2011年11月30日(水) |
■豊島区の掲示板はこんな…財政難なのかな? |
昨日からの続きで、区の掲示板の話しです。
私は、新宿区に住んでいるときから、 ウォーキングしながら掲示板を見たりしていました。 もちろん、豊島区でも、ここから歩くと10分くらいの 北区でも、そうしたいと思っていました。
新宿区の掲示板は昨日の写真のように、 きちんと見えていました。 でも、事情が違っていたんですね〜 それぞれの区で…
まず、豊島区の掲示板。
「あった、あった! 掲示板だ!」
と、いそいそと近づいてみると、 こんな感じ。
「としまくけいじばん」 と、ひらがなでわかりやすく 書いてありました。
「へぇ〜豊島区では、 掲示板にCMスペースを つくっているんだね。 これで、少しでも区の財政を よくするつもりなんだ。 なるほどね。 それと、新宿区より 大きめだね」
などと、気づきました。 ほらね、右側に広告スペース
豊島区の近くの掲示板も、 おなじようだったので、 区の財政計画の一環なのかもしれませんね。 でも、これで広告料、 いくらくらい入るんですかね?
でもね、 問題は、掲示板の方。 ちょっと問題ありなんだな。
掲示板は、ちゃんと見えてなんぼ、 だと思うんだけど… 豊島区の掲示板は、雨に濡れないように、 掲示物がビニール袋に入っているんだけど、 字がにじんでいるんだな。
ビニール袋が汗をかいていたり、 直接雨が入ったりして。 で、よく読めない、んですね。 ほら。
「読みづらいね、 これじゃ、何を書いてあるか よくわからないね。 あまり見る人、いないんじゃない? 掲示板に貼る人も、 いちいち袋に入れなきゃならないので、 掲示板の管理は大変だね」
などと、感じたのでした。 でも、ひとまず全体に目を通し、 ま、けいじばん自体はしっかりしているし、 ちゃんと《お知らせ》もしてあるし、 なんとなくだけど、今の区の《お知らせ》が わかったので、よしとしました。
豊島区は、こんな感じで、 まだ、読めました。 で、北区ですが… これがね、違うんですよ。
北区は明日紹介しますね。
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2011年11月29日(火) |
■区によって、こんな違うものなの、驚き! |
今日から、またいつものこの辺りの ウォーキング日記となります。
といってもですね… 実は、今、デジカメが 使えないのです(泣)
先日、デジカメの液晶画面が まったく使えなくなったのです。 あ、でもこれは、カメラの寿命というより、 私が、何度か落としたり、コーヒーをかけたり、 バックの中であちこち乱暴に揺り動かしたりして、 かなり酷使したからだと思います、はい。
それなのに、ここのところバタバタしていて 買いに行けず、ウォーキングしていても、 いつものように写真を撮れないでいるのです。
携帯のカメラで撮ってみるものの、 カメラ機能があまりよくないタイプのものなので、 色がよくでないのです。 早く、安売りカメラ店に買いに行こうと 思っているところです。
というわけで、写真が残っている、 少し前の話しなどになるかもしれませんが、 どうぞ、ご了承くださいませ。 早急に、新しいカメラ買いますねっ。
さて、そんな ばたばたの毎日ではありましたが、 時間があれば、この辺りを歩いてみることを 心がけていました。
以前書きましたが、私は、今年の7月の末に、 新宿区から豊島区に引っ越してきたばかりなので、 まだまだこの辺りのことは、わからないことばかり、 道も地理もよくわかっていないのです。 なので、短い時間でも歩いてみたり、 自転車で、あちこち走り回ったりしていたのです。
そしたらね、 新宿区と豊島区(隣の北区含む) とで、こんな違いがあることに 気づきました。
たぶん、その区だけにいたら、 気づかなかったと思うのですが、 私は、
「おおっ、これは、 新宿区とは 大きく違うね、 違うね〜」
なんて、気がついたのです。 そして、しみじみと見てしまったのです。 それが、何かというと、 これです。
そう、 道路のあちこちにある 掲示板。
こちらは、新宿区の掲示板で、 私は、新宿区に住んでいたころから、 掲示板はよく見ていたのです。 その地区の細やかな情報がのっているし、 区の情報もちゃんと分かったからです。 見やすいしね。
だから、掲示板があると、 立ち止まり、よく見ていたのです。 もちろん、豊島区に来てからも、 そうしようと思っていました。
ところが、豊島区(北区含む)に 来てみたら… この掲示板事情が 全然違うことを知ったのです。
そして、
こんなにも違うのぉ〜 いいの、これで?
と思ってしまったのでした。 この違う掲示板は明日書きますね。
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2011年11月25日(金) |
■被災地支援手伝いの報告13…何もないところからの出発 |
《お知らせ》
11月28日(月)はお休みいたします。 どぞ、よろしくお願いいたします。<(_ _)>
震災被災支援手伝いの話の続きになります。 今日で、この話も終わりです。
こうして、私は、被災地支援手伝いの旅から 戻ってきたのですが、振り返ってみると、 現地の若い人たちたちとも話しました。 そんな中で、こんな話を聞きました。
《20代半ばの地元男性》
3月11日は、 あの志津川の病院の近くで地震にあい、 そのあと、病院の屋上に登り、他の人を助け、 自分も助かったということでした。 その男性は、こう言うのです。
「震災は本当にひどくて、 うん、地獄だったよ… でも、オレは、 0からの出発でいいと思ってる。 何にもなくなったから、 逆いえばなんでもできる。 今まで、何をしたらいいか、 なんて考えていたけど、 そんなことより、 なんでもやると思えるし、 今は、やってる。 だから、オレはいいと思ってる。 何もなくたって、 できることはあるのさ」
「今は、何をやっているの?」 「車で食材や生活用品の 移動販売している」 「まだ、店舗がないから、 それは本当にありがたいね」
「今まで、人の役に立つ、 なんて考えたこともなかったさ。 でも、今は、役立てることが すごく嬉しいのさ。 おばちゃんたちが、ありがとう、 って言うんだ… こっちこそ、ありがたい、 そう思うんだ。 誰かを助けて、 自分も力をもらう、 そんな感じだな。 前より…そだな、 やっぱり大人になったな」
「三陸町でやってくの?」 「やっていく。 オレらしかいないから」
この若者は、日に焼けた顔をして、 穏やかな笑顔でこう語ってくれました。 毎日毎日、車で移動販売をしています。 また、こんな拠点スタッフもいました。
《30代前半女性》
2ヶ月以上、このボランティア拠点で、 ボランティア活動をして、こう思っているそうです。
「名古屋で働いていたけど、 職場環境に疲れたこともあって、 仕事やめて、ここに来た。 なんかできることしたくて。
ここに来て、いろんな人と出会い、 地元の人とも話をして、 いろんなところも見て…ね、 ここで自分が何かできないか、 今、考え始めている。 なんかできないかって。 ここなら、できる気がするんだ、 だから今は地元の方との 協力関係をつくり、 ここで働くことを考えているんだ」
