月に舞う桜
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2006年06月30日(金) |
6月の締めくくりにと、焦って日記を書いております。 |
だいぶ間が開いてしまいました。申し訳ございません。 えーと、今週は週の前半から何だか疲れておりました。早いところ、気力を満タンにせねば! おいしいものを食べに行きたいです。今は、おいしい春巻きが食べたいかなー。あと、ついでにおいしいお酒も少々♪ でも、その前にボーナスでスカートを買いたいのですよ。『踊る!さんま御殿』でユンソナさんが着ていたワンピースがかわいくて、あんな感じの緑色が混ざったスカートがほしいのです。 そして、化粧品が一気になくなりつつあるので、それも買いに行かなくては。ファンデーションに日焼け止め兼化粧下地に口紅。 そんなことを言っていても外出するのが面倒くさいので、いつになったら買いに行けるか分かりませんが。 明日は、3時間の用事のために往復4時間かけてお出掛けです。東京に進出してきます。 小説は、最近ちっとも書いていません(威張るな!)。 書くよりも読みたい。が、やっぱり書きたい気持ちもありますね。
某番組に、うじきつよしさんが出ていた。サッカー好きな彼は、ドイツまで行って来たんだそうな。 ドイツでは、今回のワールドカップを「平和の祭典」と位置づけているらしい。過去を踏まえ、そんな自分たちがサッカーのワールドカップを開催できるまでになった、と。ドイツ人にとって、今回の大会は自国の歴史を振り返ると尚更大きな意味を持つのだろう。 4年前の日韓大会はどうだったかなぁと思う。日本には、ドイツのような意識はあまりなかったのではないだろうか。韓国との共同開催という点には何か重きを置いていたかもしれないけれども。 うじきさんが言っていた。ドイツ人は過去を忘れまい忘れまいとしているけれども、日本人は忘れようとしている気がする、と。 ネオナチが台頭していたり、今回の大会に絡んで外国人を排斥しようとする動きが起きるのではないかと懸念されたりと、ドイツにもいろいろと問題はある。けれども、過去を重く受け止める意識という意味では、うじきさんの言ったことは当たっているように思える。 大学の授業で、ドイツ人哲学者ヤスパースの『戦争の罪を問う』という著作を扱った。ヤスパースは、何より「ドイツ人として」あの本を書いたのだろう。ドイツ人としてあの戦争をどのように受け止め、どのように考え、どのような姿勢で敗戦後を生きていくのか、それはドイツ人ヤスパースにとって何よりも優先して語らなければならない事柄だったのだろう。その切迫した真摯さが伝わってくる本だった。 戦後、日本人は自分たちの起こした戦争と敗戦をどんなふうに受け止めたのだろう。混乱のさなかで、それでもヒステリックにではなくあくまでも真摯さと冷静さと謙虚さを持って語り合おうとした人はいたのだろうか。『戦争の罪を問う』と同じように位置づけられる書物は書かれただろうか。 私は今、無性にそれを知りたい。
2006年06月24日(土) |
本は正しい姿勢で読みましょう |
※23日(金)分も更新しています。
ベッドに寝そべって、2時間ほどかけて東野圭吾の『レイクサイド』を読み切ったら、首から肩にかけて痛いこと痛いこと。ちょっと首をひねるだけで、張った筋が抵抗する。凝りに凝ったわね。 体が痛くても途中でなかなかやめられないのが、小説の困るところだ。 東野圭吾と言えば、父が先日『容疑者Xの献身』を買ってきたのだった。読み始めると他のことを全て放り出して読み続けてしまいそうだから、早く読みたいのに開くことができずにいる。いつ読もうかなぁ。分厚いからなぁ。夏休みにでも読むか。 でも、私の場合、大きな賞を取った小説というのは得てして期待はずれなことが多いから、もしかすると『容疑者Xの献身』も大して好みではないかもしれない。 ものすごく期待しているのに、一方では自分の体と時間のやりくりのために期待はずれに終わることもちょっぴり願っている。なんて矛盾!
