なか杉こうの日記
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2005年11月27日(日) 性格

わたしは
一人でいるときが
いちばん、楽である
そりゃ、ずうっと一人ならば
おかしくもなろうが
すくなくとも
人といると疲れる
神経ががくがくになる
それを元に戻すには
そうとうのぼんやりタイムが必要である
最近までひとりだとさびしいとか
生きにくい、とかばかり
思っていたが
少なくともひとりならば
自己責任、というやつで
なんでもできる、動ける、と
発想の転換をした
ぼんやり、電車の窓から外を眺めて
あちこちの街角や商店や
学校帰りの子ども達を眺めて
ああかな、こうかな、と考えたり
想いだしたことをなぜ、と
ひとめぐり思いを馳せたり
こんな時間がいちばん
自分に似合っている
人といると
自分勝手なことばかり話してしまう
ぼうんやり。
これがないとどうもだめだ
世の中には人と交わることが好きという人もいるが
わたしはひとりで
ああかな、こうかなと
思いをめぐらし
わらったり、納得したりがすきなのである
これは性格で
どうしようもない


2005年11月19日(土) こんどはMOS試験のワードです。それにしても・・・。

パソコン教室で今日からMicrosoft のMOS試験のワード・スペシャリストのテキストを始めた。エクセルのときより、よく進む、というのも職場ではエクセルをほとんど使っていないからである。

それにしてもマイクロソフト社というのはすごい。こうした世界的な試験をやって、この試験と言うのが毎年か隔年ぐらいで範囲が更新する。つまりエクセル2003がしばらくしてエクセル2004になるし、(Office200なんとかというのかな、よくわからない。)テキストも変わるし、いや、それ以前にウインドウズのバージョンも、たとえばパソコン教室で使っているのはXPだけど、うちにあるのはまだ98である、ということはうちのPCもXPに変えないかぎりうちでMOUSの勉強ができないということである。付録のCDRomが使えないので・・・。

ということで、この世界的なマイクロソフト社のMOS試験に受かるには何らかの形でXPを使える環境になければだめだし、使ってみるとXPには98よりも便利な機能があるようなので、自分でもほしいな、と思う→ということで、近い将来買うことになるであろう。

ということで、MOS試験の勉強をするたびに、ビル・ゲイツというのは巨万の富どころか巨超、いや巨京(けい)の富を儲けているのだな、すごい天才だものな仕方がない・・・と思うのである。

しかしながらいくら儲けているとはいえ、これほどの教育的効果を人類にもたらしているのである。つまり、私のようなパソコン文字(HTMLというのかな、それともHTMLというのはホームページのみに使うもののことかな)にはどしろうとな者でも、かわいいアイコンをクリックして、なんとなーく感覚的に覚えられることができる、というのは、革命的なことである。だからえらいなと思う。

というわけで、こんどはMOSのワードのスペシャリストを目指している。ワードはこれまでずいぶんやったけど、MOSのテキストは初心者向けではなく、ある程度やった人向けである。「あーそうかー」とポイント的なことがすごくよくわかるのである。来年二月にむけて頑張ろう。


2005年11月18日(金) 日々の雑用

毎日が雑用ばかりで「これ」というものができないでいる。うちに帰り着くと疲れてしまって夕食のあと、そのまま貼りついたようにテレビを見ている。

本も昼にぶらりと立ち寄った本屋でいいものがあるとふっと買って、それがたまっている。

寝る前のせめて30分はラジオを聞いたり本を静かに読む時間にあてたいと思うが、その30分も取れない、というか、疲れてだらだらしてしまう。

それで寝るのが11時半とか12時過ぎ。起きるのが5時半だから「これで体が持つかいな」と思う。若い頃ならいいけれど。せめて帰宅を7時半にしたいなと思う。以前は寝るのが10時半ぐらいで、しかもずいぶんいろんなことをする時間があった。今は翌日のヘルパーさんへのメモとか、家族の薬の準備とか、こまごましたことをやっているうちにあっという間に11時だ。