私は、この方々の話を通して、 何もないところからの出発も力になる、 ということを知ったのです。
今回出合った多くの年配の方々は、 なくなった多くのものへの 愛着や無念さに力をなくしていました。 そして、疲れていました。
そうですよね、 今まで作り上げてきたものが、 一瞬にしてなくなってしまったのですから、 その喪失感たるや…想像を絶することです。 また、悲しみもまだまだ癒えてはいません。 そして、その思いの中で、力をなくし、 その力をなくした自分に苦しんでおられました。
しかし、若い人たちにとっては、 もともと持っているものは少なく、 これから自分のものをつくりあげていくのですから、 0からの出発、何もないところからの出発は、 力になるのだとわかりました。 また、いつまでも力をなくてばかりは、 おられないのだとも…。
そして、 ビニールハウス撤去をした農家の 息子さんが言ったこんな言葉が 思い出されるのです。
「かあさんは、疲れたし、 また苦労するのイヤだから、 もうやりたくないっていうけど、 悪いと思うけど、今は、 どんな助けもほしい。 どうしても助けてほしい。 でないと復興できない」
本当にそうだ、 どんな助けも大切だ、 これから先は、今まで以上に、 みなで力を出し合って、 助け合っていくことが、 必要なんだと思いました。
しかしながら、 こう言うことは簡単だけれど、実際には、 もうすっかり疲れてしまった方々もおられ、 仕事をなくされた方々もおられ、 この地を去った方々もおられ、 とても力を出せない方々もおられて、 こういう方々を支えながら、 出せる人が力を出す、 そうしていかねばならないのだと思います。 だから、本当に、本当に、
知恵があるやつは知恵を出そう 力があるやつは力を出そう 金があるやつは金を出そう 自分は何も出せないよ というやつは元気を出せ (「松山千春さんのことば」)
そうしていきましょう! 私も、東京にいてもできる支援は、 していくつもりだし、 自分なりに力を出していくつもりです。 もちろん、被災地支援手伝いは、 またいきますよ〜
ということで、私の今回の手伝いは ひとまず終わりました。 いろんな方との出会いがあった手伝いとなりました。 現地の方々、拠点スタッフの方々に、 心から、御礼申し上げます。 ありがとうございました。
最後まで、読んでいただき、 ありがとうございました。<(_ _)> 来週から、またいつもの感じに戻ります(笑) どぞ、よろしくです。
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2011年11月24日(木) |
■被災地支援手伝いの報告12…生きねばなんねしね |
震災被災支援手伝いの話の続きになります。 もう少し、おつきあいくださいね。
すばらしいホテルの温泉にも入れて、 2日めも無事に終わりました。
次の日は帰る日で、つなぎのいいバスがないので、 午後早くに拠点を出ないといけないので、 半日しか働くことができません。
その半日で、昨日の農家の そのほかの片付けの手伝いをし、 拠点の掃除をし、この日、 私に与えられた作業を終えました。
そして、スタッフや残っている 仲間たちに別れを告げ拠点をでました。 (3泊4日は短い!)
スタッフがバス停まで 車で送ってくれました。 バス停がある場所は、 ここでした。
南三陸町の高台にある、 「ベイサイドアリーナ」 震災時にいちばんの避難所に なったところです。
ああ、こうして落ち着いた時に来ると、 こんなに穏やかに見えるんだ… ここに仮設の幼稚園もあったし、 炊き出しもしていたね… 診察もしていたし、 みんなで寄り添いあっていたね…
などと、震災のときのTVに映し出された 大変なときの映像が浮かんできました。 思っていたより、立派な建物だったので、 印象が違ってびっくりしましたが、 今の落ち着きをありがたく思わずに おれませんでした。
このベイサイドアリーナの すぐ目の前にバス停があり、 私は、ここでバスを待ちました。
バスが到着して、バスに乗り込むと、 4人ほどの現地の方が乗客しました。 60代らしい女性が1人、年配の男性が3人。
みな顔見知りらしく、バスに乗り込むと、 おばさんがこんな話をしはじめました。 (私は岩手県生まれで、方言がわかるので、 方言のまま掲載しますね)
「あのさ、仙台にいる親戚が、 ちっせい車、ける(あげる)っていうの」 「ありゃ、いがっだ(よかった)でねえの。 車あれば、便利だべ」
「うん、そうだけどさ… 津波のとき、車に乗ってで、 それで逃げたから…さ、 なんだかおっかね(恐い)ぐて… 運転できねのさ」
「ああ、そっがぁ〜 んで、その車はどうした?」 「流されだ〜 車で逃げたけど、混んで、 途中で車動かねぐなったもの。 その後、山に登って逃げたのさ。 その後、すぐに津波に 持って行がれだんだ」 「ああ、んだが… 本人無事でいがったな〜」 「んだ、命さもらった」
こんなことを話しつつ、 「○○さんは、まだみつがってね」 など、亡くなった人の話になり、 流された家の話になり、 今の仮設住宅の話しになったりしました。
大きな声で話していたので、 耳に入ってきましたが、 こんな話が、普通になされているのだと、 あらためて思いました。 その後、この会話が戻ってきました。
「んで、車どうする? あった方が便利だべ?」 「うん、そう思っではいる… バスも不便だしな」 「もらえばいいべ。 あれば、誰が使うべ」 「んだな… 運転できればいいけど、 慣れでないど、できねし」 「そんなこと言ってられねべ、 やるごといっぺ(たくさん)あっぺし…」 「んだな〜 もらうべがな…」
という会話がなされ、 おばさんは、親戚から 車をもらうことを決意したようでした。
ああ、よかった、と思い、 おばさんの方を見ると、 おばさんと目があいました。 私がニッと笑うと、 おばさんも、ニッと笑い、 こう話しかけてきました。
「疲れでね、 ホントは、何もしでくねのさ。 何もいらねし、何もしでぐね。
でもさ、そう言っでられねのさ。 なんにもね(ない)がら、 何でもやんねばなんね… この年になって、 こんなにやんねばなんね なんてね… でも、生きねばなんねし… 命さもらったがらさ…」
私は、黙って頷き、 また、ニッとすると、 おばさんも、またニッとして、 二人で頷き合いました。
ことばがなくても 何か思いが伝わる… それは、 生きる重さや辛さ、 悲しみだったり、 いろんな思いが 混じり合ったものでした。
こんな出会いや、こんな瞬間が たくさんあった被災地の手伝いでした。
地元の方々はそれぞれ、 違う場所で降りていきました。
車をもらうと決めたおばさんも、 途中で降りました。 もう少ししたら、車が来て、 このバスに乗ることもなくなるのでしょうか。
ああ、もっと何かしたかったな、 もっと手伝いたかったな… 今度は、もっと時間をとってこよう、 と、しみじみ思ったのでした。
明日は、最後になりますが、 「ああ、こういう考え方の人たちもいるんだ」 と思ったお話です。 どぞ、最後までおつきあいくださいませ。<(_ _)>