タバコの煙と並べられた料理と笑い声と喉を流れていく冷たい飲みもの。それから、湿った空気と夜の灯りたち。 その中に身を委ねながら、なぜか頭の中ではMr.Childrenの『Monster』がずっと流れていた。桜井和寿が、あの声で「全裸でいるのは宗教上の理由だ 慈悲の御心で世界を救う」と歌う。
慈悲の御心で世界を救う、か。
少しでもアルコールの入った頭で家に着くと、決まって特殊な感覚に陥る。寂しさと心細さに隠し味程度の安堵感が混じった気持ち。居るべき場所にきちんと収まったのに、一人ぼっちで放り出されたような、どこへ行けばいいのかちょっと分からないような感じ。 悲しいわけじゃない。むしろ楽しさの余韻を心地良く引きずっている。 私には、いろんなところに居場所がある。大勢の中にいて笑っているのにガラスの仕切りで囲われているような隔たりは、いつからかあまり感じなくなった。 それでも、きっと私はまだ帰るべき場所を探している。「ここではないどこか」を探し続けている。それが「誰かの腕の中」だなんて思っているうちは、たぶん見つからないんだろう。分かっていてもふと求めてしまうのは、 それもきっとアルコールのせいだ。
桜井和寿が歌うまでもなく、私はモンスター。 世界は誰にも救えない。それでいい。 私はモンスター。あなたもモンスター。
つーかーれーたー。
雑貨屋に行きたい。 難しいことは何も考えずに、雑貨屋で楽しいひとときを過ごしたい。 ロフトとかソニプラとかハンプティ・ダンプティとかアフターヌーン・ティーとかで。
2006年06月19日(月) |
自由が丘に行く機会がない |
えーと、誕生日です。26になりました。 年を追うごとに一年経つのがどんどん早くなって、去年からは「四捨五入すると、もう三十路だよ! このままじゃ、あっと言う間に30になっちゃうよ!」なんて言っているわけですが。 でもね、最近思うんです。四捨五入で三十路とか言ってもね、やっぱり私はまだまだ若いのです。まだまだ若いのよ! と思って、その若さを謳歌するべきなんではないかと。そりゃあ、ハタチの頃のようにはいかないけれどもね。 私と出会ったときに26歳だった人が何人かいるのですが、私は彼らのような26歳になれたかな、なれるかな、と考えます。年下から憧れられるような大人の言動で振舞えたり、仕事をテキパキこなしたり。
そうそう、ちょっと前まで誕生日ケーキをパステルにしようかトップスにしようかなんて言っていたのですが、なんと、今年は誕生日ケーキを無しにしましたよ! だって、最近肌荒れがひどい上に、またも二の腕と太腿がムチムチしてきたんだもの……。 我慢しすぎるのは却ってストレスになるので良くないですけれども、今はそんなに「どうしても食べたい!」という気分じゃないので。どうやら、ケーキ・モードじゃないらしいですよ。 でも、コンビニに行くと必ずチョコレートを買ってしまうんだなぁ。チョコは必需品です。 あ! ケーキ・モードじゃないと言っても、モンサンクレールのケーキが食べたいのです! あそこのケーキ、絶対に一度は食べなくては! ……と思いつつ、なかなか機会がないのですが。
※16日(金)分も更新しています。
久しぶりに産業カウンセリング関係の勉強会へ行ってきた。 今回の講座は、申し込みと受講料支払いの締め切りが先月中旬だった。その頃はまだ本職の業務が本格的に始まっていなかったこともあって、カウンセリングの勉強を精力的に続けていく気満々だったのだ。 決して安くはない受講料をずいぶん前に支払っているというのは、考えようによっては大変ありがたい。今となっては講座へ出掛けるのが面倒で仕方ないのだけれど、「お金払っちゃったんだからもったいない!」と思い、頑張って行けるのだ。どうせなら、お金の力を有効利用しましょうよ!
