月に舞う桜
前日|目次|翌日
家の前でセミが鳴き始めたことは昨日の日記でも触れましたが、セミはセミでも、今日はなんと、ヒグラシが鳴いていました。 ヒグラシと言えば、8月末、ちょうど学校の夏休みが終わる頃に鳴くイメージがあるので、あの「カナカナ」という鳴き声を聞くと夏の終わりを感じてちょっぴり寂しくなったりもするのですが、こんな時季に聞くと寂しさを感じると言うよりも、戸惑ってしまいます。 夏が始まったと思ったら、もう終わるんでしょうか……。んなわけないか。でも、明日あたりツクツクホウシが鳴き出したらどうしましょう。それはさすがに焦りますわな。よくよく考えると私が焦る理由はないし(だって、私はもう宿題を抱えた学生じゃないもの)、焦ったところで何をどうするということもないのですが、それでもやはり意味もなく焦ると思います。
26日付の日記に書いた「桜井の電動車椅子、相次ぐ不具合」事件のその後であるが、紺ちゃん故障に伴って急遽引っ張り出してきた黒ちゃん1号は、26日の夕方に業者さんが来て、外れたタイヤを交換してくれたので何とか使えるようになった。紺ちゃんが退院するまでは黒ちゃん1号でしのぐことにする。黒ちゃん1号のバッテリーは耐久時間が短いので、ヒヤヒヤものではあるが。加えて、黒ちゃん1号は紺ちゃんに比べてスピードが出ないので、通勤中はちょっとイライラする。と言っても、時速4km出るから人間の歩くスピードと同じなのだけどね。つくづく自分って我侭&贅沢だなぁと思う。でも、最高時速6kmに慣れてしまうと時速4kmが結構遅く感じるものなのだ。
朝日新聞29日付の天声人語に載っていた松本サリン事件被害者の河野義行さんの言葉に衝撃を受ける。自分と家族が被害に遭い、さらには自分が容疑者にまでされて、それでも尚あんなことを言えるなんて、ただただ頭が下がる。どうしたら、ああいう人になれるのだろうか。偽善的な理想論ではなく苦しんで苦しんで苦しみ抜いた末に辿り着いた心境だから、こちらの心を揺さぶるのだろう。そういう人の言葉にこそ、真実があるのだと思う。 家の前ではセミが鳴き始めた。うるさい。が、地上に出たあとは束の間の命であることを思うと、「頑張って鳴け鳴け」と激励したくもなる。 夏。みな生きて生きて、ただひたすら生きている。
そもそもの始まりは昨日(7月25日 火曜日)のこと。 支援費制度が9月からまた若干変わるとのことで(審査が、より事細かくなる)、ヘルパーさんを継続で頼むのでも申請し直さなきゃならなくなった。で、申請には医師の意見書が必要なので(半年前はそんなもの必要なかったのにぃ!)、昨日、会社を早退して病院へ行ってきた。 会社→病院→自宅は母に車で送迎してもらったのだけど、家に着いてトランクから電動車椅子(愛称「紺ちゃん」)を下ろしたら……何がどうなっているのか分からないが、故障した( ̄□ ̄;) 電気は入る。だがしかし、6輪のうちの後輪2つが地面にしっかり接していなくて、ガタガタととにかく不安定。こりゃ怖くて乗ってられん! ということで、業者さんを呼んで修理点検のため引き取ってもらった。 紺ちゃんが入院してしまうと、私は外に出られない=仕事にも行けない。さすがに一週間も休むわけにはいかないので、一年前まで使っていた先代電動車椅子(愛称「黒ちゃん1号」)を押入れから出してきて使うことに。 これでまぁ何とかピンチ脱出、とりあえず一件落着だわ、と思いきや! 今朝家を出てちょっと進んだら、何と後ろの小さなタイヤの片方が外れた( ̄□ ̄;) いや、ゴムが劣化しているのを忘れていた私が悪いんだけどさ。 このままでも走れないことはないのだろうけれど、本当に安全なのか不安なので、念のため今日は仕事を休むことにした。 家に予備のタイヤがあったので付け替えに来てもらえるよう業者さんに電話したのだけれど、いかんせん、その予備のタイヤは黒ちゃん1号用のものではなく紺ちゃん用のものなので、うまく行くかどうかも分からない。もしタイヤの型が合わなければ、明日からどうなるんだ、私。仕方ないから1輪外れたままで動き回るのだろうか……。 電動車椅子が入院するなんて初めてのことだ。困ったねぇ。 それにしても、急用でも体調不良でもないのに突然休むことになると、家で何をすればいいか分からなくなるのね。何せ、外出できないしさ。それでこうやって、朝の9時半という早い時間からグチグチと日記を書いているわけですよ。日記って一日のまとめの時間に書くものじゃないの? と思いつつも。 あー、黒ちゃん1号が無事使えるようになればなぁ。そして、紺ちゃんが早く無事に退院してくれればなぁ。