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2011年11月22日(火) |
■被災地支援手伝いの報告11…すばらしいホテル |
震災被災支援手伝いの話の続きになります。
私たちは、ビニールハウス撤去作業が無事に終わり、 汗びっしょりだったし、スタッフが車を出してくれる というので、「南三陸 ホテル海洋」の温泉に入りに 連れて行ってもらうことにしました。
これがすごく嬉しくて… お風呂に入れるということが嬉しくて、 私たちは、大急ぎで準備し、 いそいそと車に乗り込みました。
ちなみに、場所は、志津川の元の港から、 右側の方、黄色の丸のキラキラみえるところです。
実は、このホテルには、 どうしても来たかったのです。 そうです、 以前ぼちぼち日記で紹介した、 従業員を解雇せず 地元復興のために、 がんばっている 「阿部長商店」が、 やっているホテルだったからです。 (写真は、昼に立ち寄ったときに撮ったもの。 温泉に入りに行ったのは夜です)
着いてみると、 こんな立派なホテル。
ロビーに入ると、 そこにすばらしい 南三陸の海が 広がっていました。
「わぁ〜 すばらしい景色だね… 美しいね…」
私たちは、しばらくこの景色に見とれました。 この海が、牙をむいたなどとは とても信じられない美しい光景が、 そこには広がっていました。
しかし、夜になると、街にも海にも光はなく… 今は、海だけしか見えないのでした。 かつては、港のあかりや漁り火が見えたことでしょう。
このホテルは、ロビーが5階にあり、 お風呂は2階にあります。 このお風呂がすばらしいのです。 露天風呂から、美しい海を見て、 海の音を聞いて入ることができます。 お風呂のすばらしさは、こちらをどうぞ↓ 「お風呂」
私たちは、このすばらしいお風呂に入り、 一日の疲れをとることができたのでした。 復興支援手伝いに来て、こんなふうに お風呂に入れるのは嬉しいことでした。 ちなみに、お風呂代は820円です。
さて、このホテルももちろん 大きな被害に遭いました。
ロビーや客室は被害が すくなかったものの、 お風呂のある2階部分と、 1階にある会議室は、津波で、 全く使えない状態となったそうです。
それらの修復をして、やっと 7月末に再開に こぎつけたということでした。
このときの被害や状況の話は、 こちらで読むことができます。 ホテルのおかみさんの話です。 ( http://gra.world.coocan.jp/blog/?p=757 ※コピーしてアドレスバーに直接入れてください。 「南三陸の灯を消さない〜 ハートブレイク・ホテルに集った人々」)
震災の日は、ホテルにはお客様が、 40〜50人くらい滞在しており、 さらに、この日は500人ほどのお客さまが 宿泊なさることになっていたそうです。
そんな中で、ライフラインが使えなくなり、 余震もあり、お客様への食事の手配など、 本当に大変だったということでした。 しかしながら、おかみさんは、
「お客様と近所の人たちに、 できる限りいい食事を提供するようにしました。 そのため、従業員には 「おにぎり1個しかない時は、半分にして 分けて食べてもらうかもしれない」 と伝えました。 本来であれば、お客様には新鮮な海の幸を 提供したかったのですが、こういう事態です。 提供できない事情を説明しましたが、 ありがたいことにご理解いただきました」
ということで、できる限りのことを、 なされたのです。 本当にすごいことを体験なされて、 その体験から、絆は強くなり、 従業員一丸となって、復興に向けて、 がんばっているということでした。
お風呂も入り、お土産も買い込み、 拠点に戻る前に、ホテルスタッフの方に、
「この美しいホテルに、 今度、必ず宿泊しにきます」
と、声をかけると、
「心からお待ちしております。 南三陸は美しいところです、 ぜひ、忘れないでください」
と、答えてくれました。 今回このホテル海洋は、予約がいっぱいで、 泊まれなかったのでが、今度は必ず泊まります。 必ず、来ます、そう思いつつ、 このホテルを後にしたのでした。
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2011年11月21日(月) |
■被災地支援手伝いの報告10…「幸いってこういうこと言うんだよね?」 |
震災被災支援手伝いの話の続きになります。
すばらしい観光ホテルを紹介する前に、 もう一つ書いておきたい話がありました。
それは、私たちがビニールハウス撤去をした 農家のおかみさんの話しです。 こんなことを言っていたのです。
「震災があった日ね、実は、 農産物のかき入れ時で、パートさんも お願いして、この場所から ちょっと下にある作業場で、 みんなで作業していたのね。 そしたら、大きな地震が来て… だけど、地震は収まって… で、また作業を始めたの。 だって、やることいっぱいあったから ほら、あのへん」
おかみさんが指さした方を見ると、 見渡す限り農地のように見えました。 おかみさんは、そして、 静かにこう語り始めたのです。
「そしたらね… 大きな声がしたの。 上の方から、ね。 「逃げろ、逃げろ〜 津波だ、津波が来るぞ〜 逃げろ、逃げろ〜」 義母が、手を振り回して、 今まで聞いたことないほどの、 大きな声で叫んでいたの。
私たちは、あわてて作業場を 飛び出して、大急ぎで山側に逃げた。 必死だった… 年とったパートさんもいたけど、 みんなで支え合って逃げた。 逃げた瞬間に、津波が、 ものすごい勢いでやってきた。
あんなすごいもの… 初めて見て…ただただ仰天して、 気がついたら、足ががくがくしてた」
「みなさん、大丈夫だったのですか?」
「うん、幸い、パートさんはみな無事。 でもね、パートさんが乗ってきた車と、 作業場は、跡形もなく持っていかれた。 あっという間よ。 あれよあれよという間に… 流されていった… みんな呆然としてた。 結局、車もないし、どことも 連絡とれないし、水は引かないし、 パートさんたちは、うちに泊まって、 不安な中でみんなで過ごしたの。
やっと水が引いて、帰ろうと思っても、 道がないし、瓦礫で動きようがなくて、 2日ほど、動けなかった… パートさんの家族で、 行方がわからない人も出たけど、 どうしようもなかった。 地獄だったな…」
おかみさんは、そう言うと、 ため息をついて、さらにこう続けました。
「流された作業場ね、 2月25日に出来たばかりで、 1500万円ほどかけて、 建てたばかりだった… みんなでこれで今年は、 いつもより収穫がうまくいくって、 喜んでた。
それが一瞬でもっていかれた…、 こんなこと…あっていいのかと、 何度も何度も思うけど、 現実よ、夢でない。 正直やりたくないの、もうね。 この年で、また借金して一からなんて、 やりたくないんだ… もう疲れたし…」
ここで、おかみさんは、 一息いれて、私の方を見て、 弱い笑顔を見せました。 そして、こう言ったのです。
「でもね、 でもね…
息子がやりたいって言うの。 志津川でやりたいって言うの。 ここでやるって言うの。 地元のために、どうしても、 ここでやるって言うんだ。