講座の教室では、偶然となりに座った女性が同じ大学の出身者で、びっくり&ちょっぴり感激した。受講生23人中、同じ大学の卒業生が二人いて、しかも隣同士になるなんて! さすが人数は無駄に多い大学、そこらじゅうに卒業生がはびこっているなぁ。私たちは少しばかりテンションを高くして、学内でしか通用しない言葉を使って話に花を咲かせた。
好きなことを勉強するのはやはり楽しい。けれども、カウンセリングの勉強をするたびに、私には産業カウンセラーは務まらないなぁと感じる。それは、毎日の職場生活でも感じることだ。私は自分のストレスマネジメントで精一杯で、他人のネガティブな感情を笑顔で受け止めることなんてできない。少なくとも今は絶対にできないし、これから先もできるようになるのか分からない。 資格を取った直後は、いつか何かしらの形で産業カウンセラーとしてやっていけたらと思っていた。今の職場に入って、「産業カウンセラーとしてでなくても、学んだことを職場内で活かしていければいいか」という気持ちに変わっていった。そして今は、学んだことを自分の健全な精神生活のために役立てることが先決だと思い始めている。 目的がどんどん狭くなっているけれど、いいのだろうか。 いや、今はきっとこれでいいのだ。そう言い聞かせる。だって、自分のために役立てることもできずに、他人のために何かを成し得るはずがないのだ。 それに、結局は楽しければそれでいいのだとも思う。
久しぶりに「これは!」と思える小説に出会った。 オムニバス小説『いじめの時間』に収録されている、湯本香樹実の『リターン・マッチ』。 読後、どうか主人公が少しでも救いのある道を歩めるようにと願った。少しでも幸せであるようにと。そんな気持ちになるのは、物語が私にとって真に意味あるものとなった証なのだ。どうでもいい小説は、読んだそばから頭の中をさらりと通り過ぎていく。 「こんな小説があるんだから、私なんてもう何も書かなくていいんじゃないか」という気持ちが半分ありつつ、もう半分は「私もこういう小説を書きたい!」という強い欲求。心の奥深くに突き刺さるものと出会ったときは、いつもこの相反する二つの思いが生まれる。
親子関係という、最も基本的な人間関係であるがゆえに歪みや呪縛が生じやすい難関。もがいてもがいて、たとえ大きな犠牲を払ってでも呪縛から抜け出ようとする子どもの姿。「親殺し」の儀式は、本来、正常な関係であれば夢の中での殺人や日々の中での緩やかな反抗・自立という健全な形で行われるから、精神的なレベルで終わる。けれども、あまりに歪みが大きいと、物理的な親殺しをしなければ乗り越えられないのかもしれない(少なくとも、「そうしなければ越えられない」という思いに囚われる状態は想像できる)。 私は、そうやってもがく「子ども」を、どんな手段であれ自分の力で解き放たれてゆく「子ども」を、いつか書きたいのだ。
最近よく頭の中に浮かぶイメージがある。 それは、一つの円。そして、その円に切れ目が入る瞬間。 人生がうまく行っていないとき、その人生は一つの完全な円の中にある。出口がどこにも見つからないので、同じ場所をぐるぐる彷徨っているしかない。 小説もカウンセリングも大切な人たちの何気ない言葉も、この頑丈な円に小さな切れ目を入れるものだと思う。円に切れ目ができることによって、そこから新しい可能性や一筋の光や新鮮な風がもたらされる。そうして、人はまた生きていく。 私は結局のところ、何かしらの形で円に穴を穿つことのできる人間になりたいのかもしれない。物書きでも、カウンセラーでもいいから。
自殺対策基本法というものが成立したらしい。法律が自殺を「個人の問題」ではなく「社会の問題」ときちんと捉えていることは大変意義あることだし、大きな進歩だと思う。やっと国が本腰を上げようとしているんだもの。この法律が真に意味あるものになるかどうかは今後どのような仕組みや対策が取られていくかにかかっているから、本当に大事なのはこれからだけどね。 年間の自殺者数は3万人以上。自殺の成功率は低いから、自殺未遂者は何百万人いるか分からない。理想を突き詰めれば、目指すべきは自殺者数ではなく自殺企図者を減らすこと。だって、そんなにも多くの人が「死にたい、もう生きていけない、死ぬしかない」って思ってしまう社会は絶対にどこかがおかしいんだから。
2006年06月13日(火) |
ユリ・ゲラーもハウスマヌカンも欧陽菲菲も |
※12日(月)分も更新しています。
かなり望み薄になってきたこの状況下、サッカーそのものよりも試合を観ている人たちを観察する方が面白いのではないかと思ってみたり。極楽とんぼの人とか、亀田兄弟の兄ちゃんとか。 川口選手が好きです。カッコイイから。でも、いつまでも彼に頼っていてはいけないと思うのですよ。ゴールキーパーも若手を育てないと!
