月に舞う桜

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2019年07月28日(日) そもそもの問題は社会を健常者向けに作ってあること

ALS当事者が国会議員になったことで思い出した記事二つ。
どちらも、ALS患者がコミュニケーションに時間を要するために、排除されたり侮蔑的な言葉を投げつけられたりした話で、問題の本質は共通している。

この社会のしくみは、自然発生的なものじゃない。私たちが意図的に作ったものだ。それは、基本的にマジョリティ目線で、マジョリティ向けに設計されている(「健常者‐障害者」の軸なら健常者がマジョリティ)。
勝手に健常者に合わせた時間設定にしておいて、そこに合わせることが困難な者を軽んじ、侮蔑し、嘲笑し、排除する。

なぜ、最も時間を要する者に合わせて時間設定されていないことを疑問に思わないのか。

なぜ、社会が最初から自分たちマジョリティ向けに作られていて、自分たちは最初から配慮されているということに気づかないのか。

なぜ、そういう社会のあり方を当然と思ってしまうのか。

なぜ、自分たちマジョリティがいながらにして持っている特権にそこまで無自覚でいられるのか。

なぜなの?

ちなみに、国会をバリアフリー化するのは当然のことだ。
「新しく国会議員になった重度身体障害者2名のため」ということになっているし、現実的な意味合いはそうなのだけど、本質的には「彼らのため」「彼らに対する配慮」にとどまらない。
そもそも、最初に健常者向けに設計されていて、それでは施設を使えない人たちを排除する作りになっているのが間違いなのであって、今回の改修はその差別的設計を改善するということ。


◆『国会審議にALS患者の出席拒否』の真相と本質的な問題点(2016.5.12 HUFFPOST)
https://www.huffingtonpost.jp/satoshi-onda/als-japan_b_9939670.html
↑「答弁に時間がかかる」という理由で、ALS患者の国会質疑出席が拒否された話。

◆ALSの患者に「時間稼ぎですか?」 文字盤コミュニケーション中、市役所職員の発言に抗議(2019.4.16 BuzzFeedNews)
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/als-bougen
↑ 介助の必要性を調査するために来た福祉担当職員が、文字盤でコミュニケーションを取ろうとするALS患者に「時間稼ぎですか?」と言い放った話。


2019年07月26日(金) 障害者殺傷事件から3年

相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件から、丸3年です。
あのヘイトクライムを絶対に忘れたくないし、忘れないでほしい。
特定の属性の人たちが、その属性というだけで「不幸しか生まないから殺したほうがいい」とジャッジされて、殺された。
私は許さない。加害者も、加害者の気持ちが分かると発言する人間も、加害者の思想を後押しするような社会の空気やあり方も。
殺されてはいけないのは、「有能だから」とか、「将来ある若者だから」とか、「生産性が高いから」とか、「国や社会に貢献するから」とか、そんな理由じゃない。
人は誰でも、殺されてはならない。そこに生きているというただそれだけで、殺されてはならない理由になる。

正直あの事件以来、道端や電車内やお店で、「この人も実は『障害者なんか死ねばいいのに』と思ってたらどうしよう……」っていう不安はある。

目に留まった記事を手当たり次第シェアしておきます。

◆「相模原障害者殺傷事件」への「怒り」は足りていたか(2017.7.25 時事オピニオン)
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-151-17-07-g688

◆なぜ障害者ばかりを?相模原殺傷 被告との対話【前編】(2019.5.7)
https://note.mu/news23/n/n8c8b762fe6e2

◆なぜ障害者ばかりを?相模原殺傷 被告との対話【後編】(2019.5.7)
https://note.mu/news23/n/n1a4f9085c1d2

◆凄惨な事件をどのような言葉で語るか――相模原事件と「一人で死ね」をつなぐもの(2019.7.23 時事オピニオン)
https://imidas.jp/jijikaitai/f-40-188-19-07-g688

◆相模原 障害者施設19人殺害 5人に1人覚えてない NHK調査(2019.7.26 NHK NEWS WEB)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190726/k10012009121000.html

◆「生産性」の呪いに抗うために - 相模原殺傷事件から3年(2019.7.26 Yahoo!ニュース)
https://news.yahoo.co.jp/byline/yuheisuzuki/20190726-00135613/


