月に舞う桜
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今年は、読んだ本を月ごとに記録していくことにする。
★合計15冊 ・綾屋紗月編著『ソーシャル・マジョリティ研究』 ・横溝正史『犬神家の一族』 ・堂場瞬一のタイトル未定の小説 ・平野啓一郎『ドーン』 ・赤川次郎他『1日10分のごほうび』 ・東野圭吾『名探偵の掟』 ・鈴木邦男『〈愛国心〉に気をつけろ!』 ・横溝正史『女王蜂』 ・村田沙耶香『殺人出産』 ・コレッタ・スコット・キング編『キング牧師の言葉』 ・村田沙耶香『消滅世界』 ・横溝正史『悪魔が来りて笛を吹く』 ・東野圭吾『名探偵の呪縛』 ・東野圭吾『怪笑小説』 ・村田沙耶香『変半身(かわりみ)』
2021年01月23日(土) |
【本】村田沙耶香『消滅世界』 |
村田沙耶香『消滅世界』(河出文庫)読了。
これまで読んだ村田作品の中では、この本の表紙が一番好きだ。薄い灰色の背景に、白い女性が横向きに立っている。そして背中からは、やはり真っ白な、脊椎のようなものが天に向かって伸びている。
村田沙耶香の小説はたいてい、最後の20〜30ページで狂気が加速する。物語の中盤で不快な気分になることも多いのだが、終盤で加速する狂気に強烈なカタルシスを感じる。それが、癖になる。
もう一つ、村田沙耶香の小説の魅力は、「正常」を発狂の一種と捉えている点だ。 「正しさ」「正常」って、いったい何なのか。
例えば、
「正常ほど不気味な発狂はない。だって、狂っているのに、こんなにも正しいのだから。」(P248) 「洗脳されていない脳なんて、この世の中に存在するの? どうせなら、その世界に一番適した狂い方で、発狂するのがいちばん楽なのに」(P263) 「世界で一番恐ろしい発狂は、正常だわ」(P264)
私は結局のところ、村田沙耶香の小説のこういうところが好きで、読むのをやめられないのだ。
実験都市「楽園(エデン)」では、すべての大人は男女を問わず、すべての子どもの「お母さん」で、生まれた子どもたちはみな、すべての大人の「子供ちゃん」だ。 そこはいわばカルト村なのだが、国策なのでカルトとは見なされていない。「楽園」はそのうち他の地域にも広がり、やがて日本中を(世界中を?)覆い尽くすのだろう。そうなれば、「楽園」のあり方こそが正真正銘、「正常」となるのだろう。 かくして、人間はある発狂から別の発狂へと移行する。
私は、常識的な人間であるかのように生きているけれど、ずっと、自分には何か決定的に欠けているものがあると感じてきた。この世界のあり方に対する、どことない馴染めなさ、みたいなもの。 でも、私も世界も絶対的に正しいわけではなくて、どちらもそれぞれに発狂しているだけなのだろう。
『殺人出産』と『消滅世界』を立て続けに読んでみて、不可解なことがある。 性や家族、結婚の形が解体され、別のあり方が提示されるのだが、子どもを作って生むことだけは相変わらず続くのだ。 「男女が結婚してセックスして子どもをもうける」という従来のシステムは過去のものとなり、生殖の方法が変わっても、生殖そのものに対する批判や懐疑は見られない。
「現実ってハードじゃないですか。少しも魂を休ませる場所がなかったら、壊れちゃうんですよ」と言う登場人物が、子どもを持つことを強く望んでいる。そのことに対する批判的視点はない。
『殺人出産』や『消滅世界』より前の『タダイマトビラ』でも感じた違和感だが、現行の家族システムの呪いや欺瞞は語られるのに、子どもを生み出すことの是非は検討されない。 子どもは、自然に流れ出す経血とは違い、人間の意思の元で作られ、生み出される。そのことの責任については、語られない。 『消滅世界』よりあとの作品『地球星人』では、「私たちは労働と生殖の道具である」と語られるが、それはあくまで生殖する側への眼差しであって、生み出される子どもへの視点はない。