そう言われたら… やらないとね、 親が助けないとね、 もう一踏ん張りするか、 って、思ってね…、 あなた方が撤去してくれたこの場所に、 もう一度作業場を作ることにしたのさ。 前の場所より高台だしね」
そのおかみさんの姿を見て、 私は、涙がこぼれてきて、 押さえようがなくなり、 ぼろぼろと泣いてしまったのです。
すると、私の姿を見て、 おかみさんも涙をこぼしこう言いました。
「今は、泣いちゃったけど、 もう泣かないって決めたんだ。 だって、うちは 最低限の被害ですんで、 みんな無事だった… そして、息子はここでやるって、 言ってくれるし…、 土地もある… 幸いって、こういうこと、 いうんだよね、きっと」
私は、大きく頷きました。 そして、手を握り合いました。 そしたら、おかみさん、 今度は、満面の笑顔になって、
「あのね、今度、 孫も出来るんだ、 初孫だよ」
と、教えてくれました。 私が、思わず、
「そりゃ、もっと幸いだ」
と答えると、おかみさんは、 とても嬉しそうでした。
この地で、やっていくと決めた息子さん、 その息子さんを支えていこうと 決めたおかみさん、 そして、この地に誕生する新しい命。 私は、この地に再び豊かさが戻ること、 大地の平和が戻ることを、 心から祈らずにはおられませんでした。
ということで、この日の作業を終え、 おかみさんにお礼を言い、この場を去り、 汗と疲れを流しに、私たちは、 観光ホテルの温泉に向かいました。 それは、すばらしいホテルでした。
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2011年11月18日(金) |
■被災地支援手伝いの報告9…しろうと集団がんばる |
震災被災支援手伝いの話の続きになります。
次の日。私が言いつかった仕事は、 農家の後片付けの仕事。 山間の農地も津波にやられて、今年は農作物が作れず、 瓦礫がまだ残っているところが多いのです。
この日は、畑にまだ残っている、 使えなくなったビニールハウスと、 鉄パイプの撤去の仕事でした。
私たち5人のメンバーが畑に行くと、 この農家のおかみさんがこう教えてくれました。
「このビニールハウスの使える部分は、 大船渡の農家に持って行くの。 欲しい人があるのであげるの。 うちでは、もうビニールハウスは この場所ではやらないからね」
地域で使えるものは使う、 回し合う、補う、 互いに助け合うということでした。
そこで、私たちは、おかみさんの指示に従い、 まずは、散らばっている鉄パイプを一カ所に集めて、 使えるものと使えないもの、 大きさを揃えるなどの作業を開始しました。
鉄パイプは、長くて振り回されたりしましたが、 その作業にも慣れて、5人であれこれと手順を考え、 効率的に作業をすすめました。
難関だったのが、 ビニールハウスの撤去。
何しろ私たち5人は、ビニールハウスなど、 見たことはあるものの、こうして触ったり、 もちろん作ったり壊したりしたことなどありません。
そうです、5人全員が、 農家経験全くなしの しろうと集団。
しかも、この農家のおかみさんは、 地域の集まりがあるということで、 鉄パイプの整理が終わると、 いなくなってしまったのです。
そこで、私たちは、 ビニールハウスがどう建てられていくか、 あれこれと話し合い、どこからパイプを 抜いたらいいか、どうしたらとれるかを 検討してから作業を始めました。
そう検討してはみたものの、 ビニールハウスはがっつりとしていて、 当然ですよね、雨風に耐えられるように 作られているのですから。 私たちが考えているようには行かないのです。
「グラグラと動かしてみようか」 「うん」
グラグラ、 思い切りグラグラ
「あーー、動いた動いた」 「もっと動かして〜」
ボキッ
「あ〜あ、折れちゃったよ〜」 「これじゃ、使い回しできないね」 「ここからじゃないのかなぁ」
とか、
「これは、引っこ抜くのかな」 「あ、ちょっと待って、ここに ネジがあるから、このネジを先に とってみよう」
ブーン、ガガガ〜
「おっ、とれたとれた、 これが先だね」 「よかった、よかった〜」
などと試行錯誤し、使ったこともない、 ねじ回しだの、電動器具などを使って、 試行錯誤しつつ作業をし続けました。 そして、さらに、効率を上げるために、
「今日の4時までに、 ビニールハウス撤去は終えよう。 そして温泉に行こう」
と目標も決めました。 (近くに温泉があり、そこに行きたかったのです) そして、パイプを引っこ抜いたり、 指定場所に黙々と運んだりしました。
この日は、暖かい日だったので、 汗びっしょりになりました。 でも、温泉に行くと決めていたので、 みなで、頑張りました。
途中に、おかみさんがいったん戻ってきて、 冷たい飲み物を差し入れてくれ、 とてもありがたくいただきました。
このような差し入れはよくあって、 本当にありがたく思いましたし、 嬉しいことでした。
そして、ついに、 私たちしろうと集団は、 ビニールハウスを 撤去できたのです。 ほらね。
「できた、できた〜」 「ばんざーい、やったね〜」
「ところで、今何時?」 「あーー、ぴったり4時だ」 「スゴイ、スゴイ!」
ということで目標の4時に ビニールハウス撤去作業を 終えることができたのです。
この後、器具や周りを整えたりして、 全部の仕事が終了したのが5時前。
ボランティアの拠点に戻り、 この日は、近くの観光ホテルの温泉に 車で連れて行ってもらうことにしました。
それは、すばらしいホテルでした。 そして、この観光ホテルで、 南三陸志津川のすばらしさや これからの未来を見つけることができたのです。
この話は、また来週。 もう少しだけおつきあいくださいね。
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■被災地支援手伝いの報告8…「2000万円じゃだめね」と言われた話 |
震災被災支援手伝いの話の続きになります。
昨日まで、現地の方々との出会いの話しでしたが、 こんな豪快な方もおられました。 これは、南三陸町にある「ホテル海洋」 (7月25日に営業再開) のエントランスでのことでした。
60代の女性が通りがかったので、 コメント書き込みをお願いしたら、 とても気持ちよく、
「いいわよ」
と、ペンをもたれたのです。
しかし、その後、 フラッグにコメントを 書こうとせずに、遠くの方を見て、 黙り込んでしまったのです。
私は、何を書こうか考えてくだっているんだと思い、 ゆっくり考えてもらおうと、少し離れかけました。 すると、この女性がこう話しかけてきたのです。
「2000万じゃダメね」 「えっ? 2000万ですか?」 「そう、ダメね…」
そう言うと、また黙り込んでしまったのです。 2000万…何がダメなのかしら、 とんでもなく大金なのに、 と思いながら、しばらく黙っていると、 女性は、また、話しかけてきました。
「私ね、震災直後に2000万ほど、 被災地支援に寄付したの。 でも、今回、主人の会社の車で、 岩手県の宮古から、海岸線を下ってきて、 ずぅっと被災地を回ってきたら、 海岸沿いは、ほとんど壊滅状態で、 そんな金額では、とても足りない、 そんな金額では、何もできないって、 ……そう思ったの。 もっと、お金ださないとダメね」