2006年07月22日(土) |
オスとメス、男と女、理性と本能 |
誰と恋に落ちるかはフェロモンで決まるのだと聞いたことがある。やさしいだとか価値観が合うだとか言ってみても、結局のところ相手が出すフェロモンに惹かれているのだと。 人間の場合も本当にそうなのかどうか、私は知らない。でも、「私はいま、この人のフェロモンに反応しているな」と思うときがある。恰好いいとか体格が好みとかではないのだ。ただ何となく、その人のにおいや立ち振る舞いや全体的な雰囲気に惹かれている。 そのとき、私たちは男と女ですらなく、オスとメスなのだと思う。たぶん、私のメスとしての本能がオスのフェロモンに反応している。直感的に、それが分かるのだ。 ところが人間というのは厄介なもので、本能のまま恋に落ちるのを理性が食い止めてしまうことも多々あるものだ。本能的に惹かれながらも、相手と話せば話すほど「価値観が違うな」とか「話が合わないな」などと理性の部分で考えて、恋に落ちてしまう前に踏みとどまる。自分にとって譲れない部分で相手と合わなければ、ブレーキを踏む力は大きくなる。それでもなお、相手の「オス」に惹かれている本能を無視することはできない。そして、またちょっと理性がぐらついては、「でもやっぱり無理だ」と頑なに思い直したりするのだ。 「オスとしては魅力を感じるけれど男としてはそうでもない」という人はたくさんいる。逆も然りで、男性としてはいい人だけれどオスの部分に魅力を感じられない人も。男性にとっての女も同じようなものなのかもしれない。 本能で惹かれて理性でも惹かれないと自分の中でGOサインが出ないとしたら、恋に落ちるとはかなり奇跡的なことではないかと思えてくる。 人間は、子孫を残す目的で交尾をするために恋に落ちるわけではない。だから、難しいのだ。 とか何とか屁理屈こねているから、出会いの機会が遠のくんだろうな……。
2006年07月21日(金) |
It's a beautiful world |
仕事のあと、職場の人たちとご飯を食べに行った。男性数人が車を出してくれて、横浜駅周辺まで繰り出す。外は雨上がりの曇り空。車から見上げたランドマークタワーは、天辺がもやで霞んでいた。 私が乗せてもらった車の運転手さんと私の音楽の好みが一致して、カーコンポから流れていたのはMr.Childrenの曲。「何に縛られるでもなく 僕らはどこへでも行ける」(『Worlds end』)と歌っていた。 コース料金に含まれているスパークリングワインは私には思いのほか度数が強く、一口二口飲んだだけで食道がかぁっとなる。他の果実酒は驚くほど薄くてジュースのようだったのに。 お酒を飲むのは好きだ。でも、決して強くはない。強くないことを自覚しているようないないような、中途半端な自分がいる。今日もほろ酔い気分で思考回路が働かなくなり、「ほら、お酒強くないんだから」と自嘲気味に言い聞かせた。 笑って食べて仕事の愚痴を言ってまた笑って飲んだ(もちろん、車を出してくれた人たちはソフトドリンクを)。たぶん、一緒に飲んでいる人たちが同期であるというのがポイントなのだ。たまにはこんな日もなければ、やっていられない。 会がお開きになって、お店の前で皆と別れた私は電車で帰るため駅へと急いだ。ほとんどのお店がシャッターを下ろした地下街を突っ走って突っ切って。 エレベーターに乗るとき、自分のいる階のボタンを疑いもせずに何度も押しては「何でつかないのっ!」と悪態をついた私は、やはり酔っていたんだろう。でも、いつもより酔いが進んでいたから、いつもみたいに寂しくはならなかった。疲れと眠気が勝っていたのだ。 一人でただただ帰り道を急ぐとき、なぜか「やっぱり世界は美しいんだ」と思った。どんなに醜い人間が溢れているとしても、それでもやっぱり。 酔って思考回路がふらふらで疲れて眠くても、どこへでも行ける気がした。カーコンポから流れていた歌の通り、何にも縛られずに、ただただどこまでも、世界の果てへも突っ走って行けるような気がした。
