月に舞う桜
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2019年02月25日(月) |
伝わらないことのもどかしさ、頼むことの煩わしさ |
この前インフルエンザになったとき、喉をかなり痛めて声が出づらくなった。 それで、家族に介助を頼むのも、やってほしいことをうまく伝えられないことがあって、もどかしくイライラした。 具合が悪いと、健康なときとは違うやり方でやってもらいたいこともあるし、健康なときならできることでも具合が悪いせいでできなくなることもある。 だから、本当は、病気のときほど健康時以上にコミュニケーションが重要なのだ。 けれど、声が出づらくて、うまく、すばやく伝えられない。 ただでさえ具合が悪いのに、やってほしいことをやってほしいようにやってもらえず(最終的にはやってもらえるのだが)、もどかしさが募る。
こんな経験をして、日常生活で介助を必要としていて尚且つ言語障害がある人は、日頃からこういう思いをしているのだろうなと、身を持って気づく。 想像するだけなのと、一万分の一でも実際に同じような体験をするのでは、「知っている、理解する、分かる」の度合いが雲泥の差だ。
それから、これは健康のときか病気のときかに関わらないのだけど、日常生活で人にいろいろなこと(身体的なこと含め)を頼まなければならないのは、実は結構煩わしいことだ。 自分でやるなら考えながら行動することが可能だけど、人に頼むときは、やってもらう行動をあらかじめ自分の中で整理しておかなければならない。それに、「やってほしいことを伝える」という行程の分、(健常者が)自分でやるよりも時間がかかる。
また、人はいろいろなことに自分なりの小さなこだわりを持っているものだけど、その「小さなこだわり」をどの程度、介助者に求めても良いものか、という葛藤がある。 もちろん、自分に苦痛が生じるような事柄は、苦痛が解消されるまでやり直しをお願いする。例えば、座位姿勢が安定しなければ、体のどこかが痛くなったり日常生活動作がままならなかったりするので、お尻や足の位置を直してもらうことにためらいはない。 しかし、例えば物を棚の上の方に片付けてもらう場合はどうか。 私にも整理整頓に好きなやり方はあるけれど、そのやり方が守られなくても、座位姿勢が安定しないときと同じような苦痛や不都合は生じない。ただ「いや、そうじゃないんだけどな……」と、ちょっとモヤモヤするだけだ。 私は、ちょっとモヤモヤするだけなら、言わずに済ませることが多い。こんなことまで細かく要求したら悪いんじゃないかという介助者に対する遠慮と、「やってもらうくせに細かいこと言いやがって」と思われたくないのと、いちいち細かく指定するのが面倒なのと。それで、「まぁいっか」ということにする。 が、この「まぁいっか」が本心ならいいのだけれど、「本当は良くないけど、いいことにする」ということが、わりとある。そうすると、一つ一つは小さなことでも、それが積み重なると「生きるって、めんどくさいな」という気持ちになる。
介助してもらうことに関するこういう遠慮や葛藤やモヤモヤや煩わしさは、介助者が感情と生きた肉体を持った人間だから、という面が多分にあるのではないか。 だから、まだまだ先のことかもしれないけれど、私としては、将来的には介護・介助の大部分をAIが担うようになるといいなと思っている(もちろん、これには介護・介助される側にも賛否両論、いろいろな考え方があるだろう)。 介助が完全AI化されれば、いろいろなことを冷徹にすぱっと割り切れる気がする。 でも、人間並みの対応をするべくAIがより高度になった結果、感情を持つようになってしまうと、困るんだよなあ。
ねぇ、パトラッシュ、聞いておくれよ。ぼくは、寒いんだ……とても寒いよ、パトラッシュ……ぼくは、人間は12月から2月まで冬眠すべきだと思うんだ……誰か、このぼくに冬眠できる体をくれないかなあ。ねぇ、聞いているかい、パトラッシュ……
1月の中旬、風邪で嘔吐。 前日に食べたものが消化されずそのまま出てきたのを見て「こ、これは死亡推定時刻をごまかせるやつ!」と思ってしまった私は、サスペンスドラマの見すぎである。 そこから3日間ほど、お粥とうどんと茶碗蒸しくらいしか食べられず。
胃腸炎が治って1週間ほどして、今度はインフルエンザに。 前回が何年前か覚えてないくらい久しぶりのインフルエンザで、むちゃくちゃしんどかった。 今はとりあえずインフルエンザからは生還した。 インフルエンザと闘っている間に、気が付けば2月になっていて、何だか悲しい……。
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