で、今日は「クイズ年の差なんて」を途中まで観ていたわけですが、アダルト問題をほとんど答えられる私ってどうなの。 一部ではサバを読んでいると噂されている桜井さんですが、真相はいかに? ……いや、読んでないから! それより、ジュリアナ東京がアダルト問題って、結構ショックなんですが。
共通の敵がいることが分かって意気投合してしまったり、その敵を陰で罵り合ったり、ただそれだけの関係ならちっとも健全な絆じゃない。他人の醜悪は目につきやすいし、それを意気揚々とあげつらうことは時に異様な連帯感を生んでしまう。本当は、その行為自体が醜悪そのものなのに。 でも、こんな当たり前のことを私はときどき忘れる。そして、頭が冷えた頃にまた思い出しては自分に言い聞かせるんだ。 自分まで醜くなってはいけない。 誰かを醜くて下品だと思うなら、その人と同じ土俵に上がってはいけないんだ。それじゃあ、女がすたるでしょ。どうせ見下しているなら、何を見せられても余裕で構えていられるくらい美しい人間にならなくちゃ。 小さなことでイライラする毎日だけど、一番苛立ちを感じるのは、些細なことで内心イライラしている自分に対してなんだ。 ヘアメイクアーティストのIKKOが、「自分は完璧主義だから、他人のことも許せなくなってしまう」とテレビで言っていた。どうやら私も完璧主義者らしいから、他人を許せないのかな。 他人を真に許すって、難しいね。許しているようで、許せていない。
美しいものに触れたいと思った。 美しいものって、何だっけ。 今、私が求めている美しいものって、何なのだろう。
この記事を見てちょっと驚いた。 だって、『今宵、どこでもない場所で』を執筆中に息抜きで「これをドラマ化するとしたら……」とあれこれ想像していたのだけど、そのとき考えた渚さんのキャスティングがまさに浅野温子さんだったんだもの。髪が長くて声が低めで、女らしいけど恰好良さも併せ持つ姉貴分肌なところがジャストフィット。渚さんは30歳の設定なので、浅野さんには少々若作りしてもらって……と言っても、『あぶない刑事』のカオルみたいな感じじゃ困るんだけど(汗)。 やっぱり、人のイメージって誰が見てもある程度は決まってるものなのかね。 とにもかくにも、女らしさを失わず尚且つ恰好良い人って、好きです。思わず「姐さん、どこまでもついて行きます!」と言いたくなるような。 ちなみに、『今宵〜』の主役二人のキャスティングはいまだ決まらず。柊がね、難しいのよ。男らしいけど男臭くなくて、きれい系の顔立ちがいいなぁ……と。高校時代か専門学校時代なら、水野裕子さんとか。でも、現在の役は男優さんじゃないとダメなのね。 とまぁ、こんなふうに自分の書いた小説の脳内ドラマ化計画を進めるのが好きなんですよ。で、お約束かもしれないけど、桜井弓月もチョイ役で出る、と。 あ、『選びし者へ』のユンちゃん役は、池脇千鶴さんです。でも、あの話はミロぽんがいるからドラマ化は難しいな。誰にやってもらっても、「ちょっと違うなぁ」ってなるような気がする。やるならアニメがいいかね。 こうして作者の妄想は暴走してゆく……。
2006年06月10日(土) |
魚じゃなくて、貝もしくはエビで |
昨日、新聞のテレビ欄を確認せずに何気なくMステにチャンネルを合わせていたら、嬉しいことにB'zがB'zがB'zが! 好きなアーティストが出ると知っていて観るのと、知らずに観てたまたま出ているのとでは、感激の度合いが違いますな。弓月さん、テレビの前でかなり喜びましたがな。 某稲葉氏は、せっかく黒尽くめの衣装でビシッとカッコイイのに、パーマをかけた髪型がいただけない。私の好みじゃないので気に食わん(←恋人でもないのに、何をエラそうに!)。あの髪型は、福山雅治の方が似合うと思う。あ、でも、曲が始まる瞬間の、照明がガッと当たったアップにはしびれました。あれはカッコ良かった! で、肝心の曲はと言うと、新曲『SPLASH!』は久々にタイプの路線でして。詩も曲調も。B'zはバラードも良いんだけど、ああいう小難しくてシャウト系でちょっと怪しげな詩の曲が好きなんですわ。 中でも、「ムキ身のままでまっすぐDive」というフレーズがお気に入り。だってさ、某稲葉氏以外に誰が「ムキ身のままで〜」なんて詩を書けるよ? が、しかし! お気に入りと言いつつ、私の頭の中にはなぜか魚が浮かんでいたのであった……。それは「ムキ身」じゃなくて「切り身だ」! 弓月さん、激しく間違っているぞ! 慌てて、頭の中をアサリに修正したワタクシ。 いや、某稲葉氏はアサリのことも歌っていないと思う……。