連休明けということもあり、てんやわんやな一日でございました。 がんがん電話を受けているうちに喉が疲れて声が出にくくなるも、何せ、うがいしに行く暇がないんだもの。
ところで、土曜日の日記に書ききれなかったことなのですが。 とある駅で、エスカレーターの傍に大きな貼り紙がしてありました。「駅や車内でのベビーカーのご使用はお客様の責任で行ってください」と、「ベビーカーに赤ちゃんを乗せたままのエスカレーター使用は大変危険です」という言葉が書かれていました。原文ママではないですが、大きく違ってはいないと記憶しています。 私は、見た瞬間に「感じ悪っ!」と思ってしまったわけですよ。わざわざ「お客様の責任で……」と書くなんて、そっちの責任で使ってるんだから何かあっても知らないよ、ということなんでしょうかね。その上、後半の文面に至っては、「エレベーターのない駅で、じゃあどうしろと?」と思うわけなんですが、どうなんでしょう。片腕に赤ちゃんを抱いて、もう一方の手でベビーカーを持って、荷物があってもそれも何とかしろということなんですかね。個人的にはむしろそっちの方が危険で、慣れている人なら赤ちゃんをベビーカーに乗せたままの方が余程安全な気もしますが、問題はそういうことではなく、駅の設備が整っていないことを棚に上げて、よくしゃあしゃあとそういうことを書いて貼り紙できるな、と唖然とするわけですよ。 しかも、「ベビーカーに赤ちゃんを乗せたままエスカレーターを使用して段を踏み外しそうになっているママと、傍にいてその状況にヒヤヒヤしている人たち」のイラストが真ん中に大きく描かれているのです。イラストの中に、手を貸そうとしている人は一人もいないんですね。このイラストに、この鉄道会社の根本的な姿勢を見た気がしました。 私が子どもを作らないと決めているのは私の勝手ですが、子どもを産み育てたいと思っていてそれが可能な人たちには何の気兼ねもなく子育てしてほしいのです。そういう世の中にしないといけないのです。 子どもを大事にしない社会を作ってしまうって、恥ずかしいことなんですよ?
※15日(土)、16日(日)分も更新しています。
ぎゅっと目をつぶると目の奥が痛い。ここが痛むと、目から頭に神経が繋がっていることがよく分かる。頭痛に近い感じなのだ。朝から眼球マッサージをしているのだけど、それと同時にパソコンも使っているのでなかなか治らない。 今夜は優香が主演の「デューク」というドラマが放送される。オムニバスドラマの中の一本らしいけれど、そんなことは私にとってはどうでもよく、重大なのな江國香織のあの「デューク」がドラマ化されるということだ。好きな小説であればあるほど、映像化されたものを観るとがっかりしてしまう。でも、今夜のドラマはなぜかものすごく楽しみなのだ。 「デューク」は短編集『つめたいよるに』に収録されていて、私の好みで言えば江國作品の中でも5本の指に入る小説だ。思い出すだけで胸が詰まって泣けてくるような素敵な物語だったなと思って、さっき読み返してみたら本当に涙ぐんでしまった。 たった8ページの小説をどんなふうに映像化しているのだろう。あの世界や空気をどんなふうに表現しているのだろう。オムニバスのタイトルを『恋愛小説』としているあたりがちょっと心配なのだけど(なぜなら「デューク」は恋愛小説ではないから)、それでもやっぱり、とても楽しみだ。
2006年07月16日(日) |
みんなが顔を上げて生きていくためには |
伊集院光さんが好きです。頭の良いところとか、浮ついていないところか、問題意識があるところとか、問題意識があっても発言が過激すぎないところとか。 長年何かを一生懸命こつこつやってきた人が「自分は地味だなぁ」と思ってうな垂れているとき、周りが「冗談じゃねぇ! そんなにこつこつやってきて、地味なわけがない!」と言ってやれる世の中になれば良い、と彼がラジオで言っていました。 確かにその通りだと思います。でも、「本当は地味って素晴らしいことじゃん!」という風潮も同時に育てていきたいし、育てていくべきなんではないかと思うのです。