言の葉孝

2006年10月31日(火) 母が倒れて起こること


 日付的には昨日のことだが、10月31日はハロウィンである以前に母の誕生日である。そこで最近はサークルの仕事で少し遅くまで残っていたのを、早めに帰って母のためにいろいろ片付けようとしたのであるが、家で待っていたのは一大事だった。

 家に帰ってみると、どうも様子がおかしい。原付と車が両方あるのに母がいないのである。エリーもいるので散歩というわけではなさそうだ。
 しばらく待っていると、妹が帰ってきてどたばたし始めた。事情を聞いてみると、どうも母は病院に運ばれていったらしい。京都で一人暮らしをしている父もメールで今こちらに向かって帰ってきている途中だといっていた。
 妹は母の病院に先行し、俺は家に残って父を待つことになった。

 父が家に帰ってきてから病院に向かう。母の治療はすでに終え、驚いたことに母方の祖母まで駆けつけていた。診断はあいまいだったが、はきけやめまいが激しいということで病院のCTで見たところ、脳に異常があるということではない、ということでとりあえず安心してほしいということだった。

 俺はいまいち事態を認識していなかったのか、周りの大騒ぎに多少驚いていた。祖母まで駆けつけてくるし、病院に行くのに母が自分で救急車を呼んだためか、近所の人たちが尋ねてきては「大丈夫か?」と聞いてくる。
 祖母は、娘が救急車で運ばれたとあっては、駆けつけるのも不自然ではないが、近所の人の訪問に関しては、「どこの病院に運ばれたの?」という質問があったことからも野次馬的な心が強いと見るのは穿(うが)った見かたというものだろうか。

 とりあえず改めて自覚したのは、こういう事態になると、家族の中で俺は一番頼りなくなるということだ。





web拍手レス(あ、もう母は帰ってきているのでご心配なく)

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2006年10月30日(月) 非ライトノベル推進期間


 期間、といっても厳密に一週間とか一ヶ月とか定めているわけではないのだが、ここのところライトノベルではない小説を進んで読むようにしている。
 特にライトノベルが嫌いになったわけではなく、地元の図書館が僕の休みに合わせたように水曜日定休だし、大学近くの市立図書館はライトノベルの品揃えが中途半端なので、この機会にライトノベル以外の本を読んでみよう、というつもりになったのだ。


【さらば、荒野(北方謙三/角川文庫)】

 評価:C(いまいち)

 手始めは以前mixi日記で触れたとおり、北方謙三から行くことにした。角川文庫から出ている本で学校の図書館にあるものでは一番古い本、ということで『さらば、荒野』を選んだ。素直に評判の“北方三国志”に行かないのはひねくれた俺の根性ゆえである。

 感想としては「何か下手な感じがする」である。
 プロデビューして間もないころの作品だからか、状況描写を省いている部分が多く、その場面について「どうして、そこでこうしているのか」などがよくわからないことが多かった。細かいことを気にしないようにしなければ読み進められない。
 まともにハードボイルドと名乗っている作品を読むのはこれが最初なので、これが普通なのかよくわからないが、とにかく人がよく死ぬ小説だった。人が死ぬのはいいのだが、あんまりにも意味がなくあっさりと死ぬので、何かもったいないと思ったものである。

 今調べたら、ブラッディ・ドールというシリーズの第一作らしい。今現在読んでいる『過去・リメンバー』は今のところ前述のわかりにくさは現れておらず、非常に楽しんで読んでいる最中なので、また機会があればシリーズの続きを探してみたい。


【ウは宇宙船のウ(レイ・ブラッドベリ/東京創元社)】

 評価:C(いまいち)

 俺の大好きな推理漫画家・加藤元浩が完結させている作品『ロケットマン』の最初の事件で題名が出てきた本である。漫画では『RはロケットのR(原題:R IS FOR ROCKET)』というタイトルで紹介されていたが、実際は『ウは宇宙船のウ』という時代を感じさせる邦題だ。
 はじめは、一人の青年が宇宙飛行士を目指す、あるいは、最初のロケット開発に携わるなどで宇宙に行きたいという夢をひたむきに追いかけるSFより現代小説に近い長編小説なのかと思っていたが、読んでみるとSFの短編集だった。

 題名に現れている通り(というか、ブラッドベリ自体がSF詩人らしいのだが)、あまり宇宙船の詳細は描かれず、違う星での生活や、宇宙飛行士の家族の心情などのほうに焦点を当てている。
 各短編の設定はなかなか面白く、「意思を持った星」や「太陽が近すぎて人々の寿命が8日間しかない星」など、作者の想像力がよく現れた話が多い。今では『バック・トゥ・ザ・ヒューチャー』などで有名になったタイムパラドックスの論理とカオス理論を彷彿とさせる話も出てくる。

 しかし悲しいかな、実際古い作品だから仕方ないのだが、言い回しが不自然なところが多かったし、文章的に「明らかになんだかおかしいけど、とりあえず直訳しておくか」という雰囲気を持つ箇所が随所に現れている。この辺が訳本の難しいところだ。





web拍手レス(ライトノベル、といっても普通の人には通じないんだよなぁ)

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2006年10月28日(土) 不安定収入は辛いよ


 あまり考えたくなかったのだが、俺はもしかすると金運がないのではないだろうか。

まず、オフでは何度も口にしているのだが、7月にバイトをがんばって8月の給料日に受け取った給料のほとんどは親への借金返済に消えて1万円しか残らなかった(6万もらって5万返した)。
 それでもその月の生活は誕生日でもらったお金とかで何とかしのげたのだが。

 8月はあまり仕事が入らず、1万5千円の収入だけのうえ、追い討ちをかけるように今期に履修した授業の教科書代で1万2千円消えていった。それはもう命を削られるような心地だった。もちろん、それだけじゃ暮らしていけないので、親に2万円の借金した。

 しかし、9月にはかなりたくさんバイトに入ったので6,7万は入って、親に借金を返してもかなりの金額が残るはず! ついに微妙にお金に余裕のない生活から開放される……はずだったのである。

 そんな状況で、何故に眼鏡を失くさなければならないのか。

 一週間くらい、眼鏡なしで生活し、心当たりを探し続けたがついに見つからず、購入する羽目になってしまった。
 日常的に使うものだからケチるわけにもいかず、2万4千円のフレームに薄型のレンズをつけて3万円強。入った6万円から親に借りていた2万を返して眼鏡で3万払えば残るのは1万円のみ。
 一体、俺が何をした、といいたいくらい理不尽な理由で微妙にお金のない日々は続く。

 大体8月に返した5万円のうち3万円は直前に内定断りに東京に行ったときの交通費だ。これもまた、自責というにはちょっと理不尽な気もしなくはない出費だった。

 ……働いても働いても余裕が生まれないのはどういうことだ。まさか社会人になってもこの状態が続くんじゃないだろうか、と思うとゾッとする。


【不安定な収入】

 そういう俺の愚痴はさておき、俺は派遣系のバイトをやっている。平日はサークル活動などでつぶれるのがほとんどなので、平日で週4回は出なければ話にならない普通のバイトはできない。よって土日に限定されやすい派遣系バイトなのだ。

