なか杉こうの日記
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2005年05月28日(土) パソコン教室

今日はパソコン教室でビジネス文書の作成をやった。
データがあり、それを基にしてエクセルで表やグラフを作り、ワード文書と組み合わせて資料を作る。

インストラクターの女性にわからないところは聞きながらの作成だが、ともかく、できた。これを自分で作ったとは信じられない・・・。こんなふうに職場の資料も作れたらいいな。


2005年05月27日(金) 本屋をぶらつく。

今日は金曜日なので帰り本屋に寄ってぶらぶら見ていた。OAZOの丸善はずらりといろんな本がそろっているので、立ち読みほどでもなく、ちら見だけでも楽しい。気分転換になる。

「詩学」という雑誌にH賞を受賞されたたしか山本さんという女性の詩が紹介されていた。とてもわかりやすい。ふつう受賞した詩というのは大体において、いかにも詩ですという感じで、難しいと思ってしまうが、この方の詩は日常のことが日常のことばで語られていて、私にもよくわかる。それでじっくりと書いていて、日常とりのがしがちな感覚をすっと捉えていて。

それから洋書の所へ行った。洋書ばかり並んでいるところは、わたしはほんとうに好きである。なぜかというに、表紙がものすごく魅力的だからだ。日本の本よりも洋書の表紙は「いったい何が書いてあるんだろ」と思わせる。

以前洋書を頑張って読んでいた頃もあったが、しばらく読んでいないので、手に取っても「これが一冊読めるかな」と思ってしまい、結局買わなかった。The Seaという本の内容がなんとなく詩的でいいと思ったが、単語がいろいろ難しそうである。アガサクリスティのシリーズが一巻からずらり並んでいた。クリスティの英語はそんなに難しくはないし、イギリスが舞台なので風物がクラシックで好きだ。

しかし、1ページ目を開いて、英語がなんとなく、固そうな感じがした。さっきのThe Seaは詩的な単語が並んでいたが、こちらは実務的そうな感じ。英語を「勉強する」気ならクリスティもいいかもしれないけど、今の自分にはちょっと・・・と思ってやめてしまった。

ということで、買ったのは深町真理子さんの「翻訳者の仕事部屋」と本間祐さんという方の「超短編アンソロジー」である。両方とも筑摩書房。

こんな風に本屋をぶらついたことで、仕事のうさがだいぶ晴れた。よかった。




2005年05月26日(木) ほんとの、日記

この年になると
じぶんは今
どこに立っているのだろう、
足元を見よう
と常に
立ち返るようにしよう、と思う
考えるにじぶんはいつも
ふわふわと
将来を見たり
・・・だったらと思ったりするばかりで。
じぶんはどこに立っているのか
足場はなにか
何が確実なのか
何が不確定なのか
それをはっきりさせたい
「目を覚ませ!」という訳だ。

もうひとつ、ここ数年間
生きる上での指標が失われたと感じている
それまでは
指標があって
それはヒューマニティとでもいうべきもので
それに従って
読む本も選んでいたし
生きる上でのポリシーもできていた
ところがだんだんとそれが消えてしまい
気がつくとじぶんに
ヒューマニティが欠如しているのに気がつく
読む本もごく限られている
関心もない

それがいいことなのか
悪いことなのか
わからない

これはどちらかというと
じぶんがじぶんに言い聞かせているのである
ほんとの、日記である。


2005年05月25日(水) カイシャって

今朝は東海道線と横須賀線が両方とも横浜駅の信号機故障とやらの原因で「運転見合わせ」。止まったということである。この両線の通勤客すべてが代替路線で都心に向かったのである。何万人か何十万人か知らないが。京浜東北線も京浜急行もすごいラッシュ。

押しつぶされそうになるのをどうやら自分の体の皮一枚で保っているという感覚だった。あれ以上押されたら「つぶされるー」と叫ぼうかと思っていた。この年でラッシュはきびしい。

