希望の日記

2005年06月30日(木) 喧嘩人生

 俺の人生は喧嘩人生だ。今日もhが朝一からからんできたので、切れてやった。喧嘩上等だと言ったろう。喧嘩人生をまっしぐらに進んでやる。文校でもあいつの顔がちらつくと気分が悪くなった。でも文校は偉大だ。かなり気分が改善した。2次会は無理がある。今まで無理をしていた。自分の嫌がることをしてはいけないと言ったろう。薬の分量を間違えていた。必要量の半分以下しか飲んでいなかった。道理で喧嘩するはずだ。もう時計は元には戻らない。でも喧嘩はコミュニケーションであってそれを避けるのは卑怯なことだ。自分を大事にしよう。喧嘩上等。やっぱり俺の人生はこれで行こう。下腹が痛い。リスパさえ飲んでいれば思わずキレルと言うことはなくなる。意識的にきれるのは構わない。逆上すると言うのは禁物だ。あいつらはチンピラ上がりだから始末に負えない。こっちまでおかしくなる。でも文校の連中もかなりなものだ。遊びだから良いけど仕事だったらきれるかも。ふと小学校の頃付き合った絵のうまい劣等生のことを思い出した。ものすごく性格が悪くて意地が悪かった。芸術は人を残酷にする。こっちも残酷になる以外ない。それはそれで良いのだろう。何もかも嫌と言うのは許されない。清らかでいるためには何かが必要だしそれがないならとことん汚れるかだ。自分を守るためだ。喧嘩上等だ。女はいいなと思うよ。10代がいいな。まだきれいだ。やる気満々の女は嫌だ。
 掲示板の皆さんは真面目だと今更気付いた。egのときにも思ったが思わずふざけたくなる。私は遵法意識が低すぎるなと思った。常識や道徳がないというのはそれが原因だ。n女史はでも遵法意識低そうだが憎まれない。羨ましい。私は暗いとよく言われた。今も言われる。反社会的だ。小学校まで明るかったのにいじめをきっかけに暗くなった。喧嘩上等人生に走ろう。俺は法学部で喧嘩の勉強はしている。自分を守るためには当然だろう。いじめられて黙っていてはいけない。必ず復讐しよう。このままでいい訳ない。



2005年06月29日(水) 喧嘩上等

 今日はhと喧嘩しそうになった。紙を投げたように見えたのでぶちきれた。前にもやったことがある。俺はもう我慢しない。hとkに虐げられたらきれてやる。昨日今日と疲れていることは確かだ。統合失調症気味であることも確かだ。昨日はボールをぶつけてきたガキを自転車で追いまわそうとした。いってみたらいなかったが。今度会ったら必ずビビらせてやる。電車でキチガイにからまれたことがある。堺で。キチガイに突き飛ばされたことがある。堺で。喧嘩上等だ。喧嘩を売ってくるならいくらでも買ってやる。あのババア北原が帰ってきたら話をしよう。
 掲示板は私はずいぶん雰囲気を悪くしてたんじゃないかなあ。uさんと二人で荒らしまわった。空気が読めないのよね。反省。文校でも同じだ。moeでも同じだ。空気が読めない。常識と礼儀に欠ける。egでもババアにきれられた。あのきちがいs口の態度が知らぬ間に移ったのだ。遡れば京都人の態度と同じだ。s口は京都人で京都ではあれが普通だ。あのキチガイじみた態度。私はそういうのは嫌いだ。絶対許せない。真面目にやれ。でも私がいつのまにかそういう風になっていたのだ。嫌な京都人の風が移っていたのだ。でも改めよう。礼儀と常識にかなったことだけやろう。喧嘩と言うのはある意味効率的なコミュニケーションだと考えている。相手が何を考えているかはっきり分かる。こちらの言いたいこともはっきり言える。表面だけ何事もなく終わることだけ考えているのはだめだ。ばう氏も同じ考えらしい。喧嘩じゃなくコミュニケーションだ。コミュニケーションは喧嘩かもしれない。おはようって大きなお世話じゃないか?どちらへ?ってお前の知ったことじゃないだろう。喧嘩の売り合いなんだ、コミュニケーションというものは。常識と礼儀は素晴らしい。逆に今まで如何にこれを無視しまくっていたかだ。ヤクザやさんだって喧嘩には仁義がある。仁義を守らない奴にはひどいことをする。常識、礼儀、道徳。これを大事にしよう。



2005年06月28日(火) 腹が立つ

 腹が立つ。帰りにクソガキがボールをぶつけてきた。なんでそんなことをされないといけないのか。必ず復讐する。刺青をしたクソ女が自転車をぶつけてきた。堺の奴らは全員おかしい。喧嘩上等だ。いちいち喧嘩売ってきやがって。全部買ってやろうと思った。負ける気がしない。復讐したい。俺に苦しみを与え今も与えている奴に復讐がしたい。絶対に復讐しなければならない。喧嘩上等だ。なめてんじゃねえ。キチガイばっかりだ。この堺は。あのババアはキチガイじゃネエのか。いい加減にしろよ。絶対に復讐してやる。同じ苦しみを味わわせてやる。俺は恐かったのだ。あの気が狂ったドーパミン出まくりのキチガイが俺に向かってくるのが恐かったのだ。それまで安穏に暮らしていたのに。あのキチガイがやってきた。喧嘩上等だ。キチガイども。いい加減にしろ。
 キチガイばっかりだ。堺は。しかし私はもうビビらない。喧嘩上等だ。負ける気がしない。必ず復讐する。