 ところが、これが勝手の利かない仕事で、自分の都合のいいようには仕事が入らない。一ヶ月のうち8日も仕事が入るときもあれば、まったく入らないときもある。給料が8万円のときもあれば、1万円だけのときもある。
 そんな風に収入が安定しないので、たとえ親に借金があるとか、眼鏡をなくしたとか、たった15分のために東京まで行ったなどの問題がなく8万円を手にしても、次の月の給料がどのくらい入るかわかったものではないので、好きに使うこともできない。

 親と同居で食うには困らないものの、あまり大っぴらに好きな本や漫画を買うこともできず、不安定な収入には悩まされるばかりだ。





web拍手レス(あー、めがねがあるとやっぱらくだー)

 今日はたくさん入ってますよー。

>hisabisa の投稿ですね、このペースで頑張って頂きたいです

 うっ、『生と死の狭間に』に関しては、すでに完成している原稿を小出しにしているだけなのでこのペースが守れていますが、これが終わったら元の速度に戻る予定です。

>次の待ってます!

 ちょうど書きあがったので“まほゆめ”の最新話をアップしておきますねー。

>期待しています。投稿が開始しているの知りませんでした。頑張ってください

 期待を裏切らないよう、できる範囲でがんばりたいと思います。

>おっ? RYOさんに聞いたんだけどホントんに再開していますね〜。おめおめ

 RYOさんというと、掲示板に書き込みをされた方ですね。あの方から伝わったのですか。本当にありがたい事です。
 一年以上もお待たせして申し訳ありませんでした〜。このとおり前より更新スピードは落ちてますが、それでも何とか運営は続いていますので、これからもよろしくお願いします!


2006年10月24日(火) ダブルブッキング


 『クリエイター』の仮印刷を一人で黙々と済ませ、9時過ぎに帰路についた昨日の夜、俺はとんでもないことに気がついてしまった。

 そういえば、サークルのコネでまたやることになった歌舞伎の舞台は11月3日だったはず。そして、この間バイト先からの電話で「11月は12、13日以外はOK」といってしまった覚えがある。
 嫌な予感というか、むしろ確信だったのだが、家に帰ってから恐る恐る確かめてみると、やっぱりバイトの日と歌舞伎の舞台の日が重なっていた。

 そこで今日、一番早いタイミングで俺はバイト先に電話をして、謝り倒してキャンセル扱いにしてもらえるように頼み込んだ。
 結果はまだ返ってきていないが、まあ、何とかなるだろう。


 歌舞伎の練習日は押さえていたのだが、見事に本番の日を忘れるとは。最近どうかしてる。就職活動やモモサポのほうの活動が沈静化してからか、スケジュール管理やタスク管理の調子が非常に悪い。
 このまま社会人になっていくのか……。





web拍手レス(それでもまだ致命的でないのが救いだな)

 今日の拍手コメントはなし。(←何週間このフレーズ続けてるんだ/汗)


2006年10月22日(日) 宗教は大らかでいいのか


 浄土真宗というのは法然の弟子・親鸞を宗祖とする仏教の一宗派だ。そして「南無阿弥陀仏(「私は阿弥陀仏に帰依します」の意)と唱えれば全ての罪から許されて救われる」という非常に大らかな教えを持っている。
 今日は、うちの曽祖父の13回忌ということで法事が執り行われ、親戚一同で出かけたのであるが、浄土真宗の大らかな一面を見ることになった。

 寺の僧正が経を唱えているとき、家族の名前を読む部分がいくつかあるのだが、僧正はいきなり読経を中断して後ろを振り返って聞いたのである。

「すいません、このお名前ってどう読むんでしたっけ?」

 法事もそろそろ終わりに差し掛かり、最高潮であった足の痺れを一瞬忘れさせたものである。少なくとも、よどみなく進むはずの読経がここまであからさまに中断するのは初めて見るが、これもこの大らかな宗教では許される行為なのだろうか。

 自分自身、あまり格式ばったことは好きではないのは確かだが、事前に確認を入れるなど、仕事は仕事としてきちんと済ませてほしいものである。


【宗教は大らかでいいのか】

 この世の中は、幸せに生きている人でもふと気がつけば隣に苦しみがある世界だ。病や、罪、憎しみといった苦しみにとらわれ、一生を棒に振るケースも少なくない。もうどうにも普通の幸せは獲得できない状況を、俺は「救いがない状況」と呼んでいる。
 そして時々、俺はそういう状況にある人たちが救われる方法を考えている。

 宗教はその答えの一つだろう。「信じるものは救われる」という。それは神や仏など信仰対象が自分を救うのではない。信じるという行為そのものが、信じる者を救うのである。

 仏教や、キリスト教など、古典的な宗教は寺に入り、あるいは修道院に入るなどして修行をすると、途方もなく厳しく自分の行動が制限される。八正道などは普通は全て守りきれるものではない。
 だが、その厳しさは清らかさでもある。健康的でもあるし、それさえ守っていれば間違いはめったに起こらない。そういった状況に身をおくと、心が洗われる心地がするものだ。罪を犯してしまった者が寺に入れば、その厳しさが、幸せではないが苦しさを解くことになり、その人の救いになるのである。
 罪とは関係なく、苦しみや迷いにとらわれている人でも同じだ。厳しさに身をおくことによって「自分は信じている」という実感を得ることができ、その中に救いを見出せるのである。

 よって、あまり宗教は大らかであるべきではない、と俺は思う。





web拍手レス(“まほゆめ”にボチボチ手をつけているのだが、めがねがないとやはり執筆は辛い)

 今日の拍手コメントは無し。


2006年10月21日(土) この一週間、ずっと寝ぼけていたらしい


 忙しさにかまけてずっと日記をサボっていた。かといって、来る仕事に集中し、すべてをうまくこなせていたわけではない。―――否、結果からいうと、全てが俺のドジによって中途半端に終わっていた。

【仕事その1:レポート】

 以前に述べたとおり、俺は二つのレポートを抱えていた。一つは火曜日提出の応用言語学、それと現代技術論である。これら二つはすでに終わった。

 応用言語学はブックレポートで「多文化共生社会への展望」という本を読んで評論せよという内容だった。だから、ただつまらないのを堪えて読破し、それなりに思ったことを書き込んだ・

 現代技術論は「身の回りにある商品のうち一つを取り上げ、そのコンセプトと、それに用いられている技術について書け」という内容だ。ちょうど俺は9月にデジカメ販売の現場にいた人間なので、販売に先立つメーカー研修で「特にお勧めするように」と言われて詳細を聞いていた俺は、元々知識のあるそれを選択して書いた。