ひとりの静かな時間というのがもてない。かと言って日曜は日曜でクイックマッサージにでかけたりしている。


2005年11月17日(木) いろいろ

わたしは時々ずいぶん恥ずかしい思いをすることがある。それはじぶんが人の思いやりに対して鈍感でいたことを思い出すからである。

人が善意で思い遣りのきもちで言ってくれたこと、それに気づかずその人が本意からそう言ったものと思い、それをからかったりしたときである。そしてその人は自分の思いやりが通じず、黙って下を向いてしまったというような。

きわめて、鈍感。だから職場でうまく行かないのである。

* * *

最近職場で人事に関する外国の資料を読んでいるがなかなかわからない。今日読んだものなんてちんぷんかんぷん。もしフリーで翻訳をしていて、こんな資料を訳せなんて渡されたら大変である。そもそも、依頼する側は社内で簡単に訳せないものあるいは、難しくてわかりかねるものを外注するのだから。フリーなんてぜったいできないや、と思った。


2005年11月16日(水) 皇室のかたがたについての一見解

つくづく皇室のメンバーの方々は「仕事」をされているのだなと改めて思った。
美智子妃にある記者が、清子さまを育てるときに将来民間に出ても困らないように育てられたのですかと聞いたら、いいえ、そんなことは全然ありません、むしろずうっとこののままいてくれても、これまでも多くの公務をこなしてくれましたから、ずうっといてくれてもいいのです、と答えたと言う。

もちろんこの言葉の中には母親としていつまても娘にいてほしいという思いもあったろうが、この言葉から改めて、今の皇室の方々は「仕事」を懸命にされているのだな、という感を新たにした。

生涯の仕事である。それはかなりの重責である。たとえば、
1.マスコミほか国民のすべてに言動、姿、行動が知られること。
2.千年以上もの歴史、格式を背負っていること。
3.常にうつくしい、清らかで穏やかなイメージを与えていること。
4.日本を代表して堂々とまたエレガントに他国の代表者と話すこと。
これを皇居の中にいて見えない部分があるにせよ、「お仕事」をしているときは、常にこのような態度でいなくてはならない。

今日テレビ番組の中で、皇居の新年のお祝いの会に招かれたと言う記者が「意外と質素なものなんですよ」と言ったら、周りの人が「えー、そうなんですか、もっとゴージャスだと思っていた」と述べていたが、そんなこと思う人は今あまり無いのではないかと思う。

上記の1-4に加えて、今皇室は国民から常に「ぜいたくをしていないか、税金を使いすぎていないか」という目で見られる。昔は皇室は上の上、神のような存在であったから、違って当然だったけど、今は「いったいあの人たちはどのように暮らしているのか」という、興味しんしんの目で見られる。

美智子妃が皇后になられてから、皇室はずうっと身近になった。人間的で、苦しんだり、悲しんだりがわりとよくわかる。そして、人々と同じ立場に立とうとしているのがよく、わかる。声を大にして「わたしたちはあなたたちと同じです」とでも言おうとしているようにも感じられる。

同じではあるけれども、そこは皇室、千年以上の歴史を背負っている。そして上記の仕事を持つ。非常に大変である。国民の目にさらされながら、「懸命に」支えあっているご家族の姿がよく感じられるような気がする。

わたしはたまたま偶然であるが仕事で紀子さまとお話したことがある。といっても皇室に嫁がれる前のことである。一緒に食事をした。そのあと、その食事の場所となった某会館のあちこちを「散策」して回った・・・。やはりその頃から「世界が別」な雰囲気を感じさせる、しかし、ちっともかけ離れた感じではなく、わたしのような人見知りでも、「ねえ、どうですか」なんてちょっと冗談でもいいたくなるようないい方であった。ちなみにわたしが「有名人」と会って話したことがあるのは後にも先にもこれ一回きりである。

わたしは仕事上、外務省とか都庁とかの人と話したり行ったりすることがよくある。そんな上のレベルの人ではないが。皇室のおふたりの伴侶がこの省庁の出身であることから、なんとなく皇室も公務員に似た「お仕事」である、という感がとても強い。え?ひょっとして公務員かな、ほんとに。

