言の葉孝

2012年02月29日(水) 東京タワーの去就やいかに

 筆者の出張先の職場から定宿に帰る道の左手に赤い塔が見える。日本電波塔――通称・東京タワーである。夜はライトアップされており、完成から50年以上たった今でも存在感は抜群だ。テレビで東京を映すときは先ず東京タワーを映すくらい、長年東京のシンボルとして親しまれてきた。

 この東京タワーの存在を脅かす東京スカイツリーが本日完成した。この新名所の完成をもって、東京タワーは圧倒的に不利な立場になる。本業である電波塔としての役割はデジタル放送への移行で完全に株を奪われている。
 残るは観光業の方だ。今でさえ観光客はピークの4割に落ち込んでいるのに、これからは修学旅行の訪問先も東京タワーより東京スカイツリーが選択されることが予想される。
 以前は圧倒的に高い位置からの展望に人も集まったものだが、その点で完全に上を行く存在があるのなら、そちらを選択するのが常道というものである。
 だが、東京タワーには歴史がある。映画「ALWAYS 〜三丁目の夕日〜」で描かれるようなノスタルジックな味は東京スカイツリーにはまだ出せない。東京タワーに生き残る道があるとすれば、目新しさや技術よりも積み重ねた時間に頼ることなのではないだろうか。


2012年02月28日(火) 無音の安らぎ

 この記事を読んで下さっている皆さんは今、どんな音が聞こえているだろうか? テレビの音だろうか、それともコンポで流している音楽だろうか?
 筆者の場合は部屋に一人でいるため比較的静かだが音はする。自分が叩くキーボードの音、そしてパソコンのから聞こえるハードディスクの回転音、その音に混じって天井から聞こえるのはおそらく空調の音だろう。
 人の耳が音と縁が途切れることはあまりない。外に出れば風が吹き、虫や鳥の鳴き声が聞こえる。都会ではなおさら静寂からは遠くなる。

 先日、父が購入したばかりのノイズキャンセラーというものを見せてくれた。対抗的な音を出すことで耳に届く雑音をカットすることができる器具だ。
 夜に試してみたのだが、元々静かだったのにさらに音がなくなった感じだ。それで初めて耳にノイズが届いていたことが分ったほどである。その無音の状態が驚くほどに心地よかった。
 音楽を聴くと、気分が軽くなったり楽しくなったりするが、音がないのも気分を安らげる効果があるようだ。
 自分のノイズキャンセラーが欲しいと思って父に尋ねると、20,000円前後だという。今の時代、無音の世界を手に入れる代償でこの値段は高いのか安いのか……


2012年02月27日(月) 祖父は戦を懐かしむ

 土曜日に会いに行った祖父は今度ツアーで知覧に行くのだと言っていた。鹿児島県の知覧といえば、陸軍知覧飛行場のあったところで、戦争末期に数多くの特攻隊員が出撃した場所だ。今は知覧特攻平和会館となっている。
 筆者も去年、鹿児島旅行の際に知覧を訪れている。大半が青少年と呼べる年齢の特攻隊員達の顔写真が壁一杯に張られ、その下の棚には遺書が展示されていた。貸出レコーダーの案内を聞くほどに日本を守るために命を張った彼らに頭が下がる思いがしたものだ。

 祖父は戦争が好きだ。見る映画も戦争ものが多いし、零戦の模型を飾ったり、新聞に掲載された戦艦大和の写真を切り抜いてあったりする。
 中国や韓国も蔑称で呼ぶので右翼的な思想の持ち主かとも思うが、今の日本に戦争をして欲しいわけではなく、ただ「昭和時代の人」なのだと思う。
 祖父は死ぬまでに一度知覧へ行ってみたかったと言っていた。当時の憧れで自分も志願したのだ、と。
 戦争中の祖父は中国大陸でひたすら行軍していただけだったという。戦争で地獄を見たわけではないためか、あまり太平洋戦争を痛ましいものだと思っていない。ただ、日本を守るために一致団結して戦ったあの頃が懐かしいのだろう。


