月に舞う桜

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2018年07月30日(月) 音楽の「たまて箱」

オペラシティでおこなわれた音楽の「たまて箱」というコンサートイベントに行った。
なんと、無料!

オペラシティに行くのは初めてだった。東京国際フォーラムのホールAのようなところを想像していたから、そんなに広くないんだなという印象。

まずは、華道家の假屋崎省吾さんと、Toshlのソロサポートをしているピアニスト小瀧俊治さんの共演。今回のコンサートのことを小瀧さんのツイッターで知るまで、假屋崎さんがピアノを弾くとは全然知らなかったから、びっくり。素人の趣味レベルじゃなく、お上手だった。假屋崎さんは、やっぱり芸術家なんだなあ。
最初の2曲は假屋崎さんのソロで、他はすべて小瀧さんとの連弾か2台ピアノでの共演だった。よく知っている曲は『野ばら』と『エリーゼのために』ぐらいだったけれど、二人で弾くと音の厚みと迫力があって、どの曲も素敵だった。
二人の演奏は息がぴったりだった。
連弾のとき、左側(低音側)に小瀧さん、右側(高音側)に假屋崎さんが座っていたけど、小瀧さんが高音を弾くときは假屋崎さんが上半身をさっと後ろによけて邪魔にならないようにしていたのが印象的だった。こういうところも息がぴったり。あと、連弾のとき楽譜をめくるのは小瀧さんの役割で、タイミングよく素早くめくる動作がカッコ良かった。
アンコールは「マイフェアレディ」で、なんと假屋崎さんがフジコ・ヘミングに教えてもらったのだそう。フジコ・ヘミングと友達って、すごいな。スタイリストも同じ人らしい。

お昼休憩のあと、在日米軍のジャズバンドが登場。座間基地の人たちらしい。
トランペット、サックス、ドラム、ピアノ、ウッドベースの5人編成で、トランペットの人が歌も兼務していた。
私はジャズと相性が良くなくて、ずっと聴いているとどの曲も同じに聞こえてしまったり眠くなったりしてしまう。
(ジャズ関係のみなさん、ごめんなさい。ジャズが悪いわけじゃないんです。私にジャズの良さを理解する能力がないのです。)
演奏曲で知っているのが『Fly me to the moon』と『枯葉』だけだったこともあり、正直途中でぼーっと他のことを考えたりもしてしまった。でも、歌が入ると楽しくて、目が覚めた。シンガー(兼トランぺッター)の男性は恰幅がよく、いかにも声量がありそう。実際、その通りだった。とてもうまいし、楽しそうに歌うのが、いい。ジャズバンドの演奏とネイティブが歌う英語の歌を聴いていると、アメリカのバーにいるような気分を味わえる。いや、アメリカのバーに行ったことはないんだけど。

次は、海上自衛隊東京音楽隊だった。この音楽隊は、何か国際的な賞をもらったらしい。正式名は忘れたけど、いうなれば「世界軍楽隊コンクール」みたいな感じの。管楽器中心の編成だけど、打楽器の種類が多く厚い。士気高揚にはリズムが要だからかな。
吹奏楽は好きだし、何より国際的な賞を取るだけあって演奏が非常にうまいので、知らない曲が多くてもずっと飽きずに聴いていられた。やっぱりマーチは心躍る。
ハープ奏者がMCを兼ねていて、この人の声の出し方や話し方が本当に場慣れしている印象。アナウンサーみたい。曲が終わるとソロパートがあった人を紹介するのだけど、「三等海士」や「二等海曹」(←適当に書いてるので違うかも)などと階級付きで言われても、ピンとこない。どれがどれより偉いんだ? サスペンスドラマ好きとしては、警察の階級なら分かるのだけど。幕僚長とかならまだしも、細かい階級は内輪の話なのだから、名前呼び捨てだけじゃダメなんだろうか。
それから、女性シンガーの声が美しかった。あの人、テレビで見たことある気がする。たしかアルバムを出していたような……。舞台向きの発声をする人だな。『西郷どんテーマ曲』『美女と野獣』の歌が良かった。
数曲は、在日米軍ジャズバンドから3人が共演。偏見かもしれないけど、日本人に比べてアメリカ人はやはり陽気だ。ちょっとした仕草に根の陽気さが隠し切れない感じ。例えば、日本人だと節目にお辞儀をするけど、アメリカ人は気さくに手を振る。そういう違い。どっちがいいとか悪いとかじゃなく、生まれ持った性質や育った環境で培われたものの違いって面白い。
『軍艦マーチ』は、曲が始まった瞬間にパチンコ店をイメージしてしまう。ごめんなさい。本当、ごめんなさい。私、パチンコやらないんだけど。
アンコールは『故郷』だった。
在日米軍との共演とか、最終曲に『故郷』を持ってくるところか、そこはかとなく政治的な臭いがしないでもないけれど。