私は、頷きつつも、どう答えていいか迷い、 こう聞き返しました。
「ずっと被災地を回ってこられたのですか?」 「そう、1週間かけて海岸線くだってきたの。 宮古にいく前には、福島にも行ったわ。 どこも…ひどかったわ。 言葉もでないくらいに」 「はい… 震災直後よりは、大分瓦礫などは 片付いたらしいのですけど」
すると、さらにこの女性は、 こう話を進めました。
「実はね、3月11日、 宮古に主人の仕事で一緒に ついていく予定だったの。 でもね、海外にいる娘が 引越をすることになったので、 急遽、アメリカの方に行くことになったの。 でも、そうでなければ… 震災にあっていたわ。 行く予定になっていた宮古の建物は、 跡形もなくなっていたのよ。 まさに海岸の側にあったね。 ちょっとしたことが、 人の運命を変えるものね」 「まぁ、そうだったのですか… 本当にそうですね」
「アメリカのTVでもやっていたから、 ひどいということはわかったけど、 これほどまでとは思わなかったわ」
私が大きく頷くと、女性は、 ペンを持ち直し、フラッグに こう書き込みしたのでした。
復興支援します。 これからもずっと。 負けないで、東北。
そして、こう言ったのです。
「もっと支援金を出すわ。 おとうさんにもお願いしなくちゃ。 私もだすわ。 2000万円なんて、 ケチなこといってられないわね」 「はい、お願いします」
女性は、大きく頷き、
「東北には、恩があるから、 これからお返しするわ、 出せるだけね」
と、言われて、初めて笑顔になりました。 どこかの会社の奥さまだったようですが、 かなり豪快な方でした。 そして、そう言うとしゃんとして、 立ち去っていかれました。
以前、「ことば探し」で、 松山千春さんのことばを紹介ました。 (こちら→「ことば探し」)
知恵があるやつは知恵を出そう 力があるやつは力を出そう 金があるやつは金を出そう 自分は何も出せないよ というやつは元気を出せ
私の頭の中には、このことばが ぐるぐると浮かんできてました。 本当にそうだな、と。
ということで、 こんな豪快な方もおられて、 驚いたりもしました。
明日は、次の日の作業、 今度は、肉体労働をした話しです。 働きましたよ〜
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2011年11月16日(水) |
■被災地支援手伝いの報告7…「なんでこんなに世の中不公平なんだ」と言われたこと |
震災被災支援手伝いの話の続きになります。
私は、課せられた仕事をするべく、 コンビニの前や観光ホテルのエントランスで、 レインボーフラッグのコメント書き込みお願いを、 いろいろな方に声をかけました。 すると、また、こんな出会いがありました。
とあるコンビニの前でのこと。 一人の50〜60代の女性が車から降り、 コンビニに入り、買い物をして出てきました。 もちろん、声をかけました。
「よろしかったら、コメント いただきたいのですが、どうでしょう?」
すると、女性は、 こう言ったのです。
「書くと涙がでるから、書かない、 ごめんね」
その女性の目を見ると、すでに涙の後があり、 とても辛い思いをしているのだとわかりました。 そこで、こう答えました。
「ありがとうございます、いいですよ。 大丈夫ですか?」
すると、女性は、自分の服を指さして、 こう話し始めたのです。
「この服も靴も全部もらいもの。 全部、なくしちゃったからね。 何もかも、ね。 今は仮設住宅、家にあるのも全部もらいもの。 ありがたいけど、自分のものじゃないから、 どうしても、似合わないわね」 「その服、似合ってらっしゃいますよ、 ホントですよ」 「そう? でも、やっぱり違うのよね、感じが」 「そうでしょうね… 全部なくされたんですね…」
そして、さらに女性は、 こんな話をし始めたのです。
「あのね、私、そのほか、 3つもいっぺんになくしたのよ」 「3つですか?」
「うん…離婚して… そしたら、その後で、津波が来て、 全部持って行かれて… そして、その後、体調がおかしくなって、 病院に行ったら、乳ガン見つかって… 今はやっと治療できるようになったけど、 転移もしてるらしいし… 髪も抜けてきたし… 健康もなくして…」
私は、その話を聞いて絶句し、 涙がこぼれてきて、その女性も涙をこぼし、 二人で、手を握り合いました。 しばらく、二人で嗚咽した後、 女性は、こう言いました。
「なんで、こんなことばかり、 起こるんだかね。 私、悪いことなんて してきてないつもりだけど。 なんで、こんなに不公平なんだと、 怒りでいっぱいなのさ」
私も、そう思ったので、 大きく頷き、その女性の手をさらに 握ると、女性は、さらに、 こんなことを言ったのです。
「でもね、いちばん辛いのは、 なくしたことでないの。 いちばん辛いのは、 周りの人たちの冷たいことばだね」 「冷たいことば? そんなこと、仮設住宅でもあるんですか?」
「あるんだよ… 仮設は、知らない人ばかりで、 どんな人かもよくわからないしね。 抗ガン治療で体調が悪いので、 あまり仮設のことを、掃除とか、 手伝えないでいると、 あの家は寝てばかりいるとかね… 何もやらないとかね。 辛いよ、そんなことばが」
3つもなくされて、 生きる力をなくしている方に、 さらに周りの冷たいことば… 仮設住宅にも、 事情はいろいろとあるのでしょうが、 あんまりだと、私にも思え、
「辛いですね… 世の中、 本当に不公平ですね…」
と、いうのが精一杯でした。 そして、再び、二人で泣き合い、 ただ手を握りあっていました。 しばらくすると、女性は、
「ありがとう、聞いてくれて。 こうして聞いてくれる人がいると、 少し元気になる… 元気がないと、悪いことばかり、 考えちゃうからね」
と言い、手をはなし、車に乗り込みました。 車の窓越しにこう聞いてみました。
「仮設はお一人で住んでいるんですか?」
すると、
「娘と一緒よ。 それだけは幸いよ。 ただ、今、仕事がないんだ。 この辺りにいちゃ、ないんだわね、 なんとかしたいけど…今は無理だね」
これが、現実なんだと知りました。 私は、ことばがなかったのですが、 最後にこう言いました。
「娘さんがいてよかったですね。 こんなによくないことが続いたのだから、 これから、きっといいことあります。 私は、そう信じます」
すると、女性は、また手を握ってくれて、 にこっと笑って、車を出発させました。 私は、手を振って見送りしました。
しかし、こんな出会いばかりではありません。 とても豪快が出会いもありました。 明日は、この豪快な出会いの話をしますね。
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2011年11月15日(火) |
■被災地支援手伝いの報告6…「どうにのなんねもの」と言われたこと |
震災被災支援手伝いの話の続きになります。
明日から、いよいよ稼働開始。 夜に、明日何をするかの連絡がくるというので、 待っていると…来ました!