しかし、その反面、皇室をとりまく人々の中には未だに「血筋」やら家柄やらを重んじる人々がいることも確かである。この類の方にも仕事上、出会ったことがある。正直「おったまげた」・・・。皇族または旧華族というのかしら、それらの方々は一般庶民とは別なのである、それなりの格式をもって失礼の無いように・・・というのはわかるが、その感覚はとても時代錯誤的なものであると感じた。そんな人々が皇族、外国高官、財界のトップなどなどのあいだに「なごやかな」サークルをつくっている。

それはいっけん、なごやかなフレンドリーなものに見えるが、排他的で、明らかに自分達は特権クラスである、と生まれながらに思っている・・・という人も存在することをじかに見て、知った。

さきほど述べた紀子さまは、そんな感じはまったくない、きわめて上品ながら気さくな方であった。だからわたしは皇室の方々はよい方なのではないかと、思う。ただ、その周辺の親戚やら、その取りまきやらがどうしようもないold-fashionedな感覚を未だに持ち合わせていらっしゃるのではないか、それに皇室の方は苦しめられているのではないか、と思う。


2005年11月13日(日) 追記・「わかる」詩

<追記>
詩人の名は池井昌樹さん。「晴夜」で歴程賞受賞と昨日の読売夕刊に書いてある。
図書館には本はなかった。Amazonで検索して詩集を注文した。「わかる」詩だといいな。


* * *

詩には「わかる」詩と「わからない」詩がある。わかるイコール好きな詩である。書いてある意味はわかっても心に通じないばあい、それはわからない詩である。

新聞に載っている詩は「わからない」範疇のなかでも、意味もわからない詩がよくある。これはお手上げである。自分の能力がない、と思うしかない。

昨日の読売夕刊に載っていた詩は、わかった。そしてとても好きな詩である。1953年生まれの詩人でなんという名であったか今、新聞が手元にないのでわからない。図書館で彼の本を探してみようとおもう

はてさて何を(日々の詩)

こう・ストーリーズ


2005年11月09日(水) 本を買った。「外国人部下と仕事をするためのビジネス英語」

仕事の帰りに本屋で「外国人部下と仕事をするためのビジネス英語」という新刊本を見かけた。立ち読みしたら面白くてまるで自分の困ったシチュエーションが描かれているようで、冷や汗が出てきた。で、買ってしまった。

わたしはべつに外国人の部下がいるわけでもないし、その可能性はまずない、しかし今日、若い職員というのはまさに昔の「部下」とは異なる。高齢化が進み大量の退職者が出る。高齢の職員の活用、女子職員の活用を考える必要が出てくる。

今までのように、四十代、三十代のちゃきちゃきの中堅層男性をいちばんの働き手と考えるやり方は通用しないのである。人が足りないということは、高齢の者、女性、障害を持つ者(精神障害も含まれるかもしれない)をうまく活用していかなくてはならないということだ。つまり、diversity(多様性)があるという前提で仕事をせざるを得ない状況にますますなっていく。

それは文化の異なる「外国人」と共に仕事をするのにとてもよく似ている。外国人と言っても、中国人、韓国人、南米の人、アメリカ人・・・・では考え方も異なる。考えてみるに、それは現代の若者とつきあうのとよく似ている。まるで宇宙人にも見える若い人たちをいかにうまく活用するか。

この本はなにかヒントを得させてくれるような気がする。


2005年11月06日(日) Life as a public employee

職場では異動でまた人が減ったのでますます忙しくなった。企業のようにそんな九時十時まで残るということはないけど、時間内ではフルに働いている。頭をフルに回転している。

むかしの公務員のイメージ、たとえば黒澤明の映画「生きる」に出てきたような、はんこを毎日ぺたぺた押してぱたぱた扇子で扇いで・・・という役人のイメージと今は大違いである。

今日読んでいた本の中に、昔のアメリカ大統領カーター氏がその演説のなかで、人からMr. President, you are not leading the Nation -- you're just managing the Government. (あなたは人々をリードするのでなく単に管理しているだけだ)と言われたと述べたという。