ふと気づくと回りは背広姿の男性ばかり。よく見るとピシッとしたいい背広である。ちゃんとした(?)ビジネスマンなのだろうと思って変なところに感心していた。

しっかし若い女性はおしなべてヒールの細いサンダル履きが多い。ひがみでいうわけではないが、災害があったらどうするのだろう。救助隊員はあれで歩行不能になった者でも助けなくてはならないのだろうが、少しでも彼らを楽にするために、もう少ししっかりした靴を履いたらどうなのだろう。夢のない話ではありますが。

考えてみると私は「企業」に勤めたことはない。企業づとめの人と友だちになったこともない、から、「カイシャ」とは何をするところなのか、全く知らない。子供が「パパはカイシャで何やってるの」とたずねる、あの感覚である。ホントにカイシャってなにしてるんだろ。

今日も昼食時外を歩いていたら公園で会社員がたむろしていた。たばこ投げ捨ての条例があるから、飲み物を飲んでいたり、携帯を見ていたりしている。「彼らはなにを考えているのか」と一瞬不思議に思った。

会社員と飲んで話でもしてみたいものだ、と思った。どんな話をするのだろう。テレビドラマなどではよく見るけれど。


2005年05月23日(月) 本の感想

今読んでいるのは岩波新書の小関智弘著「働きながら書く人の文章教室」この方は高校を卒業後、工場で働きながら読書会を何十年も続け、小説を書いてきた。その軌跡が書かれている。

いわゆる、昔風の、下町の旋盤工として働きながら仲間とともに文学について語り、書きつづけるという、オーソドックスな文学青年風の生き方であるが、それがとても心地よい。

小関さんは芥川賞、直木賞の候補にもなったというから、とても有名な方なのだろう、私が知らないだけなのだろう。

この本の中には、いくつも線を引いておきたい個所がある。長く続く同人誌には必ず「下足番」のような編集者がいる。地味だけれど、参加したい人にはすっと下駄をそろえてくれる、決して「これがいい」と主義を主張することなく、誰でもが参加できる、いやならばやめることができる、そういう雰囲気を作ってくれる・・・というところ。

小関さんは実際に工場に勤め始めた頃、そこに働く人々は決して気負った「労働者諸君!」などと呼ばれるような人々ではなく、ごくあたりまえの、普通の人々だったことに気づいた。そうした普通の人々のことを書きたい、と思ったという。


小関さんが70歳になるまで続いた読書会。そこで読んだ本。数々のメモ。彼は仕事を始めるまで、頭が小説モードで、それでも実際に鉄に向かうと、次第に仕事モードになっていった。仕事といっても営業や教員ならばこうは行かなかっただろう、という。相手が鉄だから、仕事の傍ら小説の筋書きを考えることができた。

彼は仕事をしながら頭の中で表現を考え、それを暗記した。原稿用紙一枚分ぐらいは書く予定の内容を暗記するぐらいまで頭のなかで練ったらしい。それを土曜日に原稿用紙に実際書いてみると、ちっとも面白くない。全くだめだ、と思う。そこまでが「捨て」の作業で、日曜にまったく新しいところから書き直す。

本当に楽しそうである。こんな風に読書会をして、人と交流し、自分はさらっと呼んだ本を人はもっと深く読んでいることに感銘を受け・・・という風にやっていけば、とても楽しいしエキサイティングだと思う。


2005年05月22日(日) 東海道と横須賀線。

このごろ、東海道線に乗って帰っている。本来ならば横須賀線なのであるが
横須賀線は総武快速と言いまして成田やら房総やらの方から来る電車ばかりに
なりましたので、以前のように東京駅始発がほとんどなくなった。一時間に一本あればいい方。ということは座れない、ということである。

いい方法を思いついた。(いや、皆そうしているのかもしれないが。)東海道線は東京駅始発だから、東海道に乗って途中で横須賀線に乗り換えればいいのである。乗換駅あたりではもう横須賀線は座れるぐらいにすいている。