2019年07月23日(火) 正直なところ

正直に言う。
私は重度障害者だけど、いろいろなことが少しずつ変わるよりも先に、これから藤田孝典さんが言うところの「日本社会に広がる障害者差別の腐臭や汚物」を嫌というほど見せつけられるのだろうなと思うと、憂鬱で仕方ない。
社会が良い方へ変わる前に、私の心が折れそう……。

それに、障害者団体に相談に行ったら、こちらが具体的な相談や不安を言う前に「強くならないとね」と言われる社会だからなぁ。障害者団体が、それなのよ?
そういう経験がある私としては、障害当事者が必ずしも私の希望を代弁してくれるとは限らないと思っているので、重度身体障害当事者2名が国会議員になったからといって、過剰な期待はしない。
まあ、「国会をバリアフリー化して終わり」になりませんように、とは思う。

国会議員に障害当事者がいるのは当たり前であるべきだし、人口割合から言うと、大雑把な計算だけど本来は40〜50人の障害当事者国会議員がいてもおかしくない。
ただ、舩後靖彦氏と木村英子氏は新人ゆえ政治家としての能力が未知数なので、彼らを国会議員に選んで良かったか悪かったかは任期満了時に判断することだ(もちろん他の議員も同様)。
あんまりフィーバーしないほうがいいよー、と、わりと冷めた目で見ている。
ここらへんは、私が「政治に感動と熱狂はいらない」と考えているというのもあるけど。
あと、昨日シェアしたポリタスの能町みね子さんの記事に共感しまくったことを考えても、やっぱり私は何かに期待するより、絶望しながらそれなりにやっていくのが性に合ってるのかもしれないと思ったりもするんだよね。

◆藤田孝典@fujitatakanori
「重度障害者が参議院議員になったことで、日本社会に広がる障害者差別の腐臭や汚物が一気に吹き出してきそう。形式的で建前だけの共生社会がどう変わっていけるのか正念場。」
https://twitter.com/fujitatakanori/status/1152946453301436423


2019年07月22日(月) 「絶望してるけど投票には行く」

参議院選挙は終わったけど、投票日前に読んだポリタスの記事が良かったので、2つシェア。

能町さん、私も同じです。
私も絶望しながら、でも絶望させられるのはムカつくので、投票してる。
この記事を読んで、「ああ、そうだ。絶望しながらでも投票できる(実際私はそうした)し、物を言えるんだ。絶望しててもいいんだ」と思えて、少しだけ希望が見えた。
熊谷晋一郎先生が言ってた「希望とは絶望を分かち合うこと」って、こういうことなんだろうな。

◆絶望してるけど投票には行く(2019.7.20 ポリタス―能町みね子)
https://politas.jp/features/15/article/657

「今の60代以上は一度景気の良さを体験しているから、根本的に「まあどうにかなる」という気持ちのまま破綻を見る前に安穏と死ぬだろう。国家として落ちるところまで落ちボロボロにならないともう復活などないのではないかとすら思う。」

「世間の熱狂のあとに待っていた失望、というのを何度か体験しているわけだから、私は政治家全般に対し期待などしていない。」

「私はここまで絶望しきっているくせに、しっかり投票用紙を持って律儀にちまちまと候補者の名前を書き、投函することにしている。」

「「痛みを伴う改革」的なものが、いちばん立場の弱い者にまずダイレクトに影響するということに気がついた。」

「国家権力はピンチが訪れると、国家から見て「役に立たない」立場の人を当然まっさきに切り捨てるはずだから、抵抗していかなければ将来的に自分の首を絞めることにもなりかねない。そのための最低限の手段として、弱い立場の人を一層何もできない環境に追い込むような人たちを少しでも落とせるよう、他の候補への投票くらいはしておかないとならない」

「権力に従順であることこそ愚」

「自分には力もないのに、面倒を恐れて無批判に権力に追従していたら、つけこまれて最終的には心も体も殺される、と思う。」

……共感する言葉がたくさん。
(引用しすぎましたが、ぜひ記事全文を読んでみてください)