考えるに、自分はleadはおろか、manageも、へいこら言いながらやっとのことでやっている具合である。しかし約五年近くこのポジションに居て、ようやく調整というのがどういうものかが体でつかめてきたような気がする。

いちばん大事なときに、ぐうっと突っ込んで物事を行わないと、あとあといつまでもめんどうなことが続くのである。そのタイミングというのがようやっとわかりかけてきたような気がする。

そこから人をleadするなんて度量も力量も自分にはない。ます゜第一に未だに「人が恐い」というのがあるのだ・・・。今の中学生じゃあるまいし。

職場のようにフル稼働をうちでもやったら、ずいぶんと仕事が片付くと思うが、うちではのらくらのらくら、なかなか日常のことが片付かないでいる。


2005年11月05日(土) さとうさん。

さいしょは
犬がしんだ、と
さとうさんは言った
いちょうの葉の散る道を
犬を連れて散歩に行くのよ
その年老いた犬がなくなり。

それから
お母さんが老人施設に入った
お父さん呼んで来て
うちに帰りたいと
いつもいつも言っていたという

それから
わたしが
研修で二週間ばかり
職場に出なかったとき
突如連絡があって
お父さんがなくなったという
病気だった

それで
さとうさんは
ひとりになった
姉妹はいるが
仲たがいしている

さとうさんは
犬と
お父さんと
お母さんのいた家に
ひとりで住んでいる

こないだ
インターネットの
使い方教えてというから
土曜の午後に行こうと思って
急に都合が悪くなってやめた

さいしょは
犬がなくなった
それは
きっと
きいろい犬だ
それなもんで
散歩をする口実がなくなったと
ぽつりと言っていたさとうさん

今は
お母さんもお父さんも消えた家で
ひとりで住んでいる
こほんこほんと
ときどき
咳などしているのだろうか


2005年11月03日(木) 立ちすくむ。

ほんとにヒトがヒトでなく、することがゲームのようになっているので気味が悪い。最近の多々の事件である・・・。

過去に幾多となくあった事件や映画での残虐な事件とは異なる、なんというのかヒトが加害者がロボットのようになっている。自らがどうなるかもあまり意識できていない。

昨年だったか、小学六年の女の子が仲のいい友だちにネットでなにか仲たがいして、音楽室で後ろからナイフで殺害した事件。消防の女性隊員がフリン相手の男性をネットで殺害を依頼し、しかもその後代金を支払ったのに実行しない、と警察に訴えた事件。そして昨日だったか、母親を毒殺しようとした化学知識のある女子高校生。

使うのは、インターネット、化学・・・となにか「無機質」なものがからんでいる。オウムもそうだった。無機質なものを信仰し、それにニンゲン的なものを無理に与えようとする。

人の抱く憎しみとか残虐性とか嫉妬とか落胆とか、そんなものはわたしはある程度は理解できるような気がする。そしてそれが理解できる自分を恐ろしいと思う。人が恐ろしいのではなくて自分が恐ろしい、だから一歩手前のところで踏みとどまっている・・・というところもある。

しかしながら、ここ十年ぐらいの、こういった「無機質」な事件は、わたしは自分の中にいくら捜そうとしても捜せないのだ。だから、気味が悪い。カオナシの恐怖である。こうした無機質の感覚は、生まれ育った中で次第にできていくものなのかもしれない。

ヒトが、「愛情」のない、つまり他の人とくっついたり離れたり、好きになったり悔しがったりのきわめて人間的な関係が、希薄だった環境に置かれると、こんなふうになるのかもしれない・・・と思ったりもする。人間というのはこれほどまでに可塑性を持ったものなのか、とも思う。つまりロボットにもなれるのだ。

自分のブログに名前のない、気味の悪い書き込みやトラックバックをされるときとこの感覚は似ている。心理学はこの最近の事件の人間の心理をどう扱うのだろうか。もし、自分の前にそのような人間が現れた場合、自分はその心理を理解できるだろうか。理解できないものをも、受け止められるだろうか。ただ、恐ろしい、と立ちすくんでいるしかないのだろうか。


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