という訳でほぼ毎日、東海道線のホームで列に並んで始発を待っている。長い列ができていても、反対側のホームに次の列車がすぐ来るのでそこに並べばいい。

並んで座席に座る。横須賀線の座席よりもふわっとしてお尻にフィットする。そこで本を広げたりウォークマンを聞いたりしていると、すぐに眠くなるのである。それですうっと寝てしまって気づくと川崎または横浜あたりになっている。あぁ、あたしは寝たんだ、と思う。

それが非常に気持ちがいいのである。横須賀線では全く眠れない。ところが東海道に乗ると、いつのまにやら、必ずうつらうつらして、すうっと寝入っている。これはなぜか、と考えるとすぐわかる。

横須賀線ははっきり言って乗り心地が悪いのである。1980年以前はこの両線は同じ線路を走っていた。この年に路線が分かれて、私は東海道の「とばっちり」を受けて横須賀線が遅れることがなくなった、とばんざい、と思ったのである。

この横須賀線は高架が多い。高架線だとゴォッという音がいつもする。それと、車体がアルミだと思うが、とても軽い。車両がまるで宇宙船のようである。乗ると常に細かい振動、細動のような小さな揺れがいつも、ある。横揺れである。お尻のあたりがいつもふわふわしているような、いつも細かくゆれているような感じがする。さらに時々、がくがくっと体全体が揺れることが多い。駅に差し掛かったときはそうである。

というのは、東海道に乗りつづけて初めてわかったことである。東海道線は大体地面を走っている。モノレールのような高架はない、というか少ないと思う。振動はないわけではないが、それはずっと安定しているような響きだ。リズムがある、というか。昔なつかしの「だったーん、どっとーん」というリズムのような。

揺れも急にがくがくっとなったり細動のような無気味な揺れではなく、なんというのかな、マイルドな感じ。その揺れに身をまかせていると、次第に眠くなり、寝てしまう、という具合だ。

そういえば、私が中高生の頃は横須賀線はまだ地べたを走るところがほとんどだったから、よく寝たような気がする。今は全くだめである。

百寮萓犬乗ったのも今の東海道の路線であった。今の横須賀線ではちょっと詩情というのは浮かびそうもないような気がする。

鶴見のあたりの、昔煙突から臭い煙を吐きつづけていた工場地帯、あの辺ですらなつかしい。今は少し煙は出ているようだが、宇宙船のような横須賀線は全く知らん振りして通り過ぎる。そんな列車だから周囲に注意を払うこともなくなった。

東海道に乗ると、地べたを走るものだから、なんとなくうれしくて、窓から景色をじろじろ眺めたりする。公園とか。密集した町並みとか。JRは乗り心地というのを一体考えているのかな。


2005年05月21日(土) 本屋で。

きのう本屋で山田詠美さんのサイン会をしていた。ライトに照らされたなかで机にすわり、一生懸命にサインしていた。まわりは背広をつけた人がぐるり。あれは書店の警備担当なのだろうか。わたしはエスカレーターで降りていっただけだが、この方はほんとに化粧も派手である。
しかしながらこの人の「和風」の本は好きである。一時期とても好きなことがあった。洋風の、外人が出てくるやつは、よく、わからない。この方が日本を舞台として書く小説は、なんというか、夏目漱石系列の、真の小説のような感じで、とても好きだ。蝶々の纏足、放課後のキーノート、ぼくは勉強ができない、などなど、とてもまじめなのである。自分とはなにかというようなことをつきつめて考えている。
蝶々の纏足でしたか、自分と仲のいい女の子がいて、その子はかわいいけど生意気な子で、いっつもじぶんにつきまとっていて、自分はその子は自分のことを好きでない、ほかの男の子が好きだと思っていたのだけど、実はその子がほんとにすきなのは自分だとわかる。(ふたりとも女の子です。)というような筋書きだったと思う。
筋書きはちょっと忘れてしまって残念。真の人間とはなにかみたいなものをつきつめて考えていてすきなのである。