「地味」という言葉にマイナスの意味を持たせているからその人はうな垂れているのであって、社会の根本的な発想を変えていけば自ずと顔が上がってくるのではないかと。 「地味なわけがない」と言うのも「地味って素晴らしいこと」と言うのも他人を認めることに変わりはないのだけれど、相手がどちらの言葉を欲しているのかは、その人の性格や歴史や置かれた状況によって違うんですよね。そこら辺が人間関係でもカウンセリングでも難しいところだなと思います。 こんなふうに「あなたの言う通りだと思う。でも、もう少し考えてみると……」と思考回路をどんどん広げてくれる、そんな伊集院光さんがやっぱり好きなのです。
どちらかと言えば冬より夏の方が好きだけれど、それにしても最高気温が人間の平熱ほどもあるなんて暑すぎる! 特に駅構内はこれでもかというくらい蒸し暑くて、比喩じゃなく本当に息苦しかった。「暑い」という文字がありとあらゆるフォントで頭の中に並ぶ始末。 そして電車の中は寒すぎる。体がついていかない。ぎゃー! 心の中で「何でこんなに暑いんだ!」と悪態をつきながらどこへ行ったかというと、カウンセリング理論の一つであるTA(Transactional Analysis)の講座に参加したのだった。月に1回、全3回行われる講座で、今日はその第2回目だった。 教室の中は前回より構えが取れた雰囲気だったし、私自身も前回知り合った方と休憩時間にいろいろとお話させて頂いたりしてリラックスしていられた。同じものを勉強しているという人間関係は、垣根を取っ払いやすいのかもしれない。まぁ、これがカウンセリングを学んだ者同士の特徴かもしれないけれども。
子どもを産み育てるのはなんと恐ろしいことなんだろうと、また甚だ見当違いなメッセージを受け取っている自分に気づく。講師はそんなことを伝えようとしているわけではないのだ。私は自分で間違った受取り方をしていると分かっているのだから別にいいか、と思うことにする。 親の存在と生育環境は子どもに大きな影響を及ぼす。私は自分が一人の人間(それも、これから育っていこうとする未熟な人間)に対してそれほどまでの影響力を持つ存在になることが怖くてたまらないので、「親」というものになるつもりはない。 人間は8歳までに他人との関わり方や物事の見方や物事への姿勢を習得・決定し、それ以降は8歳までに獲得したものの証拠固めをして生きていく、という。それが本当なのかどうか私は分からないけれど、間違った視点でメッセージを受け取ってしまうことも、私がしている証拠固めの一つなのかもしれない。そう思って、苦笑した。
こんな個人的なひねくれはさておき、なるほどと思った話を。 職場では「問題が起きたらすぐに報告しなさい」と言われることは多くてそれは確かに必要なことなのだが、「よかったこと」を報告しようという雰囲気はないし、「よかったこと」というのはあまり共有されない。でも、「よかったこと」も職場の仲間にどんどん話して、嬉しい気持ちを共有した方がいいんですよ、と講師の先生が仰っていた。そもそも、問題を報告すると怒られることが多いわけで、「言うとまた怒られるだろうなぁ」と思って言いにくくなるし憂鬱になってしまう。問題が起きたときしか報告しないような風土だと、息が詰まって人間関係が円滑にいかないこともある。だから、普段からよいことこそどんどん言えるような関係を作っておくのが良い、と。 自分を振り返ると、確かにそうなのだ。チームでの仕事なら一つのプロジェクトが終わったときに打ち上げをやって達成感を共有することも多いだろうけれど、オペレーターなんてまさに個人プレイなので、意識していないと「よかったこと」を共有しづらい。私も、仲間内で愚痴ならガンガン言うけれど、思いのほかうまく行って嬉しかった応対のことはあまり話さないもの。 仲間と話せる時間は限られているから、嬉しかったことより愚痴が優先されるのは当然のことだ。私も含めて、皆「これを話して発散したい!」と思っているわけだから。そして、愚痴を言い合うことはそのあとの仕事をスムーズにこなすためにもとても重要なことだ。 でも、「よかったこと」を共有するのも本当は同じくらい重要なのだろうな。嬉しい気持ちを人に話す。健全な人間関係であれば、たいていの場合は聴いた方も嬉しい気持ちになる。