私がやるべき仕事は、 フラッグへの書き込みのお願いと、 被災者との話をすることでした。
具体的に言うと、 11月11日に南三陸町に掲げることになっている、 「絆レインボーフラッグ」に多くの方からの メッセージを書いてもらう仕事と、 (コンビニの前、病院内、観光ホテル内などで) その依頼をしながら、現地の方々の、 今何が必要か、どんな状況か、 などコミュニケーションをとる仕事です。
ちなみに、「絆レインボーフラッグ」というのは、 私が参加した、社会貢献共同体ユナイテッドアースの プロジェクトのひとつで、
「9月以降、被災者の方数名に 「忘れ去られるのが一番辛い」 と言われました。 9月11日以降はすべての情報や、 支援も激減してきております。
そこで、2010年「平和」への意識を 若い世代に大きく広げていくムーブメントとして 実施して大成功となった 「絆レインボーフラッグ」プロジェクトを、 今度は被災地応援バージョンとして、 「希望」をテーマに実施することにしました」 (詳細は→「東北を忘れないで!」)
というものです。 日本全国からメッセージを書いてもらい、 (一部他の国々からも届いています) それを、南三陸町で掲げるプロジェクトです。
と、話は戻って、私は、短期間しかできないし、 瓦礫処理でも炊き出しでもなんでもしようと 思って行ったので、張り切って出発。
最初に、志津川病院に行き、 病院内の一角で、書き込み依頼できないか、 リーダーが交渉に行きましたが、 この日は混んでいて、バタバタしているので、 遠慮してほしいということで、 この日、病院ではしないことになりました。
それもそのはず。 志津川病院は今、仮設病院で、 こんな感じだったのです。
(手前は仮設トイレ)
(病院の入り口)
(診察室前の待合所)
外はもう寒いので、患者さんたちは、 仮設の待合室に集まっていました。
職員さんは、この仮設病院をあちこち 行き来していて、大変だということが よくわかりました。 職員さんたちの顔が、 笑顔だったことが幸いでした。 まだまだこんな状態です。
さて、病院がダメだったので、今度は、 道路沿いにあるコンビニの店頭でのお願いをすると、 快諾してくれ、店頭で、 お客さんに、フラッグの書き込みを お願いすることにしました。
「レインボーフラッグに、 メッセージ書き込み、 お願いします」
と、お客さんに声をかけると、 反応はさまざま。
「うん、いいよ〜」 と快くペンを持ってくださる方、 考えて書き込んでくださる方、
「もう、前に書いたよ、 がんばってね」 と応援してくださる方、
「今日は、忙しいから」 「書くことないから」 とやんわりと断る方、
まったく無視という方など、 いろいろおられました。
コンビニに買い物に来るお客さんも、 現地の方もいれば、三陸町に仕事に来ている方、 ボランティア作業に来ている方など、 などさまざまで、それぞれ、 状況が違うのだろうなと感じられました。
この中で、 いくつか印象に残った出会いがありました。
70代くらいの男性に声をかけると、 やや怒ったように、
「書ぐことなんてなにもねぇ。 書いたって、どうにもなんねもの。 こんな状況じゃ、どうにもなんねべ」
と、言われたのです。 そこで、こう話しかけました。
「そうですね、この状況だと、 どんにもなんね…ですね」 「うん、津波で全部持っていがれだしさ。 どうにもなんねね… なんにもねもの。 だから、書ぐごともね」 「じゃ…その気持ち、 書いてもらってもいいですか? どうにもなんね、って」
すると、この男性はニヤリとして、 静かにペンを取り、
「どうにもなんね」
と、書き込んでくれました。 もちろん、私もニヤリとしました。 その後、こんなやりとりがありました。
「どうにもなんね、ですけど… 私たち大人はそれでもいいけれど、 息子さんや娘さん、孫たちのため、 これからの若い人たちのために、 なんとかしていかねばなんね、 のではないでしょうか。 大変だけど、もう一踏ん張りして。
私たち大人があきらめたら、 いけないと思うんです。 こうして、若い人たちがんばっているし。 それが、私たち大人に課せられた このたびの役目だと思うんです、 うんと、大変だけど…。 私も何かやれることやりますから」
と、偉そうなことを言ったのです。 すると、この男性は、 しばらく黙っていましたが、 一言、
「んだな…」
と言ったのです。 私は、その一言を聞いて、 そのあまりの重さに、 涙がこぼれてしまいました。
すると男性は、 私の肩をポンポンとして、 車に乗り込みました。 そして、車の窓から、手を差し出し 私の目を見て、しっかりと握手してくれたのです。 そして、じゃ、と手を振って 去って行きました。 ありがたかったです。
男性の顔には深い皺が刻まれており、 今まで懸命に働いてきて、この地で、 いろいろなものを築いてきたと察せられました。 それを、すべてなくしたのです…
そのことを思うとき、 これから先もまたがんばることの大変さ、 大きな喪失感、あきらめ、との戦いで、 やる気を出すことのむずかしさなどなど、 感じられて、ただ頭を下げました。 そして、最後まで手を振って車を見送りました。
こんな印象的な出会いが いくつかありました。 明日も、またこの続きになります。
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2011年11月14日(月) |
■被災地支援手伝いの報告5…ボランティア拠点での不安 |
震災被災支援手伝いの話の続きになります。
ボランティアスタッフに南三陸町志津川の 全体像や街の細かな様子などを見せてもらった後に、 ボランティア拠点(志津川の山側にある)に移動。
私がお世話になったボランティア団体は、 「ユナイテッドアース 南三陸町復興支援プロジェクト」 というところ。 震災直後から、この地で活動をしています。
拠点はすでにボランティアをしている方々が 40人ほどおられて、共同生活をしていました。
男女半々くらいで、 20〜30代の方々が多いという印象。 他の年代はちらほらって感じ。 震災直後からいる方々から、 2ヶ月くらいの長期滞在している方、 そのほかリピートで、 何度も来ている方がとても多く、 それにプラス、日々新しい方が入る、 ということでした。
その日のボランティア作業が終われば、 その日の反省会をしたり、好きなことをして過ごす、 そんな自由な感じがありました。 部屋は、男女別に分かれていました。
さて、初めてこの活動に参加する 私たち7人は、拠点に着いてから、 この活動のリーダーから、 拠点施設説明、共同生活の注意点、 現在のボランティア活動や実際の仕事などの レクチャーやミーティング、 その後、自己紹介などをし合いました。
驚いたのは、この日ここに来たのが、 兵庫、愛知、静岡からの方もいて、 私のように短期間でなく、 1週間〜2ヶ月という方が 大半だったことでした。
年代は私がもちろんいちばん上。 一番下は、兵庫県から来た女子大生。 これから福祉の仕事をしていきたいということで、 一人で兵庫県からバスを乗り継ぎ、 2日間かけてきたとのこと。
「偉いなぁ〜」 と言うと、 「そんなことはないです。 私が通っている大学では、 多くの人がすでに来ています。 神戸震災も経験しているから、 みんなボランティア活動に対して、 積極的なんです。 私は遅い方で、いつか来たいと 思っていてやっと来たんです」