2006年06月09日(金) |
しびれたので、真似る |
ここで前にも書いたことあるかも分かれへんけど、うち、関西弁が好きやねんな。特に男の人の。何かこう、ぐっと来るんよ。 そんで今日な、仕事で関西の男の人からの電話を受けてん。早口やったから(関西の人は、やっぱり早口の人が多いんやろか)うちはちょっと焦ってんけど、ほんでもやっぱり関西弁は耳に心地良かったわ。今風に言うたら「萌え〜」いう感じやろか。何でか知らんけど、女心くすぐられるんよ。 あとな、関西で思い出してんけど、帰りにエレベーター使わしてもらうんで通るスーパーに、たまにたこ焼き屋が出ててな。前を通ると、いいにおいがするねん。そやけどな、ほんまのこと言うて、そこのたこ焼きはそんなにおいしいことないんよ。せやから、いいにおいしても、買わんことに決めてん。こっち(横浜)にいると、おいしいたこ焼きにあんまり出会うたことないなぁ。
……関西弁は好きですが、書くのは疲れます。疲れました。 生まれも育ちも横浜の桜井です。なので、上の関西弁は適当です。きっと、むちゃくちゃです。関西方面の方、ごめんなさい。私も、横浜っぽい喋りを「とりあえず『〜じゃん』と言っておけばいいんでしょ?」と思っている人には突っ込み入れたくなるので、お気持ちは分かります。でも、関西弁好き(感じの良い男の人限定)のお遊びと思って、許してくださいm(_ _)m なお、明らかな間違いがありましたら、ご指摘くだされば幸いなり。
ちょっとスムーズにいってると調子に乗って油断し、大きなヘマをやらかしてみたりする桜井です、こんばんは。何事も慣れてきた頃が一番危ないのですよー。 そしてそして、何気に自分の苗字が言いにくいということに気づきました。この際、職場での名前も「桜井」にしてしまいたいのですが、だめですか。だめですね。 あーそうそう、昨日喉が痛かったのは、やはりエアコンの当たり過ぎみたいです。今日はもう何ともないもん。風邪じゃなくて良かったです。 ヘマと言えば、携帯電話をこまめにチェックしなかったせいで、もう何年も会っていない友達と久しぶりに会えるかもしれない機会を逃しました。ぎゃふん。でも、別の友達のおかげで、ずっと会っていなかった友達ともまた連絡を取り合えそうです。嬉しいかぎり。 職場の同期との繋がりができればできるほど、逆に、学生時代の友達も本当に大事にしなきゃなぁと思います。おかげ様で、いろんな年代の人がいる職場でも何ら違和感なく毎日を過ごしているわけですが、同い年の友達と久しぶりに電話で話したり会ったりすると、やっぱりね、「本来の場所に戻ってきた!」って感じがするのです。はっちゃけ方が、違うよね。 古い友人とまた繋がりができると分かったとき、一点の曇りもなく純粋に嬉しかったり楽しみだったりするのは、私が今の自分や置かれた環境にそこそこ満足しているからでしょう。胸を張れないと思っていたら、長年会っていない人には特に会いたくないものだから。
2006年06月05日(月) |
着ぐるみうさちゃん、暑くて大変そうだ |
昨日、絵手紙の第4回目の添削課題を描いたのだけど、なかなかうまくならないんだよなぁ。絵はもちろんだけど、字ももう少し味わいが出るように書きたい。 で、今日は月曜日。 月曜日って、眠いのね。おまけにちょっぴり喉が痛い。職業病になるほど仕事していないので、もしかすると風邪の手前かも。と言うわけで、うがいうがい。あ、それかエアコンの当たりすぎかもな。でも、エアコン止めると暑くなるからねぇ。寒いときは止めてもらうんだけど。職場の温度調節って難しいと思う今日この頃。 職場と言えば、タイムカードの記録をつい忘れそうになる。朝も帰りも、誰かがやっているのを見て「あ、いけない!」と思う毎日。完全に忘れてしまって、欠勤扱いになる日がいつかやって来るのではないかと心配しつつ、相変わらず意識の低い私であった。 帰るとき、駅前でうさぎの着ぐるみが「本日開店」と書かれたプラカードを持って立っていた。どうやらパチンコ店の宣伝らしい。うさぎの着ぐるみなので、当然のように小さい子供たちに囲まれていた。パチンコの客層にPRできているのか、いまいち疑問な光景であった……。住宅街の駅前にやたらパチンコ屋があって教育上も景観もよろしくないので、PRできてなくても別にいいんだけど。 パチンコ屋って、9時の開店前からあんなに並んでるのが不思議。好きな人は余程好きなのねぇ。 着ぐるみと言えば、まだ幼稚園か小学校低学年だった頃、スーパーの前でLIONのライオンちゃんに握手してもらったことがある。