【仕事その2:出版会の事務関連】

 カミヤ君、社会福祉実習の留守を預かった……という形らしい。問答無用で一番上級生で年上だし、彼は彼なりに俺が真面目なのを買ってくれているわけだが。
 で、大学祭の色々事務仕事、特に最終企画書提出と言うのを任されていたのだが、それは何とかこなせたのだが、その他もろもろのチェックと遂行をすっかり忘れていた。昨日の金曜日に何かしに大学祭実行委員会に行かなくてはならなかったらしいが、忘れる前に知らなかったのだ。

 それだけではない。文化サークル連合が主催する防災訓練を完璧に忘れていた。これはチェックし忘れていたどころではない。代表者会議みたいなやつに出て、「俺が行く」と言っておいてすっかり忘れていたのだ。

 どうも、いわれたことだけこなして満足していたらしい。


【仕事その3:出版会の出版作業】

 どちらも急務だったのだが、片方は映画紹介雑誌「映画秘境」の製作。「オクト」よりも評判がいい、そしてこちらも非常に書きやすい雑誌である。
 一人5作品と言うことなので、以前日記でも取り上げた「SF ダンジョンマスター」「SF ヘルスラッシャー」「ハスラー」に加え、「アイ・アム・サム」と「インファナル・アフェア(香港版)」を取り上げた。
 5作品とはいえ、2ページ半だったが、自分で考える部分が少ない分、書きやすくはあったので自分の分は一晩で仕上げた。このことはほめてもいいと思う。出版会のみんなにも声をかけて、とりあえずボチボチ集まってはいる。

 もう一つが、「クリエイター」だ。仮印刷までやっておくように頼まれていた。そして金曜日に印刷つもりで印刷室を押さえておいていたのだが、困ったことに当日になって印刷室を予約した証明となり、守衛室から印刷室の鍵を借りる紙をどこかにやったらしい。
 書類は全部まとめて一つのファイルに収めるようにしてあったはずなのだが。


 分からない。
 俺は本来ここまでミスを連発する人間であるはずがない。
 そして、ここまで無責任な人間であったはずがない。

 ―――そうでないとしたら、そんなに責任を感じるほどには出版会に気持ちを入れられていないと言うことなのかもしれない。





web拍手レス(でもこれで義理執筆は終わり。やっと小説の続きを書ける)

 今日は拍手コメントなし。


2006年10月14日(土) 休みたいのを我慢する“べき”状態


 結局、2つのレポートのうち、一つはあきらめることにした。どのみち現代技術論のほうは31日提出だ。
 しかし208ページにもなる文芸誌の仮印刷、どうしよう。インクとかマスター(印刷機で判子みたいに印刷の型になるもの)が切れる可能性が高いし、なにより、52種類ものページ×10部となると収集をつけられる自信がない。

 新しい部員もつき合わせてやり方を教えてやりたいし……。ちょっと見ない間に出版会が遠い存在になってしまったんだよなぁ。いまいち馴染めないというか、手伝ってもらおうにも連絡が取りづらいというか。

【交渉人 真下正義】

 このクソ忙しい時期にやってくれる。つーかレポートの一つをあきらめたのはこれが原因。前から見たかったのだが、映画館に足を向けるまでもなく、また父親はこの踊る大捜査線関連作品はDVDを買ってこないので、おとなしくテレビでやるのを待っていたのだが、嫌なタイミングでやるものである。しかも来週は俺の大好きな室井さんが出てくるというではないか。

 しかしサスペンスとしてはどきどきするいい展開だったし、キャラクターややりとりも踊るシリーズを踏襲しているところがあってよいのだが、いささか「ゲーム」という設定に頼りすぎている感もあったし、何よりも結局犯人が誰なのかがサッパリ分からなかったところがどうにもカタルシスに欠ける結末が残念だとは思った。


 ドラマを見てしまったこととか、インターネットで時間をつぶしてしまうだとか、忙しい状態というのは、とかく自分への厳しさが問われるところだ。

 「忙しい」という言葉を俺なりに定義すると、「休みたいのを我慢する“べき”状態」だということだ。
 そこで我慢できるかどうかは、個人の強さだと思う。





web拍手レス(来週は九時帰りが多くなりそうだなぁ)

 今日の拍手コメントは無し


2006年10月13日(金) ずっと雨が続くより、3日晴れて1日嵐のほうがいい


 時間も遅いので(今現在、0:17)手早く済ませる。どうもこのごろ、ゆっくり納得のいく日記を書けていない。日記なのだから、その日起こったことなどを記せばいいと思うのだが、どうせなら自分の考えなどを書きとめておきたい。
 たくさんいいこと(少なくとも俺の主観では)を思いつくのだが、多すぎて記憶にとどめて置けない。その半分も書けてはいないのだ。アイデアが出ればなんとかメモに書き留めたいのだが、なかなか実行できていない。

【これからやらなければならないこと】

 昨日はサークル活動などが沈静化し、ゆっくりとサイトをいじる余裕ができたとか、その前には“まほゆめ”を今週末にはアップできそうだとか述べた記憶があるが、すでに日付的には土曜日、週末である。
 おまけにこの週末はバイトが入っているので、おそらく今週末、定期更新以外でサイトをいじるのは無理だ。

 書くレポートが2つある。そのうちの一つ、応用言語学の分は来週の火曜日提出だ。そのレポートの本を今日中に気合で読もうとしたのだが、あと2章分残してしまった。明日こそ読みきって、久しぶりに娯楽小説を読んでやる。
 もう一つの現代技術論は、お題を出された瞬間にぱっとひらめいたので、レジュメまできっちり仕上げている。後はちょっと調べて書くだけだ。
 気合を入れればこの土日で2つのレポートが片付くかもしれない。もっともこういう宣言の仕方をすると、大概せいぜい2つのうちの一つを片付けるだけに終わるのだが。

 来週に入ったら出版会の活動が待っている。来月の大学祭までに映画紹介本『映画秘境』を出すことになっており、来週中には原稿をあげなければならない。
 また、その前にクリエイターも仮印刷をつけつつ、ページ番号を切り貼りしておかなければならないのだが。

【ずっと雨が続くより、3日晴れて1日嵐のほうがいい】

 何も仕事がなくてゆっくりできると思ったら、ただ単にやらなければならないことの期間に余裕があるだけで、やることがなくなったわけではないことに気がつく。

 だが、これでいい。

 どれだけがんばって仕事を早く終わらせても、次のやるべきことが見つかるだけだ。だったら、明日できる仕事は明日に回して、今日はゆっくり休めばいい。余裕はできるものではなく作るものだ。





web拍手レス(ああ、でも嵐ヤダ嵐ヤダ。忙しいといっても俺の場合たかが知れてるが、それでもイヤだ。終わってもそのあとは大学祭の準備が控えているしなぁ)

 今日の拍手コメントはなし。


2006年10月12日(木) いいサイトの第一条件


 出版会もモモサポも、授業以外のことが沈静化しているせいか(出版会ではいろいろやることがあるのだが)、サイトのことに気を回す余裕ができている。日記もほぼ毎日書けているし、使いまわしではあるが集中連載のほうも順調だ。

