月に舞う桜

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2020年01月29日(水) 社会構造と共に主体も見失わないように

差別を個人対個人の話ではなく、社会構造の問題として捉えることは重要だ。
けれども、社会構造は自然発生的なものではなくて必ず主体が存在するし、もちろん差別の主体も存在する。
だから、その主体が何なのか(誰なのか)はうやむやにせず、きちんと見ていかないといけないと思っている。


2020年01月25日(土) 役立つ

一人で外出中に見知らぬ人から「いまお時間ありますか?」と声をかけられたら、何かの勧誘か、あなたのために祈らせて下さい系の人かと思って、警戒オーラ全開にする。
でも、いつだったか結構前に、そういうふうに声をかけられて一応話を聞いてみたら、電動車椅子について質問された。ご家族が半身麻痺か何かで、電動車椅子を考えているという方で、購入方法やメリット・デメリットなどを聞かれた。
私も時間に余裕があったので、聞かれたことに答え、あれこれ説明した。そうしながら、冷たくあしらわなくて良かったなあと思ったのだった。


2020年01月23日(木) マイノリティの犠牲の上に

やっぱりこの社会は、マイノリティに犠牲を強いることで成り立ってるんだなあ。
表面的にはマイノリティへの配慮を装いながら、実はその “配慮” 自体がマイノリティにNOを言わせないからくりということもある。

私も、マジョリティの立場であるとき、マイノリティに犠牲を強いてるんだろうな。
だから、自分がマジョリティの立場である事柄にこそ、敏感でいなくちゃいけないなと思う。


2020年01月20日(月) 診断がないと支援されないということ

障害者手帳の取得や福祉サービスを受けるための医療診断は、基本的には「できない」を証明するものだ。
日常生活での実際は「できる」と「できない」にきっぱり分かれるわけじゃなくて、その間に「○○を使えば/○○を工夫すれば出来る」がある。
けれども、医療診断では、それも含めて「できない」にカウントされる。
「できない」を証明するための質問や検査は、結構自尊心を削られる。

「医療から診断を受けないと支援を受けられない」
「定義に当てはまる人しか支援を受けられない」
「定義に当てはまることを、支援を必要とする側が証明しなくてはならない」

ここら辺の問題は、立岩真也先生の本でも指摘されていた。


◆野口晃菜さん @akinaln のツイッターより
https://twitter.com/akinaln/status/1216878287189729280?s=20
「「医療から診断を受けないと支援を受けられない」ってのは本当に変えていきたい。」


2020年01月19日(日) インクルージョンなのか、同化なのか

私は、小学校からずっと普通級で育った。
いろいろな配慮を得られたし、わりあい分け隔てなく処遇してもらえた。
それでも、いま振り返ると、私が健常者の世界に過剰適応した上でのインクルーシブだったようにも思う。野口さんの言う「異質と対話」というより、同化に近かったのではないだろうか。

同じクラスだった友人に、大人になってから障害者を取り巻く社会の現状や将来への不安を話したら、「弓月ちゃんとは何の問題もなく一緒に育ってきたから、そんなに大変だとは思わなかった」という趣旨のことを言われて愕然としたことがある。
当時から大変だったし、何の問題もないわけないのだけれど、同じ場所にいても、マジョリティの立場では見えないものがたくさんあるのだなあと感じた。

私は学校環境にとても恵まれていたと思うし、あからさまな排除というほどの目には遭わなかったけれど、友人のあの発言以来、インクルーシブっていったい何なのかと考えてしまう。
もちろん、基本的にはインクルーシブは良いことだし、目指すべき方向ではあるのだけれど。

いろいろな立場の人が同じ空間に当たり前のように存在することは、望ましい。
でも、それだけでは、その奥にある社会構造の不均衡にまでは思考が繋がりづらいのかもしれない。
当たり前のように一緒にいることで、逆に「何の問題もない」と思わせてしまうのだとしたら、その空間のあり方には何か問題があったのではと考えずにはいられない。

そう言えば、去年行った合理的配慮と障害者差別解消法の講演会で、インテグレーション(統合)とインクルージョン(包摂)の違いを教わった。
インテグレーションは、”健常者に合わせられる障害者だけ入れてあげるよ” だと。
インテグレーションって、「同化」に近いのかなあ。