話した方は「よかったね」とか「すごいね」などと言ってもらえて、さらに嬉しくなるし自信が増す。それがまた仕事への活力になるのだ。 それから、個人的にちょっと考えてしまたことがあった。仕事上での嬉しかったことを何となく話しづらいのは、「それって自慢?」と思われるのではないかという「構え」が私の中にあるからではないかな、と。これは私に限ったことではなくて、日本全体にある風潮かもしれないけれど。でも、「人にあまり自慢話をするものではない」というのは、たぶん間違った奥ゆかしさだよなぁと思う。 じゃあ連休明けから職場ですぐに「よかったこと」を共有できるようになるかと言えば、そんなことはないのだろうけれど、日々意識して、努力していければよいとは思う。忙しかったり愚痴が溜まったりすると、すぐに忘れるけれどね。
2006年07月14日(金) |
大きな木陰は作れないけれど、その代わりに |
朝起きたときには、すでにかなり暑かった。 外へ出ると、目眩がするほどの強い日差し。日焼け止めは塗っているものの、無防備なうなじと腕がじりじり焼けていく。 こんな日は、樹木の偉大さを思い知る。ただそこに立っているだけで、大きな影を作って人をほっとさせる。その下で庇護されていれば、吹く風も涼しくて心地良い。 そんな存在って、いいな。でも私は人間だから、樹木にはなれないのだ。人間は人間なりに生きていくしか術がない。時に大人だったり時に子どもだったりしながら。 生きるというのは一日一日を積み重ねていくことだ。日々を積み重ねていけば、「そうじゃないんだよ!」と思うようなことも少しずつ増えていく。増えてはいくけれどね、人間には言葉があるから、積み重ねては解消することだってできるんだよ。つまりは、言葉を尽くす努力を惜しまないかどうかなんだろう。
2006年07月13日(木) |
Singin' in the Rain |
職場にいると外の状況が分からない。エアコンをつけているので外がどれくらい暑いのか分からないし、ブラインドを下ろしているので晴れているのか雨が降っているのか、はっきりとは分からない。 それで、「さて帰るか」と職場から一歩外へ出た瞬間に、強烈なむしむし空気に襲われて現実を思い知ることになる。思わず「うわ、暑い……」と呟いてしまうこともあるとかないとか。 今日は私が職場を出ると同時に雨が降り出した。雲の切れ間から太陽も青空も覗いているのに、雨。でも、これだけ蒸し暑いなら雨に濡れるのも気持ちが良い。ちょっと嫌なのは、バッグと靴が濡れてしまうことくらいだ。 雨と太陽と排気ガスと木々のにおいを感じながら、少しずつ強くなる雨に濡れて家路を急ぐ。急ぐけれど、心はちょっぴりウキウキしている。あぁ、やっぱり私は雨に濡れて歩くのがそんなに嫌いじゃいんだ、と思う。嫌いじゃないと思えるは、きっと、雨にも負けず射し続ける夕陽のおかげなんだろう。雨の降る日は嫌いだけれど、今日の帰り道は悪い気分じゃなかった。 私の中で小さくくすぶる不協和音は、太陽の光と雨のにおいで溶けてしまえ。
モチベーションが下がり気味な今日この頃。と言っても、セールに行ったり遊びの計画を立てたりするモチベーションはもちろん高いのだけれど。下がっているのは、桜井弓月としてのやる気と、いろいろな人と密に関係を結ぶことへの気力。 ここで日記を書くことに意味を感じられなくなっていた。書くことに意味を感じないという心持ちは周期的に訪れる。だから、今回もきっと一時的なものだろう。意味を感じられない時間に、エネルギーを蓄えているのだと思う。
今日の嬉しかったこと→サンドイッチがおいしかった、昨日よりも早く帰ることができた 今日の悲しかったこと→口紅が折れそうになった(半分くらいヒビが入っていて危険な状態) 今日の偉かったこと→チョコレートを食べなかった
明日もいい日でありますように。
2006年07月05日(水) |
泡ですべてを洗い流す |