2005年06月26日(日) 喧嘩上等

 父親は気が弱く、喧嘩などできない人だった。喧嘩はしてはだめだろう。でも世の中の人間は喧嘩ばかりしている。それが日常だ。戦争までするやつもいる。自爆テロまで。人は命とお金と尊厳は必死で守らなければならない。だから喧嘩もするだろう。でも人間だからルールを守って平穏に喧嘩をすることは可能だ。礼儀とは平和な喧嘩だ。好き嫌いとか善意とかバカなものを人に簡単に見せてはいけない。上手に喧嘩して自分を守りましょう。私は女性的で優しいので道徳に従って穏やかに生きたいのだがどうもそうではない。京都の人間が意地が悪いのは東国の人間にいつも蹂躙されてきたからじゃないかな。東国の人間は荒荒しく残忍だ。どうもそういう人間の相手をしてきたために西国では珍しく残酷だ。長く日本の首都だったのでしようがない。信長みたいな残酷な人間の支配も受けたことがあるのだ。静岡に行った時人間が東と西で全く違うと気付いた。勤勉だが残酷だ。武士と百姓しかいなかったためか。
 喧嘩といってもルールや礼儀を守りましょうといっているだけだ。嫌なことをされて嫌な顔をして耐えているだけじゃなく文句も言いましょう。仕返しもしましょうということだ。仕方がないだろう。命と尊厳を守るためだ。侍になりましょう。残忍な侍に。
私は18のときに働くのが嫌になった。気が狂っていた。癒されたかった。世間から背を向けた。どうしてあんな風になってしまったのか。喧嘩は嫌いだ。戦争は嫌いだ。人間は戦争は嫌だろう。特に負け戦は。明治維新のとき長州軍があんなに勇敢だったのは勝てると思ったからだろう。勝てば官軍になれると。負け戦は誰だって嫌だ。俺は負け戦だと悟ったのだ。そのとき。そしてやる気を失った。今も回復していない。でも今はずいぶん利口になった。自分をなだめすかして働く術を覚えた。
 意地悪されたら黙っていないで反撃するなり気持ちを伝えるなりしよう。喧嘩上等だ。俺がこの腐った世の中を世直ししてやるくらいの気概で行こう。私は影響を受けやすい。悪いものに触れれば悪くなる。だれでもそうか。ヤクザと付き合えばヤクザになる。好きとか嫌いとか関係ない。礼儀と常識で付き合うのが大人だ。俺も意地悪なところがある。姉の影響、いじめの経験、サドの影響、京都で過ごした日々、実家で過ごした日々。もう人生は終わろうとしている。これで良かったのか自問してみる。答を小説に書いてみる。
 常識のみに従って生きていこう。芸術は自分の心を整理するためのものだ。根が優しくて弱い人間が意地悪で獰猛な人間に太刀打ちできるだろうか。でも喧嘩するしかないのではないか。今いる場所で生きていくためには。本気になれば簡単に勝てるよ。喧嘩上等。本気で勝負したことないじゃん。本気で勝負するべきだ。中途半端かもしれない。俺は病気になったとき喧嘩して殺されそうになった。今喧嘩すべきときかな。喧嘩とはいっていない。礼儀と常識の問題だ。好き嫌いでもない。昨日までの私とは違う。
 人間は残酷なことをする生き物だ。京都人だけか?東京人も東北人も残忍だ。優しいだけの人間が生きていけるか。御伽噺の世界で生きていけるか。御伽噺でさえ残酷だ。常識を覚えることはプラスのストロークをいっぱい受けられ、回復する。だが争いの芽も受け取るのではないかな。今までは統合失調症的な平穏の中で生きてきたが、これからはやはり戦わなければいけないのではないか。戦うという意識ではなくて今まで怠けて寝ていたのが目を覚まして働き、生きていこうということだ。生きて働こうということだ。役に立つことをしよう。無駄遣いをやめようということだ。ばうは私にしゃかりきになって生きることを勧めない。家なんか建てるなという。力を抜いてスローライフを勧める。私は人を傷つけたり相争うことが嫌いだ。甘いということかもしれない。
 人の心には善と悪が確かにあるのだ。それを率直に認めるべきだ。脳にはっきり根拠がある。爬虫類脳と哺乳類脳がある。生存を求める本能をつかさどる爬虫類脳は悪と映る。それを理性でおさえ愛情や優しさをつかさどる哺乳類脳は善と映る。しかしどちらも必要であって否定することはできない。完全にコントロールすることもできない。人間に完全を求めてはいけない。完全に悪を抑えこもうとするとヒットラーみたいな奴が現れて悪さをする。適度にガス抜きしないといけないのだ。
 働くことは尊い。私は少しおかしくなっている。就職してからもおかしいがその前からおかしい。単純に考えよう。難しく考えるからおかしい。難しい本をあまり読まないほうが良い。ほとんど理解できたためしはなかったし、ますますそうだ。単純に今できることやれることからはじめよう。人と喧嘩することが今やることか。病気を治すことが大事なんじゃないのか。だって苦しいだろう。苦しい時に自分を追いこむようなことは止めろ。楽しいことしか考えない。人間らしく楽しく生きていこう。ばうは私のために文章を書いてくれた。私の望むとおりの人生を示してくれた。感激だ。できることからやっていこう。常識に従うこと。人のやっていることを真似すること。オリジナルは科学とか芸術の世界では必要だが、政治経済ではむしろ有害ですらある。ヒットラーはオリジナルな政治家だった。やったことは最悪だ。難しいことを考えたってだめなんだ。結果が重要なんだ。難しいことを考えて良い気分になるなんて止めたほうが良い。
 シンプルに考えよう。人のやってることをやろう。常識に従おう。どれも簡単なことじゃないか。オリジナルな人生なんて宅間か少年Aになってしまう。人に優しくしよう。これも当たり前のことで自分の本来の姿に近い。人に意地悪するのは人間のやることではない。京都人と女に任せて置け。私のやるべきことではない。
 楽しく明るく生きていこう。簡単なことだ。私は決して孤立していない。孤独ではない。常識を守って生きている。優しい。健全だ。ばうさんのいうことを聞いていれば間違いない。こんな風に考えることは初めてだ。人の言うことを聞かない奴だからなあ。
 私は善と悪が解離気味かもしれない。ジキルとハイドかも。意地悪したくなったり、悪いことをしたくなったり。人生いろいろある。良い人だけ貫くというのは嘘がある。文校でも批判されていた。私は京都の意地悪な人々に影響されて爬虫類化していた。あるキチガイ作家のせいでもある。完全に悪い人間というのはいない。サドでも宅間でも一片の正気と良心があった、だって脳がそうなっているんだからしょうがない。宅間はカウンセリングを受けようとしたし、サドはフランス革命に参加した。私は解離しているから善だ悪だと分けて突き詰めて考えようとする。交じり合って区別がつかないのが普通だ。普通で良いのだ。優しさと残酷さは裏表だ。それが当たり前だ。普通の人と同じように普通の考え方をしよう。常識を受け入れよう。心を開けば世界が開ける。目が開かれる。私は再び世界に誕生する。凡人であれ。仏陀のように完璧に悟れるか?凡俗で良いじゃないか。ナンバーワンじゃなくてオンリーワンで良いじゃないか。。平凡だけど受け入れよう。私は楽観している。hやkも喧嘩する必要なんかないじゃないか。決着はついている。というか決着なんかつける必要ないじゃないか。私は楽観している。私はピュリファイされた。楽にやっていけそうな気がする。意地悪じゃないのに意地悪な振りをしてはいけない。
 左翼かぶれだったのに銀行に入る。その前に法学部に入る。無理がある。分裂している。解離している。それをもろに受けて発狂した。もともと正常なのに無茶なことばかりするからおかしくなる。俺みたいなことやっていたら誰でもおかしくなる。そりゃ一番やりたくないことを選択したんだから苦しいしやる気なくなるのも無理はないだろう。優しさを保つ余裕もなくなる。いじめにあって発狂する。争いごとは昔から嫌いだった。軍隊なんか嫌い。人殺しなんてモノのために人を消耗品のように使う。嫌に決まっているだろう。俺は意地悪でも残忍でもない。喧嘩も弱いし、へたれだ。強くなりたいとも今更思わない。父親の子だ。強いわけがない。私は平和がなにより好きだ。喧嘩や戦争は大嫌いだ。だから俺が喧嘩をしても勝てないし、根性ないから全然だめだ。争いごとの嫌いなやつは生きてちゃいけないのか。日本人は少なくともそうではなかった。私も影響受けやすいからアングロサクソン的非常な生存競争的ダーウィン流適者生存説に惹かれたが日本人は無理だ。差別とか大嫌いなのに悪いことを覚えてやってしまった。本性に反することをやったから結果が悪い。京都人の真似してもだめだ。
 私は爬虫類的なやつが嫌いだ。人間らしい感情が豊かな人が好きだ。父親は臆病で爬虫類的なとこがあった。hやkも同じだ。そこが気持ち悪い。欲しいものは何でも手に入れずにはおかないあのしつこさ。キチガイと呼ぶ所以だ。私は身を守りたい。爬虫類から身を守りたい。十分可能だ。北原みたいなのが普通だろう。人の上に立つ人間はああでないと。俺も気が狂って爬虫類的になったこともあった。欲望の奴隷になったこともある。だがもう嫌なのだ。人間らしく生きたい。ばうさんのメッセージはそういう意味だ。けだものになっていないか。人間には仏性が備わっている。もちろん私にも。だからそれを出していこう。ばうさんは私が考えていたことを代わりに言ってくれただけだ。人間らしく生きたいとちょうど思っていたのだ。アングロサクソン的獣社会から脱出したい。女が嫌いな理由は爬虫類的関係になるのが嫌だからだ。どうしたってそうなるだろう。愛欲が出てくるだろう。仏陀はそれを恐れた。女に興味を持たないなんて逆爬虫類ぽいけど。それでもそれが一番良くて自己をコントロールできるのならそうすれば良い。物欲、性欲にとらわれて人間らしさを失うのは誰でも嫌だ。女が爬虫類的というのはおかしい。哺乳類的な部分もある。喧嘩がいいんだろうか。喧嘩上等だけど。ルールを守ることがいいと言っただけで喧嘩がオススメではない。爬虫類に勝てるのか。戦わないのが一番だ。土俵に上がらないのが。だって今の状態で戦えるか。月曜日カウンセリングを申し込もう。毎週で良いんじゃないのか。佳境に入ってきたし。俺の女を見る目は最近哺乳類的愛情がなくなって、単なる剥き出しの性欲または殺意と同じになっている。マンション問題が尾を引いている。egに参加したのが始まりだ。そのエネルギーがコントロール不能になって暴れている。無表情に女や人の顔を見て非常に気味悪がられる。文校で経験したことだ。人間誰でも同じだろう。99%以上遺伝的に同じなのにどうして優劣なんかつけたがるのだ。キチガイのもとだ。俺が一番嫌っていることをあのババアはぶつけてくる。だからキチガイだというのだ。仏教はやはり助けになる。前より格段にわかるようになった。精神調整法としても使える。獣になるのは誰でも嫌だし、避けている。自分でできなくなれば仏にすがれば良い。生きていくのは誰にも辛い。それを分担するのが人間じゃないのか。単純に生きよう。
 私はhやkが来る前は仕事できていたのだ。今なぜできないのか考えたら、怒りの余り怒りをコントロールするのが精一杯で仕事が手につかない。あいつらが職場にいるだけでものすごいストレスで毛が抜ける。怒りをコントロールできれば何とか仕事ができるんじゃないかな。ストレスは誰でもたまる。悩みくらい誰でもあると北原は言った。その通りなんだけど、今の俺にそれを耐えろと言われても辛い。強くなろうとするからいけないんじゃないか。強がるからいけない。大きく見せようとか、人を出し抜こうとか、優越しようとかそういう気持ちが自分の気持ちを追い詰めている。ばうさんの言う通りにしていたら間違いないんじゃないかな。プロだから信頼に足る。
 俺はプライドが高いから負けを認めたくないのかな。それで無表情な顔になってしまうのかな。喧嘩したかったらしたら良いのだ。とことんやって膿を出せば良いのだ。勝ち負けは関係ないじゃん。hやkは俺が嫌いだからいじめてるだけだろう。それだったら喧嘩してもいいんじゃないのか。良い人である必要あるの?礼儀を守らない奴に礼儀が必要なの?いい加減にして欲しい。昨日のキチガイ京都ババアも同じだ。きれていいのだ。その場で金返せと言ってやったら良いんじゃないのか。それかその場でその態度はおかしいと注意するのが権利だ。hも今俺に足向けたりして嫌がらせしているけど、許されると思っているのか。その場で注意してやれば良いのだ。
今日はなんばに行ってHISをのぞいたが国内旅行は梅田ということで諦めた。本当に疲れていることがわかった。スタバに入って買った沖縄本を読んだら気分が良かった。若い女のグループが私のことを揶揄するようなことを言ったが気にならなかった。子供の言うことだ。20代の女は10代の女の子からはおばさんといわれているのだ。20代より10代。10代より10歳以下2−4歳が一番好きだ。無邪気だからだ。爬虫類脳で言うと20代は爬虫類脳全開という感じで近寄りがたい。でも10代に近づくと変態扱いされる。今日は初めて街歩きを楽しいと思った。朝から神経がさえていた。もう大丈夫なような気がする。喧嘩なんかしなくても戦わずして勝てる気がする。アロマテラピーに行った。かなり癒された。神経が高ぶっているので痛く感じた。大体力入れすぎ。お尻が今日も痛い。戎橋筋を2往復位した。爬虫類脳全開だ。欲望をかき立てるだけかき立てる。どぎつい原色ファッションで肌を露出した女たち。おじさんは歩きづらい。
 一人でいるとやっぱり獣道に迷い込むので人中が薬だ。人と交わるのが何よりだ。楽しいことが何よりだ。楽しいことだけ考えて生きていこうよ。ばうさんはナニゲニすごい癒し手かもしれない。知らぬ間に癒されている。私の問題点を鋭く見ぬいている。やはりただものではない。バカにしてごめん。私は自分のアホさ加減を棚に上げて人を馬鹿にしてしまうんです。こんなに離れていてしゃべったことなくても人柄がわかった。時間かかったけどね。ここまで信頼できるようになるまでは。Uさんはいまだに危なっかしい気がするのはやはりクライアント側だから仕方がない。頼る側。私も頼る側だ。頼り上手になりましょう。年を取って若返ったような気がする。若い頃は遊ぼうなんて思わなかった。風俗なんか遊びじゃなくて病気だ。今ようやく若者みたいに生きる喜びを感じられるようになった。隙間に零れ落ちるのだ。私の意識は魔境に迷い込んでしまうので、いつも正気に戻るように努めよう。獣道に迷い込んではいけない。二度と。
 ばうさんには教えられたし癒されたなあ。今頃になって気付いた。egより帰ってきてからの方が学ぶことが多かったなあ。礼儀さえ守れば偉い人でも快く付き合ってくれる。だってプロだもん。安心して頼れば良い。甘えても良いのだ。ある程度ならば。礼儀と常識さえわきまえれば文字通り無限にプラスのストロークが得られるのだ。これで終わりということがない人の優しさの果てない泉が見つかったのだ。俺はもう大丈夫だ。喧嘩なんかする必要ないじゃん。俺はここ最近素晴らしく成長した。掲示板の皆さんともちゃんと付き合えるようになった。人が好きになった。やはり常識と礼儀の威力はすごい。限りなく世界が開かれていく。どうしてそんな簡単なことができなかったと思うが獣道に迷い込むとわけがわからなくなるのだ。でももう大丈夫だ。すごく希望が出てきた。掲示板の皆さんも私の良い変化に気付いてくれたみたいだ。直感的にわかる。ばうさんにも世話になったなあ。もういつでも掲示板卒業できるぞ。たこ焼きさんみたいに。人を嫌ったり憎んだりする気持ちが嘘のように消えた。いつもは汚いば○あとかひどいことを考えるのに成長したのだ。どんなに醜い人を汚いとは思わない、いとおしいと思う。素晴らしい成長だ。人を厭わしく思わなくなった。成長だ。人を厭うものはいつかきっと人に厭われる。現に私は若い女性に厭われることがある。おばさんにも嫌われたらいくらなんでも好きにはならない。母親くらいだ。どんなに嫌っても心配してくれるのは。人を嫌うより愛する方が良くないか。どうして人を愛せないだろうか。私は小説をやり始めてからかなあ。人が嫌いではなくなった。嫌いと思う人と付き合うのがほんとのおとなの付き合いじゃないか。嫌いというのは差別であって故意に人を嫌っているに過ぎない。おばさんだから、ぶすだから。ばかだから。人を嫌う理由などいくらでもあるが全部嘘だ。人を嫌いになるのは意地悪だ。差別だ。自分を守りたいのだ。e女史だって本当に嫌いなのか。そうじゃなくて故意に人を馬鹿にしたいからいじめたいから、支配したいからそう装っているに過ぎない。そんな権利があるだろうか。ハンセン病患者が嫌いというのは理由がない。うつらないんだから。いじめたり隔離する理由などない。仮にうつるとしてもいじめちゃだめなんだけどね。そうじゃないなら尚更でしょう。すごい気付きが次々に起こる。常識と礼儀をちょっとわきまえただけでこんなに変化した。私は何も変わってはいない。自己変革などではない。そんなことは不可能だし可能だとしてもやってはいけない。私は行動を変えただけだ。常識と礼儀を全て受け入れますと。すると世界は嘘のように開かれた。これが当たり前のまっとうな人間というものじゃないかな。人を嫌うより好きになるほうが100万倍楽しい。人に意地悪するより優しくしたほうが一億倍楽しい。楽しいことばかりやって生きようと言ったばかりじゃないか。人に親切にして少しでも住みやすくしよう。昨日は変だった。京都人の悪口なんか言ってごめんなさい。彼らも辛いのだ。あんな住み辛いところに住み続けなければならない。性格も悪くなるよ。権力者に蹂躙され支配され続けたのだ。田舎ものどもがあとからあとから這い登ってくるのだ。意地悪の一つもしたくなるだろう。
 やっぱり傲慢ではいけない。悪い癖だ。ブッダのように謙虚でなければ。忍辱という言葉もある。昨日は良くない私が出たが、今日は大きな気付きをしたなあ。私はもう大丈夫だ。これで私の九重も完結したんじゃないかな。もう大丈夫だ。私は素朴な愛情深い良い人間だ。決して人非人ではない。九重の人々はアフターサービスも完璧なのだ。人を差別したり馬鹿にしたりしてはいけない。私はおばさんが嫌いというがその理由は差別的なものだ。同じことを若い娘たちに受けている。自業自得だ。ありもしない理由をでっち上げて人を嫌いになるのは止めよう。失礼な話だ。礼儀と常識をわきまえよう。人に親切にしよう。人を愛そう。常識を身に付けよう。s口は京都出身で意地悪だった。口の悪さが身についている。京都の街中の人は皆ああなのだ。あいつだけではない。でもほんとは親切なのだ。こんな俺を雇ってくれるなんて情が深いのだ。その代わり裏切ると恐い。女にも同じことを感じる。とりあえず嫌いでも好きでもないというスタンスしか取れないが、女が嫌いでも別に良いのだ。女としてだめでも人間として礼儀を守って付き合うことは可能じゃないか。差別したり、馬鹿にしたりするのが一番いけない。簡単明瞭なことだ。
 



2005年06月25日(土) 楽しい

 負ける気がしない。けんか売ってくる奴がいても負ける気がしない。大体喧嘩売ってくる奴は、なんかルールや常識を守っていないとか言ってあるいは言わずに攻撃してくる。するとびびってしまって負けてしまう。でもそんな根拠はないのだ。いいがかりだ。殿様商売ってどこが悪いんだ。いいがかりじゃねえか。あのキチガイでもあるのは勝ちたいという激しい欲望のみだ。ほんとにしつこい。俺は負ける気がしない。どんな奴がけんかを売ってきても負ける気がしない。常識やルールさえ守っていれば喧嘩してもいいのだ。喧嘩好きな下品な奴ばっかりなのだ。私はどんなに疲れていても道徳だけはわかる。何が善で何が悪かわかる。だから好き嫌いではなく道徳だけに従っていれば絶対に間違えない自信がある。礼儀や常識や道徳に勝てる奴はいない。自分の信じる道徳に頑固に従うことだ。誰かの感情に依存するくらい愚かなことはない。自分の感情でさえ従ってはならない。自分の感情の奴隷になってはならない。人はやはり理性に従わなければならない。理性に始まり理性に終わる。
 喧嘩を避けて我慢をして耐え忍んでいると必ずしわ寄せが来る。噴出する。だからちゃんと思いを表現しなければならない。我慢するのは自分に酷だ。喧嘩の練習をしたらとカウンセラーに言われた。文校で。それはいいアイディアだ。ルールを守って楽しく喧嘩。朝生みたいでほんとは好きなのだ。今まで喧嘩をしなさ過ぎた。仲良くなれないのは喧嘩しないからじゃないか。喧嘩をすればどこまで言って良いかわかるし、相手の限界も見えて仲良くなる。ばうともけんかしたが今はよくわかっている。nとかSとは直接喧嘩していないので仲良くはなれない。
 私は不幸なことに女が好きじゃないのだ。女なんか喧嘩する相手ではないのだ。弱くてバカですけべなだけだろ。何で喧嘩する必要がある。好きでも嫌いでもない。子生みマシン。セックスマシン。家事マシン。意地悪マシン。何で相手にするのか。喧嘩したって負けるわけないし、けんかする必要がどこにある。何で雌雄を決しなければならない。もう決しているじゃないか。女に優しくできなかったら好きにはならない。女の子は好きだ。葛藤が生じない。
 喧嘩上等。これを私のスローガンにしよう。家族連れというだけで私に喧嘩を売っているのと同じだ。女なんかとなんで喧嘩しないといけないんだ。なんで優しくしないといけないんだ。俺が病気治らなかったのも病気になったのもここに飛ばされてきたのも女のせいだ。女なんか死んだら良いと思う。18から120までの全ての女は皆死んだら良い。人を殺したからといって直ちに死刑にはならない。何人も殺すとか殺し方が残虐とかでない限り死刑にはならない。なにをやってもいいのだ。びくびくしてはいけない。俺は道徳オタクだが正当防衛を踏まえた上の道徳なのだ。何が常識だ。俺に何を言っているのだ。俺さまに一体何を言っているのかと思う。喧嘩上等だ。
 人を殺したって死刑にはならない。世の中殺し合いだ。奪い合いだ。何をお上品なことを言っているのか。誰を殺そうと勝手なのだ。人なんか殺したって良いのだ。だから人なんか恐くないのだ。財産持ってたって権力持ってたって殺して良いのだ。喧嘩が足りなかったな。いくら喧嘩したって良いのだ。負ける気がしない。どんどん喧嘩売ってやる。常識や道徳や礼儀は大事にしたほうがよいが人を殺しても死刑にはならないから人を殺しても良いのだ。