2005年05月16日(月) お富さん。

「粋な黒塀見越しの松に・・・」で始まる「お富さん」は一体どういうストーリーなのだろう。あまりに俗っぽいメロディーで幼稚園ぐらいのときから有名な唄で。
 以前人に、この唄の筋書きについて聞いたことがある。きちんと聞けばよかったのだが、つまり、お富さんはどなたかのお妾さんで、松の覗く黒塀のうちに住んでいるらしい。

「しんだはずだよお富さん」と聞くたびに、小さい頃うちの近所に住んでいた、少し知恵遅れのトミさんと呼ばれていた、小さく太ったおばさんを思い出した。

しかしこの唄のお富さんは髪が長く、結構美人ではなかったのだろうか。この唄のストーリーを知りたく思っている。


2005年05月15日(日) なあんにも。

今日も英語を勉強しなくてはならないのだができるかなあと思う。
職場では英語を使う仕事のほかにもいろいろやぼ用があるので、
うちで英語はやらなくてはと思うのだがなかなかやらない。

わたしの現在の希望は英文、つまり実用的な英文をきちんと書けるようになることである。つい創作的に書くことが多いので冠詞や前置詞が適当だったりする。

あと、聞き取り。しゃべるよりまず聞き取れなければどうしようもないのである。

しかし百寮萓犬遼椶个り読んでいても英語はうまくならないのである。百寮萓犬呂んなじ話を幾度も幾度も書いているので、いいかげん覚えてしまった。栄町の大鐘が火事のときにぐあんぐあんと鳴り、真っ赤になったら町内の人は水をかけて冷やす義務があったという話とか。

しかし同じ話を幾度も聞いても百寮萓犬両豺腓呂舛辰箸盞でない。それは昔話を眠る前に「ああだったよ、こうだったよ」と聞くのに似ている。あたたかさとリズムと言うか・・・。

急に思い出したが数年前に高校の友人たちと会ったときに、そのうちの一人が小学校の副校長、つまり教頭先生になったのだそうだ。そっかーと改めて自分の年を振り返った訳である。彼女は大学を卒業してから産休の教員の臨時として入り、それから正式の教員になったのだと思う。

ちょっとカリスマ性があるというか、彼女のいるところなにか目立ったことが起きたことを覚えている。新宿を皆で歩いていたら松坂慶子の映画のロケ中だったりとか、旅行に皆で行けば必ずいい思いをした。まだ雪深い三月に、通れるか通れないかの道をバスでなんとか白川郷に行ったこととか。

高校の時は彼女は決して成績は良くなかった、と思う。むしろ遊び人の感じ・・・。正規に教員になってから中国から帰国した人の子供たちが学校に来ているのだけれど、教える気はない、と誘われたりした。今考えるとやればよかったかもしれない。

その彼女が教頭になったのよ、と友だちの一人から言われて、あー、私たちもそんな年齢か、と思った。「それでこうさんは?」とこちらに質問を向けられ、あ、あたしもいいところに昇任してなきゃいけんのかいな、とぎくりとした。監督職ではあるけれど、なーにんもそれらしいことはしていない。

石垣りんさんはそれなりに銀行を勤め上げたではないか。省みるに自分はさっぱりである。あまり反省もしていないけれど。さて今日こそ英語の勉強をしよう。


2005年05月14日(土) 散策の本

このごろ本屋に行くといろいろなウォーキングの本、近場を散策する本が出ている。わたしぐらいの年代の人が多いから、お金もそんなにないし、体力もないし、近場を探索しようという人が沢山いるのだと思う。

東京散策の本が出ているのはうれしい。いつか歩こうと思うからである。その割には私はあまり歩いていない。鎌倉もいつものおきまりの用事コースを歩くだけ。東京散策の本も買っては積んどくのみ。