2006年06月03日(土) |
キャミが1枚1400円! |
前置き。 今さら改めて言う必要もないことだけれど、私は車椅子ユーザーだ。自力での起立や歩行はまったくできない。私の体を司る脳は私がこの世に生まれるときに何らかの不具合を起こしたらしく、そんなわけで私は生まれてからずっとこの体と付き合っている。 車椅子との付き合いが始まったのはそれから遅れること6,7年後だから、もう20年近くお世話になっていることになる(この20年の間、何台も乗り換えたなぁ)。 哲学者メルロ=ポンティは、盲人にとっての杖やピアニストにとってのピアノを「身体の延長」と表現したけれど、私にとっての車椅子もまさにそれだ。車椅子のタイヤの、地面と接している部分までが、私の身体。 (だからだろうか、操作を誤って壁などにぶつかってしまったとき、私は思わず「痛っ」と発してしまう。自分自身はどこも痛くないのに) 私にとって、車椅子で移動することは概念的には歩くことと同じことだ(もちろん、本質的に同じ意味になることは、これからもないのだろうけれど)。だから、私は平気で「駅まで歩いて行く」などという言い方をする。中には私が「歩く」という言葉を使うことに戸惑う人もいるようなので、無用な混乱を引き起こさないために「歩いて、って言うか、この車椅子で」のように言うときもあるけれど、とにかく、私にとっては「歩く」なのだ(ちなみに、電動車椅子の最高時速で行くのは「走る」になる)。 長い前置き終わり。
この日記でも何度も書いているけれど、私は4月から徒歩通勤になった。今の職場までは、歩いて20分弱、往復40分だ。 前の職場は電車通勤だった。電車に揺られている時間は、片道18分。往復で36分。私は、この時間の多くを本を読んで過ごしていた。36分まるまるというわけにはいかないけれど、毎日30分くらいは読書時間として確保できていた。 しかし、今は徒歩通勤。当然、通勤中に本を読むことはできない。 職場まで歩いて行ける距離だなんて、こんなに助かることはない。徒歩通勤のおかげで、負担がずいぶん軽減されている。けれども、電車に揺られながらの読書時間がなくなってしまった点だけは、ちょっぴり惜しい。 小説の世界にどっぷり浸かるのは、程よい現実逃避になる。仕事という現実と、家でのプライベートな生活という現実。読書は、二つの現実の間でうまく切り替えをするためのワンクッションだった。仕事とプライベート、互いに悪影響を及ぼさないようにするため、現実を一度リセットする時間だったのだ(とは言え、過去は美化されるので今はこんなふうに書いていられるのだろう。本当は、リセットしきれないことが多かったはずだ)。 今は、読書の代わりに時速6キロで疾走したり空を見上げたり買い物したり頭の中で歌ったりして、リセットし(ようとし)ている。これはこれで結構気持ちが良いのだけれど、電車内での読書には、やはり特別の心地良さがある。周囲に大勢の人がいることで、かえって自分一人の世界に集中して閉じこもれるという感じ。
今日は、久しぶりに電車内での読書を楽しんだ。電車に乗るのは、またもや一ヶ月ぶりだ。休みは毎週のように引きこもっていたけれど、週の初めから「今週末は買い物に行くぞ」という気分だった。 読んでいたのは、女性作家を集めた短編集。一行読むごとに、頭の中は現実世界からフィクションへと移行していく。床にべったり座ったカップルも、子供のはしゃぐ声も、何も気にならなくなる。 もしかすると、買い物だけでなく電車に揺られながら本を読むことも、今日の目的の一つだったのかもしれない。 出掛けた先で思いのほか安いお店を見つけ、ずいぶん悩んだ末に洋服を大量に買ってしまった。いくら安くても、たくさん買えば出費はかさむわけで、月初だというのに財布がすっからかん……。本当はスカートがほしかったのだけど、「これだ!」と思うものを見つけられずに今日は断念。 でも、気に入ったものをそれなりに思う存分買ったから、大満足だ。 そして、帰りの電車ではまた読書。 贅沢な休日だった。 しかし、しばらくは緊縮財政……。しかも、このままでは洋服を仕舞いきれないので、古くてあまり着ないものはどんどん処分しなくては!
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