2012年02月26日(日) マラソンが面白くなった理由

 実業団に属さぬ男が日本人で最速の男となり、オリンピック出場の最有力候補に躍り出た。公民を兼ねるランナーは14位に終わった。かの大震災で悲嘆に暮れる南相馬市の市長が、病気で夢破れたJリーガーが完走した。今年の東京マラソンはやけにドラマに溢れているような気がする。

 筆者はあまり陸上競技全般のことを面白いものだと思っていなかった。ただ走るだけでゲーム性のないスポーツだと思っていたのだ。その考え方が変わり始めたのは、二年前に東海道の京都は三条大橋から東京・日本橋まで歩き切った時だったと思う。
 あの時は25kmが一日歩ける距離の目安だった。それが精いっぱいだ。マラソンはその倍近い距離を2時間半から〜6時間で走ってしまう。箱根駅伝なども、箱根の山の急坂を身をもって知って初めて面白くなったものだ。

 市民ランナーの川内選手の失速の原因は給水の失敗だという。自転車競技でもそうなのだが、長距離競技は補給は生命線だ。水分、塩分にエネルギーが枯渇して身体が思うように動かなくなる。精神論ではどうにもならない、物理的な現象だ。それがはっきり見えるマラソンは文字通り、人間の肉体の限界に挑むスポーツなのだと今は思っている。


2012年02月25日(土) 「分かる」ことの重要性

 本日の社会面トップを飾ったのは『大学生の4人に1人、「平均」理解せず』。ゆとり教育世代の影響を指摘する内容である。
 教育といえば、橋下大阪市長が義務教育中の留年も検討に入れるということを言っている。元々は教育評論家の尾木直樹氏が述べたことが元らしいが、現在の学習についていけない生徒をそのまま置いて行くような教育体制は改善すべきだという考えだ。
 留年というのはさすがに極端だと思うが、分からないところがあれば、時間を掛けて理解をさせるという点でこの政策には賛成したい。
 学習についていけない生徒のことを「遅れている」と表現するのは昔からのことだ。だが、今の教育はそれがわかっているのにその生徒を「追い付かせる」指導ができない
 
 現在日本が抱えている問題は全て教育で解決できる。外交問題も、不況問題も、抱えているのは人間である。今の人間でなくても、問題を解決できる人間を育成すればよいというのは暴論だろうか。
 今、必要とされるのは子供に「分かる」ことの重要性を教えることだ。人は分からないことには興味を示さない。例えそれがどんなに問題をはらんでいたとしても、である。興味が持たれず認識されない問題は解決しないのだ。


2012年02月24日(金) 水島新司とダルビッシュ

 『あぶさん』等で著名な漫画家・水島新司氏は業界きってのプロ野球通だ。かつて「南海ホークスのことが一番詳しいのは誰?」と聞かれて全員一致で指名したのが水島氏だったという逸話もある。
 そんな水島氏は日本の選手が大リーグに行くことはあまり賛成ではないという。もっとも一昔前のことなので、ステップアップ先として大リーグに行くのが既に当たり前になっている現状をどう見ているのかは分からない。
 筆者は水島氏の大リーグに行くより日本でプロ野球を盛り上げて欲しいという主張は賛成だった。松坂選手や上原選手が大リーグ行きを希望したときもろくに試合も見ないのにやけに寂しく感じたものだ。

 だが、先日ダルビッシュ有選手が大リーグに行った際に「(打てないから)投げないでくれ」と言われた、と失望感を露に語った言葉は印象的であった。日本に留まってほしい、試合を盛り上げて欲しいといっても、もはや日本で野球をすることに甲斐を見出せないのならば、日本に留まっても盛り上がることなどできないだろう。
 既に大リーグへの道は大きく開かれている。日本という舞台が物足りないと感じたら、大リーグへ行かないのはむしろ向上心の否定になるのかもしれない。