◆野口晃菜さん @akinanl のツイッターより(連続ツイートの中の1ツイート)
https://twitter.com/akinaln/status/1215070930742824960?s=20
「通常学級に在籍していても、交流および共同学習の頻度を増やしたとしても、通常教育そのものに「異質と対話」できるキャパシティや志向性がないと逆に排除が進む。」


2020年01月14日(火) けりというか、区切りというか、そんなようなもの

以前は、部屋にX JAPANのポスターを2枚と、YOSHIKIのポスター1枚を貼っていた。
1年くらい前、X JAPANのポスター1枚とYOSHIKIのポスターを剥がした。
そして今日、唯一残っていたX JAPANのポスターの角がぺろんと剥がれたのを機に、それも取っ払ってしまった。
それは、単にポスターを剥がすという意味合いだけではなく、私の中では一つの区切りだった。

1994年から2017年まで、私にとってX JAPANは、他の好きなアーティストたちとは一線を画す大きな存在だった。
生かされ、支えられ、エネルギーをもらってきた。彼らの曲を爆音で聴いていると、体中の血が勢いよく駆け巡り、自分の中に眠っている力が目覚めるように感じた。
まだかさぶたになっていない生々しい傷をえぐって血を流すことで、逆に癒やしていくような、そんなところが好きだった。
不安は涙に、かなしみは怒りに、怒りはパワーに、絶望は希望への入口に変わっていった。

X JAPANの熱烈なファンを「運命共同体」と呼ぶ。
「あぁ、私はもう、運命共同体ではなくなるんだろうな」と思う瞬間、きっかけが、たしかにあった。
そのほんの2年くらい前までは、まさかそんな日が来るとは微塵も予想していなかったので、驚いたことは驚いた。
でも、全然、さみしくも悲しくもなかった。

たぶん、私が変わったわけでも、彼らが変わったわけでもない。変わったのは、魔法の力だ。
2017年以前も、もやもやすることは、実は何度もあった。けれど、彼らの圧倒的なエネルギーを前にすると、そんなもやもやがどうでも良くなる魔法にかかった。
ある要因があって、その魔法の効力が切れてしまった。

曲自体は、今でも好きだ……たぶん。
でも、以前のように、あんなにまで熱狂することは、もうないだろう。
ずっと出ないままのアルバムが出たら、きっと買う。Toshlが長い長いレコーディングを頑張った成果であり、魂の歌声の結晶だから。
ライブがあったら……どうするかな。行くのかな。行かないかな。

「今までありがとう」って言うべきなんだろうな。

今までありがとう。
ばいばい。

何歩か引いて、遠いところから、見たり見なかったりするね。

メンバー全員が写っているジグソーパズルは、まだ飾ってあるんだけどね。せっかく完成させたからね。


2020年01月10日(金) 集合の号令に乗っからなくても

昨年の紅白でMISIAがレインボーフラッグとともに出てきたのを、私は単純に「良いな」と眺めていた。
でも、ツイッターで、当事者の「番組構成のせいで、レインボーフラッグがマジョリティによって奪われたように感じた」という趣旨の意見を目にして、なるほどなと。

私はセクシャリティに関しては完全なマジョリティなので、良いとか悪いとかジャッジすべきではないし、自分の感想はあるにしても、まずは当事者である人たちがどう感じたのかを知りたいと思った。
ネットには、あの演出に力をもらったという当事者の声も、もちろんあった。

これは紅白やMISIAへの批判ではなくて、一般論として日頃考えていることなのだけど、自分がマジョリティであるとき、マイノリティの言葉やアイコン等々を収奪しない、彼らの代わりに何かを語らない、を肝に銘じている。それは、口をつぐんで無関心でいるということではなくて、マイノリティである当事者がどのように考えているのか、まずは黙って見ることも大事ということ。
だから、あの演出・番組構成について、マジョリティの立場で無邪気に「良かった♪」と発信する前に、当事者の様々な感じ方を知ることができたのはよかったなと思う。

シェアしたマサキチトセさんのコラムは、当事者として、この件に関してまた別の視点から書かれている。

私の個人的な話だけど、障害者団体に馴染めず、カテゴリーで言ったらそっちの枠なのに、馴染めない私はもうあそこに行ってはいけないんじゃないか……などと考えていた昨年末。

