こんな一日でした。
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村上龍の「半島を出よ」を読み始めた。 彼の「愛と幻想のファシズム」「五分後の世界」「ヒューガ・ウイルス」「希望の国のエクソダス」という作品群が、私にはすさまじく面白い。 これらを読んでいると、本の中の世界があまりに緊迫しているので、読書を妨げる現実社会の事物に対して「それどころじゃないから!!」と、言い放ちたい衝動に駆られる。心は架空の革命の虜である。劇画的だという批判もあるに違いないが、そんなこと言ったって「それどころじゃないから!!」なのである。
愛知万博の影響なのか岡本太郎の本が再販されている。「今日の美術」という名著とされている本が出ていたので、とりあえず読んでみた。現在の感覚で読むと、そう大して驚く内容でもなく、むしろ普通すぎてつまらないくらいだ。あとがきの赤瀬川源平さんがおっしゃるように、現代美術的なものがそこらじゅうにあふれた今は、それを疑ってかかることこそ岡本太郎が当時、この本に書いたことの主旨に沿うことになるだろう。 権威化されたもの、曖昧で生ぬるい予定調和を、簡潔にばっさばっさと切り倒す岡本太郎の言葉は「即効性」を持って当時の若き作家達を力づけたというのは良く理解できる気がした。
覚醒、革命、そして力。 私は多分、革命の中にあったなら掃いて捨てられる方の人間かもしれないと思う。それでも、その渦中にいる緊迫感を想像すると清々しくなってくる。 しかし、美術というのは日々革命の中になければならないもので、私がそのことに鈍感にいるだけのことだ。「それどころじゃないから!!」と、制作以外全てに言い放つ緊迫感を持たなければいけない。
夕方から、激しい雨と雷。しかも地震まで起きたので 我が家の恐がり犬はガタガタ・ブルブルである。
制作中の私のそばまで来て「あの〜、あの〜」と言う。 抱っこしてやると、ふるえの激しさがよく分かる。 仕方がないので、抱っこしてベットに入る。 掛け布団をすっぽりかぶせて、しっかりとホールド。 震源地は、愛犬の内臓か?と思うほど、魂の奥底から ガタガタブルブル…
小さな時はちっとも恐がりじゃなかったのに、 いつからこんなになったのかな? ビデオを観るのもひどく怖がって、必ず二階に上り 自分の毛布で怯えている。 最初はエイリアン物だけを怖がっていたが、 次にホラーが駄目になり、 アクションも駄目になり、 ついには恋愛物ですら駄目になった。 喧嘩が起こりそうになると、もう怖いらしい。
カミナリからどうすれば逃げられるかと、 台所、二階、トイレ、廊下…と放浪し、 いつもはあれほどいやがる浴室にも入ったらしく、 廊下が彼女の足跡で濡れている。 自分が怖くて入らない場所には、 カミナリ様も怖くて来れないに違いない、 とでも思ったのだろうか?
今日はカルチャーセンターの日。 私は福島のNHKカルチャーセンターで 「アクリル画」の講師を勤めさせてもらっている。 生徒数は6人、非常に少ない。 でも、その分、のんびり静かに、ほのぼのと教室は進んでいる。
先日、芸術新潮でモランディーの特集号が出たので、 静物画を描く生徒さんのために、教室に持っていった。 モランディーは私の好きな画家の一人だし、 彼の仕事は、好き嫌いを別にして、興味深い。 とても面白い絵であると同時に、誰が見ても 美しくて、好まれるであろう魅力にあふれている。
生徒のみなさんも、実に気に入ってくれた様子で、 今日は何人かの人が「モランディーの本買いました」とのこと。 とても嬉しい気持ちになった。 私は、具象とか抽象とか、ほとんど気にしないで作品を見て育った。 油絵も日本画も、現代美術も、何もかも、並列に見た。 なので、私の美術史は時間軸が切り張りになっていて、 自分が好きになった順に作家が並んでいる。 私はジャンルでくくって、好きの嫌いのと言うことを自分に禁じている。 同じジャンルの中でも、良いものと粗悪なものはある。 おおざっぱに括ると、大切なものを取りこぼす。 ジャンルなんて人が作った括りは信用しないが一番。 自分の好きなものを好きな並びでつなげた方が良いと、私は思う。
モランディーの作品は、とてもボーダレスな仕事だと思う。 洋の東西、現代というもの、抽象、具象の壁… それらをぽーん、と飛び越えて、誰の目にもしみ通る。 彼の絵を通して、みんながもっと自由に、 絵を好きになってくれたらいいなぁと、願ったりしました。
先日、森美術館の「秘すれば華」展を見に行った。東アジアの現代美術、とのことで、テーマは「伝統と現代」らしい。