2012年02月23日(木) 臥薪嘗胆の水準

 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
 日本国憲法第25条1項で定められている生存権の条文である。本日の日経新聞の「春秋」は生命保険の話題が取り扱われた。明言はされていないが、埼玉で死因が餓死とみられる3遺体が見つかった件、そして先月発見された姉妹の同様の事件が念頭にあったことは想像に難くない。この5人の方たちは「生存権」を守られなかったのか。それとも行使しなかっただけなのか。

 「生活保護の自動計算ツール」によると、筆者が現住所で無収入、扶養家族なしの場合、受け取れる金額は単純計算では68,630円だそうだ。生活を切り詰めれば何とか生活できそうだが、相当我慢を強いられるに違いなく、何とか「最低限度の生活」から抜けだそうと努力しようと思えるだろう。まともに申請すればなかなかバランスのとれた額ではないか。

 ずる賢い人たちは、この生活保護の水準を高める方法を知っているのだろう。しかし生活保護はどこまで行っても臥薪嘗胆と呼べる水準であるべきだと筆者は思う。
 権利というものは使うべきものである。しかし本来の目的を超えて権利を行使しようとするのは、それは「濫用」と呼ぶのである。


2012年02月22日(水) 犠牲者の残念

 ニュージーランドのクライストチャーチの地震から今日でちょうど1年になる。語学学校キングズ・エデュケーションの入ったビルが崩壊し、少なくない邦人が犠牲になったことで、海外の地震ながら日本からの関心も高かった。
 スクラップしていた当時の記事が手元に残っている。崩れたビルの下から見つかった遺体の確認作業が難航し、3月になって少しずつ死亡確認の報が流れた。
 悲壮だったのが死亡が確認された一人一人についてエピソードを紹介した記事である。語学学校という場所柄、犠牲者は何か思うところがあって、遠く日本を離れて英語を学びに来ていたのだろう、自然と記事の内容も明るい将来を目指していたことが伺える内容だった。

 死は無常である。死を望まれる悪人も、死を惜しまれる善人にも納得できる死が訪れる保障などどこにもありはしない。
 残念という言葉がある。念とは願いや望みといった意味だ。心半ばに果てた人の死は悲しい。だが、その悲しさが際立つのはその人の念は強かったからだ。果たされなかったとはいえ、強い念を抱いて生きられたことは、充実した人生を送れたということと考えることができれば、少しは残された人の心の慰めにはならないだろうか。


2012年02月21日(火) 保安と更正を天秤に掛けて

 更正の余地があるかどうか、それが死刑判決の一番目立つラインの一つであることは確かだ。何を指しているかはお分かりであろう、光市母子殺害事件の結末である。死刑が確定したことで被告の更正の機会が失われたと見られ、今まで「元少年」で通していたメディアも氏名明記で報道を始めた。

 筆者は死刑賛成論者である。刑罰というものは本人を罰する意味だけではない、犯罪に走りかけている人物を戒めることにもなるからだ。人を殺しても十年や二十年で出てきてしまえるようでは「ムショに入る覚悟さえあれば殺人はできる」と思われかねない。
 また「人を殺せる人物」を世の中に放っておく、という行為がどれだけ危険であるかは論じるまでもないだろう。安全を保つと書いて保安という。保安上、刑罰の厳化は非常に有効である。

 だが更正の余地という判断基準も分からなくもない。人間は誤るものである。罪を犯した者もやり直せるなら真人間になりたいと思う者はいるだろう。本当の意味で深く悔いた人間は、世に埋もれさせるには惜しい。
 それは分るが、どうしても筆者には現在の日本の刑法は更正と保安で比較すると、更正を重要視しすぎているのではないかと思ってしまうのである。