 やっぱりいいサイトの第一条件は「頻繁に更新するサイト」ということか、就職活動が一段落して日記を毎日更新し始めてから、40弱に減っていたアクセス数が60〜70に跳ね上がった。
 僕の小説を読みに来てくれた人に対してきちんと小説を提供できている状況って気持ちいいな、と思う。

 カナダから帰ってきてサイトを改装した際に、いろいろリンクを張ってからずっといじっていない。行きつけのサイトが大幅に増えたので、そろそろリンクでもいじろうか。

 まほゆめ魔法大全なども一部終了時のもののままだし、更新しだすといろいろいじりたくなる。





web拍手レス(あと、カオパラのほかにあと2つほど検索サイトに登録させてもらおう)

 今日の拍手コメントはなし。


2006年10月11日(水) 最近の俺にしては奮発である。


 所用で大学に向かうことになったとはいえ、授業もサークル活動もない休みでは、日記に書くほど刺激的なことには出会えないらしい。
 そういうことで、今日の分の日記も羅列である。

1、部室で書類仕事。
 今日、大学に行ったのは社会福祉実習で学校に出てこれない部長のカミヤ君の代理で、大学祭の最終企画書を提出しなければならなかったからだ。
 模擬店企画のほうはすでに書いてあったが、校舎の中でやる屋内企画のほうは、まだ書いていなかったので、それを書くことから始めなければならなかった。
 それをもっと手早く済ませていればもっと早く帰れたのかもしれないが、書類の受付は昼休みが終わってしまうと四限目が終わる四時半まで待たなければならない。仕方がないので、漫画などを読みながらゆったりとすごしていた。

2、本を買う。
 帰りの電車の中でレポート用の本を読む気にもならず、何か本を買っていくことにした。久しく本屋に行っていないので何らかの新刊が出ているかもしれない。
 結果、『キノの旅(10)』、『リリアとトレイズ(3,4)』、それと漫画で『C.M.B.(3)』と『ツバサ(10)』を購入。総額2550円、最近の俺にしては奮発である。

 電車の中で漫画である2冊はさっと読んでしまった。時雨沢作品の前者2作は今借りている本をすべて読みきってからゆっくり読むとしよう。





web拍手レス(本屋で北方謙三の本が並んでいるのを見かけた。一時みんなが三国志で話題にしていたハードボイルド作家である。最近俺の好みはハードボイルドっぽい気もするし、今読んでいる本が全部終わったら、そちらのほうも読んでみよう)

 今日の拍手コメントはなし。


2006年10月10日(火) なんだかんだ言って結構書く


 日記に書くほど思うこともなかったので、とりあえず今日したことを羅列しておく。

1、“まほゆめ”の続きを書く。
 前回の反省も含めてプロットは大分固まっている。今週末にアップできれば僥倖。最低でも来週中にはアップしたい。最近更新速度が遅いのは目標の日程を決めないからだと思う。

2、FF10を進める。
 長らくナギ平原で留まっていたが、先週末でガガゼト山を越え、ザナルカンドに入った。今日やったのはエボン・ドームのクリア。この辺はメンバー全員が完全に吹っ切れるところなので結構好きだ。ここを一日がんばったのもこの辺のイベントを見たかったからである。

3、明日大学に行く予定が入る。
 出版会の用事で大学に行かなければならなくなった。
 実は昨日の月曜日、後輩だが部長を任せているカミヤ君と会う約束をしていて部室で待っていたのに結局こなかった上、今日になって電話がきて、せっかく2連休だと喜んでいたところに水を差された形になって、頼まれたときは正直苛立ちを感じた。
 しかしよく考えればここ最近は出版会に関して、連絡が来ないことをいいことに放ったらかしてモモサポの活動をしていたし、休日の3,4時間くらい割いても罰は当たらないだろう。





web拍手レス(授業もないし、遊びに行くみたいなもんだ)

 今日の拍手コメントはなし。


2006年10月09日(月) 信じるも疑うもしなくていい。


 朝っぱらからカレーを食べつつ余裕の朝を過ごしていたら、祝日で休日ダイヤなのを失念し、狙っていた時間帯の電車を逃してしまった。別にぎりぎりを狙って登校しているわけではないので、普通に間に合いはしたが。

【俺のマスコミに対する姿勢】

 今日のアメリカ文化研究でこんな話があった。

「『アメリカは銃が普及しており、危ない世界だ』というが実際のところ犯罪率はかなりのところまで激減している。日本でも凶悪な事件が増えているというが、やはり犯罪率は減り平和なものである」
「アメリカのメディアは差別問題に結びつけて人権保護団体がうるさく抗議するので黒人やゲイの起こす事件はあまり取り上げない」

 要するに“メディアリテラシー”の話である。
 メディアリテラシーというのは簡単に言うと、「テレビや新聞で言っていることを鵜呑みにしないで、自分で調べて自分なりの見解を出しなさい」という精神……だと俺は少なくとも考えている。

 以前にもメディア関係の授業をとっていたのも影響してか、俺は最近メディア、特にインターネット、テレビの報道を冷めた目で見るようになっている。
 特に、俺が「“時の人”報道」と呼んでいる現象である。オリンピックや甲子園などのイベントで一躍有名人になった人をどんなつまらない記事でも取り上げる現象なのであるが、たとえば冬季五輪のフィギュアスケートで金メダルに輝いた荒川静香選手のときだ。
 その得意技「イナバウアー」が大流行したのをいいことに、何でも「イナバウアー」に結びつけたニュースが目立った。特にひどかったのが、仰向けにひっくり返りかけた虫の写真を持ち出して「イナバウアーをした虫」と報道したニュースだ。
 他に何か伝えるべきものがあるだろう、と思うのだが。
 そのほか、特に華やかなイメージの先行するテレビとインターネットのメディアはエンターテイメント性重視で、流行に無理やり乗っかるノリのようなものがあって正直俺にはあまりよいものには見えない。

 殺人事件の報道でもそうだ。このあいだの専門学校で女生徒が殺害された事件などでは散々少女の過去の思い出話が報道された。少女の立場に立ってみれば、顔写真は出回るわ、プライベートは公開されるわ、恥ずかしい限りだろう。
 そのほかの事件についても、その事件の悲しさを煽ろうとしているのか、被害者の情報が徹底的に公開されるのである。死者のものとはいえ、プライベートを尊重しようとは思わないのだろうか。

 そういうところもあって、俺はメディアというものを信用しなくなってしまったのであるが、だからといって拒絶ばかりしていては時代に乗り遅れてしまい、一般常識に欠けてしまう。
 だから、俺としてはメディアで流されるニュースに対し、自分の目で確認しない限り、信じるも疑うもせず、「そういうニュースがあった」と、事件の事実などの主要な情報のみ心に留めておくことにしているのである。





web拍手レス(さて、明日からは二連休。何をしてすごそうかな。とりあえずやっとこさザナルカンドまでたどり着いたFF10は最後までやってしまいたいところであるが)

