2016年11月29日(火) |
生き上手死に上手 遠藤 周作 |
タイトルで選んだ。 命には別状ない病で、毎日死にたいと思っている。 尊厳死ではなくて 安楽死を望んでいる。
今からでも生き上手に生きられるだろうか、そしてそれは死に上手に繋がってくれるだろうか。
死にべたと山や思わん夕時雨 一茶 いざさらば死にげいこせん花の雨 死に支度いたせいたせと桜かな またことし死に損じけり秋の暮れ
息を引きとる寸前、この地上から永遠に別れる瞬間、彼は病室の破れ障子から星々のきらめく空をみる、 そして 美しや障子の穴の天の川、とつぶやく。 この心境になれること、なれたことが「死に上手」と言うのであろう。 もちろん、この「死に上手」になるためには死に支度があり、死に稽古がなくてはならない。 だから「いざさらば死にげいこせん花の雨」という自分を励ます句も書きつけたにちがいないのだ。
そして しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり 蕪村
時々聞く死期が自分で分かるというのはこういう心境なのだろうか。
どうも「病は気から」という言葉は今まで考えていたように「心の持ちよう」と病気との関係ではなく、 人間の体内の気が円滑に流れない時に病気になることを指しているのだとわかってきた。
2016年11月17日(木) |
終わった人 内館 牧子 |
東大法学部を出てメガバンクに就職した主人公、田代壮介が四十七歳で出世街道から引き下ろされて子会社で定年退職を迎える日からこの物語は始まる。 サラリーマン生活を成仏出来なかった主人公は、行くところがなくなってジムや図書館などに通う普通のジジババにはなりたくなかった。 それでも私の周囲にいる定年退職を迎えた人たちと比べたときに、退職金はあるし、年金と企業年金のある暮らしは理想としか思えない。 年金だけでは足りないからたとえ少しでも足しになるよう、預貯金の食いつぶしを延ばそうとパートを始めた男性を何人も知っている。 降ってわいたようなジムで知り合った若い企業家から、銀行でのキャリアをかわれて顧問になったものの、思いもかけないアクシデントで挙句九千万円の負債を抱えて倒産してしまった。 ここから定年退職した夫婦にありがちな男と女の考えの相違もあって夫婦関係が少々こじれてくる。 最終的には 卒婚 という形におさまったけれど、私の周囲から見たらやはりこれは物語でしかない。 まぁ 面白かったけれど。
それでも63歳で定年退職した主人公が語る言葉に、専業主婦だから定年退職はないけれど妙に共感する部分があった。
先が短いという幸せは、どん底の人間をどれほど楽にしてくれることだろう。 いや、その幸せはどん底の人間でなくても、六十過ぎには、すべて当てはまる。 「先が短いのだから、好きなように生きよ」ということなのだ。 嫌いな人とはメシを食わず、気が向かない場所には行かず、好かれようと思わず、何を言われようと、どんなことに見舞われようと「どこ吹く風」で好きなように生きればいい。 周囲から何か言われようが、長いことではないのだ。「どこ吹く風」だ。 これは先が短い人間の特権であり、実に幸せなことではないか。
ここからは私感。 でもね・・・平均寿命が伸びてなかなか死ねない現在、そんなことを言ってられるのは健康な間だけ。 身体がいうことを聞いてくれなくなってきたら、どんなに情けなくとも例えば施設などに入所することになったら、また人の顔色を見て暮らさなければならないようになるかも・・・よ。 だからそういう辛さから逃れるために認知症になるのだと、人生はそういうふうになっているのだと、そういう考え方もあるということで。。。
2016年11月10日(木) |
老いのみち 河合 隼雄 |
主人と私の両親の老いに直面していた時にバーゲンブックで買ったものを読み返している。 わたしも66歳になって人より早い老いに戸惑っている今日この頃、納得させられるというか実感する内容も多かった。
例えば 昔は人生50年と言われていて、必死で走ってきてゴールが見えてきたのに、もう300m走れというもの。 正に!!! 私の身体などかなりガタがきていて、特に足が悪いのにゴールが300m延長になりましたからと、痛い足を引きずって走らされているという現実。 女性の平均寿命からいくと300どころか400mに近い距離を走らされそうな予感。。。
著者が読売新聞夕刊に110回連載したエッセイ集だが、自分が老いていくこと、老いた人との付き合い方、社会のありかたなど、老いをテーマにした現実感たっぷりの語りには、我が身ゆえにハッと気づかされる指摘も多かった。
それにしても・・・気持ちの持ちようという回避というか逸らしも理解するけれど、やっぱり老いは残酷だ。
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