2012年02月20日(月) 自分の中にあるプログラム

 将棋の米長永世棋聖が、コンピュータ将棋ソフト『ボンクラーズ』に敗北したことは記憶に新しい。人工知能はここまで来たかと話題になったものだ。
 『ボンクラーズ』でなくてもゲームでCPU相手に囲碁や将棋を打つと、本当にモノを相手に打っているのかと疑うことがある。しかし、いくら複雑な判断ができても原理的には「Aの場合はBという行動をとる」というプログラムに従っているだけでその思考パターンであるアルゴリズムに沿った行動しか取れない。

 だが、人間と何が違うのだろう。人間は自己判断ができるというが、やはり経験から「Aの場合はBという行動をとる」という判断をしているにすぎないのではないか。
 人間は成長ができる、という話をしても、自分でプログラムを改善することのできるプログラムを作ればどうだろうか。痛い目に遭えば、それを避ける思考回路を新しく作るプログラムを作ればコンピューターだって同じ目に合わないように判断できる。
 構造や、思考がやや複雑なだけで、人もモノには違いない。こうして打つ文章も、経験と外から来る刺激から、自分の中にあるプログラムに従って打っているのだろうか。そうではないと言い切れる自信は筆者にはない。


2012年02月19日(日) 原初の遊び

 1歳を過ぎたばかりの我が姪は踊ることが大好きだそうだ。泣きそうになっても歌って聞かせれば泣きやみ、子供番組を見せれば満面の笑顔で手足を振りまわしているのだという。
 人間、遊びといえば友達と一緒に飲んだり、買い物に行ったりするものなのだろう。だが、飲んだり買ったりするには酒も店も必要だ。踊るには何も要らない。踊りという遊びは、人間の遊びの中でも原初のものなのかもしれない。

 本日から地球の裏側では世界で一番有名な謝肉祭が開催されている。リオのカーニバルだ。この祭でなんと言っても有名なのがサンバのパレードらしい。日本に例えると、徳島の阿波踊りだろうか。
 大なり小なり祭りでは踊りが付き物である。それはみんなで共有できる楽しみとして一番の鉄板なのが、踊りだからだろう。

 踊りは表現なのだそうだ。人は喜べば笑う。悲しめば俯く。憤れば目の前のものを蹴っとばす。踊りというのはそういう人間の感情のアクションを踏襲して踊りが生まれた。
 知り合いがよさこいをやっているのを見たことがある。凛とした煽りにあわせて体を動かす様は、一心同体という言葉がふさわしかった。
 心を一つにするのに言葉は要らない。ただ一緒に踊ればよいのだ。


2012年02月18日(土) 人口甘味料の理屈

 今の世の中、ローカロリーは当たり前。ゼロカロリーだって珍しくなくなった。カロリーを気にしながら体重調整をしている筆者にとってはありがたい話であるが、何故カロリーを抑えてあれだけ甘いのか、うまい話は疑ってかかる筆者にはそれがずっと気にかかっていた。
 最近になってその謎が解けた。人口甘味料である。元々カロリーオフを実現しているのは人口甘味料であることは知っていたがその仕組みは分からなかった。カロリーオフのための人工甘味料は人体に吸収されにくいのだ。舌に触れば甘く、そして体内に吸収されずに排泄されればカロリーにはなりえない。なるほど筋の通った理屈である。

 本日、筆者はボトルガムをひと瓶空けた。このガムに含まれるキシリトールも人工甘味料の一つである。そしてこのガムには食べ過ぎると下痢の原因になる旨には注意書きがある。
 このキシリトール、分類的に糖アルコールの一種で、小腸ではあまり吸収されない性質を持っている。小腸で吸収されるものは尿となるのだから、尿となるべきものが大腸に達すると便の水分が多くなる。これも納得できる理屈である。
 つまり、筆者が今現在腹を下しているのは筋の通った原因があるからなのである。