目的地から目的地にまっしぐらで、その途中にあるものや抜け道や発見に関心が行かないのである。かといって目的指向な訳ではない。要するに自分の頭のなかの動きにフォローするのが精一杯で周囲に関心があまり及ばないのである。

この点、百寮萓犬隼ていなくもない、とずうずうしく思う。百寮萓犬發匹海土地に出かけていろいろ見物するよりも、自分のなかの心象風景を大切にしたように思われる。

あと百寮萓犬隼ている点は「外人嫌い」であることである。百寮萓犬魯疋ぅ銚譴龍擬であったが、用事で大使館に行くとわざわざ「通訳を呼んでください。しゃべれませんから」と言ったらしい。それに外国人と会話するのが苦手だったようである。

とくに外国人の女性が「江ノ島や日光」はいいですよ、と言って百寮萓犬まだ行ったことがない、というと、眉をひそめて気の毒そうな顔をしたという。百寮萓犬牢儻地が大嫌いなのである。

外人嫌い、というよりめんどくさがりやだったのだろう。


2005年05月12日(木) キッザニア

今度、メキシコにあるキッザニアという、子供のための社会的な(?)遊園地が日本にできるそうだ。
すなわち、それは大人の社会の縮図であり、郵便局、病院、消防署などなど町にある施設が子供の大きさで存在し、子供はそこで社会のしくみを学ぶことができるらしい。
そのメキシコのホームページを見るととても楽しそうだ。

おままごと、みたい。と思う。だけど、と思う。こんな小さなうちから社会の仕組みを学ばせる必要があるのだろうか。まあ、おままごと、と思えば、それにその遊園地に行くのは一年にせいぜい一回ぐらいだろうから、行ったとしても楽しかったぐらいで終わりだろう。

子供には子供の社会がある。子供の社会の周辺は「わからないこと」「ミステリー」で満ち満ちている。それは、むかし、地球が丸いと知らなかった人々が世界の果てには滝があってそこから船は奈落の底に落ちると信じていたのとよく似ている。

子供たちは「わからないこと」を自分たちの理屈で解釈し、想像し、不思議なところは不思議なままに残す。この「わからないこと」というのが、子供の感覚陶冶というのか、想像力をたくましくするというのか、とても大事なことだと思う。

大人の社会をそのまま子供に体験させることで、その想像力を失わせてしまうような気がしてならない。


2005年05月11日(水) ゆっくり

内田百僚言第14「蜻蛉玉」を読んだ。このぐらい百寮萓犬遼椶个り
読んでいると文体のやわらかさになれてしまい、他の本を読むと
単刀直入、直截すぎて、がさつな感じがする。
百寮萓犬諒犬呂罎辰り読めるし読んでいると心が広がっていくのを感ずる。
ものに対する執着というのかな。


2005年05月08日(日) 寅さん第13作を見る

昨夜は「男はつらいよ」第13作「寅次郎恋やつれ」を見ながらこっくりこっくりしていた。ということはあまり面白くなかったか。

寅さんの映画はすごく面白いときとあんまり・・・という時がある。ストーリーの展開の具合とか、なにかぴりりとした場面のあるなしとか、いろいろ原因はあると思うが、この作品の場合、マドンナの選択かなあ、と思ってしまった。

マドンナの歌子さん。吉永小百合が演じる。なんというのかなあ、演技が一本調子に見えて飽きてくるのである。そんな役柄を与えられたからなのか、あるいは小百合さんはもともとこんな風なのか。

大体においてマドンナが美女でシリアスな役目を演じるときは、マドンナ自体にあまり魅力を感じない。「またか」という感じ。

魅力的だと思ったのは、浅丘ルリ子、太地喜和子、木の実ナナ、大原麗子、田中裕子、夏木マリ、小林幸子ぐらいかなあ。でもまだこのシリーズの三分の二ぐらいしか見ていないので見ていない分はわからない。