 今日の拍手コメントはなし。


2006年10月08日(日) 完璧な週末の過ごし方


 “花金”に徹夜で遊び倒し、土曜日は寝倒して、前日の徹夜の疲れを癒す。そして日曜日は次に来る月曜日に備えて英気を養いつつ好きなことをやりながら、ゆっくりとすごす。
 これが完璧な週末の過ごし方というものではないだろうか。

【家の中には俺一人】

 今日は朝から両親および妹、それにエリーは、キャンプに出かけており、いなかった。俺はこの土日はアルバイトの待機業務が入っていたので、猫2匹とともに留守番である。

 家に一人というのもたまにはいいものだ。昼食などは自分で用意しなければならないのだが、その分、自分のしたいことをしたい時にできる。
 家族と一緒にいると、どうしても風呂や食事などの時間はすべて自分の思い通りのタイミングでというわけには行かない。ただ、それだけのことでもずいぶんと自分の予定を崩されてしまう。

 一人で過ごしてみると、マイペースがどれだけ楽かよく分かる。どれだけ大好きな人とどんなに楽しく過ごしていても、それでも一人でないときはストレスなのだ。
 誰しも一人になりたいときというものがあるというが、それは他の人といることのストレスが重なっているからではないだろうか。




web拍手レス(一人暮らしに慣れてしまうと、結婚した後とか大変なのだろうなー)

 今日は拍手コメントなし。


2006年10月07日(土) 裸族たちの卓球


 人はいつから猿と区別されるようになったのだろう。道具を使うことを覚えてからか、火を使えるようになってからか。
 今回の飲み会で、俺はそれが「服を着ていること」こそが人を人たらしめていると確信することになる。

【ローソクから始まる】

 先日行われたイベント『ジャズストリート』の打ち上げとしてワキニシ君企画で我々モモサポは飲み会に行くことになった。
 はじめは韓国料理屋さんで大人しく飲み食いしていた(それでもやたら俺に酒を飲ませようという非常にメイワクな雰囲気だった)のだが、途中からもともと卒業生のタニナカさんが入ったあたりから怪しくなってきた。
 まず、丁度9月生まれの人全員を祝うバースデイケーキが持ち出されたと思いきや、タニナカさんと、同じく社会人のフラくんがローソクを持ち出してロウをたらして遊び始めたのである。
 腕から始まったのがエスカレートし、背中から尻から、ローソクが燃え尽きるまで続けられた。

【裸族たちの卓球】

 二次会でカラオケをしている間に終電の時間が過ぎてしまったので、終電がまだあるグループ以外(タニナカさん、フラ君、ヤシダ君、コマチ君、俺の五人)はネットカフェに行って一晩を過ごすことになった。
 実はネットカフェは初めてだった。普通にパソコンがおいてあって漫画がおいてあるスペースなのかと思いきや、最近のは卓球やビリヤード台などのプレイルームもあるらしい。泊り込む人用に、座るスペースのほかに眠る個人スペースもあるという。

 俺とタニナカさん、フラ君の三人は、卓球をやりにプレイルーム使用を選択した。だが、プレイルーム選択は正直間違っていたかもしれない。
 今回のメンバーの中でタニナカさんとフラ君は、人生何が起こってきたのか、飲み会宴会となると特にハジケ方が半端ではなくなる二人である。
 飲めば、歌って踊るだけでは済まさない。先ほども述べたようにロウを垂らして遊びはじめたのもこの二人である。タバコの火を下に押し付ける、局部にウナコーワを塗る、男同士でディープキスをしてみせる。人として踏み越えられないラインをあっけなく踏み越えてくるのである。

 そんな二人と卓球をするとなるとタダの卓球になるわけがなかったのだ。
 はじめ、フラ君とゲームをすることになったのだが「ポイントを取られたら一枚ずつ脱衣」というルールが加えられた。

 俺は、その初っ端のゲームから最後の一枚まで剥ぎ取られた。

 最終的には結局終電を逃したワキニシ君も加えて4人でプレイし、全員が裸になった。全員生まれたままの格好で卓球をする姿。昔無茶をしていたバラエティ番組でも見かけられないシチュエーションである。そしてそこから始まったのは服を着るための戦いである。
 そこではフラ君が圧倒的な勝負強さをみせ、一人だけパンツとTシャツを身に着けていた。ほかは買ったり負けたりで、よくてパンツ一丁、あとは全裸のみである。

 ほかの三人は、「これだけの長時間、裸でいると服がわずらわしくなる」など、裸にかなり順応していたが、頭のてっぺんから爪の先まで文明に漬かりきった俺は服を着ていられることの有難さなどが、身にしみて分かった。
 当然のように服を着ている我々であるが、これは我々が恵まれているからであるからこそということをよく理解しておかなければならない。





web拍手レス(俺は未だかつてあそこまで真剣に卓球をしたことがない)

 今日の拍手コメントはなし。


2006年10月05日(木) アメリカの銃文化


 今日でアメリカ文化研究の一部、アメリカの銃文化についての講義が一段落した。そこで、自分の意見も踏まえて一度まとめてみようと思う。表現上、いかにも知ったかのような断言口調を多用するが、すべてこの授業からの聞きかじり、配布物やノートからの引用になるので、参考にするときは注意が必要であることを一応、告げておく。

【マリッシャ(民兵)から始まったアメリカの銃文化】

○憲法で自衛のための銃所持の権利“武装権”が認められている。

 アメリカは銃と犯罪について、日本とはまったく正反対の考えをしており、一般市民でもきちんと手続きを踏めば銃を手に入れることができる。狩りをし、獣や盗賊から身を守った開拓時代からの伝統を受け継ぎ、市民が自衛のために銃で武装することを憲法修正2条で認めているのである。
 ちなみに、この“武装権”については論争があり、これが州兵に対しての権利なのか、それとも個人に対しての権利なのか、それぞれ意見が分かれている。


○なぜNGA(アメリカ銃協会)ではなくN“R”A(アメリカライフル協会)なのか

 そもそも、アメリカ市民が銃を持ち、自衛をすることに誇りを持つようになったのはアメリカ建国時の騒動、つまりアメリカ独立戦争からである。どんどん進行してくるイギリスの正規軍に対し、植民地軍は住民から志願兵を集め、住民たちは狩猟用のライフルを握り締め、民兵としてゲリラ戦を展開することでイギリス軍に対抗し、最後には独立を勝ち取ったのである。(この勝利の要因としてはフランス正規軍の参戦が一番大きなものなのであるが、民の力で独立を勝ち取った、この神話を崩すことはよくないことだ)

 アメリカはみんな銃所持に賛成かというと答えは否である。むしろ、反対している人のほうが多いのではないだろうか。その中で、自衛のための力を持つべきだと説く銃所持擁護団体がNRA、アメリカライフル協会である。
 なぜ、“銃”ではなく、ライフルなのかというとアメリカ独立は民兵がライフルを担いで自分たちの力で建国したために、ライフルは建国の象徴なのである。