人間は失敗して成長するものなのだよ、とか、完璧主義は自分の首を絞めることになるよ、とか、そんなことを自分に言い聞かせながら雨脚を気にする帰り道。 「普通」や「みんな」というものが、ときどき分からなくなる。「普通」や「みんな」なんてものは実際はどこにもないわけで、どこにも実体の存在しないものを基準にすることがナンセンスだということは重々承知している。が、重々承知した上で、やはり「普通」というものを考えてしまうのだ。 「普通は、どれくらいの失敗なら落ち込むものなのだろう」とか、「みんな、どのレベルに到達すれば自分を許し、認めているものなのだろう」とか。 意味のない基準を求めるのは、たぶん気休めがほしいからだ。だめなんじゃないかと思いかけているから、「でも、本当は自分は大丈夫なんだ」という安心感がほしいのだ。
下らないことをぐだぐだ考えそうになった私は、一日で溜めた心の汚れを急いでメイクと一緒に落としにかかる。 そして、ビオレのにおいに癒されるのだ。
2006年07月04日(火) |
生まれてたかもしれない日 |
7月4日は、私の誕生日になっていたかもしれない日だ。平たく言えば、(母の)出産予定日だったのだ。 もしも7月4日に生まれていたら、私の人生はいま歩んでいるものとちょっと違っていたりしたのだろうか。誕生日で占う運勢がどうのと言う話ではなくて、例えば、母のお腹にもう半月長くいることになるのだから、もしかすると未熟児ではなかったかもしれないし、もっとすんなり生まれてくることができて五体満足だったかもしれないし。五体満足であれば興味の対象も多少違って、今とはまったく違う道に進んでいたかもしれない。体の状況は人格形成にも大きな影響を与えるだろうから、性格とか物事の捉え方とかも違っていたのかな。 でも、持って生まれた性格というのはやっぱりあるのだろうと思うわけで、そうすると、基本的な価値観や嗜好は大して変わらないだろうなという気もするのだ。
2006年07月01日(土) |
左手が空いています。 |
新宿で乗り換えて、目的地へ。 日本で一番利用者の多い駅だけあって、新宿は凄まじい数の人で溢れかえっている。ただでさえ蒸し暑くて疲れるのに、人酔いまでしそうだった。 でも、日常的に混雑している駅というのが私はそんなに嫌いではない(何かイベントや非常事態があったせいで、いつもと違う様子で無秩序に混んでいる駅は本当に辟易するけれど)。行きたい方へ歩くだけでもかなり気力を消耗すると言うのに、それでもだ。それでも結構気に入っているのだ。 広い広い駅構内を、いろいろな人たちがいろいろな方向へ歩いていく。それぞれに、手を繋いだり早足だったり迷ってキョロキョロしたり外国語を話したり家族で笑い合ったり暑さにうんざりした顔をしながら。その大勢の人の中にいると、「あぁ、私もここでこうしてちゃんと生きているんだわ!」という感じがする。勝ってるわけじゃない。でも、負けてるわけでもない。私は私で、自分の道を自分で選んで歩いているのだ。
本当は一人で行けるところなんて限られているのに、新宿の人波をかき分けて歩いていると、一人でどこへだって行ける気がしてくる。誰もいなくても、一人でずんずん進んで行けそうな気が。 その反面、誰かがいればいいのにとも思うのだ。できるかできないかじゃなくて、何を願うか願わないか。 一人でも行ける。でも、誰かがいてくれればいいのにと感じる瞬間がある。 手を繋いだカップルを追い越す。手を取り合わないと歩けないわけじゃない。彼らは、手を繋ぎたいから繋ぐのだ。 私の左手は空いているよ、と思う。寂しいだけでもなくて、楽しいだけでもない。左手を埋めるためにも、私は一人で、どこへだってずんずん歩いていく。
帰りの電車では、私より年下の男女4,5人が楽しくてたまらなそうに喋っていた。 女の子が、「やばいよー、ハタチになっちゃうよー」と嘆いた。私はそれを聞いて、心の中で苦笑する。 うん、でもね、その気持ちは分かるよ。私もきっとそうだったから。 同じように嘆いたはずなのに「きっと」としか言えないのは、私にとってハタチが大した転機ではなかったからだろう。19歳でも20歳でも、私は相変わらず大学生で、生活に何か変化があるわけではなかった。だから、あまり覚えていない。 でも、「ハタチになっちゃうよー」と嘆いた頃、その瞬間はたぶんキラキラしていたと思う。今日の電車の彼女みたいに。 年を重ねなければならないことを、嘆く。楽しげな嘆きなら、それは年を重ねる上で必要な儀式なのだろう。最近、そんなふうに感じるようになった。
|