今日ともかく懸案(この言葉は役所でよく使う。いやだなー)だった「ビジネス英語」の録音テープを聞かなくては。さっぱり聞いていないのである。


2005年05月06日(金) 映画の感想

さきほどテレビで映画「Shall We Dance?」を見た。もちろん日本版である。
今まで見たことがなかった。このタイプの映画にはもろ感動してしまう。
山田洋次の映画のソフトさは無いけれどとても好きである。

いちばんたいしたものだと思ったのは役者さんのうまさである。このぐらい当然なのかもしれないが。ずいぶんヤクシャをそろえたものだと思った。

役所広司のダンスを他人と踊る時の固さ、ぎこちなさは、少し演技が感じられるなとも思ったが、最後の方で奥さん(原日出子)と庭でステップを踏むところは、ほんとうに相手は自分の妻なのだから、しっかりと組んで信頼感があるところを演じていて、すごいなと思った。他人に触れるときと、妻(夫)とおずおずとダンスをしようとするときとの差を自然に演じていて泣かせる、と思った。

今封切られている英語版のShall We Danceはそんなに見たいとは思わない。


2005年05月05日(木)

連休が終わってしまった。明日出勤してまた土日休みではあるが。この、最後のひとときに至ってやっと疲れが抜けた。

四月終わりに仕事のストレスで夜ほとんど眠れない日が三日ぐらい続いた。そしたら喉が急に痛くなり、体がほてり、風邪のような症状になった。それで出勤はしたが午後半日休を取って母を病院に連れて行ったりして、翌日休みだったが友人と映画に行く約束をしていたので出かけた。もう退職した友だちで、こちらが聞く側になったから神経使って風邪の症状が進んでしまった。

それで連休に突入。家の階段を上るにもよっこらしょ。買い物にでかけても歩くのが重たい。汗ばんでくる。幸い姪っ子が昨日は来てくれたのでいろんな用を姪にやってもらって二階で寝ていた。風邪の症状はクスリで抑えていたというふう。

今晩になって、ようやっと「元に戻った」という感じになった。これほどまでに「ムダ」なことをしなければ治らなかったのだ。連休にしようと思っていたことはほぼできずじまい。元に戻るにも時間がかかるものだ。

さっきテレビの歌で「星空に自分の態度を映そう♪」なんて台詞があってすこし勇気が出た。


アメブロのブログは一昨日はおったまげるような来訪者があって、これはなんぞやと思ったらとたんに昨日はストーンと元の、いや元以下になってしまった。これが普通なのであるが。いったいどういう仕組みになっているのかさっぱりわからない。「はてさて何を」←わたしのブログです。


2005年05月04日(水) 夢の話

今朝珍しく夢を見た。試験の夢。よく試験の夢を見てうなされるなんて
話を聞くが自分はこんなことはまず、ない。
しかも昔は決して悪い点の取ったことのない日本史だった。卑弥呼の時代から
奈良時代、下って太閤秀吉の政策などなど日本史のあらゆる時代にわたる記述式である。わたしは教科書にこれらのことが書いてあったのは知っている。
 しかし自分はちゃんと読んでこなかった。・・・読みさえすれば書ける問題だ、と思うと口惜しくて仕方ない。
 しかも先生がなぜか今の上司である。クラスメートは同僚たちである。こいつらにわたしができなかったことがわかったらなんと思うだろう、あー恥ずかしい・・・と必死になって白い答案に向かっている、というところで父が「もう七時半だ」と呼ぶ声で目が醒めた。「ちょっと待ってよ、今、答案を書くところだから」と心の中で言って再び寝ようとして、夢だと気づいた。夢だから答案の続きを書く必要はないのである。
 あー恐かった・・・。