 つまり、政府など誰の力も借りず、自分の身は自分で守り、ときに自分の自由が妨げられれば自分の力を持って切り開くことに矜持を持っているのが銃所持を擁護するアメリカ人なのである。


【銃は持つべきか否か】

 ここ数年、ニュースが殺人事件を取り扱わない日はない。動機や事件状況について、あまりにも凶悪であったり、不可解であったり、これが今に始まったことかどうかは分からないが、とにかくマスコミは注意を呼びかけている。
 たとえば、ニュースでやるような凶悪な犯罪に巻き込まれてしまった場合、警察を呼ぶ隙もないことがほとんどだ。そんなとき、自分で身を守れる手段を持っていれば安心という考えは分からなくもない。
 実際自分の身を守ることは自己責任なのだ。政府や警察、自衛隊にすべてを委ねている時点で、自然ではない。

 俺は割と性善説を唱えるほうで基本的に人は犯罪に手を染めない理性を持っていると信じている(理性という表現をする時点で性善説が崩れるわけだが)。
 100人に銃を持たせれば90人はきちんと自衛のためのみに使うか、もしくは使わずにしっかり保管しておくだろう。
 ただ、残った10人のうち5人は銃犯罪に走り、3人は自殺に使う。あとの2人はずさんな管理をして子供が暴発させてしまうなど、とにかく残った十人は悲劇を誘発する。

 100人の内の10人、一割というのは多すぎるのではないかと思うかもしれないが、実際に銃を手にしてみて「使ってみたい」という気持ちにならないものはいまい。そして、銃は強大な力であり、どんなひ弱なものでも屈強な男一人を殺せる力を持っているのである。
 また、ナイフなどとは違って生々しい手ごたえも返り血もない、罪悪感の残りにくい殺し方になる。
 つまり、物理的にも精神的にも銃は非常に殺しやすい武器であり、ひ弱な男一人でも強盗ができるようになる代物なのである。

 日本の場合、できるだけ銃を持たせないようにして、悲劇を起こす10人のうち2人にしか銃が行き渡らないようにする。
 アメリカの場合、犯罪者に対抗できるように全員に銃を持たせる。
 日本とアメリカの銃の扱いの違いは、犯罪を防ぐか、それとも犯罪に抗するか、の違いであるといえるだろう。

 日本の銃規制の厳しさは相当なものであるらしいと聞いた。それでも完全なものにはなりえないので、銃を手に入れた人が(この場合、わざわざ密輸してまで銃を手に入れる人というのはたいてい犯罪に使うためである)起こした犯罪に巻き込まれた場合、対抗手段がないのである。

 アメリカの場合、犯罪に巻き込まれたとき、銃を持っていれば強力な対抗手段になるし、それによって殺されるなら、無抵抗のまま殺されるよりもずっと納得はしやすい。
 ただし、俺は理性的な普通のアメリカ人が普段から銃を持ち歩いているという話を聞いたことも見たこともない。おそらく銃は保有していても家の棚に入れっぱなしにしているのがほとんどではないだろうか。だとしたら銃を普及させている意味がなく、ただ銃犯罪を加速させているだけということになる。
 また、銃というのは強力であるが、扱いは割りと難しい。反動が強いためしっかり持たなければならないし、拳銃だろうがライフルだろうが、十分に射撃訓練をしておかないと体に押し付けて引き金を引かない限り当たらない。
 そして実際に凶悪犯罪にあったとき、銃を使えるほど冷静な精神状態を保てるだろうか。むしろ、乱射するか震えて落として犯罪者たちに武器を渡すだけになってしまうか、それとも銃を取り出したことで射殺されてしまうという、火に油を注ぐような結果にもなりかねない。

 自己防衛をとくならば、銃を持たせるのは得策ではないと俺は思う。徒手空拳での武術などを普及させたりすることを提案するが、それより前に危険なことがあったとき、あわてず冷静に行動できるように平常心を保つ訓練をするのが一番いいのかもしれない。





web拍手レス(イヤホンをなくしてしまいました。夜中に遠慮なく音楽が聴けない……)

 今日の拍手コメントもなし。


2006年10月04日(水) 美容師からの裏話


 今日も商店街の福引の受付。
 子供服店の店長さんと過ごした、長いようで意外に短かったような気がする3時間半。割と男っぽい豪気な性格で楽しい女性だった。

【美容師からの裏話】
 
 最近、前髪が鬱陶しくなってきたので学校近くの美容院に切ってもらいに行った。誰にも「そろそろ散髪しろよ」と言われないうちに散髪に行くのは今回が初めてかもしれない。

 美容院で髪を切ってもらっている間、俺はたいていあまりの心地よさに眠ってしまうのだが、今日行った美容院は店長さんが非常にフレンドリーな人で、眠らず話す。
 前から美容師さんに聞いてみたかったことがあり、せっかく話すのだからと、美容師という職業についていろいろ聞いてみた。

 美容師になるには二つの道がある。
 ひとつが専門学校に通い、免許をとった後、どこかの美容院に就職して修行を積む。
 もうひとつが、まずバイトなどで修行に入り、実技を学びつつ勉強して資格を取る。

 専門学校とはいっても実技をたっぷり仕込まれて出てくるわけではないらしい。知識はあっても、後者の全くの素人の状態から店に入るのと、“使えなさ”ではそう変わらないという。
 だったら、さっさと実技の修行に入ったほうが早く一人前になれるのだと店長さんは言っていた。

 やはり技術を売り物にする仕事なので、技術のない新人はほとんど役に立たない。掃除や練習くらいしかすることがなく(シャンプーにすら技術がいるため)、よって貢献度からして早々高い給料は払えない。
 だから、最初のうちの給料は、経済的に自立できる値段ではなく、自宅から通って親にご飯を食べさせてもらっている身分でもなければまともな生活はできないらしい。

 また、シャンプー液は肌荒れなどを起こしやすく、その点で美容師の夢をあきらめなければならないこともあるという。

 こういう話もあった。前回に来たとき、初期から一人お店にいた女性が交通事故で腰骨を折って入院してしまったのだという話を聞いていた。そこで今回その女性がどうなったのかを聞くと、腰骨ゆえに後遺症が残ってしまい、店をやめてしまったらしい。

 要するに専門技術を飯の種にしようと思えば下積み時代を乗り越える必要があるということである。また、事故やつらさに負けてリタイヤせざるを得なくなった後、専門職を目指していたゆえにほかの道を見つけづらい、というリスクもあるのだ。


 ところで、後遺症が残ってしまった女性であるが、別に美容師自体をやめたわけではないらしい。なんでも座ったままでできる“ウィッグをつけて髪を整える専門”のお店に勤めているという。ほかにも“セット専門”のお店などもあり、クラブ街などではそれでもお客がやってくるのだそうだ。
 一口に美容師といってもいろいろいるものである。