2005年06月24日(金) 疲れた

 とても疲れた。沖縄行きのことでウェブを調べていたらとても疲れた。職場ではキチガイがいるだけで脳に傷がどんどんついていく。沖縄は本島はパスまたは一泊くらいにして離島メインで行こう。ばうというのは本当にいい奴だ。お節介を職業にしたくらいだからなあ。
 昨日は疲れていて文校も楽しくなかった。私がこんな人間だということにみんなも慣れたみたいだ。慣れてもらわないと私も居場所がない。多少雰囲気が悪くなっても我慢してもらおう。私は女が苦手だ。恐くはない。好きでも嫌いでもない。しかし実際には口をきく前から関係が悪くなる。私の姉がひどかった。なんの理由もなく攻撃する。学校でも理由なくいじめられた。でも今は恐くない。女はバカで弱い。恐がる必要はない。恐がると自分が強いと思って図に乗る。私は悪いことはしてない。礼儀と道徳とルールと常識を完全に受け入れることによって私は全く恐くなくなった。けんかにもルールはある。ルールさえ守れば喧嘩してもいいのだ。私は今負ける気がしない。誰が襲いかかってきても負ける気がしない。けんか上等だ。いつでも喧嘩できると思えば何も恐くない。けんかする必要すらない。けんかにもルールがある。ルールを守れば喧嘩してもいい。手さえ出さなければ何やってもいい。手を出してもクビにはならないと聞いた。本気にしないほうがいいが。いつでも喧嘩できるし、負ける気がしない。絶対に誰とやっても負ける気がしない。俺はけんかをするために生まれてきたような男だ。けんかなんか苦にならない。絶対負ける気がしない。でもいつでもできるからやろうという気がしない。頭に来た。俺をバカにする全ての人間よ。俺は絶対にこれ以上譲歩しない。いいかげんにしろ。喧嘩してもかっとなったりしない。けんかするときほど冷静でなければならない。
 私は平和が好きだ。平和を守りたい。だが争いを恐れてばかりいては平和は守れない。争いを恐れる余り邪悪なものの言いなりになってはいけない。ブッダ的平和は好きだが、現実には難しい。結局平和を守るためには常識や道徳やルールが必要だ。常識やルールさえ守れば喧嘩しても良いのだ。けんか上等だ。皆がそう思っている。あのキチガイはけんかを求めて常に狂いまくっている。血に飢えている。ルールさえ守れば喧嘩してもいい。しかも負ける気がしない。絶対に負ける気がしない。私は人と仲良くしたいだけだ。でも喧嘩を売ってくるならいくらでも買ってやる。俺は臆病者なんかじゃない。絶対誰とやっても負ける気がしない。絶対に。
 常識を受け入れると仕事がぐんと増える。守るべきルールは無限にあるからだ。九重に行ったのは間違いではなかった。良い人たちに会えたからだ。ばうさん、南天、抹茶さん、皆良い人ばかりじゃないか。やっと気付いた。如何に甘えさせてもらっていたか。九重に行って良かったと思えたときが九重の完結だ。重いリバウンドに耐えた自分もすごい。礼儀と常識さえ守ればどこまでも親切にしてくれる。プロのプライドがある。私は自分の獣性を目覚めさせてしまった。爬虫類脳を。今やっとそれをコントロールできるようになった。簡単だ。自分を変えることは不可能だし、不要だ。行動を変えるだけで良いのに。簡単なことだ。差別や意地悪はいけない。得策ではない。好きになる必要はないがわざわざ嫌いになることはない。
 俺は今日はしんどい悪い日だと思っていたが良い日だった。悪い人はいない。こんな私でも生かしておいてくれるこの世に感謝。大阪の街が初めて愛しいと思った。川を天満の祭り船がゆっくり通った。大人と子供が踊っていた。今日も大阪は大阪だった。こんな街だけど初めて愛しいと思った。愛のマジック。常識と礼儀。俺がどんなに疲れていても酔っていても忘れないもの。そして人の真心。人への愛と敬意。日本人ていいなあ。悪いひとはいないというのは本当だな。今日は人への愛を思い出した。ばうや仲間のおかげだ。助かった。とても気分が良くなった。人を愛するということは良いことだ。人に親切にするというのは良いことだ。常識と礼儀さえ守れば今からでもどこまでも世界は開かれていく。私は良い奴だからだ。よく気がつく良い奴だからだ。文校に入って本当に良かった。ちょっと苦しいこともあるがそれを上回る良いことがある。鍛えられる。ばうさんの良さに気付いたのも文校のおかげだ。ここ2,3日でずいぶん成長した。人が違って見える。人のいうことが耳に入ってくる。世界が変わる。心のエアポケットに落ちなくなった。世界がつじつまが完全に合って、焦点が合って目の前で展開し始めた。e女史やo女史とも仲良くしよう。意地悪するのが身についている。自分に帰ってくるから止めたほうが良い。私は性質が悪すぎる。この世で一番悪いかもしれない。



2005年06月22日(水) 沖縄

 沖縄に行こう。生きているうちに楽しもう。楽しいことだけを考えて生きていこう。沖縄にも北海道にも行かないうちに死ぬなんて。小説も読もう。本も読もう。あのばうというのは意外にいいやつだ。礼儀さえ守れば付き合ってくれる。礼儀、道徳がいかに大切かわかった。
 会社のキチガイが暴れている。北原がいないのをいいことにいじめにかかっている。もう何年にもなるのにはじめてあったように私をいじめる。あいつの声を聞いているだけで気分が悪くなる。俺が仕事ができなくなったのはあのキチガイのせいだ。俺が仕事をしようとするとからんでくる。それが嫌になって仕事ができなくなったのだ。あんな奴と一緒の職場にいるだけで気分が悪くなる。その上に容赦なくいじめにかかってくる。キチガイ。私は女が嫌いだ。仕方がないことだ。サドマゾヒズムを克服する方法がある。超攻撃的であることだ。礼儀と道徳が発達していればどれだけサドマゾでも構わない。おとなしく構えていても自分の身は守れない。明日メールしよう。あのキチガイの暴れぶりを告発しよう。これから死ぬまで俺は女と戦い続けるだろう。安定したいい関係などあのキチガイにはありえない。ほっておいたらひとりでに興奮して襲いかかってくるのだ。絶えず攻撃し続け、休んではならない。何度でも永遠に攻撃しなければならない。超攻撃的でなければならない。
 女は理由もなく俺に襲いかかってくる。我慢してはならない。攻撃してはじめてバランスが取れるのだ。町のチンピラのように攻撃的でなければならない。我慢してはいけない。相手に道徳を期待してはいけない。我慢してはいけない。放置してはいけない。超攻撃的でなければならない。礼儀と道徳を身に付けなければならない。ババアとどう付き合ったらいいかわかった。付き合わないことだ。こちらも攻撃することしかない。安心して暮らそうと思ったら相手が攻撃し続ける限り、攻撃しなければならない。いつか攻撃を止めるだろうと五年待ったが今日も攻撃している。攻撃を我慢する理由などあるだろうか。完全に頭がおかしいのだ。オニババ化しているのだ。黙って我慢するのか。バカじゃないのか。キチガイが攻撃してくるのでやる気をなくす。私が仕事をしていると猛烈にからんでくる。攻撃する以外にない。



2005年06月21日(火) 幸福

 幸福になるには幸福になろうと努力しなければならない。いつも楽しいことだけ考え、幸福になるよう努力しよう。私は女が嫌いだ。どうしてもバカにしたくなる。銀行に入ったときからだ。女は本当にバカだ。バカなのに攻撃的だ。バカにされたと思うとキチガイみたいに攻撃してくる。女のことなんか考えないことにした。楽しいことだけ考えて生きていこう。どんなときでも。苦しいことばかりするのは止めよう。楽しいことばかり考えて生きていこう。私が仕事ができないのはあるバカ女が私を攻撃してくるからだ。私が悪いんじゃない。自分が悪いと思うから自分を責めたり、自己改造に走ったりする。私は何も悪くない。女が嫌いでも全然問題ない。一生独身でも全然悪くない。幸福に生きることは完全に可能だ。私は仕事ができないのは自分が悪いと思っていたが、そうじゃないことに気付いた。私をいじめるあのババアがおかしいんだろう。あのババアさえいなくなればいつでもちゃんと仕事ができる。何で私が反省しなきゃいけないんだ。



2005年06月20日(月) 月曜

 昨日は眠れなかった。やはり薬を抜くとだめだ。いいことを考えた。楽しいことだけを考えて暮らそう。キチガイや障害者のことを考える必要がどこにあるのだ。沖縄のことでもいいし、田舎暮らしのことでもいいし小説のことでもいいし、幸せに暮らしている自分の姿でもいいし文校のことでもいいし、楽しいことだけを考えて生きよう。今まで嫌なことばかり考えて不幸になる道をまっしぐらに進んでいた。もう残り少ない人生を幸せになるように生きよう。楽しいことだけ考えて暮らそう。
 誰とでも仲良くしなきゃいけないんじゃないのだ。特に障害者とは絶対に付き合っちゃだめだ。絶対損する。被害に遭う。いないと思って過ごそう。楽しいことだけ考えて生きよう。障害者なんかいなくても全く困らない。
 キチガイとどう付き合おうとか仲良くしようなどと考える必要はもうない。キチガイはキチガイだ。存在しないものとするしかない。楽しいことだけ考えて生きよう。一番考える必要のないキチガイどものことを考えて生きていくのかあまりにもばかばかしい。常識を守っていれば自信が持てる。キチガイの攻撃にも動じない。
 絶対に悩まない。悩む理由がないからだ。楽しいことだけ考えて生きよう。毎日楽しいことだけ考えて生きよう。キチガイの相手をするのはもちろん、考えてもいけない。悩んでもいけない。悩むことなどないからだ。



2005年06月19日(日)

 昨日はよく飲んだ。いつ寝たか覚えていない。いい人生じゃなかったな。人をねたんだりして良くない。性格を変えることはできないし、そんな必要はない。宅間がどんな性格していようと気にならない。行動を変えて欲しいだけだ。俺も行動は変えられる。文学やる人間は性格悪い。間違いない。絵をやる人間が性格悪いのと同じことだ。U君は性格が良すぎる気がする。文学には向かないかもしれない。でも本人が選んだ人生だ。私はできたら友達になりたい。彼も孤独に書きつづけるより応援者がいたほうがいいだろう。
 肩の力を抜こう。凝っては思案にあたわず。私の人生自体がそうなっている。本を買うのも読まないと分かっているのに買う。おかしいから止めろ。依存症だ。買い物依存症の小説を読んだが、凄まじい。
 人中が薬という。今がそういう状態だ。だいぶ彼らとなじむことができた。仲間ができて嬉しい。でもべたべたしたいとは思わない。嫌いな人間まで受け入れる必要はないがでもそういう人間とうまく付き合うのが人間というものじゃないか。でもkとhは障害者なので憐れんでやらなければならないしかかわりあってはならない。
 私がどういう性格をしていようといいのだ。私は性格いいし。優しいし。人間好きだし。U君と話していると穏やかになる。自分は異常な人間と思っていたのでそうじゃないと言ってくれるので嬉しい。共依存かもしれないがいいんじゃないか。友達とはそういうものだ。性格はいいから礼儀や道徳や常識を覚えろ。覚えろと言うよりもうわかっている。思い出すだけだ。道徳オタクなのだ。足し算ではなく引き算でいこう。俺の中に大事なものがいっぱい埋まっているのだ。それを掘り出せ。私は弱い部分もあるが大体正常だ。礼儀を守る人間は礼儀正しいとみなされる。多分ものすごくシンプル。それができなくなっていた。オニババ化していた。人非人と化していた。
 嫌なことを考える必要があるだろうか。楽しいことだけ考えて生きていこう。それが薬だ。再決断なんて必要ないかもというより良くないかも。自分を苦しめるのが大好きな私は飛びつきそうになるが。自分を大事にするならば止めといたほうが良い。
 楽しいことだけ追求しよう。楽しいと言っても酒とか薬とか自分を傷つけるものではなく、ほっとするもの、優しい気持ちになれるものがいいな。山河紫女史の「箱の中の子守唄」にはしびれた。女もほっとできる優しい存在だ。それをオニババ化してしまうからだめだ。でも中野さんはどんなに追いこんでもオニババ化しないね。いい子だ。若いせいもあるかな。性格だな。いまどき珍しい。いまどきの若い子は若くしてオニババ化している。援助交際したり、人前で化粧したり。でも大人が悪い。男が悪い。バブルに踊ってオニババ化してしまった。あれを目の前で見せられれば悪くなるだろう。私は女に意地悪すぎる。女が嫌いなのだ。y女史も男が嫌いみたいだ。可愛いものだけどね。男に頼らずに生きたいと思って教師になったんじゃないかな。あと子供が好きだし。
 最近ボケが進行している。リスパは強烈なんで気をつけよう。デパスの比ではない。アルコールも良くない。私はアルコールは気をつけているがそれでも普通より飲んでしまう。昨日もいつ寝たか覚えていない。飲みすぎはよくない。トイレの便座カバーを下げたままおしっこをしてしまった。まずい。一人でボケ老人になったら悲惨だ。人に頼るのは悪いことではない。カウンセリングを受けてそれを知った。人は一人では生きていけない。物質的にも精神的にも。頼る気持ちを恥ずかしいと思ってはいけない。堂々と助けを求めよう。北原に助けを求めてからうまくいくようになった。礼儀だな。感謝の気持ちが大事だ。
 生まれ変わる必要などない。しんどすぎる。行動を変えればいいだけの話だ。私もあの障害者に性格を直せとか生まれ変われなどと不可能なことを要求するつもりはない。行動を変えて欲しいだけだ。私はオニババ化している。オナニー猿と化している。もう考える必要はないし考えなくても大丈夫だ。hも行動を変えるならば一緒に仕事してもいいがあの態度ではだめだ。オニババ化している。私もオニババ化から脱出しよう。ほっとするもの、優しい気持ちになれるものを追求しよう。人間らしい気持ちを取り戻そう。
文校は礼儀作法の勉強だと思っている。習い事は行儀見習、研修の効果がある。花嫁修行でお茶や生け花をやるのは意味があったのだ。スポーツやるのも行儀見習だ。あの厳しさに耐えられればどんなストレスフルな状況にも耐えられる。hやkも自分がそうだからと言って俺に強要するなといいたい。俺はほのぼのしたものが好きなのだ。y女史のようなものが好きなのだ。嫌いだというのが病んでいる。
 n女史はオニババ化しているようでうまいことコントロールしている。だからけんかもできる。e女史とo女史はオニババ化しているので喧嘩しちゃう。コントロールできない。あまり相手にしないことだ。攻撃を誘発することさえしなければ大丈夫だ。挑発してはならない。北原も喧嘩の仲裁で大変だ。できた人物だとつくづく思う。
 楽しいことを追求していこう。十分可能だ。礼儀と行儀と常識を覚えれば何とかうまく行く。大阪の常識は世界の、日本の非常識なところが困るんだが。ローカルルールを覚えるのも大変だ。オニババ化しても楽しく仕事も人付き合いも可能だ。kなんかキチガイオニババなんだけど何でも思い通りにする。思い通りになるまでやる。相手にできない。相手にしなきゃいけないと思わせるところがあいつのトリックなのだ。あんなやつなんか誰にも必要なんかじゃない。家庭でも会社でも街角でもどこにも必要とされていないのだ。
 私は遺伝的にそれほどおかしくはない。多少父親は精神的に弱い面があったが美質も多かった。体も両親とも丈夫だ。田舎でのびのび生きたいものだ。
 私は九州の田舎もんだから都会の人と人の距離の取り方がわからない。京都も大阪も私には合わない。和歌山は合うかもしれない。U君は和歌山出身だ。
楽しいことを追求しよう。それが癒しになるだろう。その次は常識と礼儀だ。楽しいことをやっていればおかしな気持ちには決してならない。ペットや子供を見ると癒される。私は決しておかしくない。でも弱いので追いこんだりしてストレスをかけるとおかしくなることがある。egは劇薬だった。激しい副作用が生じた。うつだったら可愛いけど統合失調症はまずいでしょう。これ以上ストレスをかけたり、焦って自分を追いこんで発病させてはいけない。元も子もない。楽しい気持ちで過ごせば発病はしない。常識と礼儀に従おう。ほんの些細なことで人はキレる。最近の若いやつは特におかしい。誰があんな風にしたのだ。甘やかしすぎたのか。薄気味悪い。とても将来の日本を背負っていけるとは思えない。笑顔が出ない。緊張と恐怖で引きつる。人中が薬と言うがいつになったら薬が効くだろう。ずっと人中にいるじゃないか。楽しいことを追求しよう。仕事だって辛いことばかりじゃなくて楽しいこともある。統合失調症も完治してなかったかもしれないな。薬で症状は治まったが、病は深く静かに進行していたんじゃないのかな。それが社会的不適応を起こし、うつを起こし、怠業を招いているんじゃないかな。リスパでなんとか乗りきろう。余りストレスはかけないことだ。ひっそりと生きていきたい。これはおかしな考えではない。覇気がないと罵られたことがある。高校時代。既に相当おかしかったのだ。
 t先生も相当おかしい。サディスティックなところがある。おかしな小説を2,3書いている。それだけで人格を疑ってはいけないが、作家は多少サディスティックなおかしなところがある。tさんが特別ではない。でも書くことに楽しみと喜びを見出したからやって来れたのではないか。勝手な想像だが。私は統合失調症気味なのであまり大きな仕事はできない。だから偉そうにできないししたいとも思わない。負担を軽くしたいだけだ。
 人は優しいのに恐がってはいけない。ブッダも言っていた。人に勝とうとか得をしようとかそういうことばっかり考えているとおかしくなる。謙虚に生きよう。何もできはしないのだ。あのサラリーマンのキチガイども本当に嫌だ。疲れると人の優しさも嫌になってくる。それが発病のきっかけだ。人は優しい。人は人の優しさに触れなければ生きていけない。家族、友達、どうしても必要だ。人を優しくないと嫌ったり、遠ざけたりすると本当にオニババ化する。どうしてもだめなら距離を保っていればいいのだ。人は人の優しさに触れ続けねば気が狂う。私は遺伝とかじゃなく人工的に狂気を作り出したのだ。ただkとhだけはおかしい。完全に頭がおかしい。絶対距離を保った方が良い。人の優しさに触れたいと思うならば礼儀や常識が大事だ。でもどうしても人が恐いことがある。病んでいるのだな。きっと。病を飼いならしつつ、生きていこう。
 統合失調症系の私には常識や礼儀の体系のようなものが必要だ。ニュートンにとっては数学や物理学だった。デカルトにとってはコギトであった。私は今職に就いているのだから仕事にそれを求めるのが一番だ。t先生のように仕事は現場作業が一番で、好きな小説を書くことを優先するのもひとつの立派な生き方だ。仕事のシステムとか仕事の進め方とかは統合失調症的な典礼の体系そのものだからそれに集中すればいい。どうしてもだめなら小説でもいいだろう。その代わり集中してやらないと意味がない。初めて仕事の本を買った。行けそうな気がする。仕事も単純なルールの積み重ねだ。頭がいいんだからきっと理解できるはずだ。決して怒り狂ったりすることが仕事ではない。
しなくてもいいけんかはしない。常識や礼儀や道徳にどんな場合も従う。英語しゃべる人間はどうして皆おかしなやつらばっかりなんだろう。英語しゃべっていると確かにおかしな気分になる。異なる言語が頭の中に入ってくることがストレスになる。また頭の中に異なる言語体系が住みつくわけだからなんとなくおかしなことがいっぱい出てきそうなのはわかる。矛盾や軋轢がどうしても生じるだろう。それで周りから見るとキチガイに見えるという仕組みだ。本人はいたって正気なつもりだから扱いづらい。
 私はキチガイだからということで仕事をサボっているがキチガイでも仕事はできる。それも楽しくできる。明るくできる。それはどんなに疲れていても道徳がなにか何が正しいかわかるからだ。是非善悪の区別はつかなくなったりはしない。むしろわかっているのに故意に逸脱してしまうのだ。それが狂気の源だ。奇矯なところがある。是非善悪の区別がつくのであればそれに従っていればいいのだから仕事はできるのだ。できないと思いこんではいけない。高校時代は私は既に完全に気が狂っていたが、成績は良かった。あれはルールをいかにたくさん効率良く覚えそれを使いこなせるよう訓練するかであるからキチガイでもできるのだ。俺を大学時代にいじめた秀才は完全にキチガイだった。今でも治っていない。治る必要などない。天才とキチガイは紙一重だから治ってしまっては具合が悪いのだ。誰にも迷惑をかけず仕事をきっちりこなしていればキチガイでも何でもいいのだ。だからhやkでもokなのだ。キチガイ歓迎なのだ。ルールさえ守るならば。俺はキチガイだからルールを守らなくて良いと思うから間違うのだキチガイでもルールさえ守れば何も言われないと思うべきなのだ。
 ルールを守れば誰も危害を加えない。だから安心して生活できる。ルールが身に染み込んでいけば自ずから美しくなる。人から愛される。内面の美しさは外から見ても明らかだ。ルールが乱れると心は醜くなり自ずから外に腐臭となって現れ、嫌われるだろう。簡単なことだ。礼儀と常識を守る。世の道徳を守る。人間正直が一番だ。バカ正直に愚直に基本ルールを守る。繰り返し覚える。簡単なことだ。