3組ともアンコールを入れると10曲ずつの披露(海上自衛隊は11曲だったかな?)で、バリエーション豊かに聴けて良かった。
ただ、入場に年齢制限がなかったので、それこそ0歳児、1歳児みたいな子も来ていて、泣き声や話し声が気になった。子供向けのプログラムというわけでもないので、そりゃそうなるわな。あまりに泣き止まなかったり声が大きくなったりすると親御さんが外へ連れ出していたけど、やっぱり気になってしまって。
私も無料に惹かれたのが大きかったし、年齢制限を確認しなかったのは迂闊だった。
電車やファミレスでの小さな子の泣き声は気にならないし、近所の保育園のにぎやかさも気にならないけど、コンサート中の泣き声や話し声はとても気になるんだな、と自分の一面が分かった。今後は、年齢制限なしのコンサートは行くのを控えるべきだなと学んだ日でもあった。


2018年07月26日(木) 2016年7月26日を忘れないで

相模原の障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件から、丸2年。
19名が殺され、27名が重軽傷を負った。
あの事件を、どうかみんな忘れないでほしい。
2016年7月26日という日を、覚えておいてほしい。

そして、考えてほしい。
「意思疎通の出来ない重度障害者は社会に不幸をもたらすだけだ」との思想は、植松聖だけのものなのか。
同じような思想、同じような思考、同じような空気、同じような眼差しが社会に広がってはいないか。
実際に殺すことはしないまでも、自分は心の奥底で誰かに対して「価値のない人間」と思ってはいないか。

障害者だけではない。
女性、子供、高齢者、子連れ、低所得者、同性愛者、外国人、トランスジェンダー、生活保護受給者、年金生活者、同和地区出身者、特定の職業に就いている人、病気の人、ちょっと変わった人、コミュニケーションを取ることが難しい人、大多数とはコミュニケーションの取り方が違う人、無職の人、ホームレス、無戸籍の人、学校に通えなかった人、何らかの犯罪被害者……etc.

誰かに対して、ある集団に対して、「生きる価値がない」とか「他より劣る」とか「声を上げずに社会の隅っことでおとなしくしていればいい」とか、そういう眼差しを向けてはいないか。

あるいは、例えば「障害者でも優秀な人はいるから、一概に価値が低いとは言えない」のように、ある集団の中でも(自分が勝手に決めた)条件を満たす者だけに価値を認めたりはしていないか。


日本には、1996年まで優生保護法があった。
「不良な子孫の出生を防止するため」と謳ったその法律のもと、障害者に対して強制的に不妊手術が行われた。

2016年、施設職員だった植松聖は「障害者は不幸しか生まない」と言って、19名を殺した。

2018年、国会議員の杉田水脈は、「LGBTは生産性がない(子供を産まない)から、税金を投入して支援する大義名分がない」と雑誌に書いた。
それについて杉田を公認している政党の幹事長・二階は、「人生観はいろいろ」と言った。

国会議員の小野田紀美は、「国民の義務を果たしていれば権利を主張して良いと思う」と言った(小野田氏のツイッターより)。
杉田水脈への反論のつもりだろうが、権利を義務の対価ととらえている点で、つまり人が生まれながらにして持っている権利というものを蔑ろにしている点で、杉田とも二階とも同じだし、植松聖とも同じだ。


去年の7月26日、私は『この事件は、「障害者の話」なの? 本当に?』と書いた。
優生思想、排他感情、憎悪、それらは、いつ誰に向けられるか分からない。

やまゆり園の事件から丸2年が経った今日、オウム真理教の死刑囚6名に対して刑が執行された。
杉田は党から公式に何らの非難、注意もされていない。
朝から、小野田の「義務を果たしていれば権利を主張して良い」とのツイートを見てしまった。

いろいろなことが頭の中で繋がってしまい、気が滅入る。

みんな、どうやって絶望や失望せずに、あるいは絶望や失望と闘いながら、生きているんだろう。

忘れないでほしい。
2016年7月26日、19名の障害者が殺された。


●相模原殺傷2年 明かせぬ実名、遺族のジレンマ 障害者への差別…消えぬ不安
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180721-00000546-san-soci

●【やまゆり2年】ダウン症の娘持つ社会学者、被告と面会し手紙
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180725-00027964-kana-l14

●やまゆり園事件と強制不妊手術【上】
http://www.kanaloco.jp/article/348728


2018年07月23日(月) こんな人を公認しているのが我が国の与党ですよ

杉田水脈は、「生産性」のない人たちに税金を投入すべきではないと言う。
ここで彼女が言っている「生産性」とは、子供を産むことである。「生産性」の有無、つまり子供を産むか否かで、税金の投入先を判断すべきとの考えだ。