 ほかにも、髪の扱いに関するウンチクもいろいろ聞いたのであるが、それはまたの機会に述べることとする。





web拍手レス(昨日の日記をみたらしいヤシダ君が「想くんらしい」と言ってくれました。なんとなくあまり大きな反応を見せませんでしたがうれしかったデスよ?
 あとヤシダ君が僕から件の美容院に紹介されたことにしていてくれたので、今回2000円引きの特典がつきましたよ、ありがとー)

 今日はコメントなし。……そろそろ拍手画面変えなきゃなぁ。


2006年10月03日(火) 話が濃い個人経営者たち


 はっきり言うが、俺は商店街の個人経営の店は到底生き残れないと思っている。特に住宅地周辺は、地域のど真ん中に大きくそびえる安くて品揃えのよいスーパーに客を取られてしまうからだ。はっきり言って個人経営の店に客が回るには人口密度が足りないのである。
 都会に行くと、反対に個人経営というか、スーパーのような多種の品物をそろえる店よりも、中小規模の専門店が増えてくる。町全体がスーパーのようなものであるからだ。

【話が濃い個人経営者たち】

 それはさておき、ここ一週間うちの大学の側にある商店街では大売出しを行っている。そのおまけとして、くじ引き券を配り、俗に言う“ガラガラくじ”を引かせるイベントを行っている。
 その受付の応援に、我々モモサポの面々が交代で就いている。

 受付は基本的に2人1組なのだが、今日のパートナーはバイク屋の奥さんだった。この受付は午前の部だけで3時間半の長丁場になり、それなりの暇つぶし対策が必要なのだが、今回はその暇つぶし対策も無用の長物になった。
 その奥さんは中々話が上手い。

 たとえば、バイク屋さんはバイクを売るだけでは儲からない。バイクの利益はせいぜい一台につき1,2万円なのだそうだ。その代わり、車検や修理などのアフターサービスの手数料で何とか儲けを出すのである。
 また、改造車の修理は断り、暴走族などガラの悪いドライバーの客は近づかないようにしているらしい。値切り交渉などで非常に性質が悪く、接客に理不尽な苦労をするのだそうだ。
 その辺は、俺もデジカメ販売などで必ずといっていいほど値引き交渉をされ、ガラが悪いと無茶を言ってくる客もいたので、少しは共感できる話だった。

 また、バイク屋には「SUZUKI」や「HONDA」、「YAMAHA」の看板が出してある。それは直接メーカーと契約をしてバイクを卸してもらっているという意味なのである。
 パートナーの奥さん――キジさんのお店は「SUZUKI」と「HONDA」のみである。この場合「YAMAHA」などほかのメーカーのバイクは別のバイクショップから間接的に仕入れることになる。

 また、「商売というものは売れるものを売りたいだけ仕入れればいい」という思い込みがあるが、このバイク屋ではそれが通用しないのだそうだ。売れようが売れまいが、契約で決めた台数がメーカーから納められ、売れなくても返品は利かない、つまりその台数はノルマのようなものなのである。
 そして、各メーカーからは世話になっている販売店に時々慰安旅行が企画されるのであるが、成績がいい店と悪い店で待遇が違うという。たとえば、キジさんの場合、その企画で淡路島に招待されたのだが、成績のいい店は一泊二日になるらしい。
 真にゲンキンな対応である。

 店だけの話ではなく、商店街のいろいろな噂話や、従業員の話などさまざまなお話を聞かせていただいた。もともと、出版会に入り、記者になりたかったのはこういう話を聞くためだったりするので非常にありがたい。
 キジさんの立派なところは、「おしゃべりでも人の悪口を言わなければいい」という信念をしっかりと実践しているところだ。確かに人の陰口でも盛り上がれるが、どうにも会話の雰囲気が陰険になってしまうので、人によっては気持ちよく話せない。
 実際、受付を行っている間も次から次へと知り合いがやってきては、キジさんに声をかけていく。人当たりのよいキジさんは、近所づきあいもしっかりしているようだった。

 とにかく商店街に店を構える個人経営者たちは、基本的に昨日の話に出ていた“構築”タイプの人間が多く、若い頃から苦労をしている人もいるので、中身の濃い人生を送っていることが多い。
 先ほど、個人経営店はスーパーに勝てないと述べたが、個人としてはこういう店には生き残ってもらいたい。こういう店の人たちは気さくな人も多く、モモサポの一員として長くかかわってきた俺としては情も移ってしまっている。





web拍手レス(というか、スーパーだけ生き残るのは何かロマンが足りないじゃないか)

 本日はコメントなし。



2006年10月02日(月) 所与(being)と構築(doing)


 今期とっている授業はなかなか当たりのものが多く、事実そのものの授業をはじめ、人生において考えさせられる授業が多い。その一つが、『アメリカ文化研究』だ。わりと豪胆な性格の女性講師が担当するこの授業は、今のところアメリカの銃文化を学んでいるのだが、ところどころにその講師の人生哲学が交えられる。
 それは、割と極端な考え方なので、何でもかんでも賛成するというわけには行かないが、それでも「こう考えなさい」と強要するのではなく、「〜と思うんですよ私は」のように、自分の考えを主張して、全員に考えさせるやりかただ。

【所与(being)と構築(doing)】

 授業と関連して出たのが“所与”と“構築”の違いである。ここで、所与は「はじめから与えられた環境で満足、もしくは我慢して過ごすこと」、構築は「与えられたものでは満足せず、自分で快適に過ごせる状態に環境を作ること」を意味している。

 授業でこの話が出たのは、アメリカの銃文化に根付く事件として独立戦争を取り上げているからだった。日本は、一般市民が決起して政府を作ったという例はない。明治維新も、各幕府成立も上流の貴族階級、武士階級、あるいはそれに順ずる地位をすでに持っている者たちで行われたのだ。
 現在でも、いくら不満があっても、人は文句は言うが、それでも決起して政府を打倒しようと考えるものは少ない。日本人は典型的な“所与”タイプの人間なのである。

 世界的に“構築”タイプの人間は少ない。政治家でさえもである。“構築”したものには責任を持たなければならないからだ。だから「まだ我慢できるレベル」では人は動かない。極端に国が荒廃し、飢餓などで「もう耐えられないレベル」になれば、人は動かざるを得ないのだが。

 俺は“所与”タイプの人間だ。いろいろ活動的に動いてはいるが、それでも自分で作ったものはまだ何もない。小説を書くことが“構築”に当たるかどうかだが、小説は環境ではないし、一本書き上げても自分の状況が劇的に変化するわけでもないので、これはこの場合の“構築”には入れられない。
 だが、身近な例で言えば俺の所属する出版会やモモサポを作った人たちは間違いなく“構築”タイプだろう。
 遠い昔の出版会の創始者はともかく、2,3歳上の先輩たちであるモモサポを作り上げた人たちがどれほど酒の席でバカをやっても、輝いて見えるのは“構築”タイプだからかもしれない。