もう一つ、こちらの記事も良かった↓

◆自由な国で育ったと思っていた(2019.7.20 ポリタス―佐久間裕美子)
https://politas.jp/features/15/article/655


2019年07月09日(火) 『新聞記者』

映画『新聞記者』を観た。

政治的文脈で語られることが多い映画だけど、それで逆に敬遠する人もいるかもしれないので、エンタメとしての見どころも言っておきたい。
前半は現実をなぞっているだけ(それがこの映画のポイントだが)という印象だけど、大学新設の真相に迫る後半がぜん面白くなる。

大学新設の真相に迫る過程がドキドキ、ハラハラ。そして真相が明らかになったとき、心の中で「来たーっ!これかあ!」と叫んだ。
日本社会の現実を突きつける重苦しさの中で、あの真相にはエンタメ性が光っている。『相棒』み、ある。
現実と虚構がたえず入り混じり、観ているうちに現実と虚構の境目が曖昧になっていくので、「加計学園の真の姿って、これなの!?……いや、これはいくら何でもフィクションよね」と一瞬混乱(笑)。

宮崎あおいと満島ひかりにオファーしたが断られたとの真偽不明な情報があるけど、日本でイメージが付きすぎていないシム・ウンギョンで良かったと思う。
宮崎、満島がダメってことではなく、有名な日本人女優がやると女優の名前がちらついて虚構感が強まったかも。
女優オーラを消したシム・ウンギョンの演技(表情、佇まい、話し方)がとても良かった。強いバリキャリ風情ではなく、普通の、いち新聞記者のリアリティ。上手いが時々たどたどしい日本語も、リアリティ強化という良いほうに転んでいたと感じた。

松坂桃李の、揺れ動く苦悩の演技も良かったのだが、田中哲司がすごくいい! 表情も感情も色もない。でも、決して無機質という感じではない。きっとそれが多田という人間であり、あの組織に馴染みきってしまった人間の特徴なのかもしれないと思わせる。

映画の初っ端から最後まで一貫した突っ込みどころは「みんな、仕事するときはちゃんと電気付けよう!」である。
特に、松坂桃李が勤務する内閣情報調査室(略して内調)の部屋は薄暗く、モノクロではないのに色がない。
あの部屋を見て思い出したことがある。
浦沢直樹の漫画『20世紀少年』で、カーテンを閉め切って細菌開発していたヤマネに、キリコが言う。
「こんなところに閉じこもってないで外を見なさい!」
そしてキリコがカーテンを開けて光を入れ、ヤマネは目が覚めたのだった。

(そう言えば、私は最近、現政権を見ていると ”ともだち” を連想することが多い。)

日本社会の現実をなぞり、容赦なく突きつけるこの映画で、核となるのは特区での大学新設計画の謎。
題材は現実の焼き直しだが、その真相は完全なフィクション。なぜそこだけフィクション性が高いのか。
それは、あれがある種の予言だからではないか。
上に「大学新設の真相はエンタメ性が光っている」と書いたけれど、あれは映画のエンタメ性確保と同時に、警告的予言の意味合いがあるのかもしれない。
冒頭から現実の問題を描き、境目なく虚構に移行する。現実と地続きの未来はあれかもしれない、という警告。

現政権の問題を描いているのに政治家が一人も出てこないのはなぜか。
一つは、欺瞞を働く政治家はいつもスクリーンの外にいて、正しく報道されなければ、私たちに彼らの顔は見えない。存在はちらつくが、隠されて見えない。そして、官僚が切り捨てられて終わる。
もう一つは、現政権の暗部としてだけでなく、現政権のずっと前から脈々と続く日本社会の本質的問題として突きつけるためではないか。私たちの意識と社会構造を変えない限り、いくら政権が替わっても本質は変えられないのだ、と。

羊の目が黒く塗りつぶされているのはなぜか。
あの羊は、羊を送ってきた人物そのものなのか。それとも、目を塞がれ、あるいは自ら目をつぶっている私たちのことなのか。

それにしても、家族がいるというのは、厄介なことだ。家族の存在は、支えになることも、正しい道を選ぶよう背中を押してくれることもある。けれど、家族は足枷でもある。ときとして、正しさを貫くのに邪魔になる足枷。


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© 2005 Sakurai Yuzuki