『殺人出産』でも『消滅世界』でも、性や生殖のあり方が変われば変わるほど、家族システムが解体されればされるほど、生殖=命をつなぐことへの執着が、むしろ強くなっていくように見受けられる。 生殖は、唯一の変えがたい「正常」であるかのように。 解説で斎藤環は、「楽園」には女性しかいないとうようなことを指摘していたけれど、女性しかいないのではなく、「母親しかいない」が正しい。女性と母親はイコールではない。 「楽園」では、男女を問わず大人は誰もが「お母さん」だ。生殖と、「子供ちゃん」に「愛情のシャワーを注ぐ」(=愛玩動物のようにかわいがる)ことが、大人たちの使命なのだ。かと言って、子どもたちを心から愛し、責任を持って育むわけではない。 私は、この生殖への執着と子どもへの責任感の欠如に、一番、ディストピアを感じる。
2021年01月22日(金) |
小説タイトル募集企画に応募 |
堂場瞬一の最新作のタイトル募集企画に応募した。 『小説現代』2020年12月号に、堂場瞬一の小説がタイトルなしで掲載されている(雑誌では作者名も伏せられていた)。その小説が今年5月に刊行予定だそうで、著者のデビュー20周年を記念して、タイトルを公募することとなったらしい。 この企画を年明け早々に知り、Amazonで当該『小説現代』を買った。小説全文がWebでも期間限定公開されているけれど、長編はやっぱり紙のほうが読みやすい。
初見はストーリーを知るために読み、二度目は、タイトルを考えるためのキーワードとなりそうな語句に赤線を引きながら読んだ。 並行して、堂場瞬一のタイトル付けの好みと傾向を知るべく、Wikipediaで彼の過去作品のタイトルをチェックした。また、今回の小説がジャンルとしてはハードボイルドなので、参考までに、北方謙三やレイモンド・チャンドラーなどの作品名一覧もざっと目を通してみた。
タイトル案を三つまで応募できるのだけど、いくつか候補を考えた中で、どの三つにするか散々悩んだ。どれも甲乙付けがたいから、というわけではなく、どれも「これだ!」と自信を持つことができず。 結果はどうなるだろうか。選ばれたら嬉しいけど。
2021年01月18日(月) |
【本】村田沙耶香『余命』 |
村田沙耶香『殺人出産』(講談社)読了。
表題作よりも、最後に収録されている、たった4ページの短編『余命』がとても良かった。 医療が発達して、病死も老衰も事故死も他殺もない世界。 死は自然にはやって来ないので、みな、「そろそろかな」と思った好きなときに好きな方法で死ぬ。 200歳生きて、まだまだ生きたいと思う人もいれば、10歳くらいで「そろそろかな」と思って死ぬ子どももいる。 役所で蘇生拒否手続きをして死亡許可証を貰うと、薬局で死ぬ薬も買える。苦しまずに死ねる。 本屋には、様々な死に方を指南した本が並ぶ。 不死の時代が来るなんて絶対に嫌だと思っていたけれど、意に反した死はなく自分で死ぬタイミングと方法をコントロールできて、しかも他人からとやかく言われず協力してもらえるなら、それはいいな。 好きなときに好きな方法で苦しまずに死ねる世界は、理想郷。
『殺人出産』に収録されている中では、『余命』の他に『トリプル』も良かった。 しっかり村田沙耶香ワールドでありつつ、恋愛小説の要素が多分にあって。
新型コロナが蔓延し、そうでなくても様々な差別や搾取や抑圧や困難が溢れる今、新成人に贈るべきは「誰かのせいにするな、批判するな」ではなく、むしろ「あなたの困難はあなたのせいではない」「なぜ現状がこうなのか社会構造を見極め、批判すべきことを批判する力を共に身に付けよう」だと思う。 新成人の中には、ヤングケアラーもいるだろうし、虐待や搾取から逃れられずに苦しんでいる人もいるだろうし、仕事を失って衣食住にも事欠いている人もいるだろうし、根強い差別に脅かされている人もいるだろう。 何かを発言するなら、そういう人たちのことこそ、念頭に置きたい。
2021年01月11日(月) |
【本】平野啓一郎『ドーン』 |
平野啓一郎『ドーン』(講談社)読了。
昨年末に読んだ『決壊』は絶望的にかなしかったが、『ドーン』はその先に希望が見える物語だった。 100年後のような遠い未来ではなく、2030年代という、現在と地続きに感じられる舞台設定が良い。 現実の黒人差別や同性愛者差別や米大統領選挙などのあれこれに考えを巡らせつつ読んだ。