 だが、“所与”タイプで悪いことは何もない。何も動かなくても満足できることは幸せなことだ。その環境で自分が磨けるかはともかくとして。しかし、“所与”タイプとして肝に銘じておかなければならないのは、「自分が今暮らしている環境は誰かが作り上げたものだということ」だ。
 たとえば、料理などではお金の代わりに得られたものに関してはクレームをつける権利がある。店としても受け止め方はどうあれ、クレームは店の質を上げる機会になる。ただ、家や友達などに無償で出された料理は黙って食べるべきだ。「文句を言うのなら自分で作れ」という話なのだから。
 文句を言うならば面と向かって、できるだけトゲのたたない言い方、つまりあくまで「建設的な意見」という形にするべきだ。後で他人に陰口をたたくのは最低の行為だと、俺は考えている。





web拍手レス(銃文化についての話は、講義が一段落した際に述べてみようかと思います)

 今日の拍手コメントはなし。


2006年10月01日(日) 安心して愛を与えられる癒し


 昨日は特に理由もなく日記を書くのをすっぽかしてしまった。一応、商店街でガラガラくじの受付をやったことなど、書くことはあったのだが。

【ケータイを買い換える】

 振り返れば、三日前までは10月の11日まで休みがない、と嘆いていたが、不意にバイト先から連絡が入ってきて、この日曜日に入っていた仕事はなくなってしまった。土曜日は予定通りでかけることになったが、今日はフリーになったわけだ。

 次のケータイはソフトバンクの304Tにした。ほとんど機能を使わないので、できるだけシンプルなものがいいとは思っていたのだが、ボタンが押しやすそうなこれをみて気に入った。よく考えてみれば、これはお年寄りとかにお勧めのモデルなのかもしれない。
 とりあえず、ケータイからヤフーのフリーメールも見られるらしいので、ヤフーのコンテンツとうまく連動して使えば、前より役に立つツールにはなるだろう。


【鼻かぜを引く】

 今朝から鼻水が止まらない。
 普通に鼻水が詰まるならまだ始末もよかったのだが、あいにく粘度が低く、しまりの悪い蛇口のようにだらだらと流れ出してくる。

 最近寒かったので、薄い羽毛布団とタオルケットでは足りなかったのだろう。こうやって体調が悪くなると、普段の健康体のありがたさがよくわかる。


【法が許しても、人として許すな】

 母が“愛玩動物飼育師”の資格を持っており、妹が“獣看護士”として動物病院で働き、犬一匹猫二匹を飼っているうちは自他共に認める動物好き一家である。

 その我が家で最近話題になっているのが、「広島ドッグパーク」の悲劇だ。こちらは「犬と散歩ができる」「犬と遊べる」とうたって客を集めていたテーマパークである「広島ドッグパーク」。ところが、この陳腐な計画を見てもわかるように、1年以上前につぶれてしまった。
 そして、ドッグパークのオーナーは逃げ、残されたのはいまだにオーナーが所有している土地と580頭の動物たちである。ホームページでも立ち入り調査したときの写真が公開されているが、本当に目に余る酷さだ。
 メディアでも大々的にこの惨状を訴えてほしいと思うのだが、このあまりの地獄絵図の状態は、とてもお茶の間では放映できないだろう。

 骨と皮だけの犬は当たり前、小さすぎる(足を曲げなければ入れない)犬舎に押し込められ、皮膚病は蔓延、衛生状態も当然のように悪く、糞尿どころか、すでに命尽き果てた犬の遺体が腐敗して液状になって広がっていたという状態らしい。
 ホームページでは、その地獄に充満する臭いを「目が痛い」と表現していた。すでにアンモニアをたっぷりと含有した刺激臭だったというのである。


 俺には容易に想像がつく。
 円(つぶ)らな瞳で見つめて、レスキューに入ったボランティアの人たちにただ必死ですがり、人間に擦り寄っていく姿が。
 そして、助けてもらえたとき、骨と皮だけの身体で健気に尻尾を振り、喜びを表現する姿が。

 これほどひどい仕打ちを受けても、犬たちは人を恨まない。
 仕返しをしようと思わない。
 ただ、一途に愛されるためだけに生きているからだ。

 注いだ愛を裏切らない。
 素直に喜んで、それを身体いっぱいに表現してくれる。

 だからこそ、人は愛玩犬に安心して愛を与えることができる。
 愛玩犬が人に癒しを感じさせるのはそのためだ。



 元来、飼い主と犬との関係はかなり一方的なものだ。だから、飼い主が犬を見捨てれば犬には何も残らない。
 所詮は動物で、どうせ裏切っても恨まれることはない。そう思うから人は時々、そんな愛玩犬たちの健気な生き方を踏みにじる。

 しかも、法律はこれほど惨い心をもった人間に刑罰を与える法律が存在しない。一応、あるにはあるが、地域からの訴えが来ても、保健所からは警告と指導しか与えられないし、訴えても悪くて罰金が課せられるだけなのである。

 だが、法律で罰することはできなくても、人として許せない。
 もし法律が許さなくても、同じように小さな小屋に押し込め、餌を与えずに何十日も放置させてやりたい。糞尿を垂れ流そうが、皮膚病に苦しもうが、徹底的に無視して、同じ苦しみを味わらせてやらなければ、こんな非道な人間は分からないだろう。


 愛玩犬は、一人で生きる力を剥奪された生き物だ。意思はあるが、主体性は皆無。要するに、生きる力としては赤ん坊とそれほど変わらないのだ。飼い主に見捨てられた時点で、犬はすでに幸福になる可能性を失い、生きる道も失ってしまう。
 だからこそ、見捨てることは許されない。後戻りはできない。

 これから動物を飼うことを考えるには、それくらいの覚悟と決意を持って飼って欲しい。





web拍手レス(拍手レスをまともにするのは何日振りでしょうか?)

>「リンク貼りなおしました。もしコメントなど不具合あれば突っ込んでください〜。」

 確認しました。完璧です。
 「ミステリもあり」なんて書いてあると、「呪縛の蝋」はミステリなんだなぁ、と自分で再発見した気分ですね。というか、「ミステリと認めてくれてるんだ!」という感動も大きいですよ(笑)。何はともあれ、あの作品をお勧めっぽく扱っていただいてありがとうございますー。


>「それにしてもプロットの日記は耳に痛かったです……(プロットと同じ展開が書けたためしがない人)」

 それでも更新スピードほとんど落ちないからいいじゃないですか!(今回もかなり早くに更新されてますし)
 ほかの作家さんは特に長編シリーズになると、キャラクターやストーリー、設定で膨大なメモを作っておられるものなのだとか。そういうメモがさっぱり残っていない自分って本当にプロ作家目指してる人なのでしょうか。ま、人それぞれなんでしょうけど。こういうのってやっぱり面倒くさがらないほうがいいんですよね。


>「更新お疲れ様です。楽しくよませてもらいます。」

 毎度ありがとうございますー。(←某常連さんからのコメントでした)
 とりあえず、一月ちょいかかった更新ですが、次はもっと早く更新できるようにしたいと思います。
 楽しみに待ってて下さいねー!

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