マサキさんのコラムの、「3−5、集合」の号令に乗らなくていい、乗らなくてもあんたは3−5だよ……のところに勝手に救われている。

この社会で生きていくためには、連携が必要だ。
でも、連携は、全体主義に陥る危険性もはらんでいる。
たぶん、どんなコミュニティにも――全体主義的なものに抗おうとするマイノリティのコミュニティでさえ――全体主義的な側面は生まれてしまうんだろう。
その危険性を意識しつつ、集合の号令に乗っからず、なおかつ「3-5」でい続けること……難しいけれど、私も、「3-5」でいていいよね。


◆「MISIA、かっけー!」だけでいいのか 紅白に突如現れたレインボーに感じた興奮と戸惑い(2020.01.07 WEZZY)
https://wezz-y.com/archives/71794

「私たちは紅白であのレインボーが出てきた瞬間、「3−5、集合」の号令に、既に心をかき乱されていたんだ。その呼びかけに、乗りたい、乗りたくない、乗らなくちゃ、乗りづらいな、乗ったらどうなるかな、乗らなかったらどうなるかな、と焦る私たちに、「あれには乗らなくていいんだよ」、「あれに乗らなくてもあんたは3−5だよ」と肩を叩いて落ち着かせてくれたのは、国家主義的な番組構成にレインボーが含まれたことに対して疑問の声をあげた人たち、つまりまさにかれらの言うその「文句」だった。」


2020年01月09日(木) 「障害受容」って……?

私は障害当事者で、かつては支援者でもあった。
当時の職場では、利用者さんの障害受容度の低さをその人の課題と見なしていた。「まずは障害を受容できるようにならないと、先へ進めない」みたいな。
私も立場上、そこに乗っかってしまっていた。でも、その一方で、なぜ障害を受容しないといけないんだろう? と悶々としてもいた。
障害当事者の立場と支援者の立場の間で、引き裂かれていたあの頃。

私は、自分の障害を受容していないと、ずっと思ってきた。そして、別にそれでもいいじゃんと思っていた。
でも、よく考えてみると、私が受容していないのは自分の障害そのものではなく、この障害を取り巻く世の中なのではないか?
この世の中を受容できないのは、ある意味当然のことなのではないか?
最近、そう思い始めている。

で、支援機関などで「あの人は障害受容できていない」などと言うとき、実は障害そのものの受容ではなく、被支援者がこの社会を受容しているかどうかが問われているのではないか、と思ったりもする(支援者にその自覚はないだろうけれど)。
だとしたら、怖いことだ。


◆「障害受容」という言葉の身勝手さ(野口晃菜さんのnote)
https://note.com/akinaln/n/n2eec93f9f642

「その言葉(「あの保護者は、あの人は、障害受容ができていない」という言葉)は、まるで『障害』を『受け入れる』ことのみが善であること、そして『受け入れ』ていないことはその人が悪いかのような、そして『受け入れ』ないと、支援ができないような、そんな印象を与える。上から目線極まりない。そもそも何をもって『受け入れている』と定義するのだろう?どう評価するの?」


2020年01月07日(火) 冥福を

元衆議院議員の三宅雪子さんが自殺したこととか、新宿の陸橋で首つり自殺があったこととかで、いろいろ考える。

人身事故で電車が止まると、ずいぶん前は、「何も線路に飛び込んで大勢に迷惑かけなくても……」と思っていた。
でも、あるとき、「もしかしたら、大勢に迷惑をかける死に方をすることで、せめて、この社会に一矢報いたかったのかもしれないな」という考えが頭に浮かんだ。「それなら、仕方ないよね」と思ったのだった。

人の心の中なんて知る由もないけれど、人知れず死ぬのではなく、昼日中に新宿駅の近くという大勢に目撃される場所で自殺したのは、本人にとってはそのこと自体に何か意味があったのかもしれないな。

新年とか新年度とか週明けとか、新しいタームが始まるとき、さあ頑張ろう!じゃなくて、死にたくなることって、あるよね。
新しいことが始まるからこそ絶望が濃くなること、あるよね。