2005年06月18日(土)

 岩湧山に行って来た。道は間違えるわ、靴は合わないわ、ひどい目に合った。あの靴はだめだ。頭が完全にボケてる。この間薬を飲んだ後酒を飲んだら、記憶は飛ぶわ、ボケるわ、大変なことになった。もうどうしようもない。
 どんなに腹が立っていても怒りに身を任せない。礼儀に絶対に従う。怒ることが礼儀にかなう場合にのみ怒る。怒らないのはいけない。計算して自分に得になれば怒る。筋道が通っていれば怒れる。怒りの感情に飲み込まれず冷静に自己主張できる。アサーションは奥が深い。肩の力を抜いて怒ろう。否、自己主張しよう。頭に血が上って怒ることは絶対にしないということだ。
 hもkも障害者だ。バカキチガイに怒ってはいけない。障害者に怒ってはいけない。私も障害者だが善悪はわかる。腹が立ったら障害者だと思うことにした。どんなに頭に血が上っていても礼儀と常識だけに絶対に従う。それが唯一有利な道だからだ。障害者である女には怒らない。作家に対してどんな態度を取るか難しい。
 昨日の合評会は面白かった。書いたっけ。ぼけてるからわからない。ヤンキーの女の子がすごい文才の持ち主だったので驚いた。根元に似ていた。カズミにも似ていた。仲良くなりたい。生きていることは楽しい。文校に行って生きる楽しさを知った。俺の昔の苦しみとか悩みとかをもう一度追体験しないといけないか。そんなことはほっといて楽しいことだけ追求しよう。そう思った。



2005年06月17日(金) ボーナス

 今日はボーナスだった。また下がっていた。どこまで下がるのか。評価が低いからなあ。どうしようもない。常識を覚えることだ。全ての仕事はそうだ。
 昨日の合同合評会は面白かった。我がクラスがある作品を酷評したのに相手のクラスはフォローしていた。普通そうだろう。あんまりぼろくそ言うのは人間としていかがなものか。第一自分がどれほど書けるのかということと、反論不能なのに一方的に攻撃するのは人としてどうか。我がクラスはどうかしている。私のせいか。でも2次会は楽しかった。内藤がバツグンに面白い。年が離れていても文学仲間だ。会社の連中よりよっぽど楽しい。美人は一人もいないけどね。
 物を書く人間はサディスティックなのかなと思う。我がチューターも多少そうだ。文章のうまい人間はみなそうだ。残忍だ。それでも面白い人間であることは本当に至難だ。人間を避けて文学の世界に逃げているのに人間らしさを求めるのは酷だ。文学の世界で生きるたくましさは女のほうが上のようだ。男はひ弱だ。遠慮がちだ。もっと貪欲に谷崎のように求めなければならない。
 でもどこの世界でも常識を身につけなければ楽しむこともあたわない。礼儀作法、道徳を身につけよう。そうするとプラスのストロークが流れ込んでくる。職場は大幅に改善された。良かった。長年の努力のおかげだ。嫁が欲しい。子供が欲しいと思った。苦労しても良いと思った。生きがいが欲しい。自分にご褒美をあげても生きがいにはならない。やっぱり子供の笑顔が欲しい。嫁のねぎらいが欲しい。もっと素直になろう。攻撃衝動が高まっても常識とルールさえ守れば大丈夫だ。
 肩の力を抜いて楽にやってみよう。小説も楽に書こう。オニババ化してはならない。オニババ化しないためには世間の常識、礼儀作法、道徳を受け入れること、そうするとプラスのストロークが流れ込んで正気に戻る。それを抜きにして統合失調症回復は無理だ。



2005年06月15日(水) 梅雨

 梅雨だが今日は降らない。礼儀作法、道徳に従おう。そうするとプラスのストロークが流れ込んでくる。小説のコツは肩の力を抜いてリラックスして書くことだ。凝っては思案に能わず。生きることもそうだ。肩の力を抜くことだ。頭に血が上っていてはいけない。オニババ化した人間は相手にしない。礼儀正しく接することではないかな。一緒になって逆上してはバカを見る。身分の低いバカに傷つけられる。冷静に礼儀正しくが肝心だ。相手にしないことだ。オニババ化した人間は女に限らない。ババアに限らない。女に限らない。ヒステリーと昔呼んでいたものだ。男にもヒステリーがある。ヒステリーを相手にしないことだ。絶対に。私が少しくらい遅刻したからといって怒る必要はない。ヒステリーだ。キチガイがこの世には多すぎる。肩の力を抜いて生きよう。そうすれば頭も少しは回る。
樹林を読んでみた。結構面白い。小説を書き出して数年であれくらい書けるとはすごい。私も載りたい。肩の力を抜いて書くことができれば可能じゃないかな。小説の世界も結局約束事だ。約束事をマスターすることで上達する。本当に独創的なものは誰にも理解されない。その世界の常識をどれだけ多く吸収するかで上達は決まる。仕事も人生も同じだ。この世にあと何年いられるかわからんが、この世の約束事をどれだけ覚えられるかで決まるのだ。常識、道徳、礼儀作法、こういうものをどれだけ覚えられるかだ。覚えられれば年齢なんか関係ない。女をゲットするのも結局常識を覚えられるかどうかだ。常識や礼儀、道徳をどれだけ覚えられるか。それが勝負だ。私は世の中から引きこもって、世の中のルールから外れて生きてきたが、ホリエモンだってこの世のルールを破ったから成功したのではなく、この世のルールを人よりたくさん覚えたから成功したのだ。ただITの世界は新しいから勝手にルールを作れるところがある。そこに独創性が生かされる。しかし全くゼロから始めたのではない。人脈を利用したのだ。他人の能力やノウハウを。自分で勉強する代わりに人の常識を利用するのがうまかっただけだ。それで時間を買ったようなものだ。その勢いで古い世界の証券やメディアの世界に進出しようとすると途端に馬脚を現した。それはその世界の常識を知らないところがばれたからだ。日本が特別古いからではなく、世界共通だ。常識やしきたりを守らない人間は入れてもらえないのだ。私が中途入社したときも差別され、いじめを受けた。私が常識を持たないことがすぐに明らかになったからだ。田舎暮らしするときも土地のしきたりや常識さえ守ればうまく行くだろう。プラスのストロークがどんどん得られるだろう。人間、修行だ。常識やしきたりや道徳や礼儀を覚える修行だ。
 世の中の約束事を覚えることだ。自分が得するように振舞うことだ。オニババを相手にしないことだ。自分が何よりオニババ化しないことだ。オニババはオニババの匂いをピラニアが血の匂いをかぎつけるように嗅ぎ付ける。オニババ化には十分注意しよう。オニババを絶滅させるとかオニババを改善するとか考えないことだ。他人を変えるのは絶対無理だ。自分を変えることさえ不可能なのに。人間を変えられると考えるのは犯罪者か狂人のみだ。変えられるのは行動だけだ。習慣づけだけだ。それは礼儀や常識や約束事と呼ばれる。俺みたいにそれすら嫌がるめんど臭がりがいるのに、自分を変えるなんて。全く本末転倒だ。常識さえ覚えれば済むことなのに、何が人間失格だ。お前こそ死ね。ドキチガイ。常識を覚えようとしない人間を改造しようとするのは本末転倒だろう。覚えないのは覚えたくないからに他ならない。そんな人間を無理やり常識を植え付けようとしても無駄なんじゃないのか。自分から覚えようとするまで無理なんじゃないのか。ましてや人格改造しようとするなんてマッドサイエンティストだ。私はモルモットにされたのだ。常識を誰か信じているのか。純真な私のような人間ほどそのうそ臭さに耐えられないから逃げているだけなのに、頭がおかしいと決め付けて排除する。いじめる。果ては人格改造する。体育会系は手っ取り早い人格改造だ。常識を植え付けるためにこんな便利な方法はない。だから私は嫌がるのだ。しかし道徳と戦う必要はない。信じる必要もない。人間は自由だ。道徳を無理やり植え付ける必要はない。誰も信じていないものを信じた振りをする必要はない。というより信じた振りをすることは簡単だ。本当に信じる必要ははないのだ。信じた振りして従っているだけなのだ。誰も皆本当に信じているやつは一人もいない。信じた振りができるかどうかで決まるのだ。挨拶、遅刻をしない。それで何が変わるというのだ。信じた振りができるかどうかだけだ。そんなことは簡単なのだ。常識や約束事はもともと作ったものだからリアルじゃないのは当たり前じゃないか。嘘に決まっている。嘘だからだ。嘘だけど従いましょうというのが法であり、道徳なのだ。時には命を奪っても守ろうとする、恐ろしいものだ。どうしてわざわざ損するようなことをするのか。信じた振りさえするならば人格改造する必要などないのだ。どんだけナイーブなんだ。男が女を好きになる。それも嘘だ。約束事だ。あるのは獣性だけだ。ホリエモンが常識を守ったからといって信じているわけではない。ITなんか何も信じちゃいないのだ。信じてなくて従うもの、それが道徳だ。大阪人なんか赤信号渡るし、違法駐車や引ったくりばっかりやっている。誰も道徳や法律を信じちゃいない。商売と損得のルールにだけ従っているのだ。お上の道徳なんか何とも思っちゃいない。
 私は多少精神的に弱いかもしれない。多分遺伝だろう。でも生きていくことはできる。まともな部分もかなりある。普通よりすぐれて部分が多い。どうすれば良いか。常識をどんどん受け入れることだ。常識を受け入れた振りをすることだ。本当に受け入れる必要はない。本当に受け入れて良いのは宗教だけだ。それ以外の世俗的法律は単に受け入れた振りをするだけで良い。信じた振りをすれば良いだけで本当に信じるやつなんか一人もいないのに私くらいだ。本当に信じようとするのは。本当に信じようとするから無理なんだ。誰だって嫌だろう。あんなキチガイを教師として尊敬したり上司として尊敬することは誰も要求してはいない。振りをするだけでいい。HやKのようなすれた図々しいやつは全く信じてなどいない。腹黒いやつだ。iに至っては面従腹背の見本だ。誰も信じられないものを自分にだけ強いるなよ。自分の嫌がることをしてはいけない。
 礼儀や常識や道徳を信じる必要などない。そんなキチガイは一人もいない。ただ従う必要はある。不利益を受けるからに他ならない。プラスのストロークを受けたければ常識を守ることだ。信じる必要などないのだから簡単なことだ。



