月に舞う桜
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酉年の元旦にひよこの夢を見て、Facebookに載っていたPATAの落語家風な年始挨拶に癒されて始まった2017年、早くも1ヶ月が過ぎようとしている。 あまり先のことを考えると、いろんなことが立ち行かない気がして生きるのが面倒で嫌になってしまうので、とりあえず目の前のことを一つ一つやっていこうと思った、そんな1月。
1月という月は、やっぱり苦手だ。気持ちが上向かない。 2月になって、厳しい寒さの中にも風のにおいが少しずつ変化して春を予感できたら、やる気も出てくるだろう。
今年の目標を真面目に考えたら押しつぶされてしまいそうなので、どうでもいい目標を……
HEATHに触りたい!!
……これは目標じゃなくて、ただの願望だな。
さて、1月の出来事で心に残っていることを。
◆「ディタ=ライチ」じゃない 私はディタが好きだ(と言っても、そんなにしょっちゅう飲むわけじゃないけど)。 ディタというものを知って15年くらい経つけれど、これまでずっと「ディタ=ライチリキュール」だと思っていた。 ところが、厳密に言うとディタというのはライチリキュールの商品名を指すわけじゃなくて、ブランド名らしい。 友達と新年会でバーに行ったとき、メニューにディタが書いてなかったので、あるか聞くすると、マスターが「ありますよ……えっと、ライチでいいですか?」と確認した。 ディタといえばライチに決まっているのになぜ確認するのかと、私が怪訝な顔をしていたのだろう、マスターはこう教えてくれた。 ディタはライチしかないと思っている人が多いけれど、実はそうじゃない。ディタが最初に出したのがライチリキュールで、それがとても売れたから「ディタ=ライチ」というイメージになったけれど、そのあとディタはスターフルーツとグァバも出したのだ、と。 これはちょっとした衝撃だった。 長年疑いもしなかったことが、実は事実と違っていたなんて。 当たり前なんだけれど、世の中にはまだまだ知らないことが星の数ほどあるなあ。 ちなみに、この日はせっかくなので、ライチではなくグァバリキュールをソーダで割ったものを飲んだけれど、私はやっぱりライチの方が好きだった。 もし、あのバーにまた行く機会があったら、「ディタのライチをグレープフルーツで」と注文しよう。あ、ライチアップルも好きだなあ。
◆プラネタリウムコンサート 先週土曜日は、友達の誘いで「プラネタリウムコンサート」というイベントに行った。 その名の通り、プラネタリウムを見ながら音楽を聴くというもの。 ヴォーカルが男女1名ずつ、他にピアノとドラム。 男性ヴォーカルは元劇団四季だそうで、さすが、太くてよく通る声だった。 このグループは、主に難病の子供たちのために病院を回ってコンサートおこなっているのだそう。 プラネタリウムは空気で膨らませたドームの中。 ドームがそれほど大きくないので、お客さんは15名ほどだった。 自分の星座の位置を確認したり、「この銀河には太陽のような恒星がたくさんあって、私たちが住んでいる銀河以外にも宇宙には銀河がたくさんあって……」なんて話を聞いたりして、何だか心がちょっと澄んだ気がした。 コンサート最後の曲が思いがけずミスチルの曲で、ノリノリになったりも。
さて、今の自分の日常生活はちょいと緩んでいて、いかがなものかと思わなくもないけれど、これまで自分が節目節目に決めてきたことは後悔していないから、これからも焦らずに目の前のことを一つ一つやっていくしかないなあ。
2月の自分も、人生を諦めませんように。
2017年01月23日(月) |
障害者であるよりもまず女性でありたい |
私は大学生の頃から性同一性障害に関心を持っていた。 その頃、ある競艇選手が性同一性障害であることを公表して、体は女性なんだけれど男性選手として登録したいとか、登録するとか、そんなことが話題になっていた。 私が性同一性障害というものを知ったのは、それがきっかけだったと思う。 (余談だけど、競艇レースが男女別に行われることも、そのとき初めて知った。) もし、性自認が女性である自分の体が男性のそれで、家族や友人や社会から男性であることを当然のように求められ、強いられたら……と考えると、人生に降りかかる理不尽な困難や苦悩や自己嫌悪などなどは想像を絶するものだろうなあと思った。 性同一性障害から始まって、今はいわゆるセクシャルマイノリティ全般に関心がある。 セクシャルマイノリティの人たちは、そうでない者と同様に尊重され、権利が守られるべきだし、彼らができるだけ生きやすい社会であるべきだ。 そう強く思うと同時に、一方で、自分がなぜそういったことに関心があるのか不思議でもあった。 世の中には、知るべきことや目を向けるべき事柄が山のようにあるけれど、たいていは自分に関係の深いことから関心を持っていく。 私自身は、体も性自認も女性で、異性愛者だ。 大学生当時、私が知る限りでは周りにセクシャルマイノリティの人はいなかった。 つまり、一見「自分には関係のないこと」である。