と、張り切っていました。 もっとも、この女子大生は私と同じ短期滞在。 二人で、短い間だけど、 やれることはやろうと言い合いました。
私が、今みている友人の娘(ほぼ同年代)とは、 なんという違いだ、正直思いました(笑) 娘の話はまたいずれ。
その後、みんなで夕飯をいただき、 (夕飯を作ってくださる後方支援の ボランティアスタッフがいます) この日は終了、その後自由行動。
1つだけ、正直、 「大丈夫かなぁ」 と、不安に思ったことがありました。
それは、トイレ。 この人数(40〜50人)にして、 簡易トイレが1つしかないのですね。
でも、文句は言ってられないし、 不安に思っても仕方ないので、ここでまた
「できるようにしよう。 みんなこれでちゃんと生活している。 私にだって大丈夫。 なんとなる」
と、思い、不安を払拭。 どんなに快適な生活に慣らされているか、 しみじみ実感。 そして、その後、 本当に何とかなりました。 よかったです。
外に出て街の方向をみると、 光はほとんどなく… 星がとてもキレイに見えました。 ああ、南三陸町に来たんだ、と 実感しつつ、 こうして活動できることを、 心からよかったと思いました。
お風呂もひとつしかないので、 この日は、私は入らず、 荷物の整理や拠点状況をつかんで就寝。 でも、お風呂に関しては、後で、 すばらしい報告をします。
そして、次の日。 いよいよ活動開始。
明日から、この活動について書きますね。
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2011年11月11日(金) |
■被災地支援手伝いの報告4…がんばっている店がある、人がいる |
《お知らせ》 14日月曜日は、午後1時頃のアップになります。 いま、しばらくお待ちくださいませ。 どぞ、よろしくです。<(_ _)>
被災地支援手伝いの続きになります。
志津川の街の全体像を見てから、 志津川中学校から降りてきて、 街の中を見て回ることになりました。 もう少し街の紹介させてくださいね。
街は、まだまだこんな感じの ところばかりでした。
これでも大分片付いたのだと スタッフが教えてくれました。
また、この建物は、 あまりに有名になった 「防災対策庁舎」 日が暮れて、左上の方に、 美しい三日月が見えていて、 あまりに悲しい風景でした。
ここで最後まで、 「高台に逃げてください」と 放送し続けた遠藤未希さんほか、 職員の方が何人か亡くなられました。
そんな遠藤さんや職員の方々のための、 こんな祭壇が出来ていました。 私も、手を合わせてきました。
そして、 瓦礫がまだまだ片付かない街中でも、 店を開いているところもありました。 ほら、青空ガソリンスタンドです。
ちょっと嬉しくなって、働いている方に、
「屋根なしでもやれますね」
などと話しかけると、
「やんねばね、 屋根なしでもね〜」
と、嬉しそうな笑顔が返ってきました。 私も、大きく頷き、その方と 握手などをしてきました。
このような ちょっとしたふれあいにも、 何かこう通じるものがあるのです。 お互いに、やれることをしよう、 と、いうような思いです。 そういう思いが互いに 感じられるのです。
また、コンビニもがんばっていました。 何もなくなった道路に、 こんなふうに、ポツンと セブンイレブンやローソン、 ファミリーマートなどとありました。
そして、そのコンビニの脇に、 こんなふうに仮設トイレが作られていました。
手前に見えるのは、手を洗うための水タンク。 これらを、コンビニが供給しているのです。
コンビニ偉い! コンビニスゴイ! コンビニやるな! と、心から思いました。
街は、まだ復旧の見込みもたってないけれど、 こうして、がんばっている店や方々が あちこちにいて、応援せねばな、と 本当に思うのでした。
来週は、出合った方々の話を中心に していきます。
《お知らせ》
私が参加した社会貢献団体(ユナイテッドアース)が、 震災から8ヶ月の本日11月11日の夜、 各地域でイベントを開催するようです。 もし、よろしかったら、参加してみてくださいね。 ■詳細はコチラ→「絆プロジェクト」
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2011年11月10日(木) |
■被災地支援手伝いの報告3…高台に行き見た街は… |
被災地支援手伝いの続きになります。
山の中の道端に降りて、 この辺りは、大丈夫だったのだろうか、 ときょろきょろしていると、 現地のボランティアスタッフが 車で迎えに来てくれました。
この日は、私と同じように支援手伝いをするために、 一緒に移動してきた人たちが7人いて、 その7人と車に乗り込み、活動拠点の宿舎へ… と、思ったら、 迎えに来てくれたスタッフが こう言ったのです。
「初めても方もおられるので、 ちょっと志津川の街を 見ていきましょう」
そこで、山を下りて志津川の街へ。 私は、一度きているので、だいたいの街の様子は、 しっていましたが、その時にはいけなかったところも、 いくことができました。
そして、もっと悲惨な 志津川の街の状態を知ることに なったのでした。
スタッフが、
「まずは、 街全体を見てみましょう」
と言うことで、 震災のときによくTVに出てきた 高台にある志津川中学校に向かいました。
車から降りて、 街の全体を見渡せる場所に行くと、 そこには、 何もなくなった土地が見えました…
先の方に、今は穏やかに見える海から、 15〜17メートルの津波が襲ってきて、 多くの方々と街を飲み込んでいったのです。
ここに生活の場があったのです。 みなで暮らしていたのです。 でも、今は、何もないのでした。
ちなみに、以前の志津川の街は、 こんなに豊かだったのです。 (河北新報写真より)
それが震災後、 こんな状態になりました。
以前はこんなに活気あふれる市場が、
こんな状態に破壊されつくしました。
でも、今は少しづつですが、 市場の片付けも進み、 漁業も再開されてきているそうです。 ちょっとほっとしました。
この街の全体像を見て、 本当にどうしていくのだろう、 これからどうなっていくのだろう、 と、思うことだけしかできませんでした。
「あれが、避難所になった中学校で、 その先にあるのが仮設住宅です」
と、次に、スタッフに促されて、 志津川中学校の方をみると、 これが志津川中学校の一部の画像。 (全体像はこちら→「志津川中学校」
中学校の校庭の一部に、 仮設住宅が建っていました。 林の下の方の建物がそうです。
ここで今、 街に住んでいた方々が、 生活しているのです。
でも、ここはかなりの高台で、 車がないと不便なところです。 かなり不便を強いられているとわかりました。
そして、志津川は高台にそれほど土地がないので、 仮設住宅を作るにも、住居を建てるにも、 苦労しているとも知りました。
スタッフの好意で、街を見てまわり、 胸が苦しくなりつつ写真を撮り続けましたが、 明日は、前回では紹介できなかった街の様子や、 拠点情報など報告します。 いよいよ活動開始です。
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2011年11月09日(水) |
■被災地支援手伝いの報告2…バスを乗り継いで着いた町 |
しばらく被災地支援手伝いの話になります。