2012年02月17日(金) 筆者とオリンパス

 今年のデジタルカメラの合言葉はミラーレスなのだそうだ。原理はあまりよく分らないが大きなレンズ、コンパクトというには一回りほど大きな本体であるが持ち運びに余り苦労はない上に、大変高性能らしい。
 筆者も昔、アルバイトとして電気屋でデジタルカメラの販売員をしていたことがあった。こちらのカメラのレンズはドイツ製だ、こちらのカメラは速写性に優れている。後ほどFAXの売り場に移ったが、家庭用通信機器としては時代遅れになりつつあるFAXと比べ物にならないくらい顧客の購買意欲は高かった。

 筆者がデジタルカメラを販売していたとき、メインで販売していたのはオリンパスだった。今年に入って新聞を賑わせる企業の一つである。残念ながら新技術の開発の記事などではなく、粉飾決算の件であるが。間接的にとはいえ昔給料を頂いていた会社がこのようなことになって非常に残念だ。
 オリンパスはレンズの知識を生かした内視鏡事業や、デジタルカメラ事業も行っており、筆者としては軸となる技術のあるという点で、手に職を持った誇りのある人間のようで好感を持てる企業だと思っている。これを機会に、オリンパスには初心に戻って誠実、堅実な活動を期待したい。


2012年02月16日(木) 描かれる光

 著名人が一つのテーマを元に絵画や写真を紹介する十選シリーズは日経新聞の文化欄に華やぎを与える連載である。現在の連載のテーマは「光 十選」。第一回目はジョルジュ・ラ・トゥールの「悔い改めるマグダラのマリア」だった。
 一人の婦人が蝋燭の光の中で座っている絵だが、他はともかくろうそくの光が妙にリアルで、絵だということは分かっているのに本当にそこにマグダラのマリアが座っているように見えてドキリとしてしまう。
 このテーマだと必ずフェルメールはまず外せないだろう。窓際から差す光が室内を照らしている絵は誰もが一度は見たことがあるに違いない。

 また、光というテーマを出すならルネ・マグリッドの「光の帝国」を選ぶのは安直だろうか。昼の空に夜の街というシュールな絵であるが、地上の民家からの明かり、そして昼の空に満ちる太陽の光(太陽自体は描かれていないが)はどちらも写真と見紛うほどに写実的だ。

 筆者は絵画ではあまり食指は動かないのだが、現実感のある絵には不思議と惹かれるものがある。その中で光が上手く描けている作品はいかにその光が照らす世界が荒唐無稽でも本当にそんな世界があるのかと思えるくらいに存在感を醸し出すのである。


2012年02月15日(水) 不自由な文章

 「フラグを立っている」も駄目、「期間に含む」も駄目。筆者が仕事で取り組んでいる設計書の言葉遣いのことである。
 設計書を書いていて、いつももどかしい思いをするのは口では伝わっているのに、書類として文章にしてみると全く伝わらないことだ。いつも口頭で説明するのに使っている言葉が、公式な文章では使えない。例えば冒頭の例で言えば「フラグが'1'である」「期間内である」と修正しなければならない。
 筆者がプライベートで文章を書き始めて10年余。アマチュアながら続けてきたなりに語彙力もあり、文章も拙くはない自負はあるが、それは自由に文章が書けていたからなのだと思い知った。設計書の書き方には戸惑いを覚えるばかりである。

 文章を書く者として気を使うのが言葉の重複である。同じ事を指すときはなるべく他の同義語を使うほうがよいとされているし、文末も「〜である」「〜である」と同じものを続けるのは不出来とされる。
 だが、設計書では表記の統一が第一で、むしろそれが推奨される。文章が面白くも美しくもある必要がまったくもないのである。
 「分かればいいじゃねぇか、どんな文章でも!」と叫び出したいが、それを言わないのも仕事の内である。