それが、ここ数年で少し謎が解けた気がしている。 私は、障害者である前に女性でありたい。 私は、何より自分自身が女性として尊重され、女性として大切に扱われたいのだ。 障害者は、健常者に比べると性別を無視した扱いを受けやすい。 障害者には男とか女とか、そんなものはないと、信じられないことだけどそう考える人もいる。 そこまでひどくなくても、「障害者である」という側面しか見ようとしない人は、結構いる。 でも、私にとって、自分が女であることはとても大切なことだ。 男女平等とかジェンダーフリーとか、それはもちろん大事なことだ。自立した女性はとても素敵だと思う。 同時に、私は、好きな男性にはやっぱり守られたいし、甘やかされたいし、許容される範囲内でわがままも言いたいし、レディファーストの扱いを受けたら嬉しい。 輝いていたいし、きれいでいたいし、自分が「かわいい、素敵」と思うものを身に着けていたい。それはすべて、「女性として」だ。
去年だったか、某テレビ番組に出ていた一般人の男性が「娘は重度の障害がある。(自分と)とても仲が良い。お風呂も一緒に入っている」ということを言っていた。娘さんは成人している。 その番組は障害者云々とは全く違う趣旨の番組で、その男性は自己紹介の一環でそう話した。 私は、そんなことを平然と公共の電波で言える男性と、それを編集で切らずに垂れ流すテレビ局に嫌悪感を覚えた。 その娘さん本人が「私、今もお父さんと一緒にお風呂入ってるんです」と言うなら、別に構わない。 父娘が仲良しなのはいいことだし、娘さんが本当に父親との入浴をよしとしているなら、他人である私がとやかく言うことじゃない。 でも、障害があると、生活環境や諸々の事情から、女性でも仕方なく父親と入浴せざるを得ないことだってあるだろう。 障害者は、健常者に比べて、自分が置かれた環境から自分の力で抜け出ることが難しい。 幼少期からの積み重ねで、本当は嫌なことでも嫌だと言えなかったり、嫌じゃないと自分に思い込ませていたりすることだってあるだろう。嫌だと言ってしまったら生活が立ち行かなくなることもある。嫌だと認めてしまったら、自分の心が折れてしまいそうになることもある。 当事者がいいなら、別に何歳になったって異性の親と入浴しようが、好きにすればいい。 でも、一般的には、ある年齢以上の女性が父親と入浴することは奇異な目で見られるし、虐待と捉える人もいる。 だから、父親の方が嬉々として公表していいことではないと、私は思っている。 もちろん、あの娘さんが承諾したうえでの発言だった可能性も大いにあるわけで、それなら私はここにとても失礼なことを書いていることになる。 でも、女性障害者が「女性としての立場」を蔑ろにされることは、決して珍しいことじゃないことを、私は知っている(男性障害者も同じかもしれないけれど)。
健常者も障害者も、男性として、女性として、尊重されなければならない。 (もちろん、性別を超えて尊重されるべきであるのは言うまでもない) 私は、女性として大切にされたい。 同じように、性同一性障害当事者を、彼らが自認している性で尊重したい。
2017年01月18日(水) |
Life is not easy, but I want you to be alive. |
生きることは大変だし、苦しいし、面倒なことが多すぎる。 ときどき、どうして頑張ってこの世界に合わせてまで生きなければならないのか分からなくなるし、生きることから自由になりたいと思うこともある。
それでも、愛する人には、何があっても生きていてほしい。
自分は生きることから自由になりたいと思ったりするくせに、他人には、大変で苦しくて面倒なことの多いこの世界で生きていてほしいと願うだなんて、なんて自分勝手なんだろう。 これは、愛情ではなくて、ただのエゴなのかもしれない。
エゴかもしれないけれど、貴方には生きていてほしい。
私は、生きている人を大切にしたい。 死者はどうでもいいと言いたいわけじゃない。 死者には、もう何もしてあげられない。 花を供えることも、名前を呼ぶことも、空を見上げて存在を感じることも、別の誰かと思い出を語り合うことも、思い出すことも、忘れないことも、すべて私が生きていくためだ。本当は、死者のためじゃない。
全部、生きている人が生きていくためだ。 本当の意味で死者のためにできることなんて、何一つない。 ほんの少しでも何かしてあげられるとしたら、生きている人に対してだけだ。
だから、せめて生きている人を大切にしたい。
自分自身をどうにか救おうとして誤った道を選んでしまったとしても、それが犯罪行為でもない限り、いったい誰が貴方を責められるだろうか。 多くの人が救おうとしたかもしれないけれど、誰にも救うことはできなかった。 貴方は自分自身を救おうとした。ただ、それだけだ。誰に責める権利があるというんだ。
いま貴方は生きている。それが、すべて。
貴方は、どうやって生きてきたの。 どうやって生きてこられたの。 どうやって、生きているの。
生きることは大変だし、苦しいし、面倒なことが多すぎる。 でも、生きてるって、すごいことだ。 貴方を見ていて、そう思う。
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