これは全国民に対する差別、人権侵害である。

こういう優生思想は、容易に他のカテゴリーの人たちに対しても向けられるだろう。
もちろん、彼女の発言は第一義にはLGBTへの侮蔑・差別だけれど、税金投入先の判断基準として「生産性」を挙げている点で、全国民に対する侮辱である(そもそも、子どもをもうけることを「生産性」と表現することが醜悪だ)。

私たちは国の未来のためではなく、己の幸せのために生きている。
税金は、国民ひとりひとりが健康に安全に、できるだけ生きやすくあるために、つまり国民ひとりひとりの幸福のために使われるべきものだ。決して「生産性」(子供を産むか否か)によって投入先や優先順位を判断すべきではない。

杉田水脈への反論として、例えば「同性愛者も養子を迎えることもある」のような議論を持ち出すことは、「生産性」に重きを置く思想に乗っかっている点で、かえって危険だ。

「生産性」の有無は問題ではない。
子どもを持とうが何だろうが、税金や法律や様々な施策によって差別が解消され、必要な支援を受けられ、生きやすくある権利がある。それが重要なのだ。

日本では、杉田水脈のような人物を公認する政党が与党なのだ。
それが、最も恐ろしいことだと思う。

何度でも言うが、杉田水脈の思想は、全国民に対する差別、全国民に対する人権侵害、全国民に対する侮辱である。
私たち有権者は、そう認識しなければならない。


◆「LGBTは生産性がない」自民・杉田水脈議員の寄稿文に、当事者団体が抗議(Buzz Feed News)
https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/lgbt-sugita-mio?utm_term=.rh7NwbP7OD#.owR9R3yJdG


2018年07月13日(金) 「真相が解明されていない」の「真相」とは何についての真相か

オウム真理教の事件をずっと追ってきたジャーナリスト江川紹子氏の記事を二つシェアしつつ、いま、私が思うことを。

オウム真理教の麻原彰晃(松本智津夫)と実行犯6名の死刑が執行されたことを受け、「真相が解明されていない」と言う人たちがいる。
オウム事件の真相が解明されていないと思っている人は、自分がどういった意味での「真相」を念頭に置いているのか、自分の中で明確にしておいたほうがいいと思う。

例えば、

・事件の計画から実行までの過程
・教祖の動機
・信者側の動機
・信者が洗脳・マインドコントロールされる過程と心理変化
・教祖の背景と心理
・オウムがカルト化、凶悪化した過程
・二つのサリン事件や坂本弁護士一家殺害事件などの大きな事件の陰に隠れてあまり注目されていない事件の真相
・井上元死刑囚は死刑と無期懲役のどちらが相当であったか(井上元死刑囚は再審請求中の死刑執行だった)
・当時の捜査(特に坂本弁護士一家殺害事件に関し)は適切であったか

「真相」と言って私がざっと思いつくだけでも、これぐらいある。

これだけ大きな事件、大きな出来事なので、視点や論点が多岐に渡るけれど、こういった別々の事柄を全部いっしょくたに考えて「真相が解明されていない」とするのは乱暴だし、問題の本質が見えなくなって危険だ。かえって真相から目を背けることでもあると思う。
また、7名が一斉に死刑執行されたことと死刑制度そのものの是非は別問題だし、「7名の死刑執行が事前にリークされていたのかどうか」と「死刑報道がショーにされたのか」もまったくの別問題だ。

さらに、今回の死刑執行の是非については教祖と弟子6名を分けて考えるべきだし、オウム事件を語るとき、文脈によっては「オウム真理教」を主語にするのは適切でない場合もあり、やはり、教祖と信者を分けて考えるべきだと思う。
教祖と信者は、表面的には同じ方向を向いていたとしても、洗脳・マインドコントロールする側とされる側では思考や心理が全く異なるから。
そういう点を無視して、いろいろなことをいっしょくたにするのは、カルトを社会問題として考えるときに危険だ。


死刑執行後の、江川氏の記事。

●オウム事件死刑執行、その正当性と今後の課題を考える
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20180708-00088579/

裁判を傍聴し続けた人の言葉は重みがあり、具体的だ。麻原彰晃が弟子の法廷でどのような態度を取り、どのような発言をしたかが書かれている。

そして

「これで、オウム事件の死刑囚は6人となった。報道によれば、法務省は今後、順次執行していく、という。しかし、彼らはカルトによる未曾有のテロ事件の生き証人である。その彼らを何ら調査研究に活用する機会を永遠に失ってよいのだろうか。死刑囚の多くは、オウムに入る以前は、ごく普通の、あるいはとてもまじめな若者たちだった。(中略)オウム事件の最大の教訓は、人の心は案外脆い、ということだ。どんな人であっても、タイミングや条件が合ってしまうと、思いの外簡単にカルトに引き込まれてしまう。だからこそ、その心の支配の仕組みはもっと研究されるべきだし、カルトの怖さやその手口を若い人たちに教えていく必要がある。そのためにも、オウム事件では何があったのか、事実をしっかり伝えていかなければならない。」