2005年06月13日(月) 会社

 会社で気に入らないやつがいる。我慢ならない。そもそも私がマンションのことで精神状態がおかしくなってきたので猛烈に腹が立っていたのだが、私に対していじめに近い態度を取っている。改善しないなら北原に相談しよう。私は今調子が悪いのだ。Y氏もそういうところがある。小さい頃厳しいしつけを受けた。他人の顔色をうかがうところがある。私はサディスティックなところがある。あるキチガイと付き合ったためだが、そういうなんでも言うことをきいてくれるものを見ると近づいてしまう。いろんなことやものが私の性格と行動形成に関与しているため全くどう解釈してよいかわからない。言うことを聞くから図に乗る。なぜ言うことを聞く必要がある。キチガイはどこまで行ってもキチガイだ。
 無視することだ。毅然とした態度を取らなければつけこまれる。いじめ対処の鉄則だ。文校でもいじめにあった。だから女は嫌いだ。でも今は対処できる。自分を大事にしなければならない。自分を粗末に扱ってはならない。自分を汚してはならない。あのキチガイババアはやっといじめを止めたようだ。頼みのI氏が離れたのがこたえたようだ。私は闘争に勝ったのだ。これが当たり前の姿だ。いじめのない職場を実現しよう。
 オニババ化している。男でも女みたいなやつはオニババ化する可能性がある。俺は好きでないやつは好きでない態度を取る。当たり前だ。迎合して好きなふりをするとえらい目に遭う。私もオニババ化していた。オニババ化とは無制限に高められた性欲と途方もない攻撃性からなる。あのキチガイのしつこさは本当に恐かった。シンガポールにもいる。絶対許してはいけない。悪をなぜ許す。悪を許したら歯止めがなくなる。
 明日以降様子を見て北原に相談しよう。我慢することはない。おれは病人なんだ。いじめは許されない。オニババ化したhを戒めなければならない。自分の身は自分で守ろう。



2005年06月12日(日)

 私は女とうまく行かない。頑張ってうまく行かせようとしてもだめだ。大変シリアスな対立となる。母、姉いずれも私の中に女性への嫌悪を残した。暴力もふるった。姉は小さい私に言葉の暴力をふるった。大きくなって私は暴力で復讐した。不毛である。女、あるいは女みたいなやつとうまくいかない。誰とでも仲良くしなくていいんだけどね。女とうまくいかなくてもしかたがない。うまくいかないにはいかない理由がある。無理をすることはない。小さい頃プラモデルを触っていると姉が話しかけてきた。羨ましかったのだろう。こたえているうちに何かひどいことを言ったので私は激しく泣いた。ひどいやつだと思う。羨ましいからいじめたのだ。その夜私は自転車で家出をした。家族が嫌いになる第一歩であった。何かが女と合わなくて刺激する。女は私を攻撃する。東京で喫茶店に入ったら売春婦の集団みたいなのが居ていきなり私を罵り始めた。理由などない。何かが刺激したのだが私に責任などない。今日、街を歩いていて女は弱いものだと思った。実に弱い。体力が弱い。体が小さいことは大変なハンデだろう。弱くして生きていくということは大変だろう。若い頃は美しさというパワーを持っているが年をとると実に哀れだ。それでこんなのは敵でもなんでもないと思った。こんなに弱いのだから。何かしてきたら叩いてやればいい。職場のキチガイも私の何かが刺激するから攻撃しているだけだ。反撃すれば良いんじゃないか。合法的に。簡単なことだ。相手は弱い女だ。文校の女も私に攻撃を仕掛けてきた。私が精神不安定になり、攻撃的になっているのに反応したのだ。必ず女とはシリアスな対立となる。ひとつはどこまでも道徳的となって誇り高く相手にしない。決して目を見ない。第二に近づかない。近づかせない。第三に攻撃してきて危険を感じたら決して攻撃されるほど弱くないことを知らせる。女なんか弱いということを思い知らせる。攻撃するのも嫌な場合は第三者に助けを求めても同じことだ。この三つを徹底して身を守ろう。仲良くするという選択肢もあるが残念ながら私はもうすっかり女が嫌いになってしまったので仲良くしても楽しくないしメリットがない。
女から身を守らなければならないというのは悲しいことだし、不都合だ。この世の半分は女だし、快楽の半分以上は女から来る。結婚も子供もだめ、セックスもだめというのは人生生きてても楽しくない。でも私はパーソナリティーの社会化に失敗したんだな。そんな人間はいっぱいいるよ。敗残者の群れの中に。でも女より大きな快楽もあることはある。それにそんな俺に合った快楽もあることはある。社会から一般には容認されていないが。
 女の中でも女傑タイプが一番合わないかな。母や姉がそのタイプだ。男を支配するタイプ。私はどうしても支配されたくない。まあ、誰だってそうか。父は気が弱いから酒に逃げていた。兄は尻に敷かれながらうまくやっている。尻に敷かれてやっていくというのは多くの男がやっていることらしい。珍しくない。しかし私は女なので反発してしまう。このタイプは実際に権力を握ってしまう場合が往々にしてある。私は権力に執着するようでどうでもいいから負けてしまう。霧島でも女の事務員とけんかになった。戦う時は戦った方が良いだろう。往々にしてというより放っておくと自然に窮地に追い込まれる。最初に権力で鎧ってしまうという方法もある。しかしこれは男とも対立してますますまずい。権力者が嫌いというのはまずいらしい。嫌いというのは道徳に反するらしい。少なくとも嫌いという態度を見せるのは相手をバカにする行為だ。それで最近は田舎暮らしとか言っている。田舎には田舎の権力やしがらみがある。ずっと田舎に居たからわかっている。
 道徳が一番良いみたいだ。私が道徳をないがしろにするならず者だと思うので攻撃してくる。小さい頃やんちゃな子と付き合ってしまったのでそういう癖がついた。道徳的になると社会に受け入れられてプラスのストロークが流れ込んでくる。そうすると元気になって更に良いことをする。好循環が生まれる。好き嫌いを行動の基準にしない。道徳的であること。私は今仕事をサボタージュしている。理由はババアがいるからだ。そいつと同じ仕事はしたくねえ。そもそもやる気がしない。そいつが居るだけで気分が悪い。気分が萎えてくる。それでもいなくならない。好き嫌いなんかどうでもいい。道徳は適正な距離を保ってくれる。愛情や好悪は人を結びつけたり、放したりするが、道徳はそれを調整してくれる。好き嫌いなんかどうでも良くてなぜなら全ての人を好きになることはできないし、全ての人に好かれることは不可能だし、人を変えることは不可能だからだ。嫌いな人間を好きなふりをしたことがあるが結局うまくいかなかった。好き嫌いに基準を置くと自分が傷つくだけだ。道徳だけに従おうと心に誓えば全く安全な人間に変貌する。すると人が付き合ってくれてプラスのストロークが流れ込む。それが俺を楽にしてくれるだろう。どんなに嫌いでもいい。hやkのことをどれだけ嫌いでもいいから道徳にだけ従おう。小中と気の狂ったやつとばかり付き合ったためにだめ人間になってしまった。あまりに嫌悪や怒りが強いと理性的に道徳的に振舞うのが難しくなり怒りに身を任せやすくなる。それは100%自分に不利益になる。理性と道徳に従おう。道徳とは本来人間の外にあるものだろう。だからかなり不自然だ。暴力的な面もある。人の動作や思考まで縛ってしまうからだ。しかし縛られない人間が本当に自由だろうか。宅間は生きる自由さえ奪われてしまった。道徳こそが自由と喜びを与えてくれる。
 物書きは現実の中で居場所をなくし、狂気に住みかを求めた人の群れだ。ならず者の世界だ。そんな恐ろしい世界に足を踏み入れてしまった。これは小中と気の狂ったやつとばかり付き合っていたことの延長だろうか。そのわずかな居場所でも私はとても居心地の悪い思いをしている。道徳的に振舞うことでかろうじて自分を守っている。もっと自由じゃないのかと思うが、やっぱり道徳や権力の支配する世界だ。egでもババアにたてついたらいじめられた。感情を支配することは難しい。
 道徳だ、女だ、権力だ、言ってないで楽しいことを追求したらどうだろう。そうすれば忘れる。文校だって楽しいから行くんじゃないのか。何でそこで不愉快な思いをしなきゃいけないんだ。楽しみを追求するには道徳が何より必要だ。礼儀作法、行儀作法といってもいい。園芸をやるにはたくさんの知識、常識が要る。そうだ、人間社会で生きていくにも大変な量の知識が要るのだ。それが覚えられないと山奥で一人暮しするしかなくなる。それもいいけどね。その知識の集合を道徳といったり、礼儀作法といったり、昔は修身と言っていた。人と付き合うということはその常識を勉強することだ。西行や芭蕉も一人で生きてたわけじゃない。俗世間の常識に従って生きていた。自由に生きていたなどと考えるのはナイーブ過ぎる。文学もルールと常識の塊だ。
人間の中身を根本的に変える必要などあるのか。そもそも可能なのか。むしろ変えていけないと思う。道徳とか礼儀作法を覚えればいいだけの話だと考えている。egとか自己啓発セミナーは人間を変えようとして結果不都合なことが起こる場合がある。人格変容はいいが、人格崩壊は困る。礼儀を覚えればいい。私は自分は変わらなきゃいけないほど悪性が強いとは思っていない。中学のとき虐待された時もまるで人非人のように言われた。「人間失格」といわれた。言葉による虐待だ。それは最近もやられた。それは単に言うことをきかないから腹を立てているだけなのだ。だから腹いせに暴力をふるっているだけだ。私は変わる必要などなかったし今もない。ただ常識を覚えればいいだけだろう。それがどうして人格改造などという非人間的な行為に結びつくのか。人を変えることなどできはしない。北風と太陽だ。遅刻なんて単にお行儀が悪いだけの話だろう。万引や暴力と全然違うじゃないか。それとも私の行為に反社会的なにおいを感じたのか。私はぐれる代わりに左傾した。しかし同時に統合失調症的自閉への道を歩み出した。
 自分が変えられると勘違いする人間は他人も変えられると誤解する。そして無駄な努力で労力を浪費する。態度は簡単に変えられる。私は中学のときいじめられて態度を変えればいいのに世の中を変えるべきだと思って左傾した。また自分を変えようともがいた。元祖尾崎豊だった。自分も他人も変えられないというのが正解だ。egで自分を変えようとする人間は深刻なダメージを受ける。人は変えられない。変えようとしてはならない。一切だめ。薬物かマインドコントロールくらいしかない。戦時中の日本だ。あるいは現在の企業や学校だ。世渡りだけ覚えていればいいのに人格改造なんて。恐ろしい行為だ。それが後の統合失調症につながる。一切やめた。人格改造は。世渡り、常識を身につければいいだけの話なのに、バカじゃないのか。
 論理療法は人格改造じゃないのか。むしろ人格改造が癖になり、当然失敗の連続で抜け出せなくなった人を救済するためのものだ。変な癖のついたのを毒をもって毒を制するという発想だ。だからあれはあれで必要なのだ。それをマイルド化した認知療法が大はやりだ。女は最初からそんなもの信じていない。哲学とか宗教とか時間の無駄だと思っている。eにからまれたのもそういうところだ。むしろ俺は人格改造の結果の統合失調症地獄から抜け出したい。山田なんかと付き合うといいかもしれない。あいつはほんわかして毒がない。俺を救い出してくれ。eだって毒があるようで女だから私よりむしろ山田に近い。私はそういうのに救い出してもらった方がいいんじゃないのか。彼らは遥かに健全だ。私は病んでいる。自分の鏡地獄の中で襲ってくる妄想の敵と必死で戦っている。もうとっくにダウンしてタオルは投げられているのに戦うことをやめられない。人付き合いって難しいだろうか。常識さえ守れば簡単なのに。真心と常識で楽しいお付き合いができるのに。
 ニュートンて統合失調症だったらしい。毛唐なんかデカルトとかカントとか統合失調症ばっかりじゃねえか。統合失調症文明。私は統合失調症じゃなかったのに憧れからまねをしてしまったんだな。よせばいいのに。eのまねをしたほうがいいんじゃないのか。アホが一番いいんだよ。楽だ。楽しよう。無理して賢い人の真似をする必要があるのか。むしろ常識があって人付き合いのうまいアホなやつが一番いい。★子君を見習え。
 嫌ったりすることは道徳の誤りだ。好き嫌いが関係ないのが道徳や常識の世界だ。統合失調症は常識外の世界だ。ニュートンは人間嫌いで人付き合いが嫌いだった。金や権力を手にするのはそういうタイプかもしれないが私は無理だろう。興味ないし。eを見習えよ。
 私はニュートンみたいに統合失調症で世間知らずで常識がなく異常に攻撃的である。あのバカ女はそれを真似している。何でもまねをするバカ女。無視しよう。何でもまねをして張り合ってくる。私が超攻撃的なのは統合失調症だからだがそれまで真似してくる。キチガイだ。統合失調症は女嫌いだ。ニュートンも独身を通した。嫌いなもんはしょうがない。私は性的な喜びは十分味わったと思う。これ以上やると変態になるからやめたほうがいいくらいだ。でも人間的なつながりは取り戻したい。科学技術や法律、宗教、道徳は統合失調症野郎が営々と築き上げたものだ。女はそんなことどうでもいいと思っている。俺も実は嫌いだ。遅刻をとがめられて怒ったのも反社会的だからというより法律なんかどうでもいいと思っているからだ。それを俺は苦手を克服したいと思うタイプで法律の世界に進んだ。でもごまかせないもので挫折した。大嫌いなのだ。自分の嫌がることをするなといいたい。それが統合失調症の始まりだ。統合失調症の仕事は統合失調症に任せておけ。私はむしろeのまねをしたほうがいいんじゃないのか。
 こんなことに気づいたのも文校で揉まれたからだ。eの生き方を見習った方がいい。横山さんもああいうタイプだった。女傑タイプ。甘えたいのかな。それしかないでしょう。理屈っぽいことは私も嫌いだ。ぞっとする。アメリカは統合失調症だけどちょっと違うところもある。アングロサクソンは大陸系統合失調症と違う。統合失調症が陽性だ。外に出さないと信用しない。出しすぎなところもある。オミズというのはおっさんだ。そういうのが好きなのかな。女女していないの。職場では完全に行き詰まっているが、あそこでは行き詰まってもどんどん変化していける。自己変革という意味でなく行儀作法や態度や方針の変更という当たり前のやり方で。自己変容という統合失調症的暴挙ではない。変われって俺に言っていたキチガイがいたが、本当に恐ろしいことだ。残りの人生はeのように生きていきたい。俺はキチガイ失格だ。いい人過ぎてキチガイになりきれなかった。なんちゃってキチガイだ。大学時代俺をいじめたやつなんか正真正銘のキチガイでばったもんのキチガイである私はいじめのターゲットになった。キチガイ脱出。eを見習おう。でもどうしても嫌いなんだよな。安定しない。eだって最初礼儀正しかったのに私が礼儀を拒絶して逆に自分を追いこんでしまったのだ。礼儀が通じる範囲で生きていこう。キチガイの世界はもうごめんだ。eは何も悪いことをしていないのに俺がけんかを売ったことになってしまった。俺は病気なんだ。女嫌いという。職場のキチガイは今まで見た中で最悪のキチガイだ。礼儀を覚えればあっという間に病気は治る。キチガイの道徳レベルの低下した中で生きていくなんて真っ平だ。私は礼儀を覚えて今すぐ楽になるぞ。会社はキチガイだらけだ。キチガイにあらずんば人にあらず。小学校の頃サドマゾなガキがいていつもある子をいじめていた。俺もいじめ仲間に入れられて一緒にいじめをやらされた。その子は俺を恨みひどい仕返しをされた。工作を壊されたり、修学旅行で財布を盗まれたりした。そのときのことを思い出す。eはタイプが似ている。俺の中のあのいじめっ子が蘇ってきたのだ。会社の礼儀は通用しないからあの場ではあの場の礼儀に従うことだ。eは合評が苦痛だという。私もその気持ちがわかる。理屈っぽいには私も嫌いだ。その気持ちに素直に従ったらいいのだ。
 道徳は俺が身につけた妥協の産物だ。外側にあるのではなく中にあって外界とうまくやっていくための知恵と常識の集積、それが礼儀であり、道徳だ。eや山田は俺に大切なことを教えてくれる可能性がある。大事にしたほうがいいんじゃないのか。男は権力を目指さないとまともじゃないと思われる。でも俺は女だ。不本意な人生を歩んできた。やりたくないことを自らに強いてきて無理がたたって統合失調症になった。ずっとたたられている。あのegで私により添っている気がするといってくれた女の子。私よりずっと偉大だ。頼ったらいいんじゃないのか。助けなしに生きていくには疲れすぎている。ローンを背負うということは統合失調症的行為だ。俺はそれで再発してしまった。統合失調症的行為は統合失調症に任せておけ。近づくな。何で移住とか田舎暮らしにこだわるのか。統合失調症が治る可能性があるからだ。無理な荷物を放り出して楽になるからだ。毒素を一切排出できるからだ。毒素は毒素と認識すると免疫が働き出す。毒素と認識しなければ働かない。会社の統合失調症の皆さんはマインドコントロールがお済みなので毒を毒と認識していない。それでも会社のやくざどもは信じていない面もある。会社にひどい目に遭っているからだ。女は楽でいいな。女と付き合うだけで癒されるんじゃないかな。セックスだけは嫌だけど。それでもいいかな。
 宇治に行って来た。三室戸寺のアジサイを見た。瑞々しく美しかった。天上のようなブルーがきれいだった。花だけを見に来た善良な人々の顔を見るのは癒される。平等院の門だけ見て(時間が迫っていたので)みやげ物を売る通りを歩いてお茶を買い抹茶アイスを食べた。宇治川の景色が素晴らしかった。宇治橋も良かった。それから京阪で京橋に戻り梅田に出て小説の舞台を捜した。記憶の中の地下鉄のホームはそこではなかった。天王寺だろうと思って戻り、捜してみたら記憶と矛盾しない改札とホームが見つかった。嬉しかった。
 女は嫌いだ。人を取って食おうとするオニババみたいな女はたまらない。eは確実にオニババ化している。でもそんなに恐くない。俺もオニババではないか。オニババ仲間だ。女に生まれて女の幸せ(出産、子育て)を経験しない女性はオニババ化する。それは俺も同じじゃないか。女の心を持ち女の幸せはやって来ない。男の幸せはとっくに潰えた。
 ババアは本当に食えない。私を餌食にしようとして私がオニババ仲間だと気づくと仲間にしようとし、それもかなわぬといじめにかかる。職場で経験したことを文校で短い間に再体験した。普遍的パターンだ。オニババ同士休戦協定を結ぶのが良い。子供いるのにオニババ化しているのは持って生まれた性格だろう。
 誰がこう言った。誰にこんなことをされたなどとわめいて一生を過ごしたいのか。そんなババアが職場にいる。かわいそうなやつだ。誰からも嫌われている。こころなしか母に似ている。私は中学時代から遅刻が原因で葛藤が生じた。病気で実家に帰っているとき更に抜き差しならない深刻な葛藤が生じた。母親の人生まで巻き込んでしまった。オヤジは死んでしまった。母親は不眠になった。実家は全焼した。悪い因果が巡っている気がする。ブッダなら何と言うだろう。憐れんでくれるだろうか。出家を勧めてくれるだろうか。でも済んだことだ。できるだけ楽しいことを考えて暮らそう。道徳、倫理、常識、礼儀作法に忠実に従って生きよう。
 楽しいことを考えて暮らそう。短い人生だ。深刻なことを考えるのはもう止めて肩の力を抜いて楽に生きよう。そうすると本来の力が自然に湧いてくる。小説も楽に力を抜いて書いたらずっと良くなった気がする。苦しんで書いたものを読まされるのは苦痛である。Eの書き方を見習おう。書くことは楽しいんだ。仕事も楽しくやろう。自分を追いこむことが良いことみたいに考えているやつがいるが私には無理だ。ホリエモンのようにゲームのように楽しんでやろう。苦しいところはもうとっくに潜り抜けてきたのだから。
 統合失調症の皆さんと何とか仲良くしたいと願ってきたが、そんな必要はないと気づいた。中学時代の統合失調症教師、高校時代の理系いじめっ子統合失調症大学時代の法律系統合失調症いじめっ子、銀行時代の体育会系不良系いじめっ子、無数にいて全部挙げられない。統合失調症の誰彼がどう言った、こう言った、こんなことをされたなんてしゃらくせえ。自分の良心と常識だけに従って生きていれば誰も恐くない。