印象的だったことは結界。「ここから入らないでね」という結界線が展覧会場には必ずある。 山口章さんの茶室の作品で、茶室のそばには、茶室らしく、石の結界がちょこんと置いてあるのだが、置いてある場所が、その美術館が設定する結界線のとなりなのだ。作品としての「結界」と、実際の「結界」が並んでるわけだ。 「で?」と思わなくもなかったが、靴を脱いで作品の中に入らないと、見ることが出来ない作品も多い中、結界に、むしろとても「伝統と現代」を感じたのだった。 (この茶室の作品は、なんとも綺麗だと思う。 雑誌で見た時も綺麗だと思ったし、本物も不思議に綺麗だった。他の作品もそう思ったけど、山口さんの作品は、アイロニーというより、繊細な、綺麗な感じがまず感じられて、私は惹かれる。会田誠さんにも通じる「伝統と現代」な作家だろうけど、会田さんの残酷な面白さと違って、洒落、粋な面白さ、という魅力も良いなぁ)
作品と対峙して見るのではなく、作品自体の中に入ったりするというのは、現代美術では良くあることだけど、私はあまり好きではない。作品を人だと思えば分かってもらえるだろうか、この不快感を。 その人/作品に会って、共鳴したり、感銘したりしてから、私は相手との距離をなくすのであって、まだよく知りもしない相手の部屋には入り込んだり、相談をぶたれたりする筋合いなどない、と思ってしまう訳だ。
トーマの心臓という、萩尾望都の名作漫画の中に、親しみを持って、甘えて近づく少年トーマを寄せ付けまいとする主人公が「君なんて知らない」と、答えるシーンがある。 トーマが、その台詞によって、死を選ぶところから物語は始まる。でも、この物語が成立するためには、「君なんて知らない」ということと「君を知っている」という距離、関係、というものを、デリケートに受け止める感覚がなければ、何を語られているか理解することは出来ないだろう。
今回の展覧会には、バスルームの作品もあった。 作品であるところのバスルームに、3人ずつ鑑賞者が入ることが許される。靴を脱いで中に入り、渡された虫眼鏡で小さな造形物をそのバスルームの中から探して見て回るのだ。 面白くないわけではないけど、他人ばかりの中で、靴も脱がされて、あてがわれた虫眼鏡で、作品を覗かされている自分が、なんだか情けなく思われた。
もう一つの作品は、部屋がそのまま天地逆さになって、天井に机や本棚が張り付いており、床、つまり作品における天井に当たるところに鑑賞者が寝ころんで、天井に張り付いている「床」を見る、という作品もあった。これもまた、靴を脱がされる。家族連れなど、そこそこ楽しげに「床」を「見上げて」作品の中で寝ころんでいる。
私は、靴を脱ぎたくなかったし、天井であるところの床に寝ころんで、天井に張り付いた床を眺めることに、それほど熱心な気持ちにもなれなかったので、ちょっとしばらく覗いて、作品を離れた。
離れて気が付いた。作品の外壁には、ビデオが設置されていて、中で寝ころんでいる人々の姿が映し出されているのだ。鑑賞者は作品の中に入るどころか、作品自体にさせられている訳である。 全く「君なんて知らない」と、思わないではいられない。
2005年05月24日(火) |
ブログと迷ったけれど |
サイトを移転するにあたり、日記をどのように付けていくか迷った。 何となく、日記に愚痴を書いてしまう日もあり、 言葉を無駄に残すことを反省することも多々あったので、 日記自体、やめてしまおうか、と、思ったりもした。
元々、日記を付けることが苦手だった私が、それでも ときおり日々のことを残し続けていたのは、サイトに日記のコーナーを設けたためだった。読み返して「ああ、こんなことあったな」なんて思い返すことが楽しいものだ、ということもここまで日記を続けたおかげでもある。 よし、日記は続けよう、と思った。
日記を続ける、と決めて、じゃあ今流行のブログにしようかとも悩んだ。 私はこのサイトと別に、全くの趣味のサイトも持っていて、そちらではブログを取り入れている。お友達もできるし、コメントいただくのもありがたいものだ。 でも、制作について、作品について、公開前提のコメントが届くことの怖さを考えるとちょっと腰が引ける。以前、このサイトでBBSを設置した際にも、友人の名をかたる人から書き込みがあって、不快な思いをしたし、させた過去があり、怖いものだとつくづく感じた。
と、いうことで、かねてからちょっと綺麗だな、と思っていた「エンピツ」という日記のサービスを利用することにしました。更新や過去日記整理に時間を取られない分、これまでよりちゃんと日記を付けられるようにしたいな、と思っています。 これまでの日記は「エッセイ」の中に格納されています。
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