喪失からの回復、差別、悪と恥、遺伝と環境、監視社会、誰が誰を戦争に行かせているのか、“ここ”を抜け出して遠くへ行くこと、異性愛者が「あなたは同性愛者か?」と訊かれたときの答え方の難しさ……etc. 生きていく上での、あるいは社会にある、多くの問題を物語の中で無理なく提示する手腕に相変わらず唸らされる。
「役に立つから生きていていいわけじゃない」というような、最近よく目にする(だから手垢の付いた印象も否めない)一文も、凝った比喩表現や文章構成の中に突然ぽんと出てくると、ひときわ輝きを増して見え、真実さが強固になる。 また、「能力があるのにマイノリティゆえに排除される」は描かれやすいけれど、その側面だけでなく「適性がないのにマイノリティゆえに政治的に利用されて持ち上げられ、潰れてしまう」という不幸にも光を当てているところが、さらに一歩踏み込んでいて好ましい。
人生を突き詰めすぎると、誰かを殺すか発狂するか、自殺するしかなくなる。だから、生き延びたいなら、ときどきは物事を軽薄に考えることも必要だ。 何百ページもかけて綴られた出来事を今日子の友人がたった6行にまとめてしまったように、ああいう、ある種の軽薄さが必要なのだと思う。結局のところ、何でも、「それだけのこと」だったりもするのだ。
「個人」の中には対人関係ごとに異なる人格「分人」が存在するという考え方は、自分の日常生活に照らしても無理なく受け入れられる。 が、あまり分人というものを考えすぎると、近しい人の、自分には見せない分人が気になってしまうということもあるのではないか。
2021年01月10日(日) |
今年もそんなに良い年ではないよ、たぶん |
LINEでの年始挨拶などで、「去年は大変な一年だったけど、今年は明るい年になりますように」と散々言った。 でも本当は、今年もそんなに良い年ではないだろうと予想している。 心底そう信じているというよりは、あえて悪い予想を立てておくことで、自分の心を守っている。 感染者数が増え続けても、緊急事態宣言が出ても、それほど動揺せず「まぁ、そうだよねー」と平静を保てる。 良くない事態が起きても心が折れないようにするためには、事前に良くない事態を想定すること、あまり良い未来を思い描かないことが大事なのです、私にとっては。
年始だし、他人には明るい言葉を投げかけた方が良いかと思って「今年は良い年でありますように」と挨拶したのだが、もしかすると友人たちの中にも「今年もあまり良い年じゃないだろう」と思うことで心を守っている人もいるかもしれない。 お互い本音を隠して社交辞令で明るいことを言っただけだとしたら、ちょっと申し訳ない。
2021年最初のライブは、スピッツだった。 去年、有観客で行われたライブ「猫ちぐらの夕べ」のオンライン上映。 スピッツのライブを観たのは初めてだ。コロナが明けたら、いつか、配信ではなくライブ会場に行ってみたい。
メンバーの仲の良さがうかがい知れたり、50歳を過ぎても草野さんの歌声がまったく変わらないのがすごいなあと感心したり。 秋冬には、特に聴きたくなる声である。
2021年01月02日(土) |
【本】綾屋紗月編著『ソーシャル・マジョリティ研究』 |
綾屋紗月編著『ソーシャル・マジョリティ研究』(金子書房)読了。
コミュニケーションにおける多数者(ここでは定型発達者のこと)が暗黙のうちに共有している会話のルールや感情の仕組みなどを、各分野の専門家が紐解いている。 コミュニケーションという意味においては、私は多数者側だが、無自覚のルールをこうして明確に言語化されると「なるほど、そうだな」と頷くことが多く、学ぶことも多い。 多数者は、自分が日々おこなっていることを「当たり前」と思い込んでいるので、なぜ?と聞かれても自分でもきちんと説明できない。そうして無意識・無自覚でいられることは、多数者の特権だ。 あと、コミュニケーションは、心理的な側面よりも手前の身体的特性によっておこなわれ、身体特性によってコミュニケーションの仕方が変わってくるのだということが、この本を読むとよく分かる。 人の気持ち、発話や聞き取りの身体的メカニズム、会話のルール……など章に分かれているので、興味のある分野の章から読むのも良し。
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