2005年06月11日(土) 曇天

 今日は天気が悪い。昼から木辺弘児の文章講座を聴きに行こう。文学にようやく目が向いてきた。今まで自分のことばかりだった。外に目を向けた方が良い。
 良い人を演じ、誰からも好かれようとする態度の悪い点は嫌いな人間によってこられた場合に拒む理由がなくなることだ。風俗嬢と同じで一番辛いことだ。それをやめることにした。嫌なものは嫌で良い。断る。アサーションの理論だ。無礼な人間を好きになる理由などない。あのババアも同じグループだから拒めないと考えているところが一番腹が立つ。おばはんの一番嫌いな点だ。残された時間が短いから、相手の気持ちなんか無視する。気に入らなければ危害を加える。お前に何の権利があるんだ。hとk。死ね。母親も同じだ。私にはNoという権利がある。礼儀作法や道徳が適正な距離を保つ。私は自分を変える必要ないんではないか。誰か人でも殺したんならだけど。必要なのは必要な礼儀を覚えることだ。それだけで十分なんじゃないか。文校には礼儀作法の勉強に行っているんだと気づいた。良いことに気づいた。自分を変えるなんて過激なことを考えないで必要な礼儀を覚えれば良い。素晴らしい。好き嫌いは変えようがない。適正な距離のとリ方を覚えることだ。
 誰とでも仲良くしなくても良いのはほんとだけど、ババアが嫌いとかってなるとまずいかも。自分だけ差別されていると思うだろう。好きにならなくても良いが、嫌いにならなくても良いんじゃないかな。どうでも良いという距離感のとリ方が大事だ。人に勝ちたいとか自分だけ楽をしたいとか道徳に反することは良くないんじゃないかな。kのおっさんはさすがに仏教者だけあって、優しい。その優しさに気づけよ。それは道徳というより当たり前のことで、私は立派な道徳というより当たり前のことができていないんじゃないかな。ブッダの思想とかそういうものが特効薬のように考えるのは間違っている。論理療法、交流分析、アサーション、それより当たり前の礼儀とか行儀とか単純にそういう問題なんじゃないかな。深刻な問題ではないのではないか。仕事ができないのは恐いからではないか。あの気持ち悪いものと働くのは困難だ。私があのキチガイに腹が立つのはこちらの道徳とか礼儀を守らないからだ。結局宗教戦争みたいなものだ。お互いの行儀が悪いと罵る。
道徳にだけ従うと決めていれば、全然不安なことはない。怒りなどの感情や衝動に身を任せることは決してないのだから心配することはない。
 オニババが恐くて世渡りできるか。俺の母親がオニババだ。それがどうした。女が孤閨で永く生きればオニババにもなる。恐くも何ともない。俺もオニババだ。なめるな。たぶん今の私はとても恐いらしい。先週怖くないといってくれたが、やっぱり恐いと思う。職場のオニババもただのオニババだろ。いつまで恐がっている。情けない。山田さんも少女のような心を保ちつつ少しずつオニババ化している。大村っておっさんがいたけどあれもオニババ化していた。全然恐くない。前はうつで不安に震えていたが今では私も立派なオニババだ。攻撃衝動を抑えるのがやっとだ。このエネルギーをいい方向に持っていけば必ずうまくいく。常識とか道徳とか。ドーパミンは闘争や競争の時に大量に分泌される。私はもう止まらなくなってしまった。覚醒剤と同じ成分が出まくっている。これを道徳と礼儀と常識の力で統御すれば完璧にうまくいく。人間関係の問題にすりかえてはいけない。好き嫌いなんて何女みたいなことを言っているのだ。オニババとはオニババ同士だから全くどうにでもなる。戦うのも上等だし、手を握ることもできるし、どうにでもなる。気を使う必要などない。egを潜り抜けた私はドーパミンが出まくって躁転した。それがいつか内向し澱んで悪さをし始めた。俺は活火山になってしまった。サドを読んだ時、なぜ読んだかというと兄弟との関係で私は男女間の戦いに興味を持ったからだ。兄と姉はいつも戦っていた。そのえぐさを知らなければならないとなぜか私は考えた。それでなぜかサドを読んでドーパミンが出まくって統合失調症になった。それは薬ですぐ収まった。それが20年以上を経て今また噴出した。休火山は活火山になった。結構なことだ。変われる。自己変革などという危険なものではなく、道徳、倫理、常識、世間知、礼儀作法という極めて健全で穏やかなレベルで。俺が変わるのではなく態度が変わるのだ。恐がって生きていてもしようがない。短い人生だ。俺はオニババだ。女ともオニババとも戦える。女は皆オニババだ。少なくともそうなる可能性がある。キチガイオニババめ、俺が恐がるとでも思っているのか。もう可愛くて臆病な俺ではない。
 利口ぶってもしようがない。俺はほとほとバカだと気づいた。バカでいいじゃないか。俺にもこの世の真実はわかる。女の喜びだってわかる。女の快楽は判らないものだと思っていたが俺にもわかる。俺は両性具有だからだ。悪いか。幸運なことだと思う。男の快楽も女の快楽もわかる。神が与えてくれた贈り物だと思っている。俺がわかることはわずかしかない。わかるわずかのことで生きていくしかないじゃないか。それでもう十分過ぎると思っている。本なんか読みきれないくらい買ったじゃないか。もう買うなよ。もう生きていくのに必要ことは全部知ってしまったじゃないか。俺には人間らしい優しい崇高な心を持っているじゃないか。自分でわかっているだろう。自分がどんなに気高い心を持っているか。それを生かせよ。熱い心とクールな頭で生きていけよ。常識と真心さえあれば十分じゃないか。女を見ろ。バカでキチガイで弱いと来ている。それでも男よりタフに生きぬいているじゃないか。それも男より楽しく平和に戦争なんかせずに。子供を生み育てて立派に生きているじゃないか。今もっている常識と知恵で十分に生きていける。熱く生きていこうよ。生きる感動を味わおうよ。
 私はオニババの心がわかってしまった。私が恐い人は私の中にオニババを見るのだ。性的快楽のためには人も殺して食ってしまいかねないオニババ。常に暴力衝動と邪悪な底無しの性欲に突き動かされ暴れまわるオニババの存在。私は了解してしまった。私もオニババになってしまった。世のルールを無視して快楽殺人と狂暴な性欲のはけ口を求める邪悪極まりないオニババ。自分がオニババになってしまえばオニババはもう恐くない。お上品ぶって生きていくことはもうできない。ルキノもオニババと化して生き抜いた。殺人衝動と無限に高められた狂暴極まりない性欲。これがオニババのエネルギー源だ。悪徳の栄えに出てきたクレアウィル。鬼女さながらに若い男を引き千切って殺して食う。全ての女はそうである。オニババである。私は女だ。男社会で生きていこうと思ったらオニババにならなければ生きていけない。