つらかったね。
本当に、つらかったね。

どうか、安らかに。


2020年01月06日(月) 重度障害者が高校へ行けない国

痰吸引の医療的ケアが必要な脳性麻痺の男性が亡くなったのだが、その人は、「2013年から介助者を付けて受け続けた県立高校入試は追加募集も含めて27回不合格となり、うち25回が定員内不合格(定員割れしているが不合格になること)だった。」という記事。

◆「高校行きたかった…」重度障害、定員割れでも25回不合格 要医療ケアの21歳男性死去(2019.12.30 毎日新聞)
https://mainichi.jp/articles/20191229/k00/00m/040/169000c

「理由を尋ねると、いずれの学校も『総合的な判断。障害が理由ではない』と答えたという。定員62人の2次募集に10人が受験して純さんだけが不合格となった定時制高校の教頭は取材に対し『入試の基準に従って判断している。不合格となった具体的な理由は答えられない』と述べた。」

「元同県教委職員の江崎俊夫明治学院大特命教授(社会福祉学)は『障害者への支援が財政的にも人的にも学校にないのが理由では。日本では特別支援学校以外を選ぶと子と親は取り残されてしまう』と憂慮する。」


ここは21世紀の、一応先進国のような顔をしている日本。


2020年01月03日(金) 艦これライブ(昼の部)

今年初のライブは、パシフィコ横浜で行われた「艦これ」のライブ(昼の部)だった。
「『艦これ』とは『艦隊これくしょん』の略である」ということ以外、ゲームのことをほとんど知らない。そんな私がなぜ参戦したのかと言えば、Toshlがゲスト出演しましたので。
(なぜToshlが去年も今年もこのライブに呼ばれたのか、いまだに不明…笑)

X JAPANとしては横浜アリーナでライブをやったことあるけど、2010年の復活以降でToshlが単独で横浜に来るのは初めて。
新年早々Toshlが横浜に来るなんて、こいつぁ縁起がいいや〜ってことで行ってきましたよ。

それまで声優さん?アイドルさん?たちが歌ったり踊ったり喋ったりしていた中、登場して一瞬で空気を変えてしまうToshlの存在感よ。

歌ったのは全部で3曲。
自身の『マスカレイド』と、艦これの曲が2曲。ツイッターで教えてもらったところによると、『比叡と霧島の夜』と『モドレナイノ』という曲だそう。
『マスカレイド』でクリアな声と声量と世界観に圧倒されたあと、『比叡と霧島の夜』でロック魂炸裂!!
そして、終盤に再び登場して『モドレナイノ』でもロック全開!!
シャウトあり、デスボイスあり、煽りあり、腹の底から声が出る、出る、出る!!
2016年、2017年あたりのロック祭り(←ソロライブ)とかX JAPAN のライブを思い出す凄さで、なんか予想を超えてた。
あそこまでロック魂なToshlは久しぶりだなー。
いやもうほんと、凄まじい迫力と貫禄をこれでもかと見せつけてくるから!
全部持っていくから!

かと思うと、怒号のような歓声にちょっと照れちゃうToshlくん、かわいいかった。

予想していたとおり、会場はアウェイ感だった。
ずいぶん前にCoccoとスキマスイッチ目当てで行ったライブイベントで、Perfumeが登場したとき以来のアウェイ感。
でも、提督さんたちがToshlに割れんばかりの歓声を送ってくれて、ペンライトを振ってくれて、煽りにも応えてくれて、本当に嬉しかった。
(ゲームプレイヤーのことを「提督」と呼ぶ)

それから、ゲストギタリストでLOUDNESSの高崎晃さんが出ていた。
私はLOUDNESSは門外漢なんだけど、アンコールも終わって最後の最後にToshlが高崎さんと肩を組んでステージから去っていったのは胸アツだった。
そこの空間だけVJS(Visual Japan Summit)みたいだった。

あと、フィギュアスケーターの無良崇人さんも見れたの嬉しかったなあ。

開場のとき、出遅れて列に並び損ねてしまったので最後尾まで遡ろうとしたけど、途中で階段があって立ち往生した。
しばらく待っていたら、流れてくる列にToshloveさん(Toshlファン)がいらっしゃり、列に入れて頂いた。
砂漠で見つけたオアシスのよう! 本当に助かった!


桜井弓月 |TwitterFacebook


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© 2005 Sakurai Yuzuki