2012年02月14日(火) 真の名

 魔法の出てくるファンタジーの物語には、時折「真の名」という要素が使われる。戸籍上の名前ではなく、森羅万象全てに付けられている名前で、そのものの本質を言い表した名前のことを指す。
 「真の名」がよく出てくるのは召喚魔法や、悪魔等の他の存在を使役する類の魔法で、つまるところ何者かに真の名を知られるということは、その何者かに従わざるを得なくなるということを表す。それ故に、真の名は滅多どころか絶対に他に漏らさないようにしなければならない。

 政府与党は本日の閣議である法案の国会への提出を決定した。一体改革の一環とする共通番号制度に関する法案、通称「マイナンバー法案」である。これは国民総背番号制と呼ばれる制度の一種で、国民の一人一人に番号を割り当て、今まで一元管理できていなかった番号を全て統一する考えだ。
 この「マイナンバー」、インターネットの普及もあり、他人の番号を手に入れれば、年金や社会保障など、本人の国民としての権利を奪い取れる可能性もある。取り扱いには相当気を配らねばなるまい。

 先ほど述べた「真の名」。概念自体は古いものであるが、現代のこの「マイナンバー法案」を見ていると意味深長な暗喩に思えてくる。


2012年02月13日(月) 変化の強要

 今年1月19日、米イーストマン・コダックが破産を申告した。フィルムを使うカメラを使っていた方にはなじみ深いだろう。カメラが手になじみ、少し気合いを入れて撮りたいときに奮発して買うフィルムがコダックのフィルムだったという声が聞かれる。
 時代はデジタルカメラのものとなったが、コダックはフィルム事業からメインの事業を移せずそのまま倒れることになった。皮肉にも世界初のデジタルカメラを送り出し、カメラのデジタル時代への先駆けとなったのは他ならぬコダックであるというのに。

 倒れる巨人もあれば未だ登り続ける巨人もいる。建機最大手であり、無限軌道の代名詞となっているキャタピラーは中国など新興国での主導権を握り、最高益を記録した。
 この2社の興亡が物語るのはいかに業界で確固たる地位を築いた大企業でも、居心地のよさに胡坐をかいていては生き残れないということだ。常に時代を睨み、リスクを冒して、藪を切り拓き、新しい道を探り当てたものが常に勝ち組となるのである。

 いかに心地よい状態を築いても、留まることを決して許さず、変化を続けることを強要する。いつまでもそこにあると思っているものほど、時間は最大の敵なのかもしれない。


2012年02月12日(日) 「キレイじゃない」ヒロイン

 作者である有川浩氏は自他共に認める「恋愛小説家」である。もともとライトノベル出身ということもあり、文章、特に会話文が軽妙で、主役格のキャラクター像は漫画のような、小気味の良い、誰にでも好かれるような性格を持っていることが多い。

 有川浩氏の『レインツリーの国』のヒロインであるひとみは聴覚に問題を抱えた女性だ。ただ、それだけではない。
 性格がひねくれているわけではないが、コンプレックスをコンプレックスとして抱えてしまっており、扱いが非常に面倒くさいのだ。特別扱いや同情はしてほしくない、だが、気を使われないと辛く傷つく。無意識に自分への扱いで、人を判断している腹黒さも見受けられる。
 “「キレイな人々」としては書くまい”と後書きで著者も述べているように、読む人みんなを虜にするようなヒロインではなかったが、障害を抱える人の心の問題を浮き彫りにしたキャラクターだった。

 筆者にとって、良作の条件の一つは「読者の思考を呼び覚ますこと」だと思っている。「自分だったらどうするだろう?」「こういう場合はどう考えるのだろう?」と時々ページを手繰るのをやめて考えてしまうこの作品は、筆者にとってまぎれもなく良作であった。




『レインツリーの国』(新潮社・有川浩/著)
参照URL:http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%9B%BD-%E6%9C%89%E5%B7%9D-%E6%B5%A9/dp/4103018712