2005年06月10日(金) リスパ

 今日は病院に行って来た。リスパの液体をもらってきた。文校も大変疲れる。飲み会も2回に一回で十分だ。誰とでも仲良くできないしその必要もない。誰からも好かれる必要はないし好きになる必要もない。誰かを変えることはできないしその必要もない。そう考えると楽になった。道徳や礼儀作法は大切だ。文校も礼儀作法を学ぶ場所と思うと大変役に立つ。閉ざされた空間で役にも立たないことをやっているだけで責任はない。結局やるべきことは全然知らない人といかに付き合うかということだ。会社に行くのも結局礼儀作法の練習だ。嫌いな人間と付き合う必要はない。なぜそう思うかというと小さい頃嫌いな人間と付き合って大変嫌な変化をこうむったからだ。嫌いな人間と付き合うのは大変なストレスだ。
 私がこうなった理由がよくわかってきた。嫌な人間と付き合っておかしな人間になったこと。人と微妙にうまく付き合えなくなってきたこと。更に嫌な人間と付き合ってしまったこと。更にストレスがたまって、おかしな人間になってしまったこと。キチガイ教師にいじめられたこと。母親ともめたこと。クラスの人間とも家族とも交流がなくなってプラスのストロークが一切受けられなくなってきたこと。社会との交流が途絶え、分裂病的相貌を帯びてきたこと。ストレスが余りに大きくなってきたため、生きる気力を失ったこと。社会との交流が絶えたため、道徳水準が低下したこと。反社会的人格が醸成されたこと。良心が麻痺して境界例か人格障害的になったこと。そのためますますプラスのストロークが得られない悪循環に陥ったこと。自閉して統合失調症的人格が強まったこと。
 今考えられる方法は、道徳レベルをあげること。そして非難を避けること。非難される余地のない行動をとっていればもめることはない。ババアともめた最初のきっかけは向こうが私のことを非難してきたのだ。逃げようがないから応戦するしかないじゃないか。私が何をしたというのか。一方的に攻撃されただけじゃないか。私の道徳的レベルの低下をついてきたのだ。hも同じだ。でもそれは長いあいだかかってそうなったのだから仕方がないのだ。私が少しのことでも怒りっぽいのはプラスのストロークがかけているからだが、結局それは道徳レベルが低下したため社会と交流できなくなったからだ。感情の疎通性を失ったのだ。それを癒すのは文校は非常にいい場所だと思う。金をもらっているのではなく払っているのだから怒られる心配はない。道徳レベルを上げることはさほど難しくないし時間もかからないし、金もかからない。私はもともと道徳を知っているのに逆のことばかりやっているのだ。誰でも好きになる必要はないということ誰からも好かれることは不可能だからそのように努力するには絶対に失敗に終わる。誰かを変えることも。そうすると楽になる。自分の道徳レベルを上げることにエネルギーを使える。礼儀作法にエネルギーを使うと大変楽になる。そこからプラスのストロークが流れ込む。それは不思議なほどだ。それが私のやるべきことだ。なぜなら人工的に統合失調症的になったのは道徳レベル低下、疎外、プラスのストローク喪失、さらなる道徳レベル低下という悪循環が原因だからだ。カウンセリングを受けていてあれは心のマッサージだ。結局道徳は抜きでプラスのストロークをくれる唯一の場だ。付き合いにくい相手と付き合う必要はない。そういう相手を変えようと努力する必要はない。文校も会社は礼儀作法の練習の場だ。文章は二の次だ。結局できるだけ礼儀作法をたくさん身につけて道徳レベルをできるだけ上げて、ストロークをいっぱいもらって干からびて統合失調症的になった私の心をできるだけ癒そう。そういう見通しが立った。礼儀作法の練習。それがメインだ。ただし、全ての人と仲良くすることは不可能だ。全ての人を好きになり、全ての人に好かれ、気に入らない人間と付き合ったり、変えたりすることは絶対不可能ということをわきまえなければならない。



2005年06月09日(木) 文校

 今日は文校だった。作品はしょぼかったが何かに気づいた。少し親しみが持てた。和気藹々のあいくらいまではいったか。結局礼儀作法の勉強だと考えるとすごくお金を払った意味が俄然わかる。私は会社で不遇なので何を見ても苛立つのだが、道徳、礼儀作法、常識の勉強になる。やっと仲間に見えてきた。私の弱点は中学のときすごく自閉的になって、それ以来人付き合いというものをやっていない。結局ないものねだりをしても仕方がない。だから今礼儀作法の勉強をやっているんだ。人間の観察というより礼儀作法のお勉強と考えるとすごくぴったり着た。egでも女の子がお茶を立てたりして何を考えてるのかと思ったが今思うと正しいのだ。全てあの類のものは行儀作法、礼儀作法のお勉強なのだ。そう考えるとすっと入ってきて皆の存在が親しくなった。礼儀があってこそ他人の存在を受け入れられるのだ。礼儀作法によって世界がぐっと開けてくる。これは大きな発見だ。



2005年06月08日(水) 改善

 職場で問題がある。しかし解決などできない。職場にキチガイがいる。でもどうにもできない。改善などできない。仲良くすることもできない。好きになることもできない。その必要もない。大嫌いなやつがいる。でもいいんじゃないかと思う。全ての人間を好きになることも好かれることもできない。隣のやつを死ぬほど嫌いでも生活は普通にできる。それが道徳と言うものだ。世の中は好き嫌いではない。全ての人間に好かれなければならないというイラショナルビリーフから離れよう。さあ仕事をしようという気になってきた。kやhが大嫌いでも変えることはできないし、好きになることもできないし好かれる必要もないしその必要もない。しかし道徳的なことはできる。道徳的に振舞うことができれば、以上の三つの必要はない。いじめるやつやいけ好かないやつに好かれようと努力したり、好きになろうと努力する必要は全くない。キチガイがいたとしてもどうしようもないのだ。自分が道徳的な振舞いさえできればそれでいいのだ。そいつに迷惑をかけられればはっきり言う。それさえできればそいつを変える必要はないし好かれる必要もないし好きになる必要もない。誰からも好かれなくていいなんてなんて楽だろう。誰も変える必要がないなんてなんて楽だろう。
私は障害者だ。でも立派に働いている。素晴らしいことだ。アサーションをやろう。率直に行こう。迷惑をかけられたら我慢せずに言おう。死ぬほど嫌いでもいいんだ。変える必要もないし、好きになる必要もないし好かれる必要もない。気にする必要もない。egでもババアにからまれた。よくあれでまた行きたいなんて思ったものだ。行かなくていいんだ。ババアになんか好かれる必要なんかないんだ。というよりなんでババアがいるんだ。



2005年06月07日(火) ある日

 俺がこんな職場に放り込まれたのは女のせいだ。俺が病気になったのは女のせいだ。入院しても治らなかったのも女のせいだ。俺が死にかけたのも女のせいだ。俺は女と本当に相性が悪い。絶対にうまく行かない。女と付き合うどころか一緒にいるだけでものすごいストレスだ。女と付き合うのは諦めた方がいい。というか付き合ったことなんかないけど。そんな気にならない。薬局のねえちゃんには統合失調症ということで振られた。仲良くする必要なんかないのだ。嫌いだったら。向こうが嫌いな場合でも同じだ。そうすることですごくストレスが軽減される。でも道徳さえちゃんとしていれば文句を言われる筋合いなど絶対にない。嫌いなのに付き合う方がよっぽどおかしい。hやkと仲良くしようと努力するなんてキチガイだ。掲示板のキチガイどもと仲良くしようとするなんて頭おかしい。もっと自分を大事にしよう。道徳と礼儀に殉じよう。たとえ私が頭おかしくても絶対に道徳に従うと誓い、その通り実行できたとしたら絶対に誰にも手出しできない。これだけは絶対に正しい。中学くらいから女は嫌いだった。無理して好きになろうとするからストレスがたまり、トラブルの元になる。道徳で女と限りなく遠ざかろう。あの統合失調症の中学教師の気の狂った目が忘れられない。あいつのせいで俺の人生は台無しになったのだ。
 私のイラショナルビリーフは誰からも好かれなければならない、誰とでも仲良くしなければならない、嫌いなやつとでも自分をいじめるやつとでも仲良くしなければならないというものである。これの起源は小さい頃嫌われ者で俺にも意地悪をしたガキの母親に文句を言ったら仲良くしてと言われたのを真に受けて付き合い始めたことだ。それ以来、自分をいじめるやつ、不愉快なやつ、嫌われ者とばかり付き合うようになった。刷り込みだろうか。それですっかりおかしな人間になってしまった。俺はもう疲れた。休みたい。人間やめたい。今も薄気味悪い鬼ババアがそばに毎日寄ってきていじめる。しかも片方で欲情を燃やしながら。気が狂いそうになる。誰とでも仲良くなんてできるわけないだろう。嫌いなやつ、自分をいじめるやつと仲良くなんかできるわけないだろう。女なんかと仲良くできるわけないだろう。そこで道徳の出番になる。道徳はキチガイから自分を遠ざけ身を守る道具である。イラショナルビリーフをぶち壊せ。誰からも好かれるわけない。誰でも好きになれるわけない。自分をいじめる人間と仲良くするな。自分を苦しめることは決してするな。キチガイにやさしい顔を見せるな。女を甘やかすな。女から遠ざかれ。
 人を変えることなんかできない。特に女は無理だ。バカでキチガイ。絶対無理だ。仲良くするなんか絶対無理だ。人と仲良くするなんて一体どうして可能なんだ。絶対無理に決まっているだろう。
 甘えはよくない。犯罪だ。私は自分に甘えすぎた。高望みをするということは自分に過大な要求をするということだ。それは自分に甘えることだ。それは自分を苦しめ、病に追いこむ。ほどほどがよい。
 女とかバカとかキチガイを見ると、1)こいつを改善してやろう、2)こいつと仲良くなろう、3)こいつをやっつけてやろうと思う。どれも不可能だ。絶対に不可能だ。できるのは気を失ったふりか、とにかく相手にしないことだ。嫌いなやつ、自分をいじめるやつと絶対に仲良くする必要はない。変える必要もない。ただ道徳あるのみだ。道徳がそのキチガイから無限に遠ざけてくれるだろう。嫌いだったら絶対に付き合わなくて良いのだ。
 良い人である必要などないではないか。人に好かれる必要などないではないか。人を好きになる必要などないではないか。自分をいじめるやつと仲良くなる必要などないではないか。嫌われ者と仲良くなる必要はない。キチガイを変える必要などない。道徳的であれ。道徳で自分を守ることができる。完全にだ。道徳で完全に自己主張できる。
 道徳しか信じるものはない。



2005年06月06日(月)