宿泊施設、交通機関が少ないこともあり、 自分が思い描いていた計画 (ホテルか旅館に泊まってそこを拠点に活動する) からは、大きくずれてしまいましたが、 現地のボランティア団体の活動に参加することにして、 ともかく出かけることにしました。
やや不安やとまどいはありましたが、 そんな自分の不安や戸惑いより、 ともかく行ってみよう。 行けば、なんとかやれる、と思って。
荷造りをして、 いざ南三陸町に出発。
今回は、現地で役立つようなものは、先に送り、 (毛布、タオル、米、カップラーメン、コーヒー、お菓子など) 手に持って行く荷物は、日数分の着替え (短期間の人は、現地での洗濯はできないので) 日々使う生活用品を中心に詰め込みましたが、 なんだかんだと揃えたら大きな荷物になり、 結構な重さになりました(苦笑)
それらを引きつつ、 新幹線で仙台に。
仙台駅に着き、駅がどうなっているかと、 きょろきょろ見渡してみると、 駅の中は震災前と変わらずにぎやか。
「やっぱり仙台駅は 立派で大きいなぁ」
と、感じました。 ただ、よーくみると、あちこちで修理がなされており、 震災の爪痕は、まだまだあるのが実態です。
仙台の街も相変わらず華やかで、 多くの人が行き交っていて、 仙台駅近辺を見る限り、 震災前と変わったところは 見受けられませんでした。
さて、そんな仙台駅のバス停から、 バスを乗り継ぎ、南三陸町に向かうのですが、 こんな乗り継ぎをしていきます。
○仙台13時10分発 ↓ 登米市役所14時46分着 ↓ ○登米市役所15時10分発 (南三陸町 平成の森行きのバス) ↓ 入谷中の町15時50分着 ↓ ○現地ボランティアスタッフのお迎えで、 志津川町内へ
だいたい、南三陸町志津川に着くのは、 16時15分頃の予定。
いよいよ、登米市役所へ 向かって出発。
時間通りに来たバスに乗り込み、 窓の景色を見ると、 東北の秋を感じることができました。 その風景は、何事もなかったように 本当に穏やかでした。 これは、北上川です。
バスを乗り継いで着いた 登米(とめ)市役所がこちら。
この辺りは、内陸部でしたが、 6弱〜6強の揺れがあり、 建物被害や橋や道路が壊れ、 死者22人、負傷者51人もあり、 かなり大きな被害を受けたということでした。
また震災前後は、 避難者が6230人にいて、 南三陸町からの避難者も830人に 及んだということです。
この市役所の前のバス停から、 次の入谷中の町に。
登米の町中は、とても美しく、 並木道の銀杏がすばらしく色づいていました。
しかし、次に降りた、 入谷中の町はこんな山の中。
やや不安になりましたが、 もちろん、現地スタッフがちゃんと 迎えに来てくれて、無事に志津川に 着くことができました。
そしてこの後、現地スタッフが、 宿泊所に行く前に、南三陸町志津川の街を 見せてくれたのですが、今までの景色と一変し、 まったく違う町並みに呆然としたのでした。
この続きは、また明日。
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2011年11月08日(火) |
■被災地支援手伝いの報告1…そっか、まずはここからか… |
復興支援、法事を無事に終了いたしまして、 元気に戻ってまいりました。 また、通常通りにアップしていきますので、 どぞどぞよろしくです。<(_ _)>
今日から、南三陸町復興支援手伝いに 行ってきた話を報告していきますね。 まずは、終わっての印象。
「2〜3日では、 短か過ぎるなぁ。 これじゃ、何の 手伝いにもならないな」
ということでした。 今回の被災地支援手伝いは3泊4日でしたが、 移動にほぼ1日かかる(交通手段がない)ので、 とても効率が悪く、働けるのは、 実質2日半くらいだったのです。
被災地現状からすると、 最低でも1週間は滞在して 働きたいところです。 今度は、そうしますよ〜
もっとも今回は、現地に行き、 何かしらの手伝いをしながら、 「自分にできることを探る、 手伝えることを探る」 という目的だったので、その目的を達成するべく、 いろいろと聞いたり、見たりしてきて、 これからの私なりの支援方針を決める貴重な 体験となりましたのでよかったです。 現地に行き、体験しないと わからないこといっぱいありますからね。
そんな短い 被災地支援手伝いでしたが、 いろいろな出会いがあり、 いろいろ感じることもあり、 何度も号泣したり、 笑いあったりしました。 今回は、 出会いや現地模様を中心に 報告していきますね。
さて、 復興支援手伝いの旅は、 こんな実感から始まりました。
今回の支援手伝いをするために、 現地のボランティアセンターに問合わせしたり、 いくつかの団体にコンタクトをとったり、 したのですが、当然ながらこう言われるのです。
「宿泊手段、移動手段は、 各自で確保お願いします」
「わかりました」と答えるのですが、 実際に現地のホテルや旅館、宿泊所に電話をすると、 すでにいっぱいで泊まれないのです。 宿泊施設も被災しているので少ないし、 仮に泊まれるとしても、だいたいは、
「車ですか? あ、車じゃないんですか…じゃ、 ボランティアセンターまで行く交通手段が ないので、通えないと思います」 「バスとか、ないのですか?」 「ないですね…」 「タクシーはどうでしょう?」 「ありますけど… 車で30分くらいかかるから、 遠いし、お金がかかりますよ」
と、言われるのです。 が〜ん、です。 また、
「隣町だと泊まれるかもしれません。 朝と夕方のバスがありますし」
と、言われて隣町をあたると
「すいません、お一人さまは、 受け付けていないのです、 部屋数が少ないので」 とか、 「企業が借り上げ契約しているので、 いっぱいなんです」
と、言われたりして、ともかく、 宿泊場所を確保すること、 交通手段を確保すること、 が、大変なのです。
そうか… こういうことから始めなくちゃ いけないんだね。 普通とは全然違うんだね。
と、しみじみ実感したのでした。
といって、 寝袋もテントもないしなぁ〜 今時期は、寒いだろうし… でも、必ず手はあるはず…と、今度は、 「宿泊ができるボランティア団体」 を探し、そこでお世話になりつつ 手伝うことにしたのでした。
そう決めたものの、 初めての場所、もちろん団体生活! そんな生活を何十年間もしていない私にとって、 戸惑いと不安は大いにありました。
一緒に生活できるかな? トイレはどんなかな? お風呂はあるかしら? どんな人たちがいるのかな? 耐えられるかしら? などなどね。
でも、 そんな贅沢は言ってられない、 ともかく現地に行き、 手伝うことが大事! 行けば何とかなる!
と心を決めて、 自分なりに必要だと思うものをつめて、 荷造りして出発したのです。 何とかなったかどうか、 明日から書いて行きますね。
そうそう、今は、旅行社が企画している 「ボランティアツアー」などもあります。 (観光付きもありますよ〜)
こちらに行くのも手ですが、このツアーは、 だいたいは半日〜1日くらいの手伝いしか できないことが多いのと日程が決まっています。 でも、気楽にいけるのでいいと思います。 観光で支援もありだと思いますし。 これにも一度は、行ってみようと思っているところです。 (詳細は→「ボランティアツアー」
また、私は、宿泊施設に予約できませんでしたが、 早い時期に予約すれば、現地のホテルや旅館も、 宿泊できると思います。
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