2012年02月11日(土) 民主主義の否定

 東京都で市民団体が原発の是非を住民投票で決めようという条例を作る要請を25万人の署名を添えて提出したそうだ。それに対し石原都知事は「作れるわけないし、作るわけもない」と否定的な姿勢らしい。記事の中で強調されたコメントなので安易に批判はできないが、民主主義の観点からすれば25万人もの署名を集めた提案をあっさり否定するのは選挙で選ばれた首長として相応しい態度ではあるまい。

 しかし何でも多数の住民の言う通りにしていて、物事がうまくいくかというと、答えはノーである。ムバラク政権を崩壊させたエジプトがよい例だ。ムバラク政権打倒を求め、内乱を持ってムバラク氏を倒したのは紛れもなく国民である。だが現実は、本当に求めていたはずの民主化は成立せず、いまだに軍部に権力を握られたままだ。それどころか前にも増して治安は不安定であり、サッカーの試合が70人以上の死者を出す暴動につながる国になってしまった。

 人は大衆という集団になると、いくつもの目があるはずなのに何故か視野が狭くなる傾向がある。大衆はよい政務者にはなりえない。
 独裁政権は不平等である。だが、民主主義も今現在の政治に合っているようにはどうしても思えない。


2012年02月10日(金) 職業の継承

 紫綬褒章も受章したことのある『島耕作』シリーズで有名な漫画家・弘兼憲史氏の娘さんはゲームのキャラクターデザイナーとなり、息子さんは漫画家を志し弘兼氏のアシスタントとして修行を積んでいるそうだ。さらに、弘兼氏の奥方は『東京ラブストーリー』で有名な芝門ふみ氏である。
 世間にも一家そろって同じ職業という例は珍しくない。特に音楽や画業など、芸術関連の職業の一家はその傾向が強いように思われる。
 何故かと考えるまでもない。子供時代の環境である。画家であれば絵に、音楽家であれば音楽に触れる機会が多い。その分目が肥え耳が育ち、大人になってその業界が「分かる」。「分かる」ということは「興味を持つ」こととニアリィイコールである。興味を持った業界に将来入りたいと思うのは自然だろう。
 かくいう筆者も父親と同じIT業界に足を踏み入れた。家には父親のマッキントッシュが鎮座していて、その時代にしてはパソコンに触れる機会は多かったものだ。
 世襲ではないのに家族で職業を継承していく。三つ子の魂百までという言葉もあるが、三つ子の魂は十代後半から二十代前半。進学する時期、職業選択を迫られる時期にこそ、一番モノを言うのかもしれない。


2012年02月09日(木) 500文字エッセイ『言の葉考』

 日経新聞を読み始めて随分経つ。朝刊の新聞小説「等伯」は欠かさず読めているから、少なくとも毎日目を通せているということだ。時事では分からないことは多いが、各界の著名人によるエッセイは読み応えのある読み物だと思っている。

 理路整然と、上手な文章で、どこか誇らしげに掲載されている文章には憧れに似たものを感じ、自分も新聞に文章が載せられる人間になりたいという願望も抱いている。
 筆者も大学時代から『エンピツ』という日記CGI(ブログと呼ばないのは筆者のこだわりである)を利用し、日記を書いてきた。ところが、特に社会人になってから更新の頻度が極端に減っている。
だが、多忙であることに関しては他に追随を許さない新聞社の編集長も毎日書いているのだ、やってできないはずがない。そう考えて始めてみようと思ったのがこのエッセイ『言の葉考』である。

 文字数は500文字前後。厳密には違うが、日経新聞の『春秋』がそのくらいの文字数なのだ。テーマは時事ネタに限らないが、とにかくこの文字数で一つのテーマで記事をまとめる。
 始めるならキリのよい日に、とも思うが毎日継続するものは思い立った日に始める主義であるため、本日に連載開始する。

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