これには心から同意する。
日本に死刑制度があり、彼らがあれだけ甚大な被害を引き起こして死刑判決を受けた以上、いつかは死刑が執行される。それは免れない。
でも、法的な解明と刑の執行とは別に、社会学や心理学、教育など様々な分野において彼らは貴重な研究対象となり得たはずだ。国は、彼ら自身のためではなく社会のために、彼らに法廷での証言とは異なる意味合い、異なる角度でも語らせるべきだったし、今後のカルト対策やテロ対策のために彼らをもっと利用すべきだった。

記事の最後にある
「高校のカリキュラムの中で、カルトの怖さ、問題点、そこから身を守るための注意事項など、オウム事件を知らない若い世代に情報として伝えるようにして欲しいと思う。」
には、半分同意で、半分反対だ。
カルトに取り込まれないための教育は、小学校から必要では?


●彼はどのようにして地下鉄サリンの実行犯になったか
https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20170320-00068863/

こちらは、去年の3月20日(地下鉄サリン事件から22年目)の記事。
信者たちの心理、麻原彰晃のどこに惹かれたのか……特に広瀬死刑囚にスポットを当て、入信のきっかけやオウムにはまり込んで凶悪事件を起こすまでの過程が書かれている。カルト問題を考える際に重要な記事だと感じた。


2018年07月09日(月) 水道事業の民営化

水道事業の運営権を民間に売却できるようにする水道法改正案が衆議院を通過。

水は、生死にかかわる。
民間企業は利益を上げてなんぼ。水道事業は、利益追求や競争原理になじまない。
生死にかかわるインフラを民営化したらダメなんじゃない?

豪雨で水道が止まった地域の人たちが給水の列に並んでいるニュースを見て、さらに心配になる。
水道が民営化されたら、こういうのどうなるんだろ、災害時もちゃんと水が提供されるのだろうか、その保証はあるのだろうか、そこまで考えての法改正なんだろうか……とか、いろいろ考える。

水道事業の運営を民営化することについては、いろいろな人がいろいろな問題点を指摘している。例えばこの記事↓とか。

●オウム死刑執行とW杯に埋もれた「水道民営化」問題の“重要発言”まとめ(文春オンライン)
http://bunshun.jp/articles/-/8096


2018年07月08日(日) 嫌なのは、苦しみながら生きること

重い病を患って闘病している人の日常を追うようなテレビ番組、同じように闘病している人やいろいろな苦境に立たされている人たちがああいった番組を観て、励まされたりエネルギーを得たりするのは分かる。
だから、番組そのものにどうこう言いたいわけじゃない。
ただ、私は、そういった番組を観ると暗澹たる気持ちになって、この先の自分の人生が恐ろしくなる。

ああ、この病気になると、こういう症状が出るのか。
こういうふうに日々苦しまなければならないのか。
治るとも治らないとも、いつ終わるとも分からない日々を、生き続けなければならないのか。

どんな状況でも、どんな病でも、希望や輝きを持って生き続けることができる人はいる。
でも、私にはたぶんその強さや力は、ない。
自分にそういう類の強さや力があると見通すことができない。

嫌なのは、死ぬことじゃない。
嫌なのは、苦しみながら生きること。
苦しみながら生きたくない。本当に嫌だ。

もし私が重い病を患ったら(どの程度の重い病か分からないが)、おそらく、日々を終わらせたいと思うだろう。
でも、病に苦しむようになったら、自力で生の外へ出ていくことは今よりもっと難しくなる。

「安楽死を法制化してくれないだろうか」

結局、私が最終的に思うのは、いつもそれだ。

病と闘いたい人、最期まできちんと生きたい人、希望を持って、あるいはこれから希望を見出して生き続けたい人は、そうする権利がある。納得のいく医療と支援を受け、病を抱えながらできるだけQOLを維持して生きる権利がある。

でも、苦しみたくない人、闘いたくない人の権利もあったっていいんじゃないか。

生きることは、権利だ。義務になってはいけない。

そんなことを考えて、でもこの社会では生きることって権利というより義務なんだよな、と思って、年老いた将来の自分を思い描いたら嫌な気分になる。

重ねて言うが、闘病中の人を追ったテレビ番組の問題ではない。ましてや、そこに出ている人の問題でもない。
私の性分の問題だ。
そういう番組なのだと最初から知っていれば観ないのだけど、軽めの番組の中で思いがけずそういうタッチになってしまうと、どうすればよいやら。

苦しみながら、生きたくはない。


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© 2005 Sakurai Yuzuki