 耳鳴りのせいか早く目が覚める。楽しいことをやろう。それが気分の改善につながる。仕事もゲームと考え楽しんでやれば良いんじゃないかな。フォーカシングも危険な側面があるのだろうか。催眠術ぽいし危険かも。でも即効性があることがあるしegのように危険という噂は聞かない。
 自己犠牲はいけない。道徳と自己犠牲は違う。私はいつも勘違いする。課長は私に激しい敵意を持っている。攻撃的な人格というものはなぜ敵意を持つのかといわれてもわからない。病気なのだというしかない。病気の人と付き合っていたらこっちまで病気になる。関わり合いにならないことだ。こんな激しい人格変容を遂げても私の中の優しさ、純真さは変わらない。一片のひょう心玉壷にありといった中国の詩人の気持ちがわかる。
 楽しいことは一つもなかった。楽しいことをやろうよ。私の優しさ、純真さはkとかhにはわからない。課長にもわからない。私は優しくて良い人だと思うのにそれではだめらしい。私が父親を見て思うことと同じかな。弱いとか優柔不断とか何考えているのかわからないとか。一緒に下宿を探しにいったとき本当に気分が悪くなった。嫌いな人間と一緒に行動してはいけない。というか嫌なことを自分に強いてはいけないのだ。どんな理由があっても。
 礼儀とか道徳とか大事だよね。道徳によってものすごい勢いで世界が開かれていく予感がする。私は極めて道徳的な人間なのだ。道徳や礼儀は人と仲良くするためのものではなく人と快適な距離を保ち自分の安全を守るためのものである。私の道徳レベルは長期的に低下し続けてきた。精神的に弱いのだと思う。理由を詮索しても仕方がない。中学時代から遅刻を繰り返し教師に反抗し左傾した。そのとき自分が道徳レベルが低下していると気づけば良かったが、自分は絶対に正しいと思い込んでいるから気づかなかった。虚仮の一念というのか。もっと柔軟に考えないといけない。軽く生きたい。ヘビーなものはもう十分経験し尽くした。味も薄味、運動は適度に、人付き合いもほどほどに礼儀を守って。人生後半はそういう方針で長生きしよう。
 M君が言っていた、私が気を発しているという意味がかなりクリアーにわかった。egで高まった心的エネルギーが統制されないまま暴走していたのだ。それが外に向かうと攻撃となり、自分に向かうと不安や怒り、統合失調症となる。心的エネルギーの高い人間はいくらでもいる。でもそういう人間はそれをコントロールする方法を持っている。体育会系の奴は攻撃的で心的エネルギーが高い。しかしそれを訓練でコントロールできる。序列やしごきのような形で発散または構造化する。私は中途半端だ。体育会系のアホさやきつさが大嫌いだ。私の野放しのエネルギーは権力者には大変カンにさわるものらしい。それはそうだろう。私は道徳や礼儀でその問題を解決できると信じる。エネルギーをそれによって構造化し安定させることができると信じている。それは体育会系の考えに近いだろう。何も考えなくて良いから一番楽で安全だ。心的エネルギーを抑えつけたり損なおうとするのはおろかな行為だ。不可能だし、抑えるとどこかで噴出する。精神的に病んでしまう。道徳や礼儀で安全に処理することができると確信した。すでに相当低下している。私の道徳レベルは。これを少しでも高めていくことが回復への近道だ。
 人の好き嫌いはどうしようもない。全ての人を好きになったり、好かれたりすることは絶対に不可能だ。でも道徳や礼儀さえ守れば安全に付き合うことができる。おばさんや意地悪爺とでも大丈夫だ。人間関係など存在しないに等しい。
 私は本当は道徳や礼儀より真心の方が好きだ。純真で優しい仏心が本当の美しい気持ちだと思っている。でも世の中で生きていこうと思ったらそれだけでは無理だ。第一真心ばっかり出していたらせっかくの真心も磨り減ったり薄汚れてしまうんじゃないかな。燃えつき症候群という奴か。だから自分を守るために道徳は必要なんだ。大事な真心を守るためにこそ道徳が必要なんだ。
真心を嫌う人間もいるんだな。利にさとい人間はそんな得にならないものは嫌う。私は道徳は水臭いと思う。第二にしんどいから嫌だ。人を信用していないのかと不安になる。人は自分を好いてくれるものだとばかり思っていた。真心で生きている限り、遅刻しようが挨拶しまいが大丈夫と思っていた。どんだけ天真爛漫なんだ。nは私を結婚式に呼ばずにkを結婚式に呼んだ。体育会系同士馬が合うのだろう。あれだけ真心を見せたhは決して私に心を許さなかった。私も本当の事を言うとhが大嫌いだ。付き合いたくない。そばにいるだけで嫌だ。脅かされるような気がする。私は自由に生きたい。嫌なことはしてはいけない。嫌いな奴に真心なんか見せてはいけない。自己犠牲とか人柱になりたがってはいけない。最後まで生きようと努力しろ。嫌いな奴と仲良くしたくないなら道徳や礼儀を利用しろ。心の中でどんなに嫌いだろうと道徳さえ守っていれば大丈夫だ。危険なことや恐いことは何もない。真心も礼儀もない状態は危険だ。文学学校で私はそういう状態になっている。だから反発される。会社ではそういう状態だ。これからは道徳と礼儀を賢く使ってうまく生きていこう。そんなことは中学校時代にマスターしておくべき最低限の常識だ。y氏はいじめられたことがないと豪語した。常識が身についているのだ。今からでも遅くない。人と仲良くするのが気が進まないなら全然OKだ。そういう奴こそ道徳が必要だ。俺は飲み会が好きだ。腹を割って真心で仲良くなれると信じていたからだ。親父の背中を見ていたのだ。ところがそれがとんでもない勘違いだと気づいた。hは何回俺とのみに行っても絶対に俺に気を許さなかった。kは飲み会で俺に思いきり意地悪をした。信じられない悪行だ。人間の心がないのだと思った。欲のために真心を悪魔に売り飛ばしたのか。信じられない。北原はチンピラ上がりだが道徳を信じている。だから俺と馬が合うのだ。
 サドやバタイユは真心の文学だ。究極の悪は相手への無限の甘えである。一切の道徳による人と人の障壁を許さず、自己の欲望満足を求める。足立区の女子高生コンクリート詰事件も甘えである。究極の真心を求める甘えが恐ろしい相貌を帯びる。真心は生命すら蕩尽する。経済や道徳に根本的に反する。阿部定の相手の男は性交しながら首を絞めて殺してくれと頼んだらしい。甘えであり、真心とも言えるし、蕩尽とも言える。江戸時代の心中は究極の真心を求め合う男女の気持ちが生み出す現象であった。道徳は真心と対立する。道徳は真心を危険視し、抑圧し、コントロールし、封じこめる。
 でも生きぬこうと思ったらやっぱり一人では生きていけない以上、道徳が優先するのだ。むしろ道徳が真心を守る。道徳が真心を通じさせる。道徳は人を遠ざけるものであるため、互いに人を必要とする人間は真心を通じ合わせようとする。真心とは生存欲求の別名である。だから権力者は警戒する。好き放題されては困るのだ。私の真心は勤務中にホームページを見ることか。明らかに間違っている。道徳レベルが極端に低下している。私は本来口うるさい道徳家である。大学では法律を学んだ。さっぱりわからなかったが。でも水臭いから人には要求しないでおこうと思った。でもそれはおかしい。もっと要求して良いのだ。どんなに疲れていても私は何が道徳的かよくわかる。酒を飲もうが薬を飲もうが変わらない。自分を失うことはない。死ぬまで一瞬たりとも気を許してはいけない。南京事件のようなことがこの世で起こってはならない。アウシュビッツのようなことが、原爆のようなことが。
 真心と道徳は一致するものではないか。真心を通じさせたいと思えばどうしても道徳が必要なのだ。道徳は真心の容れ物なのだ。酒を運びたいと思ったらビンが必要だろう。それを面倒がってはいけない。それはただのならず者だ。女を見て触りたいというのは真心だがそのまま触ったら痴漢だ。お話して仲良くなって恋人になって始めて許される。私は柔軟さに欠ける。だから道徳を守ることなど思いもよらない。道徳は柔軟なものだ。真心の形に合わせていかようにもなる。恐れたり敬遠する必要はないのだ。私が結婚を避ける一番大きな理由はそれが約束であり、道徳だからだ。真心は拘束され干からびる。いつもいきいき生きたいのだ。真心は道徳なしに生きられないのだ。人に伝わらないのだ。道徳レベルが低下するにつれて私の生きる場所は狭まっていった。今からでも遅くない。真心が足りないのではない。真心は十分ある。ありすぎて邪魔なほどだ。求めすぎるのだ。赤ん坊は真心が必要だろう。でも大人なんだから真心はほどほどで良いのだ。道徳が欠けているから真心も伝わらず、傷つき、磨耗するのだ。必死で真心を守ろうとますます頑なに道徳を遠ざける。道徳という便利な入れ物を利用しろ。こんなにいじめられてもkやhと仲良くしようとするなんておかしい。真心が道徳なしには通じないということに気づけ。
 真心をそのまま出せば通じると考える人間はほとんど狂人扱いだ。もしくは犯罪者だ。実際私は精神的に病んでいるし、犯罪者っぽく見られることもある。確かに不道徳な考え方をすることがある。でもいまだに自分が道徳的で正しいと信じているのでなおさら厄介だ。道徳は100%通じる。真心はそのままでは100%通じない。道徳レベルは最低ラインまで低下している。精神障害者であり、犯罪者に近い。勤務中にホームページを見るくらい道徳レベルが低下している。それは恐がるだろう。自分が傷つけられると思うだろう。道徳さえ守ると誓うならば人と付き合うことだって可能だ。若者と付き合うことだって可能だ。道徳が必要なんだ。距離が離れているほどますます道徳的である必要がある。いきなり仲良くなんかできない。おばさんだって恐くない。仲良くならないことだって十分可能だ。安全保障の問題だ。
 京都に行って来た。花菖蒲を見た。平安神宮は壮麗な建物だ。庭は大昔に造られた由緒あるものだ。修学旅行の季節なのか中高生ばかりだった。それがまたうるさかった。ちゃんと教育しろといいたくなる。東京もんは本当に京都が好きだ。東京弁も耳障りに感じるようになったから私ももう関西人か。それもいいだろう。谷崎潤一郎みたいでいいじゃないか。四条河原町のフランソワに行ってきた。変わってなかった。奥の禁煙席はなかったような気がする。増築したのだろうか。おっさん、おばさんが昼間から大声で喋り捲っていた。優雅で結構なことだ。やっぱり京都は居心地が悪い。人の視線さえ意地悪げに見える。きれいなものはたくさんあるが、目の毒でもある。住むのは絶対嫌だ。暑いし寒いし、意地悪いし不便だし、どんだけ信号多いんだよ。私があんなことになったのは決して偶然ではない。嫌なことはしちゃいけない。魂が汚れる。道徳レベルが低下する。今日は薬が飲めると思うとほっとする。純朴な私の魂は汚され、ずたずたになった。でも不思議なほどその美しさは損なわれていない。俺は大丈夫だ。そんな気がした。お互い道徳を守って適度な距離を保って過ごしていきましょう。好き嫌いなんか関係ない。道徳と礼儀があれば離れて快適に暮らせる。
 egも良い面と悪い面がある。怪しげな面もある。簡単に人を信じてはいけない。誰とでも仲良くなれるのではない。無理してはいけない。津和の奴らと仲良くできるか。あんな犯罪者みたいな奴ら。絶対止めとけ。田辺とか絶対無理だろう。あんなキチガイ。hとかkとか絶対無理。生理に反する。会社は仲良くするとこではない。egで私の人格は変容した。良い面と悪い面がある。カウンセラーのおばさんが言っていた。物事には両面が必ずあると。良いとこどりはできないと。egで得をしたこともあった。覚醒したような良い気持ちになった。うつが治った。でもいままた苦しんでいる。俺はモルモットじゃないといいたくもなる。自分をいじめてはいけない。
 道徳と真心はセットじゃないといけないんじゃないか。道徳だけだと全く木で鼻をくくったようになる。それでは何のための道徳か何のための真心かということになる。真心は大事にしよう。自分を尊重してくれる人にだけ見せれば良いことだ。世の中はそんな奴ばかりじゃないことは明らかだろう。中学のときおれの遅刻をとがめた教師を激しく憎んだのはそこに真心がなかったからだ。牛や馬を言うことをきかせるような扱いに怒ったのだ。でも大体において私の怒りは筋が外れている。道徳レベルが既に相当ダウンしているのでピント外れだ。文校のあの教師はどうも私が好きじゃないようだ。嫌いな人間に好きになってもらおうとするのは虚しいおろかな試みである。適度に距離を保つことだ。egにはもう出るまい。結果が予想がつかないし危険過ぎるからだ。真心があだになる典型例だ。
 私は人が何を考えているのかわからない。真心が通じない。薄気味悪い。だから道徳しか頼るものはない。道徳レベルが低下しているので少しでも高めよう。それ以外ない。道徳しか頼るものがないのだ。私には道徳しか理解できるものがないのだ。私は本来口うるさい道徳家だ。それしかもう頼るものはないのだ。真心は決して汚れていない。真心は減らない。道徳レベルが低下しているからつけこまれるだけだ。道徳で真心を守れ。
道徳レベルが低下しているとおかしな奴にからまれる。中学時代のキチガイ教師、hやk。キチガイにからまれないためにも道徳レベルを一刻も早くレベルをあげなければ。好き嫌いを行動の動機にしてはいけない。嫌いな教師に怒られたら反抗する。好きな教師なら言うことをきく。一見正しいようだが不利益を受けるのは自分だ。嫌いな奴は必ずいる。いちいち行動を変えるな。かならず損をする。hやkが大嫌いでも一向に構わない。好きになる必要などないし、仲良くなる必要などない。あのキチガイ教師やhやkは人と仲良くしようなどとはかけらも思っていない。人と仲良くしようとしない人間と仲良くしようとしても無駄である。仲良きことは美しいだろう。しかしそんなこと何とも思っていない奴らも多いのだ。そんな奴らのために不利益を受けるようなことはいけない。道徳レベルを上げて自分を守ろう。これを私のスローガンにしよう。人を好きになる義務などないことに気づいた。教師のような真心が必要な職業でさえ真心など信じていない。俺が臭いからと電車の中で暴力をふるったり、失礼なことをする奴ら。どこに真心などあるのか。そんな奴らと仲良くできるか。もう道徳しか信じることはできない。それしか頼るものはない。それしか理解できるものが俺にはない。道徳しか理解できない。それしか頼るものはない。
 良心と言い換えても良い。良心を取り戻そう。良心に反することばかりやる悪い癖がついてしまった。一時私は非行に走っていた。大学時代精神病院から出て変な女と付き合っていた。ものすごく荒んだ気持ちだった。女を大事にする気持ちなどかけらもなかった。病気をしてからものすごく生活が荒れた。ものすごい怒りが湧いて抑えることができなかった。ひどい仕打ちを受けたからだ。どうしても許せなかった。それから非行に走った。人に言えないことをいっぱいした。とてもまともな人間のやることじゃないことをいっぱいした。それは全部俺の中に残っているだろう。それが良心の劣化、道徳レベルの低下というものだ。誰に指摘されても悪いことは悪い。遅刻するのはキチガイに指摘されようとまともな奴に指摘されようと同じだ。文句は言えないのだ。キチガイに指摘されたくなかったら隙を見せないことだ。良心を取り戻そう。良心は義務を果たすことだ。道徳を守ることだ。勤勉、節約に努め、感謝される良い行いを積み重ねることだ。少しでも良心のレベルを高めることだ。
 私はまともな人間社会から長く疎外されていたため、世の中にルールやマナーや道徳や礼儀があることすら忘れている。忘れているんだから気づきようがない。でも私は道徳が嫌いではない。理解もよくできる。人よりうるさいくらいだ。口うるさい道徳家なのだ。道徳と礼儀を守り良心のみに従って生きていこう。いじめる奴はほっとけ。相手にしなくても十分生きていける。



2005年06月05日(日) EG

 EGに出たのは良かったのか悪かったのか悩んでいる。もう結果は出てしまったので悩むのは無意味だが。良かった点は多くの気づきを得た。勇気と元気をもらった。うつが治った。職場の問題を解決する勇気を持てた。悪かった点、統合失調症気味になった。余りに多くのエネルギーを処理できなくて暴れまわっているのだ。大変苦しい。うつと違って自分や他人を傷つける可能性がある。あのカウンセラーにエンカウンターに行けといわれて行って躁転して気分は良くなったが今は不調に陥っている。そしたら今度は統合失調症の薬を飲めという。なんかモルモットにされている気がする。あれは自己啓発セミナーと同じもので大変危険なものだ。精神的にはより悪くなったとしか思えない。統合失調症よりうつの方がましだろう。薬局のねえちゃんに引かれてしまった。統失の人は恐いと。同僚と喧嘩するし、カウンセラーに恐がられる。あんたのせいでおかしくなったんじゃないのか。でも言うまい。このままやっていくしかない。統合失調症もいずれ治るだろう。仕事に生かせばうまく行く。職場は統合失調症だらけだ。皆コントロールしているのだ。治療目的で参加しては行けないのだ。そこは自己判断だ。自分が嫌なことはしてはいけないのだ。あの時ためらったのだ。Y氏もためらっていた。やっちゃいけないことを二人で合意の上やってしまったのだ。カウンセラーの卵は勉強になるから良いだろう。でも精神的に不調な人は本当におかしくなる可能性だってあるのだ。そういえばばばあどもに実際そうやって脅された。あんなことはやっちゃいけないのだ。カウンセリングだったら良いだろう。確立された方法だ。でもEGはやりすぎだ。もう二度といくまい。そして早く立ち直ろう。でもあのままインパスに乗り上げて一体どんな突破法があったろうと考えると自爆テロ並に危険な行為も結果オーライと言えなくもない。もう済んだことだ。早く立ち直ることだ。薬とフォーカシングと道徳論で。二十歳の頃に経験したのと同じ狂気がまた私に再現したのだ。大変危険な瞬間を私は潜り抜けた。この危機は自分でコントロールできる。劇薬は副作用も激烈だったということだ。でもカウンセラーはそれに参加しつつカウンセリングもやっている。どんだけタフなんだ。うらまやしい。もう愚痴は言うまい。生きてるだけでよしとしよう。全て自己責任だ。行き詰まりを感じていたこともまた確かなのだ。



2005年06月03日(金) 統合失調症2

 今日カウンセリングがあった。今日は良く話した。前回までは恐いと言われたが今日は怖くなかったそうだ。薬が効いたのだ。道徳の話をした。道徳がいかに大事かを。私は道徳オタクなのでどんなに疲れていても何が道徳的かわかるし実行できる。だから常に道徳的であるのがよい。人に好かれようとしても無駄である。人間関係なんか存在しない。自分との関係があるのみだ。自分に道徳的であれば良い。自分の嫌がることは絶対しない。自分を傷つけることはいけない。昨日の文学学校は面白かった。i君の小説は秀逸だった。ユーモアがとても良かった。ユーモアのわからない奴もいる。あの学校も必ずしも和気藹々ではない。なんかなじめない。年が離れているせいか。リスパダールは良い。落ち着く。あのババアの声が平気になる。これはすごい効果だ。しばらく飲んで見ようかな。ババアにいらつくことがなくなれば素晴らしい。席替えがあって改善された。ババアが余り来なくなった。年寄りグループに入れられて良かった。楽だ。一番楽なのは道徳的であることだ。道徳的でなくなると突然苦しくなる。当たり前だ。岩を坂から落とすのと持ち上げるくらい違う。楽をしよう。道徳的であることだ。あんなババア嫌いでも一向に構わない。なぜババアが嫌いだったかと言うとものすごくでしゃばりで攻撃的で恐かったからだ。本来私の役に立たなければならないのにガン細胞のように襲いかかってきた。けしからん。それで私は仕事が嫌になった。私のまねをしたり、からもうとしたりする。断じて許せない。あの気持ち悪いババア、なんで一緒に仕事をしなきゃいかんのか。あの声、あの言い方。絶対に嫌だ。あんなものの言い方があるか。私は戦うことを選んだので、性格を変えざるを得なかった。エンカウンターまで行って性格が変わった。鬱だったのが統合失調症になった。なんでこんな苦しみを味わわなければならないのか。道徳的なのが一番だ。それが一番だ。誰にも攻撃されないのだ。相手がなんであれ道徳的に振舞うことが唯一正しい道だ。


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