2005年05月03日(火) 怖い映画のはなし / こんな詩を書きたい・・・

 一昨日ものすごく怖い映画を見た。「コンスタンティン」 見るつもりはなかったのに予定していた映画の時間が合わなかったので友達と仕方なく入ったのである。ポスターは全然恐ろしくないのに、実はこれはエクソシスト級の映画である。ほぼ半分以上、めがねをずらして字幕のみ見えるようにしていた。気持ち悪いので。
 それにしても西洋のキリスト教思想はたいしたものである。日本でも仏教の極楽・地獄という考えはあるし。
 ただ感心したのは映像の美しさである。ほとんどきちんと見ていなかったが、たとえば地獄を歩くコンスタンティンやアンジェラの周りで火が燃え盛り身の毛もよだつような怪物たちがのたうちまわる。うつくしい女性アンジェラの周囲の黄色い地獄の世界・・・。これは中世のたとえばレンブラントの絵を見ているようである。あまりにも残虐そうなのでしっかりは見ていないが。
 映像を担当した人は誰だか知らないが、きっと違う映画ならもっと美しい映像を作る人なのだと思う。



 本屋に寄ってぱらぱらと詩の雑誌をめくる。どっか投稿できる本でもないかな、
と思っているのである。だけれど詩の本というのはまことに難しい。いくら読者の投稿頁があっても、その本に載っている詩すら何を言っているのかちんぷんかんぷんなのに、投稿なんて恐れ多くて・・・。

 私の好きな詩人といえば石垣りんさん、茨木のり子さんがまず浮かぶ。高橋順子さんも好きな詩はあるけど大概難しい・・・。中学高校時代には副読本でずいぶん詩を読まされたが、大体風景を単純に読んだ詩はわかった。最高にわからなかったのはシュールな詩である。

 一昔前に「ラ・メール」という女性の詩の本があった。えっと名前がちょっと思い浮かばないのだが、著名な女性詩人の方たち(今でも存命のはず。忘れたのが恥ずかしいくらいの有名な詩人)が主催していた。あの本の読者頁に投稿して佳作になったことが二回くらいあったな。でもあの本はもう廃刊している。

 詩の本って悪いけどどうにもならない「めるへんちっく」な本と、あと結構本格的な詩の雑誌とあるけど、その中間ってないように思うのですが。その他「人生ってこんなモノ」的な詩はあるけど、それって詩じゃないよね。

 そもそも自分は詩より文を書く方にがんばってきたのである。しかしこうしてネットで多少なりとも人様にお目にかけコメントを頂いて気がついたことは、文章に関してはあまり「よかった」という声を聞いた覚えがないのである。ごくごく少数の方からはそんなうれしい声を聞いたこともありますが。(感謝、です。)
 いや、むしろ批判・非難・「なにこれ」の声が胸に響いて残っています。

 ところが自分としては小学生の頃から「筆のすさび」といいますか、道を歩きつつ口笛を吹くぐらいのかるーい気持ちで書きなぐってきた詩めいたものを出すと、「わかるー」というようなコメントをもらうことが多いのである。これはほんとにびっくりでした。
 
 でも詩って大体むずかしい。人がいくら「いい」と言ってもわからない場合が多すぎるのは、ついついじぶんの勘の悪さ、感性の貧弱さを感じてしまいます。でも「わかんないものは、わかんない」これは詩の場合、いくら頑張ってもわかんないのはわかんないのです。

 昔ピンとこなかった西脇順三郎さんの詩が、今わかるようになっているとは、とても思えないです。

 そんなふうで、毎日生きながら思いついたことを書いていますが、でももうちょっとひねったような、稲光を捉えるような詩を書きたいものだなーとは思っているんです。


2005年05月02日(月) 今日は出勤。

ひどく熱が出て病院に行って薬をもらい、熱をおさえてどうにか今日は出勤。
ブログで読者になってくださる方がいらっしゃるのは本当に嬉しい。
だけれど意外とご自分のランキングを高めようとか自分の読者数を
伸ばそうとかそれが目的のように感じられるときもあるので
それはやだなーと思う。
きちんとしたコメントを一行でも書いてくれていると、「そうか、
読者になってくれるのだな、ありがたい」と思えるけど
宣伝目当てに読者になるのが見え見えだと、自分の利益に
なるためにそうしているのかと思うといやになる。
 


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