えがたい。
独りでいて何の問題もなく過ごせる場所なら、どこだって自分の居場所になるが、誰かといて、あるいは他人たちに囲まれて、少しでも孤独や隔たりを感じると、そこはたちまち私の居場所ではなくなってしまう。
だから私は、独りで部屋にいたり、電動車椅子で難なく動ける雑踏を独り気ままに歩くのが好きだ。
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